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これを具体的に検討してみると︑出身氏族不明の州会議員の一人張理堂は︑摩生で光緒三二年︵1906年︶に

ドキュメント内 四川省簡陽県県志管見上 (ページ 47-50)

  簡州警察局局董︑宣統三年︵1911年︶州会副議長に就任︑ 一九二七年刊の﹃県志﹄纂修に当っても︑﹁釆訪﹂

  を担当している人物であり︑当時の簡陽県有力者の一人でなかったとは考え難い︒﹃県志﹂纂修当事者の一人とし   て︑氏族表に名を列ねることを遠慮したというような事情でもあるのか︑由緒ある祖先をもたず氏族表をたてえな

 い新興の氏族に属したのか︑あるいはまた︑理堂は号で︑字・名・派名等別名で氏族表に載っているのか︑いずれ

あろうか︒同じく出身氏族不明の州会議員李度林︵武生︶・魏栄奎︵痒生︶も︑﹁県志﹂の﹁釆訪﹂を担当してい

 る︒

    また︑州会議員段華峰の場合は︑﹁続志﹂の﹁纂修姓氏﹂の﹁釆訪﹂の項に︑段華峰字成三とあり︑﹁続志﹄の  

「釆

訪﹂を担当したこと︑字が成三であったことがわかる︒﹁県志﹂の氏族表によると︑段氏=二支の中︑第一支

1第=一支は明の洪武二年︵1369︶に湖北麻城県より簡東胡家場に移住してきた段卯︵1−1︶を始祖とす

る同族であり︑雲贋︵916︶・雲渓︵9−6︶・鎮川︵11−8・県参事会参事員・﹁県志﹂分纂︶・清元︵819︶.

918︶・華国︵4112︶が段氏︵第一支ー第=一支︶族譜の纂修に与っており︑第=一支の氏族表の後に附

された﹁段雲度譲族譜序﹂によると︑民国初年の族譜纂輯には︑済舟・超瑠・成三の三名がそれぞれ規約の撰擬・

系の総纂・丁口の調査に協力したと記されている︒段華峰︵成三︶が︑この段氏︵第一支1第=一支︶のいずれ

か に 属 す

ることは明らかであるが︑﹁県志﹂の氏族表には︑済舟・超瑠とともにいずれも名を列ねていない︒段氏

は︑一族の中では若輩に属する段華峰を州会議員に推したものであろうか︒

  州会議員劉錫麟の場合は︑﹁続志﹂巻九 賢婦伝 劉緯光妻張氏伝︑﹁県志﹂巻一六 書寿表二 五世同堂などに

よって︑曽祖仁龍以下︑祖・父母・子孫の消息をたどりうるが︑﹁県志﹂・﹁続志﹂の氏族表には︑この劉氏一族は含

まれていない︒前記賢婦伝には︑祖嫡唐について﹁清乾隆時︑由広東長楽遷簡北落帯鎮﹂・﹁与兄嫡誠・嫡章分

嚢後︑以勤倹致富﹂と記されており︑﹃県志﹂書寿表には︑柄唐の未亡人鍾氏︵﹁県志﹂刊行当時九九才︶を筆頭に       ③

五 世

同堂している︑とあるから︑劉氏は祖柄唐の代︵一九世紀前半︶に起家した新興の一族と思われる︒

  省議会議員で唯一人出身氏族不明の劉宗培も︑本人は四川公立法政学校の出身で︑南渓・新都各県の知事を歴

任︑﹁県志﹂の﹁釆訪﹂を担当しており︑﹁続志﹂巻五 孝友伝には父朝一の伝があり︑子宗培・孫永徳らの消息も

されているが︑祖先についての記述はない︒同書巻九老目寿表一にも︑八.一才の項に当時存命の劉朝一の名をあ

げ︑子孫の消息を伝えるのみである︒おそらく劉宗培も︑父朝一と本人宗培の代︵一九世紀後半︶に起家した新興

の一族であろう︒

以 上 の

例にみられるように︑氏族表中に出身氏族を求めえなかった人物の状況はさまざまであるが︑新興の階層に

して︑由緒ある祖先を持っていない場合が︑比較的多いように思われる︒

       邑

② 諮 議 局 議

員傅懐斌は︑進士︵1880︶傅為森の子であり︑高祖傅文薫は﹁拓田千畝﹂と伝えられ︑乾隆﹁州   志﹄刊行に︑格別に巨額の醸金というわけではないが銀一両二銭を寄附しており︑文薫以下五世同堂していたとい

 う旧家の出身である︒

   

     ⌒励︶ 民

国の衆議院議員奮椿森の場合︑父志鴻は挙人︵1885︶であり︑祖締宗︵建章︶の墓誌銘には﹁祖比姜公垂   老︑家中落﹂と記されており︑乾隆﹁州志﹂醸金者に奮姓の者は見当らない︒一八世紀中葉︑金川の役に際して椿

の 五 世 祖 監 生 廷 桂 が 孝

義甲の創設に尽力した後︑高祖比姜の頃に一時没落した震家は一九世紀に入ってから再興

 したものと思われる︒同じく衆議院議員李為輪は︑高祖栄桂が四川藩署の書吏から身を起こし︑功績により知県︑

  同知を経て︑嘉慶年間に道員となっており︑曽祖煙は副榜という家柄である︒

       ⌒溺︸

    省議会議員一〇名の中には︑右の衆議院議員李為輪の従兄弟李為綱のような家柄の者もいるが︑呉桂馨は︑父鴻

      蓮

榜︵1875︶に及第して起家︑﹁家貧︑籍舌耕以奉養﹂したとされており︑曽廷棟は︑祖允中が商・農に

習農﹂と伝えられ︑直系の祖先に県史上に著名な人物は見当らない︒方十彬は︑父其猷が生綜を商って産をなした

  蓮 事

して起家したものであり︑注金相︵挙人・1902︶は︑実父・義父ともに﹁経営家政︑兼理商務﹂・﹁棄儒

者 で

あり︑劉宗培は︑前述のように父朝一の代に起家したもののようであり︑秦光第も︑氏族表に現れた限りでは

身分のある人物を祖先に有していない︒郡樹の場合は︑高祖国楡・曽祖煩換の兄柄麟がともに歳貢であり︑国楡の

 る郭氏第五支の人物は見当らない︒游士風の場合は︑始祖察が明代の巡撫であったとされているが︑以後︑察の五

      ⌒暇A︶

  女が挙人李仙芝︵1788︶の子摩生忠岐に嫁している︑という家柄であるがぺ乾隆﹁州志﹂醸金者に郡樹の属す

世 の 孫

同堂しているが︑乾隆﹃州志﹄醸金者の中に游姓の人物はいない︒周烈光の場合は︑五世の祖鴻禧︵一七二八年       痘B︶

あたる高祖遭までの系譜は明らかではない︒また︑曽祖三近・祖定元ともに監生にすぎず︑定元以下五世

生︶が紅花商で起家︑祖開伝は庄生で同治末年に州の局士に任ぜられており︑伯父藻侯は歳貢︑父愛陽は﹁父開伝︑

 邑摩生︑老病不治産︑日憂貧︑而弟藻侯亦幼慧︑以貧将廃学︑処士日︑釈親之憂︑成弟之材︑是吾責也︑乃力耕

      ︵鳩︶

  与 憧 僕 雑 作 共 甘

苦︑数年其穫豊︑又業酷染利倍穫︑遂致富︑﹂といわれている︒なお︑周鴻禧とその六子いずれも  

隆﹁州志﹂には醸金していない︒省議会議員一〇名の家系は以上のようであり︑簡陽県の由緒ある家柄の子弟と

  い

うよりは︑むしろ︑一九世紀中葉以降に起家した新興の階層に属する人物が多かったとみなしてよいであろう︒

ドキュメント内 四川省簡陽県県志管見上 (ページ 47-50)

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