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1 小鹿野・上福岡地域にみる自然・人口動態と 経済的基盤*

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1−1. 地域の概要

1. 小鹿野地域

小鹿野地域は, 町誌によれば, 1869年 (明治2年) 村を町に改め, その後1889年 (明治22年), 1955年 (昭和30年) そして翌年 (昭和31年) に長若村, 三田川村, 倉尾村と合併し, 現在の小 鹿野町が設置された。 1955年合併の経緯は, 町誌によれば以下の通りである。

合併の条件として, 合併の形式は, 新設合併, 町制を施行する。 役場は, 現在の小鹿野役場 として, 当面長若村, 三田川村, 倉尾村の役場は支所とする。 合併町村の議員は10月31日まで は, 議員として在任する。 関係町村の財産はすべて新町に帰属する。 町村の職員は, 新町に引 き継がれるが, 1年以内の退職者については退職手当支給を優遇する。 当面, 条例や規則は小 鹿野町の条例や規則に準ずるなどが盛り込まれている。 合併に至るまでには, 倉尾村と小鹿野 町の間に三田川村があるため, 三田川村の去就が注目されたようだ。

1956年 (昭和31年) 新市町村建設促進法が施行され, 町立病院の診療所も開設された。 また 1960年 (昭和35年) には, 志賀坂峠トンネルが開通している。 トンネルの開通は, 小鹿野地域 の物流を盛んにすることになったが, 歴史的にみると, 交通の便の確保は, この地域の悲願で もあった。 町誌では, 「鉄道の夢」 として取り上げられている。 明治30年代の西秩父地方の人 口は, 約2万人であったようだ。 その頃鉄道は上野から前橋までの区間が, すでに明治16, 17 年に開通していた。 日清戦争後, 秩父鉄道の前身, 上武鉄道の敷設が明治27年に計画されてい る。 しかし鉄道は, 1921年 (大正3年10月) 大宮町 (現在の秩父市) まで敷設された。 当時の 大宮町が, 産物の集積地であったことがその原因と考えられている。 第一次世界大戦後, 大正 8年秩父鉱山の鉄鉱需要が急増した。 当時, 秩父鉱山から八丁峠, 納宮, 小鹿野, 吉田, 皆野 町に至る秩父索道が完成した。 町誌ではこの時期が鉄道導入の絶好機ではなかったかと指摘し ている。 この索道は, わずか一年数ヶ月, 大正10年にはその役目を終えた。 その後町誌では, 大正13年に 「幻の鉄道計画」 を示す資料を紹介しているが, 関東大震災前後と重なり, 自然消

1 小鹿野・上福岡地域にみる自然・人口動態と 経済的基盤

山 口 忠 利**

*Nature, Dynamic Trends in Population and Economic Foundation seen in Ogano-Kamifukuoka Area

**Tadatoshi YAMAGUCHI (立正大学社会福祉学部社会福祉学科)

キーワード:社会福祉, 地域福祉研究, 地方自治, 地方財政, 自治体合併

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滅したようだ。 鉄道敷設は, 小鹿野地域の悲願となっているが, その後も1966年 (昭和41年) 西武鉄道が, 秩父まで乗り入れるなどしているが, 小鹿野地域までの延長に結びついていない。

上述のように小鹿野地域は, 昔から交通の要衝という役割を持っているが, 鉄道輸送など高 速, 大量輸送手段の遅れが, 地域の発展の足かせともなっているといえよう。 もちろん地域の 大動脈としての国道は, 通っているが, 通勤, 通学, 物流, 観光客の誘致など鉄道の持つ時間 の短縮魅力と輸送力とは比較できない。

合併特例法の施行に合わせて, 平成15年10月7日秩父市, 横瀬町, 吉田町, 小鹿野町, 両神 村, 大滝村, 荒川村による法定の 「秩父地域合併協議会」 が設置され, 7市町村の合併につい ての協議が正式にスタートし, これまで平成15年12月までに計4回の合併協議会が開催されて いる。

合併特例法の平成7年の改正では, 近年, 市町村を超える広域的な行政需要が増大している こと, 国土の均衡ある発展や地方分権の推進と各地で活性化している住民の側からの自主的な 合併への取組みを積極的に支援し, 市町村の自主的な合併を一層推進していく事を掲げている。

もし合併が実現の運びとなれば, これまでの合併の歴史とは, 規模の点から行っても比較にな らない秩父地方が一つにまとまる広域合併となる。 小鹿野町では, 広報活動を通じて,

住民の利便性の向上 サービスの高度化・多様化

重点的な投資による基盤整備の推進 広域的観点に立ったまちづくりと施策展開 行財政の効率化

等のメリットが生まれるとしている。

合併の図式

秩父郡小鹿野町 (昭31) 小鹿野町 (昭30) 秩父郡小鹿野町 (明22)

秩父郡長若村 (明22)

秩父郡三田川村 (明22)

秩父郡倉尾村 (明22)

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2. 上福岡地域

上福岡地域は, 市史によれば, 上福岡地域は, 1960年 (昭和35年) 福岡村から福岡町に移行 した。 村から町への移行する際に紆余曲折があった。 それは, 1953年 (昭和28年) に施行され た 「町村合併促進法」 を挙げることが出来る。 当時の福岡村では, 1954年 (昭和29年) 「町村 合併研究会」 を設置し, 合併の準備をしている。 その後1957年 (昭和32年4月) 県知事による 大井村, 三芳村の町村合併が, 勧告された。 しかしこの合併勧告は, 1959年 (昭和34年3月) は, 県知事によって変更された。

そこで福岡村は, 独自に町制を申請することになった。 1960年9月 (昭和35年) のことであ る。 県知事に提出した 「町制を必要とする理由書」 の中で, 日本住宅公団による宅地開発計画 を挙げている。 埼玉県はこれを受けて, 1960年10月には, 福岡村の町制施行を告示した。 申請 日が, 9月15日, 町制施行の告示が10月14日という早さであった。

その後日本住宅公団が民有地5万坪を買収し, 1,800余戸の霞ヶ丘団地の造成, 更に国有地 5万坪 (旧火工廠と受信所) の払い下げで, 上野台団地を造成し, 2,000戸の住宅計画の半ば が完成し入居が完了し, 計画の全てが1960年中に完了見込みであること。 残りの国有地も民間 企業に払い下げており, その一部が既に操業を開始していること。 さらに首都圏50㎞の範囲内 にあり, 首都に近い大住宅地として発展が期待できるとしている。 また人口の増加に伴って都 市計画法の適用を受け, 都市整備を進めていると提出した申請書に記されている。

確かに, 1955年国勢調査では, 人口7,820人の村が, 5年後には14,230人に倍増している。

団地の規模は当時東洋一の規模であるといわれた。 町に移行して1971年 (昭和46年) には人口 53,797人と増加した。 10年間に4倍強の増加である。 この人口増加にいたって, 1972年 (昭和 47年) 町は市制に移行するための申請書を県に提出した。 なお申請書を提出する前の1971年に 市の名称を 「上福岡市」 とすることを決定している。 このような過程を経て, 福岡町は, 1972 年 (昭和47年) 4月に市に移行した。 以上のような経緯の中で上福岡市は, 急速な都市化が進 んだことが窺える。

このように上福岡地域は, 後で述べる自然的条件, 首都圏からの通勤距離, 日本住宅公団 (現 都市住宅整備公団) の団地造成, 更に国有地の払い下げによる企業の進出によって急速 に発展したことが窺える。 市制に移行直前の状況を, 鳩ヶ谷市, 朝霞市, 志木市とのデータの 比較で見てみよう。

(4)

当時の福岡町は, 鳩ヶ谷, 朝霞, 志木市と比較し, 人口の伸び率, 上下水道の普及率など, また全国に多数の 「三万人市」 が誕生している現状をあげ, 福岡町の 「市」 への移行を求めて いる。

1−2. 自 然

1. 小鹿野地域

① 地名の由来

小鹿野の地名が, 初めて文献に現れるのは, 1000年前の源順の 「和名抄」 であるとされる。

ここには 「巨香郷」 (こかの) という地名がでている。 小鹿野小学校前に記念の石碑が建って いる。 なお, 関係町村一致の意見を持って明治22年4月以来 「小鹿野」 という町名を受け継い でいる。

② 位 置

秩父郡小鹿野町は, 埼玉県西北, 東経139度48分, 北緯36度55分に位置し, 秩父郡を構成し ている。 海抜240メートルの山間地であり, 東は, 長尾根丘陵, 南西は稜線沿いに荒川村, 両 神村と接し, 北西は, 志賀坂峠を越すと群馬県と接し, 北は吉田町と接している。 町は, 赤平 川本流の左岸の開けた盆地上の地勢の中にある。 町の中央には, 国道299号線が東西に貫いて

上福岡市市制移行前の各市との比較

区 分 新 市 名 比 較 市

備 考

上福岡市 鳩ヶ谷市 朝 霞 市 志 木 市

人 口 (人) 53,797 53,057 69,506 33,939 S.46.10.1

人口密度 8,066 8,558 3,909 3,788 平方㎞

戸 数 17,227 15,668 23,541 10,195 S.46.10.1 人口増加率 (%) 152.0 137.4 131.9 155.4 S45/S40 商工業 (人) 33,252 37,792 41,224 20,973 S.45.10.1 農 業 (人) 1,247 1,120 2,867 1,816 S.45.10.1

図書館 1 0 1 1 S.46.5.1

公民館 1 2 3 2 S.46.5.1

会 館 2 0 0 2 S.46.5.1

公 園 3 5 0 1 S.46.5.1

遊園地 21 0 14 17 S.46.5.1

国税1人当り (円) 29,710 33,262 27,575 54,384 S.45決算 県税1人当り (円) 10,575 1,644 1,612 1,389 S.45決算 市町村民税

1人当り (円) 10,575 5,775 5,835 8,518 S.45.10.1 一般会計 (千円) 1,219,709 1,663,541 1,879,814 1,035,243 S.45予算 会社工場

資本金500万以上 65 66 41 50 S.46.5.1

生産額

1世帯当り (円) 654,415 1,524,927 1,944,937 2,901,689 S.46.5.1

資料の出所:上福岡市史 平成12年3月 p.243〜246を加工掲載

(5)

おり, 交通の要となっている。

③ 地 勢

小鹿野町誌によれば, 町は 「西秩父の都」 と呼ばれ, 秩父多摩国立公園の玄関口として, 古 くから開けたところである。 町の総面積の15%が, 平坦地で残りの大半は山野に囲まれている。

このため, 山間に集落が点在している。 自然環境には恵まれており, 赤平川と山に囲まれた渓 谷の美しさ, 両神山系や志賀坂峠のハイキングコースなど, 訪れる人も多い。

④ 気 象

年間の平均気温, 降水量は次の表の通りである。

2. 上福岡地域

① 地名の由来

「福岡」 という地名の由来は, 4つの説があるという。 一つは, 「新編武蔵風土記稿」 にあ る 「安芸 (広島県) の国にある福岡村ににた地形」 ということで福岡村とつけた。 二つは,

「嘉名」 に縁起のよい字を室町末期の大名が, 領地につけたという説がある。 福・徳・鶴・亀 などを 「岡」 につけるのがそうであった。 室町末期に, 北条の家来, 富永某という者が, 「福 岡郷」 を領していたとある。 三つは, 北面の武士, 星野 (福岡) 信秀が長徳元年, 出雲の国か ら祭神とともに移り住んだとする説がある。 四つは, 「吹岡」 説である。 「吹く」 には, 風が起 こる, 水が湧き出るなどの意味がある。

② 位 置

埼玉県上福岡市は, 埼玉県南西部, 東経139度31分22秒, 北緯35度52分35秒に位置し, 関東 平野の首都圏30㎞圏内にある。 市の面積は, 6.8平方㎞, 東西4.3㎞, 南北3.0㎞, 海抜は, 最も 高いところで20.3m, 最も低いところは6.7mである。 池袋までは, 東武東上線で約30分, 日 比谷までは, 営団地下鉄有楽町線で, 60分というロケーションにある。 上福岡市は, 北西は川 越市と, 西は大井町, 狭山市, 南は富士見市, 志木市, 東はさいたま市と接している。 市は,

平成12年 平均気温 (℃) 降水量 (㎜)

1 月 3.2 29.0

2 月 1.7 0.0

3 月 5.6 30.0

4 月 11.4 135.5

5 月 17.6 91.5

6 月 20.6 178.0

7 月 25.4 234.0

8 月 25.8 114.5

9 月 21.9 177.5

10 月 15.2 80.5

11 月 9.3 57.5

12 月 3.9 0.0

データの出所:熊谷地方気象台 (ただし、 秩父地方)

(6)

南北に走る国道254号線や富士見・川越有料道路がある。

③ 地 勢

上福岡市は, 武蔵野台地, 荒川低地の上に位置している。 武蔵野台地は, 青梅を扇頂とする 扇状地と考えられているようなので, 上福岡市は古代の扇状地の末端に近いところに位置して いると考えられている。 土地は関東ローム層に覆われており, 2mから8mの層が形成されて いる。 また800〜500万年前の地層からは, 海底で堆積した海成層がみられることから, 海であっ たことがわかっている。 市の東南端を新河岸川が流れており, 江戸時代から大正時代まで, 江 戸と川越を結ぶ 「新河岸川舟運」 が盛んであった。

④ 気 象

年間の平均気温と降水量は次の表の通りである。

1−3. 人口動態

人口動態についてまず全国と埼玉県の比較をしてみた。 データは2000年以降については推計 値である。 全国の傾向は, 2010年をピークにして, 減少傾向にはいると予測されている。 しか し, 埼玉県においては, 2010年以降も増加傾向をたどるとの予測がなされている。 この増加傾 向は, 首都圏にある都県の中でも埼玉県にだけ見られる傾向である。

平成12年 平均気温 (℃) 降水量 (㎜)

1 月 6.7 61.5

2 月 5.1 1.0

3 月 8.7 83.5

4 月 14.0 164.0

5 月 23.4 7.0

6 月 22.7 187.5

7 月 28.1 296.0

8 月 28.4 98.0

9 月 24.9 348.0

10 月 18.0 124.5

11 月 12.2 122.0

12 月 7.3 3.0

データの出所:上福岡市史

1990年 1995年 2000年 2010年 2020年 2025年 全 国 人 口 123,611 125,570 126,919 127,623 124,133 120,913

増減率 1.00 1.02 1.03 1.03 1.00 0.98 埼玉県 人 口 6,405 6,759 6,938 7,718 8,035 8,074 増減率 1.00 1.06 1.08 1.20 1.25 1.26 単位:千人

データの出所:朝日新聞社編 「民力01」 2001年6月から作成

注:ただし, 2003年12月県議会で, 埼玉県上田知事は, 答弁の中で2015年の人口予測値を802万人から728

万人に下方修正している (朝日新聞2003年12月9日付け朝刊)。 この知事の答弁に従うならば, 2010

年頃が埼玉県の人口のピークになりそうである。

(7)

次に埼玉県の年齢別人口を見てみる。 以下の表は, 埼玉県総務部統計課が発表している, 平 成14年1月1日現在の年齢別人口と構成比そして平成13年1月1日と比較したものである。

続いて, 総務省が公表している日本国の年齢別人口の推移とその割合を示す表を掲げる。

2002年 (平成14年1月) の埼玉県年齢 (10歳階級) 別人口

年齢階級 総 数 (人) 構成比 (%) 対前年比 (%)

総 数 7,028,214 100.0 0.4

0〜9歳 677,592 ( 9.6) −0.3

10〜19歳 744,594 (10.6) −1.9 20〜29歳 1,087,590 (15.5) −2.9 30〜39歳 1,079,431 (15.4) 3.8 40〜49歳 897,945 (12.8) −2.4 50〜59歳 1,143,201 (16.3) −0.4 60〜69歳 804,217 (11.4) 5.9 70〜79歳 410,193 ( 5.8) 5.6 80〜89歳 158,722 ( 2.3) 4.8 90〜99歳 24,330 ( 0.3) 12.1

100歳以上 399 ( 0.0) 29.5

日本国年齢別人口割合 (1925〜2002年)

総数 (千人) 0−14 15−64 65歳以上 (%) 大正14年 1925 59,737 36.7 58.2 5.1 昭和5年 1930 64,450 36.6 58.7 4.8 10 1935 69,254 36.9 58.5 4.7 15 1940 1) a) 73,075 36.1 59.2 4.7 20 1945 71,998 36.8 58.1 5.1 25 1950 a) 83,200 35.4 59.7 4.9 30 1955 a) 89,276 33.4 61.3 5.3 35 1960 93,419 30.0 64.2 5.7 40 1965 98,275 25.6 68.1 6.3 45 1970 103,720 23.9 69.0 7.1 50 1975 a) 111,940 24.3 67.7 7.9 55 1980 a) 117,060 23.5 67.4 9.1 60 1985 a) 121,049 21.5 68.2 10.3 平成2年 1990 a) 123,611 18.2 69.5 12.0 7 1995 a) 125,570 15.9 69.4 14.5 12 2000 a) 126,926 14.6 67.9 17.3 13 2001 127,291 14.4 67.7 18.0 14 2002 127,435 14.2 67.3 18.5

1) 海外にいる軍人・軍属を含み, 韓国・朝鮮, 台湾, 樺太及び南洋群島以外の国籍の外国人を除く。

a) 年齢不詳を含む。

資料の出所:総務省統計局統計調査部国勢統計課 「国勢調査報告」 「日本の人口」 「人口推計年報」 を加工

した。

(8)

データを比べる限りにおいて日本国と埼玉県の年齢別人口構成は, 平成14年について見ると, 14歳以下の人口比は, 全国の傾向を示し, いわゆる紡錘形の形状をなしているが, 15歳から64 歳までの人口比は, 全国の割合よりも高い割合を示している。 これは, 労働力人口が多いこと を示している。 そのため埼玉県の65歳以上の高齢者の占める割合は, 全国よりも3ポイントも 低くなっている。 換言すれば, 埼玉県は, 全国の中でも高齢化が平均よりも進んでいないこと を示している。

1. 小鹿野地域

小鹿野地域は, 歴史の古い町であるが, 近年過疎が進んでいる。 次の表は, 明治17年以降の 人口と世帯数を一覧にしたものである。 明治23年は, 明治22年に合併が行われ, 現在の小鹿野 町の基本形が整ったときの人口・世帯数である。 その後昭和30年に最後の合併が行われ, 人口 はピークに達している。 人口は僅かながら増減を繰り返したが, 減少傾向にあるといえる。

小鹿野町が昭和43年に実施した 「町民アンケート」 調査結果に興味深いデータがあるので紹 介したい。

町に住んで何年

生まれたときから 66.8% 21年以上 16.6% 計83.4%

この町はなじみやすいか

なじみやすい 69.3% なじめない 19.5%

町にこれから引き続いて住むか

ずっとすむ 83.4% 1〜3年は住むが後はわからない 2.6%

住みたい所でないので転出する 3.7%

町は住みよいか

住みよい 28.9% まあまあ住みよい 57.3% やや住みにくい+住みにくい 12.1%

(小鹿野町誌 P308〜311) この調査結果から見えるのは, 21年以上この地に定着している人が8割以上という, 地域特 性がある。 地域への愛着度も高いと推測される。 馴染みやすい地域であることは, 21年以上住 んでいる人の割合で推測がつく。 馴染めない人が, 19.5%いるということは, 町誌でも分析し ているが, 長く住んでいる人でも 「交通不便」, 「物価が高い」, 「働く場所がない」, 「発展性が ない」, 「封建思想が強い」 などをその理由に挙げている。 矢張り, 交通手段, 中でも鉄道敷設 を果たせなかったことが町に大きな影響を与えたようである。 転出すると回答した人も町の分

2002年 (平成14年1月) 埼玉県年齢別人口割合

0〜14歳 15歳〜64歳 65歳以上

埼玉県 人 口 総 数 構成比 (%) 総 数 構成比 (%) 総 数 構成比 (%) 7,028,214 1,024,058 14.75 5,061,769 72.02 942,387 13.41 人口:人

資料の出所:埼玉県総務部統計課公表のデータを加工

(9)

析の通り交通手段や職場の少なさが影響していると思う。 この地域の特性として, 農業という 土地を生産手段として持ち合わせていない人にとっては, 決して生活しやすい地域とはいえな いといえよう。 因みに, 昭和40年の国勢調査では, 農業に従事する割合は, 49.97%, 昭和45 年の同調査では, 37.89%を占めている。

以下の表にみるように, 1996年と比較すると, 2003年の8年間に約1,000人の人口減がみら れる。 元々の母数が小さいので, 1,000人の減少は, 7%という大きな減少率となって現れる。

さらにピーク時の1955年と比較すると, 約3,000名の減少になる。 約50年間に3,000名の減少は, 平均すると毎年約60名が減少したことになる。 埼玉県は, 今後も人口の増加が予測されている が, それは政令指定都市であるさいたま市を中心としたものと考えられる。 一方, 世帯数の変 化をみると, 1997年と2003年を比較した場合, 約100世帯増加している。 これは実数であるか ら, 次のことが推論できる。 すなわち, 人口は急速に減少傾向を見せながら, 世帯は核家族化 が進展している。 ただ, 町内に福祉施設が建設されており, 施設入所者が住民登録をしていれ ば, 世帯数が増えることも考えられるが, その場合, 人口も増加することになるので, このデー タからは, 核家族化が進展していると考えられる。

次に人口の年齢構成を調べてみる。

小鹿野地域人口・世帯数の推移

年 次 人 口 世帯数 備 考

1884 明治17年 8,643 1,716

1890 明治23年 8,881 1,790 町村合併 1955 昭和30年 14,751 2,690 国勢調査 1960 昭和35年 13,992 2,717 国勢調査 1965 昭和40年 13,187 2,767 国勢調査 1970 昭和45年 12,638 2,893 国勢調査 1975 昭和50年 12,768 3,127 国勢調査 1980 昭和55年 12,773 3,338 国勢調査 1985 昭和60年 12,837 3,367 国勢調査 1990 平成2年 12,639 3,461 国勢調査 1995 平成7年 12,451 3,576 国勢調査 データの出所:小鹿野町誌, 町提供の公表資料 (2003年)

小鹿野町人口および世帯数の推移

1996年 1997年 1998年 1999年 2000年 2001年 2002年 2003年 小鹿野町 人 口 12,629 12,335 12,330 12,205 12,147 11,966 11,809 11,722 増 減 率 1.00 0.98 0.98 0.97 0.96 0.95 0.94 0.93 世 帯 数 3,726 3,785 3,754 3,781 3,844 3,844 3,869 増 減 率 1.00 1.02 1.01 1.01 1.03 1.03 1.04 人口/世帯 3.31 3.26 3.25 3.21 3.11 3.07 3.03 単位:人

データの出所:埼玉県総務部統計課 データベース 何れも4月1日現在の数値である。 ただし

1996年のデータについては, データベースに登録されていないので, 小鹿野町提

供の4月1日のデータである。

(10)

先に埼玉県は, 全国的に見ても高齢化率が進んでおらず, 平均値よりも3ポイント低いと指 摘した。 小鹿野町の場合, 顕著であるのは, 15歳から64歳までの労働力人口の占める割合が, 埼玉県と比較して10ポイント低い。 更に65歳以上の高齢者は, 10ポイント高い結果となってい る。 小鹿野町の住民4名中約1名が, 高齢者ということになる。 因みに高齢化が進んでいると される山口県東和町と比較してみた。 東和町では, 65歳以上の高齢者の割合は, 50.6%に達し ている。 東和町の場合, 年齢が進むにしたがって, 人口が増えていくという逆三角形型の人口 構成になっている。 実に住民2名中1名が, 高齢者ということになる。 更に15歳未満人口が, 東和町では, 8.5%になっており, このままの状態で推移すれば, 超高齢化地域が出現すると 考えられる。 小鹿野町においても, 現在の人口構成比が続くとすれば, 今後10年の後には, 徐々 に逆三角形型の人口構成に近づくと考えられる。

次に人口動態について調べてみよう。 次の表は, 小鹿野町の14年間の人口動態である。 自然 的増減に注目すると, 高齢者人口の割合が高まるにつれて, 死亡数も増えていく傾向を示して いる。 しかしもっと特徴的なことは, 出生数が, 減少傾向にあることだ。 少子化という流れが, 社会に定着しているとはいえ, 12,000人の住民が生活する地域100人未満の出生が続いている。

社会的増減に注目すると, この14年間, 平成9年度を除き, 転出が転入を何れの年度も上回っ ている。 もし, 転出者の中にしめる20歳代から40歳代の住民の割合が, 高いのであれば, 当然 出生数も減少するであろう事は明らかである。

2002年 (平成14年1月) 小鹿野町の年齢別人口と構成比

0〜14歳 15〜64歳 65歳以上

人 口 総 数 構成比 (%) 総 数 構成比 (%) 総 数 構成比 (%) 12,259 1,732 14.13 7,678 62.63 2,849 23.24 人口:人

資料の出所:埼玉県総務部統計課公表のデータを加工。

2000年 (平成12年) 山口県東和町の年齢別人口と構成比

0〜14歳 15〜64歳 65歳以上

東和町 人 口 総 数 構成比 (%) 総 数 構成比 (%) 総 数 構成比 (%)

5,255 446 8.5 2,149 40.9 2,660 50.6

資料の出所:山口県国勢調査を加工

(11)

2. 上福岡地域

上福岡市の人口および世帯数の変化は, 次の表に示すとおりである。

上福岡地域は, 1972年 (昭和47年) にそれまでの 「町」 から 「市」 に移行している。 1959年 (昭和34年) から1960年 (昭和35年) にかけて, 霞ヶ関, 上野台団地が建設され, 団地完成後, 人口が急速に増加したことも, 「市」 への移行に大きな影響を与えていると考えられる。 上福 岡市史では, 「県西地区特に東京都心を起点とする鉄道沿線への人口集中化であって, 今後更 にこの傾向が強まることが予測される」 (p.259) と記述があり, 将来の人口が, 1985年 (昭和 60年) には, 83,000人に増加するとの推計をたてている。 ところが, 当初の推計値とは異なり, 1977年 (昭和52年) に58,000人を突破したが, それ以降減少に転じている。 人口のピークは, 1985年であり, その後は僅かに減少傾向が見られる。 世帯数は, 1961年以降, 増加傾向にある。

平成元年から14年度までの小鹿野町人口動態

年 度 自 然 的 増 減 社 会 的 増 減

総合人口動態 出 生 死 亡 増 減 転 入 転 出 増 減

平成元年度 149 115 34 301 381 △80 △46

2年度 113 124 △11 328 407 △79 △90

3年度 114 106 8 330 348 △18 △10

4年度 115 126 △11 314 349 △35 △46

5年度 110 113 △3 328 400 △72 △75

6年度 100 98 2 334 384 △50 △48

7年度 99 121 △22 319 338 △19 △41

8年度 95 135 △40 353 416 △63 △103

9年度 83 136 △53 352 340 12 △41

10年度 79 125 △46 318 380 △62 △108

11年度 90 126 △36 295 330 △35 △71

12年度 75 126 △51 299 356 △57 △108 13年度 91 126 △35 285 401 △116 △151

14年度 84 138 △54 324 349 △25 △79

資料の出所:小鹿野町生活環境課

年度 人 口 増加人口 増加指数

1960 16,259 1.00

1961 21,464 5,205 1.32

1962 23,424 1,960 1.09

1963 26,729 3,305 1.14

1964 30,137 3,408 1.13

1965 33,757 3,620 1.12

1966 36,594 2,837 1.08

1967 39,744 3,150 1.09

1968 43,380 3,636 1.09

1969 47,192 3,812 1.09

1970 51,747 4,555 1.10

資料の出所:上福岡市史 (資料編第四巻現代p.250)

(12)

これは, 核家族化の進展や首都圏に近いという地の利から単身者世帯が多いこともその要因と いえよう。

上福岡地域は, 人口は, 1996年以降ほぼ横ばいで推移している。 96年と比較して僅かに減少 しているが, 世帯数は少し増加している。 この傾向は, 前述の小鹿野地域でも同様に見られた。

次に上福岡市の年齢別人口構成と人口動態を見てみよう。 埼玉県の前出の表と比較すると, 2002年の場合, 埼玉県の平均よりも, 14歳まででは約2.5ポイント低く, 15歳から64歳未満で 約1ポイント低く, 65歳以上では, 約3ポイント高くなっている。 この事実は, 高齢化が進ん でいるということを示している。 14歳までの人口割合を小鹿野地域と比較した場合, 小鹿野地 域の方が, 埼玉県の平均と同じ程度である。 つまり, 人口構成比で見る限り上福岡市は, 子供 の割合が低いといえる。 この減少については, 住民の社会的移動と関係がある。 団地の建て替

1996年 1997年 1998年 1999年 2000年 2001年 2002年 2003年 上福岡市 人 口 55,995 55,101 54,407 54,666 54,439 54,606 54,630 54,333 増 減 率 1.00 0.98 0.97 0.98 0.97 0.98 0.98 0.97 世 帯 数 22,159 22,052 22,430 22,582 22,980 23,234 23,352 増 減 率 1.00 1.00 1.01 1.02 1.04 1.05 1.05 人口/世帯 2.49 2.47 2.44 2.41 2.38 2.35 2.33 単位:人

データの出所:埼玉県総務部統計課 データベース 何れも4月1日現在の数値である。 ただし 1996年のデータについては, データベースに登録されていないので, 上福岡市の 4月1日のデータである。

2002年 (平成14年1月) 上福岡市の年齢別人口と構成比

0〜14歳 15歳〜64歳 65歳以上

人 口 総 数 構成比 (%) 総 数 構成比 (%) 総 数 構成比 (%) 55,080 6,749 12.25 39,377 71.49 8,954 16.25 人口:人

資料の出所:埼玉県総務部統計課公表のデータを加工。

年 度 自 然 的 増 減 社 会 的 増 減

総合人口動態 出 生 死 亡 増 減 転 入 転 出 増 減

平成2年 554 283 271 4,430 4,210 220 491 平成3年 494 261 233 4,011 4,106 −95 138 平成4年 543 273 270 4,073 4,362 −289 −19 平成5年 529 311 218 3,760 4,725 −965 −747 平成6年 590 280 310 4,023 4,745 −722 −412 平成7年 535 312 223 3,435 5,068 −1,633 −1,410 平成8年 474 310 164 3,507 4,380 −873 −709 平成9年 487 280 207 3,481 4,391 −910 −703 平成10年 521 331 190 3,660 3,669 −9 181 平成11年 536 355 181 5,310 3,638 1672 1,853 平成12年 619 386 233 3,376 3,667 −291 −58 単位:人

資料の出所:上福岡市 (各年1月1日〜12月31日) のデータを再計算

(13)

え計画などで, 徐々に地域を離れざるを得ない事態が生じたのである。 この減少は平成4年か ら始まり, 平成9年まで顕著である。

1−4. 経済的基盤

ここでは, 両地域の経済的基盤について明らかにしたい。 経済的基盤は, 地域の特性に負う ところが大きく, 例えば, 生産地と消費地とでは大きく異なる。 また地域の歴史や交通網の整 備状況, インフラの整備状況など多数の要因が重なり合い, 互いに影響しあっていると考えね ばならない。 福祉コミュニティ形成の比較調査を行った各々の地域について, これまで地域の 状況, 地域の歴史, 自然環境, 人口動態について述べてきた。 福祉コミュニティの形成が, こ れまで述べてきた地域の特性に起因するのか, 或いはこのような地域特性を育んできた地域の

「経済的基盤」 に起因するのか, 探ってみたい。

1. 小鹿野地域

小鹿野地域は, 1825年 (文政8年) の 「新篇武蔵風土記」 に農家の仕事として女手による

「養蚕と絹織り」 を生業としていたと小鹿野町誌 (p.428) に見える。 特徴的なことは, 単なる 原材料の生産のみでなく, 製品までの加工過程を持っていたことである。 これによって, 天明 年間の初期においては, 小鹿野の市で一万疋の取引, 金額にして五千両にのぼったようである。

この金額は, 当時の米換算では, 4,375石に相当し, 農家経済の基盤の一つとなっていたよう である (小鹿野町誌p.428)。

その後明治, 大正時代に移っても, 養蚕技術や品種改良を続けた結果, 蚕糸業は発展を続け たようである。 第二次大戦後, 食糧増産が必要とされたときにおいても, 桑畑を農地に転換す るすることもなく, 貿易による外貨獲得のために蚕糸の増産が続けられた。 小鹿野町誌に依れ ば, 1970年 (昭和45年), 養蚕収入が第1位をしめる農家は, 農家総数1,259戸のうち644戸に のぼっている (p.433)。 この数は, 全農家の半数以上が, 養蚕収入に依存しており, 小鹿野地 域は, 養蚕を主な産業とする地域であったことが解る。 統計に依れば, 1975年 (昭和50年) 以 降は, 次第に人造繊維や安い輸入生糸の影響で, 養蚕農家減少していった。

小鹿野町の養蚕業の変遷を見る限り, この地域の経済的基盤が, 小鹿野地域の自然と気候条 小鹿野地域の養蚕業の変遷

年 度 養蚕戸数 桑園面積 収 繭 量 繭 代 金 昭和22年 965 339,000 120,788

昭和27年 1,034 325,000 181,935

昭和40年 934 23,846 204,081 138,785,836 昭和45年 823 19,246 239,881 181,681,317 昭和48年 631 16,060 237,684

昭和50年 545 15,068 183,919 298,234,454 単位:面積 アール, 収繭量 ㎏, 繭代金 円

資料の出所:小鹿野町誌 (p.430〜p.436) のデータを加工掲載

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件の上に成り立っていることが解る。 次に養蚕業を含む農業全体の状況を見てみよう。 小鹿野 地域も戦後の農地解放などの農業政策によって, 小作農家の減少と小作農地の減少を生み出し た。 前掲の町誌に依れば, 1957年 (昭和22年) の農地解放が始まる前までは, 小作農家数が, 520戸であったのが, 1965年 (昭和40年) には, 10戸になっている。 しかし, 農業所得の面か ら見ると, 専業農家では生活維持に支障を来す農家が増加し, 兼業農家数が増大していった (町誌p.481〜p.487)。

次に耕地面積の推移を見てみよう。 耕地面積も昭和22年と比較して昭和40年では, 約100ヘ クタール減少している。 全体的に 「田」 の面積が増え, 「畑」 の面積が減少している。 これは, 養蚕農家の減少に一致している。 そして 「畑」 が 「田」 に換えられ, 米作に移行したものと考 えられる。

昭和45年2月1日の 「農業センサス」 の結果を見てみよう。 当時の総農家数は, 1,592戸で あった。 そのうち465戸が, 0.3ha未満 (29.2%), 465戸が, 0.3〜0.5ha未満 (29.2%), 290戸 が, 0.5〜0.7ha未満 (18.2%), 237戸が, 0.7〜1.0ha未満 (14.8%), 114戸が, 1.0〜1.5ha未満 (7.1%), 13戸が, 1.5〜2.0ha未満 (0.8%) となっており, 2.0ha以上の耕作地を持つ農家はな かった。 不明であるが, 例外規定の農家が8戸ある。 1町歩が約1haとすると, 小鹿野地域 では1町歩未満の農家が, 全体の91.4%を占めていることになる。 零細小規模の農家が, 殆ど であったといえる。 同じ 「農業センサス」 で農産物販売規模を見ると, 販売していない農家が, 264戸, 5万円未満の農家184戸, 5万円から20万円未満の農家332戸, 20万円から50万円未満 の農家317戸, 50万円から70万円未満の農家183戸, 70万円から100万円未満の農家127戸, 100 万円以上の農家126戸となっている。 町誌では, 農地改革が強力に推進され, 農業組合も結成 されたが, 耕地そのものの増大は, 極めて少なく, 開墾地は, 元原野山林等のやせ地であり, 収量も少なく, 新所有者を得ながら再び荒廃したところもあると述べている。 そして平均耕作 面積4.5反歩, 灌漑用水による畑地耕作は皆無であり, 乾燥地での耕作農家は, その生産性の 低さ等から, 専業として生活を続けることの困難さを指摘している。 町誌が出版された1976年 (昭和51年), 「平坦地方の農業に格段の劣りは, 覆うべくもなく, 離農離村の現象は, 当地域

小鹿野地域耕作地別農家戸数

年 度 総 数 自 作 自作兼小作 小作兼自作 小 作

昭和22年 1,992 784 427 261 520

昭和40年 1,588 1,355 203 20 10

資料の出所:小鹿野町誌 (p.482) のデータを加工掲載

小鹿野地域農地別面積の推移

年 度 総 合 計 田 畑 作 地 計 田 畑 小作地計 田 畑 草 地

昭和22年 958.6 78.1 880.5 718.5 48.0 670.5 240.1 30.1 210.0 昭和40年 879.2 137.4 726.6 828.6 129.7 698.9 35.4 7.7 27.7 15.2 資料の出所:小鹿野町誌 (p.483) のデータを加工掲載

単位:ha (注) 昭和40年の 「草地」 面積は, 同年総合計に算入

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の悩みとなっている」 と結んでいる (小鹿野町誌p.484〜p.487)。

上記のような現象は, 高度経済成長期と重なっており, 産業構造の変化, 第一産業から第二 次産業へのシフトそして第三次産業の拡大に伴い大都市への人口集中, 全国的にも山村の過疎 化が急速に進んだ。 小鹿野地域も例に漏れず, 高度経済成長の影響を受け, 自然環境の影響を 受けにくい, 安定した収入の道を必然的に求めざるを得ない状況下にあったといえよう。 そし て農村地域では, いわゆる 「三ちゃん農業」 を生みだした。 こうした時代の変化の中で, 地域 の結びつき (地縁, 血縁) や地域の精神的, 社会的な文化も変質せざるを得なかったのではな いか。 何れにしても小鹿野地域が, 農業を経済基盤とする地域経済を維持できなくなったとい うことになる。

(注) 昭和45年2月1日の 「農業センサス」 中で小鹿野町の農家総数は1,523戸とあるが, 再 計算の結果1,592戸であった。 また販売規模別の農家数についても, 1,523戸とあるが, 再計算の結果1,533戸であった。 何れも母数の農家数が異なるので, 耕地規模別農家数 は, 1,592戸を用いて割合を算出し, 販売規模別農家数は, 割合を算出することを避け た。

次に最近の状況を見てみよう。

生産所得を見ると農林業を中心とする第一次産業は, 2%前後を占めているに過ぎない。 第 二次産業や第三次産業の割合が高いということは, 小鹿野地域の住民が, 専業農家から兼業農 家に移行するとともに, 安定した現金収入への道を志向した結果ではないのか。 そのため兼業 農家が生産する生産物は, 自家消費が中心となり, 市場へは土産品への加工品など一部が出荷 されているようだ。 地域以外の場所で所得を得ているとも考えられるが, 朝日新聞社 「民力 2002」 のデータでは, 昼夜間人口比率が, 99.3であり, 昼夜間の人口の移動がほとんど無いと いう結果が出ている。 小鹿野町の平成15年4月現在の人口が, 11,983人であるから人口の0.7

%は, 約84人という事になる。 約84人が, 昼間小鹿野地域を離れ, 他の地域にいるということ がいえる。 これは, 住民の地域定着度が極めて高いという見方が出来る。 兼業農家が進み, 給 与所得者が住民の多くを占める実態は, 平成8年度の町民分配所得統計からも推測できる。 町 民分配所得の総合計が, 約304億円に対して雇用者所得は, 約210億円を占めている。 割合で見

小鹿野町産業別生産所得

年 度 総 合 計 第一次産業 % 第二次産業 % 第三次産業 %

昭和63年 23,018,486 644,295 2.8 11,397,327 49.5 10,976,864 47.7 平成2年 25,295,766 631,414 2.5 12,566,145 49.7 12,098,207 47.8 平成4年 28,336,203 602,126 2.1 13,655,442 48.2 14,078,635 49.7 平成6年 28,046,179 710,957 2.5 13,622,978 48.6 13,712,244 48.9 平成8年 30,179,534 579,733 1.9 15,540,857 51.5 14,058,944 46.6 資料の出所:市町村所得推計 記載されたデータを再計算, 加工した。 単位:千円

(注) 各年度とも帰属利子を控除していない。

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ると, 69%である。 農林水産業は, 約3.6億円, その割合は, 1%に過ぎない。 産業構造を見 る限り, 小鹿野地域は最早生産地ではなく, 消費地といえる。 次に町民所得の推移を見てみよ う。

町民1人当たりの所得は, 埼玉県民, 国民の平均所得と比較しても低い。 県民所得と比較す ると, 平成7年度県民所得平均の69%となっている。 朝日新聞社 「民力2002」 のデータでは, 全国平均を100.0として所得格差を算出しているが, 小鹿野町は, 71.7という指数になってい る。 これは, 全国平均と比較して28.3ポイントの格差 (平均よりも低い) があることを意味し ている。 因みに秩父市は, 83.1ポイントである。 次に小鹿野町の財政についてみてみよう。 デー タは, 何れも埼玉県市町村課公表のものを使っている。 まず財政力指数であるが, これは基準 財政需要額に対する基準財政収入額の比率である。 通常この指数は, 大きいほど豊かな自治体 であり, 独自の事業が展開できると考えられている。 小鹿野町の場合, 0.389 (平成12〜14年 度の三カ年の平均) となっており, 行政サービスの点から見るとかなり厳しい財政状態といえ よう。 なお, 両神村や大滝村は, 0.16〜0.18という状態に陥っている。 町村合併等の問題もこ うした財政問題が, 一因となっている。 一例として, 公営ギャンブルの開催自治体である戸田 市は, 1.195となっており, 豊かな財政運営が可能であることが窺える。

小鹿野町は, 町自体の行政サービスに必要な財政 (基準財政需要額) を町村税等 (基準財政 収入額) で満たすことが出来ないので, 町村債でその不足分を補わねばならない状況にある。

埼玉県の公表統計では, 平成14年3月31日現在の小鹿野町人口1人当たり将来にわたって負担 すべき財政負担額は, 373,411円であるとしている。 町村の平均が, 209,799円であるから負担 分は大きいといえよう。 因みに小鹿野町の負担額の大きさは, 吉田町, 大滝村に序で3番目で ある。

これまで小鹿野地域の経済的基盤について, 歴史的流れ, 地域の特性などの観点から述べて きた。 人口の流出, 高齢化, 地場産業の停滞などが, 町の財政に大きな影響を与えていること が解った。 財政力指数だけを見たとき町は, 厳しい状況にある。 町村税徴収も高齢化と人口流 出によって, 今後大幅に増える状況にはないと思う。 新たな町おこし策, 税率の引き上げや大

小鹿野町1人当たり所得の推移

年 度 町民所得 県民所得 国民所得

昭和62年 1,755.8 2,623.7 2,306.2 昭和63年 1,920.6 2,871.8 2,442.2 平成元年 2,124.0 3,147.0 2,600.5 平成2年 2,272.0 3,385.9 2,775.1 平成3年 2,431.8 3,517.3 2,902.2 平成4年 2,454.9 3,551.9 2,902.7 平成5年 2,528.0 3,480.0 2,989.5 平成6年 2,527.0 3,537.0 2,984.0 平成7年 2,491.0 3,602.0

資料の出所:市町村所得推計 単位:千円

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規模施設, 産業立地などによる財政健全化の方策も考えられるが, 困難が伴うと予想される。

既述したように秩父市を中核とする合併問題が, 現在検討されている。 ただ合併を期待する自 治体が, お互いに財政問題の解決策として合併を推進していくならば, 新たな課題が生まれる 可能性もある。

2. 上福岡地域

上福岡地域は, 「自然」 の項で既述したように, 武蔵野台地の荒川低地に位置していること もあり, 農業には適した地域である。 1952年 (昭和27年) 2月の 「福岡村政要覧」 にも見える が, 村の総面積538町7反のうち 「田」 の面積134町2反 (24%), 「畑」 の面積311町1反 (57

%), 「宅地」 の面積85町7反 (15%) そして残りの7町7反が山林となっている。 従って, 村 の81%が農地である。 また総戸数1,411戸のうち, 農家が429戸 (30%), 勤労者が741戸 (52%), 商店220戸 (15%), その他21戸となっている。 農家一戸当たりの平均農地面積は, 約1町歩で ある。 小鹿野地域の昭和45年 「農業センサス」 結果では, 農家総数1,592戸のうち, 1町歩未 満の農家数が, 全体の91.4%であったことと比較すると, 当時の福岡村の農家数が少ないとは いえ, 小鹿野地域の厳しい環境での農業に比べ, 荒川低地での農業は良い環境での農業であっ たと推測できる。

勤労者戸数が, 半数以上と多いことも特徴的である。 この理由として, 戦時中福岡村に火工 廠, 無線施設, 戦後引き揚げ者の寮があったためと 「要覧」 は説明している。 特に火工廠の従 業員は, 戦後も当地に居住して, 他に仕事を求めたと説明している。 このように戦前そして戦 後の一時期までは, 軍需産業を除くと農業が, 上福岡地域の経済的基盤であったことが推測で きる。

1959年 (昭和34年) 3月の 「福岡村村勢要覧」 では, 「田」 の面積が, 146町2反と12町歩ほ ど増加し, 「畑」 の面積が, 309町4反と僅かに減少しているが, 1952年の状況とあまり変化は ない。 ただ, 火工廠の跡地利用については, 上福岡地域の経済的基盤や都市機能に大きな影響 を及ぼしたので, その経緯について述べておく。 火工廠 (東京第一陸軍造兵廠川越製造所) は, 戦後占領軍の管理下におかれた。 その際約8千人以上の従業員が職を失ったようだ。 福岡村が, 跡地利用の請願活動を始めたのは, 1951年 (昭和26年) からである。 その結果, 占領軍の継続 接収が回避され, 火薬会社への払い下げの道が開かれようとした。 もともと, 火工廠は敷地面 積17万坪 (村の総面積の三分の一), 上福岡駅北東に位置し, 駅からは至便な距離にあった。

この跡地利用は, 住民にとっても村の発展に欠くことの出来ないものであった。 その後も請願 運動は, 継続されていくが, その過程で, 東洋大学の誘致による大学都市構想 (1948年, 1957 年) もあったが, 立ち消えになった。 また浦和刑務所の移転話もあった (1948年埼玉新聞)。

大学都市構想が頓挫した後, 工場誘致と公団住宅建設計画が, 持ち上がった。 工場誘致は, 1950年代の後半, 全国的に地域の振興策として, 各自治体が取り組んだ政策である。

まず, 1956年 (昭和31年) 7月には, 旭化成の誘致に乗り出し, 多くの村費支出を条件とし

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たが, 実現しなかった。 1959年 (昭和34年) 2月には, 大日本印刷が約500名の従業員のうち 大半を現地採用するという条件を出して, 村に工場用地の斡旋を依頼した。 この結果, 村が工 場建設に村費を支出するということで大日本印刷の進出が決まった。 日本無線も火工廠跡地に 進出を決めている。 同時期に理研電具の進出計画もあったが, これは実現しなかった。 公団住 宅建設計画は, 東洋大学の誘致が立ち消えになった時期と重なっている。 1958年 (昭和33年) 3月に火工廠跡地5万坪を公団住宅地に転用することが決定された。 これが現在の上野台団地 である。 この際村は, 小学校建設を約束している。 続いて, 住宅公団は, 現在の霞ヶ丘にある 西福岡団地の用地取得のために村に斡旋を依頼している。 このようにして, 火工廠跡地利用問 題は, 1959年 (昭和34年) には一段落の運びとなった。

村の課題は, 都市機能の整備に移ることになった。 工場の誘致, 団地建設による人口の増加 により, 村は必然的に都市計画に取り組むことになった。 それが, 火工廠跡地を利用する 「福 岡村公共センター」 である。 当時の村には, 公共施設用地を獲得する財政基盤が無く, 跡地利 用せざるを得ない状態であったようだ。 センターは, 自治体運営上必要な施設の建設, 保育所, 授産場などの厚生施設の建設が計画された。 しかし, 大蔵省の公務員住宅建設計画があり, 難 航した。 この問題は, 地域住民の請願運動や議会や各種団体の陳情活動によって, 火工廠跡地 の一部が払い下げとなり, 小学校建設予定地となった (1966年8月)。

このように上福岡地域は, 火工廠跡地の利用問題が, 都市の発展, 住民意識の形成に大きな 影響を与え続けたといえよう。 その中でも, 住宅公団による団地建設による急激な人口増加が, 最も地域に影響を与えたと考えられる。 1960年 (昭和35年) 福岡村は, 福岡町になった。 団地 建設は, 1960年中に完了した。 次の表は, 団地建設後の人口推移を示したものである。

上掲表で解るように, 団地の入居が始まった昭和35年には, 人口がほぼ倍になっている。 町 上福岡地域の人口推移

年 度 人 口 増加数 伸び率 人口密度 面積 (平方㎞)

昭和34年 8,369 1,232.5 6.8

昭和35年 16,259 7,890 94.3 2,437.6 6.7 昭和36年 21,464 5,205 32.0 3,218.0 6.7 昭和37年 23,424 1,960 9.1 3,511.8 6.7 昭和38年 26,729 3,305 14.1 4,007.3 6.7 昭和39年 30,137 3,408 12.8 4,518.3 6.7 昭和40年 33,757 3,620 12.0 5,061.0 6.7 昭和41年 36,594 2,837 8.4 5,486.4 6.7 昭和42年 39,744 3,150 8.6 5,958.6 6.7 昭和43年 43,380 3,636 9.1 6,503.7 6.7 昭和44年 47,192 3,812 8.8 7,075.3 6.7 昭和45年 51,747 4,555 9.7 7,758.2 6.7 資料の出所:上福岡市史 資料編 「現代」 平成12年3月

単位:人口・増加数:人 伸び率:% 人口密度:人口/平方㎞

(注) 昭和34年の面積とその後の面積が異なるが, 資料のデータ通りである。 (同上資料p.7及びp.250〜

251) なお, 平成13年10月の国土交通国土地理院の調査では, 6.81平方㎞となっている。

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では, 昭和60年の推計人口を83,000人 (平成14年1月現在55,080人である) としている。 当時 の福岡町民の二人に一人が, いわゆる 「新住民」 である。 当然住民構成の変化は, 町の産業構 造や住民意識にも変化をもたらすことになる。 次に産業構造の変化を見てみよう。

団地入居が始まった昭和35年を境に, 第2次産業, 第3次産業の構成比が, 急速に高まり, 第1次産業は, 平成3年以降, 従事する人がいない。 地勢的, 歴史的に見ても既述したように, 農業を有力な経済的基盤にしてきた上福岡地域は, 第2次産業と第3次産業を基盤とした地域 経済に移行したといえる。 特に第3次産業従事者の増加は, 東上線を利用した東京方面に勤務 する住民が増えてきたことを示している。 朝日新聞 「民力2002」 では, 昼夜間人口の割合が, 72.6%になっており, 単純計算では人口の30%近くが昼間他の地域にいるということになる。

平成14年の人口が約55,000人であるから, 約16,500人が, 上福岡地域以外にいることになる。

次に上福岡地域の財政状況を見てみよう。 団地建設による急激な人口増加は, 行政需要の拡 大となって現れた。 1972年 (昭和47年) 福岡町は, 上福岡市となったが, 特に1973年 (昭和48 年) の石油危機以来, 日本経済は低成長期に入り, 上福岡市においても税収の落ち込みによる 歳入不足の状態になった。 急激な人口増加によって, 学校建設, 下水道の整備が急務となった のである。 この歳入不足を補うために市債を発行し, それが増大したのが主たる原因と考えら れた。 昭和50年に入っても事態は好転せず, 深刻な財政状態が続いた。 昭和50年の市広報160 号では, 一般会計予算総額に対して収入見込みが, 億単位の額で不足すると報じている。 更に 同広報は, 経常収支比率で財政状態を診断しているが, 通常70%以下が正常と評価されている のに対して, 77%に達していると報じている。 この経常収支比率とは, 基準財政需要額から支 出される人件費, 物件費などの義務的経費の割合を示すものである。 このことは, 市が新たな 事業を興す余力を失いつつあることを示している。 したがって増大する行政需要に追いつけな いのである。 平成時代になって財政構造がどのように変化したか見てみよう。

上福岡地域産業構造の変化

年 度 就業者数 第一次産業 構成比 第二次産業 構成比 第三次産業 構成比

昭和30年 3,185 968 30.4 749 23.5 1,468 46.1 昭和35年 7,279 830 11.4 2,675 36.7 3,774 51.8 昭和40年 14,458 693 4.8 5,922 41.0 7,843 54.2 昭和61年 15,181 15 0.1 5,590 36.8 9,576 63.1 平成3年 17,392 0 0.0 6,472 37.2 10,920 62.8 平成8年 18,218 0 0.0 6,735 37.0 11,483 63.0 資料の出所:上福岡市史 「現代」 p.250, 埼玉県提供 「データランド」

単位:構成比は, %, その他は全て 「人」

(注) 昭和40年までは, 市史, 昭和61年から平成8年までは 「データランド」 から加工再計算

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表からも依然として歳入不足を市債で賄う状態が見える。 平成14年度県市町村課が, 算出し た上福岡市の財政力指数は, 0.695となっている。 この数値は高いほど自治体の財政に余裕が あると解されるが, 因みに埼玉県の平均値は, 0.657, 市の平均値は, 0.798, 町村の平均値は, 0.54である。 埼玉県でこの数値が高い自治体は, 戸田市が, 1.195, 和光市が, 1.031である。

一方朝日新聞 「2002民力」 では, 全国の所得平均を100とした場合, 上福岡市は106となってい るので, 全国平均よりはやや所得が高いという事が出来る。

これまで上福岡地域の経済的基盤について述べてきた。 ここで明らかになったのは, 地縁, 血縁のつながりが強かった地域社会が, 戦後の国有地の跡地利用によって, 急激な人口増加が 起こり, 急速な都市化を余儀なくされたこと。 急激な人口増加は, 旧来の地域社会に大きな影 響を与えると同時に, 産業構造も第2次産業へと, そして第3次産業従事者を中核とする地域 へと変貌を遂げた。 このように住民の構成も産業構造も激変する中で, 市は, 新たな行政需要 への対応を余儀なくされている。 上福岡市は, 市史にもあるように 「多様化する要求, 行動す る市民」 が, 行政を動かし, 地域を育てる市でもある。 したがって住民の政治意識も高いとい えよう。

上福岡市の財政状況

年 度 歳入総額 市 税 地方交付税 国庫支出金 県支出金 市 債 そ の 他

平成8年 15,535,747 7,780,548 2,037,466 1,029,622 467,871 1,054,300 3,165,940 平成9年 15,288,777 8,137,527 2,172,715 829,412 487,503 371,200 3,290,420 平成10年 15,354,837 7,741,127 2,423,486 1,302,845 455,431 837,500 2,594,448 平成11年 15,525,471 6,945,312 2,300,000 1,335,671 519,403 984,800 3,440,285

資料の出所:何れも県市町村課の公表データ 単位:千円

参照

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