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おわりに元禄三︵一六九〇︶年の

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(1)

17 宗家 文書

﹃裁 判記 録﹄ 八︑ 龍田 権兵 衛︵ 国立 国会 図書 館蔵

︶︒ 18 島雄 八左 衛門 は︑ 元禄 三︵ 一六 九〇

︶年 九月

~元 禄五

︵一 六九 二︶ 年七 月︑ 元禄 十四

︵一 七〇 七︶ 年九 月~ 元禄 十六

︵一 七〇 九︶ 年十 二月 の二 度に わた って 館守 を務 めて いる

︒ 19 杉村

・平 田・ 古川 は対 馬藩 御三 家と 呼ば れた 門閥 であ り︑ 家老 や朝 鮮向 御用 など

︑藩 の要 職を 務め た︵ 永留 久惠

﹃西 日本 人物 誌十 四 雨森 芳洲

﹄西 日本 新聞 社︹ 一九 九九

︺︑ 四一 頁︶

︒ 20 宗家 文書

﹃︵ 館守

︶毎 日記

﹄七 十一

︑樋 口久 米右 衛門

︵国 立国 会図 書館 蔵︶

︒ 21 斛枡 一件 につ いて は田 代和 生﹁ 対馬 藩の 朝鮮 米輸 入と

︿倭 館枡

﹀︱ 宗家 記録

﹃斛 一件 覚書

﹄か らみ た朝 鮮米 の計 量法

︱﹂

︑﹃ 朝鮮 学報

﹄一 二四

︵一 九八 七︶ に詳 細が ある

︒ 22 古賀 十二 郎﹃ 丸山 遊女 と唐 紅毛 人﹄ 前編

︑長 崎文 献社

︵一 九六 九︶

︑五 七三

~五 九六 頁︒ 23 註二 十に 同じ

︒ 24

罰 責類 聚 一下

﹄︵

﹁文 化史 写本

﹂︑ 九州 大学 記録 史料 館九 州文 化史 資料 部門 蔵︶

︒ 25 江戸 時代 にお ける 追放 刑の 一種

︒在 方は 居村 より

︑江 戸町 方で はそ の居 町よ り追 い払 われ るも ので ある

︒追 放刑 の中 では 一番 軽い もの であ り︑ 適用 範囲 も広 かっ た︵ 国史 大辞 典編 集委 員会 編﹃ 国史 大辞 典﹄ 第十 巻︑ 吉川 弘文 館︹ 一九 八八

︺︑ 三四 四~ 三四 五頁

︶︒ 26 宗家 文書

﹃︵ 館守

︶毎 日記

﹄七 十六

︑平 田所 左衛 門︵ 国立 国会 図書 館蔵

︶︒ 27 朝鮮 王朝 が日 本人 通交 者に 与え た銅 製の 通交 資格 証明 印︒ 朝鮮 では 印章

︵官 印︶ に対 して 私印 を図 書と いっ た︒ 図書 を授 けら れた 者を 受図 書人 とい い︑ 受図 書人 は遣 使の 際︑ 使者 に持 たせ る書 契

︵書 簡︶ に図 書を 押し て自 己の 遣使 であ るこ との 証明 とし た︵ 国史 大辞 典編 集委 員会 編﹃ 国史 大辞 典﹄

︹前 掲︺ 三六 四~ 三六 五頁

︶︒ 28 宗家 文書

﹃︵ 館守

︶毎 日記

﹄七 十五

︑平 田所 左衛 門︵ 国立 国会 図書 館蔵

︶︒

迫田

ひな の︵ さこ だ ひな の︶

西南 学院 大学 博物 館学 芸研 究員

(

(2)

とす る姿 勢は 見え ない

︒そ れど ころ か︑ 朝鮮 の要 求に 対し

︑反 発と 一方 的 な主 張を 繰り 返し たた め︑ 両者 の溝 はさ らに 深ま って いく

︒ これ 以降

︑朝 鮮側 は白 水の 処罰 と交 奸事 件の 再発 防止 に向 け︑ 正徳 通信 使の 派遣 の際 にさ らな る上 級権 力と の交 渉を 試み るこ とに なる

︒江 戸に お いて 通信 使と 談論 を行 った 対馬 藩の 儒学 者・ 雨森 芳洲 は︑ 享保 十二

︵一 七 二八

︶年 に完 成し た著 書﹃ 交隣 提醒

﹄の 中で

︑主 張を 一方 的に 押し 通そ う とす る対 馬藩 の強 硬な 外交 姿勢 を批 判し てお り︑ 時勢 を見 極め

︑朝 鮮側 と の妥 協点 を探 るこ との 重要 性を 説い てい る︒ そし て芳 洲ら の尽 力の 末︑ 正 徳元

︵一 七一 一︶ 年に は︑ 交奸 に関 する 三か 条の 約条 が締 結さ れる こと と なっ た︒ 通信 使の 派遣 にと もな う交 渉経 過の 検討 は︑ 今後 の課 題と した い︒

1

四 つの 口﹂ は︑ 荒野 泰典

﹃近 世日 本と 東ア ジア

﹄東 京大 学出 版会

︵一 九八 八︶ によ って 提唱 され た﹁ 鎖国

﹂に 代わ る概 念で ある

︒十 七世 紀初 頭に 形成 され

︑十 九世 紀中 頃ま で維 持さ れた 日本 の国 際関 係で

︑長 崎に おけ る来 日中 国人

・オ ラン ダ人 との 関係

︵長 崎口

︶︑ 対馬 藩を 仲介 役と した 朝鮮 との 関係

︵対 馬口

︶︑ 薩摩 藩を 通じ た琉 球王 国と の関 係︵ 薩摩 口︶

︑松 前藩 を通 じた アイ ヌ民 族と の 関係

︵松 前口

︶と いう 四か 所の 窓口 によ って 構成 され てい た︒ 2

誠 信﹂ とは

︑雨 森芳 洲以 前の 時代 から 対馬 と朝 鮮と の良 好な 関係 を表 す際 に︑ 公文 書な どに おい ても 用い られ た言 葉だ が︑ 次第 に形 骸化 し常 套句 とし て扱 われ るよ うに なっ た︒ 雨森 芳洲 はこ の事 態を 憂慮 し︑ 自身 の著 書﹃ 交隣 提醒

﹄︵ 一七 二八

︶に おい て﹁ 誠信

﹂と は﹁ 互ニ 不欺 不争

︑真 実を 以交

﹂わ るこ とで ある と説 いた

︵雨 森芳 洲著

︑田 代和 生校 注﹃ 交隣 提醒

﹄平 凡社

︹二

〇一 四︺

︑三

〇四

~三

〇五 頁︶

︒ 3 長崎 の出 島や 唐人 屋敷 では

︑日 本人 女性

︵遊 女︶ の出 入り は認 めら れて いた が︑ 草梁 倭館 は日 本 人・ 朝鮮 人に 限ら ず︑ 女性 の出 入り や居 留が 一切 認め られ てい なか った

︒そ れに も関 わら ず︑ 朝鮮 人が 倭館 にひ そか に侵 入し て日 本人 との 密通 を行 う﹁ 交奸

﹂事 件が

︑江 戸時 代を 通し て少 なく とも 十一 件以 上確 認さ れて いる

︒交 奸に 関す る研 究と して は︑ 尹裕 淑﹃ 近世 日朝 通交 と倭 館﹄ 岩田 書院

︵二

〇一 一︶

・ジ ェイ ムス

・ル イス

﹁釜 山倭 館に おけ る日

・朝 交流

︱売 春事 件に みる 権力

・文 化の 相 剋︱

﹂︑ 中村 質編

﹃鎖 国と 国際 関係

﹄吉 川弘 文館

︵一 九九 七︶

・孫 承

﹁︽ 倭人 作拏 謄録

倭館

﹂︑

﹃港 都釜 山﹄ 第十 号︵ 一九 九三

︶・ 守屋 浩光

﹁対 馬藩 にお ける

﹃交 奸﹄ につ いて

︱﹃ 罰 責﹄ 掲載 の判 決の 紹介 を中 心に

︱﹂

︑藩 法研 究会 編﹃ 幕藩 法の 諸相

︱規 範・ 訴訟

・家 族︱

﹄汲 古書 院︵ 二〇 一九

︶等 に詳 しい

4 迫田 ひな の﹁ 館守

﹃毎 日記

﹄に 見る 草梁 倭館 の交 奸事 件︱ 元禄 三︵ 一六 九〇

︶年 の事 例を もと に

︱﹂

︑﹃ 西南 学院 大学 博物 館研 究紀 要﹄ 第九 号︵ 二〇 二一

︶︒ 5 倭館 に滞 在す る日 本人 を統 率す るた め︑ 対馬 藩は 寛永 十四

︵一 六三 七︶ 年ご ろか ら︑ 馬廻

︵上 士︶ のう ち現 役の 与頭 か表 番頭 から 選任 され る館 守を 派遣 する よう にな った

︒任 期は 原則 とし て二 年 だっ たが

︑な かに は十 年ほ ど勤 める 者や

︑一 度退 いて 再任 する 館守 もい た︒ 彼ら の職 務内 容は

︑外 交官 であ る裁 判の 相談 役︑ 貿易 の管 理や 倭館 住人 の統 率︑ 許可 証の 発行 から 日々 の雑 務ま で多 岐に わた る︒ また 業務 日誌 であ る﹃ 毎日 記﹄ の記 録を 行っ てお り︑ 天候

︑対 馬船 や人 の出 入り

︑朝 鮮側 の役 人の 訪問

︑伝 達事 項な どが 逐一 記録 され てい る︵ 田代 和生

﹃新

・倭 館︱ 鎖国 時代 の日 本人 町﹄ ゆま に書 房︹ 二〇 一一

︺︑ 一〇 五~ 一一

〇頁

・国 立国 会図 書館 編﹃ 参考 書誌 研究

﹄第 七十 六号

︹二

〇一 五︺

︑九

~一 二頁

︶︒ 6 通信 使派 遣や

︑対 馬へ の朝 鮮米 輸入 など

︑個 別の 交渉 事を 行う ため に派 遣さ れた 外交 官で ある

︒起 源は 少な くと も文 禄・ 慶長 以前 だと 考え られ てお り︑ 当初 は町 人で あっ たが

︑業 務の 複雑 化に より 慶安 四︵ 一六 五一

︶年 ごろ から 士分 から 任命 され

︑や がて 常駐 役員 の扱 いを 受け るよ うに なっ た︒ 宝永 二︵ 一七

〇五

︶年 には

︑業 務日 誌で ある

﹃裁 判記 録﹄ の提 出が 義務 化さ れて おり

︑交 渉の 過程 が詳 細に 記録 され てい る︵ 田代 和生

﹃新

・倭 館︱ 鎖国 時代 の日 本人 町﹄

︹前 掲︺

︑一 一〇

~一 一四 頁・ 国立 国会 図書 館編

﹃参 考書 誌研 究﹄

︹前 掲︺

︑一 三六

~一 三七 頁︶

︒ 7 宗家 文書

﹃分 類事 考﹄ 十六

︑﹁ 変死

・死 刑・ 外向 共﹂

︵国 立国 会図 書館 蔵︶

︒ 8 宗家 文書

﹃分 類紀 事大 綱﹄ 三十 一︑

﹁交 奸一 件﹂

︵国 立国 会図 書館 蔵︶

︒ 9 宗家 文書

﹃︵ 館守

︶毎 日記

﹄六 十六

︑樋 口久 米右 衛門

︵国 立国 会図 書館 蔵︶

︒ 10 宗家 文書

﹃︵ 館守

︶毎 日記

﹄六 十八

︑樋 口久 米右 衛門

︵国 立国 会図 書館 蔵︶

︒ 11 田代 和生

﹃新

・倭 館︱ 鎖国 時代 の日 本人 町﹄

︵前 掲︶ によ ると

︑渡 海訳 官使 は江 戸時 代を 通じ て六 十回 近く 対馬 へ派 遣さ れた 使節 で︑ 朝鮮 の司 訳院 に属 する 日本 語通 訳官 のう ち︑ 国王 に拝 謁で きる 堂上 訳官 が正 使に なる ため

﹁訳 官使

﹂と 称し

︑あ るい は対 馬藩 主の 江戸 から の帰 国を 慰問 した ため

﹁問 慰行

﹂と も呼 ばれ てい る︒ 人数 は四

~五 十人

︑多 くて 百人 余り であ った とい う︒ 12 宗家 文書

﹃︵ 館守

︶毎 日記

﹄七 十︑ 樋口 久米 右衛 門︵ 国立 国会 図書 館蔵

︶︒ 13 崔同 知︑ 崔尚 ︒ 同知 は同 枢︵ 従二 品︶ の別 名で

︑堂 上訳 官︒ 倭館 訓導 や渡 海訳 官使 正使

︑正 徳期 通信 使上 々官 など を歴 任し

︑訳 官の 最高 位で ある 知事

︵正 二品

︶ま で昇 進す るが

︑享 保六

︵一 七二 一︶ 年︑ 渡海 訳官 使と して 来日 した 際︑ 密貿 易の 主犯 を働 き失 脚し てい る︵ 雨森 芳洲 著︑ 田代 和生 校注

﹃交 隣提 醒﹄

︹前 掲︺

︑一 二二 頁︶

︒ 14 宗義 方︵ 一六 八四

~一 七一 八︶ は︑ 三代 藩主 義真 の次 男と して 生ま れ︑ 元禄 七︵ 一六 九四

︶年

︑四 代藩 主で あっ た兄 義倫 が亡 くな った ため

︑十 一歳 で五 代藩 主と なっ た︒ 正徳 元︵ 一七 一一

︶年 には 通信 使を 護行 した が︑ 享保 三︵ 一七 一八

︶年

︑府 中屋 形で 病死 した

︵木 村礎 ほか 編﹃ 藩史 大事 典﹄ 第七 巻︹ 一九 八八

︺︑ 二六 一~ 二六 九頁

︶︒ 15 宗家 文書

﹃裁 判記 録﹄ 七︑ 龍田 権兵 衛︵ 国立 国会 図書 館蔵

︶︒ 16 朝鮮 時代 の官 僚組 織は 東班

︵文 班︑ 文臣

︶と 西班

︵武 班︑ 武臣

︶か らな って おり

︑こ れら を合 わせ て両 班

︶ と称 した

︒東 班に 属す る中 央機 構の 中核 は六 曹と 儀政 府︵ 十七 世紀 以降 は備 辺司

︶ が担 って いた

︒六 曹は 行政 官府 であ る吏 曹・ 戸曹

・礼 曹・ 兵曹

・刑 曹・ 工曹 の総 称で あり

︑礼 曹

︶ は儀 礼・ 外交

・学 校・ 科挙 など を扱 う官 府で あっ た︵ 李成 市ほ か編

﹃世 界歴 史大 系 朝鮮 史 一︱ 先史

~朝 鮮王 朝︱

﹄山 川出 版社

︹二

〇一 七︺

︑三

〇五

~三

〇九

︑三 八五 頁︶

(

(3)

倭館 から 申し 入れ るべ きこ とは 何も ない

︑と 館守 は言 い切 って いる

︒こ れ に対 し両 判事 は︑ 館守 から の言 伝を 言い 洩ら した こと はな いと 主張 して お り︑ 今の 返答 で不 備が ある なら ば︑ 東莱 府へ

﹁幾 度ニ 而も 罷越 可申 入候

﹂ と述 べて いる

︒ この 後︑ 二月 十日 には 館守 の茶 礼が 翌十 一日 に決 定し たと の知 らせ もた らさ れて いる

︒こ れに 対し

︑館 守は 一向 に解 決し ない

﹁古 裁判 馳走

﹂問 題 を︑ 茶礼 で東 莱府 使に 直訴 する と主 張し た︒ これ に対 し︑ 両訳 は東 莱府 の 長官 であ る権 以鎮 が﹁ 殊外 六ヶ 鋪

﹂人 物で ある ため 対応 に苦 慮し てお り︑ 自分 たち から 話を 通す ので

︑直 訴は 控え てほ しい と懇 願し てい る︒ 結局

︑ 翌日 には 予定 通り 茶礼 が開 催さ れて いる が︑ 東莱 府使 への 直訴 は行 って い ない

︒さ らに

︑二 月十 三日 には 交奸 事件 の評 定が 朝廷 で行 われ てお り︑ 近 いう ちに 結審 する とい う知 らせ が両 判事 から もた らさ れて いる

︒こ れに 対 し館 守は

︑東 莱府 へ出 向き

︑納 得で きる 道理 を示 すよ う求 める など

︑事 件 の処 理が 未だ 終わ って いな いこ とが 分か る︒

﹁古 裁判 馳走

﹂問 題の 交渉 も また 難航 し︑ 龍田 が対 馬へ 帰国 でき たの は︑ 十月 二日 に﹁ 音物

﹂を 受け 取っ た後 のこ とで あっ た︒

お わ り に

元禄 三︵ 一六 九〇

︶年 の事 件に おい て︑ 朝鮮 側は 関係 者全 員を 死罪 にし てい る︒ 日本 人に 対し ても 同罪

︵同 一処 罰︶ であ る死 罪を 求め てい たも の の︑ 実際 には 日本 人の 事件 関係 者は 倭館 内で の謹 慎処 分を 経て 対馬 へ帰 国 して いる

︒藩 から は﹁ 旅﹂ の禁 止と いう 処分 が下 され たの みで あっ た︒ し かし

︑実 際に はこ の処 分す らも 遵守 され てお らず

︑事 件の 三年 後に は関 係 者の 二名 が倭 館に 滞在 する など

︑対 馬藩 の杜 撰な 対処 が目 立つ 結果 とな っ た︒

元禄 三年 の事 件で

︑朝 鮮側 のほ とぼ りが 冷め るの を待 ち︑ 事件 関係 者を 帰国 させ るこ とで 事態 がう まく 収束 した と判 断し た対 馬藩 は︑ 続く 元禄 十

︵一 六九 七︶ 年の 事件 でも

︑同 様の 対処 を行 おう と考 えて いる こと がう か がえ る︒ 結局 この 件は

︑事 件の 処理 が終 わら ぬ間 に︑ 関係 者と 思わ れる 人 物と その 仲間 が︑ わず か九 か月 後に

﹁潜 商﹂

︵密 貿易

︶を 働い たと 発覚 し てし まう

︒こ の事 件に よっ て︑ 交奸 事件 の取 り締 まり は︑ 倭館 の風 紀を 正 す上 で必 要で ある とい う危 機感 を朝 鮮側 に植 え付 けて しま うこ とと なる

︒ その 十年 後に 発覚 した 宝永 四︵ 一七

〇七

︶年 の事 件に おい て︑ 朝鮮 側は 従来 通り

︑ま ず館 守と の交 渉を 行っ た︒ しか し︑ 館守 は﹁ 少し でも 疑わ し い者 はす ぐに 帰国 させ るよ うに

﹂と いう 国元 の家 老か らの 指示 もあ り︑ ま たこ の件 は倭 館外 の問 題で ある とし て︑ 朝鮮 から の捜 査の 要求 に頑 とし て 応じ なか った

︒事 件発 覚か ら約 一年 間︑ 一向 に取 り合 おう とし ない 館守 に 痺れ を切 らし た朝 鮮側 は︑ 継嗣 誕生 とい う祝 いの 席に もか かわ らず

︑交 奸 を行 った 日本 人を 死罪 にす るよ う対 馬側 に求 める こと とな る︒ 犯人 と目 さ れた 白水 は︑ 訳官 使た って の願 いに より 倭館 に送 還さ れた が︑ 東莱 府使 の 怒り の矛 先は 白水 では なく

︑礼 曹か らの 書簡 を受 け取 らな い対 馬藩 へと 向 けら れる こと とな って しま った

︒そ の結 果︑ 朝鮮 側は 訳官 使の 対応 を行 っ た裁 判の 龍田 の﹁ 馳走

﹂を 引き

︑あ まつ さえ 藩主 嫡子 の図 書発 給に 関す る 書簡 に交 奸事 件に つい て記 載す ると いう 強硬 手段 に出 るこ とと なる

︒ 対馬 藩は

︑元 禄年 間の 交奸 事件 にお いて

︑一 貫し て朝 鮮側 から の要 求で ある

﹁一 罪﹂

︵同 一処 罰︶ を拒 否し

︑関 係者 を帰 国さ せた のち に水 面下 で 処分 を行 うと いう 方針 を取 って いる

︒朝 鮮側 との 交渉 にお いて も︑ 他に 打 つ手 がな い状 況に なっ て初 めて 最低 限の 対応 を行 うな ど︑ 事件 への 対処 全 てが 後手 に回 って いる と評 価せ ざる を得 ない

︒度 重な る事 件と 対馬 藩の 消 極的 対応 によ って

︑朝 鮮側 から の関 係者 処罰 の要 求は 苛烈 さを 増す が︑ そ れで もな お︑ 対馬 藩に 交奸 とい う﹁ 些細 な﹂ 問題 に対 し真 摯に 向き 合お う

(

(4)

候︑ 国書 を御 取上 不被 成候 而も 家老 中ヨ リ短 簡を 以被 申入

︑殊 ニ源 七 義も 召捕 被差 渡候 段ハ

︑即 国書 御取 上ゲ 被成 候心 同然 之事 候︑ 此段 両 訳何 分ニ 被相 心得 候哉 と申 入候 処ニ

︑被 仰聞 候通

︑去 々年 源七 義も 爰 元へ 被差 渡︑ 御年 寄中 ヨリ 御書 付も 被遣 候故

︑我 々義 も段 々結 構ニ 被 成被 遣候 間︑ 定而 首尾 好相 済可 申と 珍重 存候 処ニ

︑国 書を も御 取上 不 被下 候故

︑御 年寄 中ヨ リ之 御書 付も 披見 仕候 ニ不 及候 由︑ 其節 被申 置 候古 館守 御代 ニも

︑源 七義 若対 決被 仰付 候節 ハ︑ 館守 へも 御出 被成 義 ニ候 哉と 粗様 子承 之候 へ共

︑館 守抔 御出 被成 儀ニ 而ハ 無之 候︑ 御横 目 頭可 被差 出と の御 事之 由被 承届 候付

︑左 様之 義︑ 旁ニ 付而 段々 入組 ニ 罷成

︑古 裁判 馳走 方引 候様 ニ都 ヨリ 差図 之由

︑東 莱一 途ニ 被申 候故

︑ 私申 義図 書之 儀ニ 被仰 越候

︑御 返簡 ニ交 奸之 儀御 書込 被成 候ニ 付︑ 裁 判不 被相 請取 候︑ 図書 之儀 ハ御 附送 不被 成候 ハヽ

︑其 趣御 返簡 ニ御 書 載被 仰遣 候様 ニ︑ 何と そ此 段は 一応 御注 進被 成可 然由 色々 申入 候へ ハ︑ 先頃 都表 へ被 申越 候処 ニ︑ 右申 上候 通ニ 偏ニ 国書 を御 取上 ケ無 之 故︑ 夫ニ 抱り 馳走 被引 候段

︑都 ヨリ 之差 図ニ 候間

︑何 角ハ 不及 申︑ 唯 都ヨ リ之 差図 ニ而 候と 計被 申候

︑其 上達 而申 入候 へハ 我々 義︑ 日本 之 勝手 に罷 成候 義計 申候 付︑ 急度 科ニ 可申 付抔 と被 申候 付︑ 中ニ 立候 我々 別而 迷惑 千万 ニ奉 存候 由申 聞ル 対馬

藩は 礼曹 書簡 を受 け取 りこ そし なか った もの の︑ 家老 中か らの 書付 を代 わり に発 給し てお り︑ 白水 の倭 館送 還に も応 じて いる

︒こ れは 書簡 を 受け 取っ たも 同然 の対 応で あり

︑こ の期 に及 んで

﹁交 奸之 儀ニ 抱り 馳走 方 被引

﹂く とい うの はあ るま じき 行為 であ ると して 館守 は朝 鮮側 の対 応を 痛 烈に 批判 して いる

︒館 守と 朝鮮 朝廷 との 板挟 みに なっ た両 判事 は﹁ 我々 別 而迷 惑千 万奉 存候

﹂と し てい る︒ さら に︑ 図書 につ いて の返 簡に

﹁交 奸 之儀 御書 込被 成候

﹂と あり

︑こ のた めに 裁判 は返 簡の 受け 取り を拒 否し て

いる こと が分 かる

︒館 守は

︑続 けざ まに 両判 事へ 以下 のよ うな 返答 を行 っ てい る︒

〃拙 者申 候ハ

︑先 刻申 入候 通︑ 古裁 判馳 走可 被引 道理 ニ相 当り 候義 を︑ 是非 御馳 走被 成候 様ニ と申 入ニ 而ハ 曽而 無之 候︑ 図書 之儀 御附 送不 被 成候 ハヽ

︑其 趣御 書載 被成

︑交 奸之 儀ハ 別而 御書 簡を 以︑ 古館 守帰 国 之節 成共 被仰 越候 様ニ 有之 候へ ハ一 筋御 尤之 被成 方共 被存 候へ 共︑ 図 書之 儀被 仰越 候御 返簡 ニ不 預交 奸之 儀御 書込 被成 候而 ハ︑ 誰ニ いた し 候而 も請 取可 申候 哉︑ 日本 ニ而 ハ左 様之 儀ハ 非法 之仕 形と 申候

︑兎 角 両訳 義︑ 此方 ヨリ 申入 候趣

︑具 ニ東 莱へ 得不 被申 達候 故と 存候

︑両 訳 役義 ハた とひ 呵ニ 逢候 とも

︑可 申入 義ハ 何分 ニも 不申 入候 而ハ 不叶 義 ニ候

︑只 今之 分ニ 而ハ 何共 難落 着候 間︑ 又々 東莱 へ罷 越道 理立 候様 ニ 具ニ 承届 罷出 候様 ニ︑ 其上 ニ而 致茶 礼︑ 掛御 目候 節も 可申 談候 旨申 聞 候処

︑訓 導返 答申 候ハ

︑被 仰聞 候通 一々 御尤 千万 奉存 候︑ 東莱 へ申 達 候様 ニと 被仰 付候 儀を

︑聊 一ツ とし て申 残候 義曽 而無 之事 候︑ 平生 東 莱被 申分 之内

︑是 ハ御 自分 様へ 申上 候而 ハ極 而不 宜義 も折 々御 座候 ニ 付︑ 拾 ヲ(

)

内四 ツ五 ツハ 残候 而申 上義 も多 御座 有候 得共

︑此 間ハ 段々 物毎 折渡 り六 ヶ敷 義計 御座 候付

︑御 耳ニ 達不 宜義 有之 候而 も無 是 非申 上事 候︑ 幾度 被仰 聞候 而も

︑只 今御 返答 被申 候外 ハ被 申入 間敷 存 候へ 共︑ 又々 罷越 候様 ニと 被思 召候 ハヽ

︑幾 度ニ 而も 罷越 可申 入候 由 申聞 前館

守の 樋口 久米 右衛 門が 帰国 する 際︑ 交奸 に関 する こと は﹁ 別而 御書 簡を 以﹂ 申し 入れ るよ う依 頼し てい たに も関 わら ず﹁ 図書 之儀 被仰 越候 御 返簡

﹂に 書き 込み がな され たの は︑ 両判 事が 対馬 の意 向を きち んと 東莱 府 へ申 し入 れて いな いた めで あり

︑仮 に両 判事 が﹁ 呵ニ 逢﹂ った とし ても

(

(5)

共︑ 曽而 取上 ケ不 申候 間︑ 左様 相心 得候 様ニ と被 申渡 候段 拙者 へ被 申 置︑ 日帳 ニも 書載 相見 へ候

︑無 実申 掛ニ 相極 り候 ハヽ

︑前 以此 方へ 一 旦届 有之 候上

︑死 罪ニ 可被 申付 義と 存候 得共

︑何 角申 論候 儀も 無益 之 事候

︑若 重而 館外 ニ而 召捕 候抔 と申 候而 ケ様 之十 方義 共申 聞候 共︑ 此 已後 決而 取上 ケ不 申候 間︑ 此旨 能々 相心 得候 様ニ と訓 別へ 申渡 ス 白水

は対 決の ため 倭館 へ送 還さ れた が︑ 朝鮮 側は

﹁何 角不 埒成

﹂返 答を 繰り 返し

︑結 局対 決は 行わ れな かっ たた め︑ 対馬 側は 女性 が白 水に

﹁虚 言 を申 掛﹂ たと 判断 した

︒前 館守 であ る樋 口久 米右 衛門 の時 に白 水は 対馬 へ 戻す こと にな った が︑

﹁万 一重 而ケ 様之 不埒 成義

﹂を 持ち 出し たと して も︑ 対馬 は﹁ 取上 ケ﹂ ない こと を心 得る よう 通達 して いる

第 四 節 倭 館 に お け る

﹁ 裁 判 馳 走 ﹂ 問 題

さら にこ の間

︑対 馬藩 主の 嫡男 彦千 代の

﹁図 書」27

に関 する 交渉 を務 め る裁 判と して

︑再 度倭 館へ 渡っ てい た﹁ 龍田 権兵 衛﹂ に対 する

﹁馳 走﹂

︵支 給物

︶が 引か れて いる とい う記 事が

﹃毎 日記

28

上で 散見 され る︒ 倭館 では

﹁闌

﹂︵ 倭館 から の無 断外 出︶ など が起 こっ た際 に︑ 館守 や裁 判が その 責任 を負 い︑ 朝鮮 から の支 給物 の撤 供︑ 外交 儀礼 の中 止な どの 措置 が 取ら れた 例が ある が︑ 龍田 はな ぜ﹁ 馳走

﹂の 支給 を中 止さ れて いた のだ ろ うか

【宝 永七 年 二月

︼ 一 二月 七日

︑晴 天︑ 北東 風

︵中 略︶

〃訓 導・ 仮別 差申 聞候 ハ︑ 先頃 已来 被仰 聞候 古裁 判馳 走被 引候 儀︑ 東莱 へ申 達候 処ニ

︑東 莱被 申候 ハ︑ 其段 ハ先 頃ヨ リ申 入候 通都 表ヨ リ之 差

図に 而候 故︑ 引之 候由 可被 申候 旨申 聞ル

〃拙 者致 返答 候ハ

︑何 共難 落着 候︑ 古裁 判馳 走方 之儀

︑極 而御 引不 被成 候而 不叶 儀ニ 候を

︑是 悲() 御馳 走被 成被 下候 様ニ と申 入義 ニ無 之候

︑都 表ヨ リ如 何様 之訳 ニ而 御引 被成 候と の義

︑道 理を 分ケ 被仰 聞候 得ハ

︑ 其趣 対州 へも 申越 義ニ 候処

︑唯 都表 ヨリ 之差 図ニ 而被 相引 候と の御 事︑ 東莱 被仰 分と も不 存候

︑両 訳承 違ニ 而ハ 無之 候哉

︑東 莱被 仰分

︑ 訓導 尤と 被存 候ハ ヽ︑ 委細 ニ申 聞候 様ニ と申 達候 処ニ

︑訓 導返 答申 候 ハ︑ 被仰 聞候 通承 届︑ 御尤 ニ奉 存候

︑馳 走方 被引 候段 も︑ 別之 義ニ 而 無無

( )

御座 候︑ 去々 年渡 海訳 官持 渡り 国書 御取 上不 被成 候付 而︑ 右一 件 ニ抱 り古 裁判 馳走 方引 申候 との 義︑ 都表 ヨリ 差図 ニ候 故其 通申 上候 様 ニと 被申 候︑ 我々 ニ至 而も 古裁 判之 儀ハ 少も 愚ニ 不奉 存義 ニ御 座候 得 共︑ 右之 通被 申候 付︑ 何共 気毒 千万 奉存 候由 申聞 ル 館守

が古 裁判 であ る龍 田の

﹁馳 走﹂ が引 かれ てい る理 由に つい て︑ 両訳 を介 し東 莱府 に尋 ねた とこ ろ︑ 東莱 府は 朝廷 から の指 示で ある と返 答し て いる

︒得 心が いか ない 館守 は︑ 訓導 に対 し﹁ 東莱 府使 の言 い分 がも っと も だと 思う なら ば︑ 詳し く説 明す るよ うに

﹂と 申し 掛け たと ころ

︑訓 導か ら

﹁去 々年 渡海 訳官 持渡 り国 書御 取上 不被 成候 付而

︑右 一件 ニ抱

﹂っ てい た ため だと いう 説明 がな され てい る︒ 両判 事と して は︑ 龍田 は少 しも

﹁愚

﹂ でな いと 考え てい るた め︑ この 対応 を申 し訳 なく 思っ てい る様 子が うか が える

︒こ れに 対し

︑館 守は 次の よう に返 答し てい る︒

〃拙 者返 答申 候ハ

︑去 々年 訳官 持渡 り御 書簡 之儀

︑対 州へ 御取 上難 被成 首尾 有之 ニ付

︑其 趣家 老中 ヨリ 書付 御渡 被成

︑源 七義 も爰 元へ 被差 渡︑ 其上 古館 守方 ヨリ 委細 以短 簡被 申入 候得 共︑ 其節 ハ御 披見 無之 候 而︑ 唯今 ニ至 り交 奸之 儀ニ 抱り 馳走 方被 引候 との 義︑ 左様 有之 間敷 事

(

(6)

滞候 様ニ 被致 候様 ニ申 渡候 処︑ 両訳 返答 ニ申 候ハ

︑如 仰女 事一 件之 儀 ハ︑ 両国 大切 成儀 ニ御 座候

︑御 双方 ヨリ 被仰 通候 趣︑ 少も 相違 不仕 候 様ニ 随分 念を 入可 申候

︑右 被仰 聞候 御口 上之 趣︑ 一々 具ニ 東莱 へ申 達︑ 追而 東莱 ヨリ 之御 返答 可申 上由 返答 仕ル 四日

に倭 館へ 到着 した 白水 は︑ 国元 から の指 示に より 番を 付け られ てい る︒ 一連 の報 告を 受け た東 莱府 使は

︑白 水の 倭館 送還 より も︑ 礼曹 書簡 を 受け 取ら ない 対馬 の対 応を 問題 視し た︒ この ため

︑こ れ以 降の

﹃毎 日記

﹄ には 白水 に関 する 記事 は見 られ ない

【九 月の 経過

︼ 九月 十六 日﹁ 囚人 白水 源七

﹂が 対馬 に帰 国す ると いう 記事 が登 場す る︒ 帰国 後︑ 白水 が藩 内で 下さ れた 処分 につ いて は︑ 対馬 藩が 編纂 した 判決 用 例集 であ る﹃ 罰責

24

の交 奸の 項に 次の よう に記 載が ある

○弐 拾番 交奸 宝永 六丑 九月 廿五 日

町人 白水 源七 右朝 鮮之 女ニ 眤ミ 両国 之制 禁を 犯候 由︑ 当春 渡海 之訳 官申 出︑ 対決 之為 彼地 江被 差渡 候得 共︑ 彼方 何分 之存 入ニ 候哉

︑対 決不 申付 候︑ 実否 難決 候︑ 併□ 此業 作不 宜故 名差 ニも 逢︑ 両国 之出 入ニ 及候 段不 届ニ 付︑ 流罪 ニ被 仰付 候間

︑親 類中 ヨリ 田舎 へ差 下置

︑他 国ハ 不及 申︑ 府内 江も 決而 為登 不申 様︑ 堅可 申付 旨申 渡 これ

によ ると

︑白 水は 倭館 へ送 られ たが

︑対 決が 行わ れな かっ たた めに 罪状 の有 無は 定ま らな かっ た︒ しか し︑ 名指 しさ れた のは 素行 に問 題が あっ たた めで あり

︑結 果的 に両 国間 に軋 轢を もた らし たこ とが 不届 きで あ

ると して

﹁流 罪﹂ とな って いる

︒し かし

︑﹁ 流罪

﹂の 具体 的な 内容 とし て は﹁ 親類 中ヨ リ田 舎へ 差下 置︑ 他国 ハ不 及申

︑府 内江 も決 而為 登不 申様

﹂ とあ り︑ 実質 的に は府 内か らの 所払 い25

に近 い措 置だ った と思 われ る︒

【宝 永七 年 七月

︼ これ に対 し︑ 朝鮮 側で は翌 年の 七月 に関 係者 の処 刑が 行わ れた こと が︑

﹃毎 日記

26

に記 され てい る︒ 一

七月 廿七 日︑ 晴天

︑南 風

︵中 略︶

〃訓 導李 僉知

・別 差k 判事 罷出 申聞 候ハ

︑唯 今東 莱ヨ リ伝 令参 候処 ニ︑ 先比 国法 を背 致交 奸候 と申 女并 其節 致中 取候 部将

︑此 弐人 之者 共候 間︑ 坂下 於二 獄斬 罪ニ 申付 候間

︑其 通ニ 相心 得候 様ニ と申 参候

︑右 伝 令之 通ニ 候得 ハ︑ 館守 へも 御届 申入 候様 ニと 之儀 ニ而 ハ無 御座 候得 共︑ 境目 ニ而 死罪 ニ被 行候 義︑ 一旦 御届 不申 入置 候段

︑如 何被 存候 故 致参 上候 由申 聞候 付︑ 私返 答申 候ハ

︑東 莱ヨ リ之 御届 ニ而 ハ無 之候 得 とも

︑坂 下ニ 而死 罪ニ 被申 付候 故為 念各 ヨリ 被致 届候 との 義承 届候

︑ 国法 ニ被 行候 儀は

︑此 方ヨ リ兎 角可 申入 様無 之事 候得 共︑ 右女 前御 詮 議之 節︑ 源七 と申 者交 奸相 手ニ 候段 申出 候由 ニ而 館守 へ被 相届

︑其 上 御国 ニて も崔 同知

・韓 僉正 方ヨ リ申 出候 付︑ 実不 実不 相知 義ニ 候得 共︑ 御誠 信之 儀専 被入 御念 候故

︑早 速源 七義 被召 捕︑ 対決 之為 爰元 へ 被差 越候 ニ付

︑先 館守 方ヨ リ折 々対 決之 儀被 申掛 候へ 共︑ 何角 不埒 成 御返 答ニ 而終 ニ対 決不 被申 付候

︑然 ハ右 女源 七へ 虚言 を申 掛候 ニ相 極 り候 故と 存︑ 先館 守代 ニ源 七儀 ハ被 差返 候︑ 其砌 金正 ニ被 申渡 候は

︑ 源七 儀数 ケ月 爰元 へ被 召置 候得 共︑ 虚言 申掛 候ニ 相極 り候 哉︑ 対決 不 被申 付候 故︑ 則今 度御 国へ 差返 候︑ 万一 重而 ケ様 之不 埒成 義申 聞候

(

(7)

白ニ 成候 ハヽ

︑永 々流 罪申 付︑ 此以 後迄 之定 格ニ 相究 可申 候間

︑左 様 ニ相 心得 可成 候︑ 元来 貴国 ニ而 本国 之人 ニち なミ 候女 ヲ死 刑ニ 被仰 付 候も 至当 之御 刑法 とも 難存 候︑ 刑罰 之儀 ハあ なが ち惨 酷ニ 候得 ハ︑ 重 而科 ヲ犯 し候 者無 之と 申ニ 而も 有之 間鋪 候得 ハ︑ 此通 ニ而 ハ将 来之 奸 ハ懲 可申

(

)

ニ候

︑乍 此上 右之 科ヲ 犯し 候者

︑決 而死 刑ニ 可申 付筈 之道 理有 之候 ハヽ

︑其 訳ヲ 委細 ニ被 仰聞 可被 下候

︑何 ニい たし 候而 も両 国 誠信 之永 久成 様ニ と存 候間

︑幾 重ニ も宜 様御 相談 可申 入候

︑此 趣帰 国 之節 礼曹 へ可 被申 入候

︑已 上 月日

杉村 頼母 大浦 忠左 衛門 杉村 三郎 左衛 門 平田 隼人 崔同 知 前 韓僉 知 白水

は事 件当 時﹁ 麻瘡

﹂を 病ん でい たと 近隣 の人 々も 供述 して おり

︑本 人も 一貫 して 無罪 を主 張し てい るた め︑ 対馬 藩は 白水 を倭 館へ 送還 する こ とを 決定 した

︒し かし

︑﹁ 日本

﹂に おい ては 刑を 科せ られ る行 動で はな い とし てお り︑ あく まで

﹁貴 国之 御法 も立

﹂よ う対 馬が 取り 計ら って いる こ とを 強調 して いる

︒ こう して

︑三 月九 日に は訳 官使 の乗 船が 十六 日に 決定 した

︒ま た︑ 訳官 使に 渡し た書 簡と 同様 の書 簡を 館守 から 東莱 府使 へ渡 すよ う指 示し てい る︒ 訳官 使一 行は 十六 日に 乗船

︑対 馬佐 賀浦 に数 日間 停泊 した のち

︑二 十 二日 鰐浦 に到 着し てい る︒ その 後は 風を 待ち

︑四 月四 日に 鰐浦 を出 船︑ そ の日 のう ちに 倭館 へ到 着し た︒ この 後の 経過 は館 守の

﹃毎 日記

23

に見 ら れる

【四 月の 経過

︼ 一 同︵ 四月

︶四 日︑ 晴天

︑北 東風

︵中 略︶

〃去 々年 女事 之儀 ニ付

︑白 水源 七今 度被 差渡

(

)

船揚 申付

︑番 人等 御 国ヨ リ御 差図 之通 申付 ル︑ 委細 別帳 ニ記 之 一

同︵ 四月

︶五 日︑ 雨天

︑南 風

︵中 略︶ 一去 々年 女事 出入 ニ付

︑白 水源 七と 申者 相手 之由 訳官 共於 対州 申出 候 付︑ 則源 七儀 拷問 被申 付候 処ニ 其身 誤り 無之 旨申 談候

︑乍 然両 国預 り 候事 ニ候 へハ

︑源 七申 分計 ニ而 ハ難 相止

︑爰 元ニ 而右 之女 為対 決︑ 科 有無 之儀 を分 明ニ 不遂 吟味 候而 ハ不 叶事 ニ被 存︑ 今度 裁判 引船 乗之 被 差越 候︑ 依之 拙者 方ヨ リ東 莱へ 申達 候趣 短簡 を以 申遂 候︑ 且亦 於対 州 崔同 知・ 韓僉 正方 へ家 老共 ヨリ 相渡 候書 付之 写︑ 別書 一通

︑是 又拙 者 方ヨ リ東 莱へ 掛御 目候 様ニ 差越 候付 令進 覧候

︑源 七対 決之 儀ハ

︑各 御 返答 東莱 ヨリ 被仰 下候 以後 対決 可申 付候

︑勿 論御 返答 之趣 一々 対州 へ 申遣 儀ニ 候間

︑両 訳口 上ニ 而被 仰下 候而 ハ不 相済 事ニ 候︑ 御返 答之 趣 委細 短簡 ニ而 被仰 下候 様ニ 兼而 可被 相心 得候

︑右 之通 具ニ 東莱 へ可 被 申達 候事 四月 五日 金正 公 洪判 事公

〃右 之通 書付 を以 申渡

︑御 年寄 中ヨ リ訳 官崔 同知

・韓 僉正 御渡 被成 候御 書付 之写 一通 并拙 者方 ヨリ 東莱 へ之 短簡 一対

︑両 訳渡 之︑ 拙者 ヨリ 両 訳ニ 申渡 候今 度女

□□

( )

科之 儀ハ 双方 大切 成事 ニ而

︑両 訳儀 ハ取 次事 ニ 候へ

□□

(

)

リ之 申分 少も 違却 不仕 候様 ニ随 分念 を入

︑双 方申 分不 相

(

(8)

裁判 右之 通之 御書 付両 使へ 申渡 候処 ニ︑ 両使 返答 ニ申 上候 ハ︑ 今度 御嘉 儀 之使 者ニ 罷渡 候時 節︑ 不遠 慮成 ル儀 ヲ申 上候 と奉 存候 得共

︑カ クセ イ 出入 之儀 ハ朝 廷ヨ リ被 仰付 候故

︑無 是非 申上 候︑ 然ハ 源七 儀厳 拷問 被 仰付 候処

︑其 身ニ 誤り 無之 候申 募候 故︑ 兼而 被仰 聞置 候通 朝鮮 へ被 差 渡被 下候 と之 御事

︑誠 ニ忝 次第 ニ奉 存候

︑源 七儀 朝鮮 にて も弥 誤り 無 之ニ 相極 候得 ハ︑ 乍此 上我 々と ても 珍重 奉存 候︑ 唯我 々帰 国仕 候而

︑ 朝廷 へ申 達候 道筋 明キ 候段

︑火 悦至 極ニ 存候

︑御 礼之 儀ハ 宜様 ニ申 上 候様 ニと 申聞 候︑ 尤朝 鮮言 葉ニ ても 一々 御書 付之 趣申 達︑ 返答 傳五 郎 承之

︑太 廰ヨ リ罷 帰掛 ニ直 ニ三 郎左 衛門 殿へ 傳五 郎同 道仕 罷出

︑両 使 返答 之次 第申 上ル 白水

源七 は︑ 訳官 使へ の伝 言通 り三 月二 日か ら﹁ 詮議

﹂を 受け てい る︒ 七日 の記 事に よる と︑ 白水 はや はり 身に 覚え がな いと 供述 した ため に倭 館 へ送 還さ れる こと が決 定し た︒ 白水 送還 の際 には

︑龍 田の

﹁裁 判引 船﹂ で 護送 され ると あり

︑訳 官使 は﹁ 朝廷 へ申 達候 道筋

﹂が 明い たと 話し てい る︒ 八日 に書 き直 され た礼 曹へ の書 簡の 和文 は次 の通 りで ある

︒ 白水

源七 と申 者︑ 帰国 之女 ニち なミ 候次 第︑ 委細 被申 聞承 届候

︑此 儀 ハ兼 而厳 鋪申 付置 候処 ニ︑ 法制 ヲ犯 シ倫 理ヲ 乱リ 至極 不届 者ニ 候得 ハ︑ 其侭 差置 可申 道理 無之 候︑ 乍然 厳拷 問申 付候 而も 白状 不致

︑其 身 之誤 り無 之由 申詰 候︑ 且亦 館内 へ申 遣シ

︑一 人宛 遂吟 味候 処ニ

︑右 之 女ハ 貴国 之人 石垣 之外 ニ而 召捕 候得 ハ︑ 若ハ 盗ニ 入可 申と 存シ 候事 ニ 而も 可有 之哉

︑源 七儀 ハ其 節麻 瘡相 煩居 申申

( )

候由

︑何 も申 候︑ 乍然 誠 信之 條之 儀ニ 候得 ハ︑ 一方 之申 分計 り承

︑有 無ヲ 決可 申筈 も無 之対 決 之之

( )

上□ 分明 ニ相 知レ 可申 と存 候付

︑此 度館 守方 へ差 送︑ 得と 遂吟 味

候様 と申 遣候

︑且 亦此 儀ニ 付︑ 貴国 へ不 申入 候而 不叶 儀有 之候

︑委 細 ニ左 ニ書 伸候 間︑ 御亮 察可 被成 候︑ 貴国 ニ而 ハ本 国之 人ニ ちな ミ候 女 ハ死 罪ニ 被仰 付候 由︑ 兼而 承及 候︑ 此度 之女 ヲも 前例 之通 死罪 ニ被 仰 付候 付︑ 此方 之者 も同 刑ニ 被仰 付候 度被 思食 ニ而 可有 之候

︑乍 然其 段 ハ同 刑難 申付 次第 有之 候︑ 其子 細ハ 我国 之人 他国 へ致 往来 候ハ

︑薩 州 ヨリ 琉球 へ罷 渡候 と︑ 松前 ヨリ 蝦夷 島へ 罷越 候と 対州 ヨリ 貴国 へ罷 渡 候と ニ而 候︑ 其内 薩州

・松 島() 之人

︑琉 球・ 蝦夷 島ニ 而男 女交 会之 儀有 之候 而も 曽而 東武 ヨリ 御禁 制も 無之

︑其 通被 成被 置事 ニ候

︑二 十年 以 前迄 ハ長 崎ニ 而唐 ヨリ 罷渡 候者

︑妻 ヲ娶 り子 ヲ育 シ留 住い たし 候者 も 間ニ 有之 候︑ 右之 通ニ 候故

︑他 国之 女ニ ちな ミ候 者ヲ 科行 候儀

︑元 来 日本 之法 ニ無 之事 ニ候

︑乍 然対 州之 儀ハ 貴国 迄界 ヲ構 へ︑ 代々 誠信 ヲ 以申 通候 処ニ

︑貴 国ニ 而大 禁ニ 被成 儀ヲ 能々 乍存

︑日 本之 法ニ 無之 候 と而 男女 之交 を心 まか せに 致さ せ可 申様 無之 候故

︑兼 而厳 鋪申 付候 事 ニ候 得共

︑死 罪と 申程 ニハ 難行 候︑ 総体 其国 之風 俗時 勢ニ ヨリ 刑罰 之 軽重 大小 有之 候事

︑天 下古 今之 道理 ニ而 候得 ハ︑ 他国 之者 ヲも 是非 ニ 其国 之法 之通 ニ行 可申 と申 道理 も有 之間 鋪候

︑仮 ハ潜 商ヲ いた し候 者 ハ日 本ニ 而死 刑ニ 行候 法ニ 而候 候

( )

︑人 参之 類ニ 而も 潜商 いた し︑ 斤数 大分 ニ候 得ハ 必定 死刑 ニ行 候儀

︑毎 度之 事ニ 而候 間︑ 定而 貴国 ニも 御 存知 ニ而 可有 之と 存候

︑乍 去此 方之 儀ヲ 死刑 ニ行 候間

︑貴 国之 人参 売 出候 者ヲ も死 刑ニ 被仰 付候 様ニ とハ 終ニ 不申 入候

︑銘 々其 国之 法式 ニ 候得 ハ︑ 他国 ニか まひ 可申 事ニ 無御 座候

︑此 度女 事仕 出候 者も 右同 前 ニ候 得ハ

︑貴 国之 女ヲ 死刑 ニ被 仰付 候間

︑此 方之 者ヲ も同 刑ニ 申付 候 様ニ とハ 被思 食間 鋪事 ニ存 候︑ 乍然 貴国 と対 州之 儀︑ 幾久 下々 迄往 来 可仕 候処 ニ︑ 貴国 之大 禁ヲ 犯候 者ヲ 其侭 ニ召 置候 而ハ 貴国 之御 法も 立 申間 鋪︑ 其上 兼々 貴国 之御 心ヲ 体し 厳ク 申付 置候 主意 ニも 違候 得ハ

︑ 其侭 召置 可申 道理 ニも 無之 候︑ 仍是 右女 事仕 出候 者︑ 対決 之上 罪状 明

(

(9)

訳并 両使 右之 書付 朝廷 方へ 難差 出と 申候 故︑ 直ニ 東莱 へ遣 シ候 訳︑ 一々 東莱 へ申 遣売 渡無 之︑ 快ク 埒明 候様 ニ可 致候

︑若 又右 之科 人不 致 白状

︑類 船ニ 而差 渡ス 首尾 ニ成 候而 も書 直シ 候︑ 真文 一通 ハ両 使方 へ 相渡

︑一 通ハ 写ヲ 東莱 へ遣 ス事 ニ候

︑右 科人 之儀 ニ付

︑先 頃短 簡ヲ 以 申聞 候已 後︑ 早速 朝鮮 へ申 遣シ

︑同 宿并 隣端 之者 一人 宛︑ 横目 方へ 食 寄遂 穿鑿 候得 共︑ 衆口 同辞 ニ不 存之 由申 出候

︑然 乍礼 曹ヨ リ被 仰越 候 程之 事ニ 候得 ハ︑ 定而 科人 ニ其 紛有 之間 鋪候

︑誠 信之 際ケ 様之 儀其 侭 ニ可 召置 道理 無之 筈と 存候 付︑ 御忌 明拷 問申 付︑ 其上 ニも 不及 白状 候 ハヽ 対決 之為 朝鮮 へ差 渡︑ 罪状 明白 ニ成 候ハ ヽ相 当之 科被 仰付 候様 可 致候 故︑ 罪軽 重之 相談 右之 科人 差渡 候時 一度 不申 入候 而ハ 不叶 儀と 存 候︑ 然ハ 両使 右之 真文 持渡 候而 も︑ 亦は 不持 越候 而も

︑写 一通 ハ東 莱 へ遣 ス事 ニ候 間︑ 左様 ニ相 心得 候様 ニと 可被 申聞 候︑ 総体 此度 女事 之 一件 ニ付

︑御 国ヨ リ之 致方 誠信 之道 ニお いて ハ此 方無 残所 丁寧 之仕 方 ニ存 候︑ 乍然 朝鮮 と日 本と ハ風 俗も 違イ

︑元 来義 理無 窮者 ニ候 得ハ

︑ 若ハ 御国 之致 方不 当事 と存 候儀 も可 有之 候︑ 左様 之儀 ハ無 遠慮 可申 聞 候︑ 少も 道理 ヲま げ可 申筈 ハ無 之事 ニ候 間︑ 両使 申分 尤と 存候 ハヽ 相 改可 申候

︑且 又両 使心 入ニ 此儀 ハ尤 ニハ 存候 共︑ 此通 ニ被 成而 ハ両 使 迷惑 ニ及 候︑ ケ様 々々 ニ被 成被 下候 得ハ

︑対 州之 道理 も立

︑両 使難 儀 も無 之候 と存 候儀 も可 有之 候︑ 是又 訳官 之儀 ハ両 国之 事ヲ 取扱 申役 人 ニ而 候得 ハ上 ニも 兼々 大切 ニ思 食候 故︑ 此度 之仕 形不 届と 存候 而も

︑ 了簡 成り 候事 ニ了 簡無 之科 ニ逢 ニ申 候様 ニい たし 度心 少も 無之 事ニ 候︑ 成り 申程 之事 ニ候 ハヽ 幾重 ニも 宜様 ニ申 付ル ニ而 可有 之候

︑乍 然 先頃 ヨリ 申聞 候通 ニ元 来道 理無 之儀 ヲ両 使迷 惑ニ 及候 間︑ 相止 候様 ニ と申 候分 ニ而 ハ何 程弁 ヲ立 申聞 候而 も決 而許 客仕 間鋪 事ニ 候間

︑両 使 好々 思案 致候 得と 可被 申聞 候︑ 以上 二月 日

年寄 中

裁判 対馬

藩は

︑こ こで よう やく 訳官 使の 希望 通り 白水 の白 状の 有無 に関 わら ず︑ 彼を 倭館 に送 還す るこ とを 承諾 した ため

︑訳 官使 は最 初に 渡さ れた 書 付の 返還 に応 じた

︒ま た︑ 二月 に送 られ た倭 館か らの

﹁同 宿并 隣端 之者

﹂ の口 書に は﹁ 衆口 同辞 ニ不 存之

﹂で あっ たこ とが 記さ れて いる が︑ その 上 で対 馬と 訳官 使双 方の 体面 を保 つ解 決策 を探 って おり

︑白 水が 倭館 へ送 還 され ると して も︑ 死罪 とな らな いよ う細 心の 注意 を払 って いる こと が分 か る︒ 同︵

三月

︶二 日

︵中 略︶ 一白 水源 七儀

︑今 日ヨ リ終 日夜 ニ掛 御詮 議有 之由 同︵

三月

︶七 日 一三 郎左 衛門 殿ヨ リ罷 出候 様ニ 被仰 下候 ニ付

︑致 仕公 候処 ニ︑ 白水 源七 儀拷 問被 仰付 候得 共︑ 其身 誤り 無之 候由 申候 ニ付

︑朝 鮮へ 被差 渡候

︑ 依之 両訳 へ被 仰渡 候御 書付 一通 御渡 シ被 成候 之旨

︑太 廰へ 罷出 両使 へ 申渡 候様 ニと 之御 事ニ 付︑ 及暮 ニ太 廰へ 罷出 候而 両使 へ申 渡ス

︑尤 嘉 勢傳 五郎 同道 仕ル

︑御 書付 之案 爰ニ 記之 白水 源七 儀︑ 厳鋪 拷問 申付 候得 共白 状不 致︑ 其身 誤り 無之 由申 詰候

︑ 依之 館守 方へ 差送

︑猶 々遂 吟味 其上 ニ而 為致 対決 ニ候 様ニ と存

︑先 達 而佐 須奈 関所 迄遣 置︑ 訳官 共帰 帆之 節︑ 裁判 引船 ニ乗 セ為 致渡 海可 申 候︑ 此旨 訳官 共へ 可被 仰聞 候︑ 且亦 先頃 之真 文近 日書 改相 附可 申候 間︑ 左様 相心 得居 候得 と可 被申 聞候

︑已 上 三月 日

年寄 中

(

(10)

で︑ よく 思案 する よう 求め てお り︑ 崔同 知は この 日の 夜に 軍官 たち へ言 い 聞か せる と返 答し てい る︒ この 日︑ 崔同 知は 通詞 の二 人に

︑﹁ 明朝

﹂の 訪問 を求 めて いる

︒日 付の 記載 はな いも のの

︑翌 二十 三日 のも のと 思わ れる 記事 が次 の通 りで ある

︒ 一今

朝︑ 傳五 郎・ 弥左 衛門 罷出 申聞 候ハ

︑昨 日太 廰へ 罷出 候而

︑崔 同知 へ御 了簡 之趣 申聞 候処 ニ︑ 軍官 へ夜 前得 と申 聞候 処ニ

︑何 も落 着申 候 間︑ 左様 相心 得候 様ニ と申 聞候 ニ付

︑乍 此上 各無 油断 教訓 被致 候而 可 然候

︑若 落着 候ハ ヽ早 々被 申聞 候︑ 崔同 知へ 能合 点候 へハ 別条 有之 間 鋪と 存候

︑此 度両 様之 願申 上置 候得 共︑ 両訳 心ニ 不申 御返 答ニ 付︑ 差 当り 可仕 様無 之候 故ニ

︑例 之お どし ニ而 とや かく と申 ニて 可有 之と 存 候︑ 併不 慮成 仕形 仕候 儀も 可有 之と 存候

︑左 様候 而ハ 至而 大切 成事 ニ 候間

︑好 々御 聞合 可被 申聞 候︑ 実否 之儀 其内 三郎 左衛 門殿 へ粗 申上 置 候様 ニ可 仕候 由︑ 両人 へ申 聞候 得ハ

︑傳 五郎

・弥 左衛 門申 候ハ

︑崔 同 知我 々ニ 申候 ニも

︑軍 官共 不了 簡之 儀ヲ すゝ め申 候得 共︑ 私ニ ハ同 意 不存 候︑ 此度 之儀 無調 法罷 成候 得共

︑崔 同知 一人 之無 調法 ニ而 候︑ 然 ハ別 而軍 官中 之越 度罷 成ル 事ニ て無 之と 崔同 知軍 官中 へ申 渡候 ニ付

︑ 何も 落着 之由

︑両 通詞 へ申 聞候 時︑ 傳五 郎・ 弥左 衛門 申候 ハ︑ 万一 御 通之 節無 調法 之仕 形有 之候 而ハ

︑御 駕籠 廻り 之衆 不関 打捨 ニ被 致候 儀 目前 ニ候 間︑ 左様 ニ相 心得 能々 了簡 可有 之由

︑傳 五郎

・弥 左衛 門申 入 候得 ハ︑ 其儀 も合 点仕 居候 と崔 同知 申候 由︑ 両人 拙子 へ申 聞ル 今回

のこ とは

︑崔 同知 の知 らぬ 間に 軍官 たち が進 めて いた 話で はあ る が︑ これ は崔 同知 の﹁ 越() 度﹂ にな ると 軍官 たち へよ く言 い聞 かせ

︑事 態は 収束 して いる

︒も しも

﹁御 通り

﹂の 際に この よう な無 調法 があ れば

︑﹁ 打 捨﹂ とな るに 違い ない と崔 同知 へも 申し 含め てい る︒

翌二 十四 日の 記事 を見 ると

︑こ の話 は三 郎左 衛門 の耳 にも 入っ てい る︒ 今回 の訳 官使 が複 数の 問題 を持 ち込 んで いた ため か︑

﹁斛 枡一 件﹂ のた め に﹁ 御駕 籠に すか り可 申﹂ とな って いる が︑ これ を防 ぐた め︑ 二十 六日 に は﹁ 殿様 御乗 船被 遊候 節︑ 太廰 之内 ヨリ 壱人 も外 へ不 罷出 様ニ

﹂と 堅く 申 し付 けら れて いる

︒同 日︑ 藩主 は無 事に 乗船 し︑ 二十 八日 に出 船し た︒ 二十 九日 には

︑対 馬藩 で事 件に つい て動 きが あり

︑家 老か ら裁 判を 介 し︑ ô日 に訳 官使 へ伝 えら れた

︒以 下が その 内容 であ る︒ 一両

使へ 申達 候ハ

︑御 年寄 中被 仰候

︑先 頃ヨ リ被 仰渡 置候 通︑ 弥来 月二 日ヨ リ科 人拷 問被 仰付 候︑ 然ハ 先頃 遣シ 被置 候

(

)

之短 簡之 儀︑ 科 人白 状仕 候而 も白 状不 仕候 而も

︑其 所ヲ 口書 改被 成候 而御 渡可 被成 と 之御 事ニ 候間

︑只 今差 返シ

︑拙 子へ 被相 渡候 得と 之儀 ニ候 由口 上ニ 而 申達 シ︑ 尤御 書付 読聞 セ︑ 其上 両通 詞朝 鮮言 葉ニ 移し 申入 候得 処ニ

︑ 両訳 之返 答ニ 被仰 下候 趣奉 承候

︑と かく 幾重 ニも 御断 申上 ヨリ 外ハ 無 之候

︑御 請之 儀ハ 宜様 申上 候様 ニ申 聞ケ

︑其 上ニ 而請 取置 候短 簡差 返 ス︑ 請取 候而 御屋 鋪へ 致持 参︑ 三郎 左衛 門殿 へ差 上ル

︑今 日両 訳へ 申 渡候 御書 付案 爰記 之 口上 覚

〃先 頃訳 官両 使へ 相渡 候女 事之 真文 請取 此方 へ可 被差 返候

︑此 真文 ニハ 未得 実情 と有 之候

︑御 忌明 拷問 いた し候 ハヽ 拷問 之上 白状 致シ 実状 相 知レ 候と か︑ 又ハ 拷問 致候 而も 実状 相知 レ不 申と か︑ 其趣 ヲ書 加へ 申 事ニ 候故

︑右 之真 文差 返候 様ニ と被 申達

︑其 上ニ 而可 被申 ハ︑ 右之 科 人致 白状 候ハ ヽ︑ 朝鮮 へ差 渡ニ 不及 候と 申渡 候ハ ヽ︑ 定而 先頃 申聞 候 通︑ 弥右 之書 付両 使方 ヨリ ハ朝 廷方 へ難 差出 存ニ 而可 有之 候間

︑其 節 ハ両 使へ 相渡 候真 文ヲ 別紙 写︑ 此方 ヨリ 直ニ 東莱 へ遣 礼曹 ヨリ 之御 書 ü︑ 殿様 御披 見不 被成 訳白 状候 上ハ 対決 ニ不 及候 故︑ 右之 科人 不差 渡

(

(11)

用無 之候 間︑ 太廰 へ罷 出ニ 不及 事之 由三 郎左 衛門 殿委 細被 仰聞 候ニ 付︑ 通詞 両人 得と 申含 傳五 郎・ 弥左 衛門 ヲ以 太廰 へ申 遣ス 十八

日︑ 三郎 左衛 門に 呼び 出さ れた 龍田 は︑ 翌日 が晴 天で あれ ば︑ 藩主 が江 戸へ の弔 問の ため 乗船 する とい う知 らせ を受 けた

︒さ らに

︑二 十二 日 を新 たな 乗船 予定 日と して いた が︑ 訳官 使の 都合 を勘 案し

﹁心 次第 ニ被 仕 候得

﹂と 指示 され てい る︒ この 内容 は︑ 通詞 を介 して 訳官 使へ 届け られ た︒

〃右 之趣 両人 之通 詞両 訳へ 申達

︑尤 裁判 ヨリ 之口 上ニ 仕候 而申 渡ス

︑其 後両 通詞 両訳 と論 談之 内︑ 両訳 申候 ハ︑ 廿二 日前 ニ殿 様御 乗船 被遊

︑ 我々 儀御 跡引 残之 儀︑ 至極 迷惑 成ル 儀共 奉存 候︑ 併両 様之 内一 方不 被 仰付 候而 ハ︑ 幾重 ニも 御理 申上 ルヨ リ外 無御 座候

︑滞 留之 儀曽 而望 ニ 申事 ニ無 御座 候︑ 科人 拷問 之上 ニ而 白状 仕候 而も 不仕 候而 も和 館へ 被 遣︑ 其上 ニ而 御吟 味次 第ニ 被仰 付被 下候 得ハ

︑持 渡之 書簡 之御 返事 不 承候 共︑ 我々 申分 立申 事ニ 候︑ 偏ニ 御理 申上 候間

︑御 聞分 ケ被 成可 被 下候 ニ

(

)

上候 由︑ 傳五 郎口 上ニ 而一 々申 聞ル

︑尤 来月 二日 ヨリ 拷問 被 仰付 候︑ 万一 白状 不仕 候ハ ヽ︑ 兼而 被仰 聞置 候様 ニ和 館へ 可被 差渡 候︑ 随分 白状 仕候 様ニ 拷問 ヲ被 仰付 之由 両訳 へ傳 五郎

・弥 左衛 門申 達 罷帰 候由 申聞 ル 訳官

使は

︑藩 主が 江戸 へ向 けて 出発 する にも 関わ らず

︑引 き続 き滞 留す るこ とを

﹁至 極迷 惑成 ル儀 共奉 存﹂

︑申 し訳 なく 思っ てい るこ とが 分か る︒ 対馬 藩は 忌明 けの 後︑ 白水 が白 状し ない 場合 に限 って 倭館 への 送還 を行 う とし てい るが

︑訳 官使 は白 状の 有無 にか かわ らず 倭館 へ送 還し

︑そ の上 で 吟味 を行 うよ う求 めて いる が︑ 対馬 藩は あく まで 方針 を変 更す るつ もり は

ない とし てい る︒ 同︵

二月

︶廿 一日 一今 朝傳 五郎

・弥 左衛 門罷 出申 聞候 ハ︑ 昨日 太廰 へ罷 出候 処ニ

︑崔 同知 申候 ハ︑ 殿様 御乗 船被 遊ル 筈候 様ニ 承り 申候

︑就 夫我 々乗 船之 儀ハ 如 何被 仰付 御事 候哉 と申 候故

︑両 通詞 申候 ハ︑ 各乗 船之 儀ハ 来月 二日 ヨ リ科 人拷 問被 仰付 候上 ニ而

︑如 何様 共相 知可 申︑ 暫ク 間も 有之 事ニ 候︑ 乗船 之儀 ハ心 次第 ニと 此程 被仰 出候 得ハ

︑唯 今之 通ニ 被仕 居候 而 可有 之候 と挨 拶仕 候由

︑然 処ニ 軍官 共罷 出申 聞候 ハ︑ 御乗 船被 遊候 節︑

()

之儀 ニ付 持渡 之書 ü︑ 御通 り之 節差 上ケ 可申 候由

︑口 々ニ 申出 候付

︑此 儀至 而大 切千 万成 ル事 ニ而 候間

︑崔 同知 能々 思案 仕く れ 候得 と申 候得 ハ︑ 何程 致合 点候

︑今 晩軍 官中 へ得 と可 申聞 候間

︑明 朝 傳五 郎・ 弥左 衛門 罷出 くれ 候様 ニと 申候 由︑ 両人 拙子 へ右 之段 々申 聞 候ニ 付︑ 私返 答ニ 申候 ハ︑ 此儀 至而 太切 成ル 事ニ 而候

︑若 左様 之首 尾 ニ罷 成候 而ハ

︑崔 同知 首尾 十分 不宜 候︑ 思案 可有 之事 と存 候︑ 道理 之 立候 儀ヲ 得と 納得 不仕 候故

︑崔 同知 分別 此場 ニ而 可有 之候

︑為 念候 間︑ 今一 応承 合セ 拙子 へ可 被申 達候

︑其 上ニ 而三 郎左 衛門 殿御 耳ニ 入 可申 候︑ 実否 之所 不分 明候 ニ付

︑承 り之 侭ヲ 三郎 左衛 門殿 へハ 難申 上 候︑ 乍此 上各 被罷 出候 ハヽ

︑致 納得 候様 仕度 事ニ 而候

︑畢 竟御 行列 見 物も 此節 ハ不 入事 ニ而 可有 之候

︑御 叱り ヲ蒙 り被 居候 同前 之儀 ニ候 得 ハ︑ 崔同 知深 ク遠 慮可 被仕 事ニ 而候 由︑ 傳五 郎・ 弥左 衛門 へも 心入 之 通り 申聞 ル しか

し︑ 二十 一日 には

︑対 馬藩 の態 度に 業を 煮や した 軍官 たち は︑ 礼曹 書簡 を︑ 乗船 時の 藩主 の﹁ 御通 り﹂ の時 に差 し出 すべ きだ と口 々に 申し 出 たと いう

︒通 詞ら は崔 同知 に対 し︑

﹁此 儀至 而大 切千 万成 ル事

﹂で ある の

(

(12)

は︑ たと え対 馬で

﹁相 果候 迚も

﹂生 きて 朝鮮 へ帰 るこ とは でき ない とい う 覚悟 であ る︒ これ を受 け︑ 家老 たち は翌 日の 十五 日に 龍田 を介 して 訳官 使 へ書 付を 送っ てい る︒

〃訳 官共 申分 ニ女 事之 書ü 受取 御返 ü被 遣候 歟︑ 其身 共帰 国之 便右 之科 人致 類船 歟︑ 右両 様之 内致 シく れ候 得︑ 左無 之候 而ハ

︑帰 国之 後必 定 科人 ニ遭 候段

︑至 極迷 惑存 候旨 致書 載差 出之 候︑ 書翰 御受 取難 被成 訳 并科 人之 儀︑ 日本 国大 喪之 砌ニ 候故

︑早 速拷 問難 申付 之旨 委細 被申 渡 候処 ニ︑ 毛頭 聞入 不申 候段

︑至 極不 届之 事ニ 候︑ 右之 科人 之儀

︑訳 官 共申 分ヲ 聞届

︑弥 其科 ヲ正 可申 之旨

︑真 文ニ 認相 渡た る事 ニ候

︑右 之 真文 礼曹 へ差 出候 ハヽ

︑其 身共 科ニ 遭可 申道 理決 而無 之候

︑其 上御 忌 明候 而拷 問申 付︑ 当所 ニ而 白状 不致 候得 ハ︑ 弥対 決之 為彼 地へ 差渡 事 ニ候

︑仮 令一 月二 月及 延引 候而 科ニ 遭可 申道 理猶 又無 之候

︑畢 竟ハ 年 寄中 以連 書申 聞候 真文 之趣

︑疑 心ヲ 加へ 候事 と相 見無 礼不 側之 至ニ 候︑ 元来 右之 科人 御忌 明候 已後 遂拷 問︑ 白状 不致 候得 候(

)

朝廷 へ差 送り 右之 女と 対決 いた させ 罪科 ヲ定 申筈 ニ候 間︑ 訳官 共御 出船 跡ニ 引 残り 候段 先規 無之 如何 鋪事 ニ候 得共

︑不 顧事 理無 体ニ 右之 科人 類船 ニ 而罷 帰度 存シ 儀候 ハヽ

︑御 忌明 候迄 相待 可申 候︑ 拷問 之上 白状 不致 候 ハヽ

︑類 船ニ 而可 送越 候︑ 若も 分明 ニ致 白状 候ハ ヽ︑ 先頃 相渡 置候 真 文ニ 分明 ニ致 白状

︑罪 科難 遁之 旨書 加へ 訳官 へ可 相渡 候︑ 勿論 白状 之 上ハ

︑朝 鮮へ 差渡 対決 致ニ 不及 事ニ 候間

︑真 文ニ 令書 載候 通︑ 礼曹 ヨ リ之 返事 ヲ相 待候 而科 ニ可 申付 候︑ 此旨 訳官 共へ 被申 渡︑ 御忌 明拷 問 申付 候迄 差控 可申 と申 候ハ ヽ︑ 其身 共心 次第 仕候 様ニ 可被 申渡 候︑ 以 上 二月 十五 日

年寄 中 裁判

家老 たち は︑ 日本 は将 軍死 去に よる

﹁大 喪﹂ であ り︑ 白水 への 拷問 が行 えな い状 況で ある のを

︑﹁ 毛頭 聞入 不申

﹂態 度で 臨む 訳官 使を 批判 的に 記 して おり

︑礼 曹へ の書 簡に は﹁ 科ヲ 正可 申之 旨﹂ とあ るた め︑ これ を差 し 出せ ば訳 官使 が落 度を 問わ れる こと はな いだ ろう と反 論し てい る︒ 白水 は 忌明 けに 拷問 を行 い︑ 白状 しな かっ た場 合に は倭 館へ 送る とし てい るが

︑ 白状 した 場合 には 礼曹 から の指 示を 待っ て処 分を 行う とい う︒ この 日の 話 し合 いは 深夜 にま で及 んで おり

︑龍 田は 翌日 に三 郎左 衛門 への 報告 を行 っ てい る︒ 同︵

二月

︶十 八日 一三 郎左 衛門 殿ヨ リ通 詞両 人罷 出候 様被 仰下 ニ付

︑今 四ツ 時傳 五郎

・弥 左衛 門同 道仕 り︑ 三郎 左衛 門殿 御宅 へ罷 出候 処ニ 被仰 渡候 ハ︑ 殿様 明 日晴 天ニ 候得 ハ御 乗船 被遊 ル御 事候

︑今 度

(

)

之儀 付両 使不 顧事 理 ヲ︑ 是非 科人 召連 帰国 不仕 候而 ハ不 罷成 候︑ 然は 御当 地ニ 而譬 命ヲ 失 ひ申 共滞 留可 仕と 申候 間︑ 二年 ニ而 も三 年ニ 而も 心次 第ニ 滞留 仕候 へ︑ 御返 答書 ニ有 之候 様ニ 科人 拷問 被仰 付候 而︑ 白状 仕候 ハヽ 日本 之 法之 通ニ 被差 渡間 鋪候

︑併 御返 答書 ニ有 之候 様ニ

︑礼 曹ヨ リ道 理立 候 其訳 被仰 下候 ハヽ 被差 渡︑ 何分 ニも 可被 行候

︑且 又廿 二日 ニ被 致乗 船 候而 ハ先 様逗 留之 日数 も有 之事 候間

︑心 次第 ニ被 仕候 得︑ 御忌 明キ 候 ハヽ 来月 二日 ヨリ 御精 進日 ヲも 御構 イ無 之︑ 水責

・木 馬貫

・駿 河責 と 申責 ヲ被 仰付 事ニ 候得 ハ︑ 俄ニ 埒明 申︑ 間鋪 候首 尾ニ ヨリ 候ハ ヽ東 武 ニ而 御案 内も 可被 仰上 と之 御事 候︑ 此方 ヨリ 急度 御返 事被 遊ル 首尾 之 事ニ 無之 候間

︑右 之趣 ハ裁 判方 ヨリ 通詞 ヲ以 両訳 へ申 達候

︑尤 裁判 御

(

図 に 而 候 故 ︑ 引 之 候 由 可 被 申 候 旨 申 聞 ル

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