• 検索結果がありません。

そして第三に、その自立性があくまで「相対的jなものであったという点を指摘してお

かなければならない448。フランスは統合軍事機構から離脱したが、北大西洋条約に基づく 同盟関係を破棄した訳ではなかった。このことは、フランスが現状の同盟体制を批判して いたにもかかわらず、米国による安全保障を一定の範囲で必要としていたことを表してい る。経済復興したとはいえ当時のフランスの国力、および軍事力から見て、西側陣営から 離れた「完全なJ中立化は現実的な選択肢ではなく、自立性を強く主張したドゴール外交 も、冷戦構造の厳しい制約から自由で、はなかったのである。だが、その一方で「相対的J 自立は、 ドゴールが尊重していた「必要な相互依存Jの文脈で理解することもできる。こ れまで考察してきたように、冷戦構造などフランスを巡る様々な制約を認識しつつも、可 能な限りその独自性を探るという点にドゴール外交における自立性の特質があった。つま りドゴールは、冷戦下における制約の中、自国の国益を守るための「必要な相互依存Jに ついてはその意義を認めていたのであり、そうした事実を踏まえた上で、一連の外交政策 を通じてフランスの自立性を「相対的Jに高めた、と理解することができるのである。

ところで次に、「独自の欧州jの実現、ヤルタ体制の変革という評価基準についてである が、具体的に成し遂げられた結果を見ると、やはりその成果は限定的なものであったと言 わざるを得ない。「独自の欧州jの実現とは、米ソに過剰に依存した、あるいは囚われた欧 州の自立を目指すものであり、多極的秩序を志向する点から、二極体制としてのヤルタ体 制の変革と不可分なもので、あった。欧州の盟主を自認するフランスではあったが、単独で 米ソ両大国に対抗できるとは考えていなかった。しかし、ドゴールが密接な協力関係を築 くことを望んでいた西独政府は、少なくとも現状において、「大西洋からウラルまでの欧州j

という秩序概念ではなく、米国の主導する「大西洋共同体Jが自国の外交・安全保障にと って好ましいものであると捉えていた。つまり、西独は相対的な側面を含みつつも、フラ ンスではなく米国に対してより強く依存することを選択したのである。

「三頭体制」提案の際に見られたように、 ドゴールは欧州の利益を代表するのはフラン スであると考えていた。だが、欧州核政策に象徴されるドゴールの「支配的志向」に基づ く外交姿勢は、西独など他の欧州諸国に受け入れられることはなく、フランスの孤立化、「独 自の欧州j実現の控折という結末に少なくない影響を与えた。その結果、パリは仏独協調 ではなく、単独でソ連や東欧諸国とのデタントを推進することを余儀なくされたのである。

これまで考察してきたように、西独など欧州諸国の協力がない限り、フランス単独での国 際政治における影響力は限定的なものであった。第二次大戦後、ヨーロッパは米ソ両国の 狭間におかれ、フランスのみならず、一国で十分な国際政治における影響力を発律するこ とは国難な状況になっており、欧州が国際政治における「独立した主体jとなるためには、

経済だけではなく政治的、軍事的に密接な協力関係を築くことが必須であったのである。

このことは、今日にも繋がる重要な課題といえるであろう。

フランスの統合軍事機構離脱によって、 NATOにおける核計闘グループの常設化、柔軟

448渡透啓賞 fフランス現代史:英雄の時代から保革共存へ』中公新書 1998、124頁。

反応戦略への改訂や「アルメル報告J におけるデタント政策の採用など、米国主導の同盟 体制は強化された側面もある。仏領土内から撤退することになった米軍基地は、一部を除 いてフランス以外の欧州諸国に移設された。このように、米国の欧州における政治・軍事 的プレゼンスに大きな変化はなかったのである。こうした仏独関係の停滞、欧州の米国に 対する依存の継続という状況はドゴール外交の限界性を示すものであり、フランスと他の NATO諸国との同盟観を巡る「認識ギャッフjの存在を如実に表すものであった。西独の みならずフランス以外の欧州諸国にとって、ヨーロッパにおける秩序を安定的に維持する 上で、現状規模の米国のプレゼンス、またそれを保証する統合化に基づく同盟体制は、依 然として不可欠と捉えられていたのである。

だが、こうしたフランス外交の限界性が認められる一方で、より掘り下げて考察してい くと、 ドゴールによる統合軍事機構離脱を起点とする同盟体制の f相互弛緩化Jを巡って は、限定的ながら東側諸国などに対して一定の影響を与えたと見ることもできる。六0年 代中期から後期にかけてフランス政府は、 ドゴールを中心に閣僚レベルを含めて東欧諸国 首脳との閑で会談を積み重ねるなど、共産主義陣営との関係改善を意欲的に進めていた。

そうした動きは、統合軍事機構離脱後、より積極的なものとなる。

六七年九月、 ドゴールはポーランドを訪問し、議会で演説を行う。その際、 ドゴールは 同国民に対して、国際政治において自立的に行動する意義を熱心に説いた449。また六八年五 月、 ドゴールはルーマニアを訪れ、チャウセスク国会評議会議長と会談する。首脳会談に おいて、両国は経済@科学技術面での協力を促進することで合意した。六0年代後半以降 ルーマニアは、フランスなど西側諸国との関係改善を進めつつ、ソ連から徐々に距離を取 るようになっていた。六八年のソ連と東欧五カ国によるチェコ侵攻の際には、ユーゴスラ ビアなどと共にソ連と、モスクワの唱える「制限主権論(ブレジネフ・ドクトリン)Jを強 く批判する。その後もルーマニアは、ソ連のワルシャワ条約機構強化への動きに対して明 確に反対し、独自路線を強めていった。また、アルバニアは中ソ対立が主因であったが、

チェコ侵攻後の六八年九月にワルシャワ条約機構から脱退した。

このように東欧諸国の状況からは、ソ連の強圧的な支配を受けつつも、限定的な範閣で その多様性が発露され始めていたことが伺える。もちろん、これらの事態は様々な要因か ら生じたものであるが、「独自の欧州J、ヤルタ体制の変革へのプロセスである東西両同盟 体制の f相互弛緩化」は、限定的ではありながら顕在的あるいは潜在的に確実に進捗して いたのである。また本論文で考察したように、 ドゴールが重視していた仏ソ関係について も自身の訪ソを実現するなど、デタントを促進することに成功していた。こうした動きは、

449 Soutou,Georges ‑Henri,The linkage between European Integration and detente :  The contrasting approaches of de Gaulle and Pompidou,1965 to 1974," N.Piers Ludlow 

(ed) ,European Integration and the Cold  r:Ostpolitik sぐpolitik?1965‑

1973,N.Y.,Routledge,2007,p.21. 

六八年八月のソ連の主導するワルシャワ条約機構軍のチェコ侵攻を受けて一時停滞するか に見えたが、デタントへの大きな潮流が変化することはなかった。デタントの必要性や、「独 自の欧州j実現へのプロセスを明確に国際社会に提示したという点からも、 ドゴールの試 みは間接的な側面も含めて、一定の成果があったと理解することができよう。

こうしたドゴール外交とヂタントの関係について、レイモン・アロンは「将軍{ドゴール]

の後継者たちが、東西デタントに対してドゴール政権が決定的な役割を果たし、西独の東 方政策と称される試みに影響を与えたと述べているのは、間違いではないJと分析してい る450。またボゾは、ケンブリッジ大学が昨年度に編纂した冷戦史の総括的研究において、

ドゴールのデタント政策について考察しているが、その中で、「ボンによる形成されつつあ った東方政策も、ワシントンによるモスクワとの慎重なデタントの模索も、 ドゴールの積 極的な試みに対する反応であったJ と論じている4510 そして、 ドゴールの外交構想、につい て、「戦後二O年を通じて初めて、欧州、!の重要な指導者が示した、ヤルタ体制に対する信頼 可能なオルタナティブであったJと位置づけると共に、「来るべき数十年にわたり、将来的 な欧州政治システムにおけるオルタナティブとしてあり続けたJ と、その意義を評価して いる4520

「独自の欧州J、ヤルタ体制の変革といった評価基準に関してその性質を精査すると、こ れらは国際政治構造レベルに属するものであり、本質的に戦争や革命などが起こらない限 りにおいて、漸進的に具現化され得るものであった。つまり、中長期的にのみ実現するこ とが可能であったのである。国際政治学者の武者小路公秀は、 ドゴールの国際政治認識に ついて、「空間的には極めてグローバルな形で、しかも時間的には極めて長期的なもので、あ るj と考察している453 またアロンも、「大西洋からウラルまでの欧州という構想、は、夢と して掲げられたか、もしくは長期的な目標であり、近い将来に実現できる見込みは全くな かったjとレトリック的な側面について指摘しつつ、その内実を分析している4540以上のよ うに、こうした米欧関係の秩序再編を伴う国際構造レベルの目的については、それら間有 の性質も含めた綴密な検証をすることが求められるのである。

以上に見てきたように、フランスの自立性の回復、「独自の欧州jの実現、ヤルタ体制の 変革という目的は、ドゴールの外交政策にとっていずれも重要なものであったが、同列に

450 Aron,.1l必;moires,p.448.

451 Bozo,Frederic,France,Gaullism,"  and the Cold War," Melvyn P. Leffler et al  (eds) ,Cambridge History of Cold r:Crisθand Detente, Cambridge,Cambridge  University Press,2010,p.170. 

452 Bozo,Ibid.,p.174.ボゾは、デタントに対するフランスの貢献が、米国や英国、西独など と比較して必ずしも認知されていない理由として、英語文献を通じたその内実の提供が十 分に行われていないことを挙げている。 Bozo,Ibid.,p.158.

453武者小路公秀『ケネディからドゴールへ:国際政治のビジョンと戦略』弘文堂、 1964、 73頁。

454 Aron,Memoires,pp.434 ‑435. 

関連したドキュメント