一 631 一
東医大誌49(5):631,1991
科学技術の進歩と人間生活
国立精神・神経センター名誉総長
島 薗 安 雄
ヨーロッパ旅行で最も印象に残るのは,古い,そして膨大な数の芸術作品である.500年も前の レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロの力強くて美しい作品など,時代を越え,国境を越えて 人の心をうつ絵画や彫刻が至るところに飾られている.このようなものに接すると,一体,芸術は 進歩しているのだろうかという気さえして来る.
これにくらべて科学の方は確かに前進しているようである.医学の領域にも目ざましい進歩があ り,今日,還暦や古稀を迎えたといっても誰も驚かなくなったのは,その成果の一つといえる.し かし長生きも,必ずしもめでたいとばかり言っていられない面があり,大きな社会問題となってい
ることは衆知のとおりである.
近年の高度な科学技術の発達にはいくつかの特徴がある.その一つは機器類やそれらを組み合わ せたシステムの「自動化」が著しく進んだことである.医療や研究の領域でも,デーータの解析,統 計処理,画像化や文献検索などが自動的に能率よく行われ,今日では,これらはなくてはならぬも のとなっている.高度技術の「大衆化」も重要な特徴で,これを応用したいろいろな機器がわれわ れの日常生活の中にくりこまれて来ている.一方では,システムの「巨大化」が進み,また情報伝 達の「高速化」もめざましい.
最近急速にひろまっているファクシミリも,例えば国際学会の準備などでは欠くことができない ものになった.しかしこれは短い時間内の交流を前提とすることが多く,そのために「ゆっくり二 三日考えて」というような対応がしにくい.その意味では個人の生活時間の中にとびこんで来て撹 乱されるという面があり,生活や心のゆとりが失われる心配がある.
この例からもわかるように,科学技術の進歩は,多くのプラスをもたらした代りに,マイナスの 面も伴っている.科学技術はそれ自体の枠の中で休みなく新境地を切りひらいて行く習性を持って おり,それが人間生活や自然環境にいろいろな影響を及ぼして来ているのが実状である.このよう な科学の功罪について十分な洞察を持ち,広い見地から適切に対処して行くことが,今後ますます 必要になると思われる.
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