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Academic year: 2021

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序 「 唐 人 」 と は 元 来 は 唐 の 人、 即 ち 中 国 人 を 指 す こ と ば で あ っ た。 しかし、その示す範囲は次第に広がり、近世においては「唐人」と は外国人全般を指すことばとなっていた。 近年では蔑視語としてその使用が避けられている「毛唐」もヨー ロッパ系外国人を「毛深い唐人」と認識したことから始まったこと ば で あ る。 あ る い は ま た「 唐 犬 」 は 洋 犬、 「 唐 皮 」 は オ ラ ン ダ 渡 来 の な め し 革 を 指 す。 「 唐 辛 子 」 な ど 別 名 が「 高 麗 胡 椒 」「 南 蛮 辛 子 」 というのだから、近世の日本人にとって世界とは、日本と日本以外 という認識であったのかとさえ思えてくる。 現代のように交通手段が発達しているわけでもなく、情報量も限 ら れ て い た 時 代 に お い て は、 「 外 国 人 は す べ て 同 じ 」 と ま で は 考 え ないにせよ、外国人に対する多少の空想を交えたイメージが現実と は食い違っていたり、いくつかの国の印象が混じり合っていたりと いう状況はやむを得ないことであったろう。 本稿では、化政期頃から江戸を中心に流行した「唐人飴売り」を 通して、近世における外国人のイメージを考察する。 1   唐人飴売り 感和亭鬼武作 『有喜世物真似舊觀帖』 (以下 『舊觀帖』 とする) は、 初編が文化二年(一八○五) 、二編が同三年(一八○六) 、三編が同 六年(一八○九)に刊行されている。奥州から来た老婆が甥や江戸 で知り合った道連れたちとともに、江戸見物をしては騒ぎを起こす という筋の滑稽本である。その騒動についてはフィクションや誇張 もあろうが、そこに描かれている江戸の様相はリアルなものと考え ていいだろう。   『舊觀帖』二編上に唐人飴売りが登場する。   向ふより今のはやりの唐人すがたの菓子うり二人きたりたちど まりて日がさを持かた手にあふぎをひらき「コリヤ〳〵〳〵来 たハいなこれハ九州長崎の丸山名物ヂヤガラカ糖お子さまがた

唐人飴売り考

文学研究科国文学専攻博士後期課程満期退学

 

 

明子

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のお目ざましおぢいさんおばァさんにあげられて第一寿命が長 くなるお若いかたにあげられていろの取れるがきんミやうじや お や 〳〵 ど う せ う お や ど う し や う 辛 い あ ま い の チ ヤ カ ラ カ 糖 パァ〳〵」 この記述から、まず唐人姿の飴売りが文化初めには珍しいもので はなく、既に流行であったとわかる。さらに 挿 ( 図 Ⅰ ) 絵 を見ると、大きな 日傘を差した下に二人の男性が描かれているが、彼らはカ ッ ( 1 ) (李氏 朝鮮の頃の冠帽)に似たつばの広い帽子を冠り、バ ジ ( 2 ) チョゴリを思 わせるたっぷりと余裕のある、 やや短めの服を纏っている。ただし、 その上衣の上にラ ッ ( 3 ) フに似た襟飾りを着けており、それに合わせた のか裾にもフリルのような飾りが見られる。つまり完璧な韓人服装 の模倣とも言いかねるが、当時の朝鮮半島の人々の服装をベースに オランダ人などの印象も加えた「異人」のイメージがそこに形作ら れている。 流 行 し て い た も の で あ れ ば、 『 舊 觀 帖 』 以 外 の 文 学 作 品 に も 唐 人 飴 売 り は 登 場 す る は ず で あ る。 『 舊 觀 帖 』 と と も に そ れ ら を あ た り ながら、まず唐人飴売りの標準的な姿を割り出してみたい。 『 舊 觀 帖 』 の 挿 絵 で も、 ま ず 大 き な 日 傘 が 目 に つ く の で あ る が、 川柳でも傘を差した飴売りがしばしば登場する。   唐傘をさす飴売りはいい日和         『川柳万句合勝句刷』天明六(一七八六)   仁2   降る雨と売る飴傘の上と下         『誹風柳多留』六二   15   文化九年(一八一二)     飴売りは天気になつて傘をさし         『誹風柳多留』一二一   5   天保四年(一八三三) これだけでは飴売りが唐人姿であったか否かは不明であるが、飴売 りと言えば傘、という印象が天明の頃既に一般的になっていたこと がわかる。露店の物売りであるから、晴天の際に商売をするのが基 本 だ が、 「 降 る 雨 と 売 る 飴 」 と 言 わ れ る の だ か ら、 少 々 の 雨 な ら 慌 てて店じまいをして帰ることはしなかったようである。傘は遠目に 見ても飴売りとわかる看板的な要素の他に、陽射しや小雨を防ぐ実 際的な用途もあったと思われる。 次 に 服 装 で あ る が、 『 舊 觀 帖 』 よ り も 二 十 年 ほ ど 後 に な る が、 文 政十一年(一八二七)に刊行された十返舎一九作『 金 (図 Ⅱ ) 草鞋』十七篇 の長南の場面に唐人飴売りが描かれている。袖と菓子の器に隠れて 服 の 細 部 は 定 か で は な い が、 ま ず 帽 子 が 目 立 つ。 『 舊 觀 帖 』 同 様、 非常に異国的である。江戸時代の日本男性は冠りものをすることは あまりない。あるとすれば笠か頭巾で帽子とは大分印象が違う。こ の唐人飴売りの帽子はつばが広く丈が高く、黒々としており、見る 者にいかにも異国の服飾という印象を与える。 『 金 草 鞋 』 の 飴 売 り が 着 用 し て い る 衣 服 も 袖 の 感 じ は 和 服 に 似 て はいるが、身頃はもっとゆったりとした造りである。衣服の模様も 幾何学的で和服よりも派手である。この挿絵では飴売りは座ってい るので上衣の部分しかわからない。このような服装で長いラッパの

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よ う な 楽 器 を 吹 い て い る。 『 舊 觀 帖 』 と 明 ら か に 異 な る の は 襟 飾 り を着けていない点である。 『舊觀帖』 の挿絵では二人の人物は立っているので、 全身が見える。 上衣は膝が隠れるくらいの丈である。着流しよりは短く、羽織より は長い。挿絵ではわかりにくいが、おそらくこの下に細身の袴を穿 いているのであろう。帽子も含めて、やはり当時における朝鮮半島 の人々を思わせる服装である。 では、なぜ「唐人」が韓服風の服装であったのか。洋装でも唐装 でもなく、韓服であったのかを考えてみたい。 2   行列 寛 永 一 六 年( 一 六 三 九 )、 幕 府 は ポ ル ト ガ ル 船 の 入 港 を 禁 止 し、 同一八年(一六四一)にはオランダ商館を長崎の出島に移した。ま た、延宝元年(一六七三)にはイギリスに対しても交易の再開を拒 絶している。 幕府は特に対ヨーロッパの交流は厳しく制限していた。 日本の港に入港できるのは、ヨーロッパ諸国の中ではオランダ船籍 の船に限られ、 その港も幕府の直轄地である長崎に限定されていた。 当時、外国との交流 ・ 通商を制限していたのは日本だけではない。 清においても、鄭氏をはじめ貿易で財を成した者の勢力拡大を恐れ て海 禁 ( 4 ) 政策を採っていた。福建の 鄭 ( 5 ) 氏は特に対日貿易が重要な財政 基 盤 で あ っ た た め、 清 は 入 関 直 後 は 神 経 を 尖 ら せ て い た が、 一 六 八 三 年 に 鄭 氏 が 清 朝 に 降 伏 し た た め 一 応 海 禁 令 は 解 除 さ れ る。 しかし、その後も清は自国の民間人に対しては海上利用に制限を掛 け、その傾向はアヘン戦争の頃まで続くのである。 徳川政権下において日本と交流があったのは、オランダ・清・李 氏朝鮮・琉球・アイヌである。しかし、意外にも商取引が最も盛ん であった清との間は、双方が外交官を送るような交流は極めて少な かった。通商はあっても通信はほぼなかったのである。またアイヌ に関しては、交易は松前藩の独占事業であり、商取引の場も蝦夷地 内であったので、内地の日本人がアイヌの姿を目にすることはほと んどなかった。 したがって、日本人、特に江戸の人が目にする可能性のあった外 国人はオランダ人・朝鮮人・琉球人であった。 こ の 中 で 最 も 江 戸 参 府 の 回 数 が 多 か っ た の は オ ラ ン ダ 人 で あ る。 寛永十年(一六三三)から寛政二年(一七九○)まではオランダ船 の来航があれば毎春、寛政二年以降は四年に一度、合計一六六回江 戸を訪れている。しかし、その人数は商館長・書記官・医師の三名 が通例であった。また、日本側が認識していたかどうかは定かでは な い が、 医 師 に 関 し て は オ ラ ン ダ 以 外 の 国 籍 で あ る こ と も あ っ た。 とにかく、 これら三名のヨーロッパ人を、 長崎奉行所の役人や通詞、 従 僕 等 の 日 本 人 が 取 り 囲 む よ う に し て 江 戸 ま で 送 り 届 け て い た の だ。道中、商館長らは乗り物に乗せられている。この状態では、実 際にヨーロッパ人を見たことのある日本人は、極めて少数であった と推測できる。

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これに対して琉球と李氏朝鮮は、回数こそ少なかったものの、長 い 道 中 大 人 数 の 行 列 を 組 ん で 上 っ て き た。 琉 球 は 寛 永 十 一 年 ( 一 六 三 四 ) か ら 合 計 十 八 回、 李 氏 朝 鮮 は 慶 長 十 二 年( 一 六 ○ 七 ) から合計十二回使節を派遣している。人数に関しては琉球は百名前 後と伝えられる。朝鮮通信使は、総人員は四 百 ( 6 ) から五百名であった が、船のメンテナンスのために港に残される者が百名以上いたよう なので、江戸まで上る人員は二百から三百名の間であったとみられ る。 両者のうち、目立ったのはやはり朝鮮通信使であったようだ。琉 球よりも少ない来朝回数であるにも関わらず、朝鮮通信使は記録文 書のみならず、浮世絵や草双紙にもその姿を留めている。 二世喜多川歌麿は文化八年 (一八一一) に 『 朝   ( 図 Ⅲ )   鮮人 来朝行列之記』 を描いている。これは第十二回通信使の来朝図であるが、訪れた年 の う ち に 出 版 さ れ て い る。 こ の 回 は、 一 行 は 江 戸 ま で 来 て い な い。 対馬止まりであった。 歌麿は対馬まで出向いて行列の様子を描いた。 ま た、 序 文 は 十 返 舎 一 九 が 記 し て い る。 初 世 ほ ど で は な い に せ よ、 著名な絵師である二世歌麿が描き、流行作家である一九が序を添え る。しかも、当時新刊は新春というのが一般的であったにもかかわ らず、年明けを待たずにその年の冬にはもう出版されている。これ は朝鮮通信使が注目される存在であり、一般の人々からも関心が高 かったことを示している。 この『朝鮮人来朝行列之記』で、日傘を差しかけられ、威儀を正 した正使・副使以外で特に目立つのは楽隊である。通信使は朝鮮国 王の親書を擁して来朝する。李氏朝鮮では、国王の行列には必ず楽 隊が随行した。国書を擁した行列は、国王の行列に準ずるものとし て整えられた。 絵のほうでは数の上で省略があるが、実際に行進した員数も記載 されている。鐘手 ・ 二、喇叭手 ・ 六、螺角 ・ 六、大平嘯 ・ 六、銅鼓 ・ 二、馬上鼓 ・ 四、匏手 ・ 二、鼓 ・ 三、杖鼓 ・ 三、瑟 ・ 六、 嵇 琴 ・ 三、 笛・三、 錚   (7 )   手 (一)で計五十七名になる。三百余名の行列のおよそ 二 割 が 楽 士 で、 し か も 演 奏 し な が ら の 行 進 で あ る。 沿 道 の 人 々 が、 その賑やかさに引き付けられたであろうことは想像に難くない。 特に 喇 ナ バ ル 叭 や 大 テ ビ ョ ン ソ 平嘯 等のラッパを吹く姿が、非常にエキゾチックに 見えたようだ。 「朝 鮮 ( 8 ) 人物旗杖轎輿之 図 (図 Ⅳ ) 」では行列そのものではなく、 役職・役割ごとに一名を描いて身なりや持ち物を記録しているのだ が、 「楽人」で描かれているのは喇叭手である。また、浮世絵でも、 石川豊信は明和元年(一七六四)に見た通信使の中から特に喇叭手 を選んで「韓 人   ( 図 Ⅴ )   吹笛 図」を描いている。笛や打楽器は日本でも似て いる楽器があるが、ラッパは日本人の目には新鮮に映ったのであろ う。そして、楽器の造りから考えて音も大きく力強かったと推測で きる。華やかさや賑やかさ、珍しさに心を引かれるのは極めて自然 なことである。

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3   再現される行列 朝鮮通信使が視覚的にも聴覚的にも異国的であり、それに出会っ た世人の記憶に残るものであったことは否定できない。しかし、通 信使は慶長十二年(一六○七)から文化八年(一八一一)の二百年 ほ ど の 間 に 十 二 回 訪 れ た の み で あ る。 そ の 間 隔 は 短 い 時 で も 八 年、 第十一回と第十二回など五十年も時間的空白がある。 どれほど印象的な存在であろうと、このように長い間その印象を 留めておけるものであろうか、という当然の疑問が生じる。現代で あれば、映像として目前の出来事をそのまま記録することも、繰り 返し見ることも可能であるが、近世における記録手段は絵画と文字 に限られる。古い出来事は忘れ去られていくのが当然である。 しかし、朝鮮通信使の鮮烈な印象は、単に世人の記憶に残るだけ で は な か っ た。 人 々 は 自 ら 通 信 使 の 行 列 を 再 現 す る こ と に よ っ て、 長くその印象を保ち続けたのである。 例 え ば 神 田 明 神 の 祭 礼 で 行 わ れ た 唐 人 行 列 が そ れ で あ る。 「 神   (9 )   田 神社祭 礼   (図 Ⅵ ) 図 」を見ると、旗・衣装・楽器等いずれも割合正確に再現 できているように見える。子細に観察すれば、錚の代わりに大太鼓 があったり、実際には用いられていない笙を吹く楽人がいたりする が、祭礼の仮装としては上出来と言える。この祭礼の様子は北尾重 政も明和(一七六四~七二)末頃に「浮絵大祭礼唐人行列之図」に 描いている。こちらも日傘を差しかけられた「唐人」の姿が朝鮮通 信使の正使そのままである。 このような祭礼における朝鮮通信使の仮装というのは江戸に限っ た こ と で は な く、 名 古 屋、 津、 川 越 な ど で も 行 わ れ て い る。 「 名 ( 1 0 ) 古 屋東 照   ( 図 Ⅶ )   宮祭 礼図」でも「唐人」の扮装として、つば広の帽子を冠っ た楽人や大きな日傘を差しかけられた正使らしき姿が見られる。こ ちらは袴は日本の農民袴に近い形であるし、奇妙な襟飾りも着けて いるので仮装としての完成度は低いが、帽子の感じや楽人たちの手 にしている楽器が喇叭や大平嘯に似ていることからみても、 この 「唐 人」も朝鮮通信使を模したつもりと推察する。 そして、 この祭礼行列のさらにパロディと言えるものが存在する。 吉原における俄である。俄とは遊郭などで演じられる即興芝居であ る。歌舞伎の一場面や滑稽な出し物が多かったという。 「吉 原 ( 11 ) 春秋 二度の景物」によれば安永五年(一七七六)の俄で、中の町茶屋衆 子息が「唐人」を演じている。また寛政三年(一七九一)と寛政八 年(一七九六)には遊女による唐人俄が演じられた。寛政八年のほ う は「 唐 人 は 黒 羽 二 重 の 羽 折 衣 服 一 對 に し て、 首 へ 錦 の ゑ り ま き、 唐人せうぞくを添たるのみ、 大通人の出たちにて、 笛太こ三味せん」 と詳しく記されている。おそらく、この俄を描いたのが喜多川歌麿 の「 韓   ( 図 Ⅷ )   人仁 和歌」であろう。遊女たちはぞろりとした着流しで通人 風の着こなしである。その上にフリルのような襟飾りを着け、丈の 高い帽子を冠っている。先頭の二人は喇叭を吹いており、その後ろ に太鼓を手にした遊女が見える。   このように、朝鮮通信使の来朝回数は少なくても、その行列を再

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現する催しは多数存在した。ただし、それを演じる日本人にとって は、それが朝鮮からの使者という意識はなく、単に「唐人」 「異人」 で あ っ て、 異 国 的 な 雰 囲 気 に 浸 る た め に 再 現 さ れ た 行 列 で あ っ た。 つまり、本物そっくりであるより本物らしく感じられれば、それで 目的は果たされたのである。したがって、唐人行列・唐人踊りの外 観は次第に変貌していった。 吉原の遊女や唐人飴売りが、朝鮮通信使を思わせる演出をしなが らもオランダ風の襟飾りを着けていたのは、そのほうが外国人らし いと感じられたからであろう。しかし、この襟飾りがラッフのつも りであるにしても、それも現実のオランダ風俗とは齟齬が生じてい た。他の国々と比較すればオランダでは長くラッフが用いられてい たが、それでも十七世紀頃までのことである。川原慶賀の「ブロン ホ フ (12 ) 家 族 ( 図 Ⅸ ) 図 」 や 岩 崎 灌 園 の「 ジ ー ボ ル ト (1 3 ) 肖 ( 図 Ⅹ ) 像 」、 あ る い は 司 馬 江 漢 によるドゥー フ ( 14 ) の肖像画等を見ると、化政期にもう完全にラッフは 廃れていたらしい。どの肖像でも男性の襟元にラッフらしきものは な い。 シ ャ ツ と 同 じ 白 の ス カ ー フ 状 の も の を 結 ん で い る。 「 ジ ー ボ ル ト 肖 像 」 は 本 来 記 録 画 像 で あ っ た ら し く、 「 エ リ マ キ 白 木 綿 」 と の解説まで付されている。襟元以外も、ズボンもゆったりとしたト ランクフォーゼではなく、細身の黒いズボンやキュロットと呼ばれ る膝丈のものに取って代わられている。上衣も前面にボタンの付い た ジ ャ ケ ッ ト 状 で あ る。 つ ま り、 日 本 人 の イ メ ー ジ す る「 南 蛮 人 」 は既に過去のものになっていたのである。 だが現実とは異なっていても焼付いたイメージは簡単には変えら れない。まして、ヨーロッパ人の姿を実際に目にする可能性が極め て低かった当時においては、イメージの固定化はむしろ自然であっ たと言えよう。服装の中で、特に和服とは大きく異なっていた襟元 のラッフが、 いわば 「異文化」 「異国」 の象徴となっていたのである。 したがって、朝鮮通信使の服装にラッフに似た襟飾りを付け加える ことに、人々はさして違和感を持たなかったのである。 4   飴売りのスタイル ここまで近世において一般に「唐人」と言えば朝鮮通信使の印象 が基本にあったことを述べてきたが、唐人飴売りの「唐人」も同様 であるのか、さらに考察したい。   飴売りは二日一分で来朝し       『誹風柳多留』九九   98   文政十一年(一八二八)   いい銭を取って飴売り二日でる       『川柳万句合勝句刷』安政四(一八五八)   仁2 こ こ で 言 う 二 日 と は 神 田 明 神 の 祭 礼 九 月 十 五 日・ 十 六 日 で あ る。 もちろん旧暦の九月であるから暑い。しかも市中を練り歩くのだか ら相当に体力を消耗する。そのため報酬は二日で一 分 ( 1 5 ) であった。当 時高給取りであった腕のいい大工でも日当五 匁 ( 1 6 ) であったことを思え ば、 そ の 一 ・ 五 倍 と い う の は 高 額 で あ る。 「 来 朝 」「 二 日 一 分 」 と い うことばから間違いなく祭礼で朝鮮通信使に扮する者を指すとわか

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るが、面白いのはどちらも彼らを「飴売り」と呼んでいることだ。   飴売りだよと唐人へ指をさし       『誹風柳多留』四四   10   文化五年(一八○八) おそらくこの唐人も唐人行列を指すのだろう。それならば服装は やはり朝鮮通信使に似た衣装である。もう文化年間には唐人姿の飴 売 り が 定 着 し て お り、 唐 人 と 言 え ば 飴 売 り と す ぐ 連 想 す る も の で あったのだ。 そのスタイルは衣装もさることながら、日傘とラッパも唐人らし さを演出するのに重要な要素であった。 日傘については、食べ物商売であれば飴売り以外の露天商も用い ることはあったが、やはり唐人飴売りにとって傘は実利とは別の必 要性があったようだ。   朝鮮の助六無地の傘をさし       『誹風柳多留』六三   2   文化十年(一八一三) 日除け、埃避けという実利面もさることながら、イメージ戦略とし ても日傘は飴売りにふさわしい道具立てであった。 『 舊 觀 帖 』 に は 登 場 し な い が、 ラ ッ パ も 重 要 な 小 道 具 で あ る。 一九の『金草鞋』でも飴売りは朝鮮の 喇 ナ バ ル 叭 に似た長い楽器を吹いて いる。この飴売りがラッパを手にしてやって来るというのは、その 後も長く続くスタイルとなる。 清   ( 1 7 )   水晴 風作の『街の姿』に、丈の高 い帽子を冠り、ラッパのような楽器を吹く男性の絵に添えて、次の ような記述がある。   唐人飴。唐人のさまを模し、チャルメルという笛を吹きて、長 閑なる春の頃、市中を売り歩けば、おのずから日の永きを示す ようにして床し。      明 治 期 に は、 楽 器 は 喇 ナ バ ル 叭 よ り も 小 さ い チ ャ ル メ ラ に な っ て お り、 この頃既にチャルメラは唐人笛と呼ばれていた。石川啄木も『一握 の砂』に「飴売りのチャルメラ聴けばうしなひし   をさなき心ひろ へるごとし」を収めている。 『一握の砂』は明治四三年(一九一○) の刊行であるから、明治の末にもチャルメラを吹く飴売りが存在し たことがわかる 時の流れとともに多少の変貌はあったものの、やはり「唐人」の イメージの基本は朝鮮通信使であった。 5   口上 唐人飴売りの外観については、これまで述べてきたが、物売りで あ る 以 上、 そ の 口 上 も 重 要 で あ る。 『 舊 觀 帖 』 で は「 こ れ ハ 九 州 長 崎の丸山名物ヂヤガラカ糖」と言っているが、飴は本当に丸山名物 であったのか。 まず 「ジャガラカ糖」 あるいはそれに似た名を持つ菓子が現在残っ ていないか調査したのであるが、これは発見できなかった。 では、飴菓子で長崎の名物はなかったか。これも特定の銘菓は上 がってこなかった。しかし、日本に初めて入ってきたハードキャン デ ィ は お そ ら く 南 蛮 菓 子 の 有 平 糖( alfeloa ) で あ っ た と 伝 え ら れ て

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い る。 有 平 糖 は そ の 後 飴 細 工 の 高 級 品 と し て 別 の 進 化 を 遂 げ る が、 飴と言えば南蛮と印象づけられていた可能性は否定できない。 また、現在のように外貨の両替が容易でなかった時代、ある程度 価値が高く、しかも換金しやすいものとして、オランダ人はよく砂 糖を用いた。享保年間(一七一六~一七三六)には出島に入ってく る 砂   (1 8 )   糖 の二割以上が帳簿上「贈物」として処理されている。商館長 ヘンドリック・ドゥーフは文化の大火の後、長崎屋源右衛門に対し て三年にわたって援助の手を差し伸べているが、その際毎年二○俵 の砂糖を贈っている。商館長は贈り物や心付として砂糖を渡すこと があったし、 長崎に滞在する船員たちも遊郭で現金が足りない場合、 不足分を砂糖で支払うことがあった。後者については密貿易を疑わ れて、奉行所から取締りの対象と見られることになる。つまり、丸 山の遊郭を経由して砂糖が市中に流通したと見れば、飴菓子を丸山 名物と称するのも、あながち間違いでもない。 しかし、実際販売されていた飴の原料が輸入品の砂糖であったか というと、実はほとんど国産であったようだ。   文化元年の頃よりして菓子の類に商人迄も専ら用ゆ。同八九年 より藥種屋は舶來に交て商ふことになれり。異邦より來らずと も吾國にて差支更になし。同十酉には江戸中の物七八分和製を 用ひ、近來迄皆人砂糖に限り舶來の物とのみ心得たり。 右 は『 俗 事   ( 1 9 )   百 工 起 源 』 中「 和 製 砂 糖 始 」 の 一 節 で あ る。 『 宝   ( 2 0 )   暦 現 来集』にも「文化の始より御当地御用明地へ甘蔗と云ふ砂とう製す 草御植付あり」と記述されている。文化年間に入るころ、日本でも 砂糖黍の栽培が始まり、割合スムーズに軌道に乗ったものと思われ る。ハードキャンディは砂糖を煮詰めて作らねばならない。砂糖が 足りなかったり、煮詰め方が足りないと崩れてしまう。有平糖のよ うな高級品ではなく、千歳飴のような行事用でもなく、露天商が扱 え る よ う な 品 に 砂 糖 を 十 分 に 用 い ら れ る よ う に な っ た と い う こ と が、砂糖国産化成功の証拠である。 けれども、 まだ砂糖は舶来というイメージが強かったのであろう。 それに舶来と思わせたほうが高級感がある。何も偽りの情報を流す わ け で は な い。 「 丸 山 」 と い う 地 名 か ら 何 を 連 想 す る か は 客 の 勝 手 ということである。 実際、国産化に成功するまでは砂糖はバタビアで栽培し精製した ものをオランダ商船が運んできていた。 最   ( 2 1 )   盛期 には年間二百万ポン ドを超える量が輸入された。砂糖は乾物屋や菓子屋の扱う品ではな く薬種屋の扱う品であった。滋養があるということも知られていた ので「おぢいさんおばァさんにあげられて第一寿命が長くなる」と いう口上も、大袈裟ではあっても全くの偽りとも言えない。 『 舊 觀 帖 』 で 述 べ ら れ て い る 口 上 は、 お そ ら く 唐 人 飴 売 り の 標 準 的な口上であったと思われる。百年以上後に、竹久夢二の「 ど   ( 2 2 )   んた く」で次のような一節が見られる。   あアこりやこりやきたわいな/これは九州長崎の/丸山名物ぢ やがら糖/お子様がたのお眼ざまし/甘くて辛くて酸くて/き

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んぎよくれんのかくれんぼ/おつぺけぼうのきんらいらい 夢二の書き残した口上も『舊觀帖』のそれとよく似ている。夢二が 鬼 武 作 品 を 用 い て 創 作 し た と 見 る よ り、 双 方 が 似 通 っ て い る の は、 両者ともに実景描写であるからと見たほうが合理的である。唐人飴 売 り た ち は、 長 い 間 先 人 の 口 上 を 受 け 継 い で き た よ う だ。 た だ し、 大正年間(一九一二~一九二六)には人々は砂糖に対して滋養・鎮 静などの効果はもはや期待していなかった。化政期の新しいものや 力強いものに感じていた異国趣味と夢二の異国趣味とは異なってい たのである。 結語 外国人を指す単語に唐人以外に異人ということばがある。異なる 人、自分たちとは違う人という意味だ。 人間は無意識に他人と自分とを比較して相手を見るが、比較とは 本来相似と相違の両面を見るものである。しかし、近世においては 外国人について思う時、日本人とは異なる部分ばかりに目を奪われ ていたようだ。もっとも、役人や知識人等一部の者を除いては、当 時の日本人にとって外国人は、交際する相手ではなく一方的に見る 存在であったのだから、無理もない話である。朝鮮通信使の行列は 見物するもの、来航したオランダ船もまた然りであった。外国人と 会う、話すなどということは思いもよらなかったに違いない。外国 人と直接接触する機会のあった日本人にしても、交流は通信や通商 の域を出ないことが多かったはずである。 相互理解や共存を意識するのは現代人の発想である。外国人を見 つめるだけであった時代、ただ珍しさや新しさに引き付けられたと しても、自分たちとは違う人間を否定することなく楽しげに受け入 れたことは、むしろ進取の気風と見ていいだろう。 しかし、相手に確認することもなく一方的に眺めていれば、当然 誤 解 や 思 い 込 み が 生 ま れ、 イ メ ー ジ が 独 り 歩 き を 始 め る。 し か も、 複数の国の「外国らしさ」が混ざり合ってしまっている。近世の日 本人にとって「唐人」とは現実の外国人ではなく、概念上の存在で あり、じつはこの世にどこにもいない異人たちであった。 『 舊 觀 帖 』 で 老 婆 の 甥 で あ る 福 介 が「 唐 から の 唐 人 か 」 と 案 内 役 に 聞 くと「何につぽんの唐人さ」と返される。素直に読めば、あれは偽 物、日本人の扮装だという意味なのだが、唐人飴売りは日本人の唐 人イメージの集大成、これこそ日本人の完成させた概念上の唐人と 読むことも可能である。 ( 1) 李 氏 朝 鮮 の 頃 の 男 性 用 の 帽 子。 屋 外 で 冠 る も の で、 山 高 帽 の よ う に 丈 が 高い。 ( 2) 男 性 用 の 韓 服。 チ ョ ゴ リ は 上 衣、 バ ジ は 袴。 和 服 の よ う に 袴 の 中 に 上 衣 の 裾 を 入 れ る こ と は な く、 チ ョ ゴ リ は ゆ っ た り と し て い る。 バ ジ は 日 本 の

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袴よりもはるかに細身である。 ( 3) Ruff   十 六 ~ 十 七 世 紀 に ヨ ー ロ ッ パ 諸 国 で 流 行 し た 襞 襟。 西 ヨ ー ロ ッ パ では十六世紀末には廃れていったが、オランダ以東では長く続いた。 ( 4) 海 禁 政 策 自 体 は 明 代 か ら 採 ら れ て い た。 し か し、 そ れ は 海 賊 禁 圧 が 主 目 的であり、清代における領民の渡航制限とは意味合いが異なる。 ( 5) ア モ イ 等 を 中 心 に 対 日 貿 易 で 栄 え た 一 族。 特 に 鄭 成 功 は、 明 を 擁 護 し、 清 に 抵 抗 を 続 け た こ と で 知 ら れ る。 成 功 自 身 は 一 六 六 一 年 に 台 湾 に 渡 り、 翌年そこで死去している。 (6) 朝鮮通信使の員数については、 辛基秀著 『朝鮮通信使往来』 (二○○二年 ・ 明 石 書 店 ) を 参 考 に し た。 辛 氏 は か な り 詳 細 な 調 査 を さ れ て い る が、 大 坂 港留まりの数については判明しなかった年もある。 ( 7) 『 朝 鮮 人 来 朝 行 列 之 記 』 中 で 錚 手 に は 人 数 の 記 載 は な い が、 他 に も 数 は な く 役 割 の み の 記 載 が 散 見 さ れ る。 そ れ ら は、 絵 で 見 る 限 り 一 名 の み な の で 数 を 書 き 入 れ て い な い よ う に 思 わ れ る。 し た が っ て 錚 手 も 括 弧 書 き で 一 名としておいた。 ( 8) 「 朝 鮮 人 物 旗 杖 轎 輿 之 図 」 は 第 十 二 回 使 節 来 朝 の 際、 日 本 側 の 副 使・ 脇 坂 中 務 大 輔 の 家 臣 で あ る 猪 飼 正 韶 が 記 録 と し て 書 き 残 し た 図 で あ る。 現 在 は名古屋市蓬左文庫所蔵となっている。 (9) 「神田神社祭礼図」 東京国立博物館所蔵。朝鮮通信使に扮した行列は 「十一 番豊嶋町」の出し物として描かれている。 (10) 「名古屋東照宮祭礼図」東京国立博物館蔵。 ( 1 1) 「 吉 原 春 秋 二 度 の 景 物 」 は、 近 世 中 期 に 梧 桐 久 儔 に よ っ て 書 き 残 さ れ た 随 筆 で あ る。 吉 原 で の 度 々 の 火 災 や 仮 宅 で の 風 俗 等 に つ い て 記 し て い る。 『未完随筆百種』第二巻(一九六九年・臨川書店)に収録されている。 ( 1 2) ブ ロ ン ホ フ は 文 化 一 四 年( 一 八 一 七 ) か ら 商 館 長 を 務 め た。 来 日 は 単 身 赴 任 が 鉄 則 で あ っ た が、 新 婚 の ボ ロ ン ホ フ は 妻 や メ イ ド を 伴 っ て 長 崎 に 入った。結局外国人女性の在住は認められず、 翌年、 前館長のヘンドリック ・ ド ゥ ー フ と と も に ブ ロ ン ホ フ 夫 人 は 帰 国 す る が、 わ ず か な 滞 在 期 間 の 間 に 絵 師 た ち は 競 っ て 夫 人 の 姿 を 描 い た。 「 ブ ロ ン ホ フ 家 族 図 」 は そ れ ら の 中 で も極めて写実的な一枚である。神戸市立博物館所蔵。 ( 1 3) 文 政 九 年( 一 八 二 六 ) に 描 か れ た シ ー ボ ル ト の 肖 像 画。 シ ー ボ ル ト は オ ラ ン ダ 商 館 の 医 師 で あ っ た が、 ド イ ツ 人 で あ る。 国 立 国 会 図 書 館 白 井 文 庫所蔵。 ( 1 4) 描 か れ た 年 代 は 不 明 で あ る が、 ド ゥ ー フ が 商 館 長 で あ っ た の は 享 和 三 年(一八○三)から文化一四年(一八一七)のことである。 ( 1 5) 一 分 は 四 分 の 一 両。 こ れ で 二 日 分 の 報 酬 な の で 一 日 あ た り 八 分 の 一 両 という計算になる。 (16)五匁は十二分の一両。 ( 1 7) 清 水 清 風( 一 八 五 一 ~ 一 九 一 三 ) は、 明 治 期 に 活 躍 し た 郷 土 玩 具 研 究 家 で あ る。 『 町 の 姿 』 は、 正 確 な 成 立 時 期 は 不 明 で あ る が、 明 治 期 で あ る こ とは間違いないであろう。物売り等を絵と文とで詳細に記録している。 (18) 「一八世紀における出島オランダ商館の砂糖輸入について」 八百啓介 『史 學 雜 誌 』 一 ○ 五( 二 ) 一 九 九 六 年 二 月   公 益 財 団 法 人 史 学 会   二 ○ 七 頁 参 照

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( 1 9) 『 俗 事 百 工 起 源 』 宮 川 政 運 著。 慶 応 元 年 序。 『 未 完 随 筆 百 種 』 第 三 巻 (一九六九年・臨川書店)に収録されている。引用部分は巻之上にあり。 ( 2 0) 『 宝 暦 現 来 集 』 全 二 十 一 巻。 山 田 桂 翁 著。 天 保 二 年 序。 引 用 部 分 は 巻 之 七 に あ り。 『 近 世 風 俗 見 聞 集 』 第 六 ・ 七 巻( 一 九 八 二 年・ 吉 川 弘 文 館 ) に 収録されている。 ( 2 1) 宝 暦 九 年( 一 七 五 九 ) に は 白 砂 糖 だ け で 二 五 五 万 四 四 四 ポ ン ド が 輸 入 されている。 ( 2 2) 絵 入 小 唄 集『 ど ん た く 』 竹 久 夢 二 作。 大 正 二 年( 一 九 一 三 ) 実 業 之 日 本社より刊行。引用部分は「どんたく」という詩の一節である。

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 図Ⅰ  図Ⅱ

 図Ⅲ-1

 図Ⅲ-2  図Ⅳ

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 図Ⅵ

 図Ⅶ

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 図Ⅹ  図 IX   図Ⅰ『滑稽本集』より   図Ⅱ『方言修行金草鞋』より   図Ⅲ・図Ⅳ『大系朝鮮通信使   善隣と友好の記録』第8巻より   図Ⅴ・図Ⅷ『大系朝鮮通信使   善隣と友好の記録』第7巻より   図Ⅵ・図Ⅶ『大系朝鮮通信使   善隣と友好の記録』第5巻より   図Ⅸ・図Ⅹ『大江戸異人往来』より 参考資料   『大系朝鮮通信使   善隣と友好の記録』第5巻       辛基秀・中尾宏責任編集(1995年9月)明石書店   『大系朝鮮通信使   善隣と友好の記録』第7巻       辛基秀・中尾宏責任編集(1994年3月)明石書店   『大系朝鮮通信使   善隣と友好の記録』第8巻       辛基秀・中尾宏責任編集(1993年11月)明石書店   『滑稽本集』   岡雅彦校訂   (1990年4月)国書刊行会   『 方 言 修 行 金 草 鞋 』 第 5 巻   今 井 金 吾 監 修 ( 1 9 9 9 年 1 0 月 ) 大 空 社   『大江戸異人往来』タイモン・スクリーチ著   高山宏訳 (2008年2月)筑摩書房

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A Study on“To-jin ameuri”

SEKI, Akiko

 “To-jin ameuri”appeared in town from the beginning of 19st. century.

 They were the candy saller which carried out a foreigner's makeup.

 The word “To-jin” means foreigners. Those days, the foreigners who may have entered Japan were Dutch, Chinese, Korean, Ryukyuan, and Ainu. In them, Korean were the most impressive for the Japanese. Because the procession of delegation from the Korean Yi dynasty was brillant and exotic.

 Naturally the fashion of “To-jin ameuri” were modeled on delegation from the Korean Yi dynasty. And, their impression considered a little of the Netherlands style.

 In conclusion, “To-jin” were not actual foreigners, but it was exteriorization of foreigners' image for Japanese.

参照

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