ヒューマニゼイションの学問性 村′ 瀬 裕 也 学も又専門あり己を己とし彼を彼とすれば各涯分あり各涯分あれば 人の是非をきくに暇あらず……しからざれば両可の言を設けあるひ ほ渾合の説をなす悲夫 一「一三浦梅園『元鷹諭』より 「何はともあれ,わたしたちの畑を耕さねばなりません。」 −ヴォルテール『カソディード』より I
FacultyDevelopmentに関する職務研究の一環である本稿に「ヒュMマニゼ
イションの学問性」という標題を掲げることほ,一見はなはだ奇異の印象を与 えるかも知れない。というのほ,一般に知識や学問の,あるいは既成の知識体 系のヒューマナイズィソグについてほ,これまでも一般教育の,従ってそれを 担当するfacultyの重要課題と見なされてきたが,かかるヒューマナイズィン グに要求される「学問性」についてほ,従来殆ど論議の狙上にのぼったことが ないからである。「学問性」とほ,一般にほむしろ学問の「専門性」の資格に係 わる概念として受け取られているように思われる。 だが抑々学問・知識のヒューマニゼイショニ/とは何か。もしここで問題にさ れているのが単に既成の学問・知識の教育的阻囁に過ぎないとすれば,それは いわゆるポピュラリゼイションと殆ど異ならず,殊更にヒュ…マニーゼイショソ などと呼称する必要もなかろう。敢えてヒューマニゼイショソと称するからに は,そこに単なる教育的阻囁を越えた何等かの高次の営為が,そしてその成果 として何等かの新たな質−もしその素材が既成の学問・知識であるとすれば, 新たな質的性格を伴ったそれらの再組織・再編成一の実現が予想されるので なければならぬ。そこに貫かれるのは,その間題意識や探究方法に関しても,村 瀬 裕 也 96 またその成果の特質に関しても,いわゆる「専門的」な学問領域におけるそれ とほ質的に異なるある独自の性格特徴を具えた「学問性」であると言ってよい であろう。 (1) この点に関して示唆的なのは,内田義彦氏の見解である。委曲を尽くした氏 の論議をいま必要な範囲で要約すれは,−学者の仕事に関して今日支配的な 考えは,専門的な論文だけが創造の名に値し,一般読者向けの書物となると直 ちにこれを安易な啓蒙書(入門書・概説書)と見なす常識である。ではここで 唯一創造の資格を承認された専門研究−「論文」の形で公表される−ほどの ような実情にあるのか。一般に論文は「⊥っの世界をなして丸ごと一人一人の 読者に対する」のではなく,ひとつの断片として学界にプールされ 学界の「共 有財産」に加わる。ところで,このような学問の所産に対して,それの最終消 費者たる一般の人々は,それらの所産をめぐる実践れ内田氏が主題とされて いる社会科学にあっては「政策実践」またほ「社会的実践」−の受益者もし くは犠牲者としての受動的な役割しか与えられていない。つまりそれらの所産 にあっては,その学問内容そのものがそれぞれ主体者たる一般の人々に届けら れることは極めて稀である。これに対して,例えばスミスやマルクスの業績は, 単に専門家にのみ提供された処方箋ではなく,専門家ならざる一般読者に直接 届き,かれら一人一人のなかでコペルニクス的転換が起こることを念願して書 かれた「作品」である。これらの業績が具えているのほまさに「作品」として の性格である。それが人々のなかにコペルニクス的転換を引き起こし,かれら をして社会の主体として自覚せしめる産婆の役割を果たし得るのは,まさにそ の「創造的な作品性」の故にほかならない。ところが我国の学界でほ,この種 の仕事を,特殊な天才にだけ許される,それ故一般の研究者の苛且にも見倣っ てはならぬ特例として扱う債向があり,そのことが「最終読者を直接念頭に深 く独創的な作品を創造することを男子一生の仕事として精力を尽くす気風」を 殺ぐ結果をもたらしている。−ほぼ以上の如き内田氏の論旨は,現在の我国 の学界を覆うある種の侠儒的傾向への痛切な告発として受け取られるであろ う。 もとより内田氏とて,またその主張を肯定的に引証した私とて,細分化され
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ヒューマニゼイショこ/の学問性 97 た専門性のなかで高度にかつ先鋭的に発展していく学問研究の意義を否定する ものでほない。それほまた学問研究のひとつの必然的な流れでもあろう。しか しこの一方向のみを以て学問世界が全面的に覆われると考えるのほ明らかに不 当であろう。専門外の人々が自己の外部で行われる「実践」の単なる受動的な 受益者または被害者にとどまってほならぬ以上,そして遠か人類の実現を射程 に据えた社会の発展が社会の主体たることを自覚した一般の人々の共同によっ てのみ可能である以上,学問のいまひとつの役割がこれらの人々の「教養」に 資するところにあることはいうまでもない。そしてこのような役割に耐える学 問の性格がその「作品性」にあることほ,内田氏の発言に依拠しつつ上釆見た 通りである。ではこのような「作品性」を保証するものは何か。私見によれば, それこそがまさにヒューマニゼイションとしての独自の「学問性」にほかなら ない。 以下における本稿の主題ほこのような「学問性」に要求されると考えられる 諸条件・諸特質の追求にある。なおこの種の考察が現在定説と称すべき基本見 地の上に展開され得る状況にない以上,以下の論述が今後の吟味検討に供すべ き仮説的提言の域を出ないことほ改めて断るまでもない。また本稿に今後の研 究への粗描の意義を託し,関連する諸説の蒐集に努めた関係上,限られた紙幅 に比してやや引証過剰の煩雑な叙述になる恐れもあるので,あらかじめ了承を 乞うておきたい。 ⅠⅠ 一般教育の観点から学問のヒューマニゼイショソの問題に触れる場合,無視 して通ることの出来ないのほ,P.H.フェニックスの『意味の領域一 般教育 (2) の考察一』である。本書についてはすでに本誌創刊号に笹本正樹氏の簡にし (3) て要を得た紹介と論評が掲載されているが,本稿における次の展開に向けて道
順を踏む必要からしても,またこの書物がその後邦訳され,数少ない一般教育
哲学として汎く関心を集めている状況からしても,いま改めて,必要な範囲で その要旨を纏めておくことは,必ずしも屋上屋を架する徒労ではないと思われ る。故に以下暫くフェニックスの論旨を辿っていこう。村 瀬 裕 也 98 フェニックスによれば,教育が本来人間の生成に携わるものである以上,教 育者は何よりも先ず人間を,とくにその本性を,その現実態・可能態・理想態 において理解する必要がある。ところで,諸々の個別科学は,それぞれの視点 と側面から人間探究を進めており,これまで多くの知識を蓄積してきた。しか し一般的な人間理解はこれらの個別知識の単なる総和において成り立つもので はない。このような理解のためにほ,人間の本性についての統合的な概念,す なわち「専門家の証言がその部分的様相となるような概念」が要求される。で ほそれほ何か。これまでの哲学的解答によれば,人間の特異性を決定するのは 「思考の能力」であり,従って「理性」こそ人間またはその本性の本質にほか なら一ない。しかるに他方,この「理性」は,主に論理的な思考過程に係わるも のとして狭陰に解釈されがちであり,そこから感情・良心・想像など厳密な意 味で「合理的」とはいえない人間の基本的内容が排除される傾向を免れなかっ た。とすれば,かかる「理性」概念を以て人間に関する統合概念とすることは 極めて不充分である。故にそれに代わってより広い内容を包含する「理性」の 観点を表現し得る新たな統合概念が求められなければならぬ。そこで提案され るのが「意味(meaning)」の概念である。この概念によって「理性または心の 全範囲の内容」,あるいは人間的諸機能のそれぞれに特色のある様々の側面のす べてが表示される。それらの諸機能は「意味の種類」であり,それらすべてが 「一緒になって,意味の生活を構成し,それが人間生活の本質である。」かくて 「人間の本性についての問いに対して,提案したい哲学的な解答をいえば,人 間は意味を発見し,創造し,また表現する存在である。」以上の如くであるとす れば,教育の目標ほ,かかる「意味」生活の成長を促進することにおかれなけ ればならない。 ところで,「意味」にほ次の四つの次元がある。すなわち,(D反省的な自我意 識の経験,②この経験を形態化する論理的原理,③無限に多様な意味種類のな かからの,現実の人間生活において重要な(意義のある)類型の選択的精製, ④これらの類型の象徴的表現。一故に「意味」生活の成長を目指す教育者は, これらの諸次元との係わりにおいて学習課程を編成しなければならない。その 際,多様な学究的学問を,論理的構造の類似の線に従って大枠の部分単位に区
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ヒューマニゼイショソの学問性 99 分することが必要である。ではこのよ一うな区分はどのような形で成立するのか。 先ずあらゆる認識可能な意味には量および質という二つの論理的局面があり, その各々はそれぞれ次の如き三段階をもつ。すなわち, 単一的 概括的 包括的 量(
次にこれら三つの量的局面と三つの質的局面との組み合わせにより,九種類の
総称的な種別とそれに対応する「意味領域」が成立する。それを表示すれば次
の通りである。 総称的種類 意味領域 分 _靂書L 臼 野 質 概括的 形 式 象 徴 界 日常言語,数学,非論証的象徴形式 概括的 事 実 経 験 界 物理科学,生命科学,心理学,社会科学 単一的 形 式 審 美 界 音楽,視覚芸術,動作芸術,文学単一的 事 夷 豊。蕊i莞 実存的な局面における哲学・心理学・文学・宗教
単一的 規 範 倫 理 界 道徳と倫理関係の多様な特殊領域 概括的 規 範
包括的 事 実 通 観 界 歴史 包括的 規 範 宗教 包括的 形 式 哲学
さてフェニックスは以上の前提のもとに,この書物の基幹部分たる第二部に おいて,これらの意味領域の各々に関する詳細な考察を試みている。しかしこ こではそれらの一々に立ち入る余裕はないし,また後に述べる理由によって, この点に深入りすることは本稿の目的からしてあまり適切とは思われない。そ こでこの部分における重要な論点についての吟味は他日に期することとし,こ こでほ第三部「一般教育の教育課程」のうち,爾後の論議に関係の深い四つの 点,すなわち学習内容選択に関する四つの原則について簡単に触れるにとどめ よう。村 瀬 裕 也 100 ① 学問的知識の使用。一般教育に適切な教育内容は,何よりも先ず単なる意 見と区別された学究的学問の成果,すなわち専門的研究者相互間の共同作業 の成果たる確実な知識に基づかなければならぬ。このような学問的知識の本 質は決して一般教育の観念と矛盾するものではなく,却って前者は後者の基 礎である。一般教育の「一般」たる所以は,「知識一般」なるものを前提とす るところにあるのでほなく,特殊な集団の成員に制限されない一般的・人間 的関連をもつというところにある。ではここでの教師の役割はどのように解 されればよいか。それはすなわち,専門的知識の一般的な人間的関係を明ら かにすべくその知識を媒介すること,学問的知識の「人間化」を行い,それ を学生の利用に供すべく生気あらしめることであり,この点で教師の任務は 専門領域における研究者の任務とほ機能を異にしている。
②代表的観念。知識の過剰に対する教育上の解決策として,その徹底的な簡
素化が要求されるが,そのための有効な手段は,学問的知識の豊富な資源か ら特に代表的な事項を選択すること,換言すれば,学問の「代表的観念」を 例証すべく教育内容を選択することである。ここで「代表的観念」とは,学 問の類型を表すという意味で「典型的観念」であり,また学問の性格を明ら かにするという意味で「特徴的観念」である。ところでこの「代表的観念」 は,同時に「成長の原則」れそれによって例証の豊富化と洞察の深化が行 われる−であり且つ「単純化の原則」−それによって細部で道に迷うこ とを防ぐ学問の地図が提供される−であるという驚くべき役割を果たす。 つまり「学問の範囲内の知識を急速に拡大させながら,学問を豊かにするま さにその観念の理解が,また学問を学習するという仕事を単純化する基礎」 でもあるのである。 ③ 探究の方法。教材の内容は,探究方法と理解様式を例証するように選択さ れるべきである。というのは,第一に,方法の理解は,犬儒主義を克服し, 破壊的懐疑を理解の可能性への確信に導くからであり,第二に,方法が一学 問における統合的要素である限り,それの理解ほ,現代における知識の断片 化の傾向を阻止するのに有効だからであり,第三に,探究の道具があれば, ひとは既成の知識を大量に詰めこむ必要から免れる限り,方法の理解ほ,知OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
ヒューマニゼイショソの学問性 101 識過剰の問題の解決に役立つからであり,第四に,方法がそれの適用結果た る知識よりもー般に安定性が高い限り,それを研究することは,「意味」にとっ ての現代的脅威たる「うつろいやすさ」の悪影響を防くやのに特に有益だから である。総じて,方法の理解は,学習の継続と研究の自己企画との可能性を 生み,また方法への注意の集中は,「無意味性の二つの形態である材料の断片 化と過剰を克服する助けとなる。」 ⑥ 想像力への訴求。これまで挙げた三つの原則が,主として組織的学問の論 理的形態に,特に学ばれるべき知識量の徹底的な減少に係わっていたのに対 し,ここに挙げる第四の原則ほ,主として教師・学生のもつ「内的生活の性 質」に係わっている。すなわちここでの中心問題ほいわゆる動機づけの問題 である。人間の願望が「意味」に向けられている以上,学習の根本的な動機 が「意味」の探究にあることほいうまでもない。そして想像力はかかる動機 に本質的な関連をもっているのである。それほ人間の内的精神生活の意識的 中心にはかならない。故に学生に学習の動機づけを与えるためには,新たな 「意味」生活への展望に向けて彼らの想像力を喚起するような,意外性と生 気に満ちた教材が選択され,編成されなければならぬ。 一以上の如く要約されたフェニックスの見解について,次に「ヒューマニ ゼイショソの学問性」という本稿の主題に実を結ぶ方向で吟味を加えていくこ とにしよう。 ⅠⅠⅠ 笹本正樹氏は,前掲の論文において,フェニックスのカリキュラム哲学の板 槻 木的な立脚点について次の如く批判されている。すなわち,彼の見解の背景に 「神学的な面」のあるふしがその論述の随所から窺われ,他方,そこにほ一貫 して社会的観点が欠落している。つまり彼ほ一般に社会的なものに眼を向けよ うとせず,人間存在の意味をひたすら「神の認識」に関係づけようとしている。 その当然の結果として,彼の一般教育論からほ人間性を破壊し圧殺するものへ のプロテストとしての「一般教養」の観点ほ生まれてこない。その意味で「彼 の人間性ほタテの人間性(神にむかう)を強調して,ヨコの人間性(人間にむ
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かう)を忘却しているのではないかと思われる」,と。一
フェニックスの著書 を全体として通読した限り,私もまた笹本氏と同じ印象を否み得なかった。に もかかわらず,私の叙上の要約では,このような基本観点にはまったく触れな かった。というのは,第一に,このような基本観点についての論争は本稿の主 題とは差し当たって無関係であり,また第二に,フェニックスの見解にほ,笹 本氏によって提示された基本観点にかかわる問題性を差し引くとしても,なお 今日の一般教育の問題を考究し解決していく上で重要かつ示唆的な内容が多く 含まれていると思われるからである。故に以下の論述では,笹本教授の指摘ほ 暗黙に念頭に置いておくにとどめ,叙上の要約に係わる範囲で検討を進めてい きたいと思う。 先ずフェニックスの見解のうち,我々の問題の探究に肯定的に引き継がれる べき側面を見よう。第一に挙げられるのほ発端における問題意識の共有である。 学問の細分化と職業の専門化は現代社会における必然的な趨勢であり,またそ れは社会発展の不可欠な側面でもあるに違いないが,しかし同時に,それに伴 う知識の過剰,生活の断片化と無意味化という問題状況を何等かの仕方で解決 し,全面的な文化・広汎かつ多面的な視野・人間生活の統合的な展望に立った 「教養」を実現する方途を見出すことは今日吃緊の課題であるといわなければ ならない。結論的な見解の如何に係わりなく,一般教育探究の出発点をこのよ うな状況と課題に置いた点では,フェニックスと我々との間に何等の敵齢も存 在しない。第二に,私が彼の諸見解のなかで特に肯定したいのは,彼が人間解 釈上および教育理念上の統合概念として「意味」の概念を導入したことである。 人間とは「意味」を発見し創造し表現する存在であり,従ってまさに人間の生 成に携わるところの教育の目標ほ,かかる「意味」の生活の成長を助けること に置かれなければならぬ,という彼の主張ほ,それが人間の発生や存在に関す る形而上学的解釈にまで延長されない限り,従ってそれが人間の在り方・課題・ 展望に係わる価値論的視座からの見解に限定される限り,爾後の論議の基調に そのまま継承される立場にはかならない。第三に,学習内容の選択についてフェ ニックスの挙げた四つの原則は,実際の場面において大いに利用価値のあるも のと思われる。特に第三の原則,すなわち「意味」との係わりにおいて「代表OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
ヒューマニゼイショニ/の学問性 103 的観念」を浮上させ,それを例証するような内容を選択・編成することにより, 教育内容を凡庸化・浅薄化することなく徹底的に簡素化すべきであるという原 則は,実践的観点からして極めて卓抜な着眼といわなければならない。 しかし同時に,フェニックスの著書は,笹本氏によって指摘された基本的難 点は別としても,本稿の主題がむしろそれへの反措定たることを意識して展開 されるべき幾つかの問題点を含んでいる。第一に,彼の学説の根本にあり,か つその体系構成のアリアドーネの糸たるべき当の「意味」の概念が,決して短 いとほ言えない論述の全体を通して一向に明確にされていない。なるほど彼は この書物の第二章において,「意味」の四つの次元に関する詳しい記述を行って はいる。しかしそれは飽くまでこれらの「次元」についてであって,これらを 統括する「意味」それ自体の正体についてでほない。第二に,このことと関連 すると思われるが,発端における鮮明な問題意識にもかかわらず,肝心の展開 部分,すなわち「意味」の領域乃至その基本形態に関する論述が,全体として ほ著しく精彩を欠く結果となっている。勿論そのなかには,例えば「共知界」 のようにフェニックスの創見にかかる部分,また「動作芸術」のように彼の卓 越した識見を示す部分も見受けられるが,概していえば,それほ九種類の「意 味領域」に分類された各学問分野の一般的な「性格」に関する叙述であって, 端緒における問題設定から期待されるような各分野の「意味」の把握,あるい ほ「意味」との係わりにおける各分野の教養化乃至ヒューマニゼイションの方 法の提示とはなり得ていない。またその「性格」把握においても,例えば心理 学や社会科学のような領域に関してほ,特殊アメリカ的な学問状況の制約を免 れておらず,普遍的な検討の姐上にのせるには極めて不充分である。第三に, 彼ほ学問の「人間化」の問題を専ら「教育」の問題に限定しており,それ自体 をひとつの新たな方向線に沿った,新たな意義のもとにおける「学問」の構築 の問題として捉える視点を欠落している。すなわち彼ほ教師一特に一般教育 に携わる教師−の任務を規定して「教師の職務は,知識の媒介者として,学 問を人間味豊かなものにすることであり,そのことが果たされるのは,さまざ まな種類の知識がそれぞれに,特定の専門家集団にとってよりはむしろすべて (5) の人にとって意味があるということを示すことによってである」「・…‥一 般教育
104 村 瀬 裕 也 にたずさわる教師の特別な任務は,ある特定の学究的学問領域で,知識の産出 と正当化に責任をもっている人びとの特別な任務とは,機能的に異なるのであ (6) る」と述べている。この規定は教育の実践場面に限っていえばまったく正当な ものとして受け入れられなければなるまい。しかし「学問」の観点からすれば どうか。ここにあるのは一方の極における「学究的学問」,他方の極における「教 育」への二極分解であり,知識の産出と正当化に従事するのは専ら前者の役割 とされ,これに対して後者の使命ほ専ら前者によって産出され正当化された結 果を媒介することに限定される。だが学問の「人間化」は単に「教育」の問題 であって「学問」の問題でほあり得ないのか。「学問を人間味豊かなものにする こと」それ自体は,この方向において新たな「意味」に充実せる−さきの内 田氏の言に従えば「創造的な作品性」を具えた−学問世界の形成に繋がらな いのか。もし学問の「人間化」の課題が「教育」の側から提起されるとすれば, 「学究的学問」から「教育」への方向線とは逆の方向線,すなわち「教育」が 新たな学問世界の構築を媒介するという方向線は考えられないのか。抑々媒介 とは常に相互的・連環的なものであるからには−。第四に,もしフェニック スのように予め「意味の領域」を設定し,そこに既成の学科を分類配置すると すれば,逆にこれらの学科開設を固定化し,前提とされた「意味」を以てこの 固定化を「意味づける」結果に陥りかねない。そのことは,再び逆に,「意味」 概念それ自体の貧困化と枯渇化を招くであろう。「意味」がもし真の意味におい て主体の自律系における固有の位置を獲得しているとすれば,それは領域設定 とそれの意味づけの局面に作用するよりは,むしろ人間的・社会的・文化的な 諸課題に応じた自由なカリキュラム編成一一一例えは「平和学」「福祉学」のよう な学問領域や課題別の学際領域の導入,あるいほ「意味領域」それ自体の意味 的再編−を支持し指導する枚能を営むであろう。この点に関連してもまた, 「意味」への問いほ我々の不可避的な課題とならざるを得ない。 −フェニックスの所説に対する以上の如き疑問点の摘出は,もとより単な る批判のための批判,すなわち破壊的な批判のためになされたものでほなく, 却って彼の見解の積極面を充分に受けとめつつ,なおその疑問点をもまた否定 的媒介として活用することを目指してなされたものにほかならない。それがど
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ヒューマニゼイショソの学問性 105 のような実を結ぶかほ以下の展開を侯たなければならぬ。 ⅠⅤ フェニックスにおける「意味」概念の不明確さを指摘した以上,暫くほこの 概念の穿整にかかずらう義務を負ったことになろう。 では抑々ここで求められる「意味」とは何か。一先ず手がかりとしてオグ (7) デソ及び リチャーズの周知の著書『意味の意味』を播いてみよう。同書第八章 には哲学者たちによる多数の「意味」の用例が挙げられている。このように一 堂に集められてみると,特にここに登場する哲学者の多くがこの種の問題に過 度の厳密さを要求することで知られていることに鑑みれば,頭痛を引き起こす のに効果覿面の錯雑ぶりほ一驚に値しよう。著者たちはこれらの哲学者による 「意味」の取り扱いに不信を表明した後,それらの材料に検討を加え,従来採 (8) 用されている主な「意味」の定義を三類型十六種二十三箇に分煩している。し かし遺憾ながら我々の求めている「意味」概念に的確に対応する定義はこの表 中にほ見出されない。B類型六種目の「対象に投射された活動」,七種目の「志 向された事件」「意思」などは何等かの意味でここに関連をもちそうであるが, しかしその各々についての著者たちの精緻な分析一残念ながら今ここでそれ に触れる余裕ほなし、、−を前提とする限り,それらにほフェニックスの掲げる ような人間解釈上の統合概念の位置に揚挙され得る資格ほ到底ない。 とすれば,我々は最初の手がかりをより大枠の単純明快な定義に求める必要 があるように思われる。そこで参考になるのは池上嘉彦氏の見解である。すな わち氏は日常語における「意味」の用法を,「単語の意味」「文の意味」という ような場合の言語表現上の「意味」と,「人生の意味」「宗教の意味」「彼の行為 の意味」というような場合の言語表現以外の「意味」とに大別し,後者の場合 の「意味」ほ「意義(significanse)」,「価値(value)」,「意図(intention)」 (9) などの語で置きかえることができる,と指摘される(このうち「意図」乃至「志 向」の語はオグデソ及びリチャーズの分類表にも見られるが,ここでは彼処に おけるような厳密な内容規定は与えられていないので,当面は広く「言語表現 以外の意味」を「言語表現上の意味」から区別する極く一般的な内容として受
村 瀬 裕 也 106 け取っておいて差し支えないであろう)。この区別に従えば,我々の求めている 「意味」が池上氏のいわゆる「言語表現以外の意味」一以下簡単に「非言語 的意味」と表示しよう一に該当することは明らかである(フェニックスは「意 味」の第四次元として「象徴的表現」を挙げているが,これほ表現活動及びそ の結果の「意味の生活」における意義に関するもので,ここでの論議とは自ず から別の文脈に属している)。そしてそれが「意義」「価値」「意図」などと近縁 の位置にある言葉であることは概ね肯定されてよいであろう。しかしこれは飽 くまで概ねの方向についての第一段階の確認に過ぎない。我々がいま探索して いるのは,一般的な意味論上の「意味」の意味ではなく,旧来の「理性」概念 に代わって人間解釈上の統合概念の位置に揚挙されたところの「意味」の意味 である。かかる役割を託された「意味」の概念について,単に「意義」「価値」 「意図」などの語と置き換え得るという確認を以て最終的な了解とするわけに ほいかないことほいうまでもなかろう。 私見によれば,ここで求められる「意味」の概念に最も接近しているのほ, 現代ルーマニアの哲学者C.Ⅰ.グリアンのいわゆる「価値意味」一彼の文脈に 冊 おいて「人格の意味」という場合の「意味」れの概念である。彼はかかる「価 値意味」を,価値展望と結びついた人間の固有性の「対象化(自己実現)」との 関連において,しかもそれを人格の投錨せる社会的一歴史的状況との関連にお いて把握している。ところでもし我々の求めている非言語的意味が,グリアン の言うような実存的並びに社会的契機を含蓄しているとすれば,それほ言語的 意味とまったく無縁のものでほなく,むしろ−後述の尾関周二氏の見解に明 らかなように−ある系譜の研究者によって究明された言語的意味と深く接続 していると思われる。故に暫くはこの系譜における言語的意味の解釈を追跡し ていくことにしたい。 こ川 最初にアダム・シヤフの見解を見よう。彼ほ言語記号の「意味」を二つの局 面から把握する。ひとつは記号M場(sign−Situation−−−−(D相互に思考しコミュ ニケートする複数の人間または人々の諸クラス,②記号が関係している「或る もの」,③思想がそれによって伝達される記号,などの諸要素の複雑な関係とし て成立している場)の分析において特に浮上するところの「意味」,すなわちひ
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ヒューマニゼイショソの学問性 107 とつの社会過程たる伝達一理解過程(コミュニケーショソ過程)における,相 互にコミュニ ケートしあう人々の一定の関係として把握されるところの「意味」 である。この意味における「意味」をアダム・シヤフほ「心理学的平面におけ (用 る人間の関係ないし諸関係の或るシステム」あるいほより正確に「人間コミュ ニケーションの過程における,つまり一人の人から他の人へ思想を伝達すると (用 いう過程における仲介者としての磯能を記号に演じさせる或るもの」と規定し ている。このような観点からの「意味」説を我々は尾関周二氏に倣って「意味=
(14) 相互人間関係」説と呼んでおこう。ところでアダム・シしヤフの意味論にほいま
(】5) ひとつの側面,すなわちやほり尾関氏によって「意味=概念」説と命名された 側面がある。それほ思考と言語との有機的統一を踏まえた認識論的局面から, 言語意味の対象反映性を承認するところに成立する「意味」説であるといって よい。シヤフによれば,語の「意味」は「概念」とひとしく「現実についてのq6) 一般化された反映」の所産であり,両者ほただ吟味の行われる局面の相違に従っ
て異なった取り扱いを受けるに過ぎない。差し当たって「意味」の側からのみ 見れば,かかる「反映」の所産たる「概念」が,人間コミュニケーショソとい う見地から吟味される場合に,特に「意味」と称されるのである。−なお因 みに,やや脇道にそれるが,シヤフにおける言語意味の第一規定に関連してひ とつのことに触れておきたい。それは,W.アイヒホルンが,かかる意味におけ る「意味」把捉,すなわち「意味」の本質を記号場(Zeichensituation)にお ける人間的な理解過程において生ずるところの社会関係として捉える観点を, (17) モラールの本質機能の一側面の分析に適用しているという点である。このこと は裏から言えば,ひとつの社会過程であるところの理解過程という視点から捉 えられた「意味」は何程かモラーリッシュな性格を含蓄するということを意味 しよう(この点は次に見る尾関氏の見解とも関連している)。そしてこの点は, やがて学問のヒューマニゼイショソの一面を客観的認識のモラーリッシュな性 格化として捉える私見と結びつくので,ここでひとつの伏線として念頭に置い ておいていただきたい。 ところで尾関周二氏ほ叙上の如きアダム・シヤフの見解の得失を次のように (】㊥ 分析・批判している。すなわち,第一に,シヤフの「意味=概念」説は,「意味」村 瀬 裕 也 108
の普遍的・一般的性格に着目する限り,「意味=指示対象」説,「意味=心象」
説,「意味=行動」説,「意味=用法」説などの諸説に比して頗る有力であるが,
その反面,語の「意味」の本質的成分たる「価値的アクセント」や「生活関心」
による規定が顧慮されていない限り,完全に同意し得る説とはいえない。第二
に,いわゆる「意味=相互人間関係」説ほ,コミュニケーショソの観点の強調
から当然導かれる見解であるが,コミュニケーショソの過程における「仲介者
としての機能を記号に演じさせる或るもの」という定義ほいまひとつ明確さを欠いている。第三に,シヤフにあってほ,「意味=概念」説と「意味=相互人間
関係」説との間に連絡がなく,両説がいわば並列状態で放置されたままになっ
ている。言語の「意味」を明らかにするためには,反映の観点とコミュニケー
ショソの観点との統合的なアプローチが必要だったのではないか,と。−で
はこのような批判を前提として,尾関氏自身はいかなる見解を提起されている
のか。次にそれを見よう。 尾関氏は先ずシヤフによって並列的に提示された反映論の観点とコミュニ ケーショイの観点とを統合し得る地点を言語に関する発生論的論議に求められる。そこでは,言語の発生の原点が,対象に向かう「指示の身振り」と社会的
交渉活動における「相互的身振り」という二種類の原初的な記号活動の融合にあることが確認された。このことが示唆するように,「意味」の発生もまた,前
者と結合した「認識的な反映活動」と後者と結合した「相互の心的状態の規範的な制御された表出活動」とが融合したところにあると考えられる。この観点
からすれば,語の「意味」は,「概念」的(認識的・対象反映的)側面と,「人
間関係」的(価値評価的・感情表出的)側面とを,ともに本質的成分としてひ
としく含蓄することになる。かくて尾関氏ほ,この両契機の統合において成立
する「意味」概念として,「意味=一般表象」説と称される新たな見解を提起さ
れる(なお私自身ほ,尾関氏の如く「意味」を「一般表象」として捉えると,
「意味=概念」説のもつ一面の積極性が却って希薄化するのではないかという危倶を抱くが,他の目的を追って尾関氏の所説を紹介しているこの場面で,その点
に触れることは差し控えたい)。ここでいわゆる「意味」=「一般表象」の「一
般性」−「一般性」はまさに言語の核心である一に着目すれば,そこには次
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ヒューマニゼイショニ/の学問性 109 の二重の「一般性」,すなわち認識的な意味での「一般性」と,社会的な意味で の「一般性」一ある集団・民族・社会等々に共有され,遍在する表象という 意味での,社会的・共同的性格を伴った「一般性」−が内属している。以上 の如く考えると,「意味=概念」説では排除されていた面,すなわち語の「意味」 における「価値的アクセント」も,また「言語的意味」と「非言語的意味」と の接点も正当かつ明瞭に把握されることになろう。 以上の前提のもとに,尾関氏ほさらに言語における反映的側面とコミュニ ケーション的側面との各々に考察を加えているので,今暫く氏の所説の結介を 続けよう。①言語の反映性について。ここでは言語意味における対象の反映が そこにおいて成り立つところの記号相互のシステム構造など,言語理論上から 見れば重要な論点については,紙幅の都合上省略することとし,本稿の主題と 係わりの輝い次の二点のみを取り上げておきたい。第一ほ,言語意味の対象反 映性は「指示性」の契機を伴っているということである。そのことは,かかる 反映性それ自体が意識次元における実践的な対象志向性と関連していることを 示すとともに,「指示」がある対象の他者への指示であることを考慮すれば,そ こにすでに社会性が含まれていることを意味している。第二は,別種の言語に おける対象のクラス分けの相違が示すように,言語における対象反映性は「生 活上の関心」によって深く規定されているということである。このことは,こ のような関心を可能な限り捨象し,実在の構造をそれ自体において反映すると ころに成立する「科学的概念」と,通常の言語における「意味」との相違を明 確にする上でも重要な指標である。この点はまた生活革新を課題とする運動の なかでは無視できない意義をもっている。(診言語コミュニケーショソについて。 尾関氏はこの問題を意味論の領域を越えて,労働とともに人間の人間化に係わ る人間活動の本質契機として論じてぃる。すなわち労働が自然と人間との関係 のレベルにおける自己の対象化=自己確証であるのに対し,言語コミュニケー ショこ/は人間と人間との関係のレベルにおける,前者とほ異なる性格における 自己確証,つまり「共同化」の実現という方面における自己確証である。もと より労働も「共同化の論理」を含み,言語コミュニケーショこ/も「対象化の論 理」を含んでいるが,しかし我々は両者を単純に同一平面に融解させるのでほ
村 瀬 裕 也 110 なく,それぞれの独自性を踏まえた上で相互の不可分の連関を捉えることが必 要である。かくて「本源的には,労働は『共同化』をともなう『対象化活動』 であり,他方,言語コミュニケーショソは『対象化』をともなう『共同化活動』 (19) である。」 −さてここまで到達すると,私がこれまでアダム・シヤフから尾関氏に至 る系譜の言語意味論及びその延長線上にある言語コミュニケーション論を煩を 厭わず追跡してきた理由はもはや明白であろう。これらの言語論者の「意味」 の考察から,「非言語的意味」の領域に連携する示唆的な内容が導かれているか らにはかならない。そこで今や上釆の確認事項を携えて我々の本来の領分であ る「非言語的意味」の土俵に上がることにしよう。対象反映性に立脚した「意 味=概念」説を不自然なく印象づける「言語的意味」の領域においてさえ,実 践的な対象志向性や生活関心が本質的成分として含蓄されていたし,またかか る「意味」を担った言語コミュニケーションに至っては,労働と相侯って人間 の自己確証=自己産出,より本源的にいえば,人間の人間化に係わる人間活動 の本質契機であった。とすれば,「言語的意味」よりも一層価値的側面に債斜し た「非言語的意味」,殊にここで求められる人間解釈上の統合概念としての「意 味」には,こうした人間の主体的性格が造かに強く反映されていなければなら ないであろう。ここから次のことが帰結される。すなわち非言語的な「意味」 は,「価値」の語との単純な置きかえによって解釈されるだけでなく,むしろ人 間的な「価値」の実現に向けての課題性との関連において解釈されなければな らぬ。従って差し当たっての定義としては次のように言うことができよう,す なわち人間存在の「意味」とは,その現実性が人間の叶−一人類史的にして同時 に個人史的な十騨備動の鱒果であるとともに,またそれ自体が自己の実存契機 としての課題性であり続けるところの,人格的並びに共同的な人間の「本質」 の価値である,と。ここで敢えて「本質」と言ったのは,「意味」を人間の所与 佃 的な「本性」に結びつけるある種の見解に対置したものである。もし「意味」 が「本性」に結びつけられるとすれは,例えいかにそれの成長・創造・表現が 語られようと,それらはかかる本来的なものの延長線上においてしか解されな いであろう。そしてもし「意味」が「所与」だと言われれば,「意味」への問い
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ヒューマニゼイショソの学問性 111 はそこで中断するはかなく,高々それの次元または側面について語る以外に余 地はないであろう。さらにその淵源を問われれば,これを何等かのイデア的・ 超越的「価値」体に求めるしか術はないであろう。笹本氏がフェニックスを評 して「彼の人間性はタテの人間性(神にむかう)を強調して,ヨコの人間性(人 間にむかう)を忘却しているのでほないか」と言われたのは,フェニックスの 見解におけるかかる一面−もっとも彼ほ全体としてほ単純な「本来」主義者 ではないが−を念頭に置いてのことと思われる。この種の見解に対して,我々 は「意味」を人間の所与的な「本性」にではなく,その生活過程において不断 に自己を実現してゆく現実存在としての人間の真理,いわばかかるものとして の人間の「本質」に関連させているのである。人間の価値本質一人間におけ る人間性−は決してアプリオリな「本性」ではなく,彼自身の個人的並びに 共同的な人間化活動の成果であるとともに,その自覚的な実存契機として常に 企投的な課題であり続ける。人間の生活は,その対象化及び共同化における自 己確証=自己内獲得を通して自己を人間として産出しゆくたゆみなき行程であ る。かく人間的本質を特徴づける全生活価値が「意味」の内実であり,その諸 成果(対象化における作品ばかりでなく,自己及び共同体における人間的価値 そのもの)−その豊鏡と尊厳一の享受と,新たな価値実現に向けての刻々 の自覚的努力が「意味」の体験にほかならない。 以上の如くであるとすれは,学問のヒューマニゼイショソとは,かかる「意 味」との関係づ桝こよる諸知識の統括と再編の営為であり,そこに問われる学 問性とは,かかる「意味」の地平における特別に意識的・方法的な作品化の性 格であるといってよいであろう。 Ⅴ 学問のヒューマニゼイションーそれは現代におけるある種の「無意味性」 の傾向との対決において営まれる。フェニックスにおける一般教育哲学の主題 のひとつもここにあった。すなわち彼ほ現代人における生活と学問の断片化と 無意味化,そのもとでの一層の専門性への逃避という状況からの「意味回復」 を「意味の領域」としての一般教育に求めているのである。現象学派のS.シュ
村 瀬 裕 也 112 トラッサーもまた,やや異なった角度から,「細部の研究に,つまり小さな事実 や注意を引く事柄の収集と整理に」自己を限定する専門家り「実証的」憤向に おける「完全な無意味さという危険」を指摘した上で,ここからの脱出の方途 倒) をやほり「意味」一彼にあっては「存在の存在」−の洞察に見出している。 ところで彼等のいう「無意味性」「無意味化」は上乗の我々の視点からすればい かに把握し直されるであろうか。すでに人間存在の「意味」を人間の人間化活 動における自己産出性に見出したからには,「無意味性」の内実もまたかかる自 己産出性の顛落を表現する周知の概念,すなわち「疎外」の概念を以て捉える ことができよう。 では我々の主題に関連する学問の「疎外」とほいかなる状態を指しているの 暫くこの状態を深刻に劇決したr.C.ヴァチシチェフの論述に耳を傾けよ 彼によれば,一般に専門分化の結果とされる断片化や無意味化などの科学 0 0 \ 小﹂ カけ芸ノ における「職業的クレソチ病」は,決して抽象的な「専門化一般」という点に 成立するのではなく,むしろ社会的労働分割一単に生産的・技術的諸機能間 の区別でなく,人間的労働とし七の人間的労働自体の社会的本質における分裂 −という現実に依存して成立する。つまりここでの疎外は「労働分割体系の それぞれの環が,全体的活動であることを止めるにつれて,ここでもまた自立 的意味と内容性とを失っていく」という点に成立するのである。ここで科学者 の「活動」ほ幅の狭い職人(プロフェショナル)のそれと変わりないものとな り,そこに残されるのはもほや専門家(スペシャリスト)としての彼には係わ りのない「指示器」か「退化器官」に過ぎない。とすれば,科学活動の「分解 機能」は,かかる活動それ自体のうちにでほなく,却ってそれの外叫社会的 労働分割の体系一山■に必然性をもつといえよう。科学の外部におけるかかる「外 的な合目的性」(K.Marx)が却って「科学作業」を外から規制し統制するので ある。ところで狭い専門諸領域における「科学作業」としてのそれぞれの環は, 「科学作業」自体の外部における一体系の個々の環として相互に関係しあって いる。ここにおいてほひとつの環における成果は他の環によって専ら「利用」 されるに過ぎない。すなわちそれはそれを生みだした人間の対象化活動の如何 に係わりなく,かかる活動自体がすでに「化石」と化し終えたところの,ただ
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ヒューマニゼイショソの学問性 113 「便利な」性質のみをもつ「功利事物」として取り扱われる。ところで他の環 における成果を専ら「利用対象」として取り扱う人々は,かかる「事物」以下 にたつ人々である。彼等にあっては,対象化された結果(文イヒ)をそれの「対 象性剥離(Vergegenstandlichung)=我物とする獲得」を通して観念的に再生
産し,主体の創造的能動性の形式−
それ自体,新たに展開される活動の形式 一に移すことは,まったく不必要な,余計な賛沢と見なされる。このことほ 知識の適用結果たる他の諸産物ばかりでなく,知識それ自体にも当候まる。こ こでは知識ほすでに「生産を完了した」事物たる「既製品知識」として現れる。 かかる知識の既成性は「まさしくその後の知識の利用可能性(功利可能性.′) によって規定される。」このような関係のなかで,利用に供される当の知識その ものにもひとつの特徴的な疎外と崎型化が生じる。すなわち知識は,それを創 造した生きた思考=認識過程をそのなかに喪失した,無性格的・標準的な,殆 ど審美的枚能を欠如した「科学情報」に還元され,さらにはかかる「情報」の 担い手たる「言語物質」それ自体の固有の性質であるかのように表象される(言 語の「物神崇拝」)。知識や研究における「簡易さ」や「経済性」の真の秘密は ここにある。このような事情のもとで,知識の習得ほ転倒した「物象形態」に おける情報を手際よく寄せ集め利用する形式的技法に堕し,また教育はかかる 「既製品知識」のやみくもな棒暗記の強制というひとつのことしか意味しなく なる。− ヴァシチシェフによって以上の如く描撞された学問上の疎外は,その基盤に ある社会的労働分割一乃至ほそれによる人間的労働そのものの社会的本質に おける分裂−の止揚という歴史的展望との関連においてのみ,克服の展望を 見出すことができよう。しかしそのことは,かかる疎外の克服を,私的所有の もとでの人間の分裂が最終的に止揚される時点一人類の本史が開始される時 点−まで待たなければならぬことを意味するのでは勿論ない。疎外の克服は, かかる未来への展望に立ちつつ,しかもそれに向かう途路の刻々にかけがえの ない諸価値を実現してゆく歴史形成的行為に企投する人間主体において−諸 主体の個人的内実においても,また諸主体の参加する運動体の共同化において もー,いわば歴史的に先取りされるのでなければならぬ。ところで,ヴァシ114 村 瀬 裕 也 チシェフにノよって描墟・劇挟されたのは,差し当たってほ専門諸科学における 疎外と,それの克服の方向性への示唆であった。すなわち,科学における疎外 が次の点, つまり社会的学働分割に基づく科学外的な「体系」の強制のもとで, ある領域における対象化活動の結果が,その活動をそのなかに喪失せるよそよ そしい対象性の形式においてのみ,従って他者にとってほ「簡易な」利用対象 たる無味乾燥な科学情報としてのみ現れるという点にあるとすれば,かかる疎 外の克服の先取りほ,科学活動の内部においては,対象化と対象性剥離とを一 連の過程とする科学の自立的意味と内容性とを回復すること,また科学活動の 外部に対しては,社会的労働分割に抵抗して他のあらゆる人間活動と連携する 科学者共同体を樹立することにのみ求められよう′。ここにある基本的論理は, ひとしく「学問」に係わっている我々の課題にもそのまま引き継がれるであろ う。だが我々の課題は専門諸科学における「学問性」ではなく,すべての人間 の「教養」に廃する,それ故また人瑛の共通課題に意識的に関与する「学問性」 の確立であった。ここでほ専門諸科学における疎外克服の論理に加えて,なお
それ以上の或るものが考案されなければならぬ。この或るものとは何か−
そ の具体的内容に接近するのが本稿の最後の楽章である。 ⅤⅠ そのなかで学問・知識がヒューマナイズされ 新たな「学問」に形成・洗練 される機構として,ここにひとつのモデルを仮定しよう。それはひとつのシス テムとして構想される。システムというからには,上位の制御系とそれ以下の サブ・システムを以て構成されなければならぬ。このシステムの最下層乃至基 層をなすサブ・システムはフェニックスのいわゆる「学究的学問」すなわち専 門的諸学及びその諸成果である。学問的知識の本質が一般教養の観念と矛盾す るものでほなく,また最先端の学術研究の諸成果を軽視したのでほいかなる教 養も成立し得ないことほ,フェニックスの指摘を僕つまでもない(専門学術へ の蔑視と引き換えに強調された「一般教育」重視の最も崎型的にして非教養的 な産物は,かのA・ヒットラーまたはナチス・ファシズムの「一般教育論」であ α3) る)。なおここでは専門的諸学を以て代表的名称としておいたが,芸術・スポーOLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
ヒューマニゼイショソの学問性 115 ツなどの分野も,単にそれらを対象とする学術研究ばかりでなく,それ自体の 探究・創造活動の場合でも特に専門的な活動の範囲内にある限り,この基層の サブ・システムに属するものと見なされる。ただし芸術及び芸術性を重要側面 とするスポーツの場合,その最高の達成たる最終成果の意義が一般の人々の鑑 賞に供されるところにあるばかりでなく,かかる創造そのものが鑑賞を媒介と して成立することは,この際特に強調しておく必要がある。「鑑賞者の鑑賞活動 は,芸術内容の創造に一役かっているわけで,これがなければ芸術内容ほ完成 しない」という永井潔氏の指摘は,人間生活の教養的設計を考える上で極めて
倒) 重要である。つまり芸術及び芸術的分野における専門的活動ほ,それの完成さ
れる最も光栄ある局面を却ってまさに人間的教養の領野にもっているのであ る。 このシステムの上位層,すなわち制御サブ・システムほ,「意味」と「批判」 を本質契機とする自律的な機構である。それほ「最高善」としての「人間とそ ㈹ の生の尊厳」(岩崎允胤氏)という,このシステムではただひとつ絶対不可侵の 価値理念=究極意味を指標として,自己の内部に人間的な「意味」の脈絡を形 成しつつ,それとの関係づけによって基層のサブ・システムに「批判的に」介 入し,これをヒューマナイズするとともに,かくヒューマナイズされた諸分野 の内容をそのなかで相互に翻訳し−この「翻訳」自体ひとつのヒューマニゼ イショソといえよう一交流する機能を営む。 ここで特に「批判」及び「意味」というこの機構の二つの本質契機を明確に しておく必要があると思われる。先ず「批判」について。この点に敢えて注釈 を加える必要を感じたのほ,一部の論者に「批判」または「批判的精神」を忌 避する傾向が見られるからである。「批判的精神」を「意味」の主要な敵のひと ㈹ つと見なすフェニックスもまたそうした論者のひとりである。しかし彼はとも かくも「批判的精神」が「逆説的に,意味を成長させる主要な機会を与える」 ことを認めているが,アカデミズムの権威を楯として「反批判的精神の学的勧 告」を唱える今道友信氏に至ってほ,学問や芸術の価値を理解しない通俗的批 評に対してだけでなく,理性とヒューマニズムに立った良識ある批評に対して 酎 さえ口封じを迫る脅迫的な響きを帯びてくる。付慶するに,彼等−ことに今116 村 瀬 裕 也 道民−の「批判」忌避は,一部に存在する「価値への憧憤」を欠落した無定 見な通俗批評への反駁を装って,「批判」またほ「批判的精神」一般を排拒しよ うとする意図から生じたものであろう。私見によれば,今日余りにも多く世上 に氾濫している通俗批評の類ほ別として,本来正常な意味における「批判」と は,単なる傍観者の立場から相手の欠点を一方的に攻撃することでほなく,例 えば原稿の下書きへの批判的点検がそれの推敲と結びついているように,現実 を改良したり変革したりする能動的・主体的・実践的な立場に端を結んでいる のである。特に学問や芸術やスポーツなどの文化領域において,正常な「批判」 は,「多くの価値あるもの」を「侮辱」する(今道民)どころか,却ってこれら のものを救出し擁護する上で不可欠の働きである。例えば人間活動の意味を喪 失した「科学情報」とそれの兇悪な「利用」−核兵器の製造など−という 局面において科学(学問)そのものへのニヒリズムが発生する場合,この連鎖 のなかにある「科学」の鞍倒と疎外の本質を批判的に暴くのでなければ,本来 の人間活動としての科学の「価値」−その自立的意味と内容性−をこの状 況から救いだすことは不可能であろう。また例えばナチスにおける,知性・理 性・「上品な礼儀作法」への憎悪と結びついたスポーツ讃美と政治演説でのス (細 ボーッ用語の多用が,スポーツそれ自体の本性に由来するのでなく,却ってそ れの斯倒と疎外に密着していることを批判的に洞察する能力がなければ,人間 の自己実現におけるスポーツの「価値」を評価し,それを人間の文化的生活設 計に正当に位置づける能力を欠くことになろう。さらに例えば,藤田嗣治の戦 争絵画やナチスの「ゲルマン的」ヌード絵画の「曹軋への批判的な洞察力が, 村上華岳や佐伯祐三,ピカソやシャガールの「美」に感興する内的精神力と不 可分の関係にあることは,まともな常識を具えた老ならば誰しも疑わないであ ろう。−さて我々が問題にしているのは,基層に対する上位層の間接的媒介 関係のもとでのヒューマニゼイショソ及びそれによる新たな学的世界の構築で ある。この間接的関係において,後者に対する前者の批判的関与に特別の重要 意義が帰されることはいうまでもなかろう。 次に「意味」について。「意味」一般の意味についてほすでに詳述したところ であるが,ここで問題となるのほ,基層に対して批判的に関与する際の上位層
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ヒューマニゼイションの学問性 117 における「意味」の脈絡の形成についてである。この点に関して有益な示唆を あたえるのは,事態の客観的意味の把握に関連して語られたK.コシークの次の 指摘である。「(事態の客観的意味の)把握と暴露というこの過程は,同時に, それの助けで事態の意味がとらえられるようになるところの,人間の側での適 切な『意味』の形成である。事態の客観的意味は,人間がそのつど適切な意味 ㈹ を形成する場合にのみ把握されうる。」ここでコシークが語っているのは「認識」 一般における主観的意味と客観的意味との関連であるから,ヒューマニゼイ ショソという問題領域にそのまま適用されるものでは勿論ないが,しかし対象 的意味の開明にあたっては,作用主体の側に独自に「意味」が形成されていな ければならぬという論理自体は,我々の領域にも充分妥当性をもつであろう。 ここでは基層それ自身が,すでに主観的意味との作用関係を通して,客観的意 味として把提された諸成果である。しかしヒューマニゼイションの主体たる上 位機構との関係でいえば,それは再びそこから新たなイ意味」が易り挟され再組 織されるべき対象界に過ぎない。上位機構においては,かかる対象界との関係 において作用するに相応しく独自に「意味」の脈絡が形成されなければならぬ。 それほすでに指摘した通り,「人間とその生の尊厳」という唯一の価値理念を枢 軸とし,人間の「価値実現」という課題性それ自体を主題とした「意味」の組 織体系である。 以上二つの層,すなわち上位層と基層との中間のサブ・システムとして, ヒューマナイズされた作品世界たる新たな学問世界が形成される。それは,一 言以て蔽えば,上位機構の媒介を通して人間的意味と関係づけられた諸学の内 容の再編成,その意味における新たな「意味連関」の世界であるといえよう。 次にかくて実現されるべき学問世界における「学問性」の諸特徴を見ていこ う。 * * * * * 〔1〕歴史化 物理学者P.ランジュヴァソは,一般教養に寄与する科学教育の形態として, 伽) 過去の努力の歴史に代わり得るものはない,と言っている。すなわち彼によれ ば,科学教育はこのような方法によってのみ,科学研究の実利的側面はかりで
村 瀬 裕 也 118 なく,そこに含まれる大きな人間的価値についての意識を人々に与えることが できる。なお彼は物理学者の桐眼を以て,一般の教科書や参考書類の記述でほ, 科学の創造者による極めて深遠かつ今日性ある一恐らく結果としての知識が 過去のものとなってもそれ自体は今日性を失わないであろうー,それ故にま た最も面白い考察が入念に濾過・省略されていることを指摘し,科学の教養化 に当たってはかかる生きた局面との頻繁の接触が必要であることを強調してい る。 科学教育についてのランジュヴァンのこの指摘ほ,ヒューマニゼイショソの 一面の性格を捉える上でも極めて示唆的である。すなわちここで「学問性」を 問われる第一の課題は,単なる「科学情報」に還元された「既成品知識」とそ れの簡易な「利用」−場合によってほ本来の人間活動としての科学そのもの とは無縁の兇悪な「利用」一,あるいは修得または教育の場面でほ,かかる 「既製品知識」の手際よい蒐集またはやみくもな棒暗記,といった疎外状況の 実態を暴露し,それとの峻厳な対時において,これを対象化一対象性剥離とい う,人間活動である限りにおける人間活動としての本来の思考=認識過程にお いて把握しなおすこと,しかもそれを人類共通の基盤たる「意味」の土俵にお いて意味確認的に把握しなおすことにあった。かかる要語に応える端的な作品 化の仕方が,諸学をその歴史的な創造過程及びそれの人類の文明全体への歴史 的な影響過程一単にそれの実利的な利用による影響だけでなく,「精神の解放 と人権の肯定において科学が演じた役割」(ランジュヴァン)の如き内面的影響 も含めて丁における把撞と記述に求められることは容易に察知されよう。な おここで,ヒューマニゼイションにおける諸学の歴史化が,それについての歴 史学的研究,特にそこにおいて発生しがちないわゆる「実証主義的」傾向と区 別されなければならぬことを敢えて断っておかなければならぬ。ここで要求さ れているのは,諸学の歴史的創造過程の曲折に対する,人間の価値実現という 指標からの批判的・意味確認的な吟味とその結果のこの地平における理論化で ある。その意味において,それは諸学における人間活動そのものを対象の位置 に据えた一種のメタ科学であるといえよう。 かかる歴史化の所産として我々はすでに幾つかの模範をもっている。自然科
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ヒューマニゼイショソの学問性 119 学から社会科学に至る諸科学の発展を社会の発展との関連において捉えたバ ナール(J.D.Bernal)の壮大な著述『歴史における科学』,物理学の発展を内 在的に追跡しつつその性格を究明した朝永振一郎氏の『物理学とは何だろう か』,著者自身の科学論及び科学史研究の総括に立って,特に発見過程と社会的 背景の闇明に力点を置いた原光雄氏の『化学入門』などほ,その極めて卓越し た実例であろう。なお原氏の著作ほ次の「方法の鮮明化」という観点からして も注目に催する労作である。歴史化の視点から見た社会科学の分野での労作と しては,何を舎いても初期マルクス(K.Marx)の『経済学・哲学草稿』『ミル 評注』及び成熟期マルクスの『剰余価値学説史』に指を屈しよう。これらの著 作においてほ,それ以前の研究における対象化の成果の対象性剥離,及びそれ を通じての,新たな,そしてなおそれ以上に展開される創造的能動性の形式へ の移行が,客観的対象認識と伴せて浮彫りにされている。さらに他の分野に限 を向けると,ピアジェ(J.Piaget)の大著『発生的認識論序説』ほ,著者自身 の主観においては「発生的認識論」という新たな専門的研究分野の開拓・樹立 を目指したものであろうが,我々の当面の観点からしても,科学史の発展に即 しながら,そこにおける認識主観の構造の発展を「自己中心性」からの「脱中 心化」の諸段階という雄大な構想のもとに把握した点において,ヒューマニゼ イショソにおけるメタ理論的側面の最大の発揮と見なすことができよう。 〔2〕方法の鮮明化 学問のヒューマナイズィソグに当たって,研究の方法的側面に焦点を合わせ ることが極めて重要な意義をもつことは,つとにフェニックスによって明快に 指摘された通りである。すなわち,一学問における統合的要素たる方法を浮彫 りにし,それを機軸として徹底的に簡素化された知誠を編成すれば,断片化さ れた過剰な知識の棒暗記を強いることなく,しかもその学問の重要な内容・基 本的な結構・生きた諸過程についての確実な知見を与えることができる。この 点を具体的な作品化に活かした好例として,前記の原光雄著『化学入門』を挙 げることができよう。原氏はこの著作において,材料を十八世紀末から十九世 紀前半にかけての草創期の事例に限りながら,その展開を「化学の方法」とい う標題のもとに追跡している。ここでは化学の知識内容としては極く初歩的な