L 恐慌期の労作教育と作業科
一現代普通学校技術教育史研究1一
永島 利明*
(1983年9月30日受理)
Labor Education in Elementary School and Working in Middle School for Boy:1925−1937
Toshiaki NAGAsHIMA
(Received September 30,1983)
L
̀bstract
The thought of labor education after the First World War was introduced in Japan. But, many teachers except the classes coming a large amount of land一
owner could not teach agriculture, so they had to put a burden on the expence ofteaching and workshop. School finance was cut down by local goverment for the panic. The Education Politics Council in 1929 answered two things to the Minister of Education. In the first place, middle school boys were devided into the first cource which they wished to find employment and the second one that they did to enter the high school since 1931. As a result,25%of pupils select一 ed the former,75%of them did the latter in 1935. This numbers indicated that もhe Ministry of Education did not accomplish their purpose, so they expected
m ≠獅凵f垂浮垂奄撃刀@who wanted to engage in business to choose the first cource. Second一
1y, working that contained gardening and handwork started as a compulsory subject in 1931. The aim of working was to control socialism and work hard.
This lesson was allowed to put off till 1936,.so there were few teacher who taught handwork and middle school were short of facilities such as workshop.
Working was turned into labor service for the Japanese−chinese War since 1932.
恐慌と労作教育の実際
脚
謔P次世界大戦はわが国にかつてない好況をもたらしたが,1919(大正8)年3月15日の株価が 頂点に達したのを境に,下降に転じた6その頃より山梨,福島,栃木茨城,秋田の諸県下では教
*茨城大学教育学部技術科研究室 Department of Technology, Faculty of Education, Ibaraki Univer一
sity.
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員給与の不払が生じていた。教員が手形をもらって日用品を購入したり,教員自らが徴税者となっ て,部落をまわり集めた金を給料のかわりにとるということが起きていた。1)
1929年7月には民政党の浜ロ内閣が組織されたが,ただちに,1930年度の道府県および市町村の 予算を前年度の1割5分減とすることを指示した。町村は予算の切りつめの対象として,予算の半 分をしめる教育費の減額をした。同年の秋にはニューヨーク・ウォール街の株価が大暴落し,大恐 慌の発端となった。1930年になると,師範学校卒業生の初任給が切り下げられたばかりではなく,
教員の減俸,解雇,学校経費の削減が全国的に行われるようになった。
師範学校入学生徒数は義務教育が8年制に延長されるという予想のもとに,1919年よりすでに約 3000人増加されていたが,卒業しても就職できないものも出てきた。その余波は農業教員養成機 関にもおよんだ。例えば,青森県では1931年に1年制の実業教員養成所を開設したが,第1回の卒 業生を完全に就職させることができなかった。そこで第2回生は養成期間を1年延長して2年制と
した。その理由は1年間では養成期間が短かすぎるということであったが,農業の教員が欲しいと いう要望があっても,町村は給与を支払うことができないという現実にせまられてとられた措置で
あった。2)
この時期にはドイッを中心に起きた労作教育思想がわが国にさかんに紹介された。この立場では 古い学校を学習あるいは知識学校と呼び,その受動的学習・主知的教育に反対して,労作に立つ能 動的学習・主意的教育を主張し実践した。学派によって差異はあるが,常にどの場合にも児童の自 発活動を尊び,また必要な場合には手工や生産などの労働を重んじるという特徴があった。わが国 では北沢種一によって紹介され,東京女子高等師範学校附属小学校で全面的に実施された。3)
この労作教育の実践には,清掃美化などの特別教育活動的労作,修身・国語・国史・地理・算数・
理科・体操・習字・図画などの教科に労作をとりいれる教科的労作,工作・裁縫・農業・商業・水 産等に労作をとりいれる生産的労作があったが,これまで筆者が研究対象としてきた労働をともな う生産的労作はきわめて少数であったようである。教育雑誌に掲載された実践はほぼ皆無に近い。
限られた実例のなかから,学校労働教育の衰退した理由を考えてみたい。
大恐慌によって多くの失業者が出たが,日本の労働者の半数は繊維産業を中心とする女子労働者 で,農家の出身で家計補助のための賃金稼ぎであり,男子の場合にもやはり農家の二,三男の出稼 ぎという傾向が強かった。政府は失業者を帰農させることで,解決しようとし,真剣な対策を考え なかった。しかし,農村でも恐慌は進んでいた。1935年5月には1100円していた生糸相場は9月 には前年同月の3分の1になっていた。10月になり米が豊作であることがわかると,米価は暴落し た。30年8月には30円53銭から31年1月には17円65銭へと42%も下落したのである。4)「豊作ききん」
ということばが流行した。翌年には東北地方が大凶作におそわれて,むすめを売る農家もあった。
また,小作料の引き下げを要求する小作争議が各地におこった。
このとき政府は「農山漁村自力更生運動」を起した。指定村を中心に産業組合組織を通じて,経 済更生をはからせた。村の有力者をリーダーとして部落組織を利用し,勤倹力行をすすめたが,そ れとともに,全村教育を考え,農民道場を設けて青年の訓練を強化した。福島県錦小学校ではこの 運動の一環として農業教育が行われた。
錦小学校の労作教育は家畜の管理を修得させるとともに,勤労愛好の精神を養い,農村の畜産指
導を充分考慮して,教育的生産をすることであった。その設備は膨大であたかも畜産試験場のよう
な感があったという。5)校舎の中庭には10数箱のみつ蜂があり,更に進むと色とりどりの兎が200 羽以上も飼育されていた。これらの家畜は標準優良品種で希望者には払下げた。さらに,あひるの 飼育,養豚養魚,山羊,ノ」鳴,温室,農場,その他の飼育栽培がめまぐるしい程であった。しか し・これらの設備に対して学校予算は少しも計上されなかった。経営設備費は担当教員の個人負担 で資金のでどころに苦慮した。養豚養兎担当者は給料の大部分を設備費に投入し,自己所有の山 林を伐採して畜舎を建設した事例もあった。
公費負担で行われるべき教育が,再び1886(明治19)年の小学校令の実施によって手工・農業な どが実践されたときと同じような状態にもどってしまった。しかも,教育費が教員の自己負担とな っているので,当時よりわるい環境になってしまったわけである。自分の給与を授業につぎこむご とのできる教員は限られていた。つまり給与に依存しないで生活できるだけの収入がなければ,こ うした実践は不可能である。こうした事例にみられる教員は,当時の農村としては,地主の出身者 に限られていた。そうした教員にとっては教職はむしろ副業であった。サラリーマンでしかも財産 のないものには不可能であった。このようた実践はほかにあったかもしれないが一般性がなかった ので,雑誌には掲載されなかったのであろう。
教育費がないために,秋田県教育会は「実業科実習ノ自給自足的経営」,「学用品ハ出来ル限リ廃 物利用ヲ奨励スルコト」,「裁縫手芸及手工材料ノ節約ヲ図ルコト」を提唱している。同県河辺郡 三内小学校では実習地より収穫した米,野菜より61円,また,季節的勤労作業(春のわらび狩,秋 の栗拾と山芋堀)で94円を得ていた。これらの資金は児童文庫費,肥料費,体育奨励費,修学旅行 費,児童弔慰金,義援金等に支出された。そのほかに学校役場の薪運び(人夫賃35円分に相当を節 約),教師の力による村費の節約(学校の修善,備品費の節約),小使による村費の節約(冬ストー ブたきつけ炭の節約,配給薪数の節約)などで毎年400〜500円の節約をしていた。それは村の 校舎の維持費や教材費の約1割をしめていた。6)
軍部は不況から国民の目をそらすため,満州事変を起した。1931年9月18日奉天郊外の柳条溝で 満鉄の線路が爆破された。鉄道にはほとんど損害がなかったにもかかわらず,この事件を口実とし て,中国に対する侵略を開始した。そのねらいは中国の革命運動が満州や朝鮮におよぶことを防ぎ 満州を対ツ軍事基地として確保することにあった。そうすることによって,大恐慌のなかで生じて いた失業や社会運動から国民を遠ざけて,満州を植民地として独占し,戦争経済に不況脱出の活路 を求めようとしたのであった。この事変は教員の耳目をそらすことには成功した。秋田県教育会は 事変前の31年2月には教育費や給与未払についての陳情はあったのに,翌年の春にはなくなってし まった。いわゆる時局多端の折に,教員のみが苦しいわけではない。教育当局のために遠慮せざる を得ないというのであった。7)しかし,満州事変による戦時経済では不況から脱出することはでき なかった。
1934年から翌年にかけて東北地方は米の凶作にみまわれた。このことは教師と子どもを苦しみのど
ん底におとしいれた。満州事変以前には校費の節約のために労働したのであったから,まだ,余裕
があったといえる。しかし,凶作になると,農家ですら,飯米を外から買わなければならなくなっ
た。食べ物がなく,弁当のない子どもが増えてきたので,給食が行われるようになった。学校の農
園より収穫されたものは,給食にまわされた。そのため,農場実習の徹底が主張された。それは教
育のための学習労働ではなく,生存のための労働であった。8)子どもは「文句をいわず働け」とい
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われ,子どもは労働の喜びと意義を見出すことはできなかった。収穫物は彼等のものとならず,救貧 用となったり,ほかのことに利用されてしまった。労働を忌避するようになり,畑のものは盗み食
9)いされた。
文政審議会と中等教育改善諮問
初等教育においては,教師への給与の不払,児童の欠食などで,特殊な例を除けば,労働教育の 実践は不在であった。不況の深刻化にともない教員や学生は社会科学を学習して,資本主義社会の 矛盾を克服することができると考えるようになった。このことは支配階級にとっては脅威であった。
文部省は1926年に学生の社会科学研究を禁止した。また,1928年には日本共産党の全国的な検挙が 行われ,これに関連して京大河上肇,東大大森義太郎,九大石浜知行・向坂逸郎らが辞職した。世 間の耳目はこうした学生を生み出した中等教育に注がれた。この不況期は作業科が成立したことに
よって,現在からも最も注目される時期である。
1928年1月,水野錬太郎文相は中学校の予備校化を改め,その実際化,地方化をはかろうと中学 校教育調査委員会を組織した。文部次官赤司鷹一郎を委員長として15名の委員を任命した。同委員 会は9月までに審義を重ねて,11項目の決議をしたが,つぎのものがもっとも注目された。第3学 年以上を第一部,第二部に分ち,自由研究の為に毎週教授時教以外に2時間を置き,第1部では農 商工業の内必ず一科目を選択すること。 「高等小学第2年ヨリ連結スベキ修業年限三年ノ場合二於
ケル学科課程」,「夜間中学校ハ之ヲ認ムルコト」などである。
この改正案にはいろいろな批判があったが,中学校を2部に分けるときは,第一部(実業)に入 るものは劣等視され,第二部(上級進学)を志望するものが多いという意見があった。学校を就職 組と進学組に分けることはそれ以後何度か試みられたが,差別と選別に利用されて結局は失敗して いる。3年制の中学校は不評で実業学校を増設すべきであるという意見が強かった。夜間中学校の 認可は異議はなかったが,修業年限を5年とするか,6年とするか,意見が分れた。
文部省は調査委員会の報告をもとにして中等教育改善案を作成し,これを1928年9月下旬に文政 審議会に諮問した。この審議会は1924年4月15日に設置された。内閣総理大臣の監督に属し,その 諮問に応じて,「国民精神ノ作興,教育ノ方針其ノ他文政二関スル重要ノ事項」を調査審議すべき
ものとされた。大正末期から昭和初期にかけての重要案件を審議した。例えば,青年学校制度の実 現などがある。1935年12月29日に廃止された。
文部省は中学校調査委員会の報告を基礎として中薯教育改善案を作成して,1928年9月下旬にこ れを文政審議会に諮問した。その内容のなかでおもに学校労働教育に関連したものについてのべれ ば,つぎの通りである。第3学年では,第一種(就職組)と第二種(進学組)に編成する。 「学科 ノ内容ヲ改善スルコト」では,「特二国民精神ノ酒養二力ムルヲ旨トシ修身,国語漢文,歴史,地 理等ノ内容ヲ改ムルコト」,「実際生活二有力ナル知能ヲ養ヒ且勤労ヲ愛好スル為作業科ヲ新設シ,
理科実業等ノ教授内容ヲ改ムルコト」,また,従来の法制経済を廃止して,公民科を設けることであ った。これらは1923年の「国民精神作興二関スル詔書」をもとにして,「思想善導」と「精神作興」
を教育の基本方針として作成されたのであった。つぎに文政審議会において,第一種と第二種がど
のように議論されたかをみよう。
文政審議会における第一種と第二種の検討
文部省はどうして第一種と等二種を分けることにしたのか。そのねらいはどこにあるだろうか。
それは第1に,就職難の解消をめざしたことであった。当時の旧制中学生は今日の中学生と同様に 旧制高校,大学と上級学校への進学をめざしていた。ところが1929年前後は大学や専門学校の卒業 生が就職難におちいっていた。一方,高校や大学の増設はできないので,進学をあきらめさせて,
就職の促進をはかろうとしたのである。栗屋文部次官は,高等教育機関の卒業生の失業を指摘して,
「高等遊民ガ沢山出来ルト云フ状況デアルノデアリマシテ(中略),此学校ヲ増設スル,殊二高等学 校,大学ナドト云フモノヲ大イニ増設致シマシテニ倍ニスルト云フヤウナコトハ是ハ絶対二出来ナ
イコトハ疑ヒナカラウト思ヒマス。左様二考ヘテ参リマスルト,現在ノ学科課程ハ其ノママデ社会 二出テイクコトニナリマシテハ……非常二不便ヲ感ジテ居ル」とのべていることからも明かであろ
う。12)
第2には,実業科の不振を第一種(就職組)に必修にすることによって充実しようとしたことで ある。1908年に小松原英太郎は中学校の必修課目に実業を加えることを高等教育会議に諮問したが,
認められず,随意科とすることに修正可決された。この答申により1911年に中学校令施行規則が改 正された。中学校の教科として実業(農業,商業または手工)が加えられた。第4,第5学年にお のおの2時間であったが,「当分ノ内之ヲ欠クコトヲ得」という但し書があり,不振であった。
1928年の文部省調査によると,中学校555校中29校しか実旋していなかった。実施率は52%に しかすぎなかったことがわかる。13)不況の進行によって,文部省はこの実施率に危機感をもったの である。
文政審議会のなかでは,この第一種,第二種をもうけることにはどのような意見が出されたので あろうか。まず,賛成意見としては鎌田栄吉は,中学を2〜3年で中退する人もいるので,中退者 にも,「実務上ノ知識」をもつ必要があるとして,文部省の提案を支持した。福原錬二郎は画一打破,
地方の状況から鎌田説に賛成した。14)鎌田は元文相として,福原は元文部次官として賛成の立場を とるのは,当然かもしれない。井上孝哉は失業が思想を悪化させる。「実業二幾ラカデモ覚エノァ ル者ハ就職口が得易イ」とのべている。西村房太郎(千葉中学校長)は希望者が多く,「穏倹確実 ナ気風ヲ養成致シマス,又勤倹実行ノ美風ヲ養成スルコトガ出来ル」。また,経費も1ケ年4円以 15)
烽ナ少なくてすむので,実施すべきである,と語っている。
反対論を発言したのは,元文部次官田所美治であった。田所は中学校で実業的な教育をするより 16)
焉Cそういう人がいたならば,「実業学校へ転学サス」方がよいと主張した。 普通教育では技術
や労働の教育をすべきでないという考えであった。数学者の藤沢利喜太郎は教育の画一打破が政友
会の主張であるとしても,「一種二種卜云フーッ学校二於テ中デ区別ヲスルト云フコトガ中学ノ学生
ノ心理状態ト調和スルヤ否ヤ……」17)として,中学生が高校に進学しないのは,門戸が解放されて
おらず,やむをえず進学を断念している。進学組が就職組より優先されてしまい,後者が差別
されることを懸念していた。団体では帝国農会や商工会議所が第一種,第二種に分けることに賛成
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し,中学校長会が反対であった。埆
鵜沢総明は勤労教育は学校でするよりも家庭でするのがよいと主張し,19)また,失業問題は社会 問題であって教育とは関係ないと発言したようである。(鵜沢の発言の途中で速記が中止されてい るが,これは異例である。ほかの委員がその発言を要約している)。文部省は反対意見が非常に強 かったが,中学校長会が4年より分離するという意見が多いというように変化してくると,それで 妥協しようとした。
1929年4月22日,それまで反対であった藤沢禾1∫喜太郎は,「当局ノ顔ヲ立テル」と前置して,「当局 者ノ最モ能ク熟慮サレタル所ノ御考ヲ考慮シ,四年カラデモー種二種ヲ分ケルコトヲシタラドウカ
ト云フ余程極端二譲歩シタ積リデアリマス」と発言している。21)この発言によって,第一種,第二 種は4年以上で編成することに確定したのである。実業は第一種課程では必修となった。答申では つぎのようにのべている。
「抑モ中学校二於テ実業ヲ課スルハ,普通教育ノー事項トシテ,実業二関スル常識ヲ養ヒ,実際 生活ヲ理解セシメ,職業ノ尊重スベキ所以ヲ会得セシムルト共二,勤勉力行ノ気風ヲ養フコト
ヲ旨トシ,実業学校二於ケルガ如ク,実業ヲ専門的二授クルノ趣旨ニアラザルモ,将来実務二 就カントスル者ノ為ニハ,極メテ適切有用ナル修養タルヲ失ハズ,中学校卒業ノ後社会ノ実務 二就ク者年卜共二多キヲ加フルノ傾向アルニ顧ミ,中学校二実業ヲ必修セシムル課程ヲ設クル ハ,洵二適切ナル施設ナレバ,其ノ運用宜シキヲ得ンコトヲ希望ス」。22)
第一種,第二種のように,就職組と進学組をわけたことは,就職組が劣等生とみなされる風潮の なかでは,実施が困難であった。その結果が文部省の期待に反していたのは,当然であろう,実施 の初年度の卒業生の出た1935年度には第一種を選択した生徒は29β12名(24β3%),第二種を選択
した生徒は90,148名(7547%)であった。23)進学組が圧倒的に多いことは明かである。一一方,同 年の高校進学志願者数は28994名,入学者は3,993名であった。ほぼ高校進学希望者と同じ数の
ものしか就職組を選択しなかったのである。
「頭を使うものは治め,身体を使うものは治められる」という儒教的な労働観が完全に克服され ていなかった当時(現在も克服されているとはいえないが),進学組と就職組の分離が失敗したの はあまりにも当然であった。このことは勤労の軽視の誤りを正すというよりも,教師・父母・生徒 の3者に差別的な先入観を与えていたのであった。
作 業 科
作業科は「実際生活二有力ナル知能ヲ養ヒ且勤労ヲ愛好スルノ精神」を養うために新設された。
文政審議会の委員の間ではこの新設には反対はあまりなく,文部省の原案通りに答申された。作業 科のモデルはどこにあったのであろうか。文部省はこの新設にあたって浅野綜合中学校の実践を参 考にしたようである。この学校は1920年,当時セメント王といわれた浅野総一郎によって創設され た。浅野は自分の事業地である鶴見を見わたすことのできる高台に財団法人として100万円を支出
してこの学校を設立した。
その設置理念はアメリカ鉄鋼会社社長エルバー・ト・ゲーリーの提唱したゲーリー・システムに準
拠したものであった。労働,遊戯,勉強の3項目を重視して,読書・数学・理科を教えるだけでは なく,学校内に工場を置き,木工・機械・鍛冶・電気等を学ばせ,また,通俗な商業徒弟としての 商業も教えていた。25)さらに,プールや広い運動場を作って,学校を最も楽しむべき所,最も愉快 な所としようとした。26)速記録によれば,浅野綜合中学はつぎのような教育課程をもっていた 7)
一年 校友会の仕事として,果樹,野菜。
二年 木工(煙草盆,書棚,机,椅子,テーブル)。金工(旋盤,ミーリング)。
五年 商業(珠算,簿記),図画,機械製図。
綜合中学の名称が示すように,ここにはアメリカの高校の3原則であった男女共学,小学区制,
総合制のうちのひとつである総合制的な発想があった。総合制は普通課程と職業課程が併置され,
生徒はいずれの課程の教科を選択できるというシステムであった。作業科が充実して,旧制中学に 技術と労働の教科が定着すれば,現在の高校は技術や労働の教育ぬきということにはならなかった であろう。しかし,そうならなかったところに問題があった。
作業科は園芸か工作か,あるいは両方を課してもよいということになっていたが,あまり費用の かからない農業の作業が課されることが多かった。文政審議会では,江木総裁が文部省の役人が広 島県の新圧中学を視察して,農業を置く費用がかかるのではないかと質問したところ校長が「農業 ヲ置ケバ費用ハ入ッテ来ルカラソノ費用ノコトハ心配シテハ居ラヌ」と話したことを紹介している ように,審議の段階から,安上りの作業科をめざしていたのである。28)
こうして開設された作業科は1931年から5年間の猶予期間が与えられていた。それは施設設備が 不十分なこと,作業科を担当する教員が養成されていなかったからである。ところが1931年からは
じまった中国への侵略戦争は巨大な軍事費を必要とし,教育予算が削減された。作業科および実業科 の設備備品に対して,国庫より93万円を支出し,設備費の約2分の1の補助金を交付することにし,
猶予期間の5ケ年間に分割して支出する予定であった。1933年度までは当初の計画通り行われたが,
その後は,1934年は8万円,さらに1935年には5万円に削減された。このような状況のなかでは費 用を少ししか必要としない分野の作業しか実施できなかった。29)
1932年,文部省は省令第16号によって,「農業・工業・手工,教員免許状ハ当分ノ内作業科ノ教員 免許状ト同一ノ効力ヲ有ス」と定めた。また,その翌年から検定制度を実施して,教員の充実をは かった。作業科の免許状を出すところは東京高等師範学校以外になく,教員の需要に応じられなか
った。文部省は最初は工作の実習を中心とした講習会に力をいれていた。しかし,戦争の拡大によ って,特に農村の労働力が不足すると,中学生を農村の勤労奉仕にふりむけるようになった。1938 年になると,作業科の講習会は「集団勤労作業奉仕事業徹底」を目的とするものに変っていった。
やがて,太平洋戦争の開始によって,勤労奉仕は拡大され,中学生は農村や工場へ全面的に狩り出 されていくようになった。
今 後 の 課 題
作業科は日本の後期中等教育に必修というかたちで技術と労働の教育を導入した。それは思想善
導と勤労主義をねらいとしていたが,戦争の拡大による予算の縮少がなく,勤労奉仕に変質される
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ことがなければ,科学の体系を柱とした技術教育に再編成できる可能性を内包していた。しかし,
その可能性を侵略戦争はうばってしまった。作業科の問題は1982年より普通高校で実施されている 勤労体験学習との関連で検討する必要があるであろう。
なお,小学校における労作教育についていえば,もっとも不況と不作の影響をうけた東北地方に ついてはみることができたが,そのほかの地方については研究することができなかった。それにつ いては,将来の研究の課題としたい。
注
1)石戸谷哲夫,r日本教員史研究』,(講二談社,1958年), pp.421−424.
2)青森県,r青森県教育史』第2巻記述編2,(青森県,1974年), p.116.
3)日本近代教育史事典編集委員会,r日本近代教育史辞典』,(平凡社,1971年), p.273.
4)遠山茂樹・今井清一。藤原彰,r昭和史』,(岩波新書,1959年)p.163.
5)福島県公立学校退職校長会,r明治100年福島県教育回顧録』,(同会発行,1969年)p.197.
6)戸田金一,r秋田県教育史』北方教育篇,(みしま書房,1979年)pp.254−258.
7)同上,P.266.
8)同上,P,270.
9)同上,P.302.
10)桜井役,『中学教育史稿』,(受験研究社増進堂,1942年),pp.568−569.
11)3),p.15,同上, pp.479−480.
12)『文政審議会特別委員会小委員会速記録(一)』,昭和4年1月21日(原文に頁数がない。以下同様である)。
13)r文政審議会特別委員会速記録(一)』,昭和3年10月12日中の武部普通学務局長の談話による.
14)『文政審議会特別委員会速記録(十三)』,昭和4年5月2日.
15)『同上(十四)』,昭和4年5月6日.
16)『同上(十)』,昭和4年1月18日.
17)『同上(六)』,昭和3年12月14日.
18)前掲,17).
19)前掲,14).
20)前掲,15).
21)r文政審議会特別委員会速記録(十二)』,昭和4年4月22日.
22)桜井,前掲p,577.
23)同上.
24)帝国文部省年報第六四年報上巻,(1943年)p,153.
25)北林惣吉,r浅野総一一郎伝』,(千倉書房,1930年), p.304.
26)浅野泰次郎,『浅野総一郎』,(浅野文庫,1925年),p.581.
27)前掲,13)。速記録には浅野商工中学とあるが,浅野綜合中学の誤りである。このほか千葉県立大滝中学
の名があるが,大多喜中学が正しい.
28)前掲,16).