事 例
⑤ 米 穀 商
郵 便
達配
夫 等 が いる︒
金 沢 市 尾 張
町 植田忠平︵植忠︶本店 石版色刷 店先の図 移
彦轄璽膚
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鯨 繧花
写真34米穀商の引札(大鋸コレクション)
転 開 業 広 告 明治後期 江 戸 時 代
からの商家の店先き風だが︑入口の暖簾には﹁舶来石油
内国石油 米利堅粉 和洋砂糖﹂といった新商品の文字を並べてお
り︑店の前の通りには荷車が二台︑郵便配達夫︑帽子ステッキの和
装 の男が描かれている︒
この引札で特徴的なのは電信柱と電話番号の弐百弐拾番を特に記
している点が注目される︒
金 沢 で 初 め て 電 話
が布設されたのは明治三十︵一八九七︶年であ
り︑電話の普及は以後急速に発展したという︒
大 正
から昭和初期にかけて︑金沢の下町ともいえる卯辰山下の東
山界隈に出没したひとりの人気者の浮浪者バッタロウの伝承話に︑
誰 か が 道 で会って何か頼むと︑ハツタロウは電柱にスルスルと登り︑
中ほどに縄をゆわいて﹁もしもし﹂と電話のまねをする︒﹁地獄の
閤魔さん︑極楽仏さん﹂が電話先︒﹁いつ閤魔さんの前へ行きゃい
い ︵28︶ やら﹂と言うので﹁返事が聞える?﹂と聞くと︑﹁まだ返事がな
い から︑来んでもいいのかもしれん﹂と言ったそうである︒
電 話 が 冥 界 に
通じているという発想は︑科学的認識のなかった人
々
にとって︑最も素朴で単純な想像力であろうが︑どこか日本人的
な民俗性をも感じさせる︒
文明開化というものが︑人々の理解を越えたところでは︑最も身
複製技術社会の民俗 近 な 認 識 に
おきかえ解釈することによって︑はじめて納得のい
くものとして受け容れられたのであろう︒明治後期の電話番号
標 ︵29︶ 示は︑それが未知のどこかに通じている利器を所有するとい
っ
た 表 徴 が 底 辺 に 流 れ て いるように思われる︒
このような洋風表現に注視して︑次に明治三十六年刊の﹃北
陸 三 県 実
況案内﹄と題した業界本に掲載された明治末期の金沢
市内の商店広告の写真資料から︑その実態についてみてみると
次 のような点が抽出される︒
まず当時の繁華街で最も目立つ物を列挙すると︑大通りには
電柱︑ガス灯︑火見櫓︑煙突がみえ︑また荷車︑縞木綿の着物
に 前
掛姿の店員︑帽子・外套・襟巻姿の旦那衆が時代の風俗を
よく表わしている︒
建 物 は 窓 が 洋 風 の ガラス戸となり︑白ペンキで三階建ち︑正面上 部 に 時 計 を は め 込 ん だ
店もあり︑また横書きの大看板が数多くつけ
られている︒
病 院 の 建 物
はきわめて洋風で︑横板を重ねた壁は多く白ペンキが
塗られ︑窓はガラス窓︑門柱︑アーチのゲイトの上にガス灯が取り
付
けられ︑鉄柵が目立つ︒また玄関のポーチとその上はテラスをつ
くり︑上下二枚の揚げ降し窓をつけ︑さらに玄関先に人力車︑自転
車を置いて欧風化を強調しているのが注目される︒すなわち西洋医
写真35 明治の病院建築
学と最新設備は外観においても欧風イメージを伴うものであること
が 必 要 な の であろう︒
次に勧商場︵.バザー︶と記した︑いわゆる和洋雑貨商の場合︑建
物は洋風で︑アーチの形が窓の形態を含め︑数多く使われているの
が目立っている︒また新聞社の場合も半洋風建築とし︑門柱には電
灯 を つけ︑入口にアーチ状の飾りがつけられている︒
銀行の建物の場合は何故か銀行マークを目立たせている点が顕著
である︒
次 に 繊 維
業者の場合︑工場の建物及びその内部の写真を掲載して
三、印刷術にみる都市の民俗社会
いるが︑珍しいのは電信略号︵ヰ︶を広告している点である︒
料亭の場合は建物が和風の古い形態のもので︑従って明治調とい
えるものは自転車︑人力車︑山高帽子を被った客の紳士を写真の中
に 納 め て いる︒
た
だし肉料理の店の場合︑﹁西洋御料理﹂の縦型看板と横書看板
の 二 枚 が か
けられ︑建物の窓飾りをなぜか中国風にしている点が注
目される︒
以
下内外雑貨・小間物商の店先は大きな文字看板とガス灯が︑乾
物・カンヅメ製造販売の商家も同じく文字の大型看板とガス灯が店
K. SUG{YAMA.
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ピ 冨
縫響ソ
写真36 薬品問屋の店先
タ
諸繍ー董磨 霞懸鍵鍵用
の 軒 先 に シ ン ボリックに取り付けられている︒
また和菓子屋の場合は電灯が店の軒を飾り︑さすがにパン屋の場
合
は店先をペンキ塗りとし︑模様壁をあしらって格子窓を入れて洋
風とし︑その名も西洋堂としている︒
貴金属細工商の場合は旧商家を改造し︑玄関にはガラス戸を入
れ︑自転車を店先に置いている︒
さらに紙商もガス灯︑ガラス戸に横型文字看板を取り付けている︒
煙 草 問
屋も特大の模型文字看板を中心に︑装飾性の強い各種の煙
草商品名を記したケバケバしいほどの看板が軒を埋めつくしている︒
複製技術社会の民俗
貨 物 運 送 屋 の 場 合 は 建 物 を 土 蔵 造りとし︑屋号を壁に大書し︑ガ
ラス戸を施して︑ガス灯を配している︒
印判屋も旧商家を改造し︑横書文字看板を掲げ︑ガス灯を配し︑
また牛肉卸商もペンキ塗の壁に︑模様ガラスをいれた洋風の雰囲気
とし︑和漢洋薬商も︑ブドウ酒を手にした美人画の看板と数多くの
薬名の文字看板が林立して賑やかしい店先となっている︒特に古寺
町
にあった小山済世堂の場合には軒の上に十一枚の薬名看板が所狭
しと掲げられ︑まさに看板が店の正面をすぺて占め︑当時の金沢で
最も商業広告を強調した店といえるであろう︒
また︑ある薬品問屋の場合にはカタカナ標記した角力絵や大亀の 造 型 看
板等が掲げられ変化をみせる︒すなわち薬屋看板は彩色が多
くカラフルで︑また形の変化が多いのも特徴である︒そして明治末
期 の 薬 屋 は医用薬品・工業用薬品︑新薬︑理化学医療器械︑絵具︑
染
料といった化学薬品系統のものならすべて商品とし︑多種多様で
ある︒
なかでも絵具染料商の専門店の場合︑英文文字の横看板もかけら
れ て いる︒
変った商店としてマッチ製造販売業の場合︑絵入り看板に加え︑
入
ロ
の門等は洋風づくりとしている︒
これらのやや明治調の商店景観と対照的な︑まったく和風の旧態
然とした店舗もあり︑それは職種にもよるようである︒ちなみにあ
げてみると︑漁網商︑乾物屋︑竹器商︑金銀銅象嵌細工屋︑醤油屋︑
金
物屋︑染物屋︑莫産屋︑びん付ローソク屋︑漆屋︑呉服屋といっ
た 商 店 はあまり改装せず︑江戸時代からの店舗景観を保っている︒
これらの商店写真の中で注目されるのは荷車である︒二輪車で︑
人力車の構造ときわめてよく似たものだが︑現代でいう商店のライ
トバン的な性格の運搬車である︒
自転車︑人力車︑荷車の三種類が明治期の商店のシンボリックな
運 搬車であるようにうかがわれる︒
以 上
のように明治期の商店が︑その業種によっては逸早く洋風化
を強調することによっていかに商店イメージのレベルアップを企る
ことにつとめているかを広告媒体で示している点が注意される︒
ここで問題を少し戻して︑引札広告について再度述べてみたい︒
広
告引札の起源はいわゆる文字情報の初出として江戸時代初期の
天 和
年間︵一六八〇〜︶には既に江戸の日本橋駿河町に開店した越
後 屋 の
現「
金 安 売 掛
値なし﹂の文字広告のチラシが最古のものとさ
れ て
いるが︑いずれにしろ商店の文字広告から江戸後期にはいわゆ
る絵入りの絵びら広告へと発展したものとみられ︑これは印刷技術
と深く関係している︒すなわち︑木版から石版︑活版印刷へと進歩
することによって︑より大量の印刷枚数を可能にし︑しかも浮世絵
三、印刷術にみる都市の民俗社会
等をきっかけとした多色刷りも容易にできることによって一般化し
たとみられている︒
また絵びらは錦絵によって触発された面も大きく︑高価な錦絵を
容易に手に入れることのできなかった庶民にとって︑彩色の絵びら
広 告 は 大変もてはやされたとみられている︒
引札︵絵びらを含む︶は先述したように︑店の開店を報らせる広告
であり︑また年二回の正月と土用頃に得意先にもって回る年始回り
の 進物として︑あるいは安売り︵特売日︶広告といったものとして多
く使われた︒特に正月用引札には絵びらが多く︑色彩やかな華麗なも
の が 大 半で︑庶民の家の壁や襖に貼られることが日常的に行われた︒
お
そらく︑この壁に貼られた引札に注目したのであろう︑それま
で 別 に
売られていた暦が次第に引札の中に登場してくるのが注目さ
れる︒
先述の増田太次郎氏の﹃引札絵びら錦絵﹄によれば︑江戸時代に
絵
暦というものがあり︑明和年間︵一七六四〜︶の頃からであると
いい︑江戸末期には︑商人の間で年末年始の進物として店名を入れ
た 絵
暦を配るようになってきたが︑江戸時代は勝手に暦を販売する
ことが禁じられていたので︑公然と行われてはいないという︒
そして増田氏は︑明治五年十一月九日の改暦の布告によって太陰
暦
から太陽暦へと移行し︑同十六年からは一枚摺りの略暦は出版条
例
に準拠して︑誰でも出版できるようになったことは画期的なこと
であったという︒
すなわち商店の名前を入れたコ枚暦Lと称する広告暦が特に大
阪
を中心に広まったといい︑正月用引札と組み合わさったものが盛
ん
に出回ることによって︑このとき今日の商店カレンダーの原型が
できたとみられているのである︒
金 沢 の
大鋸コレクション中の引札の場合︑この暦付引札をちなみ
に 年 次 別 に みると表2のようになる︒
表2 暦付引札の年次別枚数 明治43 〃44
大正1〃45
〃 2 0 1
0 2
0 3
3 4
〃 〃
56789101112
30101001〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃
明治28
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42
9 5 6
7
5
13
8 2 3 1 3
0
3
0
2
慶応3
明治16
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27
2
2
3
5 7 2
5 5 7 2
12
9 7
この表でも明らかに︑明治十六年の解禁以降圧倒的に暦付引札が
摺られ始めているもので︑特に二十年代から三十四年までが盛時で
あるようにみられる︒