令制下のカバネと氏族系譜
著者 熊谷 公男
雑誌名 東北学院大学論集. 歴史学・地理学
号 14
ページ 111‑152
発行年 1984‑03‑20
URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024190/
令 制 下 の
.カ パ ネ と 氏
・族 系 譜
・. ・. ・. -・
; a
下 0一
一
:-・ '
一
ネと一 一 一
:- a
-
a 一一
一熊
谷
公
''男
一 一一
令制下のカパネと氏族系一語
は
じ め
に一一
二津田
左
右吉によっ︵ 一︑︶ わが国のウ一 一
︐ 'カパネは一
義的には社会組織にではなく︑政治組織にかかわるものであ
ることが明確にされて以来︑ヵ
バネ制度はもっばら政治制度として研究されてきた︒
この方向は基本的には正
しかったと
思われ︑
カバネ制度と他の政治制度との種々の関係︵
たとえば﹁
八色の姓﹂
以前の
カバネと世襲的官職との対応関係︑ ﹁
八色の姓﹂
の忌寸以上と令制の
五位以上の対応関係︑
内外階制とカバネとの関係など︶
が明らかにされてき
ている︒ し
かし
ながら︑ そ
れにも
かかわらず︑
ヵバネ制・一 一
一 e
-
一
・一
日一
n :に
つ
いては︑ そ
の実態の解明が著しく進んだとはいいがたい︒ そ
れは従来の研究には︑ヵ
パネ制度自体の性格・構 造
を具体的に明らかにするという︑
ヵパネ制度の研究にとってもっとも基礎となるぺ き
内在的研究が必
ずしも十分でなかったことによると思われる︒このような観点に立 つ
とき︑ヵパネを専制王 :補的な身分秩序と規定し︑律令制下の身分体系をせまい意味での
律令制的な身分秩序︵ ︵ - j
f︶ 臣 '百官人 '公
民 '品部 '雜戸
・践民︶
と伝統的なヵバネの
身分秩序との
統一
としてとらえられた石母田正 氏
の見解は︑律令国家段階のカパネの構造的理
解とし
て注目に価する︒また︑最近︑氏
族伝承の体系的分析を精力
的に進められ︑カパネ制度にっ
いても斬新な論を展開されている管
陸子氏
の一
連の服難は︑おそらくはじめての本格的な力バネ制度の内在的研究という
ぺ き
もので︑ヵバネ制度をささえる理念の究明を軸に︑ヵバネ制度の性格と起源を考察されている︒
小
稿では轟口説を取り上げてそ
の検討をぉ
こなうとともに︑
令制下の
カパネの秩序の性格を︑主として氏族系譜との関
通
において考えてみたいと思う︒
注
︵
l︶
・津国左右吉﹁
上代の部の研究﹂ ︵
r日本上代更の研究﹂ ︶ ︵
2︶
石母国正﹁
古代の身分秩序﹂ ︵ ﹁
日本古代国家論﹂
第一
部︶ ︵
3︶
稱ロ
陸子﹃日本古代氏族系譜の成立 J︑同﹁
ヵパネ制度と氏祖伝承﹂ ︵ ﹁
文学﹂
五一 1
四︑
五︶
最
近
一器ロ
陸子 氏
は︑戰後の古代史研究は氏
族伝承を﹁
虚構の歴史﹂
として捨て去
り︑氏
姓と出自を切りはなしてき
たとして批判され
︑
ヵパネ制度と諸氏
の出自・ 氏
族系語の
密接不可分なことを強調された︒すなわち︑氏
族系譜の成立
は一
般に考えられているよりもはるかに古く︑大化前代の大和朝廷において︑ 天 皇
家と諸氏 の
現実の政治関係を神 話的に翻訳して︑天 皇
家との親疎関係として表現したのが氏
族系譜であ
る︒
大和朝廷は︑
大王
家の思想的基盤を︑大王
が太陽神の子孫であるという︑その出自におき
︑日の御子の 天
降りを核とした新しい匯史像を構築した︒
諸氏族も 大和朝廷の
拿下に入ると同時に︑この大和朝廷の新しい歴史像の中での先祖の地位によって︑現在の自己
の地位を説 明した︒
カバネ制度はこの
ような出自︵
=天 皇
家との
親疎関係︶
にもとづいて氏
族を類別したものであ
る︒﹁
ヵパネ
﹂
が臣・
連などの称号をさすょ
うになるの
はのちの
ことで︑
カパネ制度の最初の段階は︑大国主命の後青の氏
々︑
︵ !︶大彦命の後青の 氏
々といった︑ 建
国神話に登場する先組別の氏
族類別であったと考えられる︒
以上が︑私が理解する器口説の骨子で
あ
るが︑氏 の
所説は従来のカパネ制度の通説的見
解とは大き
なへ
だたりがあ令制下のカパネと氏族系 a9
一一
三令制下のカパネと氏族系譜
一 一
四 り︑今後種々の方面から論義を呼ぶことと思われる︒ 小
稿の間題関心からとりわけ注目されるのは︑ 氏 の
考察の力点 がこれまでほとんど関心の払われることのなかったカパネ制度をささえる理念におかれていることである︒
そこで小
稿では構口氏 の
所論を手がかりとして考察を進めていくことにしたい︒
ただし︑氏
の説は氏
族系譜の
体系的な分析がそ
の基礎となっており︑ そ の
全面的な検討は小
稿の
よくなすところではないの
で︑
ここでは令制下のカパネの理解に必
要な範囲に限定して検討を試みることにする︒
講口
氏
の研究には学ぶぺき
新見解がすこぶる多い︒
たとえば﹃日本古代氏
族系語の
成立
﹄の第三章でおこなわれた粟鹿大神元記の考察は︑個別系譜
の
分析を通してわが国の氏
族系譜の構造的特徴をみごとに浮かびあ
がらせており︑氏
族系語の研究に新たな地平を切り開くものであろう︒また氏
が︑ヵパネ制度と先祖の出自に関する観念とがわかちがたく結び付いており︑こ
の
ような系語観念の性格・機能を9 き
にしてはカバネ制度の理解が不可能なことを強調さ れたのは︑従来の
カバネ研究の欠陥をするどくっ
いたもの
であり︑
今後継承されるぺ き
観点であ
ると思う︒近
年︑ウ ヂにつ
いても︑吉田華氏
が﹁
天皇からウ一
ァ名を一陽つた始祖のごとく︑そのウヂ名を救き
持ち︑そのウヂ名の
象徴する﹃職﹄をもって︑永遺に天 皇
に仕える1
それが一﹁
祖の名を継ぐ﹄意義であ
り︑ウヂの本質であった﹂
といわM
︑ ︶義
江明子
氏
が﹁
奉事根源を記・f系譜によって︑ 氏 の
永続性が理念的に支えられて﹂
いることを指摘されてい新f
︑期
せずしてウヂをささえる理
念
として系譜観念が注日されてき
ている︒
これら近
年のウヂ・ヵパネ研究の新傾向は︑
稲荷山古城の鉄剣銘
の 発
見によって古代社会における系譜の
重要性が再認識されたことと無関係ではあるまい︒こ
の
ように器口氏 の
研究
には継承すぺき
点が少
なくないが︑承服しがたい点もある︒
器ロ氏
は︑ 皇
別・
神別というr二元的出自構造
﹂
が臣・連という﹁
二元
的政治組織﹂
に対応していることを軸に論を展開されているように︑ヵパネ制度の起源を現
実
の政治組織との
関わりで考察されており︑私もこれは基本的に正
しい方法であると思う︒
ところが︑
氏
の間題関心はヵパネ制度の起源の間題に集中している観があ
り︑
カパネ制度︑及びそれをささえる理念である氏
族系語が︑その
現実的基盤である政治組織の変化といかにかかわり︑どの
ような歴史的変選をたどったか︑ということがほとんど追求されていない
︒
そのため︑
ヵバネ制度・ 氏
族系譜の も っ
理念的・
固定的な側面のみが非常に強調される結果になっていると思う
︒
しかしながら︑氏
も認められているように︑
カバネ制度はむろんのこと︑
氏族系語も
き
ゎめて現実的な政治的機能を有するものであ
るから︑本来固定的︑自己
完結的な構造をもっ
ものではなく︑それ自身のうちに現実の変化に対処しうる理念としくみを備えていたとみる
ぺ き
であろう︒
私の器ロ氏
の所論に対する疑間は主としてこ
の
点にあ
る︒
以下︑
さらに具体的に検討を進めていきたい︒
まず︑一器
ロ 氏 の 氏
族系譜にっ
いての見
解を取り上げてみよう︒ 氏
によれば﹁
大王への 0 '奉仕の起源﹄を語るのが︑結 局この時期の全ての家記の終極日的であ﹂ g
︶︵
傍点原文︶ ︑ ﹁
先祖の表示は-
⁝現在の
自己
の朝一延内における地位を根
拠 づ
けるためにこそあ
るので︑氏
族系譜の
焦点はあ
くまでも現在の自己
にれ sn ﹂
とされる︒この
点は私もまったく同
感
であ
る︒ 氏
族系譜は︑諸氏族の現実 の
政治的地位を︑その先祖に由来するものとして正
当化するという︑ き
ゎめ て現実的な政治的機能を有していたのであ
る︒かかる性格をもっ 氏
族系譜・ 氏
祖伝承は︑
氏によれば︑
:H :﹁
その
始祖 が︑建
国時︑大王
家の先祖との間にもっていた血縁関係﹂
と︑一 ﹈
:﹁
その始祖がどんな役割で建国当時︑
大王家の
先祖に
つ
かえていたか﹂
ということをその主要な内容とし
ているとい︐ ゎ.
一 一
6a ︒
これまた︑
姓氏
録などの氏
族系語につ
いて令制下のカパネと氏族系譜
一一
五令制下のカパネと氏族系一語
一一
六 いうの
であ
れば︑ 基
本的に正
しいといえよう︒
ただ氏
においては︑右の
〇︑一 ﹈
:をともに氏
族系譜に本来的な要素とみ なし︑ し
かも﹁ 皇
別︑
神別という始祖系譜の
二大類別﹂
が︑
大和王權によって諸氏
族が組織された当初まで通るとさ れ︑ ヵ
パネ制度をこの
ような神話的出日にもとづ
く氏
族の類別制度と考えられるわけであ
るから︑
氏は明らかに :- :を重視されており︑
氏
族系語とカパネ制度との
関係ももっばら :I :によって説明されている
︒
しかしながら r皇
別︑神別という始祖系譜の二大類別﹂
がふるい時期まで通るとされる点にはにわかにはしたがいがたい︒
器ロ 氏
は︑神別諾氏
の始祖がはやくからムスヒ系三神に結び付られていたことを主張されるが︑義江明子氏
もいわれているように︑
こうし
た系譜が記紀にはほとんどみられず︑
姓氏
録・古語拾遺・
先代旧事本紀などの平安初期の文献に多くあ
らわれることにっ
いて︑
納得のいく説明がみられないの
でh
7a ︒
神別の諸氏が︑従来の
始祖の
うえにさらに皇 室
に関係の
ある神を祖先とし
て加上し
て︑系譜的に皇
統に結びっ
けるとともに︑
結果として始祖が単一
化していくのは︑やはり記紀の編
一
器前後にはじ
まり︑
奈良末〜平安初期に一
般化する現象とみるのが要当であ
一︐
︵
?-〜一
︵
これは後述の渡来系氏
族の系譜の 養 一
過程とも一
致する︶ ︒ そ
れ以前の神別系の氏族系譜で中心的な地位を占めていたのは︑ 天
児屋命・太玉
命・野見
宿称など︑
具体的な姿をもった始祖であったと考えられる︒
これらの始祖がかっ
て朝廷に仕えたごとく︑その 子
孫の
中臣 '忌部 '土師氏
などの人々は永遠に朝廷に仕えるぺきだ︑あるいは仕えることができ
ると観念されたの
であ
一 a一 一
これら
の
諸氏
の特殊具体的な世襲的職業は︑特殊具体的な始祖の
存在によっての
み十分に正
当化されえたわけであ
る︒
特定の世襲的職業をもって仕えるということが少
なかった皇
別系の
諸氏
では事情がやや異なり︑皇室系譜との結び付き
が比較的はやくから進行したと想像されるが︑
本来は武内宿称や磐鹿六雁命の伝承のような︑ r率仕の
起源﹂
を語る祖先伝承がそれ
ぞ
れのウ一 一
︐ に
︒
出重貴料史譜古最存現は土鉄域古山荷たての
であ
系の
ろ稲銘剣あ
のでとしっうあ
るが︑
これは﹁
事事根原﹂
を記すために作成されたことが明記されており︑
その点で後世の 氏
族系一語と同一
の政治 的性格を有し
てい ︵製︒
-・万︑ '後世の 氏
族系譜との
相違点とし
て書 氏
は﹁
上祖オホビnが大王 の
系譜とまだっ
ながっていないようにみえること︑職掌の表示は
あ
るが氏
姓︵
ウ一 一
︐ の名前︶
の表示がないことの一
一 f前 ︶﹂
を指摘されている︒
いずれも鉄剣銘
の
考察にとって重
要な指摘であ
ると思われる︒
後者にっ
いては別の
機会にゆずることとして︑前者にっ
いては務ロ 氏
は﹁
周知 の
ことなので省略し
たという見
方も後世の文献の
例からみてでき
ないわけではないが︑
まだ︑
-. ︑
︑︑ ︵
l:;︶︑ 量
語は成立
して・
vな力つたとみることもでき
る﹂
とされ態
度を保留されて︐
vる﹁
後世の文献の例﹂
としうの
がど
の
ようなものを指すのか明らかでないが︑
姓氏
録や古語捨遺はも
ちろんのこと︑果鹿大神元記・
丹生祝氏
本系帳・和気
氏
系図・
海部系図など︑現存の奈良〜平安初期の系譜・系図でも︑ 皇
祖神ないし歴代天 皇
との
関係は︑
周知 のことと思われるにもかかわらず︑決して省略されてはいないの
であ
る︒
したがって︑
オホビコが記紀に見
える大彦 命︵
大昆古命-
孝元天 皇 皇
子︶ の
ことであ
ったとしても︑
鉄剣銘においてのみ大王
家との
系譜関係が省略されたとみ ることは無理であろう︒
まして︑ 氏 の
ごとく始祖と皇
室との
系譜関係を氏
族系譜の本源的要
案とみる立
場からすれ ば︑系譜のもっとも重要
な部分を省略したことになってし
まい︑
きゎめて不自然であ
る︒
やはり︑
鉄剣銘の段階ではオホビnは大
王
家の
系諾に結びつ
けられていなかった︵
あるいは拳元天 皇
の系譜自体がまだ成立
していなかった︶
とみる'のが
要
当であ
ろう︒
私は︑いわゆる﹁ 皇
別﹂
系のウヂの
系譜は古い段階ではこの
ような形態が一
般的であ
ったと思う
︒
いずれにし
ても ︑
鉄剣銘は﹁
率事根原﹂
を記し
ているにもかかわらず︑氏
族系語の
二つ の 要
素のうち︑
:- :の大令制下のカパネと氏族系譜
一 一
七令制下のカパネと氏族系譜
一一
八王家との系譜関係に
つ
いてはまったくふれておらず︑
:0 :にあ
たる上祖のオホビコ以来現在のラワケの臣まで﹁
世々為
一 一
校刀人首一
奉事来﹂
ことをもっばら述 ぺ
ているの
であるから︑
この
点からも氏
族系譜に本源的な属性であ
る﹁
奉 仕の
起源﹂
を記すというのは︑
本来始祖以来の
祖先が代々朝廷にどの
ように仕えて来たかを述 ぺ
ることであ
って︑
始 祖と天 皇
家との系譜関係は付加的︑
後次的な要
素にすぎないことが明らかであ
ろう︒
な
ぉ 一
解ロ氏
は︑氏
族系譜・ ヵ
バネ制度の
考察にあ
たって︑
本来的・
本質的なものでないと考えられてであ
ろうか︑ 渡
来系の 氏
族をはじめから除外されているが︑これはカパネ制度はむ
ろんの
こと︑ 氏
族系譜の研究方法としてもき
わめて問題であ
ると思う︒ 氏
がヵパネ制度をもって出自による氏
族の類別と解された理由の一 っ
は︑﹁ 皇
別︑神別 という始祖系譜の
二大類別﹂
が﹁
臣︑
連という大化前代の
二大ヵ
バネの類別と対
応してい︵ -
ことである︒
しかしな がら︑姓氏
録が皇
別・神別・諾審という三大類別︵
三体︶
をとっていることが端的に示しているように︑渡来系の 氏
族もそ
れぞ
れの氏
族系語を所持しており︑ む
ろん力パネの秩序にも組織されているのである︒
しかも︑おそくとも五
世紀末ごろまでには︑渡来系の人々が大和
王
権の政治組織の一
都を構成していたということは古代史研究者にほぼ共通
した認識といってよいであ
ろう︒ し
たがって︑ ヵ
パネの秩序は本来的に渡来人をも組織しうる原理を内包していたの
であ
り︑氏
族系譜は渡来系氏
族にとっても同様の政治的基
を有するものであ
ったと考えなくてはならない︒
事実
︑ 渡来系氏
族の系語は︑
奈良時代においてもそ
の多くは天 皇
系譜に結びっ
けられていないという︑
神別・皇
別系氏
族の
系譜と異なった形態
をとるが︑
それにもかかわらず他の氏
族系譜と同様の政治的性格を有していることが指摘でき る︒
すなわち︑まず第一
に︑ 文
筆を世業とする渡来系氏
族は︑それにふさわしい典籍に通一
明した人物を始祖とすることが多い
︒
西文氏
の王仁や︑白猪・船・
津三氏
の始祖王
辰商などはそ の
代表的な例であ
るが︑吉水連や広階連などの ︑ . . ︑
︵ !S--. ︑
︑中・ 一
:--の渡来系
氏
族にも同様の
事例の あ
ること力指摘されてしるつ
ぎに渡来系氏
族にお︐
vても特に奈良時代の末期 以降︑祖先が加上されていく傾向が頭著に認められる︒
阿知使主を始祖としていた東漢氏
系の坂上氏
が︑
はじ
めて︑一'︑--;
. ︵
l6︑
︶︑ ︑
'﹁
阿知王 ﹂
を後一
a一 一
一一 一
書一
・の
管孫として漢室の
後青を称するの力延
居四年であ
り王
仁や王
辰爾もあ
1l︐ っ
しで漢の高帝や百済
の
貴須王に系語を結びっ
けるようにな ︵製︒
しかもこのような新しい系語は︑いずれも改陽姓の請願文の
なかで主張されており︑ヵパネの秩序と
氏
族系譜が密接に関連していること︑これまた渡来系以外のウチの場合とまったく同じ
であ
る︒
また︑
右の
系統以外でも
︑姓氏
録には中国の
歴代の
帝室
・諸候や百済・高句麗の 王
室などの後青を名のる氏
族が多数収録されているが︑記紀にはこの
ような所伝はいっさい載せられていないし
︑なかには奈良時代後半にお︑
︐︑ ︑ ︑ ︐
︐.
︐ ︵lo
-ll︐
てもまだそのような系譜を称えて︐
vな︐ 一
一. こと力確認でき
るウヂもあ
るの
で案氏
をはじめそ
れらの氏
族の多くは奈tl l
● ︵
︑
1 9o︶良末〜平安初期に組先力カ
上されて姓氏
録のごとき
系譜になったとみて大過あ
るま..
vこ
の
ように渡来系氏
族の系譜においても︑本来自分たちの政治上の立
場にふさわしい始祖をかかげて﹁
幸仕の起源
﹂
を述 ぺ
ることにそ
の中心的意義があ
ったが︑奈良末以降︑従来の始祖にさらに祖先を加上して出自を権威づ
けて いった︒
これは既述 の
神別系の始祖の性格︑祖先の加上一傾向とまったく軌を一
にしており︑
同様の政治的意図を有していたことが知られる
︒ し
たがって︑氏
族系譜の
本源的形態やそ
の後の変選過程︑また氏
族系譜とヵ
パネ制度の関係などの諸間題は︑
渡
来系氏
族の
系譜をも視野に入れて考察されねばならないであ
ろう︒
もし︑
このような見
方が大筋において認められるとすれば
︑ 氏
族系譜における祖先の加上という動き
の重要性を認めず︑神話的始祖と皇
統譜の結令制下のカパネと氏族系譜
一一
九令制下のカパネと氏族系將
一
二〇 びっ き
を氏
族系譜の本源的形態
とみて︑ ヵ
パネ制度を皇 室
との系譜上の親球関係一にもとづ
く氏
族の類別と解される器ロ 氏
の見解はそ
の基 礎
を失うことになりかねないであ
ろう︒
既
述 の
ごとく︑器口氏
は氏
族系譜の現実
的機能を強調されるにもかかわらず︑その
歴史的変化にっ
いてはほとんどふれておられない
︒
しかしながら︑ 氏
族系譜がゥヂの
政治的地
位の正
当化という機能をもっ
かぎり︑ウヂの政治的地位が
変
動すれば︑ そ
れにともなって氏
族系譜も1 む
ろんそれに内
在する論理
にし
たがってではあ
るが1 そ の
形態を変化させずには
︑
現実 の
地位を十分に根拠 づ
けることはでき
なくなってし
まうであ
ろう︒
後文でも述 ぺ
るように︑
いったん
公
的に承認された氏
族系譜は種々の 文
献に記載されて固定化されるということは否定でき
ない︒
従来︑軽視ないしみすごされて
き
た氏
族系譜の
もっ
かかる側面の
重要性を構ロ 氏
が強調された功積は大き ぃ
が︑
それにもかかわらず
︑
諾氏
は政治的地位が変
化すると︑加上とか付会といった古文
献の
記載とa a
齬しない方法によって従来の
系譜を現
実 の
地位に適合し
たものに改変
していくのであ
る︒ 一
構ロ 氏
は︑
姓氏
録の 序
文にもとづいて︑ 氏
族系譜の誤りは︑
始祖
・
別祖などの名をでたらめにっ
くる﹁
偽造﹂
によってではなく︑
他氏 の
先祖を自分の
先祖にしてしまう﹁
仮冒﹂
によって
も
っばらおこることを指摘されてい︵
製︒
これは古代の 氏
族系譜が公
的な性格を有し
ており︑
外部から種々の規制がはたらいて
︑
系請の
改変
に一
定のヮ
クがはめられでいた一
c= :とを示すも の
とし重要な指摘であ
ると思うが︑
本節で取り上げた祖先
の
加上とは︑まさに右の
仮9 の 一
形態
にほかならないの
であ
って︑
系一語変
容の 一
般的原則とも合致する
の
であ
る︒
すなわち︑
祖先の加上とは︑
具体的には記紀に記された歴代の 天 皇 ・ 皇 子
や神代史に登
場する神︑あるいは
民
間で信仰されている神︵
ムスヒ系の
神など ︶
'︑
さらには中国・
朝鮮の
歴代の皇
帝・王
などを自己
の系譜に取り
込
んで始祖とすることであ
って︑
新しく始祖を創作することはまずない︒
これは古文
献の
記載を変更することな く︑
その 開
を補うという形で新しい系語をっ
くるからなのであ
る︒
すなわち氏族系譜は︑
その内容を固定化する働き
をもった古文献と︑
たえず自己に有利なように改変
しようとする諸氏
族の
動きの対抗関係によって︑
現実
の歴史を反映
しながら一
定の方式
によって変容していったとみるぺき
であ
ろう︒
伴造系の
諸氏
族が︑大化後祖先を加上して自己 の
系譜を皇 室
の祖先神に結びっ
けていったことを指摘された阿部武彦氏
は︑
これは﹁
氏姓制度の時代にあ
っては︑
現 実の 氏
族の
地位︑
職業を决定づけていた祖先が︑氏
姓制度が廃止されて新しい中央集権的官僚国家の成立
と共に︑その
祖先の権威を失い︑ 天 皇
を中心とした古代国家にふさわしく︑
彼等はその
祖先を皇 室
に結びっ
け﹂
たの
であ
るとい︵一一 P
︐︐
︐︑. - ︑ ︑
われて. -vる氏
族系一
語の現実
的機能を認める力一ぎり私も記紀と姓氏
録などとの間の系譜の ち
がしはこのように現実 の
歴史過
程を根底にすえて理解するの
が正し
いと考える︒注
︵
1︶
器口氏︑前掲密︑及び前掲的文︒ ︵
2︶
吉国孝﹁
ウ一一 一
︐ とイ一 ﹂ ; : : ︵ ﹁
新編日本更研究入門﹄ ︶ ︵
3︶
義江明子﹁
古代の氏と家にっ
い﹂ ︵
﹃歴更と地理﹂
三二二︶ ︵
4︶
a-口氏︑前掲一蘭文︵
下︶ ︵
5︶
稱口氏︑前掲量
:ーハ五買︒ ︵
6︶
器ロ
氏︑前掲論文︵
下︶ ︵
7︶
義江明子一
︐構氏の成立と氏神の形成﹂ ︵ ﹁
日本史研究﹂
二四八︶ ︵
8︶
阿要
彦﹁
古事記の氏族系一語﹂ ︵
﹃古事記大成﹄四︶ ︵
9︶ e
紀垂仁三二年七月己卯条に一
一n一 コ
1t一 題
野見宿称︑是土部連等之始祖也﹂
とあるが︑
これは野見宿称が本来は土師氏の文字令制下のカパネと氏族系譜
一一
=令制下のカバネと氏族系譜
通りの始祖とされていたことを示すのではなかろうか
︒ ︵
l0︶
阿部氏︑前掲論文︒ ︵
︵ ︒
︒︑︑前書論掲前以︶
注口構文︵
義氏江氏︶一
下頁四六三掲1 13︵ ︒
︑氏︵
章二︶
一掲前節構目一
密第第l4 :︒ー︑頁七一 ︶ ︵
掲前氏口構一
書ハl3 ︒掲口氏︑前︶
書三六七頁溝1 2︵
︒序﹄照参文卷五第爾証考1 5︶
研録氏姓撰新清有伯佐究の﹃︵
︒︶
条亥辛二年月 ︑﹁
同四大現出政府は図れ図禁中てい︑︵
後紀歴惣帝主漢倭す裔後の尊御譜天を系がな流布るていたがるるこ﹂
じとしし 渡漢高来祖始の︵
年間には︑みに魯王︶
呉王句高族麗王間をの祖なにの大系氏同な民は動はで1進いどのさっきこよらう・ ・ ・
9︒
はいないて〇でえ延暦八年一
月乙酉条はそな系譜称のよをうと ︑れぞれ二そ高両王紀続已の天平宝字年四︵
己条商姓は氏臣の録朝麗高連波難︶
1 8氏句で後は月がてないのず麗れといるっも・︒ ︑
戊︶
続紀延︵
暦一
〇年四七成条同暦九年辛已条月延月7l︒
一︶
西一 一
条月六年四暦延紀続1 6K I︵ ︒ ︑
2 0︶ 一
構口氏前掲書二二頁︒ ︶
阿部氏︑
前掲論2 l文っ
ぎに一
構口氏
のカバネ制度に関する見
解にっ
いて検討してみよう︒ 氏
族系譜・氏
祖伝承などによって示される系語 観念
がカパネ制度と密接不可分なことを強調された轟目氏
は︑そ
・こか
らさらに進んで︑
系譜観念
こそはカパネ制度の 理念 そ
のものであ
り︑ 氏
族系譜はカパネ制度の成立
とともに︑そ
れを維持するために形成されたとみられ ︵a
-私はカ バネの秩序が系譜観念
と密接に関連する身分秩序であ
ることは氏 の
指摘のとおりであると思うが︑系一語観念がヵパネの
秩序の理念そ
のものであ
るとは考えない︒というの
は︑系譜観念は現実の地位を根-l n
づけるという機能を有するとはいっても︑それ自体としては違い祖先たちに
っ
いての神話的︑
伝承的性格のつ
よい観念であって︑現実の
地位の変化が系一語に反
映
するには一
般的にいって一
定の
時間が必 要
と思われるのに対して︑
ヵパネの秩序をささえる理念
は︑ 現実
の地位は違い祖先の 功
續に由来するとする系譜観念
と深く結びっ き っ っ
も︑それに加えて現実の政治的地位の
変 動をよりストレートに反映
する性格をもっていたと考えられるからであ
る︒具体的にいうと︑たとえば令制下におい て数は多くないが明らかに個人の功續を要賞した陽姓がおこなわれている︒坂上苅田麻呂ら五
人が仲麻昌の
乱の功絞によって︑.
a
一一
:一 一 一
とともに陽姓されているの
はそ
の代表的な例であ
る通 ︑
ほかにも宮垣
の築範 ︑
橘奈良麻呂らの一課議の密
一
部︑﹁
阿 :-m一 之
射﹂
︶などを要賞して改陽姓が実施されている︒理由が明記されていないものでも︑
個人的な功績による陽姓と思われるも
の
はほかにも少
なからず存在する︒
またこれとは逆に︑罪人に対してはしばしば姓の度奪がおこなわれ
︵
細 -これらはカパネの
理念
が系譜観念そ
のものではなく︑ ヵ
パネを負つている特定個人の政治上の功裁や罪過令制下のカパネと氏族系譜
一
二三; a
下のカ 'ハネと氏 :藤系 n-一
二四によっても
左
右されうるもの
'と観念
され
ていたことを端的に示 し
ている︒
では
︑
カパネの
秩序をささえる理念
において組先に関わる系一語観念と現実 の
個人の功演とはどのような関係にあ
ったので
あ
ろ- l
-lか
︒ っ ぎ
に掲げ
る古語拾遺の記述
はこの間題を考える手藤りを与
えてくれる︒ 至 一一
于一
静御原朝一
︑改二天
下万
姓一 ︑
而;a 一一
八等一 ︒
唯序二当年之
労一 ︑
不レ本一 一 天
降之
絞一 ︒
ここで古語捨遺の著者一
0 -一 一 一 一
一一 一 一
成は︑
直接には天
武朝の ﹁
八色の
姓﹂
で中臣氏
が第二等の
朝臣︑
忌部氏
が第三等の宿称 を陽与
されたことを︑ 天
採降臨の
際における忌部・中臣商氏 の
始祖︵
太王
命と天児屋命︶
の功-f
によらず︑ ﹁
当年の 労﹂
すなわち天
武政推に対
する功労によっ
て决定されたも
のだとして批判しているわけであ
る︒
本書は︑ そ
こに働い ている一報進意図から︑そ の
記載をただちに事実︑
または古伝とみなすゎけにはいかない通 ︑
ここから広
成の
カパネにつ
いての
認識を読み取ることは不当ではあ
るまい︒まず︑ 広
成の立
場からすれば︑ヵパネは﹁ 天
降之
-a ﹂ ︑ 一
般的にいえば祖先の
功 - u
にもとづいて与
えられるぺ き
ものであ
った︒
古語拾遺の
主張するところでは﹁
肇レ自一 一
神代一 ︑
中臣斎部供
一 一
l事神
事一
︑無レ有一一
差降こ
なの
で︑
患部氏
も中臣氏
と同等の
カパネを陽与
されてしかるぺき
だというわけで
あ
る︒
この
点は︑
いうまでも
なくヵ
パネが系語観念
と密接に関連
していることを示し
ているの
であ
るが︑
注意すぺき
はここでも系
語観念
とは︑
'構ロ 氏
がいわれるごとき ﹁ 天 皇
家との
一a 報
関係﹂
ではなく︑
.天 皇
家に・対する祖先の
功-f
と理解されていることで
あ
る︒ つ
ぎに広
成によれば︑
中臣氏
が朝臣を陽与
されたのは﹁
当年之
労﹂
によったためだという
︒
このような一患部氏
の主張は︑
もともと申臣氏
が通 の
カパネをもち︑
大夫を出す家柄であ
ったのに対し︑忌部氏
は首
の
カパネで大夫を出した形跡もないことなどからみて︑ 文
字ど ぉ
りに信ずるわけにはいかないが︑ ﹁
八色の姓﹂
の
一陽与
が祖先の 功
績などの系語観念
だけによったの
ではなく︑そ
れに﹁
当年の
労﹂
を加味し
て実
施されたということは事実で
あ
ったと考えられる︒ ﹁
八色の姓﹂
の腸与
には︑従来の
自然生
的なヵ
パネの
秩序を継承しょうとする側面と︑
そ
れを新たな一
元的な政治秩序に適合的な序列
に改変 し
ようとする側面とがあった︒
後者については次節であらためて取り上げるとして
︑
前者にっ
いていえば︑﹁
八色の
姓﹂ の
真人・朝臣 ・宿 :称・忌寸の上位四姓は旧姓の公 '臣 '連・直にほぼ対応していて
︑
それらを継承する意図の あ
ったことが看取される︒ところが︑部分的ながら重要な変更も
加えられているのであ
って︑. 朝臣を例にとると︑天
神系の中臣連・物部連や地祇系の大三輪君などが皇
別系の
旧姓 臣の
諾氏
を原則とした朝臣姓を陽与
されている︒
このような修正は︑当時における諸氏の現実の地位を考慮して加えられたものと考えられ︑
﹁ 一
八色の姓﹂ の
序列は︑全体としてみると﹁
大化以来の諸氏の政界における地位・序列にほぼ
そ
っている﹂
のであ ︵a
-もっとも﹁
八色の姓﹂
は︑
直接には﹁
氏姓大小 ﹂
を基準に加えた一
f一
御原考仕令の
考選
法︵
o︐ ll︶実
施の前提として必 要
な族姓改革︑
というき
ゎめて現実的な政治日的をになって実施されたのであ
るから︑﹁
当年之労
﹂
を考慮に入れ︑現実 の
政治秩序に密着したヵバネの秩序を構集しようとしたのはむしろ当然のことであ
ったといえよう
︒
轟ロ 氏
のごとく︑ヵパネを出自による氏族の類別と考えれば︑﹁
八色の姓﹂
における陽姓は︑部分的にでは︵g︶あ
るが本来の原則をくずし
たもの
ということになるが︑
後文で述ぺるようにカパネを支配者集団の母始となっている 同族組織︵
=ウヂ︶
の編成原理とみる立
場に立
てば︑必
ずしも本来の
原則をくずしたとみる必要
はない︒
私はもとも とヵ
パネは違い祖先の功績=系譜観念にもとづ
くことを基
本とするが︑ ﹁
当年之
労﹂
が著しい場合にはそれをも考慮 して新しいカパネが陽与
されることがあ
ったの
ではないかと想像する︒ ヵ
パネの
一陽与に﹁
当年之
労﹂
をも考慮するこ令制下のカパネと氏族系一語
一
二五令制下のカパネと氏族系
a
-一 : ー
ハ とによって︑ヵ
パネの
秩序はよりスムーズに諾氏 の
政治的地位の変動に対
応でき
るし
︑渡来人や地方豪族などヵパネの
秩序に編成されていなかった人
々を新たに組織していくことも可能となるのであ
る︒
ヵパネ制度の推移などからみて︑私はヵバネの秩序をささえる理念に︑
本来このような現実的な要
素があったと考える︒
なぉ
︑私見によれば︑当時の支
配層の意
識において祖先の
功續と﹁
当年之
労﹂
は絶体的に対 立
するもの
ではなく︑連続するものと考えられており
︑ ﹁
当年之
労﹂
はとき
がたてばやがて昇華し
て祖先の功
一紙の一
部を構成するようになるのであ
って︑この
点からいっても
﹁
当年之
労﹂
はカパネの秩序をささえる理念とし
て必
ずしも異質のものではないと思われる︒前節で検討
し
たように︑氏
族系譜とは諸氏 の ﹁
奉仕の起源﹂
を記したものであり︑﹁
率仕の起源﹂
とは具体的には始組以来
の
代々の
組先が朝一延に仕えてき
たさまをいうの
であ
るが︑ではなぜヵパネは﹁
当代之
労﹂
のみでなく︑かかる始祖以来の
功
續によって陽与
されるぺ
きもの
と考えられていたの
であ
ろうか︒
私はこの点も説明し
なかぎり︑ヵ
パネをささえる理念を十分に明らかにすることはできないと思う
︒
そこで注日されるのは︑カパネが一
方では子孫が代々
そ
れを継ぎ伝えるとともに永違に朝建に仕えていくぺ き
もの
と考えられていることであ
り︑これがヵパネは代々の
祖先の功績によるぺ
き
だとする観念と表要 の
関係にあったと考えられる︒すなわち︑ヵ
パネは自分一
代限りのもの
ではなく︑
子
々孫々へ伝えられていくもの
であるから︑当人だけではなく先祖代々の功絞によって陽与
されるぺ
さだと観念されていたと思うので
あ
る︒
天平八年に葛城王 '佐為
王
らは上表して﹁
願陽一一
宿 :- S一 之
姓一 ︑
救一 一
先帝之
厚命一 ︑
流一 一
構氏 之
殊名一 ︑ 万
歳無レ一 aa
︑ 千葉相伝﹂
と願い出たところ︵
続紀同年十一
月丙成条︶ ︑ ﹁
語目︑・⁝
:一
依一一
来一一 一 一 一 一
陽一 一
精宿称之
姓一 ︒
千秋万
歳相継無レ一第
﹂
と許可された︵
続紀同年十一
月壬辰条︶ ︒
また天
平一 一
年︑
申請によって高安王らに大原真人の
姓を賜与
した語には
﹁
今依レ所レ請賜 一一
大原真人姓一
︒子子
相承︑
歴一 一 万
代一
而無レ絶︑孫々永継︑
冠一 一
千秋一
以不レ一
第﹂
とある︵
続紀同年四月甲
子
条︶
︒いずれも ヵ
バネ︵
カバネ姓︶
は子々孫々が永違にっ
ぎっ
たえていくぺきものであ
ることが強調されている︒またさ
き の
葛城王らの
上表文
中には︑王
らがかねてより臣籍降下を願つていたことを﹁
諸王等願一
-・
賜一一
臣連姓
一
供中-基・朝廷上﹂
と述ぺている︒ ﹁
臣連姓﹂
とは︑
ここではカバネあるいはカパネ姓一
般のことをいっている ものと解されるから︑
カバネ姓をもっ
ということは朝廷に仕えることの表徴であ
ったわけである︒
また神a
元年︑聖 武天 皇
が即位したとき の
宣命の末尾に﹁
又官々仕率韓人部一
人二人尓其負而可仕奉姓名陽﹂
とあるが︵
続紀同年二 月甲午条︶
︑﹁
負而可
仕奉姓名﹂
とは︑﹁
身に負つて官人とし
て仕えるのにふさわしいカバネナ﹂
という意味で︑ここでも
ヵ
パネナ︑すなわちカパネ姓を負うことと官人として仕えることが一
体のものと観念されている︒
要するにカパネを賜
与
されるということは︑それを負つた父系の一
族︵
=ウヂ︶
が子
々孫々にわたって天 皇
に仕えていくぺきこ とを意味し
たの
である︒
さて︑そうするとこれは
︑
続紀の宣命に﹁
祖名一 一
'一取持而天 地 与
共尓長久遠久仕奉礼﹂ ︵
天平一
五年五月癸卯条︶
とあ
り︑万
業集に スー〇. t・ノ・カーーノーカド一 一
トノ︵二タチサモラ. -一
ウチノ︵一
ツ:e︵r︐
ツリタ一
︐ ・カジライャトホナ fクオヤノナ一一 一
ツ :fユク﹁ 皇
祖神之
御門尓外重一 一
・立
候内重尓仕奉玉
葛弥違長祖名文継往發 ﹂ ︵
四四三︶
︑ r用 ト的ま
ハ鞣
都科 タ解 ズ議
加一 一 序 が
序f
加W ﹂ ︵
四〇 九
四︶
などとしてみえるものと同一
の思︒
︑﹁
想観念﹁
ほ︑
を祖の居本宣長は氏 の
でいななかに祖奉先各来仕名々﹂
ろあ
よらたうり︐ fl l一 一 ︵
lF ::- ?る職業也
﹂
とし中田素は
﹁
祖名は︑氏
名︵
ウヂの
名称I
熊谷注︶
を意味する﹂
と解してい︵
理︒ む
ろん︑いずれも誤りとはいえないが︑
やや令制下のカパネと氏族系譜
一
二七令制下のカパネと氏族系一器
一
二八 意訳にすぎるように思われる︒
特に宣長の解釈は︑^
- l:制一下の続紀や万葉集でさかんにっ
かわれていることからすれば︑名を
一
般に職業と解してしまっては令制下の政治体制にそくゎなくなってしまう︒ r祖の名﹂
とは︑第一
義的にはやはり
﹁
祖先の名﹂
と解すべきであ
ろう︒
ただこの
場合の﹁
名﹂
とはカタリツグガネ マスラ一フハナ
・
シタツぺシノチノ:g一一 ︑
キキッグヒトモ﹁
大夫者名乎之
立倍之後代尓聞継人毛 可多里都具我袮﹂ ︵
万葉集四一
六五︶
と歌われているのと同義で︑高名︑
名声といった意味であると思われる︒
した がって﹁
祖の名﹂
とは﹁
祖先の名声﹂ ︑
すなわち具体的には祖先のたてたかずかずの功績をさすことになり︑
r組名子救持而
﹂
や﹁
祖名文継往物﹂ ︑
さらには﹁ 己
我先祖n
名子興継比呂米 '一一 ﹂ ︵
続紀天平宝字八年九月甲實条︶ ︑
アタラシキキmキソノナソオポa-一いコnuオモヒテムナnトモオヤノナタツナ﹁
安多良之使吉用伎曽之名曽於煩昌カ
尓己
許昌於母比一一 一一 一一
率奈許等母於夜之名多都奈﹂ ︵
万葉集四四六五︶
といった用例の意味もょく理解できる︒
ところが︑祖先の功績によってヵバネが与えられゥヂをぉこすものと考えられていたので
︑ ﹁
祖の名﹂
を絶つことは︑ ﹁ 己
我氏門手毛減﹂ ︵
続紀天応元年四月辛一加一
条︶
などともいわれたように
︑
現実には謀反などの大罪を犯してカバネを割奪され︑ウヂとしての存続がとだえてしまうことであった︒
換言すれば
︑
カバネ︵
むしろカパネナ︑すなわちいわゆるウヂの名称とヵバネを合わせたものといった方が正確であろうが
︶
はかかる意味での﹁
祖の名﹂
を象徴するものであり︑それを承け継いだ父系の子孫は父祖と同じ政治的地位に就き ぅ
る資格をもっ
と同時に︑
祖先の高名をけがさぬよう︑
祖先が仕えたごとく︑永遠に天皇に仕えていかなくてはならないと観念されたのである︒
このようにカバネの秩序をささえる理念には
︑
祖先の功績によってその子孫は代々父祖と同等の地位にっ
く資格を有するとみなされると同時に︑始祖以来の地位を維持するためには
︑
代々の祖先が仕えたように忠実に天皇にっ
かえなけばならないという︑
ぃ
わば互恵的・相互依存的性格があったことを確認しておくことが重要であると思われる︒
父祖と同等の地位にっ
く資格をもっ
という前者の側面は︑族制的な政治体制に適合的なイデォロギーということがで きるであろうし︑祖先たちが仕えたごとく永遠に天皇にっ
かえなければならないという後者の側面は︑ゥヂの存在が あくまでも王権の存在を前提としていることを端的に物語つており︑天皇制をささえるイデォロギIとして機能したであろう︒この点は律令国家段階における氏族︑あるいは
﹁
王民制的秩序﹂
の存在意義を考えるにあたってきゎめて重要と思われるが︑
小
稿の目的からややはずれるので︑稿を改めて論じてみたい︒
注
︵
1︶
器口氏︑
前掲密第二章第四︑五節参照︒ ︵
2︶
続紀天平宝字八年九月乙已条︒ ︵
3︶
同右天平一
四年八月丁丑条︒ ︵
4︶
同右天平宝字元年七月幸亥条︒︵
5︶
同右天平宝字元年八月戊實条︒︵
6︶
義江明子﹁
律令制下の公民の姓秩序﹂ ︵
﹃史学雑誌﹄八四1 一
二︶
参照︒ ︵
7︶
津田左右吉﹁
古語拾遺の研究﹂ ︵
一﹃日本古典の研究﹄下︶ ︵
8︶
原島礼二﹁
天武八姓の歴史的意義﹂ ︵
﹃歴史評論﹄一
二二︑三︶ ︵
9︶
拙稿﹁
天武政権の律令官人化政策﹂ ︵
﹃體 整
日本古代史研究﹄︶ ︵
l0︶
器口氏︑前掲書第二章第二節︒︵
l1︶
本居宣長一﹁
続紀歴朝詔詞解﹄︵
筑際版本居宣長全集第七巻二七一
頁︶ ︵
﹁
再中田法︵
論史制﹃1 2考︶
続相名祖蒸集﹂
--一第三巻下
︶
令制下のカバネと氏族系譜
一
二九令制下のカパネと氏族系譜=
一一
〇=
続紀の改陽姓記事を検討された器口
氏
は﹁
改陽姓記事中︑
理由を明記してあるものにっ
いてみると︑その殆んどが出自を理由にしている
︒
一照功を申し添えてあ
るものもまれにあ
るが︑出自はそれだけで︑ っ
ねに唯一
絶対の理由となり得てい ︵
a
-﹂ ﹁
階層による繼の差を含みながら臥族臥& - 風
私が働いているの
であ
る︒
例えば中臣氏
は業
であ
るから︑
天
武改腸姓以後︑中臣系の称
しうる姓は︑朝臣︑宿祢︑
連であ
る︒- -
臣になることは絶対な-﹂
︶︵
傍点1
熊谷
︶
といわれている︒ ﹁ つ
ねに唯一
絶対の
理由﹂
というの
は︑既述
のごとく勲功による改陽姓が少なからずあった し︑
組先の功績を理由とした改陽姓もみうけられるの一 ︵--一 一
'いい過
ぎといわざるをえないが︑奈良時代の改陽姓の多く が﹁
同族﹂
たることを根-n
としていると考えられることは確かであ
る︒
たとえば︑構ロ 氏
もあ
げられているが︑ 延
居一
〇年に出雲臣祖人が 臣等本系︑
出レ自二天
穂日命一 ︒
其天程日命十四世孫日一一
野見宿称一 ︒
野見
宿称之
後︑土師氏
人等︑
或為一一
宿称一
︑或為
一一
朝臣一 ︒
臣等同為一 二
祖之
後一 ︑
独漏一一
均装之
仁一
︒伏望
与二彼宿称之
族一
︑同預一一
改レ姓之
例一
︒と願い出て許可されている
も
のなどはその 一
例であ
る︵
続紀同年九
月丁丑
条︶ ︒
このような事例の多いことから器ロ
氏
は﹁
続日本紀の改腸姓記事をみると︑カバネの
基礎は出自にあ
る︑という観念
があ
きらかにみてとれる︒
しかもそ
の
場合の
出自は繰り返
し述
ぺたように神話︑ '伝説的な出自であ
る﹂
と も1M ︑
力バネを神話的出自にもとづ
く氏
族の類 別とみる考えの 一 っ
と根拠とされている︒
右
の
ごとき
改陽姓記事を氏
のように解することは正
しいであ
ろうか︒私はそう解する必
要はないと考える︒
たとえば右に
あ
げた出雲臣組人の
場合であ
るが︑
請願文で述
ぺているところは︑
これ以前に朝臣姓や宿称姓を賜与
されていた土師
氏
と﹁ 一
祖之
後﹂
であ
るにもかかわらず︑いまだに臣姓であ
ることを述ぺたてているだけであ
って︑
カパネが組先
の 功
載によって陽与
されるもの
であ
るとすれば︑その祖先を同じ
くする︑すなわち同祖であ
ることを理由に改陽 姓を請願するのはしごく当然な論理である︒実は︑っ
ぎにふれるように︑奈良時代の改陽姓の多くは︑ 天
武朝に﹁
八 色の姓﹂
の忌寸
以上を陽与
されたゥ '一一 一
︐ の同族ないしは系譜上の枝流のウヂに対しておこなわれたの
であ
って︑奈良時代の改陽姓記事の多くが同族・同祖を理由にしている
の
はそのためであ
る︒
令制下の朝臣陽姓を分析された字根俊範
氏
も︑ァプローチのしかたは異なるが︑講ロ 氏
と同様の事実に注目されている︒すなわち︑
氏
によると︑持統〜光仁朝の﹁
朝臣賜姓六三例のうち宿称より朝臣に上昇したものは五例︑
忌寸
から朝臣に移つたも
の
はまったくないの
であ
り︑その他の臣・公
・連等からの改腸姓がその主たるものとなっているので
あ
る︒
もし︑ ヵ
パネが個人の昇進に印応し流動的な性格を持つているならば︑朝臣のすぐ下位にある宿称・忌寸より朝臣へ上昇する改陽姓が
一
般的とならなければならない︒ -
:・光仁朝までに朝臣陽姓されたもののほとんどは既存︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑
の朝臣氏
族の同族に対して行なわれたものであって︑決してむやみやたらに個人の官位の上昇に連動して陽与されている
の
ではない﹂ ︵
傍点I
總谷︶
とされてい︵ s n
︒期せずして普 氏
と同様に︑﹁
同族﹂
関係が奈良時代の改賜姓の重要な契機として働いていることに注日されているので
あ
る︒このことは︑従来漢然とは知
られていても意識的に取りあ
げられることはなかったが︑奈良時代の改陽姓を考察するにあ
たってきゎめて重要な事実であ
ると思われる︒
た令制下のカパネと氏族系譜=-