上記の江頭による経営者支配の定義は,すでに一般化した経営者支配に対してのイメー ジと合致し,特に違和感をもたせるような定義ではない。さて,ここで,江頭の定義にお ける経営者とは,はたしてどのような人物が想定されているであろうか。ここで言われる 経営者支配における経営者の条件とは,いったいどのようなものであろうか。まず,ひと つめの条件は,自分では株式をほとんど所有していないことである。ふたつめの条件は,
経営活動が複雑化・専門化しても経営を担当することができる能力を有していることであ ろう。
それでは,ここでは経営者を取締役と仮定して,この経営者はどのような経緯で取締役 に選任されたのであろうか。このような定義のもとでは,この経営者は企業内部の昇進者 であろう。江頭も指摘しているとおり,日本における経営者支配論は,日本的経営論と結 びついている20)。この取締役に選任された経営者は,企業の内部昇進者である。内部昇進 者,すなわち,主に新入社員として当該企業に入社して,その後に昇進していった者をさ すのであり,当該企業の株式をもっていてもごく少数か,もしくはまったくもっていない と考えられ,その理由は,内部昇進者は資本家ではなく,労働者であり,多くの株式を所 有することが一般的にはむづかしいであろうということによる。
ここで問題となることは,はたして,経営者支配を定義する場合において,会社を支配 する経営者が株式をごく少数でなく,ある程度の量を所有していたならば,その会社の支
18) 西山 (1980) p.18
19) 江頭 (2011) p.54
20) 江頭 (2011) p.55
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配は,株式の所有を根拠とする支配となり,経営者支配とはならないのか,ということで
ある。Berle & Meansは,所有と支配の機能分化を主張するが,そもそも,所有と支配の機
能が分化しているのであれば,経営者支配を定義する場合において,その経営者の株式所 有は論ぜられるべきではなく,あくまで経営者としての機能,すなわち経営者としての職 能が問われ,論ぜられるべきではないかと考える。前述の江頭の定義した経営者支配は,
一般化した議論からの定義であろうけれども,再度,検討してみると,実はこの一般化し た経営者支配の定義は,経営者支配を適切に表現しているとはいいがたいのではにかと考 える。
ここで,三戸公による経営者支配の概念についての検討をみていくこととする。三戸公 は「経営者支配という言葉を使ってきた。経営者支配とは,いったいいかなるものか」21), として経営者支配の概念を検討する。ここでの問題意識は,「個人所有から経営者支配へと いうことは,所有にもとづかない支配者すなわち経営者が出現するということを意味する のか。経営者支配から機関所有支配へとは,いったいいかなることか。機関所有支配とは,
いかなることか」22)ということである。
三戸公は,まず,Berle & Means (1932) による経営者支配の概念についての規定をとり あげる。それは,第1に「所有権があまりにも広く分散されているので,会社の諸活動を 支配するのに十分な少数権益をもつ個人,あるいは少集団すら存在しないもの」として規 定され,第2に,「経営者 the Management は,自分たちの後継者を事実上指名するよう に な り , 自 己 永 続 体 a self-prepetuaring body と な る 。 こ の 支 配 形 態 は 経 営 者 支 配
“Management control” とよぶのが適当である」と規定されるとする。
次に,三戸公は,TNEC調査をとりあげて,この調査においては,経営者支配という範 疇が設定されていないことを指摘し,「特定の支配的利害者集団のないもの」 ( no dominant
interst group ) を,かりに経営者支配といってきたとする23)。付け加えると,TNEC調査の
実証研究の方法においては,そもそも経営者支配というカテゴリーが存在せず,あくまで
「特定の支配的利害者集団のないもの」と分類される。三戸公は,続けて,このTNEC調 査による「特定の支配的利害者集団のないもの」という概念をBerle & Means (1932) によ る第1の規定と同じであるとして,第1の規定と第2の規定との間に複雑な問題が介在す ると指摘する。その問題とは,経営者が後継経営者を自分たちで決めていることは,たし かだが,経営者が後継経営者を選出することは,形式的には株主総会の議決を待たなけれ ばならないことは不可欠であり,実質的にはかならずしも絶対的に制度化せられていると はいいがたい,ということである。経営者が経営能力を保持している間は,彼は経営者の 地位にとどまり,後継者の選任を実質的になすが,彼の経営能力が不十分となれば,別の 経営者の選任が必要となり,それは,所有者によって適当な人物が選出されることになら
21) 三戸公 (1997) p.50
22) 同上
23) 同上
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ざるをえない。このような事情をみるとBerle & Means (1932) がいう,第1の規定,「所有 権があまりにも広く分散されているので,会社の諸活動を支配するの十分な少数権益をも つ個人,あるいは少集団すら存在しないもの」ということから,すぐに,第2の規定,「経
営者 the Management は,自分たちの後継者を事実上指名するようになり,自己永続体 a
self-prepetuaring body となる。この支配形態は経営者支配 “Management control” とよぶの が適当である」に結びつかず,「特別の利害者集団のなきもの」という TNEC 調査の規定 を使うほうが適当であると主張する。また,Gordonがいうように経営者の選任の力を支配 といい,会社を現実に動かす力をリーダーシップと分けてとらえたほうがよいようにみえ るという。しかし,三戸公は,経営能力の不十分な経営者を解任し,能力ある経営者を選 任するのは所有者以外にないし,所有者こそ支配者に他ならないとする24)。
この所有者とは,いかなる所有者であるかということについて,三戸公は,大株主であ ることは間違いなく,個人大株主で経営者の解任・選任の力をもち,その力を行使すれば,
それは,個人所有以外の何物でもなく,家族支配 ( family control )であり,単一家族支配,
複数家族支配,家族会社複合支配に分類でき,次に特定の会社が経営者の解任・選任をす るとき,会社支配 ( corporate control )と呼ばれ,単一会社支配・複数会社支配に細分される としている。支配的な発言力をもつ特定の会社がなく,いくつかの会社の相談によって経 営者の解任・選任がなされるものが,「特定の支配的利害数段なきもの」ないしは,ここで 経営者支配とよばれてきているものであると指摘する。
三戸公は,経営者支配を,「経営者支配といわれるものも,その実,特定の支配的な利害 者集団=所有者のないものにすぎず,依然として最終的な経営者の解任・選任の力は所有 者の手中にあることがわかった。すなわち,経営者支配といえども,糸のきれた凧のよう に所有から完全に切り離されたものではないのである。経営者所有なるものも,所有は機 関所有支配の一形態にすぎないのである」と定義する。
以上,三戸公による経営者支配についての定義をみてきたが,Berle & Means (1932) に よって定義された経営者支配との差異があることがわかる。
第5節 経営者支配はどのように評価されてきたか
経営者支配という概念は,一般にどのように評価されてきたのだろうか。まず,この経 営者とは,誰のことか,または,株式会社におけるどの範囲の人々を経営者と定義するの であろうか。Berle & Means (1932) においては,経営者とは取締役会のメンバーであると 定義しているとみてよかろうと考える25)。しかし,Barnham やGordon,およびGalbraithに よるとその範囲は広くなる。例えば,Galbraithのテクノストラクチュア論においては,経
24) 三戸公 p.51
25) しかし,これには反論が存在する。Robert Fitch and Mary Oppenheimer (1970.1971) においては,経営者 の範囲が不明確であると指摘されている。
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営陣という言葉を用い,集団的な,不完全にしか定義できない存在である26)としながら,
少人数の経営陣ではなく,専門化した知識,才能,あるいは経験を提供して集団による決 定に関与するすべての人びとであると定義され,その集団には名称がなく,Galbraithはこ の組織をテクノストラクチュアと呼ぶように提案したいというのである27)。
経営者支配という概念は,おそらくは広く一般に受容されてきたのであろうと考える。
そのように一般に受容されてきた経営者支配の概念における経営者とは,Galbraithが定義 したテクノストラクチュアのような人々であり,一部の富裕な資本家でもなければ,金融 資本から派遣されたきた取締役でもなく,創業者の子息でもなく,経営者支配を受容した 人々の延長線上の人々であり,いわゆる手の届く存在であったことが経営者支配の概念が 広く一般に受け入れられた要因であろうと考える。しかし,そのテクノストラクチュアと 呼ばれる人々が巨大株式会社を支配しているという結論は未だ不明確である。株式会社に おいて,所有と支配が分離しているとは結論されていないのである。それにもかかわらず,
会社支配論および経営者支配論においては,様々な定義が不明確なまま議論が進行してき たと考える。
一般的に広く受容されてきたであろう経営者支配とは,共同幻想のようなものであると
考える。Galbraithによるテクノストラクチュア論は,巨大株式会社を資本家の手中からテ
クノストラクチュアのもとへと株式会社を引き寄せたように思えるが,その背景には,当 時のアメリカにおける政治的要因が大きく寄与しているであろう。Galbraithが描きたかっ たことは,Galbraith自身も書いているとおり社会主義企業論であろうと考える。
また,日本においては前掲の伊丹( 1986 ) による人本主義企業や従業員主権もGalbraith のテクノストラクチュア論に酷似していると考える。会社を支配するのは,コアメンバー であり取締役会よりもその範囲は広い,その定義も伊丹本人による記述のとおり,明瞭で はない。
この伊丹による従業員主権論等が,日本の社会における一般に受容された経営者支配の 典型的な例であろうと考える。それは,制度に大きく影響を与えてきたであろう。従業員 主権論は,多様でない道筋を人々に描かせる。その道筋とは,受験競争に打ち勝ち,偏差 値の高い有名な大学に入学し,有名な上場大企業に就職し,コアメンバーとなるというよ うな道筋である。このようなことが,人々の共同幻想になり,「所有と経営の分離」や「経 営者による会社支配」が明確な定義もないまま,ただ良いこと,または良いものとされ一 般に広く受容されてきたのであると考える。
ここで,あらためて株式会社の支配について考えると,株式会社の支配は,株式の持株 比率で導出できるほど単純なことではないのかもしれない。
26) 邦訳書 p.126
27) 同上