著者
堀 雅通
著者別名
Masamichi HORI
雑誌名
観光学研究
巻
17
ページ
39-64
発行年
2018-03
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00009831/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja『日本人』掲載論稿にみる井上円了の観光論
Inoue Enryo’s Views on Tourism Theory in “JAPANESE”
堀 雅 通
HORI Masamichi
[要旨]
本論は、今から 130 年程前、明治 21 年 8 月から明治 23 年 5 月まで、7 回に渡って、雑誌『日本人』 (政教社)に掲載された、井上円了の 4 編の論稿のうち(本誌前号ですでに取り上げた)「坐ながら 国を富ますの秘法」を除く 3 編の論稿(「井上円了の欧米周遊日記」、「強兵策」、「旅店改良案」)に ついて紹介し、これら一連の論稿で展開された井上円了の観光論、とりわけ観光立国論について分 析・考察したものである。 円了における一連の観光立国の提言は、条約改正を視野に、富国強兵・殖産興業を意図したもの であるが、当時の日本の国情と日本人の気質に鑑み、即座に、容易に実行可能な、極めて現実的、 理に適ったものであった。また、円了は、自然景観や文化財の保護・保全の必要性にも言及、さら に観光が文化の普及、国際交流、教育にとっても極めて重要な意味を持つことを認識していた。本 論は、そのような、当時にあっては、極めてユニーク、先見的な井上円了の観光論について紹介し、 その今日的な意味を明らかにしたものである。[キーワード]
井上円了、『日本人』、観光論、観光立国論、観光教育論、富国強兵・殖産興業[目次]
1 .はじめに 2 .観光への着眼 3 .『日本人』掲載の円了論稿-大意- 4 .旅店改良案 5 .観光文化・教育への言及 6 .むすび[付録]
『日本人』掲載の井上円了の観光関係論稿-原文- 国際観光学部国際観光学科教授1.はじめに
観光(政策)は、今でこそ、官民挙げて鋭意推進されているが、長い間、物見遊山・不要不急の ものとみなされ、主要政策の埒外に置かれていた。そのような中にあって、今から 130 年程前、観 光に基づく富国、すなわち観光立国を唱えた人物がいた。井上円了である。 円了は、明治 21 年 11 月発行の『日本人』第 16 号(政教社)に「坐すわりながら国を富ますの秘法」 と題する論稿を寄せ、外国人旅行者を積極的に誘致し、外貨獲得により国を豊かにする方策を提言 した。また、これより先、円了は、「井上円了の欧米周遊日記」、「欧米周遊日記(第二回)」(以上 の 2 つの論稿を併せて「欧米周遊日記」と略記)と題する論稿において観光の重要性を指摘してい た。さらに、「坐ながら国を富ますの秘法」の後、「強兵策」と「旅店改良案」と題する論稿によっ て、強兵策との関係から観光立国及び旅行業の改善案を提言している。 円了における一連の観光立国の提言は、条約改正を視野に、富国強兵・殖産興業を意図したもの であるが、当時の日本の国情と日本人の気質に鑑み、即座に、容易に実行可能な、極めて現実的、 理に適ったものであった。また、円了は、自然景観や文化財の保護・保全の必要性に言及、さらに 観光が文化の普及、国際交流、教育にとっても極めて重要な意味を持つことを認識していた。 このような円了の観光に対する考え方、すなわち観光論は、現代の観光政策にも十分通用しうる もので、その先見性に驚かざるをない。本論は、そのような、当時にあっては、極めてユニーク、 先見的な井上円了の観光論について紹介し、その今日的な意味を明らかにする。2.観光への着眼
19 世紀末、明治政府は、欧米列強に追いつくため、富国強兵策の下、西洋の知識と技術を取り 入れ、鉄道を敷設、法律や制度を整備し、また国民の生活慣習の改変に努めた。日清・日露戦争後 は、日本に対する国際社会の認識を深めるため、また戦費調達や外貨獲得のため、一時外客誘致策 に努めたこともある。しかしながら、戦前・戦後と、一貫して工業中心の産業政策を取ってきたこ とから、観光は、長い間、不要不急・物見遊山的なものとみなされ、国の主要政策の埒外に置かれ ていた。 そのような観光政策、観光行政が大きく転換したのは、昭和 39 年の東京オリンピックである。 これを機に観光基本法が制定され(昭和 38 年)、観光政策の推進と観光行政の拡充が図られた。も っとも、これはオリンピックを控えての外国人対策といった一面があり、本格的に観光を国の主要 政策に据えようというものではなかった。しかしながら、平成 3 年のバブル経済崩壊後は、少子高 齢化の進展といった社会構造の変化もあって、官民一体となり、観光を国の重要な政策の柱にしよ うとの機運が高まった。そして、平成 15 年の観光立国宣言を皮切りに、ビジット・ジャパン・キ ャンペーンの推進、観光立国推進基本法の成立(平成 18 年)、観光庁の創設(平成 20 年)と、次々 に新しい観光政策が打ち出されていった。こうした政策の進展もあって、観光は 21 世紀になって、 ようやく国の主要な政策の一つに位置付けられるようになったのである。そして、平成 28 年、我が国の訪日外国人旅行者数は、ついに 2000 万人を突破、4000 万人を目標とするまでになった。 以上のようなわが国における観光政策の展開過程にあって、富国強兵・殖産興業策の便宜的手法 とはいえ、先駆的に、観光に基づく富国、すなわち観光立国を唱えた人物が井上円了だった1)。 円了は、富国の方法として、「坐ながら国を富ますの秘法」において、当時主張されていた、① 強兵説、②製産説、③通商説、④出稼説、それぞれの実行可能性を費用と時間の側面から比較・検 討した上で、いずれの説もそれらが実行不可能ないし極めて実現困難な点を指摘し、それに対して、 自説が、費用、時間、いずれにおいても、即座に、かつ容易に実行可能なことを、平易な具体例を 挙げて説明している。なお「坐ながら国を富ますの秘法」の「坐ながら」とは「費用と時間をかけ ず容易に」の意である。円了の観光立国論は、その時代的背景もあって、富国強兵策を念頭に置い たものであるが、今日のインバウンド政策にも通じる一面がある。 哲学館の創立から 1 年たたない明治 21 年 6 月 9 日、円了は横浜港からイギリス船ゲーリック号 に乗船、米国へ向けて旅立ち、翌年 6 月 28 日、およそ 1 年に渡る海外視察旅行を終えて帰国した。 「欧米周遊日記」と「坐ながら国を富ますの秘法」は、その間、米国から英国へ移動中の船舶の中 で着想、執筆されたもので2)、3 回に渡り、『日本人』に連載された3)。なお、同誌の創刊に関わっ た円了は、海外視察旅行中及びその後に上記論文を含め以下のような観光関係の論稿を寄せていた。 ・「井上円了の欧米周遊日記」第 9 号、明治 21 年 8 月、18~19 頁 ・「坐ながら国を富ますの秘法」第 16 号、明治 21 年 11 月、10~15 頁 ・「欧米周遊日記(第二回)」第 16 号、明治 21 年 11 月、33~36 頁 ・「坐ながら国を富ますの秘法(承前)」第 17 号、明治 21 年 12 月、4~8 頁 ・「坐ながら国を富ますの秘法(接続拾七号)」第 20 号、明治 22 年 1 月、6~10 頁 ・「強兵策」第 29 号、明治 22 年 7 月、3~6 頁 ・「旅店改良案」第 47 号、明治 23 年 5 月、5~6 頁 海外視察旅行中、円了は、米国人が長期の休暇を得てバカンスを楽しむ習慣を見聞する。フラン ス、イタリア、スイスは、こうした米国人が来遊するバカンスの観光市場となっていた。円了は、 そのような観光市場がもたらす観光収入、経済効果に着目する。 「余嘗て米国より欧洲に渡航するの際、船中の上等客凡そ四百余名あり。其の内九分通りは、米 人の仏瑞両国の間に三伏の暑を避け、一年の労を息ふものなりと云ふ。且つ余之れに聞く。米国人 は其の国を以て工作場となし、仏蘭西、瑞西、以太利を以て遊覧場とし、便船ある毎に必ず数百名 の客、欧米の間に来往し、仏蘭西、瑞西、以太利の諸国其の今日富を成す所以のもの多くは、年々 其の地に来集せる外国人より得る所なりと云ふ」(井上[1882b]3 頁)。 観光は、このように、すでに一国の経済を支える重要な産業の一つとなっていた。そこから、円 了は、観光・バカンスに勤しむ国の豊かさに思いを馳せ、観光立国の考えを強くした。 「余以太利にありては、羅ロー馬マフロレンス、ベ子ママス等の諸府に滞留せり。時正さに二三月の交にして、 到るところの旅亭皆客を以て充満せり。其客は皆外国人の此に遊ぶものなり。是れより得る所ろの 富推して知る可し。余因て以為らく、我邦若し東洋の以太利瑞西の如く、外国人の遊覧場となるに
至らば、一国の富立たちどころに興すことを得べしと。是れ余が富国策なり」(ibid.p.4)。 観光立国の実現は、まず外国人旅行者を日本に誘致することから始まる。外国人旅行者が日本国 内の宿泊施設に滞在すれば、その宿泊費、飲食費や土産品購買費などが、それぞれ観光収入として 入る。外国人旅行者が滞在中に消費支出を増やすなら、それは結果的に国富の増大に寄与する。観 光は裾野の広い産業で、様々な経済効果を有している。宿泊業、旅行業、交通業のみならず、小売 業、飲食店業、農林水産業など他産業への波及効果も大きい。円了は、そのような観光(産業)の 経済効果を認め、具体例を挙げて、これを分析・考察している。 外国人旅行者の観光消費は国民経済に有益な結果(富)をもたらす。国益にかなうと円了は考え た。より多くの外国人旅行者を誘致することで新たな観光収入、すなわち外貨獲得の機会を生む。 それを元手に産業を興し、様々な生産・投資効果を誘発していけば、それが富国強兵策実施の資金 となる。何よりも雇用の創出と生産に従事する人々の労働意欲を高めるものとなろう。 「日本人の産業を盛んにするの益あること、即ち輸出品増加すれば日本従来の製産に従事するも の各其益を得倍々其職業を務め其製産を盛にする」(井上[1882a]p.7)。まずは外国人旅行者の増 大を図ることが先決・肝要と考えた。 円了は、このような外国人旅行者の誘致による富国、すなわち観光立国となりうる条件を日本は 十分備えている、「東洋のスイス」となりうる国である、と説く。 「我邦は山川の景色の美にして四時の気候の宜きは世界に其類少なく且つ到る処温泉湧出し四浜 に浴すべき海水を帯ぶるの便あり」(井上[1881b]15 頁)。 日本は北海道から沖縄まで南北に長く、四季の変化に富む。(円了が学生時代からよくいった) 伊豆、箱根、伊香保といった温泉もある。京都や奈良の社寺、熊野古道、茶道など、独自の文化、 歴史もある。それらは外国人旅行者の関心を惹くだろう。 「我が日本は巳に風色と気候の宜きは仏以両国の右に出づるのママ天然の便を得其美術遊興の如きは 或は未だ仏蘭西と肩を比するに至らざるも是より我が邦人を奨励して其発達進歩を期するときは此 地をして欧米各国人の来遊場となすは決して難きことにあらざるべし」(ibid.p.15)。 「我邦は開国以来二千五百余年を経過し其際史上の事跡至て多く旧地霊場到る処あらざるはなく 且つ古代の建築彫刻絵画其他古器古物美麗雅致ある美術亦到る処に遺存し大に外人の観を引き感を 起さしむることを得実に遊客の遊覧に最も適する地と謂ふべし」(ibid.p.15)。 当時、明治政府は、欧米列強に追いつこうと、富国強兵・殖産興業策を推進していた。しかし、 その実現は、かなりの困難を伴い、相当の時日を要した。そのような状況下にあって、円了は、即 座に実行可能で、かつ国を豊かにする方策として観光に基づく国富論、すなわち観光立国論を提唱 した。具体的には外国人旅行者を積極的に日本に誘致し、観光収入を得ることで、国民経済・産業 経済の発展を図るというものであった。それには旧来の旅館の慣習を改め、西洋スタイルの接客サ ービスに努めるべきであるとした。そもそも、日本は、フランスやイタリア、スイスのように、観 光大国となりうる条件、環境を備えている。したがって、外国人旅行者を阻害する諸要因(井上[1883] 参照)を取り除いていけば、日本の観光立国も容易に可能だと考えた。上記のような観光論は、「欧 米周遊日記」、「坐ながら国を富ますの秘法」を中心に『日本人』掲載の論稿において展開された。 次節でその大意を紹介する4)。
3.『日本人』掲載の円了論稿 -大意-
○井上圓了の欧米周遊日記
社員井上円了は去る 6 月 24 日、航海を無事終えて米国のサンフランシスコ(桑港)に到着した。 以下に彼の航海日誌を掲載する。 明治 21 年 6 月 9 日、10 時、英国船ゲーリック号に乗船、サンフランシスコ(桑港)に向って、 横浜港を出港、欧米周遊の旅に就いた。船は内海を出て、進路をやや東北方向に取った。房総半島 の山々を左手に見て過ぎた。夜 7 時、遥か海上に灯台の光が波間に見え隠れしていた。銚子の犬吠 岬灯台だ。これより本州の山々をみることはなかった。 船は一昼夜平均して 300 マイル進む。これは 1 時間におよそ 12 マイル半の速度である。その後、 東北に進み、15 日、16 日頃、北緯 46、47 度に達する。日本の千島と同じ緯度。寒暖計は(華氏) 42 度に下がり、3 月頃の東京の気候と同じである。船室内では蒸気管を使っている。 15 日、東半球から西半球に入る。これに伴い、日付けが西半球の暦に変ったため、2 回目の 15 日となった。思うに、西半球と東半球と 1 日違い、西半球の 15 日は東半球の 16 日であって、東半 球の 15 日は西半球の 14 日である。したがって、日本の暦を米国の暦に改める場合は、1 日の閏日 が生じ、15 日が 2 回ある。この 2 回目の 15 日は日本の 16 日に当たる。航行は毎日東に向う。そ れにつれて日の出の時刻が毎日数十分進む。およそ 1 日 25 分の割合。それゆえ船内の 21 日の正午 は日本では 22 日の朝 6 時に当たる。 船内の乗客は 1300~1400 人程である。そのうち上等客は 50 人余り、上等客の中には、英国人が いたり、米国人がいたり、あるいはフランス人、ドイツ人、インド人、中国人、そして日本人がい る。とりわけ英国人が最も多く、日本人は 6 人、中国人は 3 人、インド人は 1 人だった。日本人の なかには、神宮司純粹、桐野利邦、高田慎蔵の各氏がいた。下等船室にはおよそ 1200~1300 人の 中国人がいた。中等及び下等室の日本人は 27、28 人だった。 2 度目の 15 日は早朝から暴風で波が高く、夕刻になるとさらに激しくなった。船体はひどく揺 れ尋常でなかった。夕食はほとんどとらなかった。この時、二、三回稲妻を見たが、それ以外は風 波とも穏やかになっていった。船内では格別書くほどのことはなかった。 ある日、中国人と筆談した。中国人がいうには、風説によると、日本では天皇がキリスト教に改 宗したと、また明治 23 年以後、日本では米国政府に倣い、国王を選定したとのことだが、それは 果して本当のことか。自分は、それらは全く事実無根の説であると弁明した。思うに、このような 俗説は、中国ではごく一般のことのようだ。 船内の西洋人は大体が商人である。香港、上海、横浜などに貿易通商のため居留する者が多い。 したがって、あまり品格のある人はいない。日本人については上等客を除けば、たいがい壮年の書 生で、桑港(サンフランシスコ)に留学する者が多かった。日本服、日本紙、日本紙幣といった日 本製品をもっているものがいた。彼らはすべて日本に居留していた者であろう。しかしながら、日 本服は西洋人の寝巻として使い、日本紙はトイレットペーパー、日本紙幣は博打に使っていたとの ことで感心しなかった。 17 日は日曜日だったため西洋人の中のキリスト教信者たちが食堂に集まり、10 時半から賛美歌を歌い、祈祷を始めた。衆人を勧誘したが、中国人は、自分は孔子教を信奉しているといい、日本 人は自分は無宗教だといって出席しなかった。西洋人の中には義務だといって出席するものもいた が、色々な口実を設けて出席しないものが多かった。 ある日、ドイツ人とイギリス人が二組に分れ、甲板上で綱引きをしたことがある。その時は、ド イツ人の方が勝ったが、このような遊びが船上では無上の楽しみとなっていた。 航海中の約 16 日間は何も見えなかったが、22 日、夕陽に当たる雲烟渺茫の間に帆影を見た。こ れは帆走中の帆船が洋上にある姿だった。乗客は皆甲板に出てこれを遠望し、一時の癒しとした。 24 日朝、サンフランシスコに着いた。横浜からの航行の距離は 4,545 マイルだった。
○欧米周遊日記(第二回)
井上圓了寄送 およそ周遊日記と題する以上は、毎日の見聞したことを書き記すところだが、それらを大となく 小となく、一々叙述すべきところだが、天気、気温、地名などは一々書くことは煩わしいし、また 書き記すほどのこともないだろう。自分の旅行は日数に限りもあることから、至って忙しく、旅行 中はほとんど筆を執る暇もなかった。したがって、ただ多少なりともいささか感想めいたことを一 つ二つ記して周遊日記とするだけである。 天が人を制することもあれば、人が天を制することもある。名山、大川、寒暖、風雨が人心に与 える影響は、これはいわゆる天が人を制するものとなるが、彼の欧米各国の文明が急速に進む所以 のものは、種々の原因事情があるにせよ、また天候、地勢の影響がないわけではない。換言すれば、 天候、地勢は、欧米社会の発展の一要因であるといえるだろう。自分が米国を通過して第一に感じ たことは、米国の天地が社会、人事の上に与える影響である。先ずサンフランシスコに着いて、こ の国の人情、風俗を実地に観察したところ、次に鉄道に乗って山や川の形勢をじっくり見て思った ことは、合衆国の急速に隆盛に赴く所以のもの、皆広大にして百事百物一として大でなかったもの はなかったということである。ゆえに自分は「大」の一字を以って米国全体の事情を評しようと思 う。ただこの大の大たるゆえんのものは、自分の見るところによれば、天候や地勢の影響によるも のが多いと考える。米国の地勢が数千キロにわたり一大陸を貫き、その大なることはいうまでもな い。その間に連なる山々にはロッキー山脈があり、シェラネバダがあり、川ではミシシッピがある。 ハドソン川もある。ただこれは皆世界に冠たる高大山川というわけではない。湖には北部に五大湖 があり、ナイヤガラの巨大な滝もある。これらも世界一というわけではない。高原平野に至っては、 数日間、鉄道で旅行しても山影を見ない。砂漠に至っては、グリートアメリカンデゾルトのように アフリカのサハラに一歩を譲るにしても、世界大原の一つであることは疑いないだろう。米国の海 については、太平洋と大西洋を東西に擁し、一目万里の大観を有するが、その気候に至っては、冬 夏の寒暖差が著しいものの、すでにニューヨーク、シカゴなどは、夏には 105 度以上の気温に上昇、 一方、冬時には気温が零度以下に下がるとのことである。まさに大寒極熱の地といわざるをえない。 これは要するに、米国は、天候、地勢、ともに大であり、ここに住む人々は朝夕常にその大に接し、 その大を見ることによって自然と大なる思想を薫育し、大なる経画を養成して、大事大工を成就す るに至ることは当然のことといえよう。こうして、そこに住む人々が考えること、すべて大である 以上、その国が富強となり、その社会が隆盛に趣くことは自然の勢いである。これが米国、米国人の富強隆盛に進む一要因であることは明らかである。そのような大はただ天候や地勢だけにとどま らず、牛や馬などの家畜をはじめ、すべてが我が日本産のものと比較して大であり、果実野菜にい たるまでもすべてが大である。桃や林檎、梅などの果実、きうり、ねぎ、ゴマなどの野菜、すべて これらを日本の植物に比べて大でないものはない。 以上は自然にあるものだが、もしこれを人工に属するものについて例をあげれば、鉄道、汽船、 家屋、市街、製造工業、いずれも一つとして大でないものはない。人が日夜見聞きし、手に触れ、 知るもの全てがこのように大であり、米人の体格もまた日本人に比べて大である。それゆえ米国人 が持つ思想、自然が勢い大でないことはなく、その人の心身ともに大であれば、国の勢いもまた大 であることは自然なことといえよう。さらに米国の進んでいるものを見ると、スピードを落とすこ となく、軽率に流れず、泰然として坐し、悠然として進むといった状況であるが、これもまた山や 川などの外的要因に拠らないものはないといえるだろう。彼のロツキー山脈をみるに、決して日本 の高山のように、突起危立するものではなく、自然に起り、自然に高いものとなっている。汽車に 乗って、その高い頂きを登るとそれが山であるとはわからないだろう。ミシシツピーの大なる水量 に至ってはその水の多さも、その流れたるや決して日本の河川のように急流ではなく、動かないよ うにして動き、流れていないように流れている。これらがすべて知らず知らずの間に、米人の思想 を養成することは疑いえないだろう。 さらに日本の山河の形勢を見て思うことは、全く米国の反対といった感じで、いたるところ山は 皆小さく、川もまた小さく、草木や禽獣の類もまた皆小さい。このことは自然が心身を小さく媒介 していることは明らかである。また日本人の発展の速度が遅れ、軽躁に流れる恐れがあるのもまた 山や川の形勢によることは疑いえない。かくして日本人がその小心の中に秀然として聳える元気が あるのを見ると、これはあるいは天地の養成によるものとの感想をもたないわけにはいかない。す なわち、我が日本の山や川は皆小さいけれど、その小さい山、小さい頂の上に屹立して富士の一峰 がある。これはあたかも我が日本の大和魂が小さい心の中に秀然としているといったようなもので、 富士山こそがそのような心を養成する媒介とならないことはありえないだろう。今日、文明が進む ところのもの、あるいは我が日本の山や川のように、急速軽躁に失する恐れはあるものの、その元 気は万古に徹して変わらないものであり、中国人のように金銭の奴隷とならず、日本人の日本人た る名分を重んずるといったようなことは、富士が屹然と天に聳え、千古の形をとどめていることと 同じである。 古来、詩人たちは、あの富士山の美しさを詩に詠い、画家は絵に描き、五尺の子どもも、朝夕、 富士山を目にし、富士山についていろいろと耳に聞く方便を得ることができた。こうしたことによ り自然と人心を薫育した結果、あの秀然たる(富士山のような)思想を養成することになったこと は疑いない。それゆえ、日本人の日本人たるゆえんのものは、米国人の米国人たるゆえんとともに、 山や川の形状が影響を及ぼすことによるものと信ずる次第である。その他、米国人が美術の思想に 疎く、一方、日本人が文雅の風致に豊かなのもまた山や川の誘因によることは明らかである。 米国の山や川は、大は大といえども、その風致に至っては甚だ乏しく、ナイヤガラの滝のように、 確かに壮観を極めるといっても、美術上、これをよく見れば、やはり風致に乏しいといわざるをえ ない。これに対して、我が日本の山や川は、小は小であっても、その風致に至っては、米国の山や 川と同一の比ではない。あの日光、松島、厳島、嵐山の景勝は、山、川、海に、雪、月、花に、自
然の絵画を現出するものであり、これが見る人に対して知らず知らずの間に、美術の思想を薫育し、 詩画の風致を養成するものとなっている。このことが日本人が雅趣に長じ、米国人が風致に乏しい ゆえんである。 こうした一例によって、山や川の形状が社会の発展の一要因となり、年少教育の一要因となって いることを知るのはよいことである。それゆえ、果たして、日本の地勢が社会の発展の一要因とな ることには、一利一害があるといわざるをえない。今や万国が対列して競争するような時代状況に あっては、日本人が旧来の美術を楽しみ、風致を重んずる風習は、一旦これを変えて米国人のよう に、実用的な事業を起すという思想を養わせないことはないであろう。が、このことはもとより自 分の願うところではない。とはいえ、全く日本が変って実用的な工業国となるという論に至っては、 その利害を深く考えざるをえない。あたかも日本の数千百年来養成してきたところの思想風習は、 決して一朝一夕に変更すべきものではない。また日本に自然に有する山河の名勝は、日夜人の心中 に美術の思想を注入することをどのようにするであろうか。もし我が日本人に命じて全く美術の思 想を絶とうと望むなら、名山名川の美観も併せて絶ちえないであろう。 以上のような理由によるところをさらに顧みて考えるなら、美術が目先の直接の実用と遠いとの 恐れがないわけではない。とはいえ、社会が発展する上で必要な一大要素であることを明らかにし、 文明が進むにつれて美術的な思想及び需要は実用的とともに進むべきであるということは改めてい うまでもない。したがって、我が日本の本来の長所である美術的思想を変えて、容易には実行しえ ない実用的な工業を興そうとすることが、我が日本の得策とならないことは明らかである。これに 対して、自然にある美しい山河の景勝はあくまでこれを保存し、生来有する風雅の思想もまたあく までこれを養成して、将来、日本が世界の美術の中心となり、美術によって世界に誇ることに努め ることこそ、むしろ我が日本の得策であると信じる次第である。かくして、実用的な工業のような ものは、徐々に発展させる方法を用い、多年の後、西洋に対峙できることを期すことは可能である。 以上は、自分が汽車中にあって感じたことである。そのままここに記して紀行の一部とした次第で ある。 ●井上圓了氏の帰朝 社員井上圓了氏は、先に欧米に渡航していたが、1 年に渡る漫遊を終えて、 6 月 28 日、無事帰朝した。周遊中、いろいろと見聞するところがあり、多少なりとも有益な材料 を仕入れて帰ったとのこと。追々、本誌上において、氏の意見を述べてもらうこととした。読者諸 君もこのことを了解されたい。
論説 ○強兵策
井上圓了 私はかつて米国から欧州に渡航した際、船中にはおよそ 400 余名の上等客がいた。そのうちの 9 割は、米国人で、いずれもフランス、スイス、イタリアに三伏の暑(夏の極暑)を避け、一年の苦 労を休めるためという。また、以下のようなことも聞いた。すなわち、米国人は、自分の国は働く 場所(工作場)であって、フランス、スイス、イタリアは遊ぶ場所(遊覧場)としている。それゆ え、船便があるたびに必ず数百名の客が乗船し、欧米の間を行き来している。フランス、スイス、 イタリアといった国々が今日豊かな国となっている理由の多くは、年々その国に来訪する外国人から得るものであるということである。 私はこの点から我が日本が豊かになる方法は、外国人が来遊すること以外にはないと考え、本誌 第 17 号以下の号で重ねて富国策を論述した。その策は国内に壮大な旅館を設立することが第一の ことであり、これはまたすぐにでも実行可能な事業であり、これによって得る利益は、直接的にも 間接的にもそれぞれ 5 万円の金額に達するはずである。したがって、私はこの方策を名付けて「坐 ながら国を富ますの秘法」といった次第である。その後、フランス、イタリア、諸国を遊歴し、こ のような策を益々我国に設けるべき必要を感じた。自分は、イタリアにいたとき、ローマ、フロー レンス、ベニスといった都市に滞在したが、その時期はまさに 2 月から 3 月にかけての時期であっ た。どのホテルも皆客でいっぱいだった。彼らは皆外国人で、その地に遊ぶものだった。ここから 得る利益(富)を推量してほしい。 ゆえに自分が思うことは、日本がもし東洋のイタリア、スイスのように外国人のバカンスの地(遊 覧場)となれば、一国の富もたちどころに興すことができるということである。これが私の富国策 である。この策は条約改正が実現するか否かに係らず実行すべきことであると考える。条約改正は 現在の大問題ではあるが、自分にはその改正がいつの日に実現するかわからない。思うに近い将来 に実現するだろうと想像するだけである。もし果たして近い将来に実現するとしたら、私の富国策 は益々速やかに実行する必要があると考える次第である。外国人が一度国内に居留の自由を得るに 至れば、彼らは自分たちが滞在する目的の西洋旅館を設立し、これを経営し、その利益は全て外国 人の占有するところとなるだろう。それゆえ私は条約改正がまだ実現していない状況下にあっては 速やかに上記の策を実行することを祈るものである。 以上が私の富国論であり、その概要をここに提示した次第である。富国と強兵は、実際上、密接 な関係を有するもので、国の富を保とうとすれば、強兵はなくてはならない。軍隊が強ければ、国 も自然と栄えるようになる。ゆえに富国論があれば、強兵策についてもまた論じないわけにはいか ない。 さて、私は、フランス、イタリアを経てドイツに入り、その軍隊の訓練が盛んであることを見た。 思うに軍隊を強くすることにもまた方法があると。その方法によらなければ、軍隊があったとして もこれを強くすることはできないだろう。私はここにおいて強兵策を設ける。これをまた(「坐な がら国を富ますの秘法」に続いて)「坐ながら兵を強くするの秘法」と名付ける。 軍隊のメリット、デメリット(利害得失)についてはここでは論じない。自分はただ軍隊を強く することが今日必要なことと定め、その方法のいかんについては論じないものとする。思うに、(軍 隊を強くする)方法には直接の方法と間接の方法の 2 種類がある。また直接の方法は 3 種類ある。 すなわち、兵隊、兵器、訓練である。兵士兵卒を増員し、精選することは方法の一つである。兵器・ 銃砲を研究・発明することが方法の二つ目である。軍隊の演習・訓練を怠らないことが方法の三つ 目となる。これらは一般に強兵策と称するものだが、決してそれだけではない。まず一国の兵を強 くしようとするなら人々に強兵の必要性を知ってもらわなければならない。 しかしながら、世の中には愚かな者もいれば、無学の者もいる。道理をわきまえない者もいる。 こうした下等の人々に対して、いかに軍備の必要性を説いたところで、しょせん馬耳東風だろう。 こうした人々に軍備・強兵の必要性を理解させることは難しい。幸いにもたとえ学識があり、道理 をわきまえ、兵備の必要性を理解するものがいても、自ら進んで兵備に当ろうとするものは極めて
少ない。したがって、このような人々を誘導して兵気を起こさせるには、きっと他の方法があるだ ろう。これがここで私が間接的な方法と称するものである。この方法には三つの方法がある。 第 1 条 兵隊の処遇に関する方法 第 2 条 一個人の教育に関する方法 第 3 条 社会の風致に関する方法 第 1 条を実行するために必要な事情を挙げれば、第一に兵隊の衣服はなるべく外観を装い、これ を観るものとしてその美を喜ばせることが必要である。第二は、行軍の時には喇叭の代りに種々の 音楽を用い、人がその声を聞いて楽しめることが必要である。第三は、兵士の埋葬場や招魂社を壮 大・永遠に保存し、葬祭を厳粛とし、兵事で死ぬことは余楽があると思わせることが必要である。 第四には、時々行軍観兵を行い、人々が兵勢の盛んなることを知らせる必要がある。第五には、隊 名艦名などを選ぶ際は、なるべく兵士を憤起させるに適した名称を用いることが必要である。 例えば、軍艦に日没艦といった名称を用いるより、日出艦の名称を用いる方がよいだろう。また 秋風艦の名称より春草艦の名称の方がよい。いったい人の気風は、大なる名称によって動かされる ものである。強勇の名称は強勇の気風を引き起し、平凡な名称は人を平凡にさせる傾向がある。あ る人が自分は大日本国の民なりと大呼すれば、勇気勃然として起こるが、もし自分は小日本国の民 なりと呼ぶとすれば、勇気も消え去ってしまう。第六に、高官高位にある人は、つとめて兵士を優 待厚遇する習慣を養成し、兵士と会話交際する際はなるべく鄭重の語を用いることが必要である。 次に第 2 条に移り、一個人の教育に関して必要な点を挙げるとすれば、第一に、一般的に幼児の 衣服には軍服制のものを用いることが必要である。第二に、幼児の玩具に兵器兵隊を模倣させたも のを用いることが必要である。第三に、児童の戸外での運動には行軍交戦の形を有するものを用い、 雪合戦その他戦争を模倣させるものを用いることが必要である。第四に、学校の教科書に古今東西 の戦争記を加え、読本などにも軍人の模範となるべき事実を編入することが必要である。第五に、 子どもの遊びに戦争を模倣させるものを用いることが必要である。将棋などについても、これを改 良し、以下のように駒の名称を変えることが必要である。 王将は 大将とし 金将は 大佐とする。 銀将は 大尉とし 桂馬は騎馬とする。 香車は 砲車とし 飛車は 鉄道とする。 角行は 電信とし 歩は 歩兵とする。 その他、戦争を模倣させる新しい遊びを工夫することが必要である。第六に、子守歌、唱歌、昔 話などを改良し、戦争に関係あるものを用いるようにする。次は第 3 条についてであるが、3 条に いう社会に関する方法をあげれば、第一に、戦争軍人に固有の芝居を設ける、あるいは各演劇中に 必ず戦争の一場面を演ずるようにする。役者芸人などは軍服を着て、舞台の上では戦闘の場面など を演じることが必要である。第二に、講釈師、漫談師などに戦争に関係ある事実を講釈させること が必要である。第三に、戦争や軍人の絵画を奨励することが必要である。戦闘シーンなどもパノラ マなどで描くことが必要である。第四に、軍人大将の肖像を彫刻して、公園その他、人の集まる群 集が少なくても、内地開放の後には荒野を咆哮し、蒼空に飛躍するだろう。たとえこれを制御する
のにいまだかつて知らない法制度によって行うにしても、なお巧みにここから抜け出て、その○○ を縦にしようとするだろう。ましてやこれを扼するに脱離する術を知る法制度によってするだろう か。しかしながら、わが国民はだれ独りいまだかつてこれをみないのである。いまだかつてこのこ とを知らない法律に統治されることは傷むべきことというべきだろう。思うに日本臣民は日本国土 に生れた者である(注:上記 7 行意味不明)。 日本国土に生れた者は日本に適当な法律の統治を受けるべき者である。もし外国人向けの法律に 統治されたならたとえ日本の山河はそれが日本の山河であってもそこに住んでいる人民は決して日 本人と呼ぶことはできないだろう。したがって、私は、外国法官の任用と外国人向けの商法民法の 制定に対してはあくまでこれを拒むゆえんである。 条約改正、ああ条約改正、条約の改正は私の切に希望するところである。私は、治外法権の撤去 が一日も速やかに実現することを、また関税率の改正が一日も早く実現することを望む次第である。 とはいっても、自分は一つの治外法権を撤去して、更に一つの治外法権を立てるような改正に賛成 することはできない。国内の雑居不動産所有権は非常に憚るべきことであるが、法律制定の櫂とし て自分の手にあるならば、これに配慮するゆえんの道もまた多くないということはない。 治外法権撤去後の治外法権がもし行われるならば、日本人は日本人にして日本人とはいえないも のと考える。条約の改正は国権の伸張のためである。人々の利益増(民利増益)であると考える。 日本人にして日本人である実を失おうというのか。また何の国権がここにあるというのか。また何 の民利がここにあるというのか。現在、条約改正に賛成する論者が、幸いにみだりに○けず魂を体 して、これを愛すべき親むべき大日本帝国の臣民を死地に陥いれることがないことを祈る。
○旅店改良案
旅店改良案と題するはあまりにもおおげさにすぎるかもしれない。ただ旅店改良のことについて 一言意見を述べたいだけのことである。今日、鉄道が各地に敷設され、国内旅行をする人々も追々 増加していることから、当然のことながら、従来の旅店における宿泊者に不便を与えることが多い ことから、その改良に注意することが必要だろう。そして、これを改良する目的は、第一に、人々 になるべく多くの安心を与えること。第二に、なるべく少ない費用で宿泊できるようにすることで ある。このような目的を達成するには、当然ながらしかるべき方法を用いなければならない。その 方法について、二、三、述べてみたいと思う。 第一点は、多数の小旅店を設けないで、少数の大旅店を置くこと 第二点は、茶代を廃止して席料(部屋代)を定めること 第三点は、酒席、宴会の場所別にその部屋を定めること 第四点は、各部屋の戸締りを厳重にすること 第五点は、浴室、便所はできるだけ清潔にすること 先ず第一点についてその意味を述べれば、我国の旅店は、東京、大阪、名古屋、その他の都市に あっても皆小さいものが多く、大きいものははなはだ少ない。しかしながら、旅店が小さければ、 その○○もまた小さく、その利益もまた小さいものである。したがって、宿泊者に不利益を与え、不愉快を感じさせ、双方不経済となる。これに対して、旅店が大きければ、経済も利益もともに大 きくなり、低額の宿泊料で、多くの安心を買うことができるだろう。ただ大きな旅店を設けるには、 多くの資本が必要という難点がある。 現在、我が国では、旅店を開くものは皆資産の乏しいものであるから、大きな旅店を設けること が難しいといっても、自分の考えによれば、もし資本が乏しいときは、二三の旅店を合併して、一 つの大きな旅店を開くか、そうでなければ、資産家が自らその任に当り、新しい旅店を起すか、二 者択一の中の一つを選ぶことは難しいことではあるまい。またもし我が国に資産家その人が乏しく、 自ら進んで旅店の改良に従事する者もない場合は、各人の信用が堅くないことから多数の人々が共 同で大きな旅店を設けることが難しい場合は、自分も決して最初から欧米各国並の旅店のように壮 大なものを設立しろというわけではなく、第一には、現在の旅店より一段大きいものを設け、次に はこれよりさらに大きいものを設け、次第に小から大に進むといった行程を取るなら、今日の我が 国の事情からいっても、困難な事業とはいえないだろう。 第二点は、茶代を廃止することであるが、旅店に茶代の風習があるのは好ましいこととはいえな い。したがって、これを廃止するものであるが、下等の部屋に泊まるものも、一部屋に一人でも、 数人でも同額の宿泊料を払うのは、また不公平なことである。ゆえに自分は茶代の代わりに部屋代 (ルームチャージ)を設け、上等の部屋の部屋代は高く、下等の部屋の部屋代はその値段を安くし、 当然のことながら部屋代と食事代とを分け、夜具、蒲団、火鉢、茶器類は皆、部屋代に応じて、そ の他一切のことについて宿泊客の扱いは部屋代に応じたものとすれば、茶代を廃止することはでき るだろう。 第三点は、宴酒の席を別に設けることである。通常旅店の風習として、各自の室に酒肴を命じ、 宴席を張り、放歌高吟し、芸者を呼んで三味線をかき鳴らし、隣室の客の静寂を妨害することに斟 酌する必要がない。これは本当に悪習といわざるをえない。したがって、宴会の酒席の場所はこれ を別の場所に設け、宴会を行うものはこの席で宴会を行うようにする。これも旅店改良の一つにな るものと信じる。但し、宴席を別の場所に設けることは、小規模の旅店では実行することは難しい だろう。それゆえ、私は、この一事においても大きな旅店を設けることが必要であると考える。か つまた酒席の外に遊席を別に置くことも同時に必要なことと考える。なお、私がここでいう遊席と は、待合席といったようなもので、碁を打ったり、将棋を楽しんだり、あるいは小説を読むもの、 新聞を見るものが皆、その席に集まり、各人、適宜、自由に遊べるような方法を設けることをいう。 ゆえに、その席(部屋)には、囲碁、将棋、新聞、雑誌、小説等を備え置き、また茶や菓子類も 備え置くようにするのがよいと思う。あるいは楽器、球つきなども備え置けばより便利である。も しまたそこが温泉場であるならば、茶湯席、挿花席、詩歌席などまで設け置くべきである。もし旅 店の敷地が広いときは、運動場、遊歩場を設け、体操器械を備へ置き、あるいは馬場、釣堀なども 設けるようにすれば最高である。また来客と応接する部屋も別に設けるのがよい。食堂もまた別に 設けることができるなら、さらになお酒なども出せるようであれば幸いである。しかしながら、こ れらのことは小さな旅店では実行することが難しいので、私は、旗艦となる旅館を設けることが必 要だといいたい。 第四点は、各部屋の戸締を厳重にするという一条についてであるが、わが国の建築のスタイルは、 戸締が厳重でないがため、室内に至っては不用心である。格別旅店では不用心を感じることが甚だ
多い。ゆえになるべく戸締を厳重にして、盗難の心配がないようにして、旅人に安心の気持ちを与 えることに努めるべきである。 第五点は、浴室、便所の一条についてである。わが国の旅店では、座敷のみを清潔にして、浴室 や便所はいたって不潔なところが多い。従来の風習では、浴室や便所の不潔については取り立てて 注意を払わなかったようである。ゆえにこれらを清潔にして、かつそのような場所をなるべく客室 から離すように建設することが大事である。とりわけ便所の場所及びその構造には最も注意を払う べきであるとの一条である。その他、旅店の所有者及び管理人が注意すべき点は非常に多いが、今 はこれを略すこととする。 以上は、私がこの頃地方を旅行した際、思い当たるところがあったので、そのままここに記して 旅店改良案と題した次第である。
4.旅館改良案
以上のように、円了は「旅店改良案」(井上[1883])で、西洋の宿泊施設と比較して、当時著し く整備が遅れていた日本の旅店(旅館)の欠点・不備(外国人旅行者誘致の阻害要因)を指摘し、 併せて観光立国のための改善策を提言する。それには旧態依然たる当時の日本の旅館の営業方法を 見直すことが重要であると指摘、具体的にその改善案を提言した。 「強兵策」に続いて5)、明治 23 年 5 月、『日本人』第 29 号、5~6 頁に掲載された上記「旅店改 良案」(井上[1883])は、観光立国論に直接関係するものではないが、外国人旅行者から見て、当 時著しく利便性に欠けていた日本の宿泊施設の不備を指摘するとともに、併せてその改善策を提言 するものとなった。 「第一点は多数の小旅店を設けずして少数の大旅店を置くこと 第二点は茶代を廃して席料を定むること 第三点は酒席遊席は別に其室を定むること 第四点は各室の戸締を厳にすること 第五点は浴室便処は精々清潔にすること」(ibid.p.5) このような提言は、おそらく円了自身の国内外の宿泊施設の利用から得られた知見であろう。「以 上は余が此頃地方旅行の際、思当りたる儘此に記して旅店改良案と題せしものなり」(ibid.p.6)。「旅 店改良案と題するは余り大さうらしくあれども、旅店改良の事に付一言する位の事のみ」(ibid. p.5)と断わりながらも、旧来の日本の旅店(旅館)経営、接客サービスのあり方に改善を求めて いる。 宿泊施設の整備については、現在、旅館業法、国際観光ホテル整備法などの法的規制に基づき、 消費者保護の観点から、様々な施策がとられているが、そのような概念さえなかった当時にあって、 円了の改善策・提言は極めて理に適った先駆的なものであった。 このように、観光(政策)の重要性に着目した円了は、外国人旅行者を誘致するための具体策を提示する。ただ、円了の提言が、直接、時の政府の政策立案・実施にどの程度関与したか不明であ るが(この点の検証は今後の課題としたい)、各提言については、以下に矢印で示したように、結 果的に様々な形(法的規制)で、その後の日本の観光政策に具体化・実現していった。 第 一條 日本国内の名所都会に壮大の旅館を設立すること(即ち東京、横浜、大坂ママ、京都、奈良、 日光、箱根、松島、等の地に洋館を設立すること) → 国際観光ホテル整備法(昭和 24 年)、 国際観光モデル地区(昭和 61 年) 第 二條 旅行手引土地案内地図等を作りて外国の各地に配附すること(例へば桑サンフランシスコ港、香港、 新 シンガポール 嘉坡、等の各所に配附すること) → 喜賓会(明治 26 年)、鉄道省国際観光局(昭和 5 年)、 財団法人国際観光協会(昭和 6 年)、外客誘致法(平成 9 年) (井上[1881b]14 頁) 第 一條 旅館は成るべく壮大を要し、館内の躇事は成るべく適便を計り、欧米各地の旅店と同様 ならんことを期し、務めて旅客の意に適し、旅客に安逸快楽を与ふる様に注意すべし → 国 際観光ホテル整備法(昭和 24 年)、新国際観光ホテル整備法(平成 5 年) 第 二條 内地の旅行は全て車行の便を計り、案内者を設け外国人にして一語も日本語を解せざる ものに不都合を与へざる様に注意することを要す → 通訳案内業法(昭和 24 年) 第 三條 各地の旅館は互に共同連結して規則を一定し、務めて丁寧安直に旅客を接する様に注意 すべし → 喜賓会(明治 26 年)、ジャパン・ツーリスト・ビューロー(明治 45 年)、財団法 人国際観光協会(昭和 30 年) 第 四條 案内道中記は成るべく手広く世界の各地に配附し欧米各所の各汽船汽車停車場旅店にも 数部を配附すべし → 政府観光局(昭和 30 年)、特殊法人国際観光振興会(昭和 39 年)、観 光庁(平成 20 年) (井上[1882a]9 頁) 明治 26 年に設立された喜賓会(The Welcome Society of Japan)は、我が国初めての外客誘致 のための政府機関であるが、はからずも「外人の来遊を引くより外なしと考へ」(井上[1882b]3 頁]) た円了の提言を実現する機関となった。 ちなみに、当時、シベリア鉄道の開通に伴い、ロンドン~北米~日本~サンクトペテルブルクを 結ぶ連絡運輸が可能となった。これを受け鉄道院と汽船業界が中心となって外客誘致策を進めた。 英文の旅行案内や地図を発行、接遇の改善に努めたが、円了は早くからこうしたシベリア鉄道の開 通が外客誘致の絶好の機会と捉えていた。 「西シ比ベ利リ亜ア鉄道の落成近きにあること。即ち西比利亜に鉄道を駕して欧州と日本間の往来を汽車 にて便することを得るは両三年以内にあらん。是れ亦欧州人の日本に来遊するに非常の便を与ふる ものなり」(井上[1881d]7 頁)。
資源に乏しい日本の経済を発展させるためには、恵まれた自然の景観を海外に宣伝し、外客誘致 によって外貨の獲得を図るべきだと説いたのは、ニューヨーク日本協会のラッセル会頭である。喜 賓会の業務は、明治 45 年、鉄道院が中心となって設立した「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」 に引き継がれた。また昭和 5 年には我が国初めての観光行政組織である国際観光局が鉄道省内に設 置され、世界不況下における国際収支の改善、外貨獲得のため、積極的に外客誘致を図ることを使 命とした。ちなみに、円了は、自然観光資源、人文観光資源のいずれについても、それらを、現行 法と同様、文化的・社会的に保護・育成した上での開発を基本的な立場としていた。 「第一 我邦の山川の風景を保存すること → 自然公園法(昭和 24 年)、自然環境保全法(昭 和 47 年)、景観法(平成 16 年) 第二 我邦の旧地古跡社寺等を保存すること → 古器旧物保存方(明治 4 年)、古社寺保存法 (明治 30 年)、国宝保存法(昭和 4 年)、古都保存法(昭和 41 年)、文化財保護法(昭和 25 年)、明日香村特別措置法(昭和 45 年) 第三 絵画彫刻古器物を保存すること → 古器旧物保存方(明治 4 年)、文化財保護法(昭和 25 年) 第四 美術を奨励すること 第五 鉄路を駕するに成るべく風景の宜き地を揮むこと → 景観法(平成 16 年) 第六 公園遊場博物館等を修繕し且つ益之を盛大にすること」 (井上[1882a]9 頁) 後年、全国巡回講演で京都府に旅した折、丹波名産の栗の木が鉄道線路の枕木のために伐採され、 代わって桑の木が植えられていることに円了は寂しい想いを抱いたことがある。「聞くところによ れば、一時は栗木をきりて鉄道の枕木に用ひ、その代はりに桑園を設くるに至り、大いに栗の産額 を減ぜりといふ。よつて一詠す。丹山深処有農村、戸々終年蚕事繁、名物亦難免事変、栗林今日化 桑園」(15・81)。 円了は鉄道の開通により自然の景観(美)が損なわれることを、それがやむをえぬこととはいえ、 残念に思っていた。「朝霧をおかして人吉を発す…軽艇に駕して球磨川を下る。舟行急速にして、 両岸の風光、応接にいとまあらず。なかんずく『槍たおし』の勝、清正公の岩の景、最も妙なり。 その天工は筆紙のよく尽くすところにあらず。近来、この間鉄路を架す。風光のために一変せざる を得ず」(12・465)と記し、以下の漢詩を詠んでいる。「球磨川上別風光、山紫水明無尽蔵、誰毀 奇巖開鉄路、炭煙是穢仙郷」(12・465)
5.観光文化・教育への言及
円了は、観光が、文化、交流、教育上も重要な意味をもつものと考えていた。今でこそ、観光の 社会的・文化的効果、具体的には、教育効果、リクリエーション効果、国際親善効果については広 く認識されているが(藤井[2014]67~70 頁)、そのような概念さえなかった当時にあって、円了 は独自に観光の社会的・文化的効果を考察し、その効用を説いた。「井上円了の欧米周遊日記」(井上[1881a])及び「欧米周遊日記(第二回)」(井上[1881c])で は、海外視察旅行の経過報告を行うとともに、日本と米国の文化の相異について論じている。例え ば、概して米国の「大」に対して日本の「小」は国民の思想にまで影響していること、日本の「小」 の中には富士山を始めとする名勝があり、それが日本人の美意識と倫理思想の基になっていること、 ゆえに、この伝統を保持することが肝要であると述べている6)。留意すべきは、外国の事物・風物 について述べるとき、円了は、盲目的に西洋の優位性を説くことはせず、常に日本との比較を行い、 東洋・日本(文化)の独自性・優位性の発見に努めていたことである(井上[1881c]33~36 頁、 三浦[2016]278~283 頁)。 「彼の芙峰の美や、古来詩人は之を詩に詠じ、画工は之を画に現はし、五尺の童子をして朝夕目 に見耳に聞くの便を得せしむ。是れおのづから人心を薫育して彼の秀然たる思想を養成するや疑ひ なし。故に余は日本人の日本人たる所以のものは米国人の米国人たる所以と共に、山川の形情の媒 介によると信ずるなり。其他米人の美術の思想に乏く、日本人の文雅の風致に富めるは、亦山川の 誘因によるや明かなり…我邦の山川は小は即ち小なりと雖も、其風致に至りては米国の山川と同日ママ の比にあらず。彼の日光山の勝、松島の勝、厳島の勝、嵐山の勝、山に川に海に、雪に月に花に、 天然の書画を現出し、之を見る人をして知らず識らずの間に、美術の思想を薫育し、詩画の風致を 養成せしむ。是れ日本人の雅趣に長じて米人の風致に乏き所以なり」(井上[1881c]35 頁)。 それゆえ円了は景観美の保存に努めるべきであると説く。「其天然に存する所の山河の美勝は飽あく まで之を保存し、共生来有する所の風雅の思想は飽まで之を養成して、将来日本をして美術世界の 中心となり、美術を以て世界に鳴ることを務むるこそ却て我邦の得策なりと信ず…是れ余が汽車中 にありて感ずる所なれば、其その侭まま此に記して紀行の一部分となす」(ibid.p.36)。 海外視察旅行を通じて、円了は、日本と欧米各国の社会、経済、政治、宗教、気候、文化、芸術、 食事、国民性等の相異を実感する。また人的交流の重要性を直感し、外国人旅行者を迎えることが、 日本の発展、国際的地位の向上に資するものと考えた。併せて日本の国情を世界に周知することが 肝要、かつ有益、国益にも適うものと主張した。 「外国人一たび日本に来りて多少の時日を日本に費すときは其帰国の後はおのづから日本を愛す るの情あるべし。是れ余が万国交際上に影響ありと云ふ所以なり」(井上[1882a]8 頁)。また、 円了は、海外視察旅行中、自然の景観が、その国の芸術や教育に影響を与えうるとの認識を強くす る。 「此一例(日本人の雅趣に長じて米人の風致に乏き所以)によりても山川の形勢の社会開進の一 元素となり、年少教育の一要因となることを知るべし」(井上[1881c]35 頁)。 これは観光教育論ともいうべきもので、円了の思想形成を辿る上で重要である。円了は、学生(東 京大学予備門・東京大学)時代、学友たちとしばしば国内各地の旅行を楽しみ、途中目にした山紫 水明、風光明媚に心を奪われ、その感慨を旅行記(『漫遊記』)に記している(堀[2016b]参照)。 後年も全国巡回講演や海外視察旅行を通じて観光が教育に果たす役割を説いている。例えば、南紀 地方の全国巡回講演(明治 33 年 11 月~明治 34 年 3 月)の日誌には、以下のような記述が見られる。 「教員たるもの村民に代はりて、暑中休暇の間はもつぱら旅行をつとめ、三府はもちろん、各地 の実況を見聞し、自ら有為進取の気風を養ひ、その結果を児童の脳漿に注入するをよしとす」(12・ 133)。
修学旅行は当時すでに始まっていたが、円了は教員自身の見識を高めるためにも観光・旅行の重 要性を指摘し、これを推奨した。ちなみに修学旅行の始まりは行軍演習に学術研究、教育的配慮を 加えた明治 19 年の東京師範学校の「長途遠足」であるといわれる。明治 29 年には兵庫県の豊岡中 学校が北東アジアへ修学旅行を行い、早くも海外修学旅行が始まっている(盛山[2010]55 頁)。 円了の観光論は、富国強兵・殖産興業、さらには時の政府の懸案事項であった条約改正にも関わ るものとなった。富国でなければ強兵を実現することはできない。強兵策を推進するためには富国 でなければならない。富国には多額の資金と資本を要する。また時間を要する。その実現は今日の 日本の国情からいって困難である。しからば富国はどのようにして実現するか―。 「富国と強兵は実際上密切の関係を有するものにして、国の富を保たんと欲せば、強兵なかるべ からず。兵強ければ国自ら栄ふるに至るべし。故に富国論あれば強兵策亦論ぜざるべからず」(井 上[1882b]4 頁)。 円了にとって、観光立国の目的は、あくまでも殖産興業・富国強兵の実現にあった。観光は、そ のための資金、外貨獲得のための手段である。しかも、それは当時の日本の国情に照らしても容易 に実行可能な策と考えた。 「余が国を富ますの秘法は即時即日より実行すべき方法なれば、此方法より始むべしと云ふの意 なり。斯くして一たび此方法を実行して利益を得るに至れば、此利益を以て或は兵備を拡張し或は 器械を購求し或は製造場を設立することを得べし。実に此法は坐ながら国を富ます秘法なり」(井 上[1882a]10 頁)。 「我邦若し東洋の以太利瑞西の如く、外国人の遊覧場となるに至らば、一国の富立たちどころに興す ことを得べしと。是れ余が富国策なり」(井上[1882b]4 頁)。 円了は、海外視察旅行の最中、欧米人との交流、風物の見聞から、富国・強兵のための資金・資 本の調達は、外国人旅行者を日本に誘致することによって(のみ)可能と考えた。しかもそれは即 座に容易に実行可能な策だと判断した。 当時、日本が置かれていた状況、すなわち不平等条約下から一刻も早く抜け出すためには、確か に富国強兵・殖産興業策が必要なことはいうまでもない。が、その実現には相当の時日と非常な困 難を伴う。そこで本題の解決のためには、まず現実を直視し、プラクティカルな方法によって当面 の課題を解決する以外に方法はない。その上で、漸次、所期の目的を達成していけばよい―。円了 はそう考えた。このような思考は円了の思想と行動を知る上で重要である。
6.むすび
以上、本論は、『日本人』に掲載された井上円了の観光関係の論稿について、その今日的な意味 を探った。当時にあっては異色ともいうべき観光立国の提言も、その論拠は、いずれも欧米各国の 実地見聞に基づくもので、いやしくも奇想天外な机上の空論ではなかった。円了は、国内旅行の体 験から得た知見を基に、これを欧米各国の事例と比較し、当時の日本の国情と日本人の気質に鑑み、 即座に且つ容易に実行可能な最も現実的な解決策を提示した。それゆえ円了の提言は後年様々な形 で実現していった。いずれの提言も現実に依拠してなされていたからである。現在、官民一体となって取り組んでいるインバウンド施策を見ても、円了の観光(立国)論が現 代の観光政策にも十分通用しうる側面を持っていることがわかる。改めてその先見性に驚かざるを ない。ちなみに、平成 29 年 4 月、円了の創設した東洋大学に国際観光学部が設置された。観光の 研究と教育を目的とした学部の創設は、円了の観光教育理念の具現化の一つといえなくもない。 なるほど、円了の観光立国論の意図は、富国強兵、殖産興業、国威発揚のためであったが、啓蒙 思想家・社会教育者として、常日頃、日本が近代国家に生まれ変わるための施策に思いを巡らして いた円了にとって、観光立国は日本国の実利・実益に適う、極めて妥当、かつ現実的な策であると 考えられたのである。ただ既述したが、上記のような円了の提言が、直接、時の政府の政策立案・ 実施にどのように関与したかは不明である。この点の検証を今後の課題としたい。また本論は筆者 自身の諸事情により極めて短期間に書かざるをえなかった。推敲に費やす時間がとれなかった。そ れゆえ多くの不備が散見されるかもしれない。お許し願いたい。 [注] 1)ちなみに、松下幸之助は『文藝春秋』(昭和 29 年 5 月)の「観光立国の辯」において、以下のように述べている。 「我が國は今、観光に基礎を置くべき絶好の時期に来ている…観光立國こそ、我が國が最も適しているものに、 その基礎を置いていると言える…私が観光立國を、声を大にして叫ぶ所以なのだ…この際思い切って観光省を 新設し、観光大臣を任命して、この大臣を総理、副総理に次ぐ重要ポストに置いたらいい」(盛山[2010]186 頁)。 なお、明治・大正期の「観光立国」策については、特に、老川(2017)177~196 頁を参照されたい。また、観 光政策の展開、観光行政の仕組みについては、主として、盛山[2010]を参考にした。 2)「是れ(「坐ながら国を富ますの秘法」)余が亜米利加を去りて英国に至るの際太ママ西洋中にありて想出せし新案 なれ」(井上[1882a]10 頁、引用)。ちなみに、円了は、海外視察中に一連の観光関係の論稿を船便で送ってい るが、おそらくいかなる資料も見ずに当該原稿を執筆、独自の知見を述べている。その発想の豊かさと筆力に 驚かされる。井上円了(1881a)~(1883)は東洋大学井上円了研究会第三部会(1981)に所収されている。以下、 引用文の表記に際し、読みやすくするため、変体仮名、カタカナはひらがなに、漢字は通行体に統一し、適宜 句読点を付けた。ルビを振ったところもある。なお『井上円了選集』からの引用は( )内の巻数・頁数で本 文中に示した。 3)編集者は、志賀重昴、三宅雄二郎(雪嶺)、杉浦重剛ら。政教社の機関誌的雑誌で、日本の伝統的な良さを見 直し、その価値を再発見しようとする傾向を持っていた。井上円了、島地黙雷、棚橋一郎、幸徳伝次郎(秋水)、 片山潜、内藤虎次郎(湖南)らが健筆を揮った。東洋大学井上円了研究会第三部会(1981)4 頁、参照。 4)次節は漢文訓読体等の原文(井上[1881a][1881c][1882b][1883])の趣旨を現代風に書き改め、要約した もので、現代語訳ではない。なお参考のため巻末に[付録]として原文を付けた。 5)井上[1882b]に見られる強兵論の詳細は省略する。「強兵策」と題する論稿は題名通り富国強兵策を論じたも のだが、「坐ながら国を富ますの秘法」で論じた観光による富国論を強兵策に応用したものである。観光立国の 推進が結果的に富国と強兵の実現に極めて有効な策であると論じている。 6)「欧米周遊日記」にみる井上円了の比較文明・文化論については、三浦[2016]276~283 頁を参照されたい。 筆者もこれにより多くの知見を得た。ここに記して謝意を表する。
[参考文献] 井上円了(1881a)「井上円了の欧米周遊日記」『日本人』第 9 号、1881 年 8 月、18~19 頁 井上円了(1881b)「坐ながら国を富ますの秘法」『日本人』第 16 号、1881 年 11 月、10~15 頁 井上円了(1881c)「欧米周遊日記(第二回)」『日本人』第 16 号、1881 年 11 月、33~36 頁 井上円了(1881d)「坐ながら国を富ますの秘法(承前)」『日本人』第 17 号、1881 年 12 月、4~8 頁 井上円了(1882a)「坐ながら国を富ますの秘法(接続拾七号)」『日本人』第 20 号、1882 年 1 月、6~10 頁 井上円了(1882b)「強兵策」『日本人』第 29 号、1882 年 7 月、3~6 頁 井上円了(1883)「旅店改良案」『日本人』第 47 号、1883 年 5 月、5~6 頁 井上円了記念学術センター編(1997)『井上円了選集』第 12 巻、東洋大学、1997 年 老川慶喜(2017)『鉄道と観光の近現代史』河出書房新社(河出ブックス)、2017 年 東洋大学井上円了研究会第三部会編(1981)『井上円了研究 資料集 第一冊 六合雑誌 太陽 国民の友 日本 人』東洋大学井上円了研究会第三部会、1981 年 藤井秀登(2014)『現代の観光事業論』税務経理協会、2014 年 堀雅通(2016a)「旅行記にみる井上円了の観光行動」『国際井上円了研究』第 4 号、国際井上円了学会、2016 年 3 月、 137~155 頁 堀雅通(2016b)「井上甫水著『漫遊記』にみる井上円了の観光行動について」『大学院紀要』第 52 集、東洋大学 大学院国際地域学研究科、2016 年 3 月、61~90 頁 堀雅通(2016c)「旅行記にみる井上円了の観光行動と交通利用について」『観光学研究』第 15 号、東洋大学国際 地域学部、2016 年 3 月、11~38 頁 堀雅通(2017a)「『館主巡回日記』にみる井上円了の観光行動」『大学院紀要』第 53 集、東洋大学大学院国際地域 学研究科、2017 年 3 月、75~102 頁 堀雅通(2017b)「『坐ながら国を富ますの秘法』にみる井上円了の観光立国論」『観光学研究』第 16 号、東洋大学 国際地域学部、2017 年 3 月、19~44 頁 堀雅通(2017c)「井上円了の観光論」『国際井上円了学会 第 6 回学術大会 予稿集』国際井上円了学会、2017 年 9 月、1~10 頁 三浦節夫(2016)『井上円了―日本近代の先駆者の生涯と思想』教育評論社、2016 年 盛山正仁(2010)『観光政策と観光立国推進基本法』ぎょうせい、2010 年