• 検索結果がありません。

/ 1. 空爆の時代を捉え返す (1) 総力戦下の空爆と銃後 1 2 B B

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "/ 1. 空爆の時代を捉え返す (1) 総力戦下の空爆と銃後 1 2 B B"

Copied!
15
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

「防空」のジェンダー

─戦前戦後における日本の空襲言説の変容と布置─



長 志珠絵

(神戸大学)

要旨 第二次世界大戦を通じ本格化した「空爆」は、前線と銃後の線引きをゆるがし、「防空」 を「国民」の義務とした。では戦時下日本での防空言説は、兵役を担わない性をどのよう に位置づけていったのか。本稿は、戦時下日本での「空襲」に関わるジェンダー表象を戦 時下の防空言説および戦後の空襲記録運動に時間軸を延ばすことで分析した。1章は空襲 研究とジェンダー射程との接合として課題を設定した。2 章は本稿の中心的な章である。 第一次世界大戦後の科学兵器の開発競争と関わって防空言説の登場は早く、1932 年以降 の防空体制の検討は、地域婦人会をはじめ、銃後の女性役割を意味付け、「家庭防空」が 強調された。また日本軍の開発兵器でもあった毒ガス攻撃対策の一方、焼夷弾訓練など、 人びとが自身の身体を守るための知は提供されなかった。日中戦争以降、改定を重ねる 「防空法」はしだいに都市住民としての女性たちを銃後の性から都市防空の守り手へとそ の境界領域を侵犯させ、空爆が始まると即戦力であることを期待され、女性ジェンダー表 象からは逸脱した。しかし占領期、戦後の空襲イメージは、求められる女性表象と密接に 関係している。防空の担い手としての心性は「敗戦」下ですぐには切断されないものの、 占領軍の空爆調査はジェンダーや民族の線引きを引き直し、戦意喪失過程の「日本人論」 として描きなおされた。3章では市民運動としての空襲記録運動のジェンダー偏向につい て指摘した。成人女性の多様な語りが多く含まれることで担保されていた、前線と銃後の 線引きのゆらぎのリアリティや両義性は、空襲記録運動の言説が戦争被害者としての「日 本人」の語りに収斂されるなかで単線化していく。「終わりに」も含め、敗戦占領から戦 後史へ、と続く過程を既存の線引きを引き直す力学としてとらえ、今日の「国民」の物語 としての「子ども」を主人公とした空襲被害の物語の持つ危険性と戦時下のジェンダー線 引きへの着目の持つ有効性を再度確認した。 はじめに 第一次世界大戦に登場した総力戦体制以後、「戦争」の犠牲者としての民間人死傷者は戦闘員を 大きく上回る。ユニセフの報告書等によれば、第二次世界大戦で亡くなった人びとの大多数が女性 と子どもであるが、軍事化とジェンダーをめぐる問題領域において、男性研究に踏み込んだ観点か らの問題の組み替えの必要性が指摘されている(佐藤 2010, 2013)。一方で、「総力戦」の時代以後、 戦禍のなかで生きた人々の経験に照らす際、戦場と銃後とは隔てられている、という歴史的に形成 された戦争像による戦闘員と民間人の区分など、様々な国内法や第一世界大戦以後の国際法による

G

H

論文

(2)

前提の限界は今日、明らかだろう。しかし、であるからこそ同時代の言説空間では、それまでの制 度に沿った境界線をめぐる力学や改めて強固にしようとする線引きの政治が駆使される。軍人軍属 身分か否か、戦時下の死に対し、その場所は戦場か否か、国家と雇用関係にあったか否か、植民地 エリートをどこに位置づけるのか、その死は戦闘死か否か、戦場にいる兵役を担わない性は、では 自らの意思でそこにいるのかいないのか等等。日常と戦場、戦場と銃後を厳しく区分することでの み成り立っているおびただしい「どちらなのか?」といった「境界」を確認する政治は、「平和」 憲法下の「戦後」日本においてなお、常に繰り返し遂行された。20 世紀日本にとどまらず、これ らは軍事化された社会の将来への再生産と維持に向けて発せられる言説に他ならず、ジェンダーを めぐる線引きはその典型的な事例と考える。 本稿は、戦争被害の性的非対称性を支えている、いわば男 / 女であることの社会的意味や構造 を、前線と銃後の線引きそのものをゆるがす空爆をめぐる言説に分け入ること、またその射程の時 期をのばし、第二次世界大戦から戦後にかけて、日本の空襲言説を検討し、戦争とジェンダーに関 わる新たな問題領域を提示しようとする試みである。 1.空爆の時代を捉え返す (1)総力戦下の空爆と銃後 第一次世界大戦に登場した空爆1およびその言説は、銃後の都市空間を攻撃対象に組み入れるこ とで、陸戦とは異なる有効性を提示しようとしたという。第二次世界大戦下では「直接住民を空 襲」「敵国民に多大の恐怖を与え」「戦争意識を挫折」2させる心理作戦として、プロパガンダ「効 果」が期待された。しかし B. カミングスなど著名な朝鮮現代史家が改めて朝鮮戦争下でのジェノ サイドとして言及するものの3、戦後世界は、空爆作戦を阻止する仕方で検証してきたとはいいが たい。戦後日本のような、戦争被害者言説が軸となる社会においてさえ空襲研究は、教科書レベル での公的記憶として位置を得てこなかった。「(日本の)学界が関心を傾けていない理由は何であろ うか」4と韓国研究の議論において、問われる領域なのである。 しかし、核兵器と通常爆弾の区分が意味を持たない今日、むしろ 20 世紀半ばでの空爆の同時代 史叙述は重要であり、またようやく可能な段階にあることにも留意が必要だろう。日中戦争下での 日本軍による重慶への無差別爆撃は、1938 年 12 月以降、1941 年まで 200 回を超える規模で敢行さ れていた。1944 年、米国陸軍マリアナ基地を起点とした B29 航空機動部隊は、高高度・昼間・軍 需工場を目標とした「精密爆撃」(「戦略爆撃」)から、1945 年 3 月以降、東京・大阪・名古屋・神 戸をはじめとする大都市の人口密集地に対し、低空夜間の「地域爆撃」へと軍事作戦を変更した。 その投弾エリアは戦後の日本本土 440 カ所以上に及ぶ。本土作戦に先行、あるいは並行する帝国日 本の植民地諸都市への空爆や朝鮮沿岸部への機雷投下に加えて日本本土では「中小都市」空爆が繰 り返し行われ、太平洋岸では艦砲射撃にさらされた。アジア太平洋戦争末期、ソ連との領空境域で は連合国軍としての英連邦軍による空爆作戦の存在も市民運動の成果として発見されつつある。 もっとも人びとを居住空間ごと焼き尽くす目的で開発された焼夷弾とその夜間投下は第二次世界大 戦下にあっては、「敵国」の人々の戦意を喪失させた、とその成果が強調される一方、自国の兵士 の損失を防ぐ「人道的な」作戦ともみなされた。 ここで特に注意したい論点としては、地上の人々と上空の戦闘員との非対称性や地上の人びとを まなざす認識である。田中利幸は世界史上に登場した空爆作戦について、例えば毒ガス使用が知ら

(3)

れるイタリア空軍によるエチオピア爆撃(1935 年 10 月)を事例に、植民地主義との密接な関係を 強調する(田中 2008)。日本の現代史研究では、細菌爆弾も使用した日本軍による重慶爆撃上空か ら爆弾を投下する軍事作戦が明らかにされてきたが、すでに台湾での霧社事件(1930 年)におい て殺傷能力のある爆弾が投下され、当事者証言からは毒ガス弾使用の可能性が指摘されている。空 爆という先端科学技術を駆使した軍事作戦において、攻撃する側にとって、攻撃対象とされた空間 に含まれた地上の人びととは、「野蛮人」と名指しされるなど取るに足らない他者であり、固有名 も性差も持たない集合的な死者なのである。 同時に空爆被害を受けた人びとを他者化する構造は、空爆攻撃を受けた政府 / 軍部の側に共有さ れる心性であった点をも強調したい。後述するように、戦時下の空襲言説は、都市や「国家」を守 るという能動性を求められた、その意味できわめて男性ジェンダー化された議論であった。逆に、 防空に関わる能動的な主体性が強調されればされるほど、結果として、都市防空という戦闘行為に やぶれ、空爆の犠牲者となった人々は女性ジェンダー化された「弱者」として他者化される。空爆 の世界史が指摘した動きとして言い換えれば、戦時下の政府は、被害実態や記録を軍事機密として 統制し、空爆による住民殺戮についての事後の調査や空爆の前後およびその渦中において、市民の 安全性確保に向けた情報提供を行わない。 加えて、戦時において、本土空襲報道をめぐるメディア操作や隠 性は多く指摘されてきたが、 ではそうした「情報」が戦後日本でただちに実態解明として進められたわけではない。軍事機密と しての空爆作戦の扱いは世界史が共有する事項だろう。フランコ政権下でのゲルニカ空爆(1937 年 4 月)の被害実態も長らく封印され、中国国民政府も、重慶での日本軍による化学兵器使用も含 めた大規模殺戮を隠 した。冷戦下での後者の真相解明は遅れ、日中市民運動の成果によって調査 が本格化するのは 1990 年代以降である。空爆死者をめぐって、国家の情報保持や機密保持という 枠組みからいかに社会の側が情報を取り戻し、未来に向けた記録と社会的記憶を形成できるのか。 女性や子どもの死者が多いとされる空襲被害を明らかにする作業とその認識地平は、戦争の事後の 社会の人権意識、ジェンダー認識と密接に関わる問題領域である。 (2)兵役、ジェンダー、戦争の記憶 ところでジェンダー射程を備えた日本の近代史研究は近年、近代化を通じて導入された軍事化と 男性性構築との密接な関わりに注目しつつある。徴兵令(1873 年)段階の制度は、社会の現実に 妥協的であり、家産のある男性戸主に多くの免除規定を設けた。こうした国民国家形成期初期の制 度運用に加え、明治憲法(1889 年)の二十条は性別規定を持たず、兵役の性別分離を法とその運 用にゆだねた(吉田 2005)。他方でジェンダー射程からみる徴兵制の定着は、徴兵検査合格による 「男らしさ」の獲得である一方、強い肉体を持った兵士予備軍であることを強いる教育や啓蒙言説 が、男性性からの逸脱として「弱さ」をあぶりだし、対アジア言説へ転化する言説構造も指摘され る(内田 2010)。 男性性構築がより大衆的基盤を必要とする時代は、ヨーロッパ戦線での女性の動員と活躍が目立 つ第一次世界大戦を経た段階でもあった。軍属も含めた女性の戦場参加や戦闘行為への部分的参加 など、第二次世界大戦は、軍隊と女性との関係が改めて問われる。従来、こうした世界の動きのな か、日本軍の性別「分離型」理念は逆に強化され、女性を「チアリーダー」的存在に押しとどめた とされた5。だが総力戦時代に「分離型」はどのようにして可能だろうか。戦後日本の戦争認識の 転換点は、フェミニズム潮流による女性史研究と関わっては 1980 年代にある。アジア太平洋戦争

(4)

下での草の根の戦争責任・加害責任を問う視点は、女性の戦争システムへの主体的協力への省察を もたらしたからだ。では、「チアリーダー」像に見られる銃後の性と女性たちの責任主体であるこ とを求められた銃後の関わりとはどのような関係にあったのだろうか。 第一次世界大戦研究が進む今日、戦争とジェンダーをめぐる議論は、女性の軍事登用や軍事化と その配置に新たな知見と論点をもたらしてきた。新たな議論をふまえつつも本稿は、第一次世界大 戦という総力戦体制の経験不十分な日本社会を対象に、性差という枠をふまえたアジア太平洋戦争 下、戦時下でのさらなる線引きの政治として事態をとらえたい。この点で、非軍事主義的な行動や 思想が女性ジェンダー化されるあり方に注目するシンシア・エンローの議論は、米国軍隊システム の推移を例に米軍の兵士管理がベトナム戦後に単身者想定から妻帯者も含めた兵士管理に変化した とするが(Enloe2000)、近代国民国家型の兵役をめぐるしくみが性差に加え、単身者を想定した 制度であった点への着目は重要だろう。兵役をめぐる「境界」における性差をめぐる議論や制度は 状況に応じてその力点を変えるからだ。 たとえば近代的徴兵制導入以後、兵力動員の規模が倍増する日露戦争段階では、明治民法が描く 男系家制度の永続性を危惧する議論もなされ、ことに開戦後での「後備兵」年限の上方修正をふま えてか、「後備兵年齢役三十歳より四十歳の者は大抵一家を有し生業を営み一家最も中必要の人間 たり。又た廷いて国家の経済上最も生産的人物」「有事の日には後備兵を召集せんよりも現役女兵 を徴集するを以つて公私経済上の利益」6と単身若年女性への兵役論が提起されている。ここでは 「壮年男性」の「生産する身体」に対し、若年単身女性の身体が序列化され、新たな兵役対象とし て浮上している行論が見てとれる。単身若年女性の存在への注目という点でみると、アジア太平洋 戦争段階での戦時の女性役割は台湾・朝鮮・「満洲」研究など帝国研究のほか、戦争末期の地域研 究の深化、「慰安婦」問題の蓄積をも射程にいれるならば、軍事化された社会が誰を戦場に優先的 に差し向けるのか、という観点からの読み返しが可能だろう。1945 年 6 月 23 日、現在の「沖縄慰 霊の日」に閣議決定された国民義勇兵役法は、植民地も含め、男女民間人の動員年齢を押し広げ (男性 16-61 歳 女性 17-41 歳)、女性を「戦闘員」と規定した。「本土決戦」が起こらなかったこと と、独身若年層女性に課された銃後役割をめぐる言説やその機能は改めて検討が必要な段階にある と考える。 他方でその事後の扱いにジェンダー力学が作用する点も、改めて議論に組み込む必要がある。多 くの指摘があるように、第二次世界大戦での戦争の記憶とそのナラティブは 1990 年代後半以降、 Memorial warをふくめた新たな段階にいたっている。だが政府間の言説レベルに限定する際、た とえば靖国問題を提起する中国政府においても、戦争死者への検証や賛美そのものが批判されてい るわけではない。20 世紀の国家は戦争モニュメントや国立墓地、戦争博物館、「国史」教科書も含 め、戦争の無数の記憶を排除し、戦争の死者の序列化を欲している。第一次世界大戦を画期とする 戦争のコメモレーション研究において、死んだ兵士集団の追悼のしくみとしての「国のために死 ぬ」行為の成立とは、能動的な死者表象として男性性の成立と不可分であり、第一次世界大戦の 「戦後」世界に共有された軍隊の維持再生産のための規範として位置づけられてきた。近年の男性 研究も、第一次世界大戦下での良心的兵役拒否者をめぐり、軍隊が要求する男性性からの逸脱とす る。戦争の公的記憶構築の力学が、戦争死者の男性ジェンダー化を主要な争点とするならば、非戦 闘員としての民間人犠牲者とは、国家のために死んだ能動的な死者とはみなされない点、兵役を担 わないとされた女性身体であるという二重の意味で、女性ジェンダー化された他者である。極点に 達する軍事主義とはどのような仕方でジェンダー境界をあいまいなものにし、女を闘う主体とし、

(5)

あるいは闘えない犠牲者とみなすのか。ことに戦争の死者表象をめぐる定義の政治は事後の社会を 議論に組み込む必要がある。総力戦体制下での女性の動員のあり方は、戦時下での事例研究の蓄積 に加え、戦後の戦争死者をめぐる制度や対抗運動等、時間軸の射程をのばすことで異なる像が見え るだろう。まずは総力戦体制下に進められた日本の「防空」言説とその変容に即して検討してみた い。  2.女は「戦意」を抱かない?――防空言説の戦前戦後―― 兵士身分を担う能力に欠けるとされた性は、満州事変(1931 年)から日中全面戦争(1937 年)、 アジア太平洋戦争(1941 年)へと経るなか、求められる役割の変化に応じてどのような「境界」 に関わっていくのだろうか。空爆対策としての「防空」は銃後の女性役割と結び付けられた点で、 同時代の世界史との比較史的視点をふまえて前述した先行研究が指摘してきた「分離型」の内容を 示す例としてふさわしいだろう。 ところで防空研究への関心は日本現代史の成果としては戦時下本土日本の社会史研究として近 年、著作が相次いだ7。これらは臣民の義務ではなく、「国民」の責務をともなう主体的な「国民防 空」としていかに強制的な能動性が強いられたか、制度的な推移や防空に関わる官製団体の組織 化、地域を場とした人々の経験に関心を向ける。本稿ではその成果に学びながら、銃後役割が帯び るジェンダー役割の配置とその変容への注目を先行研究との違いとして議論をすすめたい。 1930年代から防空研究の翻訳や研究を進めていた内務省は、満州事変以後すでに、盛んに市民 向けの防空冊子を作成した。新聞メディアの見出しをひろうと、防空関連記事は 1932 年以降での 増加傾向が顕著だが、その象徴的画期は 1933 年 8 月での関東防空演習にあり、準備としての 1932 年 3 月以降からの防護団への組織化等が注目されてきた。他方で、防空演習への関わりは、戦時下 地域の女性史研究において豊富な事例が示される。ここでは防空演習の受け皿が主に、地域の愛国 婦人会や国防婦人会の活動と重なる点に注目したい。先の関東演習との関わりを見ると、例えば地 域の女性団体の動きとしては、1933 年、愛国婦人会千葉県支部による冊子『婦人の防空』作成を あげることができる。冊子の文言では、空襲下、救護の仕事は女性にしか出来ない、と銃後役割が 改めて強調される一方、日本軍の新たな開発兵器であった毒ガス攻撃を想定していかに対応するの か、毒ガスマスク着用も含めての具体的な記述に多くの頁が割かれている8。ちなみに、航空技術 開発としては後手にまわったとされる陸軍では、1929 年、科学軍事技術開発機関として毒ガス開 発の研究所として知られる登戸研究所が設置されている。 次いで日中戦争に前後する時期では、各地の師団司令部からも『家庭防空』、『家庭防空讀本』、 『実戰の防空』、『獨逸の母親』といった防空実践のマニュアル書があいついで刊行された。「家庭防 空」は、「銃後」の護りの組織化を通じ、社会に向けて新たに発信されたキーワードと考えるべき だろう。では防空言説は、「家庭」や「国民」の身体や生命を空爆から防ぐ言説なのだろうか。し かし標語「家庭防毒十則」は焼夷弾対策に重きをおかない。また毒ガス開発も含め、総体としての 防空研究は現代的な学知の先端領域に位置づくものであり、学際領域でもあったものの、その科学 言説は似非科学的でもある。「不燃都市」を唱えた航空工学の専門家は、アジア太平洋戦争期にい たっては、焼夷弾は老婦人でさえ、手づかみ同然の果敢さで臨めば防げる、「逃げるな、火を消せ」 と以下のように述べる。

(6)

「日本の家屋はマッチ箱だ。一旦空襲をうけたら焼野原となるだろうとよく言はれます。これ は米英が、戦はずして日本国民の戦意を放棄させようとして宣伝した謀略なのであります。そ の手に乗せられて、空襲があったらもう駄目だ、と思ってはもう敗けです」9 「逃げるな、火を消せ」と都市空間の防衛義務を市民に迫る防空言説は、焼夷弾とは何か、モノ の構造としての説明はあってもその危険性の解説はほぼなされていない。防空言説はアジア太平洋 戦争末期の日本本土を覆った焼夷弾ではなく、日本軍が中国戦線で用いた毒ガス弾の脅威を強調 し、兵器の効果に関心を誘うものだった。1945 年 5 月、神戸市立第一高等女学校では生徒は防空 訓練に明け暮れる毎日を送ったが、「落下してきた焼夷弾が人体を直撃すれば 人は即死する と いった当たり前の知識は与えられなかった」、とする当時 16 歳の生徒だった豊田和子さんの言は強 い印象を残す10。空爆投下の中で、どのように自らの命を守り生き残るのか、こうした観点からの 知識は封じられた、と見るべきだろう。 では「防空法」という名の法令が何を守ったのか、について近年の先行研究は多くの言及があ る。「防空」を法として定義した防空法(1937 年 4 月 5 日法律第 47 号)1 条は、「灯火管制」のほ か、防毒や監視、通信及警報をあげる。改訂を重ねた防空法は、しだいに、国土や国体に連なる政 治的身体を保持し、人々をその とする性格を露見させていくことが明らかにされてきたからだ。 端的な例としては、改訂を重ねた防空法は、都市防災を市民の義務とする文言を掲げ、その運用に あたっては、空爆にさらされる人びとを、攻撃対象となった都市から避難することを禁じた。空襲 が地方都市にまでおよぶアジア太平洋戦争末期の 1945 年 7 月、青森県行政は防空法を根拠に、郊 外に避難した 3 割を越える市民の帰宅を強制した。新聞紙面には帰宅指示に従わない家族に対し、 食糧配給の停止処分を迫る知事の警告が掲載された11。帰宅期限とされた 1945 年 7 月 28 日夜半で の青森大空襲は、市街地の 9 割を焼失させ、死者は 1000 人をこす。避難先から自宅に戻ったその 夜、焼夷弾の火の海をくぐって再び都市を脱出した 20 歳の女性は、防空義務遂行を迫る兵士から も逃げねばならなかったという12 闘わない性とされた女性は、銃後の都市が前線と化す「防空」領域を担うことで逆に、戦場と化 していく都市空間への主体的で能動的な関わりを求められた。総力戦という歴史的段階は、兵士身 分の被害より住民の死が圧倒的に上回る。前線と銃後に空間的なジェンダー区分を持ち込む言説 は、たとえば植民地支配下での銃後社会への暴力の歴史を隠 するにとどまらず、出来事の意味付 けを誤らせる。防衛総司令部の幕僚は『主婦之友』によせた記事のなかで「むしろ老人、子供とい へども、その力相応に、国土戦士として力を捧げること」を奨励する13。日常世界の軍事化を進め ようとする言説は、子どもと大人、ジェンダー化され固定化された境界線を引き直す言説でもあ る。『時局防空必携』(1941 年出版、1943 年改訂)は、銃後の市民の心得として、「私達は御国を守 る戦士です。命を投げ出し、持ち場を守ります」とした。先に引用した『女性と航空』は、「国家 の防衛は、もとより先んじて攻め、敵を敵地に於いて粉砕する」14として防空の意義を読み替え、 以下のように銃後の女性への防空知識を意味付けた。 「今や戦術戦略の上に、国防、防空の上に―最も必要なものは、その国の航空力であります。 航空知識の涵養は、大東亜共栄圏の盟主たるわが国民の責務であります。―もっともっと、 わが国の女性は航空について目覚めねばなりません。この小著は近代の女性に贈る大空の片影 であります」(「序」中正夫『航空と女性』1943)

(7)

防空言説はこのように、女性たちを能動的な戦闘員の位置におしだし、また「近代の女性」を啓 蒙し、近代開発の側に自らをおく科学言説としてふるまった。日中戦争直後の段階でプロレタリア 作家の平林たい子は、新聞の婦人欄で予見的な議論を展開している。「いまや、戦闘機の出現が、 戦線を非戦闘員の頭の上にまで拡大して、女に銃火の試練まで得させようとしている。これは悲し いことである」としつつ、平林は新しい時代の画期としてこの事態をとらえ、「爆弾の炸裂の中で 毒ガスに咽びながら、家や村や町を防禦する経験を積んだ女は、その以前にはない性格の強さと行 動の能力を獲る」15として防空経験が女性の主体的行動の涵養と訓練につながるとみた。同時代の 女性たちの経験として、ドイツの女性たちの動きが「女子を兵営へ―盟邦ドイツは二十一歳以上 を動員―軍事勤務につかせる」といった見出しが新聞紙面を飾る。写真につけられたキャプショ ンは「防毒マスク装着の訓練を受ける女性たち」とある16。『主婦の友』の 1945 年 8 月の記事は、 防空演習が「敵の上陸」という市街戦への準備を想定する段階にさえ至っていたことを示す17。ア ジア太平洋戦争末期、戦局の推移のなかで防空言説は、戦場の延長として銃後の空間をとらえると ともに、「国土」防衛に向けて個々の能動性や主体性を喚起し、強さを強いる論理をともなうこと で銃後の性を動員しつつあったのである。 ことに戦争最末期の高等女学校は繰り上げ卒業をはじめ、軍需工場動員の体制を通じて空襲への 対応が日々求められ、新たな科学知識や技量の習得を必要とする防空事業の最前線へと配置され た。1944 年 4 月の新聞記事には「空の防人」と称して女子学校報国隊幹部養成のための講習会開 催が設けられ、東京都内 98 の女学校から 2 名づつ、防空補助員養成を進めた、とある18。1944 年 9月、警視庁では空襲下の通信業務等のため、15 ∼ 18 歳の「女子通信隊」35 名を募集、172 名の 応募があり、2 ヶ月間の訓練後、職場に配置したという19 では敵国の人びとの戦意を喪失させるという作戦意図は成功したのだろうか。度重なる空襲経験 が逆に上空の敵への敵愾心をあおり、地上の被害者たちの好戦性を引き出したことは多くの指摘が ある。戦時下での空襲被害体験記も公表されていたが、戦時報道のなかでの「雄々しい」被害者像 の物語は感情の共同体を作り出し、戦意高揚に貢献した。そうした軍事主義的心性は、アジア太平 洋戦争末期での女性たちの日記に見出せる。1945 年 3 月 17 日の神戸大空襲で兵庫区の家を焼かれ た当時 14 歳の兵庫県立第二高等女学校生は、神戸市郊外での疎開先から学校に通い、警戒警報、 空襲警報が続くなか、以下のように記す。 「しばらくして敵機が来た。サーチライトに照らし出された敵機を見ると赤い火までつけて 悠々と飛んでいる。あれが私の生まれて十四年も育つた家を焼いたのだと思ふとひねりつぶし てやりたい―にくらしい」20 ここで引用した女学校の日記は教師の検閲印を経ている。敵機に憎悪を抱き、戦争継続の意思表 明を引き出す好戦的な発言は時局に沿った、しかし「銃後の性」から逸脱した攻撃性を内面化した 発言でもあるだろう。防空言説の持つ銃後の防空は、いわば「銃後の役割」の持つ男性ジェンダー 化された軍事主義のあり方を女性たちが担う過程として再読する必要があるのではないか。 そして、とするならば、では女性たちは、どのような仕方で空襲を自らの戦争被害として読み替 えることができるのか、改めての検討が必要ではないだろうか。この点で、1945 年 8 月 14 日のポ ツダム宣言受諾と「8 月 15 日」という、天皇による「玉音放送」を歴史の分岐点とする見方は、 この日が仕組まれた日である、という以上にその留保が必要である。1945 年 8 月 15 日、横浜で家

(8)

業手伝いだった 19 才、谷本フミ子の私的な日記「乙女秘帳」には、「午前 5.30、P51 来襲―軍事 施設、市街地攻撃」、「8 月 15 日 天皇の声明」に続けて以下のように記されている。

「皇紀二千六百年、初めて日本は敗戦せり。我々は、必ずこの仇をうつ。皇太神宮にちかう」21

あるいは以下での資料引用は、「戦争」後の 1945 年 12 月、占領(Occupied Japan)時代初期に 行われた米国戦略爆撃調査団による空爆効果調査報告書(The United States Strategic Bombing Survey)の一部、下部組織の民間研究部門戦意部 Moral Division による「戦略爆撃か日本人の戦意 におよほした効果( The Effect of Strategic Bombing On Japanese Morale )」の一回答である。横 浜在住のこの女性は、女性の特攻隊が許可されることを熱望したという。いつ戦争に負けると感じ たか、戦争の責任は誰にあると考えるか、という日系米兵軍曹の問いに以下のように答えている。 「最近ではどんな小都市でも爆撃からは免れないということを感じました。でも空襲で勝敗が 決するとも思ってませんしね」「戦争ですから、責任というよりもやっぱり弱いものがたたか れる」(年齢不詳、女性)22 空襲被害を認識しながらも、これらは厭戦、非戦の感情に結びつかず、その意味で、調査が持つ 目的―いわば、空爆の正当性を担保するための、空爆効果と敵国住民の厭戦意識に貢献したとい う結論を保証しない。その一方で、では誰が空爆被害をもたらしたのか、その責任の所在を問う、 といった論じ方への答えでもない。こうした特徴を持つ回答はこの一例にとどまらない。 この面接調査は連合国軍というよりは米太平洋陸軍の日本進駐部隊の当該部局によって、日本占 領期の初期である 1945 年 11 月から 12 月にかけて行われた。原子爆弾投下都市である広島や長崎、 戦後の空襲戦災都市には含まれなかった京都も含めた 58 市町村、3153 人への 41 におよぶ質問項 目の記録である。調査対象となった人びとの選択やその実現に際しては、間接統治下の日本の地方 行政機構が深く関与している。なぜインタビューイとして自分が選ばれたのか、日系米兵の日本語 での問いに人びとは緊張しながら応じたとされる。「ほとんど何も答えない」女性の存在もしばし ば登場する。1974 年以降、空襲記録運動によってこれらのインタビュー調査の音声テープは部分 的に集められ、東京、横浜、大阪、福岡等、その一部は翻訳・刊行された。また USSBS 調査のご く一部に過ぎないこのインタビューは新たな開発兵器である原子爆弾を含めた空爆作戦の有効性を 「日本人」とその社会に対して問うものである。言いよどむ回答は単純化されて是と非に二分され、 戦争の責任は誰にあるか?の答えは統計的に「日本」にある、とまとめられる。いつ敗戦を予感し たのかという問いについても実際は無回答が多い。この調査をめぐって 1990 年代では福岡の市民 グループが、福岡での面接インタビュー調査 74 人分を詳細に検討している23。空襲がもっともひ どかった地区からの調査者が少ない点を問題とするほか、回答分析として、女性たちの多くが性暴 力の危険性を感じていたこと、行動の制限、自由を求める意見などを指摘している。また回答予定 者には朝鮮半島への帰還者も含まれていた。少数ではあれ、民族的差異を勘案しないことによっ て、この「日本人」調査はなりたっている。 では空襲という第二次世界大戦で本格的に用いられた軍事技術の「効果」調査として、面接イン タビューの際の性別が男女ほぼ半数であることは、適切なのだろうか。ここまで検討してきたよう に、空爆が銃後を戦場に組み入れたアジア太平洋戦争末期、「空の時代」が銃後の性に求めた新た

(9)

な能動性の発揮のあり方は、「分離型」としてのジェンダー領域の原則にとどまらない。そして銃 後に向けた強いられた主体化が空襲死者の多さにつながる要素であることも想像される。 そもそも空襲死者の性差の偏りはどのようにして確認可能だろうか。試みに表は、戦後の地方行 政による公文書24から、「空襲死者」の年齢別構成を作成したものである。当該都市である埼玉県 熊谷市のビッグデータを欠くが、死者 258 名(女 150、男 108)の男女比に注目すると、幼児児童 で同等、その幼児の母親世代の男女比は違いがあり、老人世代も女性の死者数が多い。 <表> ある地方都市における「空襲死者」の年齢別構成 年 齢 男 女 合計 0 ∼ 5 歳 28 25 53人 6 ∼ 10 歳 11 10 27 11∼ 15 歳 7 13 20 16∼ 19 歳 8 1 9 20∼ 29 歳 2 21 23 30∼ 39 歳 26 10 36 40∼ 49 歳 10 11 21 50∼ 59 歳 11 7 18 60歳以上 17 42 59 合 計 108 150 258        (注 24 参照) 非戦闘員としての地域住民が戦争の死者として記録されることと、死者の性差はどのような関係 を結ぶのか。沖縄本島での自治体史叙述について、特にその戦争編を貴重な戦争史料としてとらえ た現代史研究者の林博史は、地上戦の被害者における性差と年齢差の偏りを指摘する(林 2001)。 戦争がもたらす被害の性差の検証は、方法論が必要と思われるが、地上戦が展開された沖縄本島で は、県行政や住民の協力による悉皆調査が取り組まれ、戦況の推移と死者数の変容、年齢や性差の 連関が明らかになる地域が多い。事後に作られた記録はどのような意図を持つのか。先の USSBS 調査は、歴史資料として留保されながらも、戦後直後の「日本人」意識調査として結論づけられ、 また近年でもそのように扱われてきた。しかしそこで前提としての織り込まれている集合表象とし ての「日本人論」は、都市部人口の多民族構成や女性被害者の多さの蓋然性といった要素を見過ご すことで成り立っている。むしろ留意すべきは、USSBS 調査の枠組みを踏襲した問いのあり方で あり、これらを看過することは、空爆の事後の被害記録調査が持つジェンダーバイヤスをめぐる力 学や、調査不在の持つ歴史性を読み違えるものではないか。 他方、戦後の日本政府も、空襲死者を記録や調査の対象としなかった。まず、冷戦下において、 軍事技術への主要な関心が核兵器に移ることで通常爆撃とその被害についての軍事作戦上の関心は 後退する。また第二次世界大戦後の国際法もまた、空爆被害を戦争犯罪と意味付け積極的に議論す る対象とはしてこなかった。ことに空襲死者およびその被害者は戦後日本では、社会保障制度の対 象として戦後早くから外され、他方、戦後の国家補償の対象でもないため、通常爆撃とその被害の 公的調査の必要性を政府は持たなかった。1952 年、いち早く軍人軍属身分への国家補償がなされ るものの、空襲を原因とする死者やその遺族は対象からは後述するように意識的に排除され、その 後の裁判においても、「国家と雇用関係」にない非戦闘員の死者、「殉難者」とされた。ことに占領 期、戦没兵士の公的追悼は禁止され、日米をまたいだ関係機関間での内部資料において空襲死者と

(10)

の対比で議論された。戦前に東京出身戦没兵士のモニュメント墓であった東京市忠霊塔の遺骨は、 東京大空襲の無名遺骨とともに合葬されるプランが立てられ、その存続の可能性が模索されてい た。地方軍政部(GHQ/SCAP の CIE)と東京都(日本政府)のあいだでこのように空襲死者の扱 いは戦没兵士の墓を残すための取引的な議論がなされたのである。次いでポスト占領期、両者の対 比は大きく変わる。アーリントン国立墓地等を名指しでモデルとした現「千鳥ヶ渕戦没者墓苑」 (1953 年閣議決定、1959 年 3 月 28 日建設・追悼式)の設置検討会議で空襲死者は、国家追悼の枠 組みから「死の意味があいまいになる」と線引きの政治によって排除された。国会答弁でも同様の 議論が展開された。戦後国家による戦争死者の公的コメモレーションは戦前型の男性兵士に加え、 「日本人」条項を加えた戦後的な男性兵士追悼のしくみを持つにいたった(長 2013a, b)。 部分的には知られてきたこうした動きを「敗戦」と「占領」をめぐる異文化間ポリティクスとし て男性研究的視点から読み解く指摘は興味深い。しばしば「日本男児の敗北」とされる「敗戦」 は、米山リサによれば、対米従属というルサンチマンの喚起によって、家父長制的軍事主義が女性 ジェンダー化される構造におかれるなかでの言説としてある(米山 2003)。国家に能動的な死者と しての男性兵士が「国民」規範とならない状況にあって、ポスト占領期での空襲死者は、女性ジェ ンダー化された弱々しい民間人死者として再配置される必要があったのである。では「ほとんどの 女性にとっての戦争経験は、銃後・内地における体験」25といった戦争経験が記述の対象となる時 代、空襲被害をめぐる性差は議論の対象とされたのだろうか。 3.戦後の「空襲記録」とその課題 日本本土の空襲検証は遅く、1970 年、東京大空襲の体験記募集への新聞を通じた呼びかけには じまる市民運動によって都市に広がり、民間の反戦市民運動としてようやく全国的な広がりを見せ た。吉田裕『日本人の戦争観』(岩波書店,1995)は、1970 年代前後での経済大国化と海軍賛美史 観や旧陸軍作戦参謀クラスの幕僚将校による「幕僚史観」の登場に対し、対抗文化としての「庶民 の戦争体験の歴史化」の進展をあげる。早乙女勝元『東京大空襲』(岩波書店,1970)の刊行を契 機とした被災体験の記録運動の全国化はその代表例とされた。東京空襲を記録する会を立ち上げた ジャーナリストの松浦総三は、「反戦・平和の日だった 8.15 が、一億総懺悔の日にすりかえられて いく」、「このままでいくと東京大空襲の記録は歴史から抹殺される」26という危機感を強く感じた と述べている。空襲記録運動はその登場段階、ベトナム反戦をテコに、歴史観の揺り戻し、変容と いう現実に対する緊張を伴った。1, 2 巻の刊行は 1972 年、最後の 5 巻刊行(1974 年)まで 4 年、 5000頁におよんだ『東京大空襲戦災誌』、1973 年には大阪大空襲の体験を語る会編『大阪大空襲』、 姫路空襲を語りつぐ会編『姫路空爆の記録―恐怖の昼と夜―』等が、さらに全 6 巻『横浜の空 襲と戦災』(1975 ∼ 1977 年)も刊行された。 体験者の手記や戦災関係記録等の「地上の経験」の集積に加え、1980 年代後半では米軍資料収 集も始まり、戦時下では知ることが適わなかった、飛来機数や投弾量など個々の空爆作戦の情報を 得ることが可能になった。他方、地域の「中小都市空襲」の解明という課題は、空襲が全都道府県 で 440 カ所以上、8 月 15 日未明まで継続されたことが明らかにされている。地域住民の証言に加 え、米軍史料の利用は、原爆投下練習を目的とした「パンプキン爆弾」投下空襲という事実を発見 し、本土空襲と原爆投下の具体的な相補関係を明らかにした。 しかし空襲記録運動による地域の空襲被害は、戦後日本の戦争の記憶の中では位置を占めず、教

(11)

科書記述も含め、歴史教育や自治体史記述に反映されないとして市民運動側からの批判は多い。 1990年代以前での「戦後日本」の思想言論状況にあって、戦争を語ることは、反戦・平和教育を 語ることと同義であったが、「国民」の戦争の記憶とその継承は、「原爆」被害に向けられた、とさ れる。他方で、1970 年代の市民運動の射程としては、実際の運動実践の顔ぶれや同時代の小説で の描かれ方とは異なり、戦後的な一国に閉じた空間や戦争をめぐる「日本人」に限定した被害者像 が前面に登場しがちである。帝国研究を射程に入れた今日の社会史研究の深化や蓄積、戦争認識研 究とは距離があるのも現実だろう。戦前日本は植民地出身者が家族定住する社会であり、人びとの 生活空間は連合国軍側が攻撃対象とする大日本帝国の範囲に及ぶ。開発された B29 は、大日本帝 国の占領地や軍事施設を攻撃対象とし、1944 年 6 月以降、スマトラ島やシンガポールなどの東南 アジア各地の日本軍の拠点施設が、他方、「満洲」の満鉄沿線の工場地帯や台湾、「満洲」が北九州 とともに空爆対象となった。また「南方」でも、1944 年 2 月でのトラック大空襲などの大規模空 襲が多くの住民被害を出した。米・機動部隊による沖縄首里を中心とする「十・十空襲」(1944 年 10月)は、その帰還時では台湾全土の軍事関連施設への大規模空襲を伴った。1945 年 6 月以降本 格化していく「中小都市空襲」においても日本海エリアの港湾は朝鮮半島沿岸とともに機雷投下の 対象となった。ソ連と国境を接した北海道では 7 月半ば以降、米国海軍空母の艦載機による大規模 空襲が、8 月 15 日以降でも樺太ではソ連機による空襲が住民の生活と命を破壊した。これらを戦 闘部隊の攻防史としてではなく、戦争被害者の経験と記憶として描く空襲史叙述は、帝国の版図イ メージに加え、冷戦の時空間との連続性のなかでとらえる射程が必要だろう。 では空襲戦災記録運動もまた性差を看過し、「日本人」論を立ち上げたのだろうか。 『東京大空襲戦災誌』編者の松浦総三は、第 1 巻『都民の空襲体験記録集』の寄せられた体験手 記の書き手の半数以上が女性であることを強調している。あるいは同時期に編まれた『大阪大空 襲』は、6 回におよぶ空襲の証言を集めた 49 編の、うち 30 編は女性の手記である。これは大阪空 襲を語る会が、壮年女性の取組みによって生まれたことによる。近年でも女性の書き手の多さをあ げ、その前史を 1950 年代での生活記録運動に求める指摘27のほか、成田龍一は『暮らしの手帖』 96号(1968 年 8 月)特集「戦争中の暮らしの記録」に注目、戦時下の生活史叙述の延長に位置づ ける28 しかし同時代のメディアや刊行物のキャッチコピーに立ち現れた空襲被害者は「庶民」「民衆」 として表象され、「日本人」として括られる全体像を持った性なき人びととして語られたこともこ こでは留意しておきたい。ことに記録集全体のなかで、女性の「声」がどのように配置される構造 にあったのか、この点は重要だろう。1970 年代の空襲戦災記録運動における「記録」は、公的記 録を重視する点で 1990 年代以降の当事者証言に寄り添った方法論とは距離があるからだ。先の大 阪の証言集と異なり、行政側が主導となって、公的記録化に取り組んだ東京や横浜の戦災記録集は 全巻が 5 巻や 6 巻の大分に及び、資料集としての充実度合いは群を抜き、戦時下生活史社会史研究 にとっても貴重な資料集である。しかしながら手記編に著名人の公的発言や日記を多く配する、あ るいは行政史料や公人の割合を増やすといった「記録」への周到な準備によって、当事者証言の 「声」の比重は本全体の作りから相対的には低い。 要するに誌面の配分は圧倒的に公的機関に公的に記録される出来事からなり、あるいはそうした 媒体に意見を発表できる機会を多く持つ壮年男性の書き手が配された、男性ジェンダー化された記 録集として読む必要もあるのではないか。かつて歴史学が His-Story と称されたように、ジェン ダー史記述が成り立つためには、何を資料とするのか、「記録」を読む際の方法論的な議論を必要

(12)

とする。1970 年代の空襲記録運動が女性の体験記述を広げたと評価する指摘は多いものの、空襲・ 戦災記録運動に女性が多く関わり、証言にも多く女性が占めることと、女性の戦争体験としての意 味付けや、女性の戦争体験の多面性に言及する議論が意識的になされていることとの間には距離が あると考えるべきだろう。 終わりにかえて 1980年代以後の地域女性史と 1970 年代以降の市民の手による空襲記録運動との架橋が見えづら い点は今後、女性史研究と戦争記録集との関係を考えるうえでの課題となるだろう。だが注意すべ きはむしろ、東京や横浜の戦災資料集が、いち早く学童疎開の記憶と記録に取り組んでみせたよう に、空襲記録運動の担い手が戦争末期の「少国民世代」として、戦時下の大人世代を告発する無垢 で透明な主体としての位置を占め、そのことが性差を除去する流れをもたらした点ではないか。手 記ではマジョリティをしめた「家庭防空」の主体であった女性の語りは、戦争被害者としての「子 ども」へのシフトによって、相対的には後景に配され、実際の語り手の高齢化や世代交替と重なっ ていく。 この点で、ことに今日の空襲被害像という表象が、「子ども」像を軸に大衆化され、今日なお受 容され、再生産されている点は重要だろう。福間良明をはじめ、近年の社会学の研究潮流は、空襲 や銃後の生活を描いた「国民の物語」として、高畑勲監督によるアニメ映画「火垂るの墓」(1998) をあげ、「子ども」に代表性を与えた空襲経験の意味を批判的に検討している。野坂昭如の原作に あった、多様な人びとが織りなす戦時下に封じ込められない「犬死」の物語は、主人公清太の兵士 の予備軍としての役割を欠落させる操作や、「おばさん」に象徴される、主人公兄妹を苦しめる大 人世代をヒールとして描くことで、戦争経験のない戦後世代にとっての、戦争被害者の感傷的な 「国民の物語」としての位置を得たという。この一方で、少年の目線からヒロシマを問うたかつて の「国民の物語」、漫画『はだしのゲン』は放射能汚染批判を含むことで今日、保守派潮流による 教育現場からの閉め出しが問題化している。こうした事態と照らし合わせる際、『火垂るの墓』が 2010年代に入ってなお実写版映画が作られることの意味は深刻だ。戦後日本での公的な軍事博物 館、戦争博物館といった歴史展示の不在は近年の保守政治家にとっての「改革」対象であり、今 日、歴史修正主義者による新たな政治的焦点である。戦時下の男児は戦闘員として表象されていた が、これらを排し、無垢な戦争被害者像を描く空襲表象は、能動的な死者を描く英雄の物語と相互 補完的な役割を期待されているのではないか。空襲経験が記憶の領域に入りつつある今日、本土定 住「日本人」の構築に収斂しがちな空襲被害者像への介入的な試みとして、性差に着目する射程は 改めて可能性のある歴史叙述として必要とされている。 【注】 1 空爆、空襲という用語についてはさしあたり荒井信一『空爆の世界史』(岩波書店,2008)の区分にした がって、軍事作戦としての空爆を設定する一方、地上の経験に関わる「空襲」を分けて叙述しておきたい。 2 陸軍航空本部「航空部隊用法」1937 年 12 月作成(防衛庁防衛研修所戦史室編『本土防空作戦』朝雲新聞 社,1968). 3 6章「「最も不公平な結果」―空爆」B. カミングス『朝鮮戦争論―忘れられたジェノサイド』(原著 2010,邦訳栗原泉・山岡由美,明石書店,2014). 4 「序文」(中央歴史研究所『帝国日本の空と防空、動員 1―防空政策と植民地朝鮮』2012、韓国語、金津

(13)

日出美訳). 5 若桑みどり『戦争がつくる女性像―第二次世界大戦下の日本女性動員の視覚的プロパガンダ』筑摩書房, 1995(ちくま学芸文庫,2000). 6 木村鷹太郎『東西古今娘子軍―一名女子兵役論』日吉丸書房,1909.なお著者は明治大正期の日本主義 者. 7 土田宏成『近代日本の「国民」防空』ぺりかん社,2010,水島朝穂他『検証 防空法―空襲下で禁じられ た避難』法律文化社,2014 等参照. 8 「婦人の防空」(『関東防空演習に於ける活動情況調査書』1933,7 頁). 9 「時局下の防空女性」(中正夫『航空と女性』1943,181 頁). 10 2008.8.10「火垂るの墓を歩く会」第 10 回記念講演会「神戸空襲と『火垂るの墓』」での、神戸空襲を記録 する会代表中田正子による壇上インタビューのなかでの豊田和子の発言. 11 青森空襲を記録する会『青森空襲 私のレポート』青森空襲を記録する会,1998. 12 ビデオ『青森空襲の記録』青森空襲を記録する会,1992. 13 「決戦下の我が国土防衛」(『主婦の友』1942.2). 14 「時局下の防空女性」(中正夫『航空と女性』1943,178 頁). 15 平林たい子「防空演習の闇夜に立ちて―女性の意思的試練を想ふ」(『読売新聞』1937.9.17). 16 「女子を兵営へ」(『読売新聞』1943.5.5). 17 宮城タマヨ「敵の本土上陸と婦人の覚悟」(『主婦の友』1945.8). 18 「女性も空の防人に 訓育の講習」(『読売新聞』1943.4.15). 19 『読売新聞』1944.9.21. 20 『日誌』神戸空襲を記録する会委託史料. 21 横浜の空襲を記録する会『横浜の空襲と戦災 1 体験記編』横浜の空襲を記録する会,1976. 22 同上. 23 アメリカ戦略爆撃調査団聴取書を読む会編『福岡空襲とアメリカ軍調査』海鳥社,1998. 24 1952.8.13 日付,埼玉県熊谷市,民政部民政課作成『太平洋戦争非戦闘員空爆犠牲者名簿』 25 大日方純夫「戦争の体験・記憶・認識とジェンダー」(米田佐代子他編『ジェンダー視点から戦後史を読む』 大月書店,2009,174 頁) 26 「あの悲劇を消すな―体験こそ最大の武器」(『読売新聞』1971.8.15) 27 斉藤秀夫「空襲・戦災記録運動の動向」(横浜の空襲を記録する会編『横浜の空襲を記録する会 34 年の記 録』2004). 28 成田龍一「まえがき」(『日常生活のなかの総力戦』岩波講座アジア太平洋戦争 6,2006) 【参考文献】 荒井信一『空爆の歴史―終わらない大量虐殺』岩波新書,2008 伊香俊哉『戦争はどう記憶されるのか―日中両国の共鳴と相剋』柏書房,2014 内田雅克『大日本帝国の少年と男性性―少年・少女雑誌に見る「ウィークネス・フォビア」』明石書店,2010 Enloe C., Maneuvers: The International Politics of Militarizing Women s Lives (Berkeley: University of California

Press, 2000) Chap6 エンロー,シンシア 佐藤文香訳,『策略―女性を軍事化する国際政治』岩波書店,2006 エンロー,シンシア 秋林こずえ訳,『フェミニズムで探る軍事化と国際政治』2004 長志珠絵『占領期・占領空間と戦争の記憶』有志舎,2013a 長志珠絵「戦争の「事後」を考える―東京市忠霊塔のゆくえ」(『人文学報』104)2013b 小野沢あかね「批判と反省 女性史から男性史への問い―『男性史』全 3 巻によせて」(『歴史学研究』844, 2008.9) 佐藤文香「テーマ別研究動向―軍事領域の男性研究に向けて」(『社会学評論』61-2,2010.9)

(14)

―「ジェンダーをめぐるキーワード 軍事化とジェンダー」(『ジェンダー史学』10,2014) 高井昌吏編『反戦と好戦のポピュラーカルチャー』 世界思想社,2011 田中利幸『空の戦争史』講談社現代新書,2008 林博史『沖縄戦と民衆』大月書店,2001 福間良明『反戦のメディア史』世界思想社,2006 松田京子『帝国の思考―日本「帝国」と台湾原住民』有志舎,2014 宮田親平『毒ガス開発の父ハーバー―愛国心を裏切られた科学者』朝日新聞社,2007 吉田裕「日本陸軍と女性兵士」(早川紀代編『戦争・暴力と女性 2 軍国の女たち』吉川弘文館,2005) 吉見義明『毒ガスと日本軍』岩波書店,2004 米山リサ『暴力・戦争・リドレス』岩波書店,2003

(15)

A Gender Perspective on Air Defense: Japanese Discourses before and after

the World War II

OSA Shizue

The aerial bombing of Japanese cities during World War II shifted the lines of demarcation between the frontlines of battle and the home front, with major impact on gender roles and gender discourses. This paper examines the wartime shifts and post-war development of different narratives about air defense on the home front from the perspective of representations of gendered roles. Beginning from 1932, regional women’s associations were encouraged to discuss the role of women in national defense, including participation in efforts on the home front to defend against bombing and poison gas attacks. In those early discourses, there was a clear division of roles based on gender. However, as aerial bombing became a central feature of wartime life, the line between male and female roles in home front defense was redrawn, with women playing an increasingly important role in urban defense activities. In the post war period, efforts were made to make records of wartime activities and damage as a result of the war. In that process, gender considerations were blurred as experiences were redrawn in a nationalist “Nihonjinron” narrative. As a result many of the narratives of aerial bombing came to focus on children as the major victims. This article argues for the importance of rethinking those narratives from a gender perspective.

参照

関連したドキュメント

JIS B 8370: 空気圧システム通則 JIS B 8361: 油圧システム通則 JIS B 9960-1: 機械類の安全性‐機械の電気装置(第 1 部: 一般要求事項)

In Section 6, we show that the functor V 1 : PrA ,2 A associated with a Birkhoff subcategory B of A may be interpreted as a commutator. The resulting notion of centrality fits

The relative commutant of B 1 in pAp is a direct sum of simple inductive limit algebras, each of which contains a simple real AF algebra (with the same K 0 group) and

Definition 1 Given two piles, A and B, where #A ≤ #B and the number of to- kens in the respective pile is counted before the previous player’s move, then, if the previous player

If, moreover, a and b are coprime and c is suffi- ciently large compared with a and b, then (1) has at most one solution. Diophantine equations, applications of linear forms in

The techniques employed in this paper are also applicable to Toeplitz matrices generated by rational symbols b and to the condition numbers associated with l p norms (1 p 1 )

Each of these placements can be obtained from a placement of k − 1 nonattacking rooks in the board B by shifting the board B and the rooks to left one cell, adjoining a column of

[Principle 4.1 Roles and Responsibilities of the Board of Directors 1] Supplementary Principle 4.1.1 As a “Company with Nominating Committee, etc.,” the Company’s Board of