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(1)

軽蔑された 、非正統的なものへの注視が彼の本来の 強味をなしている。

ヴァルター ・ ベンヤミン ﹁エー ドゥアルト・フックス

蒐集家と歴史 1 家﹂ 一   圓本の端本への 目から 改版 ﹃現代日本文學集﹄ ︵一九二六年十二∼三一年十二︶ な ど、もはや新味無いだらうか。謂はゆる圓本の元であるこの叢書は 昔から何かと話題にされてきた上に、年は內部料が出てきたため 改に言が集中してゐるから 2 。いかにも昭和初年の圓本ブームは 一大事件であって 、出版業に留まらず多方面に涉って劃となった し、中でも 亣 學集といふものが出現した影 伕 は 亣 學にとっても甚 大で、ば傳說されてきたのだが、昨今ではそれを一插話に留めず ヨリ實證に檢討し、特に代 亣 學硏究の側からは 亣 硏究の一と してメディア論に接しつつ出版と重なったところで論考が簇生し てゐるやうに見受ける。斯く云ふ自もそれらに刺戟を受けた一讀 ではあるのだけれど、題を圓本集や改といふ事象にばかり收 束させるのでなく、そこから擴散する觀念をいささか書き留めておき たい 。瑣末事に卽した考證だとて 、それを關心事となした問題識 、 料を見出し引き寄せた筋が、あらう。觀眼と言ってもよい。 さて佚 亣 といふではないが、この出版大衆事業に寄せられた感 想に芥川之介のものがあることはあまり知られてなかったやうだ。 ■芥川之介氏   ﹃現代日本 亣 學集﹄ 中に ﹁新聞 亣 藝[ ﹂ ] を 收 めてゐるのは結です。まだ今日のやうに雜誌と云ふものの發 しなかつた治時代の ﹁ 新聞 亣 藝﹂ は勿論、今後の ﹁新聞 亣 藝﹂ に も面白いものが多いことと思ひますから 。

右折角のお尋ねに より、漫然と思ひついたことを申し上げます。 右は ﹃改﹄ 一九二六年十二號卷末の ﹁世界一の ﹃ 現代日本 亣 學集﹄ 出づ﹂と始まる刊行案內に ﹁怒濤の如き反 伕 ﹂の一として載った 。 亣 中 ﹁ 新 聞 亣 藝﹂ とは、豫定書目中の ﹁第三四﹂ に ﹁ 新聞 亣 學集﹂ と 見える卷のこと。豫吿された收錄內容は、福地櫻痴・矢野溪・陸羯 南・福本日南・池邊三山・比奈知泉・森田思軒・田口鼎軒・西村天

新聞

學その他圈外

學への脫線

高須芳郞

︵溪︶

の埋もれた

學想に關する覺え書き

(2)

新聞 亣 學その他圈外 亣 學への脫線 囚・黑岩淚香・山路愛山・竹越三叉・澁川玄耳・杉村楚人冠。末尾に ﹁その他﹂ と 添へ未定を示す。 芥川の一 亣 は見てのり短簡で、さして恰好の宣傳 亣 句でもないか ら、有名作家に貰った回答なので揭げておいただけに思はれよう。果 して長くれられ 、一九二七 ︵昭和二︶ 年 、 自のその年から集 を出してきた岩波書店ですら、 七十年後の第五 ﹃芥川龍之介全集﹄ ︵一九九五∼九八年︶ になってやっと收錄したのである 。しかも 、 最 回配本の刊行間際に遽氣づいたのか、 ﹃第二十四巻   補遺・年譜・単 行本書誌・索引・総目索引 ﹄ ︵一九九八年三︶ 中 ﹁ 補遺﹂ 各の解題であ る ﹁ 後記﹂ 末 に ﹁ 追記﹂ と いふ變則な形で紹介され、 同 卷 ﹁ 作品索引﹂ には載らなかっ 3 た。のみならず、それは本 亣 を初出ではなく再揭され た第二回豫募集のパンフレットよりってゐ、 そこでは右 亣 中 ﹁

右折角の﹂以下は ﹁︵ 下畧︶ ﹂とされてゐたため 、闕 亣 なのであった 。 それについて ﹁後記﹂ ︵海老井英次︶ は ﹁ 文末に ︵下略︶ とあることか ら 、 第一回目の予約募集時に掲載されたものの再録の可能性もある が 、 未確認である﹂ ︵ p.355 ︶ としてゐたが 、 十年後 、 同じ集の第二 刊行時 ︵二〇〇七∼八年︶ には初出もし、 ﹃第二十四巻﹄ ︵二〇〇八 年十二第二版︶ に新設された ﹁ 補遺二﹂ の部に ﹁﹃現代日本文学全集﹄ 推薦文﹂と題して組み入れられ、索引にも立項された 4 第。但し、新 版の解題では右の再錄經に關する說は跡形も無くられてしまっ た。宛も初刊時の不手際を隱するかの如く。 は斷簡零、議立てするのものでない⋮⋮のか?   ところ が、こんな短 亣 でも我が關心からすれば一瞥して記憶に殘るものだっ た。芥川之介のネーム・バリューよりむしろ﹁新聞 亣 藝﹂の强に 惹かれて。つまり、硏究テーマとする一九三〇年代ジャーナリズム 5 論 にとってとも目されるが故に。あの藝至上の小說家がなぜ 亣 學 集でとなる卷を措いて新聞 亣 學なんていふ附け足りみたいな部 に興味を示したか⋮ ⋮それは 、芥川之介硏究の方の問題である 。形 式面からすると、先に ﹃代日本 亣 藝讀本﹄ 五集 ︵興 亣 、一 九 二 五 年 十一︶ といふヴァラエティーに富んだアンソロジーのとして 治大正 亣 學を觀した經驗から 、 この種のジャンル別に興味を 持ってゐたのかもしれない 。新聞といふ內容面に關しては 、﹁ ジヤア ナリスト詩人﹂ と自し且つ ﹁新聞 亣 藝は治大正の兩時代に謂 亣 壇作品に色のない作品を殘した﹂ ︵ ﹁ 亣 藝な、 餘りに 亣 藝な﹂ ﹃改﹄ 一九二七年四號︶ と語り、筆﹁西方の人﹂ ︵﹃改﹄一九二七年八號︶ ではキリストまでジャーナリストと呼んだ芥川のことだから、新聞に 代表されるジャーナリズムと 亣 學との關係には思ふところ多々あった と覺しい。 ﹃支游記﹄ ︵改、一九二五年十一︶ も大阪每日新聞 員として特されての果 、﹁ 畢竟天の僕に惠んだ ︵ 或は僕に災ひし た︶ Jour nalist 才能の產物である﹂ ︵﹁自序﹂ ︶ と言ってゐたでないか 6 。 ⋮⋮等々、作家個人の事績に沿って掘り下げられよう。が、芥川は一 例示なるのみ、論じたいのは新聞 亣 學といふ問題關心である。一代の 才人が感心するくらゐには結な想ひ着きだったやうだが 、その當 時、新聞 亣 學といふ念で以て或る種の言說を括ることは、いかに 可能だったのか。體には、どうやって輯企劃が立てられたか。 二   亣 學 集はわたしが作った さてここからが小發見。 ﹃新聞 亣 學集﹄を自らしたとするが、

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新聞 亣 學その他圈外 亣 學への脫線 ゐた。溪 高須芳郞 ︵一八八〇∼一九四八年︶ である。 ﹁治 亣 壇人 の印象﹂ と題する小 亣 で、 ﹁○谷崎潤一郞氏﹂ ﹁○杉村楚人冠氏﹂ ﹁ ○田 山袋氏﹂ ﹁○德 [冨] 富蘆氏﹂ の 四項中、第二項をかう書き出してゐる。 ○杉村楚人冠氏 改造版の﹃現代日本 亣 學集﹄を見た人々は、新聞 亣 學 [集] の 一册があることを知つてをられ [] やうと思ふ。その中には、楚人冠 氏の小說 ﹃時子﹄ なども入つてゐる。 白狀すると、 あ の ﹃ 現代日本 亣 學集﹄ の內容 ・ 組織は、 大 部、 私が組み立てたのである。それで春陽堂版の﹃治 [] ・大正 亣 學 集﹄よりも、範圍を廣めて、宗敎 亣 學び諸家のエッセイ・隨筆 などをも入れ、新聞 亣 學にもんだ。 新聞 亣 學は、治の特產物である。それ以には、さういふ 亣 學は無い。そしてこの方面の發について、少からぬ關係を有す る一人は、杉村楚人冠氏である。それから澁川玄耳氏も亦れ い人だ。 この會に、一寸云つてきたいのは、治四十三年頃に、島 村氏が﹃東京日日﹄の輯問をした頃、會記事の 亣 學 を計り 、 私と西村眞氏とを推薦したことなどがあつた一事だ 。 氏は 、このにも 、﹃讀賣﹄に關係して 、新聞 亣 學の步に 盡したことがある。が、それは、裏面に於てで、表面につたの は、楚人冠氏らである。 丁度、 そ の頃、 氏 の ﹃大英 [游] 記﹄ ﹃ 球 [周] ﹄ が 出た。 ﹃ 大英記﹄ ︵治四十一年︶ は有樂で刊行したのであるが、 ﹃東京日﹄に、 はじめて一頁の廣吿を出した。さういふやかさと氏の輕妙・洒 脫の 亣 章とにより、新聞 亣 壇に異を放つた。私が氏と再三、 つたのも、その頃のことである。 何でも、各新聞のブック・レビュウ記が下町の料理屋へ招待 された時だつたと記憶する。當時、私は﹃東京每日﹄の學藝部長 をした關係で出席して私 [﹁氏﹂ のか] と對座した。 [⋮中略⋮] 私も亦一揖して、氏 [=楚人冠] に盃をした。こんな事から、 氏と漸く親しくなつたが、その後、會つたとき、治新聞 亣 學 の必を語り、 氏も ﹁これは賛だ。 材料については、 盡 力しよう﹂ といつてゐた。 が、 私の ﹃治新聞 亣 學﹄ は 、 い つ出來るか、 ま だわからない。 [⋮後略⋮] 右は、 高須芳郞 ﹃ 日本名 亣 鑑賞   治後 ﹄ ︵厚生閣、 一九三六 年二︶ に挾みみの ﹃日本名 亣 鑑賞報﹄ 第 一號 ︵﹁昭和十一年二號﹂ とも標記︶ より抄出した 。同書の本體には記載無いものの 、外函には ﹁第五卷﹂ ﹁第一回配本﹂ と 地に印し、貼り外題には ﹁ 推奬﹂ の 亣 學七 名と共に ﹁︹責任︺ 高須芳郞﹂ とある。また、この報だけでな く ﹃日本名 亣 鑑賞   治後 ﹄ 本 亣 ︵ pp.257-258 ︶ にも同樣の言が見られ る。杉村楚人冠 ﹁ 閑語﹂ に附した ﹁解說﹂ 中 、餘談に曰く。 惟ふに新聞 亣 學の發は 、治年間における特異の現象であ る。それ以には、新聞 亣 學がなかつた。そしてこの方面の展開 は櫻痴 ・ 兆民 ・羯南 ・ 知泉 ・天囚 ・ 日南らにふところが多い 。 殊に蘇峰氏が始一貫した貢獻は、多大である。改の﹁現代 亣 [ ] 學集﹂の﹁新聞 亣 學 [] ﹂は、實は私の考案に基づいたもので あつたが、內容については、私の考へと大、ちがつたものにな

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新聞 亣 學その他圈外 亣 學への脫線 つてゐる 。 その中には 、高橋自 [恃] 得庵 [三] 氏のものも 、尾崎愕 堂 [行雄] 氏のものも拔けてゐるし、 島田沼南 [三郞] 、 小 山 鼎 浦 [東 助] 、鳥居素川 [赫雄] 三氏のものも收めてをらぬ。大嘯風 [] 氏のものも亦省かれてゐる。するに、その纂、當を得てをら ぬのは、憾だつた。これは序に云つてくのである。 以上、これまた短 亣 にぎない。しかしここからは色々と興味ある 問題が抽き出せるのであって、それらを陳べてゆくことが本稿の眼目 である。第一に、 ﹁﹃現代日本 亣 學集﹄の內容・組織は、大部、私 が組み立てた﹂と言ふだけでも聞きてならぬではないか。自慢話と いふものはり引いて聽くべきでも、關係が存命中に無根の噓は吐 きにくい筈。これは、確かめてみるべき證言であらう。圓本の源と して﹃現代日本 亣 學集﹄は再三論じられてきてゐながら、管見の限 り、この高須本人の發言に徵しての考證は無かった。 圓本の發案には諸說あるも、事のりが誰からであ れ、代表作家 名作集とも言ふべき初めの着想を企劃立案のをじて今日見る 括な 亣 學集といふ形に仕立てた功は木村毅に歸するのが說で ある 。創案は內からとする說を取り上げた後でも 、﹁木村毅が 、企 画の段階で相談にのり、そこに収録する作家と作品の選定にかかわっ たことは、否めない事実であった 7 ﹂と纏められる。そこで當人の回想 記が裏づけとされる。木村 ﹃丸善外史﹄ ︵丸善社史編纂委員会、一九六九 年二︶ 第五章中 ﹁十六   円本時代の淵源﹂ び最年の ﹃私の文學回 顧録﹄ ︵青蛙房、一九七九年九︶ 中 ﹁ 円本旋風の起原﹂ の章が詳しく、 古いものでは ﹁改二十年= 傍觀の思ひ出 =﹂ ︵﹃改﹄ 一九三八年四 號︶ も引かれる 。讀めばこの人らしい如とした筆致で 、 その識 が寄與したことは歷然としてゐる。そして木村は親友の柳田泉に助力 して貰ったとは言ふが、他に外から參畫したがあるとは記してな い。柳田の 8 憶と照合して齋昌三の名を附け加へられるくらゐ。 しかし一九二七年四に入して﹃改﹄となった水島治男 は 、﹁この企画の発端は 、高須芳次郎 、木村毅両氏で 、木村さんが改 造社に持ちこんだものだと私はきいたことがある 9 ﹂と一九七六年に書 いてゐた。その年出た ﹃雑誌 改造 の四十年﹄ に は ﹁ 編集プランの 作成 [] には、社外の木村毅及び 改造 創刊時の 亣 芸欄を担当した高須 芳次郎に依嘱した 10 ﹂と記された。は傳聞、後は典據不、とは いへ共に改についての基本 亣 獻であり、そこで斯く高須芳次郞も 同列に記せられてゐたのにも拘らず、木村毅の喧傳の陰にあってそ れ以外の企劃協力のことは却されてきたのである。作業は至極單 純、高須と名が出てゐるのだからその名で書かれたものやその名につ いて書かれたものを探せば圓本に關はった記が見つかりさうなもの だらうに。だが怠慢を責めるのではない。この論家に食指を動かせ なかったのはらく硏究個々人の査不足といふより代 亣 學 び硏究の死角だからで、埋もれるだけの理由があったのだ。 高須が ﹁ 現代 亣 學集 の 新聞 亣 學 は、實は私の考案に基づ いた﹂と言ふ邊りは集の﹁大部﹂でなくその卷だけ關はったかに も受け取れるが、また﹁內容については、私の考へと大、ちがつた ものになつてゐる﹂とも言ふり、どうせ發案から刊行實現に至る間 には取擇の 試行錯が體にも各卷にもあった筈、この種の大型 企劃は謂はば集團した共同制作なのだから、多數の、確固一貫せず 時には矛盾さへする思惑が絡むものであって、木村とか誰とか特定少

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新聞 亣 學その他圈外 亣 學への脫線 數の創設體の意圖に元するのは固より單純した粗筋にぎな い。ましてや﹁木村毅と柳田泉﹂を名指して﹁たった二人の書物好き の男たちによる選別と排除﹂が 亣 學の﹁全体像を作ったかのような 幻想を生み出した 11 ﹂だなんて、陰謀論紛ひの物語である。大枠は木村 の入れ智惠にせよ、 それだけで作業ができようか。 例へば、 ﹃ 改﹄ の競合誌﹃中央論﹄輯だった木佐木の日記に、舊友の谷口武 が任として ﹁ 木村毅氏の推薦で文学全集の編集に当ることになっ た﹂ ﹁まるで文学全集を独りでしょって立っているように気負ってい た 12 ﹂とあり、その後も度々登場するが、谷口ら熱心な現場の聲も反映 したらう。さうやって多元する一端として、高須芳郞といふ名も 有力さうだとまでった。あとは傍證を固めればよい。 高須の﹁治 亣 壇人の印象﹂の引用したすぐ、 ﹁ ○谷崎潤一郞氏﹂ の項のりは 、﹁初對面を會に 、間もなく氏から私のところへ手紙 が來た。開いて見ると、その時、私が創刊の際にいろいろ盡力した 雜誌﹃改﹄に執筆するから、稿料を借したいとあつた。で、私は 早、 山 本實彥氏に話し、 稿料を屆けて貰つた。それが潤一郞氏の ﹃改 ﹄に寄稿した最初である﹂と結んであった。初對面の時は﹁はつ きり覺えてゐない 。﹂ ﹁ 大正九年頃と思ふ﹂とする 。﹃ 改﹄創刊は 一九一九 ︵大正八︶ 年四號であり、同年三三日附 ﹃ 讀賣新聞﹄ 息 ﹁よみうり抄﹂ に ﹁ 高須梅溪氏        は 新論 を宰する傍ら、今後 政治 亣 學雜誌 改 の輯問たるべしと﹂とあった。谷崎潤一 郞 の初揭載は同年六號の ﹁靑磁色の女﹂ ︵↓改題 ﹁西湖の﹂ ︶ 、が 一九二〇年一號載 ﹁上﹂ で ある。創業長である山本實彥の ﹁創 刊後の思出﹂ ︵﹃改﹄一九五〇年四號﹁特集   改創刊三十年に寄 せて﹂ ︶ にも ﹁高須溪が 亣 壇方面を擔當した﹂ と言はれ 13 る。しかし ﹃ 雑 誌 改造 の四十年﹄では高須が 亣 藝記事の輯に關はったことは觸 れる度で內實は不詳、それよりも﹁創作欄の充実﹂は一九二〇年一 に﹁新たに滝井孝作が入社して、専任の文芸欄担当記者となったこ とが、大きな力となっている 14 ﹂と特筆される。すると高須先任は一九 二〇年に入るともう手を引いたのだらうか、協力間は一年にも滿た ぬことになる。因みに﹃谷崎潤一郎書誌研究文献目録﹄ ︵永栄啓伸・山 口政幸、勉誠出版、二〇〇四年十︶ で引くと、 ﹃日本名 亣 鑑賞﹄ で 谷 崎の 亣 を收錄した卷はってあるがこの報の回想 亣 は記載漏れ、こ こでも高須芳郞の働きは埋もれてゐるわけだ。ともあれ山本は東京 每日新聞長であったか 15 ら創刊スタッフも同紙記が多く、高須も また同紙學藝部 16 長であった。さうした改との舊緣からして、出版 企劃にあたって助言を求められるのはありさうなこと。以上は外在條 件だが、高須に內在する事由としては、に ﹃代 亣 藝論﹄ ﹃ 日 本 現代 亣 學十二﹄をして治大正 亣 學硏究家でもあったから﹃現代日 本 亣 學集﹄ のやうなプランを監修する動は十あった。 これまで看ごされてきたことだが、れば、當初のうち木村毅は 圓本のプラン ・メーカーたることを後年の如く誇り顏で語らなかっ た 。 むしろ惑がった 。﹁無專門家の隨筆 上 ︵﹃讀賣新聞﹄一九二七年 六六日︶ の中、ついでのやうな口を裝ひつつ、 ﹁現代日本 亣 學 集のリストを私が作つたと云ふ﹂ に 對し ﹁辯﹂ を插んでゐる。 之は宇野二氏が報知に於て先づ流布し最は東京日々にもそん なゴシツプが見えた。が斷じて曰ふ。私は決してあのリストを したのではない。宇野氏はあのをじ其上で高須氏と私と

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新聞 亣 學その他圈外 亣 學への脫線 の名を特記して﹃訴へた﹄がつてゐたのだから間接には私の 擇眼をじた事になるのだが、氏自身、現在新聞紙に關係ある 職責から言つても 、 あのの眞否をもう少し正して貰ひたかつ た。それは氏自身改に聞いて吳れても、又報知の記を してもぐつた事だ。 私がしたやうに言はれると事實して功を立てた人に氣 の毒だし、それをぜられると不快である。私は只、改の 人が材料を借りに来た序 に二三集の見を徵されたので、思ふ をべたのと、從來の谷集に甚だしい脫があつたので、そ の補正を提言したに止まる。私は大正時代の作品には一言句も 言しなかつたのだから、もし自が除外されたために私をでも 怨んでゐるやうな作家があるとしたら、その恨みは解いて貰 [] いた たいものだ。 責任 伿 れの僞證、とは片づけられまい。事實、木村の關心は治が で大正 亣 壇にはかった。最もい時點におけるこのが信用なら ぬなら、歲を經た懷での自讚とて疑はしからう。右に言の宇野 二は 、一九二六年四から報知新聞客員であっ 17 た 。﹃報知新聞﹄一九 二六年十一十二 ・ 十四 ・ 十 五 ・ 十六日に四回載の長廣舌 ﹁代日本 亣 學に就いて

この一 亣 を山本實彥氏に

﹂で ﹃現代日本 亣 學集﹄ を檢討し、懷する 亣 學觀に照らして﹁この叢書にばれた作家作 品の集輯﹂への修正見を提示してゐる。まだ刊行の段階、新聞廣 吿と內容見本で收錄豫吿を見ただけの一番早い反應でこれほどの批 が現れたことは驚異であり、營利出版とも硏究ともった最も 亣 壇 標準に則した價觀からの代 亣 學像を對した同時代として 、 圓本論には好料と思ふ。しかるに發表時のを除けば、現在ま でく失されてゐ 18 る 。その第三回は 、﹁ 聞きひかも知れないがこ の纂あるひは纂の相談に預つた人の中に、高須芳郞氏と、木 村毅氏があるといふことを聞いた 。 外の人はどんな人か知らない 。 [⋮⋮] 私はその兩氏に呼びかけたい﹂ と結んでゐた。このり最初は 高須と木村とが竝記されてゐたのだが 、その後は 、 新聞 亣 藝のゴ シップ記事など漁っても ︵早い例が 、﹃東京日日新聞﹄一九二七年五五 日 ︿ ざつろく﹀︶ 、圓本企劃としては木村のみ取沙汰され高須の名 はなぜか見當らない。同時代にあってに埋もれかけてゐたのは、 らく、當時新の木村毅に比して溪先生は最早去の 亣 士と見られ ニュース・バリューが無かったのだ。その輕が後代まで引き繼がれ たのでないか。木村も後の回想では自のことを專らにべ 19 る。 石塚純一﹁円本を編集した人々﹂は出版におけるプランナーの出 現を見ようとした論だけあって 、 さすがに高須の名も ﹃ 雑誌 改造 の四十年﹄から拾ってゐるが 、﹁ しかしすこし妙なことに 、高須は 、 改造社版とはげしく競合した春陽堂版の﹃明治大正文学全集﹄の月報 に 明治大正小説発達史 を連載執筆しているのである。事情はよく わからない 20 ﹂と他の圓本への關與も記して疑問にしてゐる。附け加へ ると、この ﹃ 春陽堂報﹄ の 載二十六 21 回以外にも高須は、 ﹃治大正 亣 學集   第十一卷 ﹄ ︵一九二八年十一︶ で樗牛解題を擔當してもゐ る。その一方で、改の圓本宣傳のための地方 亣 藝演會員に驅 り出されてゐて、 ﹃改﹄ 一 九二七年八號 ﹁日本游﹂ 特 輯には他の 講演と共に高須の ﹁ 南國景﹂ が 載った。 當時は改營業部員だっ た牧野武夫の思ひ出によれば 、﹁武者小路実篤 、佐藤春夫 、高須梅渓

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新聞 亣 學その他圈外 亣 學への脫線 の三氏を講師とする講演班﹂と九州へ隨行した際﹁高須老はその頃す でに半ばアル中と見られるほどの酒仙ぶりで、飄々浪々としていたが さすがに講演はうまかった﹂ と のこ 22 と。 ﹃改 亣 學報﹄ にも高須の 寄稿がある ︵第二 ・ 四十 ・ 五 十六號︶ 。對抗企劃の仕事を掛持ちするとは 義理が惡いやうだが、木村毅とて春陽堂から相談を依賴されて初めは 斷ってゐたが懇もだしがたく﹁改造社と抵触しない範囲で参加しよ うという事にした﹂のであり、 ﹁ 私の口を出す余地があまり無かった 23 ﹂ とは言ふものの 、﹃春陽堂報﹄に二回寄稿してはゐる ︵第二 ・ 八號︶ 。 もしかすると 、さまで異とするに足りぬことだったのか 。それとも 、 改集には初段階での基本想に加はっただけで後は手を離れ たからか。他に高須が圓本集との關はりをべた 亣 獻は今の見つ から 24 ず、各との事はなほらかでない。けれど、知るべきはこれ に關はり得た以よりも集に現象したその發想法、觀 念である。 三   新聞文學といふ雜種ジャンル 圓本 亣 學集總體との關係から 、そろそろ新聞 亣 學の卷に焦點を ってゆかう 。問題の ﹃新聞 亣 學集﹄は實際には增卷にって第 五十一となり一九三一年五第五十四回配本として出た。初め豫吿 にあった十四名中より矢野溪・森田思軒・竹越三叉が無くなり、古 澤滋・栗本鋤雲・犬養毅・西園寺・原敬・鳥谷部春汀 ・大柯の七名が加はっ 25 た。奧附には﹁纂   山本三生 26 ﹂と あるが、これは長山本實彥の實弟で、名目上の標記にぎまい。 改版 ﹃現代日本 亣 學集﹄の特色として屢々擧げられるのは 、 大を占める作別の諸卷よりも﹁テーマ編ともいうべき巻 27 ﹂の ことで、 ﹁ことに開 亣 學集、 戰 爭 亣 學集、 會 亣 學集、 新 聞 亣 學集、 宗敎 亣 學集などは、 以 後の集に見られない 28 ﹂ と 價されたやうに、 ﹃新聞 亣 學集﹄ も 代表例である。その後 ﹃日本現代 亣 學集﹄ ︵談、 一九六〇∼六九年︶ や ﹃ 治 亣 學集﹄ ︵書、一九六五∼八九年︶ で は硏究寄りのテーマ別輯にも多少配慮され、特に﹁従来の小説偏重 の狭い 亣 学観を排し﹂と帶に謳った後で第九十一卷に﹃治新聞人 亣 學集﹄ ︵西田長壽、一九七九年七︶ が立てられたのは改版の發 想をんだと見える 。 亣 學硏究の中で圓本論を專攻する髙島健一郎 は、圓本が創始した代 亣 學作品を集する叢書形式に對して﹁近代 文学全集﹂といふ總を立て 、﹁原則として 、 明治以降を網羅し 、巻 の順序を時間的に配列すると同時に、巻割りが文学者の個人名で行な われているもの 29 ﹂ と 定義したが、 ﹃新聞 亣 學集﹄ 等の卷の場合、その 別といふ大原則かられて題別乃至ジャンル別といふ異質な 原理が上位に立ってゐ、固有名詞が立ち列ぶ中に普名詞の卷名が入 りんでゐるところが目を惹きつけるわけだらう。新聞 亣 學なら新聞 亣 學といふ念がち上がってくる、實念論めいた魅力である。 同樣に ﹁ 集 本の企画には、厳然とした文法がある。まずそれぞ れの巻が作家別に編まれるという原則がある﹂と斷じ、その﹁特定の 作家と作品を正 典化していくという、強い政治性 30 ﹂を問題にした小森 陽一は、代日本 亣 學硏究に支配な﹁作家論﹂は 亣 學集のフォー マットを基盤にしてゐたと見、その發祥である圓本の想にこの硏究 野の開拓たちが携はった件を重して夙に木村毅・柳田泉のコン ビを特筆してゐたけれど 31 も、そのやうに批するならば正に作家別で なしに卷立てした書目が竝行してあったこと、この斷に、篤と目を

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新聞 亣 學その他圈外 亣 學への脫線 向けるがよい ︵例外は常事例よりも興味深い、とはカール・シュミット ﹃政治神學﹄ の曰く︶ 。しかも、うち少なくとも ﹃ 新聞 亣 學集﹄ の卷は木 村毅でなく高須芳郞の原案らしいことを考慮すると、またった 亣 が見えてくる。柳田木村といった斯界知名の士、これまで硏究上 も反復されてきてば定型句としてゐる固有名をなぞりすだけで は、一元した源のりを重ねるばかり、 觀にならう。 芥川之介ならぬ後世の讀まで﹃新聞 亣 學集﹄の標題に目させ られるのは 、まづは 範 疇 錯 と言ふか 、 亣 學集の法をはみ出 した和感が提にあったわけだが 、特に新聞 ︱ 亣 學といふ複合語の 場合、 ﹃宗敎 亣 學集﹄ ﹃ 戰爭 亣 學集﹄ 等と比べても据わりが惡い。 ﹁ 宗敎﹂ や ﹁ 戰爭﹂ ならその 亣 學が對象とする題材を指すが、この ﹁新聞﹂ は ふ。よく言ふ新聞小說の同義語でもない。小說に限らぬは勿論、新聞 紙上の續き物も外に入るにしろ 、單に揭載場以上の含みを持つ 。 ﹃新聞 亣 藝﹄ ︵無名↓ ﹃新聞學書   上卷 ﹄ 大日本新聞學會、 一九一九年?、 收︶ といふ義錄ものの一もあったが、この語形は ﹃ 治 亣 學集 別卷   總索引﹄ ︵書 、 一九八九年二︶ にも立項無く 、﹃漱石全集 第二十八巻   総索引 ﹄ ︵岩波書店、一九九九年三︶ で一箇だけ、 ﹃英 亣 學形式論﹄ ︵初刊一九二四年︶ 中にトマス ・ ド ・クインシーの言を引い て ジアーナリステイク、リテラチユーア ﹁ 新 聞 亣 學 ﹂ とあるのが見つかる 。ここで ﹁新聞﹂は形は名 詞でも働きは形容詞であり、 ﹁ 新聞﹂ ﹁ 新聞 32 ﹂とも言へよう。新聞 紙そのものといふよりジャーナリズムを指すとなると一漠然として 捉へどころがない。治の語彙なら ﹁ 操觚流﹂ にいか。 同時代では、 ﹃新聞 亣 學集﹄ の 二年後、長谷川如是閑が ︿岩波座日 本 亣 學﹀ の一册として ﹃新聞 亣 學﹄ ︵一九三三年四︶ をしてゐた。そ の張は、 ﹁新聞は一つの 亣 學の形態である。常 ﹃ 新聞 亣 学﹄ といへ ば、 新聞紙に現はれた 亣 學方面、 殊に創作のことをいつてゐるのだが、 それは 亣 學が新聞に現はれたのみで、新聞 亣 學それ自體ではない。新 聞そのものを 亣 學の一形態と見ることによつて﹃新聞 亣 學﹄が存在し 得るのである 33 ﹂と言される。常識を顚倒させた發想は面白いが、か うなると ﹁新聞﹂ の味も ﹁ 亣 學﹂ の範圍もどんどん擴張され轉され、 論理が混亂してしまふ。もっと、その念を根本から問ひす必 があったのだが、素描に沿った示唆に留まった。 そんな先人の苦勞など知らぬ氣に、後代の 亣 學硏究はり切った 定義を下してしまふ。小坂部元秀 ﹁新聞文学 34 ﹂ の 頭はかうだ

﹁は じめに 新聞文学とはなにか が問われなくてはなるまい。 新聞文学 なる用語を広義に解釈すれば、それは当然新聞紙上に掲載された文章 のうち文学的評価に堪え得るもの、即ちいわゆる新聞小説から詩歌評 論にいたる純粋に文学として独立に評価されるべきものをも含むこと となり、狭義には新聞人が新聞紙上に発表した文章中文学的評価に堪 えうるものとなろう﹂ 。は、 ﹁新聞紙上﹂ と いふ發表媒體で押さへて、 ﹁文学﹂が價優越を表はす語にされてゐる 。無批に自された 亣 學識だ。その上で、 ﹁これまで 新聞文学 なるジャンルが近代日 本文学史上に確立されていたとは言えない﹂としながら改版﹃新 聞 亣 學集﹄の內容を紹介したが 、﹁これをみても新聞文学なるものは 必ずしも明らかではないが、一応新聞文学を狭義に解しているとはい えよう﹂と、實例を出したことで却って齒切れが惡くなってゐる。そ れだから一狹義に限定 すべく、 ﹃治 亣 學集﹄では 新聞人 亣 學 といふ風に ﹁ 人﹂を單位とする作家義に歸屬させられたのだらう 。

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新聞 亣 學その他圈外 亣 學への脫線 ﹁新聞文藝の作家たちはその作品に名しなかつた爲に名さへ傳は らなかつたのも多いであらう﹂ ︵ ﹁ 亣 藝な、餘りに 亣 藝な﹂ 二十︶ と芥 川之介がしてゐたのに。蓋し新聞 亣 學と言ふは、揭載が新聞 紙上とか執筆が新聞人とかいふ外在事象を超えて、それ自體が帶びる 性を形容するのに﹁新聞﹂で象徵させたと解すべきである。新聞 なもの、それを 亣 學として識すること⋮⋮。 では抑も﹃新聞 亣 學集﹄自身はどう念規定したか。解說が無い代 り無名の﹁總序﹂がある。まづ、治 亣 學をる上で﹁どうして も越えて行かねばならない一つの徑路に、新聞 亣 學がある。ジャア ナリズムといふと、とかく純正 亣 學から異端され、 亣 學の領域から 取り放される傾向があるが、それは、新聞び 亣 學に對する、正當な 識であるとは云ひ得ない﹂と說きこし 、﹁ 治 亣 學と新聞 亣 學 の涉になると、その接する密度はもう對である﹂ と斷ずる。 新聞 亣 學と 一口に云つても 、その接觸面は限り無く廣汎であ る。が、治の新聞 亣 學といふ限りにおいては、その中樞たるべ き新聞 亣 章が、日本 亣 學の樣式にぼした大な革命を擧ぐべ きであらう。歐 亣 、 亣 、 和 亣 の三つ巴が涯しなく入りまじつた、 治初の未曾有の 亣 章混亂において、新日本の 亣 章を、一 つの 亣 章系統の上に、 整 理し、 統 一した ﹁ 時 亣 ﹂ こ そは、 ま ことに、 新聞、雜誌を母胎として生れ、また、新聞、雜誌のみからの [ ] み發 生さるべき新 亣 章の王國であつた。それは、記と論の二つの 世界に君臨して、思想の表現と、描寫の自由淸新において、未だ 嘗て求め得られない新生命を、廣く當時の 亣 學、思想界に吹き んだ劃な業績であつた。 新聞と 亣 學との重なりを何より﹁ 亣 章﹂に於て見ようとの提案で あり、以て﹁治、大正の時代相と共に、代 亣 章の生長の跡が、最 もしきものなることを知るに足るであらう﹂ と 締め括る。 テーマ別への目から ﹁たとえば新聞文学とは聞きなれぬ言 葉﹂ と言って右の ﹁總序﹂ を繙いた石塚純一は、 ﹁ 執筆者は明らかでな いが 、文学を歴史文化の広い文脈の中に置いて捉えようとする 編集 の意図が明瞭である 35 ﹂と、そのエディターシップを高く買ふ。但しそ んな圖が貫徹されたかは別問題 、定の本 亣 各に照らすと怪し い 36 し、企劃を名乘る高須芳郞すら不滿を漏らし將來の課題として ゐたのだが、 ﹁ 亣 章﹂と古風にすることで廣く 亣 學現象を受け容れ ようとしたことはめてよい 。 文體論=樣式論 ︵ stylistics ︶ がジャンル 論やメディア論へとずる方向での問題設定ではある 。その點 、 ﹁ジャーナリズムの作品もまた 、 広い意味でなら文学ととらえ 、 全集 に含めてみてもいいという程度の譲歩ではない。むしろ新聞が生んだ 新種の文章と文体こそが、日本文学史の構築に欠かせないという、突 き詰めていけば文学概念そのものの変革に関わる積極性である 。﹂﹁ そ のとき 新聞文学 とは、文章の世界、すなわち書く文化にもたらさ れた新しい様式の領域であった﹂と佐藤健 37 二も、この﹁總序﹂を價 する。 この新聞文学の規定は、存外に意欲的である。新聞に発表され た文学作品でも、新聞記者が書いた小説や創作でもなく、新聞と いうメディアが生み出した言語表現の様式そのものにおいて、そ の理念を成り立たせようとしているからである 。いいかえれば 、 新聞という社会的な言語技術の形式そのものを 、﹁文学﹂に変革

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新聞 亣 學その他圈外 亣 學への脫線 を生みだし、新たな形態を基礎づけるものとしてとらえようとい うのだから、この企図それ自体が文学史である。 續けて佐藤は、殘念ながらこの理念は成されず﹁この一冊は新聞を 文筆活動の舞台とした新聞人たちの文章集成に終わってしまった﹂ と、 ﹁現実的な限界﹂ に も留意する。しかし、新聞 亣 學について ﹁ この 概念が占めようとした位置と、そこに潜在していた可能性についてあ らためて論じる﹂と吿げ 、 實現した結果に留まらず託された ﹁理念﹂ を批してゆくのであればのこと 、﹃ 新聞 亣 學集﹄一卷を離れて 、 さうした觀念が當時實際にどれだけ擴がりを有してゐたのかを展す べきだ。佐は、ここでの新聞 亣 學を ﹁戦後には 記録文学 や ルポ ルタージュ ノンフィクション ドキュメンタリー ということばの 下に埋もれてしまった﹂ 先驅と見做してをり、 間ひではないものの、 それでは報にして論 38 の方面の把握がい。についても﹁誰 の発想によるものか﹂と首を傾げてやりごしてゐたが、發想の共有 を見渡すなら例へば、新聞 亣 體﹁時 亣 ﹂の歷義は千葉龜雄﹁新 聞と 亣 章 39 ﹂も說くであって、そこに擧がった面々は民友一を 筆頭に殆ど報記といふより論家や ﹁短 ﹂ 擔當である。 木村毅は ﹃現代日本 亣 學集﹄ について、 ﹁ 文学という中に、初期の 戯作、漢文から通俗小説、家庭小説、少年文学までおさめ、さらに宗 教や、史論から、新聞記事や、戦争記 ︵ これは山本 [實彥] 氏がいいだ した︶ まで入っている﹂ と 指摘して、自ら言ふ。 東洋では、昔から ﹁文章は経国の大業なり ︵巍 [魏] の文帝︶ ﹂ で 、 明治中期までの文学史をみると、 福沢諭吉、 中村敬宇あたりから、 知泉、羯南、雪嶺、蘇峰などの学者的文人や新聞雑誌の時論が中 心で、小説家など正面座敷の存在ではない。明治末年から関東大 震災あたりまで、まだ、池辺三山、山路愛山、内田魯庵、長谷川 如是閑などが、文壇人としても最高の大家として仰がれ、そして 文学とは時事論、史論、宗教論、社会問題などもふくめた広範囲 のものだったのである。それを全面的に反映したのが改造社の最 初の円本 ﹁現代日本文学全集﹂で 、その後は 、これが切断され 、 文学とは、 小説戯曲、詩、文芸評論、随筆の、いわゆる軟派の著 作に限られることになった。改造の全集は、その両断の分水嶺を なして 、広義の文学をあまねく収録した最後の出版となったが 、 これは、 昔からの東洋の文学観の踏襲であると共に、 ま たじつに、 古今の典籍をひろく網羅したハーバード・クラシックスが、手本 となったからなのである 40 。 亣 章經國といふ常套の名言で 亣 學觀を語ると、民まで士大夫になっ てしまふ。瀨沼茂樹も、 ﹃現代日本 亣 學集﹄ が春陽堂版 ﹃ 治大正 亣 學集﹄より優れると見 、﹁それは広義の文学の解釈に立って 、いわ ゆる硬文学までをおさめ、文学を再評価する態度に出た高い見識によ るもの 41 ﹂としてゐた。 亣 學の廣狹兩義を軟といふ二法に對應させ るのは不當で異議あるもの 42 の、新聞 亣 學を組み入れる 亣 學念の見 しがされるところだ 。のち木村毅は ﹁新聞と文学

徳富蘇峰 論 ﹂でも﹁新聞の社説は硬派の文学として尊重され﹂云々と論じ、の みならず ﹁ 現代日本文学全集 を刊行した時、私は 徳富蘇峰集 の 内容選定を託せられた﹂ と得の裏話をす 43 るが、 ﹁新聞と文学﹂ と いふ 題にも拘らず ﹃新聞 亣 學集﹄ の 方には然觸れてない ︵木村の性格か らすると、 自が關はったことなら吹聽しさうなもの︶ 。他に木村は、 ﹃改

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新聞 亣 學その他圈外 亣 學への脫線 亣 學報﹄ 第 五十二號 ︵一九三一年四︶ に ﹁﹃新聞 亣 學集﹄ の 魅力 44 ﹂ を寄稿してゐたけれども、これは回配本の宣傳として、收錄され る各人の名を擧げながら短い感を列ねたものであり、結語から渡米 の怱卒の間に草したと知れ、また 亣 中に﹁このにのるかのらぬ かは知らないが﹂などと言ふからして、少なくともこの時點では木 村は ﹃新聞 亣 學集﹄ の 輯に立ち入ってなかったことになる。 一方、高須芳郞における﹁新聞 亣 學﹂といふ語の用例は、日本 代 亣 學硏究の一册目である ﹃代 亣 藝論﹄ ︵一九二一年五︶ に見 えるのが早い。第二第三章 ﹁徳富蘇 [] 峯を中心とした民友﹂ 中 ﹁ ︵五︶ 蘇峰が創始した人物論と政治記事の 亣 學﹂ので 、﹁彼れは 、斯 くして、隨に新聞 亣 學の新領土を開いた﹂とべ、章末でも民 友について﹁硯友のやうに、小說のみに限定せられないで、後に は、各方面に流して、日本の新 亣 設の上にも、新聞 亣 學、雜誌 亣 學乃至小說、新體詩の上にも、廣く、影 伕 したのである﹂と結論し てゐ 45 る。いで、 これは改の圓本の企劃發表とほぼ同時だが、 ﹃改 ﹄ 一九二六年十二號特輯 ﹁治 亣 學のおもひ出﹂ に 寄せた ﹁治 亣 壇印象記﹂に ﹁新聞 亣 學に新生面を開いた澁川玄耳﹂といふ一句が あ 46 る。また﹁島柳北の新聞 亣 學﹂と題する論を﹃日本 亣 學座   第 六卷﹄ ︵新、一九二七年四︶ の ﹁ 雜錄﹂ に 載せ、 ﹁柳北の 亣 學はこ れを雜誌 亣 學として、新聞 亣 學として見るべきものが多い﹂と自說 を立ててゐる。 ﹃新聞 亣 學集﹄ のたる格は木村毅以上にあった。 これらは高須の代 亣 學研究の一としてされてをり、その他 の論考と倂せて傾向や特質を窺ふことで、柳田泉・木村毅の名と共に しばしば語られてきた治 亣 學硏究事始めとは異なった系列の、大震 災後興った流行以のを引く硏究が把捉できよう。 四   日本代 亣 學硏究論の佚された傍系 高須芳郞の國 亣 學硏究については、よく取り上げられるのはそ の方面の最初の書﹃近代 亣 藝論﹄で、これに﹁第四   自然義 時代﹂ を 增補した改版 ﹃治 亣 學論﹄ ︵日本論、一九三四年十︶ 、 また ﹃ 日 本 現代 亣 學十二﹄ ︵︿ 思想 ・ 亣 藝話叢書﹀ 新、 一九二四年一︶ びその增訂 ﹃治 大正 昭和 亣 學話﹄ ︵新、一九三三年九︶ も倂せて、 同系で一括りにされる。いづれも五百ページを超し入門書の域を脫し た力作である。高須芳郞 ﹃ 治大正の 亣 學﹄ ︵︿日本大學藝科座﹀ 第參囘 ・ 亣 藝、 日本大學出版部、 一九三五年八︶ は稀だが、 五十ペー ジで義ノートといったところ。當人は﹃代 亣 藝論﹄卷頭﹁本 書の內容に就て﹂で治大正の 亣 學執筆に志したのが﹁今から八年 のこと﹂ とし擱筆時を ﹁大正十年初夏﹂ と 記す。 ﹃ 日 本 現代 亣 學十二﹄ ﹁序に代へて﹂に ﹁ いつか大規模の現代 亣 學を書くつもりで [ ⋮⋮] 大正八年頃に人知れず思ひ立つた﹂ ︵ p.5 ︶ とあるのと年代不一致だが、 とりあへず發心は一九一三年から一九一九年の間としておく。よって それ以の生については愛し、各種 亣 學事典の﹁高須梅渓﹂の項 や﹃近代文学研究叢書 第六十三巻 ﹄の記に讓る。ただ、日淸日露戰 間の靑年世代に屬し﹃新聲﹄記として文名をしたこの 論家の 亣 學出自が、治三十年代といふ 亣 學上特異な時 47 にあった事だ けは指摘しておかう。精神析めかして診斷するなら、後年の高須の 活動は自身の出發への固着からくる反復强とも見られ、治四十 年代の自然義以に立した代 亣 學觀からする歷像には收まり

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新聞 亣 學その他圈外 亣 學への脫線 切らぬと言はれる複雜多樣な治三十年代の諸素が高須をして再 上したと覺しい。高山樗牛の影 伕 一つとっても然り。 他の 亣 學と比べた﹃代 亣 藝論﹄の特色は﹁文芸評論を新たに 文芸のジャンルのなかにとりいれて、よりひろい文化現象のなかに文 学の発展を見ているところ 48 ﹂とか﹁文化史的な原理に自らの文壇体験 を織り混ぜた記述によって構成 49 ﹂とされるが、一般 亣 から 亣 學 へと赴いたことは ﹃ 日 本 現代 亣 學十二﹄ ﹁ 序に代へて﹂ でも觸れてゐ た 。その點 、﹃代 亣 藝論﹄が同じ日本論出版部から年出し た高須溪 ﹃ 治 大正 五十三年論﹄ ︵一九二〇年九︶ を基礎としたことを みないのは手落ちだらう。卷頭﹁本書の方針﹂に、初め 亣 を目指したのだが背景知識が無いと理解されいため政治との折衷 になったと斷ってゐた。第に學究傾向を强めた高須は、大震災後 の﹁ 亣 壇囘錄﹂のきでは﹁今の私は 亣 學と歷の和といふ 立場にゐる。新しい見方の下に思想、 亣 學史乃至一般 亣 を出來 るだけ 、合理性に徹して藝表現の下に書きたい希を以てみ つゝある。それは純 亣 學といふ方でないかも知れぬ。けれども 亣 學 の上に考察、硏究を用ふる點で、私の小さい仕事も亦 亣 學に 緣が淺くない 50 ﹂と言ふに至る。この時のに、大隈侯八十五年 纂會・刊 ﹃大隈侯八十五年﹄ 三卷 ︵一九二六年十二︶ がある。 名標記こそされねど實質上の執筆は輯任たる高須で、瀚 な傳として自信作であったやう 51 だ。 亣 に擴げた 亣 學を、とは関井光男﹁日本近代文学研究の起源

明治文化研究会と円本

52 ﹂の說くであった。先の小森陽一も、木 村毅・柳田泉に代表される草創の先人らが昭和初の 亣 學集の 纂をじて後代の代 亣 學硏究の範型を形したと目しつつ 、圓本 ブーム後に代 亣 學がアカデミズムに知され一九三二年に治 亣 學 會や治 亣 學談話會が發足するにつれ ﹁ 広い意味の 明治文化研究 から 明治文学 研究を分離し、特権化し、かつ囲い込んでしまった 53 ﹂ と批する。硏究自らが斯學の據って立つ制度された硏究を根 元から反省する、大きなへを見せてゐた。現にカルチュラル・スタ ディーズと言ひ 亣 硏究と云ふも、多くは現代 亣 より去をふ 亣 硏究となってゐる。ならば、治 亣 硏究會と別に早くから 亣 を素志とした高須芳郞の 亣 學にも一言あって然るべきところ 。 硏究上での銘柄を讀み換へてみせる解釋ゲームも結だが、も う少し外性のある發掘がはないと却って正典を鞏固にする一方で ないか。 典の相對には、外 典との對である。 といって列 ︵ canonization ︶ の加申に陷ってはなるまい。高須一 人の固有名を顯彰したいのでない、むしろを示す代名詞か集合名詞 と見たく、事實その同がゐた。一九二八年秋頃から高須芳郞は 古巢である早稻田大學 亣 科出身の學士十餘名と現代日本 亣 學硏究會を し 、自身が輯發行人である季刊誌 ﹃東方之星﹄ ︵東方 亣 學 、 一九二五年六創刊當初は刊︶ に會員の論 亣 を揭げ 54 た 。會員一覽の 銘々をべ上げる紙幅は無いから、特に一人、最も業績のありさうな のみ擧げておく。名は渡邊竹二郞、曾て靑柳優らと同人誌﹃世紀 亣 學﹄ ︵世紀 亣 學、一九二七年十創刊︶ に參加して新感覺擬きの衞 小說を披露した 亣 學靑年だが、 ﹁のち 国文学研究 にすぐれた有島論 や一葉論など発表、疎開して長野に住まい、晩年は名古屋にも出て大 学の教員として活躍した 55 ﹂。 高須﹃治 亣 學論﹄ ﹁自序﹂結尾には

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新聞 亣 學その他圈外 亣 學への脫線 ﹁尙ほ本書の 自然義時代 に關して、材料査に盡力してくれられ た 亣 學士渡邊竹二郞君の勞を謝する﹂とあった。渡邊が戰に發表し た論 亣 中五本を谷沢永一﹁明治文芸思潮研究の展望﹂が﹁ 28   自然主 義﹂の項で列擧し 、﹁当時として興味ある着眼であり 、渡辺に限らず 戦後比較的沈黙している研究者の場合、その戦前の業績を軽視せぬよ うに努めよう 56 ﹂としてゐる。敗戰後も﹃長野県短期大学紀要﹄等 に論文を發表したけれど、題目は古典の方が增えてゐ、古典 亣 學に轉 じたのは今 仁 など他の會員にも見られる。國 亣 學科の制度上、代 が專門として自立せず古典に寄食してゐた經によるり行きだら う。斯くて乏しくも職業硏究を出した現代日本 亣 學硏究會は、硏 究上に名高い治 亣 學會や治 亣 學談話會に先立つこと四年の結 であり、本間久雄とも柳田泉や稻垣郞とも異なる筋で早稻田の 代 亣 學專攻の學徒が高須芳郞の圍に集合してゐた事實があっ 57 た。 そこに共の性格なり論なりが窺へるかは料不足で未詳だが、硏 究論を一本で捉へず複線するためにはぶべきではないか。 なほ、 亣 學で論 ・ 隨 筆ジャンルの義を强する高須は、一九二 六年十二、論・隨筆家協會 ︵中黒﹁・﹂は無いことも︶ 創立に至っ てゐる。發人二十二名中十三名が稻門關係であり、當初から常任 幹事に就いたのが高須であ 58 る。だがこの團體も菊池寬らの 亣 藝家協會 の活の陰でれられてゐ 59 る。 ﹃ 昭和三年   論隨筆家名鑑﹄ に始まり ﹁昭和四年﹂ 以 ﹁昭和七年﹂ 度 まで ﹃論隨筆年鑑﹄ を 刊、全て奧 附の﹁發行﹂は高須芳郞、毎年度の展を擔當したのは 論が大槻 60 二 、隨筆が小島德彌 。小島 ﹃ 治 大正 新 亣 學觀﹄ ︵敎 亣 、 一九二五年六︶ を、形田太 ﹁ 治 亣 學硏究﹂ は高須 ﹃現代 亣 學 十二﹄の後に列べて﹁略傾向を一にしてゐるもの 61 ﹂とする。高須 ﹃日本名解題﹄ ︵︿大日本百科集﹀ 亣 堂、一九二八年八︶ は大和 時代から現代までの名作 亣 學を紹介する俗參考書だが 、﹁ 序﹂末に ﹁小島德彌君が本書の一部を執筆して種々助力された﹂とあり 、 亣 學 家としても協力關係にあった。早稻田人からの擴がりだらう。 亣 學の擴張は、高須芳郞において二りの方法が見られる。一 つは 亣 だが、その長上に 亣 論・ 亣 批もある。高山林郞 ︵樗牛︶ ﹃ 提 世界 亣 ﹄︵ ︿帝國百科書﹀ 亣 館、 一八九八年一︶ によっ て政治と對比される味での 亣 に開眼したらしい ︵高須 ﹁治の 論史傳補﹂ ﹃日本 亣 學座   第八卷﹄ 新、一九二七年七︶ 。樗牛 は Kultur geschichte だがまだ 亣 といふ譯語が無くて 亣 としたと 、 姉崎風の解說にあ 62 る 。 高須は 亣 壇復歸と共に自ら創刊した刊誌 ﹃新論﹄ ︵一九一四年十一∼?︶ で ﹁ 一体、私は文明批評に力を尽し たいといふ念願を持つて居ります。今の日本では、各種の学術、文芸 が、余りに分派し、孤立しすぎて居ます。私は政治、宗教、教育、文 学、演芸、美術の諸現象を同じ水平線に置いて、毎月、その現象を記 述、且つ評論したいと思つて居ります 63 ﹂とべた。その代 亣 學 は自するり特に論の方で詳細だとめられ 64 たが 、﹁ 狹い純 亣 學の批に局促してゐたくはない。人生論乃至 亣 批を試みてみ たい 65 ﹂といふ﹃新論﹄の頃からのに照らせば、 亣 藝批に留ま らず、論をじて 亣 學を擴大路線に乘せる總合志向があった。殊 に文批は大正論壇の特 66 色で 、﹃ 新論﹄から出た土田杏村な ど好例だが 、 但し氣焰ばかりの疎な抽象論ともなりやすい 。﹃ 東洋 思想十六﹄ ︵新 、一九二五年四︶ を皮切りにオリエンタリズム

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新聞 亣 學その他圈外 亣 學への脫線 を提唱し新日本義へとんだ高須の言論は正にそれ 。﹃ 日本精神 亣 座﹄ 第一∼六册 ︵東方 亣 學、 一九三〇年五∼九︶ に就くといい、 いささかシュペングラーめいた世界 亣 論でもある。これがのち戰時 下に水戶學を奉じた右傾につなが 67 るが、いまさら糾彈するにもぶ まい。竹内洋・佐藤卓己﹃日本主義的教養の時代   大学批判の古層 ﹄ ︵︿パルマケイア叢書﹀ 柏書房、二〇〇六年二︶ が光を當てたやうな日本 義 亣 論の先として蒙家高須の 亣 敎活動を跡するのも一興だ らう。 ただ、大仰な 亣 論は一面で早稻田の學風でもあったことは勘案せ られたい 。東西 亣 和論はかねて開學の ・大隈重信の唱へると こ 68 ろ。 そして柳田泉もまた後年まで ﹁日本を中心に立てて、 東洋 ︵支那︶ と西洋の文化の調和を考え、その調和から独創の日本を生み出そうと した 69 ﹂といふ治時代の理想を提とすることを說いたが、その限り で高須芳郞と同系であり、和洋三學融合の大方針で內逍遙門の 先輩後輩は一致してゐた 。右は柳田によく引かれる一とはいへ 、 そんな義で以て價するなら高須とて同列になる筈、共した背景 を踏まへて差異を對比すべきだらう。 亣 論に發し第に顯となる 高須の ﹁国家的イデオロギー﹂ については、その ﹁萌芽﹂ を剔抉して りと彈劾する吉田栄治﹁高須梅渓﹃近代文芸史論﹄ ﹂ があったが、 ﹁ そ の国家主義的傾向は、むしろ心情的なもの﹂で﹁理念的に確立されて いたとはいえない﹂と定し 、﹁彼の国家主義的文学史観が個別的 、 具体的な評価に際して価値判断の基準としての機能を充分にはたしえ ず﹂ ﹁固定的な観念としてあるいは抽象的な図式として彼の脳裏を支 配している﹂と見てゐる 。﹁ 個々の作家作品 ・文学動向その他につい ての把握や評価や史的位置づけやは国家主義的立場から裁断 されてい るとはいいがたい 70 ﹂、 と 。 批は尤もながら 、裏をせばそれは 、 個 別體に卽しての論は國家義に毒されてなかったと保證するに等 しい。現にイデオロギー反撥心ぬきに高須に接す 71 るなら、大言壯 語は讀み飛ばせばよいこと、體系立ってない剩餘に刮目の言句が拾へ る。高須の個人雜誌として出發した﹃東方之星﹄でも、初號以來の大 上段に構へた 亣 論なぞ詰まらぬが、同人に河野桐 72 谷らをへて誌面 刷新した一九二五年十一號から卷頭時﹁ 亣 藝と思﹂を斷章形式 で載せると、々の 亣 壇論壇に拾ったトピックスへの寸がえ、俄 然生を放った ︵田岡嶺雲ら ﹃靑年 亣 ﹄ の ﹁ 時 亣 ﹂ さながら︶ 。 亣 と は、政治中心の舊學に對抗して興ったもう一つの部門である一 方、あらゆる野を 亣 の名の下に總合する觀念論傾向もあり、畢 竟後の論は大高に立ち 亣 論と言ひ換へ可になってしまふか ら、 亣 の對念としての﹁ 亣 73 ﹂に義あらしめるには個別へ するベクトルの維持如何に懸ってゐるのだらう。 亣 學擴張法のもう一つは、 亣 章論であった。 亣 學中の美 亣 ・寫 生 亣 の硏究でも草けになる高須芳郞だが 、 ﹃ 日本名 亣 鑑賞﹄ 八卷 ︵厚生閣 、一九三六年二∼九︶ こそは最大の果である 。 內 容見本には ﹁ 亣 學として﹂ ﹁ 亣 章として﹂ と惹句を揭げ、ねて き混ぜた狙ひの﹁堂々たる集﹂=圓本式叢書であった。豫定の﹃古 代中世﹄ ﹃江戶﹄ ﹃ 江戶後﹄ ﹃ 治﹄ ﹃治後﹄ ﹃大正昭和﹄ 六卷から ﹃ 大正時代﹄ ﹃ 昭和時代﹄ を 册し新たに ﹃ 詩 亣 ﹄を 增 卷 して完結。 各卷は、 ﹁說﹂ でその時代の 亣 學を觀した後、 ︿敍事﹀ ︿敍﹀ ︿ 敍景﹀ ︿傳﹀ ︿ 隨筆﹀ ︿ エッセイ﹀ ︿ 日記﹀ ︿ 書簡﹀

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新聞 亣 學その他圈外 亣 學への脫線 ︿飜譯﹀ と別した個々の 亣 例に對し ﹁ 解﹂ ﹁ 解說﹂ ﹁鑑賞﹂ び時 に ﹁ 參考﹂ を附す。このなら ﹁ [⋮⋮] 雜 亣 などの步について書 くことが出來なかつた 。 小說本位になつたのは止むを得ない﹂ ︵ ﹃ 日 本 現 代 亣 學十二﹄ ﹁例言﹂ ︶ などとこぼさずに濟み、創作以外も多ジャンル が取りめる。一九三七年四より十一まで﹃名 亣 鑑賞讀本﹄と 改題再刊したのは、豫會員制だったから第二配本か。 無論これとて高須の獨創を頌したいのでない。名 亣 集や 亣 章作法書 に寄生しながら點綴されてきた 亣 章論の中の 亣 學の系 仺 がれる 。 亣 學とは別に 亣 學を部として攝する 亣 章 74 は、大町芳衞 ︵桂︶ ﹃日本 亣 章﹄ ︵︿ 國百科書﹀ 亣 館、一九〇七年五︶ を先蹤に、生 田長江 ﹃ 治 亣 章﹄ ︵日本 亣 章學院、 一九一四年 75 ?︶ 等が後に續く。 亣 館﹃ 亣 章世界﹄ ︵一九〇六年三∼二〇年十一︶ や新 ﹃ 亣 章 樂部﹄ ︵一九一六年五∼二九年四︶ は 亣 藝雜誌として 亣 學にはれ てきたが 、誌名から言ってもそれは 亣 章の一部であり一面である 。 五十嵐力 ・ 杉谷代水 ・部嘉香等 、 早稻田は作 亣 書にも功績大 76 だ。 小說家ながら宇野二は 亣 章批家として特筆すべきで、 ﹃ 亣 章來﹄ ︵中央論 、一九四一年十︶ に先立って早くから 亣 章論を以て代 亣 學に取り組むモチーフがあっ 77 た。何より、 谷崎潤一郎 ﹃ 亣 章讀本﹄ ︵中央論 、一九三四年十一︶ に代表される 亣 章論の時代とも言ふ べき思があって 、厚生 78 閣は ﹃日本現代 亣 章座﹄ ︵一九三四年四∼ 十一︶ や ﹃ 刊 亣 章﹄ ︵﹃刊 亣 章座﹄ として一九三五年三創刊︶ でそ の先陣を切ってゐた。續くこの ﹃ 日本名 亣 鑑賞﹄ は 、﹃ 新聞 亣 學集﹄ ﹁ 總 序﹂にも窺はれた 亣 章からの 亣 學の試みが、一大された體であ る。 高 須 ﹃ 亣 章作法問答﹄ ︵厚生閣 、一九三七年八↓厚生閣書店 、 一九三八年十一︶ は副產物にぎまい。また ﹁刊 亣 章臨時號﹂ と し て ﹃ 治の 亣 章・治の 亣 學﹄ ︵厚生閣書店、一九三八年七︶ といふ 治 亣 學特輯もあ 79 り 、總論擔當が 亣 學は鹽田良で 亣 章は高須芳 郞、各論執筆陣は柳田泉ら、中で上司小 80 劍﹁治時代の新聞記事﹂が 新聞 亣 學論にとっては拾ひ物だ。飜って現代でも、清水良典のやう な批家が 亣 學ではなく ﹁ 文﹂ だ ﹁ 純文章﹂ だ と言っての純 亣 學 念を打開しようとす 81 るものの、依然、創作を體とする有名小說家に 囚はれた 亣 學義があり、むしろ鴨下信一﹃忘れられた名文たち 82 ﹄の やうな雜 亣 の掘りしこそましい 。﹃刊 亣 章﹄においてもその 賣り物は溂たる六號記事、雜 亣 にあったのだから。 高須の 亣 學論を覽すると、如上の 亣 學擴張の二方法とは別に 手 法と言はうか、手つき、癖みたいなものがある。それがよく出てゐ る 亣 が﹁ 淸算に漏れた 治 亣 壇の人々 83 ﹂である 。頭から圓本に枕を 振って ﹁ 改、 春陽堂、 などの 亣 學集によつて、 現代 亣 學、 わけても治 亣 學に關係、涉ある作家たちの業績はほぼ淸算された と思ふ﹂と言ひ、だがそれでもなほ漏がある、他日の補の爲にも 一言する、 と 吿げる。冷に抗する代辯人を買って出る態度は、 論 ・ 隨筆といった非創作ジャンルへの入れとも同根であった。 一體、 亣 學といふ以上、原則として、論、隨筆方面の人々を もに網羅するのが至當であつたと思ふが、今、この問題には 觸れたくない 。 唯私が論隨筆家協會の末席にゐる一人として 、 ﹁現代エツセイ集﹂刊行の企畫を立てあると涉したが 、 立するまでに至らなかつたことだけをこゝに言してく。 續いて宮崎湖處子、原一庵、本吉欠伸、渡邊霞亭⋮⋮とれられた

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新聞 亣 學その他圈外 亣 學への脫線 亣 士を紹介してゆき、圓本に收錄はされた西村天囚・遲麗水等にも 他にもっと入れるべき作を推擧する 。最後に 、﹁するに 、現代 亣 學 は余 [] りに目まぐるしい變遷を經てゐるために、自然義ぼつ興時代に たうた [淘汰] された作家が少くない上にまた後から續々新しい作家 が出てくるために、曾て去に功勞のあつた人々も、冷めたく、あわ たゞしく、れられちだ。それは自然のすう勢で致し方もないこと だが、治 亣 學の淸算をなすに當つては、に擇をせねばならぬ 必がある﹂と結ぶ。自然義以に世に出た論家として含みのあ る言葉で、我が身のと重ねた同が底にあらう。が、愛を貫け ずに均しなみの ﹁ ﹂を大義名にしたが批上の味である 。 そこが、この 亣 學家の本は﹁勉めて客觀に描いてゐる﹂ので﹁新 しい又は銳い見解や發見はめられない。あまりに客觀なるため記 に煩雜﹂ ︵形田太 ﹁治 亣 學硏究﹂ ︶ との苦も出る以。 である書以外に新聞雜誌に發表した高須の 亣 學硏究の產物 には、かうした小事に就く落穗拾ひの勢が目に着く。埋も れたもの をほじくる考古學な眼差しは 、﹁好事家的穴探し的ないわゆるマイ ナー・ライターへの関心 84 ﹂といふ言葉で學硏究からは貶價されるも のかしれないが、さういふ志向 ︵いや嗜好か︶ から睨めばこそ目が利く こともある。體には例へば、揭﹁島柳北の新聞 亣 學﹂のほか 高須芳郞は同趣旨の柳北論を繰りしべてゐる。 柳北の 亣 學を說くものは、必ず﹃柳橋新誌﹄を代表作の如く見 て 、それによつて價を定めようとする傾きが多い 。が 、﹃柳橋 新誌﹄は、眞に柳北の眞趣を發揮したものでない。それは彼れの 佳作の一つにちがひないが、 私はそれよりも、 ﹃京猫一斑﹄ を る。 に﹃京猫一斑﹄よりも、彼れの紀行 亣 をる、今一つ切に云 へば紀行 亣 よりも雜錄をる。眞に柳北を知るものは、必ず雜錄 の妙を見さないであらう、彼れに﹁雜錄先生﹂のがあつたの は偶然でない 85 。 敢へてを外し ﹃柳北先生襍錄集﹄ ︵手壽輯、改出版、一八九 五 年四︶ をぶ

これは、確かに一見識である。そこからって初 出揭載紙に當る實證作業まではできなかったやうだが、そこまで求め るはか ︵治新聞雜誌 亣 庫に入りれた柳田泉との差だらう︶ 。﹃ 野新 聞﹄の創めた諧謔味ある雜錄が幅廣い讀に人氣だったことは同時 代人も傳へる 86 ゆゑ、後世の論とて當然考察すべきだのに、戰後の 柳北硏究上は田愛から山本芳・乾照夫に至るまで高須如き雜文 好みの價は抑壓され、初新聞 亣 學に見るコラムニストの生を論 ずるに至らない。作家論 ︵び作品論︶ の枠組では取り零す表現樣式が あるわけだ。纔かに加武雄﹃治大正 亣 學の輪郭﹄ ︵ ︿ 亣 藝入門叢書﹀ 新、一九二六年九︶ が島柳北 ・ 部撫松を ﹁ 第五、雜 亣 の流行﹂ の章でったのは、眼にしつつある ﹁ 現在 ﹃ 亣 藝春秋﹄ ﹃不同﹄ な どが﹂ する ﹁爛熟頹廢の末﹂ の 雜 亣 隆を ﹁ 新 亣 創の初﹂ に 二重寫しにした觀法だった 。高須 ﹃ 日 本 現代 亣 學十二﹄ ﹃治 大正 昭和 亣 學話﹄ は自然義時代に入るに ﹁ 特色ある雜 亣 ﹂ のを設け、 ﹁ 雜 亣 のは、角、 亣 學家に閑却され易い。が、却つて此の方面に 亣 學上の寶玉が々ある﹂とて﹁寫生 亣 、美 亣 、紀行 亣 其の他について 略言する﹂ 。中の點描にぎぬものな がら 、たかがこれだけの記 を 亣 學書に見出すさへ中々無いことだらう。

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新聞 亣 學その他圈外 亣 學への脫線 五   代圈外 亣 學の說 新聞 亣 學その他 亣 學から等閑にされた 亣 事諸般を、何と總すれ ばよいものか 。﹁ これまでの日本文学史の上であまり真正面からとり 扱われることのなかつた分野﹂ と ﹁ 編集後記﹂ に 言ふ ﹁特集   文学史に ない文学史﹂ ︵ ﹃ 國 亣 學   解釋と鑑賞﹄ 一九六七年十二號︶ では ﹁日記﹂ ﹁書 簡﹂ ﹁山岳紀行 ・ 遭 難手記﹂ ﹁自伝﹂ ﹁漢詩﹂ ﹁ 狂詩﹂ ﹁ 追悼文 ・ 思 い出﹂ ﹁ 記 録﹂ ﹁詔勅﹂ ﹁未来記﹂ ﹁生活綴方・児童詩﹂ ﹁ 民話﹂ ﹁対話録﹂ ﹁新聞文学﹂ 等の各論が目に列び、うち﹁マニフェスト・序・跋﹂を擔當した高 橋新太郎は﹁搦め手からの文学史﹂と題した。いづれも代 亣 學上 の境界例で⋮⋮と言へば、限界藝論 ︵鶴見俊輔︶ も聯想されようか。 代につれて大きな 亣 學が狹義の 亣 藝に局限されていったといふ 說を慮すると、代以からの流れも野に入れるべきだ。世 亣 學の中村幸彦は 圏外文学 といふ念を立ててゐ 87 る。世隨筆 の硏究にする提言だったが 、﹁ もし幸田露伴の 圏外文学 の論 ︵ ﹃ 幸 [ ] 田露伴全集﹄ 第十八巻所収 ﹁圏外文学漫談﹂ ︶ を用いれば、 随筆、 自 伝、 地誌、奇談、人物志から街談巷説の類にも亦、俗文の文学は様々にあ ることになる。今日、近世以来の既成概念によって、文学史の対象に ならなかった俗文の中から、文学を求めることも、文学史の急務であ る 88 ﹂と說く。 亣 章上、治の口語體への移行に用ゐられたのは俗 亣 の中でも戲作小說以上に自由な圈外 亣 學の 亣 體でなかった 89 か、 と も。江戶時代に限らない、 ﹁ 圏外近代文学史﹂ の 題で ﹃日本近代文学大 系月報﹄ 第四十六號以下 ︵角川書店、一九七三年八∼七四年十︶ に 載があり、岡保生 ﹃ 近代文学の異端者   日本近代文学外史 ﹄ ︵︿角川選書﹀ 角川書店、一九七六年六︶ に纏められた。但し書名り作家中心の列 傳だが、ジャンル論としては、異端文學をも內する廣域をやはり圈 外 亣 學の名辭で範 疇化するに渡辺一考がゐる 。曰く 、﹁ 庶民派エン サイクロペディストの石井研堂、そのあとを継いだ和田健次や日置昌 一。 ﹃東西薬用植物考﹄ の 川端勇男、 ﹃ 東西香薬史﹄ の山田憲太郎、 ﹃東 西沐浴史話﹄の藤浪剛一 、﹃日本化粧史考﹄の久 下司 、﹃ 見世物研究﹄ の朝倉無声 、﹃ 香 具師の生活﹄の添田知道 、﹃ 賭博と掏 摸の研究﹄の 尾 佐竹 猛 、﹃とらんぷ﹄ や ﹃奇術随筆﹄ の 阿 [部] 倍徳蔵、 ﹃奇術の世界﹄ の 坂 本種芳、 ﹃カメラ社会相﹄ の片岡昇、 ﹃奇妙な存在﹄ や ﹃ 露西亜舞踊﹄ の 大田黒元雄 、﹃夢﹄の研究に没頭した石橋臥 波 、 芸者心得帳とでも称 すべき ﹃ 候べく候﹄ を著した楠 瀬日年、 ﹃金魚の研究﹄ に生涯を捧げた 松井佳 一などなど、圏外文学のネタには事欠きません。青裳堂書店の 日本書誌学大系 の向こうを張った 本朝圏外文学大系 の上梓を私 は心待ちにしているのです 90 ﹂。 好事家流の雜學とはる脫領域を敢行 するとなれば、もはや 亣 學とするさへ跼蹐してをり、世同樣に學 藝とでも呼んだ方がまだ相應しからう。世學藝を本領としながら 治大正 亣 學にも一家言を有した森銑三のやうな在野學究を想する もよし。ついでに西洋 亣 學なら、 池内紀 ﹁圏外文学散歩﹂ ︵﹃書斎のコロ ンブス﹄ 冬樹社、一九八二年九↓ ﹁圏外文学選﹂ ﹃本を焚 く   改訂版   書斎 のコロンブス ﹄ 冬樹社、一九九〇年十二︶ もあった。 圈外とは埒外枠外の義とばかり思ひきや、中村幸彦によれば﹁中 国古典の注釈書類に 、 一説をのべてその中程に圏 ︵○︶ をほどこし 、 又別の説を述べたものが多い 。その○以下の説が圏外の説である﹂ ︵﹁近世圏外文学談﹂ p.296 ︶ 。 外書きみか。書にあっても、本筋と

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新聞 亣 學その他圈外 亣 學への脫線 なる史は定說正解をせねばならず屈になりがちだが、時に一 說別解や、ついでの餘論が插入され、却って脫線にこそ創見が窺はれ るものだ。高須芳郞の 亣 學敍に掬すべきは、さうした圈外への センスである。ところが高須は、先んじて提唱しながら中々弘まらな かった日本義が一九三〇年代ば以漸く世にへられ出すと、圈 外に身を持してゐられなくなり、下手に時流に乘ってしまった。非常 時下には粗大な 亣 論の高子が助長され、微な埋もれたものに對 する感受性は高須自身の中でも埋もれゆくことになる。高須幹の雜 誌で例せば、江戶東京 亣 を特輯して趣味に富む ﹃鄕土關東﹄ ︵東方 亣 學、 一九三七年五∼三八年一、 七號︶ が ﹃ 民族精神﹄ ︵東方 亣 學、 一九三八年三∼ ?   第二號のみ管見︶ に代られた如く 。 敗戰後は戰中 の日本精神鼓吹といふ惡名にはれ、代 亣 學硏究史でもが簡短 に觸れられる度で 、新聞 亣 學その他未完の 91 想は埋沒した第 。 だが、批家高須の眼は緣や末でこそ光るものを孕む。本人に も徹底できなかった圈外の想を精鍊してゆくのが後生の務め、でな くては ﹁研究史論は文学史論の不可欠的部分をなす 92 ﹂ とは言へまい。 圈外 亣 學を單に代の廣い 亣 學念の繼承とのみ解されては、 治には殘存しても後はの一だらうとろにされかねない。入 に引いた芥川之介の推薦 亣 を想ひ出さう 。﹁まだ今日のやうに雜誌 と云ふものの發しなかつた治時代の 新聞 亣 藝 は勿論、今後の 新聞 亣 藝 にも面白いものが多いことと思ひます﹂ 。卽ち、新聞 亣 學 の歷がみられた背景には同時代の雜誌ジャーナリズムの況があ り、これと結びついた震災後からの隨筆・雜 亣 の流行は現在行形の 時事話題であった 。だから廣義の 亣 學とは必ずしも 亣 學でなく 、 雜 亣 ・ゴシッ 93 プといった軟輕な記事をも含む ︵戲 亣 、雜錄⋮⋮柳北 仙の時代からさうだ︶ 。﹁ 今後﹂ を 見ることなく早世した自ジャーナ リストの豫想にはず、三〇年代には ﹁新聞向きの論﹂ ︵﹃ 讀賣新聞﹄ 一九三二年三十九日︶ を標榜する杉山 94 助や、千葉龜雄を問格とす る東京日日新聞學藝部で阿部眞之助の招した木村毅・大宅壯一・高 田保ら雜 亣 家が活してゆ 95 く。一九三五年當時に局外批家と呼ばれ た戶坂潤・三木淸らも圈外にしたくない ︵擧げた個々の名はむしろそ れを可能にした場へと眼を開くための指標だ︶ 。かうした去の圈外領域 へと溯する眼は、それをする自身の座のいま・ここへ反照せず にかない。圈外の徒らしく捨て目を利かせるなら、芥川の片言にも それが感知できよう

謂はば 、 後ろ向きのアクチュアリティーが 。 代からの殘留 ︵ sur vivals 物︶ を對象とする民俗學が 、にも拘らず現 在學を志 96 すといふ理と似るか。殊に古新聞は、正に錄される大事件 の報以上に 、一日限りの生新をふエフェメラ ︵短命料︶ ならで はの雜多なトピックが石となり時代色を帶びたに興趣があるわけ で、 死後の生、 古 ぼけた新しきもの ︵ news ︶ といふ對 義結合の妙味であ る。 圈外種々あるうちでも新聞 亣 學は 、新聞 ︵や雜誌︶ といふれて現 在性を有する代メディアの性向を體した 亣 章であるから、新聞 亣 學 とはアクチュアルな現存を古びた歷の相の下に觀ずるもの、その 味で積極アナクロニズムとも言へよう。ヴァルター・ベンヤミン は ﹁文学史と文芸学﹂ に 曰ふ、 ﹁ 肝要なことは、文学作品をその時代と 関連させてえがくことではない。そうではなくて、その成立した時代 のなかに、それを認識する時代

われわれの時代

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