第 73 巻第 4 号 2001 年 3 月 107~179
商業資本論の展開と資本結合論
清 水 真 志
は じ め に
株式資本を原理論研究の姐上に載せることは,長らく固有の困難を伴ってき た。すなわち,資本家的倒錯性の完成形態をなす株式資本は,原理論的にはそ れ自身に利子を生むものとしての資本なる「理念J (宇野 [1962]300頁,宇野 [1964] 222頁,宇野編 [1967・
68] V, 352頁)として説かれうるのみであっ て,その「理念」が株式会社制度として「具体化」するには金融資本が支配的 な資本形式となる自由主義段階以降を待たねばならず(宇野 [1950・
52]512頁, 宇野 [1971]182頁),それゆえ株式資本論の過半は段階論へと譲らざるをえな いとした宇野弘蔵以来,株式資本はそもそも純粋資本主義を対象とする原理論 体系には入りえないものとする見解が大勢を占めていたのである。翻って考え てみると,個人企業と株式会社の経済的区別こそ「近代資本主義の発展J (Hil -ferding [1955](訳)165頁)を解き明かす鍵を握るものとしたヒルファディン グはいうまでもないが,株式資本を個人資本に対立する「社会資本」ないし「枇 会企業」とみなし (K,III, Sれ452,(7) 221頁),これを資本主義から社会主義 への発展途次に配置したマルクスにおいてすでに,株式資本を他の市場機構か ら離視し,特殊段階的な,あるいは段階移行的な意義を負わせようとする指向 が兆していたといってよい。株式資本を取り扱おうとする原論研究者は,何よ りもまず,それが原理論の枠内で取り扱いうることの証明に腐心しなければな らなかったのである。もっとも,いわゆる貨幣資本家を想定せずとも,産業資 本の遊休資金の一部が株式の購入に投じられうること,また株式投資が産業資 本に競争媒介的な作用をもたらすことが指摘されるに至って(山口 [1971J 139-45頁,山口[1979]139-46頁,山口[2000J197-200頁,伊藤[1971
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391-99-108ー 香川大学経済論議 950 頁,伊藤
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頁),この証 明問題は一応の決着を見,株式資本論に着手すること自体の困難は次第に取り 払われてきている。今日では,理論的に一義化しにくい株式会社形式こそ捨象 しながらも,舞台を資本結合論として敷き直し,資本市場を商品市場(商業機 構)や貨幣市場(信用機構)に並ぶ、第三の市場機構と見て,その発生根拠を明 らかにしようとする研究が進捗しつつある。 とはいえ,原理論的な資本結合論がようやく緒についた段階にあって,依然 として先行研究の蓄積にも乏しい以上は,方法を幾分異にする株式資本研究に も目を配ってゆく必要がある。その場合,われわれの最も間近で参看しうる株 式資本研究のアプローチは,およそこつであろう。一つはI
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合一郎に代表され るような,株式資本と銀行資本の関連に着目し,株式資本の資金動員機構とし ての対外的側面を浮き彫りにする信用論的なアプローチであり,もう一つは馬 場克三に代表されるような,株式会社における株主聞の関係に着目し,株式資 本の支配集中機構としての対内的側面を浮き彫りにする経営論的なアプローチ である。 しかし何れのアプローチにも,二つの未決問題が指摘されるように思われる。 詳しくは本論に譲るが,第一に,これらのアプローチでは,配当取得というメ リットが株式保有の一次的な動機とされ,その他のメリットは二次的,三次的 な動機とされるにとどまる。いいかえれば,株式のもつ利潤証券としての側面 が最前に押し出され,この側面への照射によって資本市場の基本像がほぽ明ら かにされた後に,その資本市場像を前提とするかたちで株式のもつ他の側面, すなわち支配証券や投機証券としての側面が上書きされるという論理構成が採 (1) られるのである。その場合,売買差益を目的とした証券の転売活動も,すでに 成立した資本市場のなかに事後的に組み込まれることになる。つまり,意図さ れざる結果としての株価の変動を掬おうとする派生的な行動として,株式資本 論の後半に滑り込まれる扱いとなるのである。しかしこうした処理は,より包 括的な「資本」という概念との整合性を欠くように思われる。すでに流通論の 次元で明らかとされたように,商人資本的形式を一般的定式とする資本の本質951 商業資本論の展開と資本結合論 -109-とは,安く買って高く売るという活動から差益を得ることにあり,またそうし た活動をくり返すための場を設定し,保持することにあった。他ならぬ「資本」 の本源的な運動として見た場合,株式の取得ないし保有はそれ自体で完結しう るものではなく,株式の売却を継起することではじめて有意たりうるものなの である。したがって,いわゆる貨幣資本家の想定を排し,証券投資が産業資本 の価値増殖運動たりうるか否かを厳しく見極めてきた原理論的な枠組みからす れば,株式を保有さえすれば可能である配当の取得は,むしろ不完全で二次的 な価値増殖運動として,全き資本のビへイヴィアたる転売活動の下位に降格さ れるべきではないかと思われる。加えて,いわゆる利廻り革命に想到するまで もなく,利潤=配当証券たる資格を剥奪された株式といえども,投機証券とし ての資格を幾らも損なうことなく流通しうるという資本市場の現状を鑑みれ ば,上のような株式資本論の構成方法自体が,すでに資本市場の実相にたいす る説明力を大幅に減じつつあることは知られるのである。 第二に,これらのアプローチでは,流通市場としての資本市場は,差し迫っ た必要から何とかして既得証券を売却したいという社会的な要請を受けて,あ たかも予定調和的な理法に導かれて立ち上げられたもののように説かれる。し かし,そうした社会的要請がいかにして応じられるかに力点を置く原理論的な 展開方法からすれば,資本市場をたんに自然発生的な,または制度的な与件と して割り切ることは不十分であり,私的利得を追求する個別資本こそがその編 成主体とみなされるべきであろう。またその編成過程は,商品市場や貨幣市場 を含めた,補助的な市場システム全体の編成過程のなかに位置づけられるべき (1) もちろん,こうした理解はごく概括的なものであって,個々のアプローチの委縮には必 ずしも妥当しない。特に経営論的なアプローチの場合,機能資本間の直接結合が株式資本 論の基底に霞かれる以上,個々の機能資本の本業に根ざしたメリット,たとえば大規模化 や経営支配が一次的な結合動機となるようにも恩われる。しかし,これらのメリットが直 媛には結合資本の利潤増大として現れ,その利潤が原理上は全て配当に廼されるものと 考えれば,重視されるのはやはり利潤証券としての側面なのである。これにたいし,信用 論的なアプローチを代表する川合[1960Jの場合,基底的な株式取引はあくまで利潤=配 当証券の投資取引であり,投機取引は「第ご次的な表面的な取号IJ(38頁)にすぎないと する論理構成がいっそう堅牢である。 111合 [1965J 101頁も参照されたい。
1l(}- 香川大学経済論叢 952 であろう。このことは前段で述べた問題とも密接に関連する。すなわち株式の 積極的な転売活動は,当初は配当目的で株式を取得したがその後に差益目的に 転じたというような,いわば場当たり的な株主によって営まれるものとは考え にくい。ここに想定されるべきは,もとより転売予定で株式を取得する主体で あり,相場が好転するまで売り控えるだけの余裕に恵まれているばかりではな く,相場の薄い市場に買い向かい,また売り込もうとする主体なのである。そ うであれば,より有利な売買の場を自ら組織しようとするこうした流通主体こ そは,資本市場の成熟に先駆け,むしろそれを豪引する者として,まさに資本 市場の編成主体たる役に相応しいという理屈にもなるわけである。 このように論歩を進め,株式資本論の鍵を握るべき主体の資質を割り出して くると,そうした資質に最も恵まれているのは,多かれ少なかれ生産過程に縛 られる産業資本よりも,流通過程を専門的に代位すべく,すでに生産過程を縮 小ないし放棄している商業資本なのではないか,という推測が働こう。しかし この推測は,株式資本研究における通説に反するのみならず,商業資本研究に おける通説にも反している。すなわち,一般には銀行信用こそ,資本市場との 最も強い紳を有するものと評されてきたのであって,商業資本はこれと対照的 に,株式資本論における登場の場面すら滅多に与えられてこなかったのである。 これに呼応するような事情が,商業資本論の側にも存在する。すなわち商業資 本は,実物的な商品配給,いいかえれば非金融的な商品流通の仲介機構とみな されることが多く,金融論ないし信用論の後半に置かれた株式資本論との聞に は越えがたい溝が掘られてきたのである。商業資本と信用論の関係が関われる 場合でも,貸付資本における物神的観念が「流通費用の資本化」の条件を準備 するとか,商業信用が商業資本の買取負担を軽減するというように,どちらか といえば信用機構を主辞に,商業資本を賓辞に置いた関係が取り上げられがち であった。少なくとも,商業資本が商品市場以外の機構の編成にどのような関 与を果たすかという点は,ほぽ不聞に付されてきたに等しいというのが実状な (2) のである。こうした取り扱いに強く規制されて,競争論ないし市場機構論とい う部分体系のなかでも,商業資本論はひときわ小さい別枠へと集約され,専ら
953 商業資本論の展開と資本結合論 111 それ自体の完成度を高めるという方向での精織化を果たしていったのである。 したがって,商業資本と株式資本の関連を強調するのであれば,信用論の延長 線上に展開されてきた株式資本論の問題点を指摘するだけでは不足なのであ り,さらに遡って,商品市場以外の機構と商業資本の関連を不問に付してきた, 従来の商業資本論の問題点までが指摘されねばならない。 こうした問題意識に基づき,本稿の課題は三重に設定される。すなわち第一 の課題は,商業資本論の内部に,商品市場以外の機構との関連がどのように織 り込まれるべきかを,従来のいわゆる商業資本の発生根拠論に対質しつつ確定 することであり,第二の課題は,資本結合論の導入部をどのように設定すべき かを,従来の銀行信用論と株式資本論の接続方法に対質しつつ確定することで ある。以上を土台として,資本結合論にたいして商業資本論の側からどのよう なアプローチが可能であるかを明らかにするという,とりわけ独自的な色彩の 強い第三の課題が設定されることになる。その際,本稿のもつ今一つの特色は, 商業資本と株式資本の関連を,すでに編成された資本市場にではなく,資本市 場が編成されてゆく過程に投光することで浮かび上がらせようとする手法に求 められよう。従来の株式資本論ないし証券論においても,商業資本は依然とし (2 ) もっとも,商業信用における商業資本の役割を重視する論者,さらに一歩進んで,銀行 資本の出自を商業資本の内に求める論者も,少数といえども存在しないではない。鈴木 [1960・62]下, 359-63貰,岩田 [1967]188-91頁,五味 [1975]22-27頁,山口 [1985] 224-26頁,小倉 [1979],星野 [1980]を参照されたい。とはいえ,これらは何れも,商 業資本の機構横断的な意義を摘出することよりは,信用機構における商業資本の意義を 摘出することの方に主眼を置いている。こうした議論によって,なるほど,結果として商 品市場と貨幣市場の間に一定の連絡が付けられたとは評しえようが,その連絡は,信用機 構の構築をほぼ済ませた後,そこに商業資本を招き入れるというかたちで,いわば事後的 に付けられているとの印象が強いのである。少なくとも,信用機構との間にありうべき連 絡を事前に見据えることで,商業資本論自体を再構築せんとする構えは見受けられない。 「商業資本家によって振り出され,あるいは裏書きされた手形は,産業資本家のそれに比 べて,一般に信用力が大きししたがってより大きな社会的流通力をもっていることはい うまでもない。商業資本は,産業資本の流通過程を社会的に集中代位するものとし て,それ自身多かれ少なかれ産業資本にたいし社会的資本たる性格をもっているからで あるJ(鈴木 [1960・62]下, 359頁)として済ますだけの鈴木は,特にそうであろう。こ の点で,上に列記した論者は,それぞれ検討に値する論点を提起しているとはいえ,本稿 とは似て非なる方法に立つものといわねばなるまい。
112 香川大学経済論叢 954 て蚊帳の外に置かれるものの,資本市場の主たる利用主体や利用状況を明らか にする作業をつうじて,株式資本と他の機構との関連にはそれなりに注意が払 われてきた。その作業は,資本市場の制度的枠組みにたいして国別・時代別の 比較を施しつつ,たとえば流通系列化や企業集団形成のための法人所有や株式 持ち合いに端的に示されるように,他の機構との交わりに強く規制されたもの として資本市場の沿革や現状を描き出してもきたのである。しかし本来,株式 資本のもつ対外的で動態的な側面は,すでに固有の制度的な枠組みをもって成 立している資本市場を念頭に置いた上で,それと他の機構との交流を問うとい う手法では十分に捉えることができない。主題的に関われるべきは,資本市場 の編成過程における,いいかえれば株式資本の発生原理における他の機構の役 割に他ならないのである。 あらかじめ本稿の構成を見ておこう。第一章では,商業資本の自立化がどの ようなインパクトを商品市場に及ぼすかを,-取引形態の組み替え」と「多型化」 (3) いう概念を用いつつ論じる。商品市場における地歩を確実にした商業資本が, 売買業務の枠を広げつつ中古市場やリース市場を立ち上げ,実物的な商品市場 の外に出向するための回路を聞いてゆくことが明らかにされよう。第二章では, 株式資本研究における代表的な二つの見解,-他人資本の自己資本化」説と「自 己資本の他人資本イじ」説を検討しつつ,特に資本結合論の導入部がどのように 設定されるべきかを論じる。たとえ既発証券が動化する場合でも,機能資本と 無機能資本というこ種類の当事主体が用意されるだけでは不足であること,そ こに全く異質な参加動機をもった第三の主体を立てるべきであることが明らか にされよう。以上の議論を踏まえ,第三章では,商業資本が資本市場の発生原 理においてどのような役割を演じるかを論じる。安く買って高く売るという投 機的な運動原理をつうじて,また組織化された商品市場を挺子として,商業資 本が資本結合の「斡旋」を行い,商品流通に先立つ商品生産の構造をも組み替 (4) えてゆくことが明らかにされよう。 (3 ) いわゆる電子商取引 (Eコマース)に関説してではあるが,商業資本および商品市場の 「多型化」という概念を展開したものとして,拙稿 [2000b]を参照されたい。
955 商業資本論の展開と資本結合論 -113-第 一 章 市 場 機 構 の 基 礎 と し て の 商 業 資 本 第一節 商業資本の自立化の形態論的意義 商業資本とは,たんに商品売買を専門とする資本としてではなく,本来は商 品生産を自営していたが,徐々に生産を切り上げ,他資本の商品売買を代位す ることに特化した資本として定義される。そうした特殊な資本が分化するに至 る道筋を明らかにし,もって商業資本の論理的必然性を証明すること,いわゆ る商業資本の発生根拠論こそは,商業資本論の要衝とみなされてきた問題で あった。従来の研究は,この問題にたいしてほぽ二通りの回答を与えてきたと いってよい。一つは「有効代位説」と称されるものであり,商業資本の必然性 は,商品売買を一手に引き受けることで流通上の諸費用の総額を減らすこと, いわば社会的な有効代位機能によって根拠づけられるとする見解である。もう 一つは「単純代位説」と称されるものであり,社会的な有効機能はむしろ副次 的なものにすぎず,生産された商品をすぐに買い取ることで産業資本の販売負 担を肩代わりすること,いわば個別的な単純代位機能こそ,商業資本の発生を 必然たらしめるとする見解である。これらの聞に交わされた議論の応酬こそが 商業資本研究を押し進めてきたわけであるが,そのように進められる限りでは, 商業資本研究に傾注される考察の大半が,果たして流通上の諸費用の総額が減 らされうるものか否かという一点へと収束してゆくことにもなったのである。 しかし,このような議論の進め方には,およそ三つの問題点があったように 思われる。第一に,売買業務を「代位」することが,たんなる商品の買取とい (4 ) なお,拙稿[2000
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も,証券市場(資本市場と同義のそれ)の生成に際して商業資本 がどのような役割jを演じるかという問題を検討したものであり,本稿と重複する記述を 少なからず含んでいる。しかし,この問題を検討する上で本来は欠かすことのできない論 点,すなわち,本稿の第一章、で扱っている商業資本の「自立イじ」と「多型化」という論点 については,かなり厳しい紙数の制約のため,これを全面的に割愛せざるをえなかった。 本稿の第三章第二節,および注の大半も,これと同様である。以上のような大幅な割愛を 行った結果,拙稿[2000a
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の議論は,一貫して株式資本論ないし資本市場論という枠組 みに収まっており,当初の課題を全うしえていない。したがって,本稿は,たんに拙稿 [2000a
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の完全版であるのみならず,問題の枠組みそのものをより大きく組み直したも のといってよい。-114← 香川大学経済論叢 956 かなる点で異なるかということ,すなわち売買関係一般に比した委譲・代位関 係の特性が,必ずしも明確にされてこなかった。このことは,次の点とも密接 に関係する。すなわち第二に,商業資本の必然性を証明するには,従来のよう に商業資本のメリットを説く一方では足らず,その実現性までもが分析に付さ れねばならない。商業資本のメリットが実現するか否かは,あくまで個々の委 譲主体と代位主体の聞の契約の成否によるのであり,契約成立に至るまでの過 程は決して平坦ではない。したがって,委譲・代位交渉がどのように進められ るかという点への掘り下げを欠いては,いかに社会的要請の強い商業資本とい えども,いわば絵に描いた餅というべきにすぎないものとなる。そして第三に, 従来の商業資本研究は,発生根拠論の決着をもって主たる論議を打ち切り,そ れ以降の問題,すなわち商業資本の発生がどのような変化を市場に及ぽすかと いう問題にまで深く立ち入ることはなかった。それは原理論的な意義には乏し い商業組織論として,より特殊理論的な色彩の強い商業経済論へと委ねられる のが通例であったのである。しかしこの問題は,続く貨幣市場や資本市場の発 生をも視野に入れた上で論じられるべきであり,そうしたスタンスを欠いた商 業組織論では,商業資本論をいっそう自己完結的な体系として彫琢することに 終始するのみであろう。 ところで,以上のような問題意識は,すでに拙稿 [1999bJで主題的に展開 されている。そこでは,大略以下のような結論を得るに至ったのである。 (1) 従来,市場の動向に俊敏に反応して,取扱商品を頻繁に変更してゆくも のとされてきた商業資本であるが,商業資本による「代位」とは,交渉の不確 実性を圧縮するべく,多少なりとも契約的な確定性をもった売買関係として考 えられるべきである。
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商業資本による確定的な「代位」は,商業資本の販売活動とも整合的で なければならない。商業部門に長期の滞在を予定している商業資本であれば, 売れ筋商品を選択的に販売するだけにはとどまらない。目下売れ筋でなくても,957 商業資本論の展開と資本結合論 -115ー リスク・ヘッジの観点からあえて取り扱うべき商品も存在するのであり,こう した事情は,中長期的な戦略にもとづいて販路を組織しようとする商業資本に 間有である。商業資本が発生した後の市場は,たんにさまざまな売り手が無秩 序に分散する場ではなく,長期滞在型の商業資本を核として,スポット的な取 引がこれを取り巻くというご重構造をもっ。 (3) 商品市場に地歩を築いた商業資本は,商品化の容易ならざる財をも買い 向かい,中古市場やリース市場のように,その有利な転売市場を自ら組織する 主体となろう。このような商業資本は,商品市場の外部,すなわち貨幣市場や 資本市場にたいする浸透圧を有している。 これまで閉所化の甚だしかった商業資本論であるが,以上のような結論から すれば,商業資本はむしろ金融機能や保険機能など,商品市場以外の機構で陽 表化するであろう諸機能をすでにある程度まで織り込んだ存在となる。商業資 本は,たんに理論体系における位置という点で銀行信用や株式資本に先行する だけではなく,内容的にもそれらを予示し包括する関係を秘めるように思われ るのである。こうした潜勢的な関係を浮かび上がらせるべきであるとするなら ば,われわれの議論の舞台は,商業資本が発生するまでの過程ではなく,発生 した商業資本が機能を果たしてゆく過程,なかんずく商業資本なき原始的な市 場の構造を作り替えてゆく過程にこそに移されねばならないだろう。この章で は,拙稿 [1999bJの結論を下敷きとしつつ,商業資本の発生根拠論の後に残 された問題,すなわち商業資本が商品市場に及ぽす変化について,より立ち入っ た考察を及ぼすことにしたい。 さて,委譲・代位関係の特性として重視されるべきは,(1)および(2)で示した ように,商業資本が売買関係の契約的確定化を担うという点であった。すなわ ち,委譲・代位関係が売買関係一般と同じように,基本的には単発的な取引関 係にすぎず,仮に持続するにしてもいつ何時打ち切られるとも知れないもので あれば,委譲主体たる産業資本は不時の自己販売のための準備を切り詰めるこ とができない。一方,代位主体たる商業資本としても,産業資本との関係がこ
-116ー 香川大学経済論叢 958 のように浅薄なものにすぎないのであれば,自らの営業基盤もいつ何時卸元に 手をヲ│かれるとも知れない不安定なものにすぎなくなるのであって,不時の生 産再開のための準備を切り詰めることができなくなる。こうした双方における 不安定要因をできる限り縮減するべく,委譲・代位契約に適切な工夫を施すこ とこそ,商業資本の最大の課題となるのである。最も単純な工夫は,委譲・代 位関係をいつまでも打ち切ることなく持続させることであろうが,それでは商 業資本の自立性を否定することになる。したがって,主たる工夫の余地は,関 係の打ち切り方に猶予性を与えることに見いだされるであろう。たとえば,買 取数量や卸値までは据え置かずとも,取引を中止する場合には事前の通達を義 務づけたり,取引規模の漸次的縮小を義務づけたりすることで,産業資本には 自己販売に切り替えるための準備期間が猶予されると同時に,将来ありうべき 卸値の値下がり損を回避することになる。一方,こうした義務を負うことで, 商業資本はある時期までの買取予約を入れておくことができるのであり,逆に 将来ありうべき卸値の値上がり損を回避することになる。売買関係の契約的確 定化とは,ほぽ以上のような内容をもつものであった。 そうであるとすれば r売買」と「委譲・代位」の種差は,必ずしも小口分散 的か大口集中的かといった取引規模自体の差異として現れるわけではないこと になる。そしてこの種差が,たとえ取引される商品量が同じであってもなお残 されるものとすれば r委譲・代位」の特性とは結局,取引の結び方や切り方に 施される工夫,すなわち取引形態の組み替えにこそ存することになる。そして, 契約的確定性をもっ売買関係の網を張り巡らせることで,商業資本は商品市場 において支配的な取引形態を組み替えてゆくものと考えられるのである。 そもそも取引形態とは,商品流通上の便宜を図ったものであれ,物流上の都 合からやむなく生じたものであれ,あるいは旧弊な商慣行として残されたもの であれ,多かれ少なかれ資本家社会的な共同性をつうじて形づくられたもので あり,いわば「共同事業」の結品体であるがゆえに,容易には覆しえず,歴史 的な継承性とも化合しやすいような固定性をもっているといえよう。しかし, 商業資本が分化・発生するということは,いわば旧来の取引形態の背後で編成
959 商業資本論の展開と資本結合論 -117-さ れ て い た 資 本 家 社 会 的 な つ な が り ー ー と り も な お -117-さ ず 競 争 機 構 の 本 体 一ーに,新種の資本が参加するという事態を意味している。このことだけでも, すでに資本家社会の共同性は何らかの変化を被らざるをえない。しかしそれ以 上に,流通過程の委譲によって,産業資本は商品市場を介した「共同事業」に たいする参加権をも大幅に商業資本に委譲することになるのであり,商業資本 は産業資本が手放した参加権を集積し,-共同事業」にたいする主導権を握るこ とになる。取引形態のもつ聞い結晶構造を支えてきた累積的な時聞は,商業資 本によって強く切れ目を入れられるのである。すると,以後の商品市場で支配 的な取引形態は,もはや資本家社会の全ての構成員に共通の便宜を図るものと はいえず,商業資本群とそれを利用する産業資本群という,限定されたグルー プの利害を少なからず優先したものになるだろう。専門を異にする多数の「商 業 部 門J (K, III, S引320, 訳 (6)503頁)への商業部面の細分化と,その各部 門における流通期間の経験的平均化も,見方を転ずれば,たんに自然発生的な 結 果 に す ぎ な い の で は な し む し ろ 有 力 な 商 業 資 本 群 が 中 心 と な っ て 代 位 競 争 のルールの統ーを図り,商品市場に支配的な取引形態一一とりもなおさず商業 資本の活動形態ーーーを集合的に組み替えた結果として,いわば新規の「慣習」 たる資格を揃えてゆくことになる。何れにせよ,取引形態の組み替えの背後に (5 ) このことは,昨今の用語法に倣うならば,商取引のデファクトスタンダードを改編す ることとも表現されよう。その際,本稿の定義する「取引形態」とは,多かれ少なかれネッ トワークの外部性にもとづく社会的な強制力をもつことに注意しなければならない。す なわち,ある取引形態の標準化の過程とは,当初はこの過程から共通のメリットーーイ国々 の取引ごとに形態を確定することから生ずる,流通費用の冗費の節減ーーを引き出しう る資本間での標準化として進められるが,ある段階以降は,個々のメリットを具にする資 本群をも巻き込んだ規範化の過程へと転化するのである。同様の現象は,価値形態論の展 開における等価形態の一般化の過程にも見いだすことができる。すなわち,一見すると連 続的に見える一般化の過程も,半ばで屈折した構造をもつのであり,ある範囲で共通の等 価物として仰がれた商品にたいしては r新たに現われるどの商品種類もこれにならわな ければならないJ(K, I, S. 80, (1) 125頁)という別穫の力学が作動し始めるのである。 とはいえ,本稿の観点からすれば,この力学もたんに自然発生的な慣習化として済まされ るべきではないだろう。すなわち,既成の支配的な取引形態を受け入れるとすれば,その 背後には共同体の旧習に倣うといった本能ではなしそれを受容する場合と別の取引形 態を樹立する場合の聞でメリットやコストを比較考量する,経済合理的な計算が働いて いるものと見るべきなのである。
-118ー 香川大学経済論叢 960 は,こうした異種の市場機構の分化に伴う,資本家社会的な「共同事業」の支 配構造そのものの変容が読みとられるべきなのである。 もっとも取引形態は,貨幣による売買という最も包括的な次元に始まり,部 門によって異なる流通単位や集荷様式といった次元を経て,さらに個別資本ご とや時期ごとに異なる契約方式といった次元にまで至るような,きわめて多層 的な構造を具えるものでもある。貨幣による売買を基底としても,その一段上 の層には早くも相対売買・セリ売買・競売買の区別が待ち受けているのである。 競売買一つを取り上げてみても,さらに子細には,単一価格競売買としての「板 寄せ」と複数価格競売買としての「ザ、ラノ ~J (接続売買・歩み売買)の種別は排 しがたいであろう。しかも,以上の限りではまだしも類型的な区別にすぎない のであって,同一類型の取引にすら,その内実には信用期間の長短を含めた何 項目もの相違が生じることになる。取引形態はそれ自体,いわば上層にゆくに つれて分散の度を強めるような重層構造をもつのである。その最上層では,も はや無限とも思える分節をなした取引形態が,個々の取引関係と分かちがたく 接合した姿で見いだされよう。この層まで来れば,もはや取引形態といっても, 当該の取引に関わるニ者聞の,かつ一回限りの「共同事業」の産物と化してい るわけであり,そもそも「共同事業」という語が要請するはず、の社会性を最低 限にまで薄めた,特個的な性質のものでしかないのである。ここに立ち現れる のは r共同事業」に要するコスト,すなわち取引形態をその都度切り替える手 聞を要らざるものとする,きわめて仮想的な市場の姿である。あるいはまた, 全ての取引をスポット的なものに統ーするという,最も強い「慣習」を具えた 市場の姿であろう。そのような市場における商業資本の発生根拠を明らかにす ることは,確かに一定の意義をもっ。しかしまた,あらかじめ不動の取引形態 (6 ) この点,形態論的アプローチを採る場合ですら,実体的関連との機械的二分法から,取 引形態はともすれば表面的な,ヨコの広がりこそあれタテの厚みはもたないものと目さ れやすいことに留意すべきである。形態論的アプローチは,商品流通における諸相を「形 態」という一語によって包括することで,かえってそれらの問に存在する位相の差を消し てしまう危険をも苧んでいる。流通ヴェーJレ観を斥けた後にもなお強かな残浮をなすこ うした単層的形態観に批判のメスを入れようとしたものに,吉沢 [1970J,吉沢 [1972J カまある。
961 商業資本論の展開と資本結合論 119ー を措いてしまえば,商業資本の活動からはその独自性が,とりもなおさず産業 資本の販売部にたいする優位性が大きく削がれることになろう。手つかずの市 場における取引形態が,いわば自然発生的なヨコの分散を来しているのであれ ば,そこに独自の市場機構たる資格で参入した商業資本の真骨頂は,より上層 的で流動的な取引形態を調整することー一一産業資本の自己販売にも少なからず 可能なーーにではなしその下部にまで掘り進み,より固い結品構造をもった 取引形態に加工を施すこと一一ー集中的かつ持続的なコストの投下を要する (7) 一一ーに求められるべきなのである。 こうした商業資本の社会的意義は,流通上の諸費用が節約されるか否かと いった従来の理論的尺度では計りがたいものとなる。確かに,取引形態が組み 替えられることで,産業資本はある種の流通費用を節減することができょう。 あくまで既定の取引形態に倣って自己販売を行う限りでは,ヘッジングも産業 資本の「私事」として行われるよりなしいつ関係を絶たれるかも知れない, 逆にいえばいつ関係を回復するかも知れない多数の他資本にたいして,いわば 顔つなぎのためのコストを投じ続けねばならないことになろう。しかも,それ とても契約的な拘束力をもたない顔つなぎにすぎない以上,つないだ顔で商況 の落勢を阻止することができるか,肝心な局面でへッジが利くか否かは,あく まで不確定なことになる。こうした自己防衛的な,あるいは市場維持的な流通 費用を「広義の維持費」と銘ずるならば,それは結局,流通過程の不確定性を 何らかの方法で圧縮することなくしては節減しがたいコストに他ならないので あった。したがって,商業資本との「共同事業」たる取引形態の組み替えは, いわば顔つなぎに契約的な確定性を与えるものとして r広義の維持費」を幾ら か節約することを可能にするであろう。しかも個々の産業資本にとっては,広 (7) こうした議論は,いわゆる流通労働と,マルクスが「形をつける労働J(K, 1, S. 57-58, (1)85頁)として捉えた生産労働の聞の関連についても,再考を迫るものであろう。価 値の姿態変換過程たる流通過程にたいし,生産過程を「素材的(現実的)姿態変換」の過 程として押さえる際にも素材」ないし使用価値に施される労働か否かという実体論的 な視角の手前に,何れの労働をも「姿態変換」の一環とみなす特殊な視角,すなわち形態 論的な視角が置かれているわけである。
120- 香川大学経済論叢 962 範な商品市場の維持・防衛を自己負担するよりも,商品市場よりは小規模な代 位市場の維持・防衛を商業資本と分担する方が,普通は「広義の維持費」も少 (8) なくて済むという関係にある。この点は,産業資本聞の取引が安定的に持続す るとしてもなお,商業資本への販売件数が産業資本へのそれとは異なり必ずし も複数化するとは限らないこと,したがってまた自己販売の場合には,たとえ 一部門につき一件の長期相対取引を結ぶ場合ですら,複数部門に「広義の維持 費」を撒布する必要が生じることからも傍証されよう。 しかし,こうしたメリットは本質的に限定的なものであって,必ずしも商業 資本の社会的メリットとはなりえない。というのも,取引形態の組み替えが, あくまで商業資本とそれに関わる産業資本の利害を優先するものであった以 上,組み替えられた取引形態は,自己販売を営む産業資本にとっては不利にな りうるし,不利にせんがための組み替えさえ行われる可能性があるからである。 産業資本の自己販売はそれ自体,こうした圧力を押し返すための,すなわち取 引形態を異にする市場を立ち上げ,他資本の参加を募るための追加的労力を負 荷されることになろう。その結果として,-広義の維持費」の個別的な節約メリッ (8 ) 確かに,商品取引所や証券取引所のイメージを早急に読み込んで,商業資本を社会的な 商品集積の担い手と性格づけてきた理論的伝統には,いまなお根強いものがある。ある時 期以降の商業資本研究が,商業資本の活動範囲の部分性を強調するに至った背景には,こ の伝統にたいする正当な違和感があったといってよい。しかしこうした違和感からか,た とえば日高 [1972]のように,商業資本と産業資本の関係を「一対多」の関係と措くこと を響戒する余り,これを産業資本聞の関係と大差なき「多対多」の関係と措くとすれば, 論理的にみてやや飛躍があろう(日高 [1983]235-36頁も参照されたい)。商業資本援の 総計が節約されるか否かは問わないとしても,少なくとも商業資本が特定の産業資本の 専売庖や直営庖でもない限り,さらには特定の産業資本間の代理商でもない限り,商業資 本の件数(資本廷ではなく企業数)は「多」としても産業資本の件数よりは減少するもの と考える方が自然であろう。さもなくば,個別の産業資本にとってすら,販売委譲はいっ そうの小口分散取引を意味することになりかねないのである。上;述の伝統に忠実なホー ルの卸売商業論のように,小口分散的な商品発送を大量発送に置き換えるという「総取引 数極小の原理(principleof minimum total transactions)J (Hall [1948]C訳)108頁) を措くことは避げるにしても,本来「単純代位」は,こうした相対的な意味での「集中代 位」と同一平面において矛盾する関係にあるものとはいえない。いいかえれば,代位市場 の部分性やそこにおける商業資本の多数性は,商品市場における商業資本の集中性とは 必ずしも相反しない。「有効代位」の脆うさは,むしろ商業資本の「集中代位」が商品市 場に与える固定的な構造にこそ,いいかえれば合理的な自己販売への切り替えにたいす る抵抗にこそ読み取られるべきなのである。
963 商業資本論の展開と資本結合論 121ー トも,社会的には少なからず相殺されることになる。加えて商業資本は,まさ に取引形態を組み替えるための新たなコストを,集中的かっ持続的に投下する 必要があったわけである。総じて,有効代位説を困難たらしめる根本的な要因 仇単純な自己販売への復帰を困難にするような商品市場の構造変化に他なら ないのである。 このように,有効代位機能の成否という切り口では商業資本の社会的意義を 尽くしがたいのであれば,われわれが先に採用した取引形態の異同という切り 口にも,改めて寸分な理論的必然性が主張できることになろう。つまり商業資 本が,あくまで自らと関係する限りでの産業資本に節約メリットを与えるもの にすぎなかった以上,このメリットをそのまま社会的なものとみなすことはで きないわけであるが,社会的には特段のメリットも見られず,かえってデメリッ トさえ生じかねない場合でも,商業資本は直ちに発生根拠を纂奪されるわけで はない。そして,すでに見たようなへッジング機能を兼備した特殊な機構,す なわち代位市場を自らの内部に組織されてしまう限りで,商品市場は商業資本 から相応の影響を被らざるをえないからである。そのような商品市場を利用す る限りでは,代位市場を一度も利用したことがない産業資本といえども,やは り商業資本の影響から超然することはできない。したがって「契約的確定化」 の社会的意義は,節約効果の成否という実体論的なタームでは綴りえない消息 をなすものとして,形態論的なタームで綴り直されねばならないことになる。 すなわち,さまざまな取引形態の集合体として商品市場を措き直した上で,こ の取引形態を組み替える存在として商業資本を捉えなければならないことにな (9 ) 立ち戻って考えてみると,流通費用の支出額は流通期間とも関連して不確定に変動す るものであったから,それが販売委設によって本当に「節約」されたか否かということは, 個別資本に限つでもなお排しがたい陵昧さを残すはずであった。ある程度支出額の一定 した「広義の維持費」であれば節約効果も取り出しやすくはなるだろうが,それとても純 理論的に確認されうることではない。かえって販売委設は,そういう意味での節約効果が 不明でも,商業資本との直接競争を避けることの節約効果さえ明らかであれば,相応のメ リットをもつものと考えざるをえないであろう。このことは「流通上の諸費用の節約」と いう概念の限界を意味するばかりではなく,商業資本の発生に伴う商品市場の形態的変 化によって r節約」の基準そのものが変化を被ることを意味するのである。
122ー 香川大学経済論議ー 964 るのである。 第二節 商業資本の多型化の機構論的意義 前節では,拙稿
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1
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で得られた結論のうち(1)と(
2
)
を敷街しつつ,商業 資本が商品市場に及ぽす形態的な影響を明らかにした。取引形態を組み替える という作業は,まさに商業資本の基幹業務たる商品売買業務の一環をなすので あり,特に目新しい業務をなすものとはいえない。またその作業は,差し当た り代位市場,つまり商業資本の自立する以前より存続してきた商品市場の一部 を現場とするのであり,商品売買の場を離れて営まれるものではない。この限 りでは,すぐれて流通代理人的な商業資本の姿が佑御されるわけである。とは いえ商業資本は,必ずしもそうした代理的な役回りに終始することで満たされ るものではない。 (3)に示されたように,むしろ自ら多型化を遂げようとする動 力をもち,中古市場やリース市場といった新たな機構を立ち上げるに至るの、で ある。この段階の商業資本は,もはや狭い意味での商品売買業務には収まらな い活動領域へと,いいかえれば商品市場の外部へと半歩を踏み出したことにな る。 とはいえ,従来の商業資本研究の隣に並べてみた場合,こうした議論はいか にも奇異に映ろう。その理由の一つはおそらしすでに述べたような商業資本 論の論理構成,すなわち発生根拠論を白眉とし,それ以降の問題にかんする論 述は極度に先細りしてゆくという従来の組み立てにたいして,本稿が積極的に 異を唱えている点に帰せられてよい。しかしまた,その点の当然の帰結といえ るかも知れないが,そもそも「商業資本」なる概念自体をどのように構成する かという点でも,本稿は従来説とは幾分見解を異にするのである。 商業資本の概念規定は,一般に,運輸・保管の役割をすべて外注に委ねると いう,極端に非現実的なかたちで与えられる。しかし,そのこと自体が問題な のではない。問題はまさに,こうして極度に狭義化された「商業資本」におい てもなお,排しがたい種別が生じるということである。たとえば,すでに見た ようなへッジング機能を兼ねた代位サービスの提供は,商品市場の中核に安定965 商業資本論の展開と資本結合論 -123ー 的な営業基盤を築こうとする商業資本にとってこそ,いいかえれば商業部面に 長期の滞在を予定している商業資本にとってこそ,合理的でもあり可能なこと でもあった。産業部面への復帰予定が目前に迫っている商業資本,あるいは一 時的な荒稼ぎしか眼中にない商業資本,いいかえれば商業部面に深く根を下ろ すことを望まない商業資本にとっては,それは不可能であるのみならず不利な ことでもあろう。したがって,そのような商業資本はへッジング機能をもたな い,つまり契約的な確定性をもたない単発の売買関係に終始するのであり,商 品市場の中核を遠巻きにする周縁的な機構をなすにすぎないのである。商業資 本に少なくともこうしたこ種が存在するとすれば,それはすでに狭義の「商業 資本」における種別に他ならないわけであり,いかに狭義化ないし単型化しよ うとも,-商業資本」なる概念自体が広義化ないし多型化を要請するものである ことを意味しているのである。 この点は,当然ながら,商業資本論全体の組立とも密接に関係してこよう。 すなわち,商業資本論を信用論から切り離すという自己完結的な論理構成を採 るのであれば,-商業資本」なる概念からも多型化の契機は取り除かれざるをえ ない。というのも,そうした論理構成は,信用機構に固有視されるさまざまな 機能の原型を「商業資本」に読み取ることも必然的に禁じるからであり,上述 のへッジング機能はおろか,いわゆる金融機能や保険機能さえもが,商業資本 の商品売買業務から外されることになりかねないのである。「商業資本」は事実 上,信用機構によって補足されることを予定し,あらかじめ特殊機能化や部分 機能化を遂げた姿で措かれることになる。したがって,こうした論理構成とは 逆に,商業資本論を開放系として,いわば市場機構論全体の基盤として組み立 てるためには,-商業資本」という概念に自己変容の契機を埋め込んでおくこと が是非とも必要になるわけである。すなわち,信用論に先行する理論準位にお いて「商業資本」として説かれるべきは,現実の市場において他の機構と併存 しており,したがってまたそれらと区別されている商業資本ではなく,他の機 構の機能を原基的に内包している,広義の「商業資本」なのである。 さて,このように対象を設定した場合,広義の「商業資本」の多型化はどの
-124- 香川大学経済論叢 966 ような機構論的意味をもつことになるか,より具体的に論じてみよう。多型化 の一環をなすものとして具体的に想定されていたのは,差し当たっては中古市 場やリース市場の開設,つまり新品ないし中古の機械設備を買い取って,これ を転売または貸与するという業務であった。こうした業務は一見すると,何で も商いうることを本領とする流通活動にたいして,なくもがなの固定資本的制 約を負荷するもののように見える。しかしまた,中古市場やリース市場を立ち 上げるということは,それ自体,何でも商いうる商業資本の手に委ねられては じめて可能となることである。というのも,産業資本の手による限りでは,自 社で使える中古設備を関連部門の敗退資本から譲り受けるといった活動に止ま るのであって,そこにはせいぜい個別分散的な闇市やオークションのごときが 立ち現れるにすぎない。一部をリースに回すとしても,自社で使い始めるまで の遊休期間に限られよう。つまり,一応は生産用在庫をより安価に形成する活 動として,曲形なりにも本業を補足する意味をもちうる中古品の買取とは異な り,リース業務はいよいよ純粋な副業としての色彩を強めるであろうから,あ くまで本業に支障のない範囲で細々と営まれるにすぎず,それ自体が恒常的な 取引の場を形成するようなものではないのである。そして何よれこうした一 連の取引に要するコストを積極的に負担しようとする資本が現れない限りは, まだ商品としての余命を残した中古設備といえども,その大部分はあえて売却 の労を取られることなく廃棄されるばかりであろう。中古市場やリース市場は, こうした一連の限界を解かれることなくしては市場機構としての自立を果たし がたいのであり,そのためには結局,新種の市場を組織する労を厭わず,自家 (10) マルクスの場合,周知のように,商業信用を「商品の貸付」とみなす観点が混在してお り,そのことが利子生み資本や貨幣資本家といった規定の不正確さと通底することは確 かであろう。 K,II, S..475, (5) 363頁, K, IU, S..356, (7)54頁を参照されたい。とは いえ,この観点を払拭するならば固定資本の貸付という問題も自動的に消滅するだろう と断ずることはできない。いわゆるリース産業は,商業信用という機構とは独立に成立し うるのであり,むしろ商品市場との関連で説かれるべき論点に富む。しかも機械設備の 「食付」は,その期限付き使用権の販売であると同時に,現物の「出資」という方向へ一 歩を踏み出した商売でもあり,いわば商品市場と資本市場の連絡口をなすのである。な お,リース産業や中古産業を「資本の限界」をなす固定資本的制約の解消機構と位置づけ ているものとして, Harvey [1982J, Harvey [1985Jを参照されたい。
967 商業資本論の展開と資本結合論 125 消費を前提とせずに手広く中古設備を買い集め,他の事情によって中断される ことのないリース業務を営みうる資本,すなわち何でも商いうる商業資本の出 動を仰がざるをえないのである。 したがってまた,こうした組織者たる役割の求めに応じる商業資本であれば, 中古市場やリース市場における資本の回転速度を上げることにこそ,自らの 負った固定資本的制約を解除するための方途を見い出すはず、である。たとえば, より多数の部門に転売・貸与可能な生産財に的を絞るのは当然として,一刻も 早く機械設備を処分したがっている資本,いいかえれば有利な仕入れ先を検索 する労は惜しまないであろう。安価に下取りした商品であれば,商品買取資本 のうち当該商品に拘束される部分は小さく,貸し出すにしても拘束期聞は短く て済むのであり,償却の程度如何によらずその「固定資本」的性格も弱められ るからである。また一刻も早く機械設備を買い換えたり,当座の操業度を上げ ようとしている資本,いいかえれば有利な販売先や貸し出し先を検索すること にも,これに劣らぬ労力を注ぎ込まねばならないだろう。転売業務とリース業 務をできるだけ密着的に兼営することも当然の工夫であって,転売期間が遅引 して自然的・道徳的な磨損を始めたいわゆる新中古品や,すでに買い手の付き にくい程度まで償却の進んでいる機械設備であっても,基本的な性能さえ大き な欠損がなければリース用に回すという調整が利くわけである。貸し出し期間 を応談で動かしたり,品質保証を自己負担したりすること(中古品の修繕も含 めて)も,いわば流通費用の投下と同様の販促活動をなずであろう。そしてま た,このような業態上の工夫を施せば,物的には分離しえず,ー単位でもすで に相当の規模を具えた機械設備といえども,分離可能な商品ストックを徐々に 売り捌いてゆくという通常の営業の延長上で取り扱いうる商品となるのであ る。 加えて,これまで特定種類の商品生産のために分かちがたい一体をなして機 能してきた設備を幾つかのパーツに分解し,多方面に切り売りするという場合 を考えてみよう。ガレージ・キットを買い集め,一つの設備を組み立てる作業 が本来的な意味での生産労働である以上,これを分解し直す作業もまた,生産
126 香川大学経済論叢 968 労働の一環をなしているはずである。そしてこの作業は,機械設備の廃棄時や 売却時に限って必要となるわけではなく,設備の清掃や点検,修理のためにも, 普段から一定の頻度で行われるべきものと考えられる。いいかえれば機械設備 の分解は,産業資本における生産過程の操業に深く根ざし,これに付随した一 つの工程たる意味合いをもつわけである。しかし商業資本にとってこの作業は, むしろ相包や裁断といった流通労働に近ししいわば仕入れた商品の包装を解 いてこれに販売用の新たな分包を施すという意味合いをもっ。しかも,一つの 機械を幾つに分解するか,フルセットの装備をどこまで解除するかということ 自 由 自体,取り扱う商品の品目を選ぶことと同断であって,専ら転売条件を脱んだ 商業資本家の判断を待つべき問題となる。そうである以上,商業資本の手にな る解体作業は,たんに機械技術的に可能な最小単位(部品)まで分解を進めた り,運輸技術的に最適な単位で荷を小分けするといった作業とは異なれ機械 設備を商うという商業資本の営業の根幹にいっそう深く根ざすものと考えねば (ll) マルクスは「生産資本Pを構成する商品要素AとPmは, Pの存在形態としては,それ らが捜し集められるいろいろな商品市場にあるときと同じ姿をもってはいない。それら は,今ではいっしょにされていて,結合された状態で生産資本として機能することができ るのであるJ(K, II, S. 100, (4) 165頁)としている。いわゆる物的な生産資本たるPに 限っても,それは即座に実用しうる機械設備のたんなる集合体とみなされるべきではな い。労働者が見習い期間を要するのと同様,さまざまな機械も然るべき場所に配置され, 相互に配線・連絡され,さらに一定の試運転を経た後にようやく生産資本としての機能を 発揮しうるのである。こうした「結合」のための作業は,工場の内部で行われるのが普通 であるから,消費過程の第一段階をなすもののように見える。しかし見方を転ずれば,そ れはむしろ当該機械の生産過程の最終段階をなすものでもある。蓋し,特定の用途(場合 によっては特定のA)にあわせて調整を施されてこそ有用となる財は,完成の数歩手前で 売り渡されることが多く,その意味では単品としても部品の集合に近い性格をもち,いわ ば消費過程に延長されるべき生産過程を残すものといえるからである。その場合,残りの 工程は是非とも消費場所で行われる必要があるのであり,そのために買い手の自己負担 による場合が多い。とはいえ,この工程が作業員の派遣をつうじてメーカー倶Ijに負担され る場合には,消費場所たる工場の内部で行われようと結合」作業のもつ生産労働的性 格は外観の上でも明らかになる。このような作業を,商品の索材的な「姿」を転換するも のとして重視するならば,しばしばWとPの聞に霞かれがちな等号符にも斜線が引かれ なげればならないのである。なお,以上の問題が資本循環論においても考慮されるべき点 については,拙稿 [1999a
J
29頁を参照されたい。 (12) このことは部品生産におけるモジューJレ化のように,どこまで製品の複合化を進める かという問題にも帰着しよう。このように販売政策が先行する形での産業部門の選択は, 結局,産業資本に潜む「商人資本的側面」を反映した事情に他ならない。969 商業資本論の展開と資本結合論 127-ならない。すなわち,この場合の解体作業が,その後に控える販売過程とセッ トにしてはじめて意味をもつものである以上,解体作業そのものは独立の解体 業者に委ねうるにしても,それはまた,工事の現場監督やこの工事を受注した 資本家よりも,商業資本の号│いた計画にこそ忠実に沿うかたちで行われざるを えないのである。その意味で,商業資本の資本循環におけるこの作業の位置は, 補助的な流通労働一般のように,流通過程に延長された生産過程一一弛の業者 に委託することも可能な,いわば消極的な「延長=付随」ーーの末尾にではな しむしろ生産過程へと延長されてゆく流通過程一ータ卜注の利かない,いわば (13) 積極的な「延長=包摂・浸透」一一ーの冒頭に当たるわけである。 ところで以上の議論は,多型化の一環としてひとまず中古市場やリース市場 の開設を取り上げ,それが商業資本によってどのように営まれるかを見るもの であった。しかし,多型化の内容はこれに尽きるものではなしまた商業資本 に限って多型化の契機をもっというわけでもないだろう。もとより産業資本に よって編成される社会的生産は,それ自体が絶えざる自己変容を繰り返してき たのであり,それでこそ個々の産業資本における多角化のみならず,社会全体 における産業部門の分割や統合,新産業部門の開拓もありえたわけである。そ うしたことが自明視される以上,商業資本の多型化が何故あらためて強調され ねばならないかという疑問,そしてまた,中古市場やリース市場における商業 資本の優位は,どこまで安定的に保たれうるのかという疑問が提出されよう。 すでに本稿は,それらの市場が何でも商いうる商業資本の関与を待たずしては 開設しがたい所以には論及した。しかしまた,この関与を深めようとすれば, (13) 但馬 [1994Jは,小売商業資本が商品に施す「調整Darstellungjや「獲備Zurechtma -chungjに着目し,それらは流通時間中に延長された生産過程をなすものであり,そのた めに投下される流通費用も価値形成的な「最終仕上げ(finishing)費用」であると論じてい る (279-91頁)。但馬 [1987J も参照されたい。しかし「最終仕上げ」の内実とされてい るのは,計量(messen)・考量(wagen)・換算(reduzieren)・分割ないし区分(verteilen)・ 測量(sondieren)・見積(abwagen)・包装といった多種多様な作業であって,これらは小 売業において商業労働者の関わる作業の大半を含むものであろう。それらが無差別に生 産的労働の範鴎に収められているという点で,但馬の「最終仕上げ」説も,運輸や保管と 同様に小売の配給機能も使用価値形成的なものとみなす,いわゆる使用価値完成説に代 わるものたりえていない。
-128ー 香川大学経済論叢 970 そこにはもはや「商う」という範轄に収まり切らない類の関与,つまり修繕業 務や解体業務などが含まれることをも確認されたのであった。中古設備の売買 業務では優位を発揮する商業資本といえども,その業務を補完するためには, 自らの活動領域を生産過程へと「延長」する必要があったわけである。そうで あるとすれば,この「延長」は必ずしも順調な過程とはなりえず,当初より生 産過程を専門的に操業してきた産業資本によって,強烈な反動を見舞われるよ うにも思われる。というのも商業資本とは,そもそも得意の売買業務に特化す ることで商業資本となりえたものである以上,生産業務はどちらかといえば苦 手な領域に属し,その一方で産業資本は,苦手な売買業務を商業資本に委譲す ることで,生産過程のさらなる大規模化を許されるものでもあったからである。 以上は要するに,商業資本の多型化はそれほど長い行程を描きえず,いずれ産 業資本にたいする比較劣位に直面して,狭小な代位市場へ引き返すことを余儀 なくされるのではないかという疑問に他ならない。 こうしたありうべき疑問にたいして,われわれはこ通りの回答を用意する必 要があろう。第一に,商業労働そのもののもつ融通性という問題である。すな わち,あらかじめ作業内容を技術的に確定しうる生産労働と異なり,流通過程 の不確定性に晒される商業労働には,多かれ少なかれ不定形な側面が残らざる をえない。しかしその不定形性は,効率管理の困難をもたらす一方で,商業労 働のもつ可塑性に通じるものでもあろう。すなわち商業労働の本質が,特定の 「何か」を売ることではなく不特定多数の「誰か」に売ることに存する以上, この「何か」にはどんな商品を当て填めてもよしたとえば繊維商社の販売員 を中古車のセールスに転任させることにもさしたる支障はないのである。やや 立ち入った商品知識が必要になる場合でも,商品に説明書を添付したり,商業 労働者にマニュアルを配布すれば済む話である。特定の「何か」を作ることに 本領を発揮する生産労働の場合,どこまで単純化を施そうとも作業内容自体は 部門ごとに確定的に異なるわけであり,こうした融通性を期待できないことは いうまでもない。商業労働自体に限らず,商業資本の労働組織についても似た ような事情がある。すなわち,いつまでに何個売れるか分からない商業労働の
971 商業資本論の展開と資本結合論 -12 9-場合,個々の販売員の担当すべき商品数量をあらかじめ確定することは無意味 であって,労務管理の都合上ノルマを設定したとしても,実際には手の空いた 販売員に残りの商品を担当させたり,場合によっては事務員の一部を販売部の 応援に廻したりすることになる。商業資本とはいわば,全員が一丸となって在 庫を売り捌いてゆくシステムなのであり,原始的な協業編成をその固有の労働 編成とするのである。そのような商業資本の労働組織であれば,ごく部分的な 調整を加えるだけでさまざまな分野に転用が利くのであり,最小限のコストで 多型化の荒波を凌ぎ切るだろう。これにたいして,分業編成を本質とする産業 資本の労働組織では当然事情が臭なる。すでに分業単位ごとに集団的熟練を遂 げてしまっている労働組織をj 他の産業部門への移動に際して無傷で保つこと は難しいわけである。さりとて部門移動を回避し,他部門の資本を合併するこ とで多型化を果たそうとする場合でも,これまで没交渉であったか市場を介し てしか交渉をもちえなかった分業単位を,市場の外で直接に連結させなければ ならない。その際には資本家的活動自体も,より高度に組織化する必要に迫ら れるだろう。結果として産業資本の労働組織は,部門を拡張するごとにいっそ う急峻な階層構造へと作り替えられることになる。産業資本の多型化は,いわ ゆる組織の非効率性を招きやすいばかりでなく,すでに組織化の過程自体にコ スト・パフォーマンス上の不利を負うわけである。 第二に,複数産業部門の情報集積という問題である。産業資本の場合,複数 の産業部門へ進出を図る場合にも,そのために有用な知識を豊富に有している というわけではない。ある程度他部門の事情に通じうるとしても,系列を同じ くする部門か技術体系の類似した部門,せいぜ、いかつて引き払った部門といっ た範囲に限られてくるのである。もちろん量や種類こそ乏しくても,産業資本 ならではの生産技術的な専門知識が多く含まれるという点では,それだけ醸成 度の高い情報を有しているといえないわけでもない。しかしこうした利点でさ え,いつでも商業資本にたいする比較優位をなすとは限らないのである。とい うのも,中古市場やリース市場を利用しつつより迅速な多角化を進める場合, 決め手となるのは生産技術的な知識,つまり「使うべき設備」は何かという情
13βー 香川大学経済論叢 972 報ではなく,むしろ資本そのものの価格動向についての知識,つまり「買うべ き資本」は何かという情報に他ならないからである。この決め手を欠く産業資 本の多角化は,むしろ多少なりとも商業資本の仲介を仰がざるをえないだろう。 商業資本はその場合,上の二種のうちで後者の情報さえ補えば仲介役として不 足はないのであり,前者の情報については被仲介者たる産業資本に委ねればよ い。商業資本自ら多角化する場合でも,専門知識をもった労働者を他資本から 引き抜いたり労働市場から調達したりすれば,ある程度まで前者の情報の不足 を賄うことができるわけであり,その際に有効となるのもやはり後者の情報な のである。しかも商業資本は,既成の生産資本をそのまま買収するわけではな かった。「買うべき資本」という観点、を優先させることで,何れのパーツが欠け ても全きを得ないはずの機械一式を部分買いしたり,逆に何台もの機械を取り 揃えなければならないはずの工場設備を纏め買いしたりするものであった。実 はそのことで r使うべき設備」にかんする知識自体も一新される面があるので ある。 この点は,いわゆる商業資本の需要創出効果とも関連しよう。この効果は一 般に,消費構造自体を組み替えようとする商業資本の関与から引き出される。 しかしそうした関与は,消費構造の分散や流動化を招くとともに,旧来の消費 構造に繋ぎ止められていた消費者の欲望を解き放ってしまうことで,旧来の商 品知識の効力をも大きく削ぎかねない。組み替えられた消費過程の求めに応じ るためには,いっそう広範かつ委細な商品知識が必要とされるという連闘があ るわけである。さなきだは,商業資本における商品集積はそれ自体,異種の商 品聞に潜んでいた類似性を陽表化させたり,逆に同種の商品聞に潜んでいた異 質性を陽表化させたりする編集的な機能をもっていよう。こうした編集機能を 活かしつつ,商業資本は「商品学J