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66 です 第二に このような被害者意識と表裏一体だったのが 戦争責任は 日本国民を欺き苦難を強いた戦争指導者 軍部にあるという認識でした 十五年戦争期 日本ファシズムがナチス ドイツのような大衆運動から形成されたのでなく 独自の政治勢力として台頭した軍部(特に陸軍)を中心に構築されたことは 戦後日

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Academic year: 2021

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大変身につまされるお話でした。どうもありがとうございました。   主催者からは、事前に、都先生・馬先生に続いて三人目の話者のつもりでコメントする よう仰せをいただいております。とてもお二人の先生のように立派なお話しはできません が、議論の交通整理をかねてお話ししたいと思います。お二人の話は、どちらかというと 日 本 と 韓 国、 あ る い は 日 本 と 中 国 の 水 平 方 向 の 比 較 で し た が、 私 は、 日 本 人 の 戦 争 認 識・ 戦 争 観 ( 第 二 次 世 界 大 戦・ ア ジ ア 太 平 洋 戦 争 ) が ど の よ う な 時 代 的 変 遷 を 遂 げ て き た の か と い う 垂 直 方 向 の お 話 し を し て、 お 二 人 の ご 報 告 の 理 解 を 深 め る 一 助 と し た い と 思 い ま す。 そのうえで、お二人に一つずつ質問を投げ掛けるという順序で進めます。   は じ め に、 占 領 期 ( 一 九 四 五 ~ 五 一 年 ) の 戦 争 観 に つ い て 見 れ ば、 こ の 時 期 に 現 れ た 戦 争認識として第一に指摘できるのは、まず民間人として銃後で否応なしに戦争に巻き込ま れたという「被害者意識」でした。戦場における戦争そのものよりも、日本本土で多くの 人々が経験した戦時の悲惨な暮らしや戦争末期に日本の主要都市を焦土と化した空襲が戦 争の記憶として焼き付いていたのです。戦後初期の代表的な戦争文学たる壺井栄『二十四 の瞳』 (一九五二年刊) は、戦争によって母親や子どもに被害を受けた女教師を主人公とし ていますが、彼女は、戦争は、市井の人々を「悪夢」のように逃れ難く「追いまわす」も のだったと振り返っています。戦争は生活共同体の外部からやってきた不可抗力だったの

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です。   第二に、このような被害者意識と表裏一体だったのが、戦争責任は、日本国民を欺き苦 難を強いた戦争指導者・軍部にあるという認識でした。十五年戦争期、日本ファシズムが ナチス・ドイツのような大衆運動から形成されたのでなく、独自の政治勢力として台頭し た 軍 部 ( 特 に 陸 軍 ) を 中 心 に 構 築 さ れ た こ と は、 戦 後 日 本 社 会 に お い て こ の 時 代 を「 軍 部 独裁」の時代と認識させることになりました。戦後直後から刊行された雑誌類にはこの種 の認識がしばしば見受けられます。   第三に、アジアに対しては忘却ないし優越感や蔑視が色濃く残存していました。日本は、 アメリカの巨大な軍事力によって本土に莫大な被害を受けたために、日米戦争中も多くの 日本軍が交戦していた中国の力量はともすれば忘れることになりました。また、この時期 のアジアを描いた有名な小説として竹山道雄『ビルマの竪琴』 (一九四八年刊) があります が、その中に現れるミャンマー人は日本人に徹底して恭順で主体性を欠いた未開人として しか描かれていません。   こうした意識が大きく変わるのは、一九五一年に占領が終わり、サンフランシスコ講和 条約によって日本が独立を回復した時期です。この時期の日本人の戦争認識の特徴として は、第一に、講和条約調印とともに、占領下で抑え付けられていたナショナリズムが、日

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本社会のさまざまな場で噴出し始めたことが挙げられます。街頭では「軍艦マーチ」をは じめとする軍歌が復活しました。   第二は、第二次世界大戦末期、広島と長崎に投下された原子爆弾の記憶がこの時期あら た め て 喚 起 さ れ た こ と で す。 広 島 に 投 下 さ れ た 原 爆 に よ る 死 者 は 二 四 万 人 に 及 び ま す ( 戦 時中の労務 ・ 兵力動員などによって広島に来ていた朝鮮人約七万人も含まれます) 。占領期、原 爆被害の公表で日本人の復讐心が喚起されることを恐れたGHQが、新聞・雑誌・放送の 検閲を通じて言論統制を行ったこともあり、必ずしもこの問題は国民の大きな関心を呼ん ではいませんでした。原爆への関心を呼び覚ましたのは、一九五四年に起こった第五福竜 丸事件でした。全国に原水爆禁止署名運動が広まり、広島では、馬暁華先生のご発表にも 出てきた平和記念資料館が開館しました。それもこの時期、一九五五年のことです。   その後日本は、六〇年代~七〇年代にかけ高度成長への道を突き進みます。経済成長に 対する自信に支えられて、日本のナショナリズムを肯定する議論が現れます。その幅はさ まざまです。もっともセンセーショナルで社会的影響力も強かったのは、戦前にプロレタ リ ア 文 学 者 か ら 転 向 し た 林 房 雄 が『 中 央 公 論 』 に 発 表 し た「 大 東 亜 戦 争 肯 定 論 」 で し ょ う。 林 は、 「 大 東 亜 戦 争 」 は「 本 質 に お い て は 解 放 戦 争 」 と い う 大 義 名 分 を 持 っ て い た と し、今日に至るまで保守系論客の主張の原型をつくりました。その一方で、もう少し緩や

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か な ニ ュ ア ン ス で、 高 度 成 長 期 に お け る ナ シ ョ ナ リ ズ ム の 再 生 を 示 し た の は、 『 少 年 マ ガ ジ ン 』『 少 年 サ ン デ ー』 な ど の 少 年 雑 誌 に 広 が っ た「 戦 記 も の 」 マ ン ガ で し た。 た だ 多 く の漫画には、肯定・否定のいずれにせよ確固とした戦争観は見出せません。また、都珍淳 先生のお話に出てきた司馬遼太郎の作品もこの時代に産み落とされたものです。幕末から 明治期を主要な舞台とした司馬の歴史小説の中でも代表作とされる『坂の上の雲』がサン ケイ新聞に連載され刊行され始めたのは一九六九年でした。私自身は、どちらかというと この小説の中で繰り広げられる蘊 うんちく 蓄にやや辟易した記憶がありますが、国民作家として幅 広く支持を集めていることは間違いありません。松山出身の軍人兄弟と文学者三人を軸に 日露戦争を描いたこの作品に対し、 経済史学者の中村隆英氏が書かれた 『昭和史』 第Ⅱ巻 (東 洋 経 済 新 報 社、 一 九 九 三 年 ) は、 「 こ の 時 代 [ 明 治 中・ 後 期 ― 筆 者 注 ] の 庶 民 の 素 朴 で 健 康 的 なナショナリズムを、自信をもってうたいあげ」たと評しており、おそらく多くの司馬作 品愛読者の実感もそのようなものでしょう。しかし、都珍淳先生も指摘されていたように、 ここで賛美された明治の思想の延長に朝鮮への侵略があったことを想起すると、司馬作品 のナショナリズムを「健康的」と言いきってよいのか疑問も残ります。   また、この時期日本人の戦争観を揺るがした歴史的事件としてベトナム戦争があります。 米軍機が日本の基地から飛び立つのを目の当たりにして、高度成長後半期からは、自ら戦

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争に手を染めることの意味について考え始めた人々の中から、十五年戦争の侵略性や加害 性を直視しようとする動きも現れてきます (家永三郎 『太平洋戦争』 一九六八年、 本多勝一 「中 国の旅」一九七一年『朝日新聞』に連載) 。   このような加害者としての日本人という問題は八〇年代には、アジア近隣諸国からの批 判という、より大きな国際関係の枠組みの中で深められていくことになります。馬暁華先 生のご発表でも強調されていましたが、一九八二年、文部科学省による高校用教科書の検 定において、文部科学省が日本の対外侵略を「進出」 、朝鮮三 ・ 一独立運動を「暴動」など と書き直させていた事実が新聞で報じられました。これに対して、中国・韓国は外交ルー トを通じて日本政府に抗議し、ソウルでは大規模な抗議デモが行われました。   こ う し て、 「 教 科 書 問 題 」 を 契 機 に 日 本 の ナ シ ョ ナ リ ズ ム は 国 際 的 な 視 線 に 晒 さ れ る こ と に な り ま す。 こ う し た 中、 日 本 政 府 も 従 来 の 政 策 を 押 し 通 す こ と は 難 し く な り ま し た。 文部科学省は教科書検定基準を改定して、近隣アジア諸国への配慮を求めるいわゆる「近 隣諸国条項」を設けました。中曽根康弘首相は、八五年に戦後の首相として初めて靖国神 社を公式参拝しアジア諸国からの強い反発を受けましたが、翌年には公式参拝を見送って います。このような歴史認識問題の国際化は、九〇年以来韓国の官民が進めている「従軍 慰安婦」についての真相究明と謝罪・補償を求める運動や、二〇〇一年以来の小泉純一郎

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首相の靖国神社参拝問題と中国・韓国の反発など、さまざまな場で今日まで続いています。   八〇年代以降は、歴史認識問題をめぐる環境の変化の中、大衆レベルでも新たな戦争観 が台頭してきました。たとえば天皇や海軍を再評価しようという史観です。すなわち、戦 時中の昭和天皇やその側近たる宮中関係者の思想と行動を、むしろ国際協調路線のもと平 和主義を追求したと評価しようとする歴史観です。一面真実と一面単純化を含む考え方で はありますが、こうした歴史観が正面切っての「大東亜戦争肯定論」とは両立し難い性格 を持つものだったことは見逃せません。なぜなら、天皇・宮中グループや海軍の平和主義 的性格を賛美すればするほど、彼らが反対したとされる戦争は大義名分を欠く戦争だった と言わざるを得なくなるためです。こうした中、 保守論壇は、 従来の「大東亜戦争肯定論」 を声高に叫ぶよりは、むしろ、東京裁判の正当性を批判したり戦争被害者の証言の信憑性 を否定したりするなど、侵略戦争論の根拠を否定しようとする方向に向かっていくことに なります。   さて、現在の日本人の戦争認識・歴史認識において特徴的なのは、国家レベルで統合さ れた公的記憶 ( public …memory ) が共有されているとは言い難いということではないでしょ う か。 八 〇 年 代 か ら 今 日 に 至 る ま で、 日 本 人 の 歴 史 認 識 は ア ジ ア 諸 国 か ら の 批 判 を 受 け、 ある意味では鍛え直されてきました。これによって、加害者意識は国民の中に定着しつつ

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あ り ま す。 た と え ば、 二 〇 〇 五 年 四 月 に 行 わ れ た 朝 日 新 聞 の 世 論 調 査 で は、 「 韓 国 に 対 す る植民地支配や中国との戦争など、過去の歴史の問題は、日韓関係や日中関係においてど の程度重要だと思いますか」 という設問に対しては、 「とても重要だ」 と 「ある程度重要だ」 が 多 数 派 ( 七 割 以 上 ) を 占 め て い ま す ( た だ し、 そ の 一 方 で 相 当 の 無 関 心 層 が い る こ と も 窺 わ れますが) 。   他 方 で、 「 大 東 亜 戦 争 肯 定 論 」 を 一 方 の 極 に 持 つ よ う な 考 え 方 の 人 々 も い ま す。 そ の 結 果 と し て、 教 科 書 問 題 や 靖 国 神 社 参 拝 問 題 な ど 戦 争 の 記 憶 と 深 く 関 わ る 問 題 を め ぐ っ て、 日本人の中でもさまざまな立場から議論が提出され続けており、多様な議論の両端ではお よ そ 対 話 不 可 能 な ほ ど 分 裂 し て い る と い う の が 実 情 で し ょ う。 加 藤 典 洋 氏 は、 ベ ス ト セ ラーとなった『敗戦後論』 (講談社、 一九九七年) において、 「戦後というこの時代の本質は、 そ こ で 日 本 と い う 社 会 が い わ ば 人 格 的 に 二 つ に 分 裂 し て い る こ と に あ る 」 と 述 べ て い ま す。近現代史研究者の赤澤史朗氏も、日本は「記憶の共同体」が「未形成である点に最大 の 特 徴 が あ る 」 と 指 摘 し て い ま す (「 戦 後 日 本 の 戦 争 責 任 論 の 動 向 」『 立 命 館 法 学 』 第 二 七 四 号、二〇〇〇年) 。この会場におられる皆様の中でも戦争をめぐる認識はさまざまだと思い ますが、もし一点共有しうる認識があるとしたら、それはこのようなことではないでしょ うか――自分の歴史認識・戦争認識がすべての人の認識と一致するわけではない。皮肉な

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ことですが、これが現代日本人の歴史認識の特徴だろうと思います。 * … コ メ ン ト と い う 性 格 上、 多 く の 出 典 や 注 記 を 省 略 し た。 詳 細 な 内 容 に つ い て は、 以 前 発 表 し た 拙 稿「日本人の戦争認識と八 ・ 一五イメージ」 (鄭根植 ・ 辛珠栢編『八 ・ 一五の記憶と東アジア的地平』 図 書 出 版 ソ ニ ン[ 韓 国 ]、 二 〇 〇 六 年 )、 「 日 本 人 の 戦 争 認 識 ―― 敗 戦 後 か ら﹁ 新 し い 教 科 書 を 作 る 会 ﹂ ま で 」( 『 ア ジ ア 地 域 研 究[ 釜 山 外 国 語 大 学 校 ア ジ ア 地 域 研 究 所 ]』 第 九 号、 二 〇 〇 六 年 ) を 参 照されたい。

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255回日文研フォーラム

東アジア近代史における「記憶と記念」質疑応答

松 田: … 都珍淳先生にまずご質問させていただきます。都先生ははじめに司馬遼太 郎 の 言 葉 を 挙 げ ら れ て「 他 民 族 へ の い た わ り 」 と い う こ と を 指 摘 し て お ら れ ま す。 そ の 後 で、 司 馬 遼 太 郎 の 明 治 賞 賛 と い う の は、 実 は 加 害 者 と し て の 記 憶 と は 結 び 付 か ぬ 矛 盾 す る も の だ と 指 摘 し て お ら れ ま す。 確 か に 論 理 的 に は そ う な の で す が、 矛 盾 し た も の が 矛 盾 し た ま ま に 存 在 す る と い う の も 日 本 人 の 意 識 で あ る よ う に 思 わ れ ま す。 司 馬 遼 太 郎 は 明 治 時 代 を 賛 美 し ま し た が、 そ の 一 方 で 昭 和 軍 国 主 義 に 対 し て は 極 め て 厳 し い 批 判 的 な 論 調 を崩しませんでした。このような司馬の認識についてどう思われますか。   都珍淳: … 私は司馬遼太郎が好きで、韓国で翻訳されたほとんどの小説を読んでおり ま す。 ま た、 お そ ら く 司 馬 自 身 も 韓 国 を 個 人 的 に 好 き な の だ ろ う と 思 い ま す。 『 街 道 を ゆ く 』 な ど で、 何 度 も 韓 国 を 訪 れ て い ま す。 今 回、 そ の 歴 史 観 に 対 す る 矛 盾 に つ い て は、 『 坂 の 上 の 雲 』 に お い て は あ ま り に も 明 治 賞

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