制は必ずしも南方体制の包盟・対外戦争の準備を意味せず、むしろバルト海貿易の展開に必要な通 商経賂を保全する一方、また国内産業@海運活動の撹乱を招来する国際関係の緊張・翠事経費の膨 張を抑制し、かくして平和状態の確保による経済活動の振興を図るものであったと蓄えよう。
( 1) C. S. Leonard, op. cit., pp. 134楢 136;H. H. Kaplan, The First Partition of Poland, New York, 1962, pp.ふ6. (2) I. de Madariaga, op. cit., pp. 187網 188.
(3) H. M. Seo民op.cit., pp. 10ふ107;H. H. Kaplan, The First Partition of Poland, pp.ふ7.なおベストゥージェブはア ンナ女帝のクールラント公妃持代に宮廷官稼として仕えた経験をもち、またクールラント宮廷貴族ピロンは当時 の間壌に当たる。クーノレラント出兵・君主人事にはベストゥージェフの意向が強く反映されていたと言える。
(4) D. M. Gri閉めs,RussianCourt Politics部dthe母u儒ionof組 ExpansionistForeign Policy under Catherine II, 1762
1783,Ph.D. dissertation, Cornell University, 1967, pp. 11 12; D. L. Ransel, op. cit., pp. 114・115.なお駐英大使時代に おけるゴヲツインの外交活動については、 K.W. Schweizer/ C. S. Leonald,Britain, Prussia, Russia and the Galitzin Letter: A Re鎚sesment,HistoricalJournal, Vol. 26, 1983.
(5) D. M. Griffiths,Ru田ianCoぽtPolitics", pp. 14・15;D. L. R加sel,op. cit., pp. 115 116. (6) D. M. Gri茄ths,RussianCo出 Politics,pp.31欄 32.
(7) D. L. R組sel,op. cit., pp. 144 150; W. L. Daniel, op. cit., pp. 100‑lOl;R. E. Jones,OppositionぬWarand Expansion in Late Eighteenth Cen如ryRussia", Jahrbucher戸rGeschichte Osteuropas, Bd. 32, 1984,開.39栴 40;idem, "The Nobility and Russian Foreign Policy 1560 1811
ヘ
Cahiersdu Monde russe et sovietique, Vol. 34, 1993, pp. 16ト162.ただし領主 階級の首領M・M・ シチヱ/レパートフは、外来君主エカチェリーナ二世の野心外交を国内利害から遊離した財政 膨張の元凶として批判している。 A.Lentin,計in田 M.M. Shcherbatov部 Criticof Catherine IIS Fo問i伊 Policy,Slavonic and East European Review, Vol. 49, 1971.
(8) H. M. Scott, op. cit., pp. 102橿 112;idem,France and the Polish Throne, 1763 1764", Slavonic and East European Review, Vol. 53, 1975; H. H. Kaplan, The First Partition of Poland, pp. 30・31;K. Rahbek欄 Schmidt,ProblemsConn回ted with the Last Polish Royal Election,Scando幡Slavica,Vol. 2, 1956.
56
武田元有:エカチェリ…ナ二世時代におけるパノレト海貿易と北方体制(9) D. M. Gri首iths,Russi鵠 CoぽtPolitics
"
pp. 35・36. (10) D. M. Gri伍ths,Russi釦 CourtPolitiぱ,pp.28・31.(11) R. E. Jon民 RunawayPe邸antsand Russian Motives for the Partition of Poland", H. Ragsdale (吋よop.cit.; J. T. Lukowski,'Guaran悦 orAnnexation: A Note on Russian Plans ぬAcquirePolish T町 加ryPrior知 治eFirst Partition of Poland,Institute of Historical Research, Bulletin, Vol. 106, 1983.
(12) D. L. Iミ 釦 鴎l,官ie
(13) D. M. Gri節ths,Russi組 Co凶tPolitics,pp. 15困 19.
(14)北方体制の形成については、 K.Rahbek‑Schmidt,Wie ist P釦insPlan zu einem Nordischen System entstanden ?", 'Zeitschrijt j詰rSlaw is tiえBd.2, 1957; D. M. Griffiths,The Rise and Fall of the Northern System: Court Politics and Fo柑 伊Policyin the First Half of Catherine II' s Reign,Canadian Slavic Studies, Vol. 4, 1970.
(15)瓦.Schweizer.,マheNon輔 Renewalof Anglo‑Prussian Subsidy Tri儲ty,1761嶋 62,Canadian Journalof Histo,ゅVol. 13, 1978; H. Dippel,Prussias English Policy after the Seven Years War,Central European Histoη,Vol. 4, 1971. (16) D. M. Gr沼iths,RussianCo山tPolitics,pp. 35 38; I. de Madariaga, op. cit., pp. 190 192; H. M. Seo民op.cit., pp.
109帽 115;idem,Frederick II, the Ot如manEmpire and the Origins of the Russか PrussianAlliance of April 1764
ヘ
European Studies Review, Vol. 7, 1977.条約条文は、 C.Parry (ed.), The Consoli,似edTrea.砂Series,New York, 1969, Vol. 43, pp.ト26.
( 17) D. M. Griffiths,Russian Court Politics,pp. 39・40;I. de Madariaga, op. cit., pp. 188・189,193・194;H. M. Scott, op. cit., pp. 151・155;idem,Great Britain, Poland and the Russian Alliance, 1763輸 1767,HistoricalJournal, Vol. 19, 1976. (18) W. F. Reddaway,Gr鵠tBritain and Poland, 1762・72",Historical Journal, Vol. 4, 1932; idem,Ma白 地ieyin Russia, 1765 67,Historical Joun昭I,Vol. 3, 1931; M. Roberts,Macartney in Russia,English Historical Review, Supplement 3, 1974, pp. 47・59.なおG・マカートニーのロシア論として、 G.Macar加ey,Account of Russia, London, 1767 (Reprint: Elibron Classics, 2005).
(19) M. Robeはs,Ma白 血eyin Russia,pp. 33 35, 60・61.
(20) R. C. Anderson,British and American Officers in the Russian Navy,Mariner's Mirror, Vol. 33, 1947; M. S. Anderson,G詑atBritain叩dthe Grow治 ofthe Russian Navy in the Eighteenth Century'', Mariners Mirror, Vol. 42, 1956.なおT・マッケンジーは有名なセヴァストポリ要塞の設計に従事している。イギリス人技師の設計した要 塞が後にクリミア戦争でイギリス軍隊に攻撃されることは、この間の英露関係の転換を象徴すると言えよう。
(21) D. M. Gri筒ths,RussianCourt Politics,pp. 40働 41;I. de Madariaga, op. cit., pp. 192欄 193;H. M. Seo民op.cit., pp. 12ふ129,134・136;S. P. Oakley, op. cit., pp. 15ト152;百瀬・熊野・村井鏡、前掲番、 176‑ 177真。条約条文はそ れぞれ、 C.Parry (ed.), op. cit., Vol. 43, pp. 137雌 158,467・
(22) M. Robeはs,GreatBritain, Denmark and Russia, 1763 1770,R. Hat旬nlM. S. Anderson (ed.), op. cit., pp. 244, 246. (23) D. M. Grif百ths,RussianCourt Politics,pp. 40‑41; I. de Mad釘iaga,op. cit., pp. 194・195;H. M. Seo民op.cit., pp. 130・134;S. P. Oakley, op. cit., pp. 153・154.なおI・A・オステノレマンはアンナ女帝時代のドイツ人制宰相A・ I
−オステルマンAndreiIvanovich Ostermann ( 1686 ‑ 1747年)の子患である。
(24) M. F. Metcalf, Russia, England, and Swedish Par.ぴPolitics1762噸 1766:The lnterp,/砂betweenGre.αt Power D伊/・om必ヂ αnd Domestic PoliticsぬringSwedenS Age of Liberty, Toぬwa,1977; M. Roberts, British D炉1/omacyand Swedish Politics 1758 1773, London, 1980.条約条文は、 C.Parry (ed.), op. cit., Vol. 43, pp. 255 260.
(25) D. M. Griffiths,Ru説 部CoぽtPolitics,pp. 42岨 44;I. de Maおriaga,op. cit., pp. 191192, 196 197; H. H. Kaplan, The First P例 itionof Poland, pp. 12・15,43・45.
(26) H. H. Kaplan, The First Partition of Poland, pp. 49・56;H. M. Seo民op.cit., pp. 17ふ182.
(27) H. H. Kapl組 , TheFirst Partition of Poland, pp. 89・90;I. de Ma品計略a,op. cit., pp. 197・202;J. T. Lukowski, Towards Partition: Polish Magnates and Russian lntervation in Poland during the Early Reign of Stanislaw August Poniaぬwski,HistoricalJournal, Vol. 28, 1985;小山哲「消議した国家ポーランドJ
w
岩波講盛・世界歴史J
第17 巻〔環大西洋革命〕岩波警j吉1997年所収、83‑ 86頁、白木太一『近世ポーランドf共和国jの再建』彩流社2005鳥取大学大学教青総合センタ一紀要第
4
号(2007) 57年、95‑ 103頁、伊東・井内・中井編、前掲番、175‑ 176頁。永久条約の条文は、C.P;釘守(ed.),op. cit., Vol. 44, pp. 148 162.
(28) H. M. Scott, op. cit., pp. 165・173;D. L. Ransel, op. cit., pp. 145・146. (29) H. M. Seo民op.cit., pp. 118 120.
(30) Anonymous,Obreskov, Aleksei Mi魁iailovich',MERSEH, Vol. 25, pp. 169‑170; R. E. Jon,邸ProvincialDevelopment, pp.28・29.
〔
V
〕遊商条約政策一一1 7 6 6
年英露i
舗 条 約 の 成 立 一 一以上の経済・外交政策を背景として、
1 7 6 0
年代前半において一連の通商条約交渉が展開される。その際、テプロブの自由貿易政策がイギリスを輪出市場の主力として想、定する一方、パーニンの北 方体制構想、がイギリスを同盟体系の中核として重視するなか、自ずとイギリスとの条約交渉が最大 の焦点となった。以下、
1 7 6 6
年の英露通商条約をめぐる交渉過程・条約内容の援要を確認しよう。( 1)英露通趨条約交渉の展開
①
J
.バッキンガムシャーと条約交渉の難競七年戦争末期の
1 7 6 2年秋、ロシアでは新帝エカチェリーナ二世が即位する一方、イギリスでは
ピュート内閣が対仏包囲を強化する必要からロシアとの連携を求め、北部担当国務大臣G・
グレン ヴィノレは駐露大使J
.バッキンガムシャーを派遣して1 7 4 2
年英露関盟の更新を交渉するとともに、1 7 3 4年通商条約の改正を強く要誇した。これに対して宰相 M
•I
・ヴ、オロンツオフは仏壊同盟の 回復を選好する一方、副宰相A
・M・
ゴリツインも英普同盟を嫌悪していたため、両者ともイギリ ス大使ノミッキンガムシャーの同盟提案を一離したのみならず、イギリス以外の各国(オランダ・フ ランス・スウェーデン)とも通商条約を交渉する用意があることを示唆し、イギリスに有利な交渉 の展開を牽制した。(I)続く1 7 6 3年 3丹、親英派の A
・p ・ベストゥージェブ口リユーミンが外交 政策の実権を握って交渉が再開するが、同年8
月、交渉に臨んだ副宰相A・M・
ゴリツイン及び宮. v
.オノレスブエブは、近い将来におけるポーランド継承問題の発生を念頭に寵きつつ、通商条約の改正に応じる条件として軍事同盟の先行的な締結を要求している。その要点は、①イギ リス政府はポーランド王位継承問題に関してロシア政府の推挙する新王侯舗を財政的・外交的に支 援し、ポーランドにおける蔑仏王権の成立を抱止すること、及びスウェーデン王国における親仏政 権の成立を妨害し、バルト梅域の平和・通商活動を維持すること、②イギリスは将来における 戦争の勃発に際して口シアを支援すること、以上の秘密条項を挿入することにあった。(2)
この間イギリスでは
1 7 6 3年 2月にロシア会社総裁 R・
ネトノレトンが対抗草案を作成し、リガに 対する通商条約の適用、イギリス商人のペルシア通商活動、イギリス蕗人相互の商品売買、以上の 迅速な実現を求めた。これを受けて首相ピュートもロシア会社の意向に配援した交渉を指示してい る。(3)しかしながら商務院総裁へイHayi
土、イギリス寵人への統制@ロシア商人への優遇に抗議 する必要を認める反面、1 7 3 4
年のi
最高条約が既に f飽の諸国とのどの通商条約よりも多くの特権jをイギリス商人に保証している以上、まずはその単純な更新を鐙先するべきであって、ロシア会社 の要求に器執するあまり条約交渉そのものを頓挫せしめる事態は回避するべきこと、しかもロシア 会社の要求するイギリス商人相互の取引行為は必ずしも現地イギリス商人一綾の意向を反映するも のではないこと、以上の見解を示した。これを受けて後任の北部担当国務大臣ハリファクスは、新 たな権利の要求を放棄して既存条約の更新を急ぐようバッキンガムシャーに通告している。付)
続く
1 7 6 3
年1 0
月、N
・1・パーニンが外交政策の権限を掌握し、これ以後パーニン@説宰相ゴ5 8
武田元有:エカチェリーナ二世時代におけるバルト海貿易と北方体制リツイン・通商宮僚テプロフ・関税局長ミュニッヒが条約交渉を担当した。うちテプロブ・ミュニ ツヒは、梅外貿易の振興・輪出産業の育成を図る観点から、通商条約の改正を挺子とするイギリス 向け輪出貿易の拡大に意欲を示した。他方パーニンはポーランド継承問題の緊迫を騒まえ、フラン ス外交戦絡に対抗する北方体制の整備を急ぎ、通高条約の更新を交換条件としたイギリスとの同盟 関係の締結に強い関心を示した。(5)しかしながら
1 7 6 4年 3月に普露同盟が成立する一方、民年 8
月のポーランド国ごと選挙によって親露派の新王スタニスラフ・ポニャトブスキが即位するに及び、ノミーニンにとって英露関盟を実現する意味は減退し、間盟・通蕗条約の交渉においてもはや譲歩を 示す必要はなくなった。むしろ
1 7 6 6年の関税改革に向けた商業委員会の関税論争を通じて、テプ
ロブ@ミュニッヒは過度な保護関税を拒否して自由な貿易活動を指向する反面、イギリス商人の独 占体制を打破して独自の商人資本を育成する必要について認識を強めていた。かくしてパーニンは 通商交渉に強硬な態度で臨み、イギリスに対する最恵国待遇の拒否、イギリス商人相互における蕗 品売買の禁止、ロシア商人に対する低率関税の適用、1 7 5 6年リガ通商規定の維持、ロシア経由ペ
ルシア貿易の禁止、以上の主張を繰り返すとともに、イギリス政府がこれらの草案規定を受諾しな い場合はイギリス商人の特権を一層縮小する用意がある旨さえ警告した。{めこれに対して続くグレンヴイノレ内閣の北部担当国務大臣サンドウィッチは、イギリスがロシア市 場以外にも有望な原料調達地帯を豊富に保有している故、条約交渉が破綻しでも何ら打撃を受けな いこと、むしろイギリスを最大の輸出相手とするロシアこそ英露通識の断絶によって致命的な損害 を受けること、以上をバッキンガムシャー経由でパーニンに警告した。これに対してパーニンは、
商業委員会の通商論争を通じて、英領植民地が十分な原料供給能力をもたないことを承知していた のみならず、また駐英大使A・R・ ヴォロンツォアを通じて英領東部
1 3州の離反傾向も認識して
おり、サンドウィッチの主張を意構として無視した。(7)かくして条約交渉が停滞するなか、1 7 6 4
3月のイギリス議会は対抗措置としてロシア蘇織物への輸入関税を20‑ 30 %程度強化するとと もに、税額算出の基礎を輸入業者の申告価格から公定価諮へと変更する計画を審議している。しか しながらこの措置は、ロシア蘇織物の販路をイギリス市場からオランダ市場へと転換させ、この結 果ロシア麻織物のイギリス経由北米向け再輪出を撹乱するのみらず、ロシア政府の報復関説を誘発 してイギリス織維製品のロシア向け輪出を組害する危険すら苧んでいた。(8)訴しも
1 7 6 4年 3月に
おける普露関盟の成立は、ロシア市場におけるシュレジェン羊毛製品の進出・イギリス製品の駆逐 を招く危険を内包しており、かかる事態の回避には通商条約の早急な改正・更新が必要であった。② 〈芸館マカートニーと粂約交渉の終結
続く
1 7 6 5
年、ポーランドでは新王スタニスラア@アウグストが独自の内政改革を展開する 英領北米搭民地では大規模な印紙税皮対運動。本国製品ボイコット運動が高揚するなか、英露両国 は{鬼儀国家・権外領土の混乱に対するブ〉レボン連合の干渉を防止するべく、相互提携の強化を志向 することになる。かくしてパーニンは駐英大使として日。グロスを派遣する閣は駐露大使G・ マカートニーを派遣し、条約交渉は新たな農関を見せる。
グレンヴィノレ内
まずテプロブ eミュニッヒはイギリス政府の強硬姿勢を嬢柔するべく条約草案の再考を進め、