一、はじめに
「 島 」 が 海 没 し た と い う 伝 承 が 各 地 に 見 ら れ 、 海 没 の 理 由 を 語 る 伝 説 を 伴 う 地 も あ る 。 柳 田 國 男 も 「 高 麗 島 の 傳 説 」 で 取 り 上 げ て い る が〔 柳 田 一 九 六 九 年 〕、 伝 説 の 内 容 は 概 ね「 神 信 深 い 老 嫗・ 老 父・ 島 民 が、 島 で 祀 る 神(地蔵・蛭子など)の顔が赤くなるとき、島が海没するとのお告げあるいは言い伝えを信じ、毎日、神の顔を 確 認 し て い た が 、 神 信 の な い 若 者 あ る い は 盗 賊 が 顔 を 赤 く 塗 っ て し ま う こ と で 、 島 が 海 没 す る 」 と い う も の で あ る。これ ら の 伝 説 の モ チ ー フ が ほ と ん ど 同 じ で あ り 、 こ の よ う な 伝 説 を 持 つ 島 は 、 管 見 の 限 り 、 高 麗 島 ( 長 崎 )・ 対 馬 ( 長 崎 )・ 万 里 が 島( 鹿 児 島 )・ 瓜 生 島( 大 分 )・ お 亀 磯( 徳 島 ) で、 九 州・ 四 国 に 遍 在 す る。 筆 者 は す で に 、 こ れ ら の 伝 説 の 構 成 と 成 立 に つ い て 論 考 し〔 林 二 〇 一 三 a 〕、 さ ら に「 災 害 伝 承 」 と し て の 意 味 に つ い て も 検 討 を 加 え て い る〔 林 二 〇 一 三 c 〕。 そ の 中 で、 伝 説 が 必 ず し も 災 害 の 史 実 と し て だ け で は な く、 心 意 的「事実」としても語られている可能性を指摘している。その心意的「事実」の一つが移民伝承であり、 「移民」 の 正 当 性 を 裏 付 け る た め に 伝 説 が 用 い ら れ た と い う も の で あ る 〔 林 二 〇 一 三 b 〕。 ま た 、 も う 一 つ の 心 意 的 「事実」は「神威」を強調するものであるとしたが、指摘するにとどまったままである。右で紹介した伝説では、 「島」の海没伝承における「神」の意味 ―高知県「戸島」 ・京都府「冠島」の海没伝承を中心に―
林 英一
一「島」の海没伝承における「神」の意味
島の海没の予言者として「神」が大きな役割を果たしている。そのため、海没する「島」と「神」との密接な関 係性を捉えることができる。 一 方 、 高 知 県 須 崎 市 に あ る 「 戸 島 ( へ し ま )」 も 海 没 伝 承 を 持 つ が 、 右 の よ う な モ チ ー フ で は な い 。 し か し 「神」と「島」の海没の関係がより鮮明に語られている。 「戸島」の海没伝承に関しては、江戸時代から明治時代 にかけての資料にみられ、 「島」の海没が、 「神」との関係の中で、どのように語られたのかがよくわかるものと なっているだけではなく、時代により伝承が変化していることがわかる。 本論ではまず「戸島」の海没伝承の変化を捉え、京都府の「冠島」などの伝説・伝承、さらには右であげた伝 説を持つ徳島県の「お亀磯」の場の認識を通して、 「島」の海没と、 「神」との関係やその意味について検討する ものである。なお、本論では伝承と伝説を区別して扱っている。伝承とは「事実」とされる話しをそのまま伝え た も の、 伝 説 と は「 事 実 」 に 物 語 性 を 加 え た も の と 捉 え て い る こ と を こ と わ っ て お く。 た だ し、 「 戸 島 」 の 伝 承 については、どちらとも言い難い面がある。
二、 「戸島」の伝承・伝説
「戸島」は高知県須崎市の沖にある。江戸時代に編集された『土州淵岳志』 『土州名勝記』 『南路志』 、明治初期 に編集された『皆山集』にその記録がみられる。 (一) 『土州淵岳志』 『土州淵岳志』 (以下『淵岳志』 )は渡邊哲哉の「解説」によると、 「編者の植木挙因(一六九八―一七七四)は 京 都 で 玉 木 葦 斎 に 学 ん だ 儒 者 」 で あ り 、「 本 資 料 の 成 立 時 期 に つ い て は 不 詳 で あ る が 、 下 巻 の 「 興 雲 寺 鰐 口 」 の
マテシス・ウニウェルサリス 第十七巻 第一号二項「 ( 文 明 ) 六 年 甲 午 ヨ リ 延 享 四 年 丁 卯 迄 二 百 七 十 四 年 也 」 の 記 述 か ら、 延 享 四 年( 一 七 四 七 ) 以 降 で あ る と 考 え ら れ る 。」 と す る 〔 渡 邊 二 〇 〇 六 四 七 八 〕。 植 木 挙 因 が 一 七 七 四 年 に 亡 く な っ て い る こ と を 考 え る な ら ば 、 一 七 四 七 ~ 七 四 年 の 間 に 書 か れ た と い う こ と に な る。 内 容 と し て は「 土 佐 の 国 号 の 由 来 に 始 ま り、 神 社、 歌 枕、 産物、伝承、怪異譚、陵墓、寺院など、土佐国に関する様々な事象に及び」 〔渡邊 二〇〇六 四七八〕 、記述は 詳細である。 「戸島」に関する記述は「神島」の項にある。
① 高 岡 郡 土 崎 ノ 山 ヲ、 昔 ハ 内 山 ト 申 ス 由、 イ ツ ノ 頃 カ 土 崎 ト 改 ム。 此 濱 ヲ 大 崎 ト 云 ケ ル ヲ、 今 ハ 須 崎 ト 云。 此濱ノ左右ヲ神カ小濱ト云。此湊ノ沖に神カ小島トテ、沖ノ島・中島・ヘシマト云三島アリ。皇太神心化ノ三 神オキ中ヤツヲ祟祭ル故ニ、神カ小島ト申ストカヤ。国俗カウシマトヽナヘ云フ。 〔植木 二〇〇六 一五一〕 (番号筆者)
『淵岳志』には「戸島」の海没に関する伝承・伝説についての記述はなく、 「沖の島」 「中島」 「ヘシマ」と呼ば れ る 三 つ の 島 が、 そ れ ぞ れ「 皇 太 神 心 化 ノ 三 神 オ キ 中 ヤ ツ ヲ 祟 祭 ル 」 こ と か ら「 神 カ 小 島 」、 俗 に「 カ ウ シ マ 」 と 呼 ば れ て い た と の 伝 承 だ け が 記 さ れ て い る。 現 在 は「 沖 の 島 」 は な い が、 「 中 島 」 は「 中 ノ 島 」 に、 「 ヘ シ マ 」 は「 戸 島 」 に 比 定 で き る と す る な ら ば、 「 沖 ノ 島 」 は 現 存 す る「 神 島 」 で あ ろ う か。 現 在 の「 神 島 」 は 実 際 に 三 島の中で最も沖合に位置することからも「沖ノ島」である可能性は高いといえる。ただし『淵岳志』では三島と もに「神」が祀られていることから、まとめて「神カ小島」と呼ばれていたとあり、一つの島が「神」の島とし て 認 識 さ れ て い た わ け で は な い。 な お、 「 オ キ 中 ヤ ツ ヲ 祟 祭 ル 」 と あ る が、 こ の「 ヤ ツ 」 が 何 を 示 し て い る か 不 明 で あ る。 し か し「 オ キ 」 が「 沖 ノ 島 」、 「 中 」 が「 中 島 」 で あ る と 考 え ら れ る の で、 「 ヤ ツ 」 は「 ヘ シ マ 」 の こ
三「島」の海没伝承における「神」の意味
とと推察されよう。ここで問題となるのは、この三島にそれぞれ「神」が祀られていただけではなく、それは広 く 知 ら れ、 「 神 カ 小 島 」 と 呼 ば れ て い た と い う こ と で あ る。 そ し て そ の 神 は「 皇 太 神 心 化 ノ 三 神 」 と さ れ、 伊 勢 神宮との関係によるものと考えられ、そこに宗教者の介在が考えられる。その意味では他の海没した「島」で顔 を赤く塗られる神とは性格が異なる。この三島は宗教的背景をもって神聖な「島」として認識されていたことが 推察されよう。 ところで『淵岳志』には怪異譚も多く採録されており、意図的に海没伝承を採録しなかったことは考えにくい。 すると、 『淵岳志』編集当時に、 「戸島」の海没伝承を植木は知らなかった可能性を指摘することができる。植木 が 「 知 ら な か っ た 」 こ と は 、「 伝 承 が な か っ た 」 か 、「 あ っ た が 植 木 の 耳 に は 届 か な か っ た 」 か の ど ち ら か で あ ろ う 。 後 者 で あ っ た と す れ ば 、「 戸 島 」 の 海 没 伝 承 は ご く 限 ら れ た 地 域 で 語 ら れ て い た こ と を 示 す 。 そ れ で も 「神カ小島」の伝承は広く知られ、これらの「島」が「神」の関係性の中で語られていることは認識されていた。
(二) 『土州名勝記』 渡 邊 哲 哉 は、 『 土 州 名 勝 記 』( 以 下『 名 勝 記 』) の 編 者・ 創 立 年 代 と も に 不 詳 で あ る と い う〔 渡 邊 二 〇 〇 六 四 七 八 〕。 内 容 と し て は、 安 芸 郡 か ら 幡 多 郡 ま で を 郡 ご と に 寺 社 や 古 城 な ど の 名 所 旧 跡 を 記 し、 ま た そ れ に 付 随 する歌を多く採録したものである 〔渡邊 二〇〇六 四七八〕 。その中の 「大崎」 と記された地域の項の中で 「戸 島」についての記述が見られる。
[大崎(打山をいふ) ]神小島、有磯、皆名所なり。八雲御抄、名所方角抄、万葉集なとにも出たり。①土崎 の山をむかしハ打山或いハ内山と云。又大崎といふ。湊の左右の濱を神か小濱といふ。此湊の内に神カ小島と 云、沖の島・中の島・遍島とて三ツ嶋あり。皇太神心化の三神を沖・中・遍の三嶋に祭る故に神カ小島と云。
マテシス・ウニウェルサリス 第十七巻 第一号四俗にかうしまといふ。②此三島の内、遍島というハ今はなし。古老傳て云、遍島千軒、神島千軒とて 立並び 宮 居 も か ゝ や か せ 給 ひ け る か、 神 の 御 は か ら い に や 波 風 も な き に、 此 島 俄 に 動 き 出 て 海 底 に 沈 ミ け り と、 今 も 波 静 な る 日 松 よ り 海 底 を 望 ミ 見 れ は、 人 家 の 礎 又 石 に て 畳 た る 井 の 形 な と 見 へ 侍 る と そ。 〔 著 者 不 詳 二〇〇六 二三八~二三九〕 (番号筆者)
『 名 勝 記 』 の ① の 部 分 は『 淵 岳 志 』 と 同 内 容 で あ る。 た だ し『 淵 岳 志 』 で は「 ヘ シ マ 」 と 片 仮 名 表 記 と な っ て い る も の が、 『 名 勝 記 』 で は「 遍 島 」 と 表 記 さ れ て い る。 ま た『 名 勝 記 』 に は『 淵 岳 志 』 に な い ② の 部 分 が 付 会 さ れ て い る。 ② に よ る と「 遍 島 」 は す で に な い と さ れ、 立 派 な 宮 も あ り、 「 遍 島 千 軒 」 あ る い は「 神 島 千 軒 」 と 呼 ば れ る ほ ど 賑 わ っ て い た が、 「 神 の 意 思 」 に よ っ て 沈 ん で し ま っ た と さ れ て い る。 こ れ が「 古 老 傳 」 と な っ て いることから、②は言い伝えの採録であるだけではなく、編者は実際にこの地に訪れていないことが「とそ」と の語句からわかる。つまり、この②の部分は伝聞伝承を採録したものということである。 『名勝記』の編集年代は不明であるが、①の文章の類似性から、 『名勝記』は①を採録し、さらに②を追加した と考えるのが妥当であろう。つまり『名勝記』は『淵岳志』よりも後に編集されたものであると推察される。 と こ ろ で ② の 記 述 は ど の よ う に 解 釈 可 能 で あ ろ う か 。 三 島 に 「 神 」 が 祀 ら れ て い た が 、「 遍 島 」 だ け が 「 今 は な し 」 と さ れ て い る。 こ れ は「 古 老 傳 て 云 」 と さ れ て い る が、 「 遍 島 千 軒 」 あ る い は「 神 島 千 軒 」 と 呼 ば れ る ほど栄えていた。ここで興味深いのは、 「神島千軒」とも呼ばれていたということである。このことから「遍島」 =「 神 島 」 と 考 え ら れ て い た こ と が わ か る。 『 名 勝 記 』 で は、 三 島 の 中 の「 遍 島 」 だ け が「 神 島 」 と 意 識 さ れ て いたということになる。そしてこのような「島」が「波風もなきに、此島俄に動き出て海底に沈」んだのである。 島が急に沈んだとの形になっており、そのまま受け取るならば、急な地殻変動があったことになる。そして、そ
五「島」の海没伝承における「神」の意味
の 説 明 が「 神 の 御 は か ら い 」 と さ れ て い る。 海 没 と い う 怪 異 が お き て、 「 神 」 と の 関 係 性 が 以 前 以 上 に 強 く 意 識 されたと考えられるが、三つの島は並んでいる。しかも三島ともに「皇太神」が祀られ、三島をまとめて「神か 小 島 」 と 認 識 さ れ て い た の で あ り、 「 戸 島 」 だ け が「 神 島 」 と 記 述 さ れ る こ と に は 疑 問 が 残 る。 ま た 高 麗 島 な ど 海没伝説を持つ島は、沈んだままとされているが、実際に「戸島」は現存するのである。つまり「戸島」は海没 し た が、 ま た「 島 」 と し て の 存 在 が 確 認 さ れ る。 「 戸 島 」 は 後 述 す る 資 料 に も 何 度 か 海 没 し た と 考 え ら れ る よ う な 記 事 が み ら れ る。 こ の こ と は「 戸 島 」 だ け が 地 殻 変 動 に よ っ て 沈 ん だ と い う よ り、 「 津 波 」 に よ る 一 時 的 海 没 と 考 え る の が 妥 当 で は な い か。 「 波 風 も な き に、 此 島 俄 に 動 き 出 て 」 と の 記 述 は 地 震 を 示 す こ と が 考 え ら れ る の で あ る。 す る と 他 の 二 島 も 影 響 を 受 け た は ず で あ る。 し か し「 遍 島 千 軒 」 と の 語 句 は、 「 戸 島 」 が「 神 カ 小 島 」 の一つであり、神聖な島であったとしても、他の島に比べて、人々の大きな生活拠点となっていたことを示唆す る。 だ か ら こ そ「 遍 島 千 軒 」「 神 島 千 軒 」 と 呼 ば れ て い た。 地 理 的 に 巨 大 地 震 は 南 海 ト ラ フ 地 震 で あ ろ う。 す る と 大 津 波 が あ っ た こ と も 推 察 さ れ る。 人 々 の 営 み が「 戸 島 」 を 中 心 と し て い た た め に、 「 遍 島 」 が「 神 」 と の 強 い関係性が意識され、 『名勝記』の記述に繋がったのではないか。 (三) 『南路志』 『南路志』は横山和雄が「発刊にあたって」で、 「高知城下の豪商美濃屋、武藤致和・平道父子の学門的情熱と 当 時 の 知 識 人 の 協 力 に よ っ て、 文 化 十 年( 一 八 一 三 ) に 完 成 し た 土 佐 一 国 の 歴 史・ 地 理 書 の 白 眉 」 と 述 べ、 致 和 の「 心 中 は、 「 南 海 道 の 六 つ の 国 の 故 事 を 探 」 り た い と い う 遠 大 な 企 画 が 秘 め ら れ て い た 」 と い う〔 横 山 一 九 九 〇 ペ ー ジ 番 号 な し 〕。 郡・ 村 ご と に 記 さ れ、 石 高 や 人 口、 地 理・ 歴 史 が 詳 細 に 記 さ れ て い る こ と か ら も 武藤父子の思いがわかる。 「野見村」の項に「戸嶋大明神」についての記述がある。 「戸嶋 正体石 祭礼九月十 日」とあり、本文が記されている。
マテシス・ウニウェルサリス 第十七巻 第一号六
③往昔津野領の時地引網に入引上申由。其頃の御船頭高野氏へ御移被成、我ハ戸嶋大明神也。年久敷海底ニ 在、只今此網ニ入上ル。往々漁事之守ニ可成、宮を戸嶋ニ建可祭ト有。夫より祭来由。④御神体、宝永四年の 大変大浪ニ祠流失、⑤年数廿年過享保十一年八月上旬、東勢井村百姓五郎右衛門と申者夢ニ、戸嶋大明神此濱 ニ上る、我を戸嶋へ可送と夢見。翌朝濱ニ出草むらを見候処、光さし教の如く御神体に行逢、五郎右衛門其儘 乱気ニ罷成。最初夢ニ見る通の申口ニ付、類族隣家の者共否や野見浦へ告来り、直に野見浦人迎ニ参。当時弁 才天の社へ納置、其後今の処へ奉移。 〔武藤 一九九一 二三八〕 (番号筆者)
『 南 路 志 』 に 記 さ れ た 内 容 は、 『 淵 岳 志 』 や『 名 勝 記 』 と 異 な り、 「 神 」 の 示 現 を 記 述 し た も の と な っ て い る。 ① ② に 相 当 す る 記 述 が 見 ら れ ず、 い き な り「 神 」 は 石 と し て 海 底 か ら 引 き 揚 げ ら れ、 「 戸 島 」 だ け に 祀 ら れ た と されている(③) 。このことは、それ以前の津波による流出が前提となるものといえるが、 「我ハ戸嶋大明神」と 名 乗 っ て い る だ け で は な く 、「 往 々 漁 事 之 守 ニ 可 成 、 宮 を 戸 嶋 ニ 建 可 祭 ト 有 」 と あ り 、『 南 路 志 』 で は 、「 神 」 が 「 戸 島 」 に 土 着 化 し た「 神 」 と し て 登 場 す る こ と に な る。 「 神 」 の 土 着 化 が こ の 時 期 に お き た の で あ ろ う か。 神 威 発 揚 の「 戸 島 」 の 特 化 は す で に『 名 勝 記 』 に も み え る。 『 名 勝 記 』 で は 島 は 沈 ん だ ま ま と な っ て い る こ と を 考 え る な ら ば、 御 神 体 の 海 没( 流 出 ) も あ っ た ろ う。 ① ② と ③ を 繋 げ て 理 解 す る な ら ば、 こ の と き 沈 ん だ「 神 」 が『南路志』では引き上げられたことになる。 本文中に「宝永四年の大変大浪」とある。これは津波のことであろう。この伝承で、初めて「戸島」と津波が 結び付けられた。やはり『名勝記』にみる海没も、津波によるものといえるだろう。後に紹介する松野尾章行に よる『皆山集』には土佐国の地震被害についての記述がある。それによると「大地震海嘯トシテ特書すべきもの 四 回 則 チ 第 一 回 は 白 鳳 地 震 ニ シ テ 田 園 五 十 餘 万 頃 ヲ 没 シ 其 后 記 録 ノ 徴 ス ヘ キ ナ ク 九 百 二 十 年 ヲ 経 テ 慶 長 九 年 ノ
七「島」の海没伝承における「神」の意味
地震海嘯アリ単ニ東灘ニ就テ之ヲ見ルモ尚ホ四千六百六人ヲ溺死セシメタリ其后百餘年ヲ経テ宝永ノ災アリ死人 千八百四十四人負傷者九百廿六ヲ出又其ヨリシテ百四十餘年ノ下安政元年十一月ニ於テ震嘯併セ到リ二百七十七 人 ヲ 殺 シ 百 八 十 人 ヲ 傷 ケ タ リ 」 と 記 さ れ て い る〔 松 野 尾 一 九 七 三 二 六 五 〕。 松 野 尾 は 過 去 の 文 献 か ら 巨 大 地 震被害について記述している。記録で確認できる大地震・津波は四回とあるが、ここで興味深いのは、慶長九年 の 地 震・ 津 波 以 後、 百 年 ~ 百 数 十 年 ご と に 大 地 震・ 津 波 が 起 こ っ て い る こ と で あ る。 さ ら に こ の 記 録 後、 昭 和 二十一年(一九四六)にもあり、多大な被害があったことは知られている(筆者の実家は香川県であるが、我が 家 ゆ か り の 墓 が 多 く 倒 れ た と 祖 父 か ら 聞 か さ れ て い る )。 こ れ も 安 政 地 震 の 約 百 年 後 で あ る。 す る と「 第 一 回 は 白鳳地震ニシテ田園五十餘万頃ヲ没シ其后記録ノ徴スヘキナク九百二十年ヲ経テ慶長九年ノ地震海嘯アリ」との 一 文 は、 「 其 后 記 録 ノ 徴 ス ヘ キ ナ ク 」 た め に『 皆 山 集 』 で も 記 述 す る こ と が で き な か っ た の で あ り、 そ の 間 も 百 年~百数十年の周期で巨大地震・津波が当地を襲ったことは想像に難くない。 すると、地引網に入った「往昔」とは、白鳳地震かあるいはそれ以後に起きたが記録に残ってない地震により 流出したものと考えることができるが、ここでは流出の時期は問題とならない。長らく海底にあった「神」が中 世(当地が「津野領」であった頃)に引き上げられて祀られるようになったことに着目する。この伝承は①とは 整合性を考えるならば、そもそも「皇太神」が祀られていたが地震で流出し、中世に引き上げられたということ になる。 渡 邊 哲 哉 は「 解 説 」 で、 『 淵 岳 志 』 は 一 七 四 七 年 以 降 の 成 立 と す る。 宝 永 四 年 は 一 七 〇 七 年 で あ る。 一 六 九 八 年生まれの著者の植木は宝永四年には生まれていたし、 『淵岳志』の記述は地震後である。 『名勝記』の成立年代 は 不 明 な が ら も 、『 淵 岳 志 』 に 文 章 を 加 え た 形 に な っ て い る の で 、『 淵 岳 志 』 以 後 に 記 述 さ れ た も の と 考 え ら れ た。 『淵岳志』 『名勝記』には明確に宝永四年の地震が特定できる記述はない。ただ『名勝記』には「古老傳て云、
マテシス・ウニウェルサリス 第十七巻 第一号八遍島千軒、神島千軒とて 立並び宮居もかゝやかせ給ひけるか、神の御はからいにや波風もなきに、此島俄に動 き出て海底に沈ミけりと、今も波静なる日松より海底を望ミ見れは、人家の礎又石にて畳たる井の形なと見へ侍 る と そ 」 と の 記 述 が 見 え る だ け で あ る。 『 名 勝 記 』 が『 淵 岳 志 』 よ り 後 に 成 立 し た も の と す れ ば、 こ の 一 文 が 宝 永四年の地震についての可能性はある。そのために「古老傳て云」とされているのかもしれない。しかし、植木 は宝永地震による「戸島」の海没については記していない。先に植木は『名勝記』にみえる「戸島」の海没伝承 は知らなかったか、伝承がその後に成立した可能性を指摘した。しかし『名勝記』にある記述が宝永地震である と す る な ら ば 、 現 実 に 起 き た 津 波 被 害 が 伝 承 と し て 語 ら れ て い た こ と に な る 。 と こ ろ で 『 南 路 志 』 で は 「 戸 嶋 大 明 神 」 と い う 土 着 神 と な っ て い る。 す で に『 名 勝 記 』 で は「 古 老 傳 」 と し な が ら、 「 遍 島 」 の 海 没 が「 神 の 御 はからい」によるものとされている。この「神」は「皇太神化ノ三神」であるかは不明であるが、 「島」と「神」 との関係を年代順にみるならば、宗教色の強い「神」がただの「神」とされ、一九世紀前半には土着化して認識 されたということができよう。 「「神カ小島」 としての認識→生活拠点であったと考えられる 「戸島」 の海没→ 「戸 島」だけに「神」が祀られた」との認識の変遷をみることができる。土着神として具体的な性格をもって意識さ れるようにもなっていることは、 『名勝記』にある「遍島千軒」ほども栄えたのは、 「戸島」が漁民の活動拠点と なっていたためではないだろうか。 ところで『南路志』では「往々漁事之守ニ可成、宮を戸嶋ニ建可祭ト有」と記述されている。土着神が漁業神 としての性格を持つことがわかる。 『名勝記』にある「遍島千軒」ほども栄えたのは、 「戸島」が漁民の活動拠点 であったということであろうか。さらに『南路志』では、 「戸嶋明神」は当地が「津野領」であった頃に、 「船頭 高野氏」 に依りつき、お告げをして地引網にかかったとされたものが祀られていたとある。 『須崎市史』 によると、 「 津 野 氏 」 の 土 佐 国 で の 世 代 は 延 喜 二 年 ( 九 一 三 ) ~ 慶 長 五 年 ( 一 六 〇 〇 ) で 、 さ ら に 一 二 世 紀 初 め に は 「 津
九「島」の海没伝承における「神」の意味
野 荘 」 が 成 立 し て い る と い う〔 須 崎 市 史 編 纂 委 員 会 一 九 七 四 一 四 九 〕。 『 南 路 志 』 に 従 う な ら ば、 一 度 流 出 してしまった「神」が伝承の上では中世(津野領の頃)にお告げによって地引網にかかり、再び「戸嶋明神」と して祀られるようになったことになる。それが宝永四年の地震でまた流失してしまった。宝永地震を経験してい る植木は、宝永地震での「戸島」の海没伝承について知らなかったとしても、それ以前の伝承を知らなかったと は考えにくい。 『淵岳志』では怪異譚を多く記述しているのである。 すると中世的端緒を持った伝承は、 『南路志』 が成立する少し前に成立したことが考えられることになる。また『名勝記』では具体的に記されなかった地震・ 津波が『南路志』の宝永四年のものとするならば、武藤致和・平道父子が過去の記録と伝承を照らし合わせて具 体的な年号を持ち出した可能性も否定できない。その際に、伝承の「史実としての確からしさ」を印象付けるた め に 、「 中 世 」 を 符 合 し た こ と も 考 え ら れ な く も な い だ ろ う 。 よ り 古 い 時 代 の 話 し と し 、 神 威 を 高 め る だ け で は なく、具体的な支配者の名前を出すことで、伝承の確からしさを高めたということである。 さて、 宝永四年に流出した「御神体」が、 享保十一年(一七二六)に再度示現し、 それが「其後今の処へ奉移」 と さ れ て い る 。「 今 の 処 」 と は 、「 戸 島 」 と い え る 。 具 体 的 記 述 が な い の で 、 明 確 で は な い が 、 項 目 が 「 戸 嶋 大 明 神 」 で あ り、 「 戸 嶋 正 体 石 祭 礼 九 月 十 日 」 と の 記 述 が あ る こ と を 考 え る な ら ば、 「 今 の 処 」 と は「 戸 島 」 であろう。すると、 『名勝記』では「今はなし」とされた「戸島」は、 一九世紀前半には存在していることになる。 このことも、 『名勝記』に記された「今はなし」が、津波による一時的被災であったことを示し、 「戸島」は津波 により一時的に海没し、 「神」が流出したと考えられる。 こ こ で『 南 路 志 』 の 内 容 を 改 め て 見 る な ら ば、 「 御 神 体 の 示 現 → 流 出 → 再 度 示 現 」 と の 形 で 時 系 列 的 に 示 さ れ ているだけではなく、示現は、人に依り憑き、御神託を告げるとの形をとっている。まず、長らく海底に沈んで い た「 石 」( 御 神 体 ) と す る「 神 」 が「 示 現 」 す る こ と が、 重 視 さ れ て い る よ う に 思 え る。 示 現 に 対 し、 不 可 思
マテシス・ウニウェルサリス 第十七巻 第一号一〇議現象を伴うことで神威の大きさを強調することができるということであろうか。先に指摘したように、示現し た「 神 」 は、 「 漁 事 の 守 り 」 と さ れ、 「 神 」 と 漁 業 と の 結 び つ き を 読 み 取 る こ と が で き る が、 こ の こ と は「 伝 承 」 の形成が、漁民との関わりの中でなされたことを示している。ただし、もともとあった伝承を読み替えていった か、あるいは新たな漁民が勢力をもって当地に住みついたのかまではわからない。 ま た 御 神 体 が「 網 に か か っ た 」 こ と は、 「 戸 嶋 明 神 」 が 漂 着 神 的 に 捉 え ら れ て い た こ と を も 示 す。 漂 着 神 信 仰 については、ここで述べる必要もないが、海の中から流れ着いただけではなく、ここでは意思をもって陸にあが ろうとした形になっている。海中が異界であるとするならば、異界の「存在」が託宣したという形をとることで、 「神威」がより強調されることになる。 そ の 御 神 体 の 石 が 宝 永 四 年 の 津 波 で 流 さ れ、 消 失 し て し ま っ た( ④ )。 そ れ か ら 二 十 年 た っ た 享 保 十 一 年 ( 一 七 二 六 ) に 百 姓 五 郎 右 衛 門 の 夢 で 、 浜 に あ が っ た の で 「 戸 嶋 大 明 神 と し て 戸 嶋 へ 送 れ 」 と の 告 げ が あ っ た の で、 探 し に い く と、 「 光 さ す 」 石 が 見 つ か る。 し か し 告 げ が あ っ た 五 郎 右 衛 門 は「 其 儘 乱 気 ニ 罷 成 」。 「 石 」 で ある御神体に「光さす」との修辞が用いられ、お告げがあった人物の気がふれるとの記述をも考えに入れるなら ば 、 こ の 伝 承 で は 、 二 重 に 「 神 威 」 が 強 調 さ れ て い る と い え る が 、 神 の 示 現 の 前 提 に 「 流 出 」 が あ る こ と は 興 味 深 い 。「 神 の 流 出 」 が 津 波 に よ る も の と す る と し て も、 神 す ら を 脅 か す 津 波 の 脅 威 を 高 め た こ と に も な る た め である。 (四) 『皆山集』 『 皆 山 集 』 の 著 者 は 松 野 尾 章 行 で、 河 内 達 芳 の「 解 説 」 に よ れ ば、 松 野 尾 は 天 保 七 年( 一 八 三 六 ) に 生 ま れ、 明 治 三 十 五 年( 一 九 〇 二 ) に 没 し た 人 物 で、 『 皆 山 集 』 は 高 知 県 内 の 多 方 面 に わ た る 史 料 を 収 集 し 記 録 し た も の である〔河内 一九七八 ページ番号なし〕 。
一一「島」の海没伝承における「神」の意味
③大谷村鎮坐小社戸島神社祭神三女神古老傳往時津野氏世或時地引網に三箇同形なる石を引上しが忽船長高 野某に神託ありて我は戸島の神なり海底にあること年月久し今此の網に上る爾後漁業を守護すへし宮居を戸島 に作るへしと故に彼島に斎奉しか④宝永四年の津波に宮居神体とも流出所在を知らさりしに⑤享保十一年丙午 八月本村東瀬井の農民五郎右衛門なる者卒然発狂して云我は戸島の神なり我体此湾所ニあり急き戸島ニ送るへ しと湾所草荊中に彼三石を見得るに及人皆驚怖し同郡野見村の漁民に事故を告く漁民尋速に同村の山上ニ暫く 斎奉り幾程なく戸島に移し奉りしが星霜百四十八ケ年にして⑥嘉永甲寅の津波に宮居流出すれども神体は正し く其地に留在せり又①一古書に曰(前畧)須崎と申由又此港の左右を神か小濱と申此湊の沖ニ神の小島とて沖 の島中の島戸島と云三ツの島あり皇太神化の三神沖中戸を祭る故ニ神の小島と申也国俗今ハ 上
カウ島と唱へ候へど も実は神が小島ニて候云々(後畧)土佐物語曰(前畧)又②戸島と申は今見へ候ハず古老の傳ニ昔は経島千軒 と申て民家一千餘軒立並べ宮居も魏然として赫かせ給ひける云々(後畧)①往昔ハ三女神を三島ニ一神づつ斎 ひ奉りしが⑦年号支干詳かならされとも戸島一島へ合祭せしと思ハる又土佐物語曰(前畧)②神の御議より行 にや又ハ尽る時節ニや浪風も無きに或時此島俄に動きて海底に沈没すと云へり今も風静ニ浪平々たる時舟より 海底を見れば家の礎又は石ニて疊ミたる井の形なと見へ候也(後畧)実に然り是レ戸島千軒の遺跡なりと云傳 へしに⑧嘉永(甲寅)津波の後は又見る事なし。 〔松野尾 一九七三 二六九~二七〇〕 (番号筆者)
『 皆 山 集 』 に は、 今 ま で み て き た 伝 承 の ほ と ん ど が 採 録 さ れ て い る。 河 内 の「 解 説 」 に 従 う な ら ば、 松 野 尾 は すでに記された史料を収集して記録したということであり、当然のことであろう。しかし『皆山集』にだけ嘉永 七年(一八五四)の地震による津波についての記述がみられる。松野尾が直接、嘉永七年の地震・津波を直接経 験していることもあるだろう。ちなみに宇佐美龍夫によれば嘉永七年十一月四日・五日に続けてM八・四の地震
マテシス・ウニウェルサリス 第十七巻 第一号一二が あ り、 津 波 が 起 き た と い う〔 宇 佐 美 一 九 七 七 二 二 五 〕。 嘉 永 七 年 の 地 震 に よ る 土 佐 で 津 波 に よ る 被 害 が あ ったことは、武者金吉による『日本地震史料』の中に収められている「浦戸港沿岸震浪記(気象集誌第七年第四 号 所 載 )」 か ら も 明 ら か で あ る 〔 武 者 一 九 五 一 四 〇 八 〕。 「 浦 戸 港 」 は 現 在 の 高 知 港 の こ と で あ る 。 高 知 市 と 「戸島」のある須崎市は比較的近い。 「戸島」にも大きな津波が押し寄せたことは想像に難くない。 と こ ろ で『 皆 山 集 』 の 記 述 に は 大 き な 矛 盾 が あ る。 ⑥ と ⑧ で あ る。 ⑥ で は『 南 路 志 』 の 記 述 内 容 を 踏 襲 し た 上で、嘉永地震において津波があったが、 「宮居流出すれども神体は正しく其地に留在せり」と記述されている。 嘉 永 地 震 で は、 「 戸 島 」 は 完 全 に は 海 没 し て い な い こ と に な る。 ⑧ は、 『 名 勝 記 』 の 記 述 を 踏 襲 し た 形 で、 「 今 も 風静ニ浪平々たる時舟より海底を見れば家の礎又は石ニて疊ミたる井の形なと見へ候也(後畧)実に然り是レ戸 島千軒の遺跡なりと云傳へしに嘉永(甲寅)津波の後は又見る事なし」となっている。このことは何を意味する であろうか。前の地震による地殻変動で「戸島」が沈降し、海岸にあった部分が沈んだままになったということ か。するとそれが嘉永地震における津波後はさらに沈降し、今まで水面から覗き見ることができたものが見えな くなったということになる。ここに伝承・伝説の流動性を見ることはできないか。つまり同一地域内の伝承・伝 説が異なる形で存在する可能性と、派生した話しが元の話しとは別に伝承され、伝承・伝説が交錯した可能性を も示す。それは他の資料でも同じことがいえる。 ところで『皆山集』から、伝承記録のもう一つの意味を見ることができる。前代の記録を踏襲する形で記述さ れ、 「伝承」が再生産されただけではなく、 恣意的ともいえる記述がみられるのである。とくに③~⑤においては、 『南路志』に沿った形であるが、さらに詳細になり、①には⑦の伝承が付加されている。これは「一古書に曰く」 とされているが、⑦が記された記録はみられない。これらの部分は松野尾が付加したものといえるかもしれない。 と く に ⑦ は『 名 勝 記 』 以 降 の 記 録 で あ る、 「 戸 島 」 に 神 が 祀 ら れ て い る と の 話 し と 整 合 性 を 持 た せ る た め に 書 き
一三「島」の海没伝承における「神」の意味
加えたものではないか。 御神体の石に関する記述は『南路志』では、前代の記述を踏襲していない。 『淵岳志』 『名勝記』では、三つの 島 に「 神 」 が 祀 ら れ て い た が、 『 南 路 志 』 で は、 そ れ が「 石 」 と 具 体 化 さ れ、 さ ら に 一 つ と さ れ て い る。 こ の 石 が御神体と考えられるが、 神託をすることで、 海底から引き揚げられる。 「神」を一島に集中させたことは、 「神」 の 意 思 の 強 さ を 集 約 し た も の と 捉 え る こ と が で き る か も し れ な い。 一 方『 皆 山 集 』 で は、 「 三 個 の 同 型 の 石 」 と されている。これは松野尾が①②と整合性を持たせるために、作り替えたものであろうか。その真偽については 不明である。ここに伝承の非整合性をみることができるが、一方で整合性を持たせるように話しが作られている こ と も 指 摘 で き る と す る な ら ば、 語 ら れ て い く 中 で、 あ る い は 記 録 か ら 再 生 産 さ れ る 中 で、 「 語 り 」 の 整 合 性 が もとめられたといえるかもしれない。 (五) 「戸島」の海没伝承と「神」 以上の伝承は、 「戸島」をめぐる海没伝承である。 『淵岳志』では三島に「皇太神」が祀られ「神カ小島」と呼 ば れ て い た と あ る だ け だ が、 『 名 勝 記 』 で は そ の 中 の「 遍 島 」 が 海 没 し た こ と を 記 し て い る。 し か し『 南 路 志 』 の 伝 承 は、 あ く ま で も「 神 の 示 現 伝 承 」 で あ り、 伝 承 も 具 体 化 さ れ て い る。 す で に 指 摘 し て い る よ う に、 『 南 路 志 』 で は「 神 の 示 現 」 を 表 す た め に、 「 戸 島 」 を 海 没 さ せ た よ う に も 読 め る。 逆 に 見 る な ら ば、 度 々 お こ る「 戸 島」の海没が、 「神の示現」の伝承をその度に再生産したともいえなくもない。 『南路志』の「神母大明神」の項には次のような一文がある。 「先祖戸嶋より東勢井へ白鳳年中大変大潮ニ流上 り住居仕氏神之由。右之処住居に不宜と申、野見浦へ引越申由。則水主屋敷四反十代余、本田、今に当浦ニ支配 也 。」 〔 武 藤 一 九 九 一 二 三 八 〕。 「 白 鳳 年 中 」 と あ る こ と か ら 、 白 鳳 地 震 の 際 の 出 来 事 を 記 し た も の で あ る 。 「 東 勢 井 」 は「 戸 島 」 の 対 岸 に あ る 地 名 で あ る。 宇 佐 美 龍 夫 の『 大 地 震 』 に よ る と、 白 鳳 十 二 年( 六 八 四 ) の 地
マテシス・ウニウェルサリス 第十七巻 第一号一四震は、 「土佐その他南海東海西海諸道」で発生したものであり、 「山崩れ、河湧き、家屋社寺の破壊、人畜の死傷 多 く、 津 波 襲 来、 土 佐 の 舟 多 数 沈 没、 土 佐 で 田 苑 約
震のことであるかは不明である。すでに指摘しているように、白鳳地震から慶長地震まで南海トラフを震源とす 書 紀 』 の 記 録 だ け で は な く、 「 伝 承 」 が あ っ た こ と を 示 し て い る こ と に な る。 た だ し 古 老 が 語 っ た も の が 白 鳳 地 イ ン パ ク ト は 相 当 の も の で あ っ た こ と が 推 察 さ れ る 。 こ こ で の 「 古 老 曰 」 が 事 実 で あ る と す る な ら ば 、『 日 本 い る。 「 古 老 曰 」 以 後 の 一 文 は、 千 年 以 上 も 昔 の 出 来 事 を 伝 え て い る 形 に な っ て お り、 白 鳳 地 震 に お け る 津 波 の 二 〇 〇 六 一 六 八 〕。 『 日 本 書 紀 』 の 記 録 と し な が ら も、 「 古 老 曰 」 と し て、 そ れ が「 未 曾 有 」 で あ っ た と さ れ て 動 未 曾 有 也。 今 海 ノ 地 ニ 近 キ 所 ハ 浅 ク 外 ハ 深 シ、 海 ノ 浅 深 遠 近 ア リ。 盖 シ カ ヤ ウ ノ 事 テ モ 見 ル ヘ シ。 」〔 植 木 震 に つ い て の 記 録 が な さ れ て い る。 「 日 本 書 紀 ニ 天 武 白 鳳 十 三 年 甲 申、 土 佐 國 五 十 万 項 没 為 海。 古 老 曰、 若 是 地
ママ志 』 に お い て『 日 本 書 紀 』 が 参 考 に さ れ た こ と が わ か る。 『 淵 岳 志 』 に も「 地 震 」 の 項 目 が あ り、 や は り 白 鳳 地 入り、人家はいふに足らす田地大変流失する由古記に見ゆ」とあることから〔武藤 一九九一 二三九〕 、『南路 亥 年 十 月 四 日 須 崎 地 震 記 」 の 冒 頭 に は、 「 往 古 天 武 天 皇 の 御 宇、 白 鳳 十 二 年 甲 申 十 月 四 日、 大 地 震 の 後 当 国 大 潮 害があったためであることが推察されるだけではなく、 『南路志』 「須崎村」の項に採録されている「宝永四年丁 このように高知県沿岸部は古代に大きな津波による被害を受けた。それが伝承として残されていることは、大被 坂編 一九五八 三七四〕 。土佐国司が津波によって税を運ぶ船が流されてしまったことの報告したものである。
レ三 七 三 〕。 さ ら に、 翌 十 一 月 に は「 土 佐 国 司 言。 大 潮 高 騰。 海 水 飄 蕩。 由 是 運
レ調 船 多 放 失 焉。 」 と も あ る〔 黒
テニ土 佐 國 田 苑 五 十 餘 萬 頃。 没 爲
レ海。 古 老 曰。 若
レ是 地 動 未 曾 有 也。 」 と 記 さ れ て い る〔 黒 坂 編 一 九 五 八
ノ 二で あ ろ う。 『 日 本 書 紀 』 の 当 該 地 震 に お け る 土 佐 に つ い て の 記 述 を 見 る と、 「 壬 辰。 逮 干 人 定
一大 地 震。 〈 中 略 〉
テ鳳 地 震 で 土 佐 は 大 き な 被 害 を 受 け た 。 白 鳳 地 震 と は 、『 日 本 書 紀 』 の 天 武 天 皇 十 三 年 十 月 に お き た 地 震 の こ と
12㎢ 海 中 に 沈 む 」 と あ る〔 宇 佐 美 一 九 七 七 二 三 八 〕。 白
一五「島」の海没伝承における「神」の意味
る地震がまったくなかったとは考え難い。 『南路志』の「鎮海山江雲寺」の項には、次のような記述がある。 「寺記曰、当寺ハ往古江雲菴ト地検帖ニ出 ○十一面観音堂 宝永四年大変ニ、当村之内戸嶋と申所
ゟ浪ニ漂来る。其大変以前ハ戸嶋の人家千軒も有之、今 ニ戸嶋千軒と云傳。 」〔武藤 一九九一 二三八~二三九〕 。内容は宝永地震・津波のことであるが、 「鎮海山江雲 寺 」 の、 「 鎮 海 山 」 と の 山 号 は 示 唆 的 で あ る。 津 波 の 被 害 が 多 か っ た た め に「 鎮 海 」 と さ れ た の で は な い か。 ま たこの文章でも「戸島」が「人家千軒」もあったとされ、 「遍島千軒」 「神島千軒」と同様に、栄えていたことを 表す語句がみられる。なお、野見は野見湾を取り巻く半島の一部とその向いにある東勢井に隣接する地域である が、江雲寺は東勢井側の野見に現存する。 以 上 の 資 料 か ら 、「 戸 島 」 は 津 波 に よ る 一 時 的 な 海 没 を 繰 り 返 し て い た こ と が 推 察 さ れ る 。 そ し て 「 遍 島 千 軒 」「 神 島 千 軒 」 と い う 大 袈 裟 な 修 辞 が 用 い ら れ、 い か に 栄 え て い た か が 記 録 さ れ て い る が、 修 辞 が 大 袈 裟 で あ る に し て も、 漁 業 基 地 と し て、 か な り の 賑 わ い が あ っ た の で あ ろ う。 「 戸 島 」 の 海 没、 つ ま り 津 波 に よ る 人 的 被 害 は 、 そ こ に 住 む 人 た ち に と っ て は 深 刻 で あ っ た に 違 い な い 。 そ れ は ま さ に 脅 威 で あ っ た 。 だ か ら こ そ 「 鎮 海」との山号がつけられたと考えられる。 こ の よ う に 考 え る な ら ば、 「 戸 島 」 を め ぐ る 海 没 伝 承・ 伝 説 の 形 成 の 背 景 に つ い て 次 の よ う に み る こ と が で き るだろう。もともと「神の島」としての信仰を持っていたこと。そのために、津波という脅威をもたらしたのは、 「神」そのものであると考えられた。ここに高麗島やお亀磯の伝説のような、 「顔が赤くなったとき」というよう な予兆は語られていない。島の海没という現象は予め知ることができない想定外のできごととなる。さらにこの 津波により「神」は流出してしまうが、 「神の島」にとっては大問題であった。 「神」がいてからこその「神の島」 であるためである。そこで、島が回復するためには、 「神」の示現が必要であった。 「神」の示現は災害の確から
マテシス・ウニウェルサリス 第十七巻 第一号一六しさをもたらすことになる。さらにこの示現は、漁師の網や船頭との関わりの中で語られることから、漁民の信 仰を背景に具体性を持った土着的な伝説が形成されたといえる。そのために伝承の史実性を高めたということで ある。
三、冠島と「神」との関係
や は り 、 現 存 す る が 、「 古 代 」 に 海 没 し た と の 伝 承 を 持 つ 島 と し て 、 京 都 府 舞 鶴 市 に 位 置 す る 「 冠 島 」 が あ げ ら れ る 。「冠島」の海没は、 「丹後風土記残缺」に記されている。金田久璋は「津波伝承論ノート」で、 これを江 戸時代の偽書とする〔金田 二〇一一 七六〕 。確かに「丹後風土記残缺」の成立年代は不明である。 「丹後風土 記残缺」 (以下「残缺」 )は永(長)濱宇平編集による「丹後史料叢書」に採録されており、永濱は次のような一 文を載せている。
丹後風土記の編纂は遠く奈良朝の和銅六年に濫觴し平安朝の延長五年十一月に勘進せられしをいふも其の本 何山れにか散逸して今傳はらず、僅かに蠧殘燼餘の加佐郡の一部のみ京師白川家にありしを室町中期に丹後一 宮籠神社に僧智海僧都の臨寫せるもの即ち此の丹後風土記殘缺なり。由来諸國風土記の今日に傳はるもの晨星 よりも寥々たり假令一部分たりと雖も丹後の之を傳ふるに洵に至幸といふべく、最も該風土記に就ては式は偽 風土記なりとの異説なきに非ざるも蓋し尚ほ史料たるを失はざるべし。即ち丹後史料叢書の劈頭に収む。 大正十五年十二月 永濱宇平〔永(長)濱 一九七二 一二〕
一七「島」の海没伝承における「神」の意味
「丹後史料叢書」に採録する時点で、すでに「偽書」との説があったことがわかる。しかし、 「偽書」は、実際 の『風土記』であるのかという問題である。永濱は「偽風土記なりとの異説なきに非ざるも蓋し尚ほ史料たるを 失はざるべし」と述べる。本論のテーマとしては、奈良時代の『風土記』の一部であるかを問題とするものでは な く、 偽 書 で あ っ た と し て も、 書 か れ た 時 代 に 記 述 内 容 の 伝 承 が あ っ た こ と に 意 味 を 乱 す。 「 加 佐 郡 の 一 部 の み 京師白川家にありしを室町中期に丹後一宮籠神社に僧智海僧都の臨寫せるもの」とあり、奥書には「大聖陀智海 寫長亨戊申年九月十日」との日付がある。長亨戊申年とは、長亨二年(一四八八)である。ただし本史料は書写 されたもので、奥書の最後は「右一巻者中院前權中納言通勝卿眞筆之寫本上加茂神主松下氏珍藏請懇寫之畢」と あ り、 「 寶 永
己丑れている可能性があることである。 前 提 に し て み る に し て も、 「 殘 缺 」 自 体 が『 風 土 記 』 で あ る こ と を 前 提 と し て い る た め に、 恣 意 的 な 記 述 が な さ 次のように記している。 「凡海郷」の項である。ただし気をつけなければならないことは、 「偽書」であることを りはなく、 「島」の海没の伝承・伝説としての価値を損なうことはないと考える。 「殘缺」では「冠島」について たとえ「殘缺」が「偽書」であったとしても、室町中期から江戸時代後期には成立したものであることには変わ 十 一 月 」 と あ る、 宝 永 己 丑 年 は 一 七 〇 九 年 で あ る の で 実 際 に は 江 戸 時 代 の 史 料 と い う こ と に な る。
凡海郷
三二一
也是海部直竝凡海連達等 所
以 齊
祖 神
也(以下八行虫食) 〔永(長)濱編
二一二一二一二一二一二一中之高山ニ峯 與
立神 官
出
海 上
今 號
常世 島
亦俗 稱
男島女 島
毎島 有
祝 詞
所祭者天火明神 與
日子部女 神
三レ字 虫 食)凡 務 以 成 壹 故 云 凡 海 矣(三 字 虫 食)寶 元 年 三 月 己 亥 地 震
曰 不
巳 此 郷 一 夜 蒼(四 字 虫 食)海 漸 續 郷
一二一二一上二凡 海
者 ( 三 字 虫 食 ) 曰 往 昔 治
天 下
當 大 穴 ( 七 字 虫 食 ) 到
坐 テ 此 地
之 時
引
集 海 中 ( 三 字 虫 食 ) 小 島 ( 三 凡
レ三二海 郷 者 在 往 昔 去 去 此 田 邊 郷 萬 代 濱 四 十 三 里(三 字 虫 食)三 拾 五 里 二 歩 四 面 皆 蜀
海 壹 之 大 島 也 所
以 稱
其
一九七二
「残
缼
」一〇〕
マテシス・ウニウェルサリス 第十七巻 第一号一八虫食 い の 部 分 が 多 く 、 不 明 な 点 も 多 い が 、 ま ず 「( 三 字 虫 食 ) 寶 元 年 三 月 己 亥 」 と は 具 体 的 に 何 年 の こ と か 。 「 寶 元 年 」 に 重 点 を お け ば 、 大 寶 元 年 ( 文 武 五 年 、 七 〇 一 ) と 考 え ら れ る 。『 續 日 本 紀 』 の 文 武 天 皇 の 大 寶 元 年 三 月 廿 六 日 に 「己亥。丹後
ノ国地震三日。 」との記述があり〔黒坂編 一九五八 一〇〕 、「殘缺」の内容と符合す る。ただし、 『續日本紀』についての記述は以上だけであり、被害状況についての記録はない。 虫 食 が 多 く て 、 理 解 の 妨 げ に な る が 、 わ か る 限 り 読 み と る な ら ば 、 も と は 大 島 で あ っ た が 、( 大 ) 宝 三 年 の 地 震 ・ 津 波 で 海 没 し 、 沈 ま ず に 残 っ た 山 峰 が 島 と な り 、 そ こ に 「 神 」 が 降 臨 し た 。 そ れ が 今 は 「 常 世 島 」 と 呼 ば れ 、「男島 ・ 女島」とも呼ばれている。これらの島々に「神」が祀られているが、それは「海部直」や「海連」 の祖神であるとの内容である。後に紹介するが、この「男島・女島」が現在の「冠島・沓島」とされる。ここで 興 味 深 い の は、 島 が 完 全 に 海 没 し た も の で は な い と( 高 い 山 峰 が 二 つ の 島 と な っ た )、 続 い て 各 々 の 島 に「 神 」 が 降 臨 し、 そ の「 神 」 が、 「 海 部 直 」 や「 海 連 」 の 祖 と さ れ、 そ の 島 が「 常 世 島 」 と 称 さ れ て い る と い う こ と で ある。 ところで「海部直」や「海連」とはどのような者たちであろうか。 『宮津市史 通史編 上巻』には、 「奈良時 代以降の史料ではあるが、海部直や海直が与謝郡の郡司や式内大社籠神社の祝としてみえ」とある〔宮津市史編 さ ん 委 員 会 二 〇 〇 二 一 八 七 〕。 金 久 与 市 は 、 籠 神 社 の 海 部 宮 司 家 が 、 平 成 四 年 三 月 に 公 表 し た 『 海 部 氏 勘 注 系図』の全文を分析し、 古代遺跡をも視野に入れながら、 『古代海部氏の系図〈新版〉 』を著している。その結 果として「日本海側沿岸の古代丹波国(丹後・但馬)の古代遺跡を概観してきたが、こうしてふり返ってみると、 こ の 地 に 住 み 、 開 拓 し 、 定 住 し た 初 め の 日 本 人 は 、 や は り 海 洋 民 を 中 心 と し て い た と 思 わ れ る 。」 と 指 摘 し て い
三二一
也是海部直竝凡海連達等 所
以 齊
祖 神
也(以下八行虫食) 〔永(長)濱編
二一二一二一二一二一二一中之高山ニ峯 與
立神 官
出
海 上
今 號
常世 島
亦俗 稱
男島女 島
毎島 有
祝 詞
所祭者天火明神 與
日子部女 神
三レ字 虫 食)凡 務 以 成 壹 故 云 凡 海 矣(三 字 虫 食)寶 元 年 三 月 己 亥 地 震
曰 不
巳 此 郷 一 夜 蒼(四 字 虫 食)海 漸 續 郷
一二一二一上二凡 海
者 ( 三 字 虫 食 ) 曰 往 昔 治
天 下
當 大 穴 ( 七 字 虫 食 ) 到
坐 テ 此 地
之 時
引
集 海 中 ( 三 字 虫 食 ) 小 島 ( 三 凡
レ三二海 郷 者 在 往 昔 去 去 此 田 邊 郷 萬 代 濱 四 十 三 里(三 字 虫 食)三 拾 五 里 二 歩 四 面 皆 蜀
海 壹 之 大 島 也 所
以 稱
其
一九七二
「残
缼
」一〇〕
一九「島」の海没伝承における「神」の意味
る 〔金久 一九九九 四九〕 。これらに従うならば、 「男島 ・ 女島」はこの辺り一帯で活動していた海洋民の神を 祀 る 拠 点 で あ っ た こ と が 考 え ら れ る が 、 古 代 に お い て 、 こ の 地 で 活 動 し て い た 海 洋 民 の 中 心 が 「 海 部 直 」「 海 連( 直 )」 で あ っ た と い う こ と か。 同 書 が「 偽 書 」 で あ っ た と し て も、 少 な く と も 記 述 さ れ た 時 代 に は、 「 冠 島 」 が海部氏を中心とした海洋民の拠点であった記憶に基づく記述であると考えられよう。 ま た「 丹 後 舊 事 記 」 と い う も の が あ り、 や は り『 丹 後 史 料 叢 書 』 に 採 録 さ れ て い る〔 永 濱 編 一 九 七 二 〕。 書 の 最 後 に「 國 康 曰、 此 書 峯 山 其 白 堂 信 吉 七 十 有 餘 歳 撰 之、 古 丹 後 舊 事 記 一 冊 有、 誰 人 之 選 云 知、 其 白 其 書 補 爲 十 冊 有、 誰 人 之 選 云 不 知、 」 と あ り、 さ ら に「 其 白 天 明 中 撰 之、 國 康 文 化 七 年 改 正 之 」 と 記 さ れ て い る〔 小 松 一 九 七 二
松 國 康 が 文 化 七 年( 一 八 一 〇 ) ま で に、 校 閲 し て 再 編 集 し た も の と の こ と で あ る〔 永 濱 一 九 七 二 「 舊 事 記 」 一 六 五 〕。 永 濱 宇 平 に よ る と、 其 白 堂 信 佶 が 丹 後 の 歴 史 に つ い て 編 纂 し た も の を、 小
一 六 五 〕。 永 濱 の 自 序 に は「 大 正 十 五 年 」 と あ る〔 永 濱 一 九 七 二 「 舊 事 記 」 けての記録ということになる。これの「卷之六 名所之部」に「小島」との項がある。 一 七 八 八 ) に 書 か れ た も の が 文 化 七 年 に 編 集 さ れ た と い う こ と は、 「 丹 後 舊 事 記 」 は 江 戸 時 代 半 ば か ら 後 半 に か 「 舊 事 記 」 一 六 六 〕。 天 明 年 中( 一 七 八 一 ~
陰陽の二島是なり俗に冠島沓島又釣鐘島棒島とも云又陽島の方を男烏島、陰の島を女烏島と云形鶺鴒に似た り 此 島 陰 陽 の 二 柱 の 神 天 降 り 玉 ひ 荒 海 大 神 と 云 此 九 世 戸 文 殊 堂 縁 起 に 出 た り 伊 根 よ り 三 里 の 海 上 也。 加 佐 郡 の 大 川 大 明 神 も 此 島 よ り 迎 祭 し 事 彼 宮 の 傳 記 に 委 く 泊 の 浦 も 同 じ 伊 根 郷 な れ ば 歌 に も 詠 合 す る な り。 〔 小 松 一九七二
「舊事記」一〇一〕
これによると「殘缺」にある「男島・女島」は現在の「冠島・沓島」に比定されている。そしてこれらの島に
マテシス・ウニウェルサリス 第十七巻 第一号二〇は「 二 柱 の 神 天 降 り 玉 ひ 」 た と さ れ る。 つ ま り 天 明 年 間 に は、 「 殘 缺 」 に み ら れ る よ う な「 島 」 に「 神 」 が 降 臨 したことが知られていたことがわかる。さらに「加佐郡の大川大明神も此島より迎祭し事彼宮の傳記に委く」と の文章から、 「神の島」としての伝説が実際に存在していたと推察される。 「神」の降臨によって「神の島」とな ったということであろう。さらに『加佐郡誌』の「冠島」の項の後半部分に興味深い記述が見られる。
尚本島には、老人大明神の祠があつて漁夫の尊祟が甚だ篤い。それで毎年の陰暦五月五日の例祭には非常な 賑ひを呈する。其の日には舞鶴から吉原の漁夫が競舟と稱する漁船の競漕を催ほす古習があるが、それは選手 の者が其の日に吉原を出て此の島に渡り、終夜近海で漁撈した上翌朝は身を潔めて神に祈りを捧げ、櫓一挺に 櫂八本の漁船に二甑隻に組を別け、正午一齊に纜鱷を解いて十八海里の海上を腕を限りに競漕して舞鶴に歸へ るのである。 〔京都府教育会加佐郡部会 一九七二 一八七〕
『 加 佐 郡 誌 』 は、 折 田 有 彦 の「 序 」 に よ る と、 加 佐 郡 の 教 育 部 会 が「 郡 誌 編 纂 の 擧 を 企 圖 し 爾 來 孜 々 材 料 の 蒐 集 事 實 の 精 査 に 従 事 し 」 た も の で あ り、 「 大 正 四 年 二 月 二 十 七 日 」 付 と な っ て い る〔 折 田 一 九 七 二 ペ ー ジ 番 号 な し 〕。 こ れ を「 大 正 十 四 年 一 月 二 十 五 日 」 付 で「 京 都 府 加 佐 郡 長 大 塲 義 衛 」 が、 大 正 四 年 に 頒 布 し た。 大 塲 は「 其 の 完 璧 を 期 し て 特 に 委 員 を 設 け、 探 究 の 嚴 密、 研 鑚 の 精 到 を 蓋 し、 歳 月 を 累 ね て 漸 く 補 綴 改 訂 を 了 へ、 茲 に 其 の 再 刊 を 見 る に 至 れ り。 」 と 記 し て い る〔 大 塲 一 九 七 二 ペ ー ジ 番 号 な し 〕。 こ の こ と か ら『 加 佐 郡 誌 』 の内容は明治後期~大正のものといってよいだろう。 「 冠 島 」 に は「 老 人 大 明 神 」 が 祀 ら れ、 漁 民 の 崇 敬 が 篤 い と あ る。 そ し て「 競 漕 」 が 行 な わ れ る。 『 加 佐 郡 誌 』 の 記 述 は こ の「 競 漕 」 に 関 す る も の で あ る が、 「 終 夜 近 海 で 漁 撈 し た 上 翌 朝 は 身 を 潔 め て 神 に 祈 り を 捧 げ 」 て い
二一「島」の海没伝承における「神」の意味
るのである。この「島」が漁猟に関する「神」の島として、大正時代まで認識されていたといえる。記述の先後 性 を 重 視 す る な ら ば「 殘
缼」 で は、 地 震 で 大 き な 島 が 沈 ん で、 高 か っ た 部 分 が 海 上 に 残 り、 そ こ に 神 が 降 り 立 ったとされている。ここで興味深いのは、この島が「常世島」と認識されていることである。 「殘缺」に「今號」 との文言があることから、もともと「常世島」ではなかったことが推察されるが、神の降臨を経ること、つまり 「神」の島としての認識が広がったことから生じた観念と考えることができる。 「 常 世 」 が 先 祖 神 の 存 在 が 強 く 意 識 さ れ た「 異 界 」 で あ る こ と は 言 う ま で も な い。 す る と、 解 釈 上 は、 降 り 立 っ た 神 は 先 祖 神 と し て の 性 格 を 持 つ と い う こ と が で き る。 「 殘
缼」 に 従 え ば、 そ れ は「 海 部 直 」 や「 海 連 」 の 先 祖ということになる。このように考えると、一般の「常世」ではなく、特定氏の「常世」とされていることにな る。金子に従い、ここに海洋民の存在を捉えるならば、自らのアイデンティティを獲得するために、海部氏の先 祖を祀る「常世」が創生されたことになる。すると海部氏が勢力を伸張するにあたり、自らの始祖を海没という 怪 異 伝 承 を 持 つ 島 に も と め た と い う こ と が で き、 こ こ に 氏 の 始 祖 の 優 位 性 を「 神 」 に も と め た 氏 が、 「 神 」 の 霊 威をさらに高めるために怪異を利用したといえるのではないか。それが海部氏のアイデンティティをさらに高め ることになる。 ま た 『 加 佐 郡 誌 』 で は 、 こ の 神 は 「 老 人 大 明 神 」 と さ れ 、 漁 夫 の 信 仰 が 篤 い こ と が 記 さ れ て い る 。「 老 人 大 明 神」の意味はわからないが、漁民の信仰対象として崇拝されていることは間違いない。金子のいう海洋民の具体 像 は わ か ら な い が、 そ の 中 に は 漁 民 は 当 然 含 ま れ る だ ろ う。 『 加 佐 郡 誌 』 が 成 立 し た 年 代 を 鑑 み る に、 海 洋 民 は 漁民および海上交通従事者ということになろうが、その中心にいたのが海部氏であり、そのために、漁民の神と し て の 性 格 が 得 ら れ た の で は な い か。 「 冠 島 」 の 伝 承 を 時 系 列 的 に 並 べ る と「 地 震 → 海 没( 一 部 地 盤 沈 下 ) → 神 の降臨→常世島として認識→漁民の信仰」という形になっているということができ、ここでは「神」は守護神的
マテシス・ウニウェルサリス 第十七巻 第一号二二存 在 と し て も 捉 え ら れ る よ う に な っ た と い え る。 そ し て そ れ が、 「 島 」 の 沈 降 を 前 提 と し た 伝 説 と な っ て い る 点 で「戸島」の伝説とは異なるものであるといえる。
四、 「神島」と「お亀磯」
三重県沖に「鯛の島」の海没伝承がある。 「鯛の島」が海没する以前に、 「神島」の一部が陥没して、一つの島 に な っ た と の 伝 承 が あ る。 「 鯛 の 島 」 の 伝 承 に つ い て は、 曽 我 部 市 太 に よ る『 鳥 羽 誌 』 に「 鯛 島 礁 」 の 項 目 に み え る。 そ の 伝 承 に つ い て は 別 稿 で 紹 介 し て い る の で、 こ こ で は 要 点 の み を 記 す。 「 神 島 の 沖 に、 今 は 沈 ん で し ま ったが、大きな島があったが、神島と陸続きであったが、かつての津波によって孤島となってしまい、絶の島と 呼 ば れ て い た が 、 鯛 が 多 く 獲 れ る こ と か ら 鯛 の 島 と 呼 ば れ る よ う に な っ た と い う も の で あ る 〔 曽 我 部 一 九 七 五 一 二 九 〕。 「凡例」には、 「本書の材料は、 各町村より塊集するものあれど、 其多くは編者の實地調査に係るを以て、 其記事や専ら正確摯實を主とし、徒に誇張の文辭を弄せず。 」とあり〔曽我部 一九七五 頁番号なし〕 、曽我部 のこの言葉を信じるならば、伝承は『鳥羽誌』が書かれた頃に実際に語られていたということになる。ここで問 題 と し た い の は、 「 鯛 の 島 」 が「 神 島 」 と 繋 が っ て い た と い う こ と で あ る。 曽 我 部 の 記 述 か ら は、 絶 の 島 が 孤 島 となった原因となる津波は「神」との関係の中では記されていない。しかし、 「鯛の島」陥没の説明として、 「神」 との関係として捉えられる可能性がある。 三 重 大 学 を 中 心 と す る 、「 神 島 沖 遺 構 学 術 調 査 隊 」 に よ る 潜 水 調 査 が 行 わ れ 、 地 質 学 の 立 場 か ら 、 金 折 裕 司 は「 三 つ の 沈 島 伝 説 と 伊 勢 湾 断 層 の 活 動 」 の 中 で、 「 瓦 の 破 片 や 人 工 物 の 可 能 性 の 高 い 石 積 み が 発 見 さ れ、 鯛 の 島 が 実 在 し た 可 能 性 が 高 く な っ た 」 と 指 摘 し た〔 金 折 一 九 九 九 三 三 二 〕。 そ し て こ の 海 没 は「 津 波 を 伴 っ た
二三「島」の海没伝承における「神」の意味
海洋性地震であったと推測される。 」という〔金折 一九九九 三三二〕 。この調査により、島の陥没が歴史的事 実であることが確認された。ただし「鯛の島」が実際に「神島」と繋がっていたことを示すまでには至ってない が、 伝 承 と し て「 神 島 の 一 部 で あ っ た 」 と 言 わ れ て い る こ と は、 「 鯛 の 島 」 海 没 伝 承 の 生 成 が、 実 は「 神 島 」 の 伝承として認識されていたことを示唆するものではないか。つまり「神」に引き寄せられて「鯛の島」の伝承が 成立したことになる。史実であったとしても、その史実性を明らかにしたのは現代の科学であり、語り継いでき た人たちにとっては、目の前は海であり、伝承という形による曖昧な「記憶」だけである。それが事実であるこ と を 強 調 す る た め に、 「 神 」 の 存 在 が 持 ち 出 さ れ、 も と も と 伊 勢 神 宮 と の 関 係 が 深 い「 神 島 」 と の 関 係 性 が 強 調 されたのではないだろうか。その点において「戸島」の伝承と通じる所がある。 ところで、この「神島」に関して、さらに興味深い記述がある。井坂丹羽太郎が編輯した『志摩國舊地考』に そ の 記 述 は あ る。 井 坂 は「 題 言 」 の 中 で、 「 此 書 ハ 志 摩 國 ノ 疆 界 郡 郷 村 ノ 各 地 名 稱 等 古 今 沿 革 ヲ 知 ル ニ 便 ア ラ シ メ ム ト テ 著 ス。 〈 中 略 〉 古 今 ノ 諸 書 歌 文 券
ママ等 ニ 見 エ タ ル モ ノ 愚 管 ノ 及 ブ 所 ヲ 輯 録 ス 」 と 記 述 し た と あ り〔 井 坂 一九七五 二四五〕 、『志摩國舊地考』は井坂による実地調査によるものではなく、古文献を整理する形で編集さ れた。 「題言」には「明治九年」となっているので、一八七六年には完成したものであろう。 『志摩國舊地考』は それまでに井坂が入手した資料をまとめたものということになる。ところで問題は、井坂が着目した「神島」の 別称である。
(前略)又此神島ヲ龜島とも稱スル神ト龜と通用ノ例古書ニアリ常陸國郡郷璧郡
ノ條ニ神代郷今龜熊村是ナリ 神ノ龜ニ轉セシハ天武紀備後龜石郡ヲ桓武紀神石ニ作リ和妙抄モ神石訓 加
カメシ女志 ナリ万葉東歌に神ヲ カメ トヨメ リ(後略) 〔井坂 一九七五 三一九〕 (二重線筆者)
マテシス・ウニウェルサリス 第十七巻 第一号二四「 神 島 」 は か つ て「 カ メ シ マ 」 と 呼 ば れ て い た。 「 神 」 と「 亀 」 の「
mi」 と「
ma」 が 通 音 と し て 同 義 的 に 扱 わ れ た 過 去 の 事 例 が あ る こ と を 述 べ て い る の で あ る。 こ れ を 徳 島 の「 お 亀 磯 」 に 当 て は め れ る な ら ば、 逆 に「 亀 磯」が「神磯」であったことを類推させないか。ただし少なくとも江戸時代の記録には「亀」あるいは「甕」と 記 述 さ れ て い る。 し か し「 お 亀 磯 」 は 海 没 後 も そ の 場 が 異 界 と し て 語 ら れ て い る こ と が 示 唆 的 で あ る。 「 お 亀 磯 」 の 伝 説 は 江 戸 時 代 の い く つ か の 文 献 に 採 録 さ れ て い る。 そ の 中 の 一 つ に『 燈 下 録 』 が あ る。 『 燈 下 録 』 は 元 木 芦 洲 の 著 で あ り、 「 解 説 」 に よ る と、 成 立 年 代 や 著 者 の 履 歴 は 不 明 で あ る と い う〔 新 編 阿 波 叢 書 編 集 委 員 会 一九七六 一〕 。『燈下録』は芦洲の友人である野口信為が芦洲の死後、残された草稿を刊行したことを、野口が 「附言」に記しており、最後には「文化九申のとし三月」と記している〔野口 一九七六 二七九~二八〇〕 。こ のことから『燈下録』は、文化九年(一八一二)以前に芦洲が見聞した奇事や伝承をまとめたものといえる。そ の中に「お亀磯」の海没跡の話しが採録されている。
因に云、寛政の末の事なりしが、水連を学ぶ若冠十人計海士を導きとして此の磯に来りて海老、鮑の類を水 裏 に 潜 き 入 て 岩 間 を 探 り 取 る。 ( 此 の 磯 へ か づ き 入 る に は 沖 の 方 に て、 幾 磯 の 間 地 の 方 に て あ る ひ は 幾 磯 と 磯 の神へ申て水中に入るなり、しかせざれは必ず怪異のことに逢ふとぞ) 此日は沖の方五磯ほどの所にて獲もの多かりしが、午刻過ぎにかの海人某潜き入て未の刻になれども浮び出 ず、人々興さめてそこら岩間尋ねめぐれど、いづちかへ行けん知れず。其の中に又一人四尋ばかり海底へかづ き入て人のあるやうなれば、近よりて見ればいとあやしき法師の姿したるもの顔より胸腹腕のうらより手の内 まで雪のごとく、頭より脊脇はらをかぎりて手の甲腕股より膝みな瑠璃の色にて手足の骨ふし蟹のごとく指は 五つありしやうに覚ゆ。
二五「島」の海没伝承における「神」の意味