最 後 ま で 肯 定 論 の 立 場 で し た ﹂ と 証 言 し て い る こ と に は ︑ 留 意 す べ き だ ろ う
72︵︶︒ 新 佐 野 乾 山 肯 定 論 が 今 も な お 命 脈 を 保 ち 得 て い る の は あ る 意 味 で
︑ 瑞
パ ッ シ ョ ン
穂 を
﹁ 最 後 ま で ﹂ 捕 え て や ま な か っ た ﹁ 情 熱
︹ = 受 苦
︺ ﹂ の た ま も の と 言 え よ う か
︒ だ が 他 方
︑ こ れ と は ま っ た く 相 反 す る 事 実 も 同 時 に 存 在 す る ︒ 昭 和 四 四 年 ︵
﹁ わ が 光 琳 と 乾 山
﹂ が 発 表 さ れ た 年
︶ ︑ 脳 溢 血 の 発 作 に 見 舞 わ れ た 瑞 穂 は ︑ 病 床 に 前 川 嘉 雄 ︵ 仏 文 学 者
・ ﹁ 私 の 部 屋
﹂ 創 業 者
︶ を 呼 び
︑ あ る 頼 み ご と を し た と い う ︒ す な わ ち
︑ 新 佐 野 乾 山 の 件 で 自 分 を 騙 し た 人 物
︵ つ ま り 斎 藤 素 輝
︶ が い る の で
︑ 自 分 と そ の 男 と の 顛 末 を 文 章 に し て ﹃ 芸 術 新 潮
﹄ に 発 表 し て ほ し い
︑ と 依 頼 し た の で あ る
︒ 新 佐 野 乾 山 を 好 ま ぬ 前 川 は そ れ を 断 り
︑ そ の 代 わ り 斎 藤 の 居 場 所 を 探 す 任 務 を 引 き 受 け た が ︑ 結 局 果 た せ な か っ た
73︵︶︒ 瑞 穂 は 早 い 段 階 か ら 斎 藤 と い う 人 物 に 文 学 的 関 心 を 抱 き
︑ 作 品 の モ デ ル に す べ く メ モ を つ け て い た と い う が ︑ 死 期 を 予 感 し た 瑞 穂 は
︑ こ の 未 解 決 の 課 題 を 前 川 に 引 き 継 が せ よ う と し た の だ ろ う か ︒ あ る い は 斎 藤 と の 関 係 は 瑞 穂 に と っ て ︑ 年 を 経 て も な お 相 対 化 し て 自 分 の 手 で 文 章 に す る こ と が 困 難 な
︑ 問 題 含 み の も の で あ り 続 け た の だ ろ う か
︒ い ず れ に し て も
︑ こ の こ と が 事 実 だ と す れ ば ︑ 晩 年 の 瑞 穂 は 斎 藤 だ け で な く 新 佐 野 乾 山 の 真 作 性 に 対 し て も 疑 念 を 抱 い て い た と い う こ と に な ら ざ る を 得 な い
︒ こ の よ う に ︑ 新 佐 野 乾 山 と い う
﹁ お も し ろ い も の
﹂ は
︑ 同 時 に い わ ば ﹁ 割 り 切 れ
74︵︶﹂ ぬ も の と し て ︑ 死 に 至 る
ま で
図18《梅竹絵水指》(図17)の底面(裏銘)
「おもしろいもの」の誘惑
−499−
瑞穂 につ きま とい 離れ なか った
︒彼 は晩 年に 書か れた ある エッ セー にお いて
︑常 滑や 信楽 など 侘び た焼 締の やき も のこ そ﹁ 日本 のや きも のの 終着 駅﹂ だと 述べ てい る75︵︶ が︑ 実際 には 新佐 野乾 山と いう 曖昧 で不 気味 な︿ 影﹀ もま た︑
﹁終 着駅
﹂に 至る まで 密か に彼 に随 行し てい たの であ る︒ それ が﹁ ギブ ツ﹂ であ るこ とは 分っ てい る︑ だが しか し︑ それ を買 わず には いら れな い
︱︱ 贋作 であ るこ とを 是認 する と同 時に 否認 する
︑こ のよ うな 分裂 した 知覚 を瑞 穂に 強い た新 佐野 乾山 は︑ 彼に とっ て正 真正 銘の フェ ティ ッシ ュと 化し てい たよ うに 思わ れる76︵︶
︒そ して この 物神 との 因 縁が
︑︿ ギブ ツの 存在 論﹀ とも 呼ぶ べき 特異 な思 想を 彼の 裡に 醸成 する こと にな るの であ る︒ 他の 数寄 者や 骨董 者 たち の贋 作観 との 比較 を通 じて その 内実 を解 明す るこ とが
︑わ れわ れの 次な る課 題で ある
︒ 註
︵1
︶詳 しく は次 の拙 稿を 参照
︒﹁ 共振 する 両義 性
︱︱ 青柳 瑞穂 と骨 董﹂
﹃西 南学 院大 学国 際文 化論 集﹄ 第二 四巻 第二 号︑ 二〇 一〇 年三 月︑ 二六 九− 三〇 六頁
︒本 論は この 先行 論文 の続 編を なす もの であ る︒
︵2
︶津 川は 瑞穂 が住 んで いた 阿佐 ヶ谷 駅北 口の 飲み 屋﹁ ちど り﹂ のお かみ であ った
︒ち なみ に先 妻と よは 昭和 二三 年に 死去 して いた
︒
︵3
︶青 柳瑞 穂﹁ 京都 の裏 町を 歩く
﹂︑ 同﹃ ささ やか な日 本発 掘﹄
︵昭 和三 五年
︶︑ 講談 社文 芸文 庫︑ 平成 二年
︑一 二七−
一三 七頁
︒ 同﹁ 鳴滝 乾山 の色 絵皿
﹂︵ 昭和 四三 年︶
︑同
﹃青 柳瑞 穂 骨董 のあ る風 景﹄ 青柳 いづ みこ 編︑ みす ず書 房︑ 平成 一六 年︑ 四
〇− 四三 頁︒ なお
︑瑞 穂の 文章 を引 用す るに あた って は︑ やや 変則 的な がら
︑単 行本 に再 録さ れて いる もの は︑ それ らの 表記 に従 って すべ て現 代仮 名遣 いで
︑そ うで ない もの は掲 載誌 での 仮名 遣い のま ま引 用し
︑い ずれ の場 合も 旧漢 字は すべ て新 字に 置き 換 える こと とす る︒
︵4
︶同
﹁に せも の・ ほん もの
﹂﹃ 群像
﹄昭 和三 四年 一一 月号
︑二 一八−
二二 二頁
︵引 用は 二二 一頁 より
︶︒
︵5
︶同
﹁掘 出し とい うこ と﹂
︑同
﹃さ さや かな 日本 発掘
﹄前 掲書
︑一 六− 二六 頁︒
−500−
︵6
︶︽ 色絵 桔梗 図角 皿︾ の購 入の 経緯 につ いて
︑詳 しく は以 下を 参照
︒同
﹁乾 山を 買う の記
﹂︵ 昭和 三〇 年︶
︑同
﹃古 い物
︑遠 い 夢﹄ 新潮 社︑ 昭和 五一 年︑ 二七 五− 二七 八頁
︒同
﹁掘 出し とい うこ と﹂ 前掲 文︵ 特に 一九−
二一 頁︶
︒同
﹁鳴 滝乾 山の 色絵 皿﹂
︵昭 和四 三年
︶︑
﹃青 柳瑞 穂 骨董 のあ る風 景﹄ 前掲 書︑ 四〇−
五九 頁︵ 特に 四五−
四八 頁︶
︒同
﹁わ が光 琳と 乾山
﹂︵ 昭 和四 四年
︶︑ 同﹃ 古い 物︑ 遠い 夢﹄ 前掲 書︑ 二八 二− 二九 二頁
︵特 に二 八七−
二八 八頁
︶︒ さら に︑ 瑞穂 と交 流が あり
︑彼 の 死後 この 絵皿 を扱 った 古美 術商
・柳 孝の 証言 も参 照︒ 青柳 恵介
﹃柳 孝 骨董 一代
﹄新 潮社
︑平 成一 九年
︑﹁ 乾山 の色 絵皿
﹂︵ 三 二− 三七 頁︶
︒
︵7
︶青 柳瑞 穂﹁ 京都 の裏 町を 歩く
﹂前 掲文
︑一 三四 頁︒
︵8
︶こ れら 二枚 の絵 皿の 購入 につ いて は以 下を 参照
︒同
﹁乾 山を 買う の記
﹂前 掲文
︑二 七八 頁︒ 同﹁ 鳴滝 乾山 の色 絵皿
﹂前 掲文
︑ 五二−
五四 頁︒
︵9
︶五 枚の 銹絵 皿の 購入 をめ ぐっ ては 以下 を参 照︒ 同﹁ 掘出 しと いう こと
﹂前 掲文
︑二 二− 二六 頁︒ 同﹁ 鳴滝 乾山 の色 絵皿
﹂前 掲文
︑五 七− 五八 頁︒ 10︵
︶同 五八 頁︒ 11︵
︶ヴ ァル ター
・ベ ンヤ ミン
﹁複 製技 術時 代の 芸術 作品
﹂久 保哲 司訳
︑﹃ ベン ヤミ ン・ コレ クシ ョン 1 近代 の意 味﹄ 浅井 健二 郎編 訳︑ 久保 哲司 訳︑ ちく ま学 芸文 庫︑ 平成 七年
︑五 八三−
六四
〇頁
︵特 に六 二四−
六二 六頁
︶︒ 12︵
︶青 柳瑞 穂﹁ 乾山
﹂﹃ 陶説
﹄第 六八 号︑ 昭和 三三 年一 一月 号︑ 四六−
四七 頁︒ 13︵
︶E.S.Morse,CatalogueoftheMorseCollectionofJapanesePottery,Cambridge1901,pp.113‐114,Case12.
なお
︑こ の写 しは 現 在二 つの ヴァ ージ ョン
︵ボ スト ン美 術館 と大 阪市 立美 術館 のも の︶ が知 られ てい る︒ 以下 を参 照︒ リチ ャー ド・ ウィ ルソ ン︑ 小笠 原佐 江子
﹃尾 形乾 山
︱︱ 全作 品と その 系譜
﹄全 四冊
︑雄 山閣 出版
︑平 成四 年︑ 第一 巻図 録編
︑一
〇二−
一〇 三頁
︒ 14︵
︶篠 崎源 三に よる 佐野 乾山 研究 は以 下を 参照
︒﹃ 佐野 乾山
﹄窯 藝美 術陶 磁文 化研 究所
︑昭 和一 七年
︒﹁ 佐野 乾山 に就 いて
︵上
︶﹂
ママ
﹃陶 説﹄ 第六 七号
︑昭 和三 三年 一〇 月︑ 三九−
四三 頁︒
﹁佐 野乾 山に つい て︵ 下︶
﹂﹃ 陶説
﹄第 六八 号︑ 昭和 三三 年一 一月
︑ 三一−
三八 頁︒
﹁白 鳥の 歌・ 佐野 乾山
﹂﹃ 陶説
﹄第 七一 号︑ 昭和 三四 年二 月︑ 一八−
二一 頁︒
﹁佐 野乾 山物 語︵ 1︶ 佐野 乾山 のま ぼろ し﹂
﹃陶 説﹄ 第一 八五 号︑ 昭和 四三 年八 月︑ 二四−
二六 頁︒
﹁佐 野乾 山物 語︵ 2︶ 佐野 乾山 のメ ッカ 詣﹂
﹃陶 説﹄ 第 一八 六号
︑昭 和四 三年 九月
︑二 四− 二五 頁︒
﹁佐 野乾 山物 語︵ 3︶ 佐野 乾山 の足 跡﹂
﹃陶 説﹄ 第一 八七 号︑ 昭和 四三 年一
〇月
︑ 六〇−
六五 頁︒
﹁佐 野乾 山物 語︵ 4︶ 佐野 乾山 の正 体﹂
﹃陶 説﹄ 第一 八八 号︑ 昭和 四三 年一 一月
︑二 三− 三三 頁︒
﹁佐 野乾 山 物語
︵5
︶佐 野伝 書の アリ バイ
﹂﹃ 陶説
﹄第 一八 九号
︑昭 和四 三年 一二 月︑ 四二−
四八 頁︒
﹁佐 野乾 山物 語︵ 6︶ 佐野 乾山 の
「おもしろいもの」の誘惑
−501−
ここ ろ﹂
﹃陶 説﹄ 第一 九〇 号︑ 昭和 四四 年一 月︑ 五三−
六一 頁︒
﹁佐 野乾 山物 語︵ 7︶ 佐野 乾山 の遺 響と 遺品
﹂﹃ 陶説
﹄第 一 九一 号︑ 昭和 四四 年二 月︑ 五〇−
六〇 頁︒ 15︵
︶新 佐野 乾山 事件 の経 緯を 概観 した 著作 は以 下の ごと く多 数あ るが
︑こ こで はあ くま でも 昭和 三七 年当 時の 文献 の読 解に 重点 を置 く︒ 白崎 秀雄
﹃真 贋
︱︱ 美と 欲望 の一 一章
﹄講 談社
︑昭 和四
〇年
︑一 四九−
一八 五頁
︒出 川直 樹﹁ 未だ に謎 をは らむ
︿佐 野乾 山事 件﹀
﹂﹃ 芸術 新潮
﹄昭 和五 八年 七月 号︑ 五四−
五七 頁︒ 松崎 昭一
﹁﹃ 佐野 乾山
﹄問 題の 経緯
﹂﹃ 目の 眼﹄ 昭和 六〇 年六 月号
︑一
〇− 一五 頁︒ 瀬木 慎一
﹃迷 宮の 美術
︱︱ 真贋 のゆ くえ
﹄芸 術新 聞社
︑平 成元 年︑ 一九 四− 一九 六頁
︒﹁
﹁佐 野乾 山﹂ とは 誰か
﹂﹃ 芸術 新潮
﹄平 成三 年一 一月 号︑ 一五−
一七 頁︒ ウィ ルソ ン︑ 小笠 原前 掲書
︑第 三巻 研究 編︑ 四三−
五六 頁︒ 三 杉隆 敏﹃ 真贋 もの がた り﹄ 岩波 新書
︑平 成八 年︑ 一〇
〇− 一一 三頁
︒渡 邊達 也﹁
﹁乾 山真 贋論 争﹂ と佐 野に おけ る乾 山﹂
﹃尾 形乾 山手 控集 成
︱︱ 下野 佐野 滞留 期記 録﹄ 住友 慎一
・渡 邉達 也編
︑芙 蓉書 房︑ 平成 一〇 年︑ 三九 三− 四〇 八頁
︒松 浦潤
﹃真 贋・ 考﹄ ふた ばら いふ 新書
︑双 葉社
︑平 成一
〇年
︑一 三六−
一六 三頁
︒長 谷川 公之
﹃贋 作 汚れ た美 の記 録﹄ アー トダ イジ ェ スト
︑平 成一 二年
︑六
〇− 八五 頁︒ 青柳 いづ みこ
﹃青 柳瑞 穂の 生涯
︱︱ 真贋 のあ わい に﹄
︵平 成一 二年
︶︑ 平凡 社ラ イブ ラリ ー︑ 平成 一八 年︑ 第一
〇章
﹁佐 野乾 山事 件﹂
︵二 六四−
二八 七頁
︶︒ 大島 一洋
﹃芸 術と スキ ャン ダル の間
︱︱ 戦後 美術 事件 史﹄ 講 談社 現代 新書
︑平 成一 八年
︑第 五章
﹁佐 野乾 山騒 動
︱︱ まっ ぷた つに 分か れた 真贋 の行 方﹂
︵九
〇− 一〇 七頁
︶︒ 大宮 知信
﹃ス キャ ンダ ル戦 後美 術史
﹄平 凡社 新書
︑平 成一 八年
︑七 九− 八一 頁︒ さら に︑ 匿名 のホ ーム ペー ジで はあ るが
︑“K’sHomePage”
にお ける
﹁佐 野乾 山事 件﹂ のコ ーナ ーも 参照
︵な お︑ 本論 で言 及す るウ ェブ サイ トの UR Lは
︑い ずれ も平 成二 四年 一月 四 日現 在の もの であ る︶
︒http://homepage2.nifty.com/hokusai/sano/sanokenzan.htm 16︵
︶座 談会
﹁あ の﹁ 佐野 乾山
﹂を
︑二 三年 追い 求め た執 念と 新事 実
︱︱ 肯定 論の 立場 から
﹂︵
﹃目 の眼
﹄昭 和六
〇年 六月 号︑ 一七
−
四〇 頁︶ にお ける 水尾 比呂 志の 発言
︵一 八頁
︶︒ 17︵
︶バ ーナ ード
・リ ーチ
﹃東 と西 を超 えて
︱︱ 自伝 的回 想﹄
︵昭 和五 三年
︶福 田陸 太郎 訳︑ 日本 経済 新聞 社︑ 昭和 五七 年︑ 三五 七頁
︒ 18︵
︶同
﹃乾 山
︱︱ 四大 装飾 芸術 家の 伝統
﹄︵ 昭和 四一 年︶ 水尾 比呂 志訳
︑東 京美 術︑ 昭和 四二 年︑ 第四 章﹁ 佐野 乾山
﹂を 参照
︒ なお
︑リ ーチ と新 佐野 乾山 につ いて は次 の研 究に 詳し い︒ 豊口 真衣 子﹁ 佐野 乾山 事件 とバ ーナ ード
・リ ーチ
﹂﹃ 比較 文学
・ 文化 論集
﹄東 京大 学比 較文 学・ 文化 研究 会︑ 第一 五号
︑平 成一
〇年
︑三 五− 四九 頁︒ 19︵
︶も うひ とり の七 世乾 山・ 富本 憲吉 が︑ 森川 邸に 赴く こと を拒 んだ 際に リー チに 対し て述 べた
﹁君 は外 国人 だか ら大 丈夫 だよ
﹂ とい う言 葉は
︑こ のあ たり の事 情を 喝破 した もの と言 えよ う︵ リー チ﹃ 乾山
﹄前 掲書
︑一 九一 頁︶
︒
−502−