談話室-香川大学学術情報リポジトリ

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57 談 話 室 「談話室」の開設に.当って 編 集 委 員 会 「−・般教育研究」は,算四弓を数えるまでになりました。「−・般教育研究」には,ご承 知の通り,一・般教育部内ほもちろん,部外の方からのご投稿をいただいて,毎号,労作が 掲載されております。そして香川大学内外にその反響も聞かれるまで紅なりました。ひと えに教官各位のご協力とど支援の賜物であります。これら好意あふれるご意見,ご批判を 敏速にご紆介し,また気軽で短かい論説風の文章を,多数掲載することができるよう,新 たに「談話室」という欄を設けることにいたしました。「−・般教育研究」がそういう場を 求めるまでに・発展しましたことほ,まことによろこばしいことであります。 「談詔竃」ほ一・般教育ないし−・般教育部紅関わりのあるど意見なら自由に発表していた だけます。原稿の長さほ,気楽紅各自の問題意識を発表できる場という趣旨から,原稿用 紙数枚程度とします。なお,原稿は氏名を明記することをたてまえとしますが,論争的な 問題提起も活発紀行えるよう,ぺンネームでもさしつかえありません。 以上のような趣旨と目的をご了解いただき,教官各位の一層広範など協九 ご支援をお 願いいたします。 「一般教育研究」誌合評会雑記 山 田 勇 (1) あるが,実際に原稿を戴いてみた限りでは 原稿依頼の段階で斯様な本誌の方針が抄覇 者に充分徹底していないと思われるケース も,間々散見された。本誌は他大学紅も余 り類例をみないものである為,各弓が試行 錯誤の連続であり,そのことが又,−・般教 育活動紅課せられた使命の重さを痛感され る所以ともなっている。しかし号を窪ねる 「−・般教育研究」詰も箆4弓が出される 運びとなったが,過去二年に.渡って編集活 動に.携わってきた一層として,先ずこのこ とを率直紅喜びたい。本誌「−・般教育研究」 はその編集要項にある通り §−・般教育に関 する諸問題を論じ, 本学に於ける−・般教 育のあり方,あるいは教育内容,方法等の 改善に資することを目的と、しているので

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山 田 勇 (4) ラリアーツ系学部とが〟 どの様に密接かつ 有機的な関係を保っていかねばならないか を明確に.指摘したものであぅた。更匿一般 教育の抱える問題点の他の側面に.ついてみ (さ)(8) れば,山内教官の場合共同研究科目に.就い て,第三号ではその絵描が示されている。 −・般教育という制度がけっして固定した制 度でない以上,こうした新しい試みは腔目 に催し,我々の耳目を集めるところである が,それなりに.運営面での困難を克服して 行くプロセスこそ緊要であると思われる。 会場ではこ.の点について質疑と意見の交 換が活発になされたことを付記しでおきた い。尚斯様な論議こそ今後の一・般教育活動 発展のエネルギ−となりうることを司会者 として実感出来たことも牽いなことであっ た。 大学における美術教育のあり方に就いて

(7) 述べられた神田教官,或いは.明治40年代の

(8) 石川啄木についての桂教官の報告は,夫々,

専門の立場から,専門と−・般教育の関連の あり方を提示したものと云ってよい。 司会者としては,先にも述べた如く,各 方面の潤沢な知識を必要とする諸論文を読 みこなすだけで相当労力を要したが,関係 各仰の御協力を得て,曲がりなりにもつつ がなく合評会を運営出来たことに安堵の感 を覚える次第である。 末筆ながら運営の任匿当たる者として, 合評会に報告を依頼し,諸般の事情匿より 58 に従って,こういった懸念が払拭されつつ あることは一応の評価にイ直するものと思わ れる。 私は研究室委員として,原稿の依鹿と共 紅,本誌の発行直後に,本誌に.投げかけら れた−・般教育の理念とその実情とのギャッ プ紅関する問題点をより深められた形で認 識するため,−・般教育研究会活動の一・環と して設けられた本誌合評会の司会とVくぅ役 を勤めることになった。合評会は過去三回 いずれも本誌発行を機会に.行なわれてきた が,私は第二号及び第三号紅ついて司会の 機会を与えられた。投稿される原稿の内容 は非常に.多岐に渡っていたので,上記各号 を通読するだけでも可成努力が必要であっ たが,それに・も増して投稿教官各他が,何 らかの意味で御自分の研究分野を踏まえた 上での−・般教育へのなみなみならぬ配慮と 洞察を看取出来たことは大変意義深いこと であった。 合評会で取り上げられた諸論文のうち, 広く大学紅於ける教育方法の改善をテ−マ ) にされた宇神教官の場ヵラ_VTRを 活用されての説明がなされたが,改めて深 刻なマスプロ教育の実体をまのあたりにし て,語学教師としてほ,この実情紅憂慮せ ざる∴を得なかった。・−・般教育,特に我々が 担わされている意味での一・般教育を巡る茸 (3) 任体制の問題を論述された掘地教官の論文 は㍉一−・般教育担当部局と′各学部とくにリペ

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談 御報告戴けなかった方々に,この紙面なお 借りして一言陳謝の意を表する次第であ る。 闘(1)「一般教育研究」の発行に関する 要項2,目的 一般教育研究 第二 号1972年4月 (2)芋川勝美 大学の大衆化と教育方 法の改革 −・般教育研究 舞二号 1972年4月 (3)掘地武 後期一般教育科目につい て−くさび盈カリキュラムおよび一 般教育受任体制との関連− 一般教 育研究 館三号1973年1ノ臥 室 59 (4)上掲事P.59 (5)山内盃幸 46年皮共同研究科目「現 代思想と学生」についての総括 − 般教育研究 第三号1973年1月 (6)山内論文は創刊号よりの掲載である。 山内重幸 運動としての一般教育 の基本点をどう抑えるか。一附「共 同研究科目」中間総括− 一般教育 研究 創刊号1971年10月 (7)神田馳 大学の美術教育−・般教薯研 究 錯二号1972年4月 (8)桂孝二 明治44年1月の石川啄木 一 般教育研究 雄二号1972年4月 「共同研究科日」紅∴ついて 瀧 川 一 幸 々な協力をして下さっている山内先生の 『46年度共同研究科日「現代思想と学生」 喧ついての総括』と云う論文に対する討論 があり,私もいくらかそれについて発言を したのでそれ紅ついて少し述べでみたい。 46年度より,一・般教育の中で,共同研究 科目,総合科臥 プロゼミと去った従来な い全く新しい形態を持つ科目がかなりの数 で開講された。そしてこれらの科目の開講 の理由は,主として学生の従来の<講義形 式>の科目紅対する不満に戯を発していた 事は周知の事である。 一・般教育研究に談話室と云う欄ができる そうである。その欄の寄稿文を研究室委員 の人から依赦された。思うに,私は強いて 何か云ってこみたい事を持っでいる駅でほな い。それでその人にその旨を云ったのであ るが,第三号の研究討論会に於ける発言で も良いから是非にとの事でこの文を番く次 第である。 二月二十三日箆五回−・般教育研究会が開 かれたが,その時のテ㌧−・マは雄三竜一丁般教 育研究についての論議が主で寄稿者を中心 に討論があった。その中でいつも熱心に棟

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滝 川 −・ 事 て? 少し話が飛躍してきたようであるが,こ の間ほ一般教育に携わるすべての人がたえ ず自分の胸中に秘して自問自答すべき問で あろう。そして,現在,外面的,形式的な 一・般教育の運営面などが問題となる長たら しい会議(それも必要ではあろうが)ばか りでなく,実質的な−・般教育の内容を検討 する機会,例えば一・般教育研究会,のよう な研究が盛になるように.ならねばならない のだろう。 このような私の考え方から云ってニ,共同 研究科目担当の教官諸氏に対して,まず述 べたいのは,山内教官の二つの論文に.も所 々で述べられているように,負担ある授業 をひき受けておられる熱意に対して敬意を 表したいと云う事である。学生との共同研 究と云えば,指導の困難さ,運営の雑多な 負担は大きいであろう。しかも現代的な状 況の中では,問題多い多様複雑な社会機構 に対応して学生の多様な欲求と考え方が在 ると考えられるが,そうした意識内容と程 度・考え方の違いを克服して学生達の討論 を指導する紅は,広い視野,柔軟な思考等 の他に自分の明確な考え等も必要であろう と思われるのでその昔労がしのばれるので ある。(現代でほ個人の人間性の上紅立っ た人格形成ほ非常に困難に.なっている挙 が,一・般教育の最大の問題であると思う。) さて,私が研究会に於いて発言した点 60 即ち,教官が一方的に多人数の学生把向 って講義し,学生と教官間に何ら議論もな い授業形態紅対する学生側の不満に答えよ うとして開講されたのである。その廃園は 多々あったし,一言で云えぬものであろう が,(またそうした不満は現在に於いて鮒肖 されたとはかならずしも云いえないであろ うが),学生側からのく多人数授業>,・く高 校とたいして変らぬ授業のくり返し>等の 声にあったように,授業に魅力を持てない 点にトあったと思う。また教官側から云えば, 学生の真理探求への熱意ある自主自学の学 習態度の欠除の点にあったと思われる。そ の姑果として,講義ほただ聞くだけ紅終 り,知識や視野を拡大する努力は無くなり 当然,各学生個々の物の見方,考え方が育 たず,何の批判も創造もなく,高校時代の 受験戦争で培われた暗記軋似たような勉学 となり易い状況があったと推測される。一 般教育の主眼が,教卓(Bildung・鵬一人間 形成)にあるとするなら,そのような場で は人間形成は不可能事であり,−・般教育の 安務は形式的には果されているように見え ようが,全く実質的に.は果されていないの ではないかと云うー叔教育の一層の危機的 状況がこれら新しい形式の科目開講の理由 であったと思われる。 現在,それ以来二年余,一般教育はこれ らの烹務をどれだけ果たしつつあるだろう か?それも形式的紅ではなく実質に於い

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談 ほ,共同研究科目の内容の一部分紅対して の小さな疑問点に関してのみである。即ち, 一・般数百研究の論文に於いても散見でき る,ホットな社会問題(例えば沖縄問題・ 中教審答申等)を授業内容の一都漉する点 軋疑問を覚えたのである。 普通,ホットな社会問題紅関して,学生 間,あるいは学生・教官闇把討論ほ寸分あ るし,またあり得る。しかし,そのような 場合,普通はデイ′−チン等の形を取るので ほなかろうか?そして,このような形をと る事ほ.それなりの理由があると考えられる からである。 即ら,通常単位のある科目は学問的なも のである。学問的評価が安定していること が前提とされている。もし,ある考え方が まだ学問的評価が十分でない場合やまた自 分個有の考え方を学生紅対して述べる場合 は,<−】つの考え方としては1>とか, <私の考えでほ…>と云うように明確に− 般的学問的評価を受けている考え方と相異 する旨を学生にことわるのが常識であると 思われる。 ところで,ホットな社会問題を授業内容 とする時,そこに白熱する論議が起ること は十分考えられる。と同時に,それに対す る多様な考え方も述べて来て,恐らくそれ 全体匿対する普遍妥当性(Allgemeing損・ 話 茎 61 tigkeit)に合致した結論ないしは考え方も 出てこない事も十分考えられる。この点が , ホットな社会問題を授光内容とする時の長 所でもあると同時に短所でもある点であ る。現実に起ってこいる事は変化しつつある 軍で未来の確実な結果を見通せない。それ 故,価値形成を亀んずる学問としての評価 ほでてこないと思われる。であるから,普 通は通常の単位のある科目と異ってティL− チイン等の形をとると思われるのである。 恐らくここに朋,学問としての考えの次元 と現実の社会生活の次元と云う次元の相違 の常識が在るのではなかろうか? 先にも述べた事だが,全体的に云って私 は共同研究科目に対して賛成であるのだ が,ホットな社会問題を授業内容とする 時,学問としての意義がどのへんに・あるの か素朴な疑問を感じたので質問したのであ る。もとより,死した軍より生きている事 を愛するのは人間の常ではある故に,ホッ トな社会問題が学生紅生き生きした関心を 呼びさます事。それに人間形成期にある学 生に.とってほ過去よりも現実の社会払こそ 最も熱烈な関心を寄せている事ほ,私ほ理 解しているつもりである。 最後に,私自身共同研究科目に対して十 分の認識がないので誤解があるかもしれな い点をことぁっておきたいと思う

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掘 地 62

一般教育部の研究活動について

掘 地 革 「一般教育研究」が号・を重ねていること は,そのあらわれです・。 ところが,全国紅教養部多しといえども この種の研究報告誌ははとんどみあたりま せん。立命館大学一般教育研究センタL−・発 行の「一般教育研究」を除いてほ,どく少 数の大学の教養部研究報告誌のなかに瀾係 論文が散見される程度です。それはなぜで しようか。本学一般教育部のいき方が間違 っているのでしょうか。それとも諸大学教 養部の考え方なり現状なりが是正改革され るべきものを含んでいるのでしょうか。 また,一般教育部は教育組織だから研究 活動をするのほおかしい、必要ないことだ という儀口′も聞かれます。教育組織という ことば紅かこつけての形式論に.すぎないと 思いますが,「−・般教育研究」の性格,さて は一般教育部に対する認識の定着していな いことが,そのような形式論を許している ものとみてよいでしょう。 それら申開題は,本学が既成の教養部制 にあきたらず,不確定の要素を残しながら も一般教育部制をとったことと深いかかわ りをもっています。−・般教育担当教官を専 任化して教養部を設置すれ峠一般教育の充 実改蕃がなされるであろうという安易な政 策に疑義をいだきつつ−・般教育部を組織し 1 昭和亜年度の−・般教育研究室のしどと の一つとして,「一→般教育部の研究活動紅つ いて」の見解をまと挙ることが提案されて います。その主な項目ほ,次のようなもの です。 (1)−・般教育部はなぜ研究楕動をするの か。 (2)「∵般教育研究」と教官の専門研究 とはとのような関係に.あると考えれば よいのか。 (3)「一姫教育研究.」に・おける主な研究 敏弘 研究課題は何か。 (4)一般教育部は.どのように・研究活動を J進めればよいのか。 いずれ成案をうればしかるづき機関の審 議に付すること紅なりますが,それまでに 各方面の羊想見を承ることができれば率い と存じます。そこで,なぜそのような課題 を設定するのか,そ・こ紅はどのような問題 点があるのか,に.ついて問題提起をしてこお きたいと思います。 2 一般教育部は,発足以来,単に.−・般教 育の教育課嘩や授業運営,あるいは学生の 教育指導を担当するのみならず,一・般教育 紅関する研究を主要な任務と心得てきまし た。部内に−・般教育研究亀を置き,現紅

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談 たことと無関係ではありません。それだけ に,−・般教育部がなぜ研究活動をするのか ほ,現代の大学の,そして一般教育の根源 的・理念的な問題としてとりくむ必要があ るでしょう。 室 63 が,−・般教育部として放っておいてよいも のではありません。このさい可能な限り, とくに基本的な問題について解明しておけ ればというわけです。 4 大学においては,従来,研究といえは 教官個々の専攻と定められた特定領域の研 究をさしできました。そして,教育に.つい てほ教官個々の経験および主観紅もとづく 判断と式任に委ねられてきました。そのた め,一・般教育に限らず,教官自身の担普す る教育紅ついての墟二親的な研究なるものは 存在しませんでした。たとえ,その研究に 相当な労力をさくとしても,それを研究と はよばない,研究業績とほ評価されない, 評価する組織すらもたないというのが慣習 となってきました。したがって,そのよう な研究はむしろ蔑視し回避すべきものとす る風潮すらみられました。背はいざ知ら ず,今日はたしてそれでよいのでしょう か。そのような因襲が教育ばかりでなく研 究さえも盃ませているのではないでしょう か。 現代の大学のいわゆる大衆化は,単に学 生数の増大を意味するばかりではありませ ん。当然のことながら教官数の急激な増大 をともなっています。しかも,数の増大ば かりではありません。学生や教官の位置づ け,役割などの変化,とりもなおさずいわ ば質の変化を必然的なもの紅しています。 3 一般教育部の研究酒動すなわち「一般 教育研究」というわけでほありませんが, 問題を具体的にとらえるために・,一応,一・ 般教育部の研究活動を「一・般教育研究」に・ 発表の研究で代表させることにして:おきま \しょう。 「一・般教育研究」に.ついては,沓きにく いというのが執筆依頼をうけた人達の卒直 な感想のようです。テ㌧−マに.もよ ります が,執筆依叔があって沓くのでほ自発的な 研究の発表とほ必ずしもいえないところに・ まず問題がありそうです。そして,「−・般教 育研究」と学部の研究報告誌とはどう違う のか,教官にとって,「−・般教育研究」の研 究と各個の専門研究とはどのように1哀別 し,どのように.関係づけて考えたらよいの かという基本的な問題も提起されていま す・。それと関連して「−−・般教育研究」の研 究は教官の研究業椒となりうるのかという 現実的な問題も伏在しています。 これらの問題に対して,編集委員会はま だ満足な回答,応待ができないのが現状で す。そのうち次第に「−・般教育研究」のイ メー汐も定まって:いく ものと思われます

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武 5 改革の根本ほ,これまで主客未分化の まま教官個々の判断と選任に委ねられてき た大学の教習を,さらにほ研究を客観的に・ とらえなおすことです。客観的に.とらえる ことは,反面においで主体の存在凌明確に. します。それが,大学における研究教育を 組織的・計画的なものにします。そのよう な主客の分化と統一、こそ,レ†まさらデカル トをもちだすまでもなく,近代科学の方法 の特質です。すなわち,大学教育の改革の 最も基本的な要件は,大学における研究教 育を科学的認識判断の対象とすることであ るという,考えてみれば自明のこ.とに帰着 するようです。 したがって,大学における研究教育を対 象化し,科学的な研究課題として研究する 必要を切実に感じているのほ,またその意 味・方法を確実に心得ているのは,大学で あり教官であるはずです。ところが,皮肉 にも大学改革に熱意を示しているのが,大 学や教官よりも,国や政治家・官僚である というのはどうしたことでしょう。国や政 治家・官僚が大学の改革を考える場合,大 学や教官が考える場合と造ったバク−ンを もつことはいうまでもないことです。それ に甘んじるとすれば何ともいいようのない 惜ない話です。時代が要請する新しい研究 課題を追究し,しかも自分等の仕事紅関す る研究領域を開拓していくことは,学問の 自由とか,大学の自治とかの積極的な意味 掘 地 64 そのうえ,過渡期的な不安定は避けられま せん。したがって,昔ながらの慣習や経験 紅とらわれていてはうまくいくはずがあり ません。だからといって,それを全く否定し てかかっても何ものも生れません。そのよ うこな意識のもとで例えば−−・般教育の問題に ついて会議を開いても,主観的な対策レベ ルの論議に終始し,客観的な問題解決の方 途をみいだすことに.はならないでしょう。 そのような会議を無意味な雑用とみるのも 無理からぬことです。それを,見解の相違 とか,世代の断絶とかのことばで説明して みても解決の方向がみつかるものではあり ません。そのような状況こそ改革を必至と していることのあらわれでしょう。 それでは大学教育の改革の基本的な要件 は何でしょうか。学生や教官の権利を保障 することでしょうか。逆紅管理体制を合理 化することでしょうか。または教育方法を 機械化することでしょうか。あるいは.クラ スを細分して少人数化をはかることでしょ うか。たしか紅,それらの点ほいずれも無 視することのできないものです。しかし, その一つ一つを改革の基本的な要件として 論じようとする限り,賛否相半ばして意見 の対立を招くことでしょう。それらのさら 紅根本に何があるか,改革の最も基本的な 要件は何であるかをほっきりつかんでおか なければ,対立を克服し改革を実りあるも のとすることほできないでしょう。

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談 でほないでしょうか。 このような研究概念の拡大が,「一・般教育 研究」の存在証明紅なりそうです。しか し,それほ現代社会においてどのような根 拠をもちうるものでしょうか。もっとはっ きりさせておく必要があります。をして, 「−・般教育研究」と従来の専門研究との関 係から,大学における学問・教本・職業の 関連性,あるいは研究と教育の一体性とい った古典的な課題をあらためて追究してみ る必要もありそうです。 65 ような現実問題といえども,いや現実問題 なるが放に,主客分化して自他が共通に合 二理的に理解しうる結論に.到達することは容 易でありません。やはり,さきにのぺたよ うな基本的な問題にさかのぼっての討議を 経て,いわば明噺判明な判断からあらため て理論の体系をきづきあげるという過程を たどるのでなければならないでしょう。そ のような過程こそ,改革期の学問にもとめ られているものでナ。そして,「一・般教育研 究」がもとめているものです。それを,ま ずは,「−・般教育部の研究活動について」の 一・般教育研究室を中心とする研究活動碇.期 待することとします。ご協力をお願いしま す。 6 一・般教育部ほどのように研究酒動を進 めればよいのか,といった具体的な問題に ついて解答を養いだすこ.とが,−・般教育部 にとっての当面の課題です。しかし,その 一般教育と常識 山 内 義 幸 とでもいえようか。しかしそれだけでは足 らず,同時に.国民大衆の生活や思想や健全 な判断力につながり,これを躍動させ合理 的な思考に高めるちからを持つものでなけ ればならぬ。仲間うちだけにしか通じない ような知識は常識とほいえないからだ▼と ころで,大衆とは? ひところ,「大衆社会.」 論とか,そ・の塞がえしの「知識社会」論,「未 来社会」論,「未来学」などというヘンな「学 問」が,疫病のように流行したことがあっ ー・般教育を受けもつに.当り,たんに制度 問題としてお茶を紅ごすのでなく,名実と もにそなわったものにしょうと取り組むと なると,担当者ほすぐれた常識の持主であ るか,少くともそうなろうとする積極的な 姿勢を持つことを要求されるだろう。この 場合,常識というのは.,低質の方へ平均化さ れた科学以前の安っばい知識のことでない のはもちろんである。ではどんなものか。ま ず,お互いの専門を支えている共通の漫談

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山 内 歪 車 としてくっきりとその達しい相貌を現わし つつある。大衆をそうした歴史的・政治的概 念の基体ととらえるのに.,われわれはもは や戸坂の桐眼と分析力を必要としない。現 前の姿のうち紅それを看取ることができる からだ。そのセンスこそ現代知識人の共通 の健全な常識(=dergesundeMenschen・ ve工・stand)というべきだろう。これが欠落 したとき−・般教育はどうなるか。片々たる 知識の切り売りか,それともお役所的指導 のおしつけか▼ふたたびいう,・−・般教育は 項門の科学的な通識と大衆の高質の常識と を媒介粗識化する任務をもつ,と。こ・こでい う組織化とほ担当者の内外へ展開する理論 的教育的な運動であることはいうまでもな い。−・般教育が運動であるということの意 味はむろん複雑で多面的だが,この組織化 の運動こそ,その中枢的な位置を占めるの ではないか,そしてそれほ上述の常識を必 要とするのではないか,と思うのである。 …談話室の饗宴の−・素材として提言する しだいである。 66 た。そして政策的なイデオロギーとしてな らともかく,学問としてほ数年ならずして ものの見事紅破算してしまった。大ぎょう に.売り出しながらこうも早々とぐずれた惨 めな例ほ学問史のうえでも致すくないであ ろう。破算のおもな根拠はどこ紅あったの か。かれらが現象のはしばしをかき集めて つくった「大衆」の虚像が,現に見るその実 像と余りにもかけ離れすぎていたからだ, と見るのはひが限か▼40年も前に戸坂潤

は,大衆とはすぐれて歴史的・政治的な概

念であり,圧倒性(強力性)と平均性とを 特徴とする多衆の組織化による止揚におい て成立し,それが持つ高質性の中身は歴史 の起動者としての使命に・ある,との趣旨の ことをねばり強く寵じた。こ.うした高度の 「常識」を常識としていたがゆえに,戸坂 は稀有のアンシクロぺダイストたることが できたのだが,またこの常識のゆえに.非業 の獄死を遂げなければならなかったのだ。 戸坂は死んだが,かれの常識が刻印した大 衆像はいまや国民大衆の実像として,すな わち歴史的・政治的・倫理的な国民大集団 子供たちの遊びを見つつ 桂 孝 二 棒・ジャングル何やら,それから砂場であ る。近所の子供も遊びに来て大へんの人気 である。 この四月に,私の住んでいる花園宿舎の 70坪ぐらいの空地紅,幼い子供用の遊び道 具が設置された。プランコ・すべり台・金

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語 室 談 それ以来,折にふれて眺めているが,子 供にもてはやされないのは「汐ヤングル何 やら」で,ほとんど誰もそこで遊んでいな い。たま紅,小学校上級生ぐらいのが,− 番上払渡を下して何かを読んでいるぐらい である。木のばりをして,そこで本を読む たぐいであろうか。 二番目紅はやらないのは「すべり台」で ある。親か誰かがついて来て,幼ない子を すべらす程度である。自発的に.するには単 純狂すぎるのであろう。小学下学年らしい のが,下から走り上ろうとするぐらいであ る。 三番目は「金棒」である。その下が砂場 に.でもなっておれば,まだましなのであろ うが,ふつうの土のままなので,ぷら下っ て移動するか,足かけをしているぐらいで ある。もっと技術のある者には高さが足り ず,ケンスイ・足かけ・尻上り,ぶら下っ て移動するぐらいしかできないので,その ため,一・向に人気がない。私の中学生のこ ろ,だれかが,大車輪をやって−・同感喫し て眺めたりしたことを思い出したりする が,そういう技術を持つものも居らず,小 規模すぎて,変化がなぐて,おもしろくな いのであろう。 人気があるのは,プランコと砂場とであ る。プランコは2つ,子供用であるので, そう高くなく,大してこげない。水平近く までこぐ子がいるとスリルがあっておもし 67 ろいのだが,技術が足りぬのか,高さが足 りぬのか,−・向匠はやっていない。1人で やるか2人でやるかである。飽きてくると, 2人がかりで金のツナをぐるぐるまわし て,ぐるぐるまいをするぐらいである。動 きがある点ほ長いが単純なのであろう。は やってはいるが,一生懸命やるという段階 にはなっていない。 そこへゆくと,意外紅人気があるのは砂 場である。せまい砂場いっぱいに.なって, いろんな型のものを作ったり,穴を掘って 膿まで埋まってみたりしている。単純なだ け紅遊び方に.変化があり,創造性があるの であろう。自分白身で遊びのくふうもでき るのであろう。あとを見ると紙くずが散乱 しているのでそういうものも使うらしい。 最も自主性が発揮でき,自由紅,遊ぺる。砂 場に人類の原始を感じる点もあるのかも知 れない。そういう点に.この砂場の遊びがさ かんなのであろう。また,プランコでは「 やる者」と「見る者」とができるが,こ こではみんなが遊ぺる,そういう点もある のであろう。 ただし,以上は,・−・般的な話で,どうし たことか,すべり台や,カナ棒のところ紅 五.,六人集って何かしていることがある。 おとなにかぎらず,子供も集団性を好むの であろう。 子どもほおとなの親であるという英詩の 句を昔,中学校で習ったように思う。この

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/ト 林 立 たことでもなく,ありきたりに.なりそう で,恥ずかい、思いもするので,以上でこ の稿を終えることとする。 68 子供の遊びを見つつ,職菜がら,教育のこ と,こと紅むつかしい−・般教育のことを考 えるのであるが,何をどう考えたか,大し あたりまえのこと!? 小 林 慮 る。だから,易き紅.就くのが,人間の習性 とするなら,被教育者の偶因から「大人」 ほ.除外するのがむしろ賢明であると言えよ う。かぐて「大人」たちは新憲法が高らか 紅唱う国民の教育権を享受する棉利を失っ ているわけである。 日本人は〃顔のない民族”であるそうだ が,確か紅この指摘ほ核心を衝いているし, 極めて重要な意味をもっていると思う。イ ギ県ス紅はチヤ−チル,アメリカ紅ほルー ズベルト,ソ連紅ほスターリン,フランス にほドゴール,ドイツにほアヂナウア・−, アラブにはナ・セル,インド紅はネ−ル,等 々列挙するまでもなく,それぞれ自己の ‘‘顔”をもっている。日本民族が自己の‘‘顔” をもたない「不孝」ほ,日本の「大人」た ち紅はむしろ「幸福」なことなのかもしれ ない。それほ「大人」たちを「教育」する 人物がいないことであるから。それは同時 に,「教育」は「大人」たちを含まないこと, 「教育」は「学校」だけで行われるべきこ とというのがあたりまえのことになってい るのである。 「教育.」という言葉のもつ意味ほ何だろ うか(「教え」「育む」という意味なのだろう が,ト「教育」と綴ると,いかにも「教える」 ことだけ前面紅出て,「育む」ことはとかく 軽視されるという印象をもつ。また「教育」 という以上,知育,徳育,体育など全人 的な教育が実施されるのが常識と思うが, とかく「知育」先行紅なり,「教育」ほ「狭 育」紅なっているのではないかと疑ってみ たりする。その結果,「教育」の「教」の字 が,「狭」や「狂」の字に.変化して,「狭育」 とか「狂膏」になりかねない恐怖を感じた りする。 そもそも「教育」は幼児期から青年期ま での年令に属する人口に.のみ限られてよ いものだろうか。日本の人口全体を見れ は,明らかに青年期を過ぎた年令層を包含 している。年令的に・ひねたそれらの人口層 を,我々ほ「大人」と普通呼んでいるが, 「大人」はもはや「教育」される義務ほ全 然ないだろうか。「大人」というのは,幼稚 園児,小学生,中学生,高校生,大学生な どとは異なり,「教育」し紅くい種族であ

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談 日本の「教育」が「狭育」や「狂育」に落 ち込むことから救い出す方法は,「−・般」教 育を強く叫ぶ以外紅途はない。戦後の教育 改革において「−・般」教育が採り入れられ 「狭育」や「狂育」を是正する理念として 制度的に.実現されていることは,画期的で あると言わねばなるまい。日本の教育が 「狭育」的偏向を性格として帯びていると したら,そのような風土の中で進められる 「専門」教育というものは,ますます一点 凌撃主義的性格を強くせざるを得まい。そ のような教育を受けた「大人」たちが,例 えばGNP至上主義を信奉したら,GNP 至上主義が引き起す物価騰畏や公害などは 全く無視することにもなりかねない。それ はまた「狭育」を受けた結果でもあると言 えるかもしれない。 日本の「大人」たちは「教育」から解放 されている。その結果,日本列島は物価騰 貴と水銀汚染をほじめ公害にとっぷりつか 話 室 69 ってしまっている。そのような汚染列島を 創り出したのは「大人」以外に.はないので ある。だから「教育」されるべきは,「青 少年」ではなく,むしろ「大人」たちであ る。しからば誰が「大人」を「教育」する のか。“魔のない民族”と呼ばれる日本は, その意味でまことに「不幸」である。「− 般」教育は,大学生に対してのみならず, むしろ「大人」たちにこそ必要不可欠であ る。なぜなら「大人」たちこそ,物価腐食 と環境破壊に.よって日本民族を破滅に導き つつある元兇だからである。今日,「教育」 されるぺきは「大人」であって「青少年」 ではない。この「非常識」があたりまえの こと紅ならない限り,GNP他界第三位を 誇る日本ほ,「水銀列島」として民族の破滅 を免がれ難いのでほ.ないか。「大人」紅

「鈴」をつけることこそ、いま日本の「教育」

が要求されている最も緊急にして,最も蛮 要な課題なのではあるまいか。

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