見てきたように、峰地において「生活j とは「生命が対象に交渉をもっ相」である。生 活が解放された中で、自発活動として「生命が発動」し創造性の活動となる。峰地は、そ の「生命の発動する相」をもたらすものに、「内的要素」と f外的要素Jの二つの要素が あるとし、それについて以下のように述べている。
凡そ生命の発動する相を見るに、二つの要素がなくてはならないと思ふ。一つは内的要 素で、一つは外的要素である。内的要素とは生命の精髄たる創造力の自由に発動するこ とであり、外的要素とは、創造力を触発する外的刺激即ち対象、新機会の発生である。
この二つの要素が共同的に接触して、新しく創造力が発動するのである。(上p.46)
この外的要素である素材や新境地が、創造性の活動を促す「環境jである。そこで、「生 活学習」となる「生命の発動」を促す「外的要素Jとしての「環境」の提供に意義がある ことになる。
環境の多様化と云ひ、生活指導と云ひ、何れも創造の内的要素なる生命に対し、外的 要素なる素材並びに新境地の多くを提供して、以って、創造性の活動を促すことに外な
らぬ。
我々は子供に対して、可なり多くの素材、新機会を与へて、生活の接触面を広くする ことを企図せねばならぬ。 (p.47)
教師の仕事として、「可なり多くの素材、新機会を与へ」ることが述べられている。ここ で留意すべきは、その環境は「児童の側から適当に整理活用するところに価値がある」と いう点である。
対象、即ち外的要素は飽くまで誘因である。触れる主体は生命であるが故に創造の主因
は生命自らである。 (p.46)
特定の生命、特定の対象、特定の時、特定の場所に於ける生命の発動の様相に於て、
美醜、善悪の境涯が実感せられるのである。故に外的には環境の善悪を決定することは 出来ないと官、ふ。恐るべき劇薬と雄も、時に生命更生生の素材ともなり得るのである。我 々は対象を恐れてはならぬ。対象の内質を知悉して尽くの素材を生かすことが生活の要 諦である。従来環境の整理と云ふことが重宝がられ、教師の方面より子どもに対する外 象を整理しようとする企画が行はれてゐたのであるが、これは全く意味なきこと〉と思 はれる。ーたい何を基準にして外象を整理するのであるか、その標準が全然分からない ではないか。 (p.48)
ここに見られるように、教師が予め環境を整理して与えることには全く意味を見ていな い。つまり教師は、あらかじめ選別するのでなく「なるべく多くの環境を児童に提供する ことが何よりも大切」だということになる。
本文では、学校に於て教師が与える具体的な「環境J されている。
一 一 一
四 五
/‑'‑、
七
図書室 文 集 農園 展覧会 旅
動物の飼育 相談会
として以下の七つが具体的に例示
環境の提供に意義を見るが、あくまでそれに触れて触発される子どもの側に主体があって、
導くものとしての環境の側に主体的な要素はない。「生活学習j においては常に、価値を 生む主体としての児童がその中心である。
環境についてまとめる。
「生命の発動する相Jをもたらすものに、「内的要素j と「外的要素Jの二つの要素があ り、外的要素である素材や新境地が「環境Jである。教師による環境の提供に意義がある が、あくまでそれに触れて触発される子どもの側に主体があり、導くものとしての環境の 側に主体的な要素はないので、教師は、あらかじめ選別するのでなく「なるべく多くの環 境を児童に提供することが何よりも大切Jだということになる。
1. 4 生活指導
「生命発動Jを促すものとして、上述の環境の多様化のほかには、「生命Jと 「生命j
の触れ合いという触発の仕方がある。学校生活に於いては、特に教師対児童の触れ合いに 重要な意義があるといい、それが峰地の言う「生活指導jである。その場合、教師の働き が主となる必要はない。「要は、教師と児童の生命の相交渉することによって、児童の生 活が鮮活に営まるればよい」ので、あって、環境の場合と同じく、その中心は児童の方にあ
る。
「生活指導Jの目指すところは、児童の生活の鮮活化である。以下に見るように、その ために必要なこととして、「自己をしっかり掴むことjが言われている。「生活指導j に おける「自己をしっかり掴むこと」の必要性は、児童だけではなく、その生命と触れ合う 教師にも求められている。
自分といふ存在かここにあるといふ意識をはっきり掴み得たものは本当に新鮮な心持ち で、ものを見ることが出来る。つまり魂が眼を覚ますのである。これまで平凡に見たも のも、全く値打ちのちがったものとして眼に映じ初めるのである。
それで生活指導を目指す教師は、何よりも自己をしっかり掴むことが大切である。そ して噴細なことにも、平凡なことにも、美を見、真を見ることに精進する態度がなくて はならぬ。 (p.66)
ここに言う鮮活化した日常生活について述べた内容は、以下に見るとおり、 1節の『文化 中心綴方新教授法』において綴方について述べた部分と全く同じ内容である。
生活指導に於て何よりも大切なことは、日常生活のすべを生かすことである。凡そ何事 でも、簡単にこれ切りのものと思へば、この世の中にあるもの、ーとして深遠な心を起 こさせるものはない。しかしながら心を細かにして日常の眼前に現る Lものを見るなら ば、そこに美しい物、価値のあるものが顕はれて来る。 (p.65)
「生活指導j とは、「自己をしっかり掴」むことによって可能となる、「平凡なことにも 美を見、真を見るJ態度を以て、教師の「生命j と児童の「生命」とが触れ合うことであ
ると考えられる。
1. 5
r
生活学習」のまとめ「生活学習Jは、子どもを、文化を創造する主体として育てることを目指すその教育論 から導かれた実践理論である。「生活学習Jの理論は、「文化とはよりよき生活そのもの」
であり、「生活Jとは「生命が対象に交渉をもっその相jであるという考え方を基盤とし、
「生命Jが発動する場面として「生活Jそれ自体に意義を見る「目的と価値の内在Jがそ の大きな特徴である。
そこでは、「価値はその中に存在するJとする自然のあり方と同じ「相Jの中に、子ど もの育つ「相」もあるとされ、自然がそれぞれに価値があり、外部に目的を持つものでは ないのと同様に、子どももそれぞれに価値を持ち、外部に目的を持たない存在である。そ
ういう全体世界の中に、自然も子どももあるのである。「価値の内在Jは目的の内在でも ある。「生活学習」とは、それ自身価値を持つ自然のとしてのあり方をより充実させるこ とを、教育として目指すものである。
そのような「生活学習」を実現のための重要な要件として、まず生活の解放があげられ る。生命が対象に交渉をもつことは、子供の「自己活動Jであり、その[自己活動」をも たらすためには生活の解放が必要であるとしている。
「生活学習」を子供達にもたらす有効な方法としては、「環境Jと「生活指導jの観点 が示されている。
「環境Jへの着眼は、「生命の発動Jを促すものとしての「外的要素」としての「環境j
と言う考え方である。「環境jの提供に意義を見るが、あくまでそれに触れて触発される 子どもの側に主体があって、導くものとしての環境の側に主体的な要素はないという考え 方から、教師による取捨選択を経ず、豊富に与えることをよしとしている。
「生活指導」とは、同じく「生命の発動」を促すものとしての「生命と生命の触れ合しリ のうち、学校生活においては特に教師対児童の触れ合いに重要な意義があるとし、それが 峰地の言う「生活指導」である。その場合、教師の働きが主となる必要はない。「要は、
教師と児童の生命の相交渉することによって、児童の生活が鮮活に営まるればよい」とし ている。ここでも、主体は児童の「生命Jにあり、「自己をしっかり掴むことJは児童に も教師にも求められる重要な要素である。それによって「平凡なことにも美を見、真を見 るJ態度が可能になるとしている。このような主体としての自己への言及は、随所に見ら れる。
2.
r
生活学習Jにおける国語の実践とその理論「生活学習」が、見てきたように「生活」そのもので、あって教科内容習得を目的とする 学習ではないとするなら、国語科の学習内容は、「生活学習」の中にどう位置づけられ、
実践としてどう行われ得るのだろうか。
次に実践にかかわる理論と、実践の提案について見てゆきたい。
峰地は、「生活jを構成するものとして大きく「収得j と「表現」を考えている。「生 活Jは螺旋状に「直観収得、表現創造の二面をくり返して、その生活を深化拡充して行く」
という。その収得と表現を図に示したものが以下である。