(1)山形大学附属図書館・附属博物館共催 平成 20 年度オープンキャンパス記念展示
『世界遺産登録を目指す
<最上
も が み
川
が わ
舟運
し ゅ う う ん
>展』解説
場所:山形大学附属図書館1階展示コーナー(山形大学小白川キャンパス内)
会期:平成 20 年 7 月28日(月)∼8月29日(金)
1 世界遺産登録を目指す最上
も が み
川
が わ
舟運
し ゅ う う ん
最上川は吾妻山を源流とし、山形県を北上、米沢盆地、山形盆地を抜け、庄内盆地で
西に流れを転じ、酒田で日本海にそそぐ、流長 229km、わが国有数の大河です。日本
三大急流の一つで、
z
源流から河口まで一つの県内である
z
全流域にわたって人々が居住している
z
古来より物資、文化を運ぶ「道」としての役割を担ってきた
z 多数の川絵(11 点総延長 100m)をはじめ、文献資料が数多く残されている
などの他に例をみない特徴があります。
流域の人々の生活は最上川と密接につながっていました。物流の道として、水源とし
て、そして祈りの対象として、最上川は常に生活の中心にありました。最上川地域の人々
の生活史は、川との共生の歴史です。「最上川の文化的景観」は、河川を中心に発達し
た地域のモデルとなる、貴重な文化資産です。
山形県では、「近未来やまがた・世界遺産育成プロジェクト」を立ち上げています。
平成27年頃の世界遺産登録を目標とし、資産の整備、保護、保全を行いながら、登録
に向けての運動を推進しています。遺産登録の提案では、三つのコンセプトが挙げられ
ています。
「舟運ー河川利用の歴史・文化的景観」
「北方の稲作ー稲作農業の文化的景観」
「水分と祖霊の山ー祈りの文化的景観」
今回の展示では、特に「舟運」について、附属図書館・附属博物館所蔵の関係資料を
ご紹介しながら解説いたします。
2 最上
も が み
川
が わ
舟運
し ゅ う う ん
のはじまり
出羽で わ の国く に(山形県)を縦断する最上川は、古代から物産や軍隊の輸送路として使われてき
ました。最上川の舟運(川船による輸送)が本格的に始まるのは、関ヶ原の戦い(出羽で わ
合戦か っ せ ん
)に勝利して出羽一国をほぼ手中にした最上も が み義光よ し あ きが、年貢米を酒田さ か た
湊
み な と
へ運ぶための
輸送ルートとして最上川を利用したことによります。義光は碁点ご て んなどの難所を開削か い さ く(切
り開くこと)して船が上流へ登れるようにするとともに、大石田・清水の両町を河岸か し(荷
物の積み下ろしをする場所)として開発しました。
義光没後、最上家は家督争いが原因で改易か い え き(取り潰し)されますが、最上川舟運はそ
の後も発展していきます。当初清水に置かれていた中継河岸は大石田にその機能を移し
ました。その後大きな転換点となったのは、寛文 11 年(1671)の河村か わ む ら瑞ず い賢け んの来訪です。
幕府の命を受けて出羽へ派遣された瑞賢は、酒田湊に年貢米を備蓄するための御米お こ め置場お き ば
を建設しました。これにより年貢米が、北前船によって、日本海を西へ向かい大坂や江
戸へいたるルート(西廻り航路)で運ばれることになり、最上川舟運は急速に発展しま
した。
最上川舟運を担ったのは大石田や酒田の船持ふ な も ち(オーナー)たちでした。彼らは大地主
兼商店主でもありました。彼ら地方商人は、紅花などの地元特産物を上方(大坂・京都)
へ運んで売りさばき、それにより大きな利益を得ましたが、舟運は幕府による統制下に
行われたため、自由な運送は許されませんでした。①城米(幕府の米)→②私領米(大
名の米)→③紅花などの商人荷物という輸送の優先順位が設けられ、厳しく守られまし
た。また、年貢米輸送の運賃は安く設定され、輸送に従事する代わりの特権として、紅
花など商人荷物の輸送や差配権さ は い け ん(運航を取り仕切る権利)が許されていました。
(2)※『山形県史・要覧』収載の図を改変
居村
き ょ そ ん
名主
な ぬ し
覚書帳
お ぼ え が き ち ょ う
天明 3 年(1783)
附属図書館所蔵 二藤部家文書
大石田四日町名主・岡村半右衛門が年貢収取などの名主の仕事について、子孫の役に立
つようにと記した覚書。城米の川下し運賃について全体的に知りうる唯一の史料である。これ
によると運賃は長崎・山野辺∼酒田間が100俵につき6.5俵、大石田∼酒田間が同じく3.5
俵だった。また、海上運賃は、酒田∼大阪間で100石につき16両+永楽銭100文だったこと、
船が沈没または破損(破船)した場合の被害の弁償割合などが記されている。
︽翻
刻︾
︵名主が仕事の引継書として記し
た
もののう
ち、
船
の
川
下
し
料
金
に
つ
い
て記
し
た
部
分
︶
御城米
運
賃定法
一、
舟場よ
り
酒田迠
六分
五厘
一、
舟場よ
り
同所迠
六分
一、
羽入
舟場よ
り
同所迠
五分五厘
一、
舟場よ
り
同所迠
五分
一、境野目
舟場よ
り
同所迠
四分
五厘
一、
河岸
より
同所
迠
三分
五厘
御城米小
川
送
賃
米弐
斗
三
升
三河よ
り
小川
賃
川口迠
米壱
斗八升
五
合
舟町
より
同断
川口迠
米壱
斗弐升壱
合
宮代よ
り
同断
同所
迠
米九
升弐合
五
才
灰塚
より
小川
賃
川口迠
米四升弐合弐
勺五才寺津
よ
り
同断
川口
迠
右小川送賃、別段ニ舟方ヘ取来候 寺津 落合本楯
山野辺 長崎
灰
塚
谷地
野田
蟹沢
貝塩
大石田
小菅
毒沢
(3)船
ふ な
箪笥
だ ん す
高さ42㎝ 幅37㎝ 奥行44㎝ 重さ 約40㎏
附属博物館所蔵
船箪笥は、和船が発達した江戸時代から明治期にかけて、海か い船せ んで使用した物入れ(今でいう
手提げ金庫)である。航海に欠かせない船往来手形や鑑札か ん さ つ、積荷に関する諸証文、現金など
の貴重品を収納した。外側は丈夫な 欅
けやき
、内部の抽斗には吸水性の高い桐の一枚板を使用。
ある抽斗の奥には隠し抽斗が作られているが、盗難除けという目的だけではなく、隠し抽斗ひ き だ し部
分の空間に空気を蓄えられる仕組みとなっている。このような作りから、船が難破の際にも浸
水せず水に浮くといわれていたが、近年の実験で実際にそれが証明されている。川舟(小鵜飼こ う か い
舟
ふ ね
)でも船箪笥は使用されたが、このような頑健
が ん け ん
な作りではなく、内部は桐の代わりに杉板な
どが使用されたという。
川
か わ
船
ぶ ね
鑑札
か ん さ つ
附属博物館所蔵
川船鑑札は運送営業を許可する証明書で、今でいうパスポートである。これは大石田の
二藤部に と べ家のもので、鑑札の裏面には「海上安全」と墨書されている。
3 大名の船と年貢米輸送
商人たちは、年貢米を安く運ぶ代わりに自らの商いの荷物を運ぶことを許されていま
した。それでは、運んでもらう大名の側の事情はどうだったのでしょう。
米沢藩(上杉家)では、はじめ板谷い た やとうげ峠∼福島ふ く し ま河岸か し(阿武隈川)ルートなどで太平洋岸
へ運んだのち、東廻り航路で江戸へ送っていました。しかし、寛文 12 年(1672)河村
瑞賢によって最上川舟運が整備されると、最上川∼酒田∼上方ルートの方が有利になり
ました。ところが、実際に米沢藩領から船を運航させるには、途中の現白鷹町し ら た か ま ち菖蒲し ょ う ぶにあ
った落差3m の黒滝などの難所を開削しなくてはなりませんでした。この難工事を請け
負ったのが、御用商人の西村に し む ら成な り政ま さ・ 久きゅう左ざ衛門え も ん親子でした。巨額を投じた工事によって、
元禄7年(1693)に米沢藩領∼酒田までの舟運ルートが開通しました。
苦労して開拓したルートですが、輸送にかかる運賃は必ずしも安くはありませんでし
た。酒田までの川下し賃は米 100 俵当たり 7.5 俵かかり、終点・江戸までの合計では、
1万 3,700 俵を送るのに運賃として 9,200 俵が支払われた記録が残っています。
最上川では、出荷地∼上流の河岸(上郷か み ご う=寺津て ら づ・船町ふ な ま ち・本盾も と だ て・左沢あてらざわ)までの運搬に小鵜飼こ う が い
船ふ ねと呼ばれる2∼3人乗り・積載量 30∼50 俵の小型の船が使われました。また、上郷
∼酒田間では 艜ひらた船ぶ ねと呼ばれる4∼5人乗り・積載量 200∼350 俵の船が使われました。
そこで、米沢藩を始め各藩では、藩所有の艜船(御手お て船ぶ ね)を建造して少しでも安く輸
送することに努めました。
御城
ご じ ょ う
米
ま い
・御
ご
私領
し り ょ う
米
ま い
向
む か い
船帳
せ ん ち ょ う
天明 9 年(1789)
附属図書館所蔵 二藤部家文書
天明 9 年の米の川下げについて、日付を追って数量、荷主、船主などが記されている。城米
(幕府)・私領米(大名家)の川下げについて全体の傾向を知りうる唯一の史料である。これに
よると、この年は11万俵余りの城米が最上川を下ったこと、私領米は全体数が不明なものの、
2万6千俵以上の米を通常なら悪条件のため運航しない、秋から冬にかけて運んだことなどが
わかる。
(4)小鵜飼
こ う か い
船
ふ ね
模型
も け い
附属博物館所蔵
小鵜飼船は全長14∼16㍍、幅1.8㍍、積載量およそ2㌧(米30俵分)、江戸末期に最上
川に登場した川船である。最上川の急流に適した巡航速度や旋回機能に優れ、「航海船」か
「小迂回船」に由来する命名と考えられる。
江戸の中期まで、最上川を航行するのは積載量20㌧余りの大型船「 艜
ひらた
船
ぶ ね
」が主であった。
明治5年まで「最上川通船定法」により、小鵜飼船の航行は大石田より上流に限られていたた
めである。明治新政府により自由輸送が解禁されたことにより、小鵜飼船が最上川水運の主
役となった。
下がり荷に米、紅花、青苧などの「山形ブランド」を積み込み、酒田に向かう小鵜飼船で最上
川が賑わう風景は、明治36年に奥羽本線が新庄まで開通し、陸路での輸送が主流となるま
で続いた。
米沢
よ ね ざ わ
様
さ ま
御手
お て
船御入用請負方聞書扣
ぶ ね ご い り よ う う け お い か た き き が き ひ か え
文政 8 年(1825)
附属図書館所蔵 二藤部家文書
新大石田村の名主・戸田安助が米沢藩の御手船(所有船)の船頭・斉藤八兵衛を招いて、
年貢米の川下げ輸送請負の費用を聞きだし書き記したもの。米沢藩では元禄6年(1693)に藩
の御用商人・西村久左衛門が最上川上流の松川を開削(船が通れるように広げること)して以
来、最上川→西廻り海上輸送ルートで年貢米を運んできた。この史料に記されている必要経
費を見ていくと、艜船の帆は年間7回、帆柱や帆桁も傷む都度取り換えていたことや、縁起を
かつぐ船乗りらしく初尾料(神社などへの祈祷料)が支出されたことがわかる。
︽翻
刻︾
︵
御
手船
運用
の必要
物
品
・
経
費
を記
した部分の内、帆柱の取り替え
や
船
頭の
給料につい
て
記した部分︶
一、青苧大綱四人乗弐貫五百め
同
五人乗
三
貫め
同
細綱四人乗八百
め
〆
同
五人乗壱貫め
一、
帆柱
痛次
第
〆
取替
相渡ス
一、
帆桁右同断
〆
一、舟頭水主
御給金之儀者
、水主
給
金よ
り、舟
頭
者金壱
分
増外御船
繋
料
とし
て
舟
頭壱人江弐朱相渡り請負人
より
舟銭
相渡候
〆
一、小川賃申請送り舟江払候砌ハ、
相残候
小
川賃請負人方ニテ請取申候
事
〆
一、御積
囲ニ相成候砌ハ、
船中江弐
人留置
飯
米雑
用日
数ヲ以
相
渡候事
〆
一、難破
舟之砌受負人罷出
、諸事取
斗候
ヘ
ハ
、御入
用
掛り候
分
御
上
より
被下出候事
(5)御手
お て
船御造立弐艘
ぶ ね ご ぞ う り つ に そ う
平均
へ い き ん
仕上
し あ げ
ケ帳
ち ょ う
扣
ひ か え
文政 8 年(1825)
附属図書館所蔵 二藤部家文書
佐倉藩堀田家(現千葉県佐倉市)の分領(飛び地)があった柏倉では、米沢藩と同様に御手
船を造って年貢米の輸送を行った。この史料は名主・戸田安助が佐倉藩の御手船を建造した
時の諸費用決算報告書である。これによると1艘当たりの建造費は約44両(1両=8万円換
算で約350万円)であったことがわかる。内訳としておもなものは鉄8両、木材16両、船大工
の工賃2.5両などである。
︽翻
刻︾
︵御
手
船
の建造費
の内訳
の
内、
釘
代
や
材
木代
につい
て
記した部
分︶
一、銭壱貫五百三拾壱文
釘代
〆
ツバクラ
釘
弐拾
四
本
ケセウ
釘
三拾六
本
内訳
セン釘
弐拾
四
本
ヲド
シ釘
六拾
本
一、金三拾
弐
両
弐艘分代
但壱
艘拾
六両宛
〆、此訳
てう板端板
折
立板向
木
船梁
り
并
桝
木
枕
マ
ツラ
〆
一、銭四貫六百文
〆
此訳
三貫
文
シャク
シ
板
大小
四
枚
壱貫弐百文
ドイ
板
四枚
四百
文
立ハサミ板
四枚
〆
一、銭拾三貫八百八拾文
居小
屋道具
六百
文
棟木弐本
壱貫文
根太
木拾本
壱貫七百四拾文
敷板六間
弐貫文
小屋但
角
木弐
拾
本
内訳
壱貫
四百
四拾文
屋根笠貫
木
十
六
枚
4 舟運
し ゅ う う ん
で運ばれたもの
最上川舟運で山形から京都・大阪方面に運ばれたものは紅花や青苧あ お そなどの商品作物、
そして米などの農産物が多いようです。※上方からの帰り荷としては古着や綿織物、雛
人形、書画、陶磁器などの愛好品がもたらされました。
青苧で織った粗末な衣服が主流だった山形の庶民にとって、上方好みの洒落た綿織物
は着物への意識革命であったことでしょう。
しかし、最上川舟運が運んだものは物資だけではありません。能などの芸能に代表さ
れる上方の「文化」そのものが山形に伝えられたのです。
※江戸時代の山形商人は、地元で換金性の高い紅花を現金買いにして京都や大阪に
出荷し、その代金によって上方物資を直買いして山形に輸入するという経営の仕方
を行いました。こうした商いの方法を「のこぎり商い」といい、山形商人はこれに
よって膨大な利潤を上げのです。
湯殿山
ゆ ど の さ ん
道中
ど う ち ゅ う
略図
り ゃ く ず
附属博物館所蔵
ここに描かれているのは現在の国道112号線画面上部(山側)の右手は三日町、左手は十
日町、下部は八日町となっている。
白装束の一団が多く見られるが、これが出羽三山(湯殿山)詣の人々である。
出羽三山詣の人々は、ここ八日町の行者
ぎ ょ う じ ゃ
宿
や ど
で草鞋を脱ぎ、最上川舟運で京都・大阪から運
ばれた古着や反物、山形の特産紅染めなどの土産を物色したのだった。
また、山形から出羽三山に向かうには、六十里越えを歩くか、最上川を利用するのが重要
なルートであり、最上川には行者ぎ ょ う し ゃ船ふ ねといわれる行者専用の船も走っていた。
(6)5 紅花市の栄え
『山形や ま が たふうりゅう風流松の木ま つ の きまくら枕』中に紅花に関する記述が三カ所出てきます。主なところを抜き
出してみましょう。
此座敷より此紅花干場にて、六月時分は、賤男・賤女紅花に取掛ける有さま、亦々能
御慰めたり(旅篭町 専称寺下屋敷付近の描写)
此町、紅花時分の最中は市場を立、京都より紅花中買の旅人下りて売買仕る、他国の
衆は知らぬ、其時分は男も女も狂人のことく姿を崩し、いつ櫛の刃入たる侭やら、赤裸
に成、何か一ヶ月の儲か一年中の暮しとなりぬこと故、前後を争ひ、親兄弟の見境へも
あらはこそ、我劣しとの買ふことなり、昼夜の境なく賑ひ申なり(七日町付近の描写)
「紅花の市場では、男も女も髪振り乱し狂人のごとく裸同然になり、親兄弟の見境い
も昼夜の見境もなく立ち働いている。この一ヶ月の儲けで一年を暮らしていくのだか
ら」という記述は、当時の紅花市の喧騒け ん そ うと賑わいをリアルに描いています。
江戸時代の初期には全国の紅花生産量の半分近い量を最上紅花が占め、文化・文政年
間頃からは、最上川舟運を使った山形商人の活躍により、出荷量は「最上も が み千駄せ ん だ」(一駄だは
約120㎏)といわれるほどようになったのでした。
紅
べ に
餅
も ち
附属博物館所蔵
水に溶ける黄色素を除去した後(この作業を花振りという)、発酵させ(花寝せ)て紅色の色
素を採りやすくした干紅花。古来から行なわれていた伝統的な手法である。
上方や江戸に紅花を運ぶ際は、この紅餅の状態まで加工し荷詰めした。
風流
ふ う り ゅ う
松の木
ま つ の き
枕
ま く ら
(写本)
附属博物館所蔵
『風流松の木枕』の原本は、明和年間(1764∼1771)の初期以前に書かれたと考えられ、博
物館所蔵のものは文政5年(1822)2月の写しである。
山形の町々や神社・仏閣・名所等が、山形を訪れる旅人を案内するかのような口調でしたた
められている。作者は後藤小平治か。見開きの頁(右から3行目)には「紅花」の字が確認でき
るが、ここのほかにも紅花に関しては複数の記述があり、「男女を問わず狂人の如き有様で、
見境いなく紅花を商う」様子が生々しく述べられている。
(7)6 船乗りの生活
船乗りは今風の呼び名ですが、最上川では「船ふ なしゅう衆」と呼ばれるのが一般的でした。「船
板子一枚下は地獄」といいますが、急流として知られ、難所も多い最上川ではまさしく
命がけの仕事だったのです。
「最上川舟唄」から抜粋
酒田さいくさげ(行ってくるから)まめ(達者)でろちゃ はやり風邪などひがね(ひ
かない)よに
しばらく留守にする間、残される家族を想い、「風邪などひかないよう元気で暮らせ」
という船衆の優しさが、短い言葉に込められているようです。
まっかんだいご(二股大根)のしょっしるに(塩汁煮)塩がしょっぱくて(塩辛い)
く(食)らわんね
男所帯の船の中では自炊に頼らざるを得ず、男の手料理は味付けも適当、「塩辛過ぎ
て食べられたものではない」と嘆いています。ましてや船の中での副食は、保存が効く
ことが一番で、塩鮭や筋子、塩気のきつい漬け物など、それでなくても塩気の多いもの
ばかりであったろう。
このように、当時(昭和初期)船衆から取材して作られたという「最上川舟唄」の歌
詞には船衆の生活と想いが込められているようです。
船乗水主奉公請状
ふ な の か こ ほ う こ う う け じ ょ う
定
さ だ め
嘉永 2 年(1849)
附属図書館所蔵 土屋儀兵衛家文書
船持(船のオーナー)が船乗り(船頭と水主)との間に取り交わした雇用契約書。船乗りは荷
物が濡れたとき弁償することや、病気のとき代理人を出すことなど厳しい義務を負った。最年
少の12歳の水主・丹蔵の場合を見ると、船頭・利吉の船に乗り組んだことや、同僚の35歳の
三吉は、半年の奉公で給金1両なのに対して、丹蔵は1年で1両2歩となっており、経験によっ
て給料に差があったことがわかる。
︽翻
刻︾
︵十二歳
の水主
・
丹蔵の雇
用契約を
記し
た部
分︶
利吉舟
岩之
袋
人主
仁助
水主
丹蔵
年十二才
一、金壱両弐歩弐朱銭三
百
六拾
弐文
〆
同村
受人
久太郎
右者
来戌壱ケ年船乗給料申
受候分
外
ニ
金壱
両
也
来
戌暮迄
立金
かし
(8)7 危険な船旅:三
さ ん
難所
な ん し ょ
と難破
最上川舟運で働く船頭・水か主こたちは常に危険と隣り合わせで仕事をしていました。三
難所と難破について見ていきましょう。
大石田河岸のすぐ上流に、碁点ご て ん・三ケ瀬み か の せ・ 隼はやぶさの三難所と呼ばれるとりわけ危険な地
点がありました。もっとも危険な難所と言われた 隼はやぶさ瀬の せでは、岩礁が川床全体をおおい
急流を作っています。船は岩礁でできた中洲と岸の間を航行してゆきますが、もしバラ
ンスを失ったら最後、流れに任せて急激に流され、そのまま浅瀬や川面に突き出た岩に
触れて、たちまち破砕する危険がありました。
江戸時代、船が損傷あるいは沈没することを破船は せ んと言いました。ただし川での破船で
は沈没まで至らず、乗員や積み荷の一部が助かることも多かったのです。ただ、その場
合でも経済的な損害は甚大なものになりました。
安政 3 年(1856)5 月 16 日、大石田のやや下流の畑村付近で船頭・勇治の艜船が破船
しました。今回展示しているのは、そのときの被害やかかった経費を記録した文書です。
このときは、人員は無事だったようですが、古手(古着)、布団、玉砂糖、塩、鉄など
しめて 476 両(1両=8 万円換算で約 3,800 万円)の被害がありました。また、この
他に諸経費として 41 貫文(約 6.3 両=同じく約 50 万円)がかかりました。
同じく今回展示している「御手船六艘并四艘通船上下入用書上帳控」には経費として
「隼瀬酒代」が計上されています。これは、隼瀬を通過したときに振舞われた酒代で、
難所通過がいかに危険で、経験と技術を要するものだったかを物語っています。
大帆
だ い は ん
縄
じ ょ う
(蕨
わ ら び
縄
な わ
)
附属博物館所蔵
帆や帆柱を支える一本の太い縄をいう。蕨の根茎からでんぷんを採った後の繊維を船衆た
ちが一本一本繋ぎながら縒よりをかけて作った。
晴天・雨天にかかわらず伸び縮みがないことから帆柱の支えとして使われた。
大石田揚一
お お い し だ あ が り い ち
ノ
の
丁
ち ょ う
勇
ゆ う
治
じ の
舟
ふ ね
破船
は せ ん
雑用
ざ つ よ う
割
わ り
安政 3 年(1856)
附属図書館所蔵 二藤部家文書
安政 3 年 5 月 16 日午後 3 時半ごろ、大石田を目指して遡上していた船頭・勇治の艜船が畑
村付近で破船した。本史料はこのときの損害や諸経費の記録である。「破船」は難破・沈没で
の全損以外に、水漏れ等で船が損傷した場合も含んでいた。このケースでも、古手(古着)14
箇などが濡れたのに対して、古手8箇などは無事だったと書かれている。また、支出を見ると、
荷物の陸揚げに使ったと見られる小船7艘の手配に1貫4文、人足77人の賃金に23貫100
文などが支払われており、荷物の損害の他にもかなりの出費がかかったことがわかる。
︽翻
刻︾
︵
破
船
し
た
艜
船の
損害
につい
て
記した部分
)
濡荷
○長
古手
拾四固
代金
五拾
六両
也
右同断
同
布段
内壱
固
三固
代金
五両
壱分
右同断
同
玉砂
糖
八挺
代金
七両
也
半濡
同
古手
壱固
〆
代金
五両ニ分
代合弐百四
拾
六両ニ朱
此
掛
り弐
十三〆六
百八
十三文
同
長谷川
吉内殿
同
無事荷
○
谷
小袖綿
弐固
代金拾三両
也
右同断
同
くり
綿
拾五
本
代金
六
拾
両
三
歩
三
朱
同
白砂
糖
五固
弐ツ
合
代金拾五
右同断
同
生蝋
壱丸
代金四両也
右同断
同
木綿
三固
代金
五拾壱
両
也
濡荷
同
石灰
四俵入壱固
代金
右同断
同
玉砂
糖
弐挺
代金壱両三分
(9)御手船六艘并四艘通
お て ぶ ね ろ く そ う な ら び に よ ん そ う つ う
船
せ ん
上下
じ ょ う げ
入用書上帳
い り よ う か き あ げ ち ょ う
控
ひ か え
文政 11 年(1828)
附属図書館所蔵 二藤部家文書
御手船が通船(運航)する際にかかった費用を書き記した控帳。これらの諸費用は船を所有
する藩から支給された。このときの通船には1艘あたり米5俵、金1両2朱、銭13貫文あまりが
かかっている。中でも興味深いのは次の2つである。「瀬掛リニ付小舟雇賃 300文」の支出
は、最上川河口付近で浅瀬に乗り上げ、小船をチャーターして牽引させたもの。また、「隼瀬酒
代 100文」は三難所の隼瀬を通過した際に振舞われた酒代で、いずれも通船の危険性を物
語るものである。
︽翻
刻︾
︵船下りの
経
費の支出を記したものの
う
ち
、
難
所通
過の酒代
な
どについ
て
記し
た部
分︶
子九月廿七日
より御
船
支度十一月十
五
日迠乗仕
廻日数四
十八日
一、
米壱石九斗弐升
但舟
頭水主
四
人
乗
此俵五俵弐升
一日壱
人
前
壱
升
宛
〆
三八
人
一、味噌
五
貫
七百六拾目
但壱
人前三
拾
匁ツヽ
〆
此代銭
五
百
六拾文
但百文ニ付六百目買
一、銭三貫八百四拾文
但茶
塩
薪
菜代
〆
一日壱人前
弐
拾文ツヽ
一、同四百文
船御役所江
上
納
〆
一、
同弐
貫六百七拾五文
通舟
定
一
式掛
〆
内訳
四十文
舟支度酒
代
四十文
廿八日御
神酒代
四十文
大石田出
帆酒代
百文
鬮取酒代
百文
隼瀬酒代
四十文
朔日御神酒代
弐百文
藁代
四十文
川ノ
口乗
附酒代
四十文
御船
掃除祝
酒
代
四十文
八日御神酒代
弐百文
舟町宿銭
百弐
拾文
同宿賄方三日之足銭
壱人前四拾文ツ
ヽ
四十文
御神酒代
︵以下省
略︶
8 大石田河岸
か し
の窮状
き ゅ う じ ょ う
と上郷
か み ご う
とのあつれき
大石田河岸は、最上川舟運が開通した際に最上義光によって開発され、以来中継河岸
として栄えてきました。それは中継権を独占していたことによるものでした。「中継権」
とは酒田からの上り荷物は一旦大石田河岸で降ろし、大石田船に積み替えて上郷(上流
部)に上らせ、上郷からの下し荷物も一旦大石田河岸で降ろし、大石田船に積み替えて
酒田へ下すという独占的な権限のことです。
しかし、時代が下り寛文・元禄時代になると、紅花・青苧あ お そなどの商業作物生産の発展
に伴って商人荷物の需要が増え、一方、年貢米輸送の運賃は固定されたままのため、し
ぜん商人荷物の運賃が徐々に引き上げられていきました。これを不満とする上郷の商人
たちは、幕府へ陳情を重ね、ついに享保 8 年(1723)、幕府は以下の改革をおこない、
舟運の発展に対応することを決めました。すなわち、①酒田と上郷に川か わ船差ぶ ね さ配役は い や くをたて
ること、②本楯も と だ て・寺津て ら づ・横山よ こ や まに新河岸を設置すること、③酒田船・大石田船・上郷船に
かかわらず、上り下り両方の運送に従事すること(上下入会運送)の3点です。
その後、今度は大石田船持たちが窮状を訴えるようになります。運賃が固定したまま
では輸送量の増加に対応できず、逆に廃業を余儀なくされて、ますます船数が減ってい
くと訴えたのです。延享 4 年(1747)に巡検使じ ゅ ん け ん し・神山か み や ま三郎さ ぶ ろ う左ざ衛門え も んが下向した際には、
運賃の値上げと上郷との連合差配にしてほしい旨を要求しました。この願いは一部聞き
入れられ、以後連合差配が実現しました。
ついで寛政 4 年(1792)、幕府は混乱を収拾するため、大石田河岸に幕府が直接管轄
する川船役所を設置し、以後この幕府直轄体制のまま幕末を迎えます。
(10)乍恐以
お そ れ な が ら こ う
口上書奉
じ ょ う し ょ を も っ て ね が い
願上候
あげたてまつりそうろう
延享 4 年(1747)
附属図書館所蔵 二藤部家文書
享保8年(1723)以来、最上船・酒田船双方が上り・下りのいずれをも請け負う「上下入会運
送」を行ってきたが、これにより最上船持(オーナー)は困窮し衰退の一途をたどってきた。幕
府はこの件を吟味するために巡検使・神山三郎左衛門を派遣した。この史料は最上船持が連
名で巡検使に差し出した請願書で、運賃の値上げと大石田河岸からも差配人(船の運航をと
りしきる人)を出させてほしい旨を願い出ている。巡検を終えた神山は、幕府に大石田・上郷の
合同での差配や上下片運送(最上船は下りを、酒田船は上りを受け持つ方式)を提案し、これ
に基づきこの年から新方式での最上川舟運がスタートした。
︽翻
刻︾
一.
当村
之儀、
先
年川船差配仕候
處、廿
五
年以
前卯年被
召放候得
共、
其以後唯今迄御用も無
滞相勤
来候、
依
之当差配
役江当村
よ
り
も
御加
被下置度
偏ニ奉願上
候
、
左
候
得ハ右差配人
と委申合、
川
通
御
用
も無
滞
相
勤
可
申
候
間御
堅
慮
之上
以御
慈
悲
被仰
付被
下置
度奉
願
上
候、以上
惣舟持
卯七月八
日
連判
︽現代語訳︾
一、
当村はかつ
て
川船
差配をおお
せつかって
お
りましたが、
二十五
年前の卯年
に
召
し
放
ち
︵解任︶
と
なりまし
た。
し
か
し
、
その後
も
今
まで
御
上
の御
用に
つ
い
て
滞
り
な
く勤
め
て
ま
い
りました。
こ
れに
よ
っ
て
、
差
配役
に当村よ
りも加
え
下
し置
かれたく平に
お願
い申し上
げます。
そのよ
う
にして
く
だされ
たな
ら、
差配人と申し合せて、
川
通り
御
用
も滞り
な
く相勤
め
ます
ので
、
ご
賢
慮
く
だ
さり
、
お
慈
悲
を
もって
下
し置
かれ
たく
お願
い申
し上
げ
ま
す
。
以上。
惣舟持
卯七月八
日
連判
最上
も が み
船方
ふ な か た
差出
さ し だ し
明細帳
め い さ い ち ょ う
寛政 5 年(1793)
附属図書館所蔵 二藤部家文書
寛政 4 年、あいつぐ制度の改編にも関わらず、一向に川船の減少が止まらないことを憂慮し
た幕府は、従来の船方が自ら差配する(取り仕切る)制度をやめ、直営方式(直差配)に切り
替えた。これに伴い大石田に川船方役所が設置された。この史料は川船方役所の建設費用
の明細内訳書である。収入の主なものは幕府からの御下金22両、船持たちの拠出金98両な
どである。支出の主なものは土地購入費33両、大工682人の雇賃136貫文など合計126両
余りであった。
︽翻
刻︾
︵船方役所普請のための費用
を
記した部分の内、
大工の賃
料など
を記した部
分
︶
一、銭百
三拾六貫
四百
文
是
ハ
大工六
百
八拾弐人日用一日
ニ弐
百
文
ツヽ
賄代
と
も
ニ
一、同五貫三
百廿
文
是ハ壁
ぬ
り
拾
九
人
飯料
共
ニ
壱
人
ニ付
賄弐
百八十
文
ツヽ
一、同拾四貫九百
四拾文
是ハ
地
行
均
シ
土付
之砌
丁
持
相雇
候一日ニ百八十文ツヽ賄代共ニ
一、同拾六貫八百
文
是
ハ
屋ね
ふき八拾四人日用賄
共
ニ弐
百
文
ツヽ
一、金五両ハ
是ハ御
門
前家
立替
ニ付
家
主
へ合
力
一、金弐
両弐歩
是者
仮
御
所
ニ
付
安
太
郎
方
へ
謝礼
ニ遣ス
(11)9 最上川舟運
し ゅ う う ん
の終焉
し ゅ う え ん
最上川の川舟の数は江戸期より明治になってからの方が増加し、そのピークは明治2
0∼30年にかけてでした。しかし、舟運のかげりは明治9年から山形県初代県令・三
島通庸が県内各地の道路を開削した頃から始まっていたと思われます。
最上峡沿いの磐い わ根ね新道し ん ど うの開削、また、中央(東京)と直結する栗子隧く り こ ず い道ど う・万世ば ん せ い大路た い ろの
完成は、物資の輸送が舟運・海路から陸路に移行する序章でもあったのでした。
舟運にとっての決定的な打撃は、奥羽本線開通(明治36年には新庄まで開通)によ
る鉄道輸送の始まりであるといえます。
山形県内に入る物資は上方の方からより、陸路で東京から運ばれて来るものが多くな
っていくのです。
こうして最上川舟運は急速に終焉に向かうこととなりましたが、舟運がもたらした
「文化」は、現在も山形県民の中に息づき、これからも引き継がれていくことでしょう。
参考文献
横山昭男著『最上川舟運と山形文化』2006
横山昭男著『近世河川水運史の研究』1980
小野寺淳著『近世河川絵図の研究』1991
山形県教育委員会『山形県歴史の道調査報告書 最上川(1)』1980
山形県立博物館『特別企画展図録 最上川∼紅花の道∼』1985
大石田町史編集委員会編『大石田町史』通史編上巻, 1985
大石田町史編集委員会編『大石田町史』史料編1・2・3・4, 1976∼77
大石田町立歴史民俗資料館『大石田町立歴史民俗資料館史料集』第9集・第 10 集,
2004∼05
山形市総務部総務課編『山形市史資料』第 79 号, 1991
朝日町史編さん委員会編『朝日町史』上巻, 2007