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― ― 経済社会秩序と人間存在の自存性

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経済社会秩序と人間存在の自存性

―カントの道徳形而上学とアリストテレスの倫理学・形而上学に基づく 経済社会秩序の原因性への考察―

早 川 弘 晃

Socio-economic Order and the Spontaneity of Human Existence:

Kant’s Moral Philosophy and Aristotle’s Ethics and Metaphysics in Search for the Moral and Ethical Cause of a Socio-economic Order

Hiroaki HAYAKAWA

Abstract

This paper expounds the idea that a socio-economic order is a spontaneous and abstract order of pro- ductive activities, conjoining it with the Aristotelean notion that the essence of human existence consists in living a spontaneous life of activities for the fulfillment of its ultimate end. The spontaneity of the for- mer is grounded in that of the latter, but human existence as a life of activities has no real value without a socio-economic order in which this life unfolds. Arguing that this order, if it is to persist and thrive, must be founded on moral principles, this paper scrutinizes the metaphysical foundations of moral laws and principles through an exegesis of Kant’s moral philosophy (i.e., his notions of absolutely good will, autonomy, freedom, moral laws, and the kindgom of ends), and relating it to Aristotle’s concept of entelecheia as the ultimate end of human existence. Kant’s moral philosophy is founded on human existence rooted in the world of senses dictated by natural necessity as well as in the world of understanding governed by moral necessity. The moral necessity requires that human will to choose on actions must be determined autonomously by rational principles in accordance with the universal laws legislated by reason alone. This philosophy accords with Aristotle’s metaphysics and ethics that the essence of the life of rational beings is to live a virtuous life of activities in accordance with rational prin- ciples and that this life requires that non-rational beings exist as resources for activities. Thus, Kant’s metaphysics of universal moral laws as the categorical imperatives of human actions and Aristotle’s ethics of virtuous living guided by phronesis (practical wisdom) are united to provide the moral and eth- ical cause of a socio-economic order in which humans as rational beings interact, unfold, and fulfill their lives of activities.

(2)

目   次

1.

経済社会秩序と人の行為の道徳性 ― 何をどう考 え整理したらよいのか

2.

カントの道徳形而上学と実践理性

2a.

「可能的目的の主体」と「目的の王国」

2b.

自由という原因性の理念

3.

結語―カントの「絶対的に善なる意志」とアリ ストテレスの「エンテレケイア」

1. 経済社会秩序と人の行為の道徳性

―何をどう考え整理したらよいのか

人は社会に生まれ,社会で育ち,常に個別的事 柄に関わりながら行為し,活動的人生をおくる.

行為は目的という善のために為され,活動はその 完全性という善のために為される.行為の善も活 動の善も,外部から規定されるものではなく,内 発的動機としてすべての人の内側から自発的に生 まれるものである.そうであれば,人の行為は,

社会のなかで何をどのような手段によって達成す るのかという知恵と,社会における行為はどのよ うな法則に従うべきかという知恵を必要とする.

前者の知恵が必要であることについては異存はな いにしても,後者の知恵が必要であることについ ては多くの異論がある.何が道徳律であるのかに ついての考えは人によって異なり,また文化や民 族や時代によって異なるため,それには絶対的根

拠が存在しないというのがその主な理由のようで ある.そのため,多くの人は,既に道徳的に振る 舞うことをよしとするにも拘らず道徳律そのもの については表だってあまり多くを語らない.或い は,人は,道徳律を社会的な規範と同じようなも のと考え,道徳律に従うかどうかは,規範から逸 脱したときの社会的制裁の強さによると考えて,

そのア・プリオリな原理について語ることを避け ているようでもある.根拠が何であるにせよ,道 徳律なくして,人は自分の行為的意志を決めるこ とはできない.行為は目的のために為されるため,

人は必ず目的を達成する諸々の個別的な手段のな かから,その目的をよく達成する手段を選んでい る.同時に,どの行為を行なうにせよ,人は,行 為が必要とする外部的手段を正しく選択するだけ でなく,行為が社会の相手と関わるかぎり,行為 を為す意志そのものをどのような法則によって規 定したらよいのかについて己の方針を明確にして おく必要がある.相互依存のなかで互いに支え合 って生きる我々にとって,行為そのものが従うべ き法則を確立しておくことは最も重要な課題なの である.

我々が如何に道徳を文化固有の社会的規範とし て相対化しようとも,道徳律ほど明確な原理を持 つものはない.何故なら,それは我々の理性が ア・プリオリに知っていることだからである.科 学の重要性を認識しながらも,道徳を相対化して

Key Words

socio-economic order, human existence as a life of activities, spontaneous order, sponta- neous existence, Kant’s moral philosophy, absolutely good will, autonomy of will, free- dom, legislation of moral laws, categorical imperatives, practical reason, person, Aristotle’s metaphysics and ethics, rational beings, the first principle, energeia, entele cheia, moral laws as the cause of a socio-eco- nomic order

経済社会秩序,自生的秩序,抽象性,人間存 在の抽象性,カントの道徳哲学,行為的意志 の規定,絶対に善なる意志,意志の自律,自 由,道徳的法則の立法,定言的命法,実践理 性,アリストテレスの倫理学・形而上学,理 性的存在者,エネルゲイア,エンテレケイア,

経済社会秩序の道徳的原因

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その重要性を認めようとしない人は,科学の発展 原理そのものが厳しい道徳律に支えられているこ とを再認識する必要がある.科学は人類の共同作 業である.従って,この作業は従うべき厳しい規 律の下で為されなくてはならない.この規律は国 や民族や文化の違いを超越するものであり,科学 に関与する人が絶対的に従わなくてはならない極 めて抽象的で普遍的な規律である.それは「嘘を ついてはならない」とするものである.この命法 は,どのような場合には嘘をついてはならないの かというような形での条件付き命法ではなく,ど のような場合でも嘘をついてはならないとする絶 対的命法である.即ち,科学に携わる者は,どの ような方法によって何を検証したのかを,すべて の人にわかる仕方で提示しなくてはならないので あり,データを改ざんしてはならないのである.

真に「何がどうなっているのか」を明らかにする ことを目指す科学は,思考と実験結果について,

そのすべてをあるがままに開示しなくてはならな い.この命法が要求する義務は,単に,科学を志 す者は概ね多くの科学者が合意したルールに従う ことが望ましいという意味での義務ではなく,科 学は人間が目指す最高の客観性を追求しなくては ならないという理念的意味での崇高な義務なので ある.このような道徳律なくして科学は成立しな い.況やその発展など望むべくもない.従って,

道徳律を否定することは,科学を否定するだけで なく,それに基づく人類社会の発展を否定するこ とと同じことなのである.

道徳律が社会における我々の活動を支えている ことは,明らかに経済社会についても言えること である.経済活動は利益を求める活動であるとし て,また人は利益のためなら道徳律に違反する行 為も辞さないであろうとして,経済活動は反道徳 的になりがちであると思い込んでいる人は,その ような勘違いを厳しく見直す必要がある.我々の 経済活動は,一人一人の自由な意思決定に基づく 取り引きの機会が自発的に生み出す秩序(経済社 会秩序)のなかで進行する.人間一人一人が自由 に意思を決定する存在であり,すべての経済活動

は自由意志による取り引きに基づいている.そう であれば,この活動は自由意志が従う法則に基づ いていることは明白である.アダム・スミスは

「道徳的情操論」(以下

TMS)において,経済社

会の発展原理を二つの原理のなかに見出してい る.一つは道徳的感情(moral sentiments)であ る.人には善いものを肯定し,醜いものを避けよ うとする感情があり,従って他人からよく見られ たり思われたりするものを願い,他人が否定する ものを避けたいとする感情がある.こうした道徳 的感情があるがゆえに,そこから社会で成功しよ うとする野望が生まれ,この野望を満たそうとす る努力が経済社会の発展原理になる.この野望な しでは経済活動は成立しないし経済秩序は拡大し ない.しかし,この野望だけでは経済社会はその 秩序を維持することができない.この重要な役目 を果たすものが,情念や愛着の美醜を区別する直 観的能力と自らの行為の善悪を判断することので きる道徳的能力である.アダム・スミスによれば,

一般的に行為の規律は,具体的経験を通してどの ような行為が適切な行為なのかを見極めることに よって形成されるものであり,最初から何らかの 行為の規律が存在し,この規律に対して整合的な 行為を我々が選び行なうという訳ではない.そう した規律は,行為の善悪に関する哲学的な考察に 先行するものである.道徳的規律を遵守すること は人の義務であり,アダム・スミスは,この規律 こそが人生にとって最も重要な原理であり,大半 の人はそれによって行為のどうあるべきかを指示 すると述べている.規律に即して行為する人は原 理をもつ名誉ある人であり,そうでない人は無用 の人である.アダム・スミスは,この道徳的能力 を道徳的感情の上に置いているが,その理由は,

もし人にこの能力が具わっていないならば,人の

行為は道徳的規律に従わず,それでは経済社会秩

序は崩壊してしまうからである.そして,アダ

ム・スミスは道徳的規律を遵守することが真の意

味での自己利益(self-interest)であると述べてい

る.スミスにとって自己利益とは自分を慮ること

だけでなく他人をも慮ることを意味しているので

(4)

ある.創造主の無限に善なる知恵が人の心に植え 付けた命法に背いたり或いはそれを無視したりし ても,そのようなことに罰が伴うわけではないが,

それは無益で不条理なことであるだけでなく,不 遜で不自然なことなのである.

同じように,ハイエクは,「法と立法と自由」

(Law, Legislation and Liberty)のエピローグにお いて,人間の価値の源泉について述べている.ハ イエクによれば,人間の価値には, 遺伝子が 決定づけている内部的な価値, 理性が合理的 思考によって構築した人工的価値, 文化或い は伝統という形で継承されている価値,という三 種の価値があるとしている.文化的・伝統的価値 には,文化的進化の過程で形成され伝承されてき た行為の抽象的規律も含まれている.そして,こ の文化的・伝統的価値を本能と理性の中間に置 き,拡大を続ける経済社会秩序の進化は本能によ るものでも,また理性の力によって生み出される ものでもないと主張する.また,ハイエクは,理 性というものは,道徳律と同じように,進化の過 程で自然淘汰(選択)された結果として生まれて くるものであると考えている.彼によれば,理性 が最初に存在しその理性によって我々はものを生 み出す技能を身につけることができると考えるこ とは致命的欺瞞(fatal conceit)である.道徳に関 しても,理性がより高い批判的立場に位置し,理 性が裏書きした道徳的規律のみが妥当な規律であ る と 考 え て は な ら な い と ハ イ エ ク は 警 告 す る

(Fatal Conceit, p. 21) .人は生まれつき賢明な存在 なのではなく,教えられてそうなるのである.ど のように行為するのかを学ぶことは,内観・理 性・悟性の働きがその結果としてもたらすもので はなく,むしろ順序は逆であり,学ぶ行為がそう した理性的働きそのものをもたらす源泉なのであ る.我々の知性が道徳律を生み出したのではなく,

道徳的規律に従って相互に作用し合うところから 理性の働きが育まれ,そこからこの働きに基づく 能力が育つのである.人は本能と理性の中間に位 置する伝統によって知性的な存在となり学ぶこと が可能になるのである.そして,伝統そのものは,

観察される事実を理性的に解釈する能力が最初に あってそれを起源として生まれてくるのではな く,観察される事実に対応していく習慣から生ま れてくるのである.この伝統は,それに従えば何 が発生することを期待できるのかを人に示すので はなく,状況に合わせて,如何に行為すべきかを,

或いはどのような行為を避けるべきかを人に教え るのである(Fatal Conceit, pp. 21 ―

22)

.我々の文 明がもたらした秩序は,人類の多様な存在様式や 存在規模において偉大なものであるが,このよう な秩序をもたらしたのは,進化した行為の規律で ある.それらは,所有,契約,交換に関する規律 であったり,競争や獲得の様式に関わる規律であ ったり,また私的自由の有り様に関する規律であ ったりする.そして,そうした規律には誠意が深 く関与している.これらの規律は,伝統・習得・

模倣によってもたらされるが,それらは主に人の 意思決定の範囲を指示するような禁止令という形 をとる.実に人類は,本能・衝動の要求を拒むよ うな抽象的規律を発達させ,それを習得すること によって文明を開拓してきたのである.文明は,

地域に限定された民族を超えて,多くの民族に及 ぶものであり,それが可能になるのは,多くの民 族の人達が,すべての民族に通用する抽象的規律 に従うからである.こうした規律は,一つ一つの 小さな民族を束ねて協力を確保し,社会の拡大に とってはむしろ妨げになった自然的道徳律(natu-

ral morality)を抑止する.このような抽象的な道

徳 律 こ そ が , 道 徳 と 呼 ば れ る べ き も の で あ る

(Fatal Conceit, p. 12) .こうしたハイエクの考えは,

Constitution of Liberty (Ch.4)においてもよく展開

されているが,そこにはアダム・スミスの考えと 通じる点があることも指摘しておきたい.アダ ム・スミスは,道徳的規律を遵守する義務を果た さなくてはならないとする自然的な義務感の育成 は,不確かで遅々として進まぬ哲学的究明に託さ れるべきではなく,むしろ宗教における畏敬の念 にこそ託されるべきであるとしている(TMS, pp.

233)

.旧約聖書の出エジプト記にはモーゼが神か

らさずかった十戒が記されているが,それらは,

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どのような条件のもとでは何をしてはならないの かという形で具体的に表現されている戒律ではな く,無条件的に従うべき戒律として抽象的に表わ されているのである.こうした戒律は道徳律の重 要な一例である.

道徳律が社会的規範であろうと理性に基づく抽 象的法則であろうと,この道徳律と言語の関係を 頭に入れておくことは極めて重要である.もとも と道徳律は,人間の生そのものが行為的生であり,

この行為的生が社会のなかで他の人々との関わり を通して営まれていることと深く関係している.

自分一人で生きるのであれば,自分の行為的意志 をどのように規定するのかという問題は発生しな い.そのことは,この世に自分しかいないのであ れば,言語を話す上において「規則に従って話す」

といった命法は何の意味も持たないことと同じで ある.ただ,人は自分一人で生きていけるわけで はなく,また,一人で生きていても言語能力が発 達するわけではないので,このように仮定的に物 事を語ることはできないのは当然である.我々が 道徳を語るときの出発点は,人間は社会のなかで 生きているという事実そのものであり,それを通 して自分の人生の善を求めるという揺るぎない事 実である.そうであれば,我々は誰が何を言おう と自分の行為的意志を規定しなくてはならない.

我々の行為は情念の影響を受けるが,行為的意志 の規定,或いは行為の普遍的形式を何処に置くの かという課題の追究は,感性ではなく理性によっ てなされなくてはならない.行為は無為になされ ることはなく,常に何らかの目的のために為され るものである.そうであれば,我々は,行為と目 的を繋ぐ関係を理性的に意識しなくてはならな い.また目的を達成する上において必要となる個 別的事柄(手段)についても理性的に熟慮する必 要がある.情念は,そのときそのときの状況のな かにおいて生まれてくるものであり,そのような 偶然的なものを頼りにして意志を事前的に規定す ることはできない.同時に,もし行為的意志の規 定に理性が関与するのであれば,我々はこの理性 の機能がどのようにして発達してきたのかを問わ

なくてはならない.このとき我々は,考える能力

(理性の能力)と言語の能力との関係に意識を向 ける必要がある.何故なら思考は言語を媒介にす るからである.人が言語を習得するには,社会に 生まれ社会で育たなくてはならない.人間には最 初から理性の能力が具わっていて,それを基にす れば人は自分なりの言語を開発することができる と考えることはできない.何故なら言語能力は人 との意思伝達(コミュニケーション)を通して開 発されるものだからである.そうであれば,最初 にあるのは共同社会であり,そこにおいて意思を 伝達しようとする意志そのものである.この共同 社会での意思伝達から言語が生まれる.意思の伝 達はルールを必要とする.最初にすべてのルール を決めておいて言語を話すわけではないので,こ のルールは言葉らしきものを話すなかから生まれ てくると考えるのが自然である.こうして獲得し た言語能力を媒介にして人は同時に理性の能力を 開発する.言語の発達と理性的能力の開発は互い が互いを補完するのである.ここで重要なのは理 性の開発には言語が不可欠だという事実である.

我々が知性の働きによって自らの行為的生を最善 のものにすることができるのは,社会から習得し た言語能力とそれに基づく思考力があるからであ る.この能力がなければ,理性は働かず,社会の なかで行為的生を充実したものにすることはでき ない.またこの能力がなければ,協業も成立しな い.即ち,共同社会から自然発生的に生まれてき た言語を媒介にするのでなければ,科学のような 知的活動を含めて人間のすべての有意義な活動は 生まれてこない.我々は,言語を学ぶとき言葉の 共通の意味を学ぶと同時に,言葉の配列には規則 があることを学びとる.或いはより根本的には,

漠然とした対象を文節する仕方を学び,それによ

って外界が何であるのかを記述する術を学ぶので

ある.そして,我々は,こうして学んだ意味と文

法的規則に従って意思伝達を行なおうとする.注

意すべきは,我々が,言語を話す上において言語

的規範に従っていることである.社会に生まれ社

会で育ち社会で活動的人生をおくる人間は,社会

(6)

から学んだ言語という手段を規範に従って使い,

思考と意思疎通を図り,協業し合うことによって 自らの人生を有意義なものにするのである.ここ に重要な社会的(言語的)規範の遵守が見てとれ る.それは,社会の言語を,これまでに蓄積され てきたルールと意味に従って話すというものであ る.先に,科学においても経済的活動においても,

道徳的法則或いは規範の遵守が不可欠であること について述べたが,そのような規範の遵守以前に,

我々には人間としての活動に不可欠な言語そのも のを規範に従って使うという義務が課せられてい るのである.この義務を果たさなければ,我々は,

人間の存在を意義あるものとすることができない ばかりか,社会の秩序を継続して維持することは できないのである.こうして見ると,道徳的法 則・社会的規範を守らなければならないとする 我々の義務は,何が自分の行為的生を支えている のかについての直接知に基づいていると言えるの である.

このように考察を進めると,我々が,人間の存 在に関わるすべての活動分野において,また言語 とそれに基づく思考活動において,道徳的法則或 いは社会的規範を遵守し,それによって自らの行 為的意志を規定しているのは事実である.人間が 社会的存在であり,社会なくしては人間の行為的 生は成立しないのであれば,我々は道徳的法則の 必然性を直接知っている,と考えることができる.

人は刑が課せられるから人を殺さないのではな く,人は最初から人を殺してはならないことを直 接知として知っているのである.だからこそ,殺 人に対する刑が成立し,また条件によってどの低 度の刑を課すのかという課題も生まれるのであ る.それは,虚偽の行為をしてはならないという ことについても同じである.我々は,虚偽の行為 を行なうと罰が課せられるから虚偽の行為を避け るのではなく,最初から虚偽の行為をしてはなら ないことを知っている.だから虚偽の行為の度合 いに応じて罰則を考えることができるのである.

社会を成立させているのも道徳的規律であり,社 会の活動の一部である科学を成立させているのも

道徳的規律であり,人間関係を支えているのも道 徳的規律であり,更に根本的にそれらすべてを支 えている言語と思考を成立させているのも規律で あるとすれば,道徳的規律や社会的規範について 理性的な考察を進めることは人間と社会の存在の 根幹に関わる極めて重要な課題なのである.「人 間にとって道徳的法則などというものが客観的に 存在するわけではない,それは道徳的規範と同じ ように相対的なものであって社会の変化とともに 変わるものである」とする立場をとる人も,そう した考えを言語を介して表現しなくてはならず,

その時,その人は言語の規律に既に従っているの である.このことはまた,思惟そのものが従う思 惟の法則においても言えることである.人は,言 語のルールとそれが可能にする思考のルールに従 わなければ,自ら思惟することもできなければ,

思惟した結果を表現し相手に伝えることもできな いのである.順序からすれば,共同社会から言語 が発生し,それと同時に理性的思考力が育まれ,

それによって知識(科学)や技術が誕生して優れ た協業が可能になり,行為的生の善の追求が可能 になる.しかし,同時に,アリストテレスが述べ ているように,我々人間の存在がそれのために存 在するという意味での第一原理からすれば,人間 の活動的生を完全なものとすることが人生(人間 存在)の第一原理であるならば,この第一原理は 道徳的法則・規律を必然的条件とする.ソクラテ スは,古代ギリシャの自然哲学者が自然の第一原 理を求めて哲学的考察を行なったのに対して,人 が生きるとはどういうことかという人間存在の根 本課題へと哲学的考察の方向を転換したのであっ た.ソクラテスの哲学には,己の人生を顧みると いう厳しい姿勢が貫徹している.この精神は今日 においても,まったくその力を失ってはいない.

教育の現場において,批判的に物事を思考するこ

と,自分の考えを大切にすること,議論を通して

互いの考えの過ちに気づくこと,といったことの

重要性が主張されるとき,それはすべてソクラテ

スが教えてくれたこと,即ち「吟味されないよう

な人生は生きるに値しない」とする精神への回帰

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であり,それはまた「汝自らを知れ」の精神の発 現でもある.今日,学問が爆発的に多岐にわたり,

もはや何が客観的であるかのについての意見が分 散し,あらゆる物事の相対化が進んでいるが,こ うした相対的意見を物事の本質と取り違えること によって社会のあらゆる活動にとって不可欠な道 徳的法則を見失うことはいかにも危険なことであ る.また,今日,自分にとって道徳的法則などと いうものは何の意味も持たないと言って憚らぬ者 は,自分が何を言っているのかを知らない者であ る.人は道徳をどのように相対化しようとも,自 分が何をどのように為しているのかを知らない者 はいない.もし知らないような者がいれば,それ は人ではなく物に過ぎない.非道徳的行為を行な う者は,それが非道徳的行為であることを知って いる.何故なら,非道徳的行為を為す者は,発覚 した場合のことも考慮して細心の注意を払ってそ れを為すからである.また,そのような行為によ って他人に嫌がらせを行なおうとする者は,内心 それが相手に嫌がられる戦略であることをよく知 っていなくてはならない.そのことを知らずして 嫌がらせを行なうことは不可能だからである.

道徳的法則が,理性によってもたらされるの か,それともそれは社会の進化のなかから生まれ てきた社会的規範を法則のレベルにまで高めたも のなのかということは論ずるに値することではあ るが,我々がこうした法則の意義について考え,

自らの行為的意志を理性的に規定することは,自 らの行為的生の完全性の原理から言っても,また 社会の存続を可能にするという意味での存続原理 の視点から言っても, 絶対的に重要なことである.

自らの行為的意志をどのような法則によって規定 して生きるのかという課題は,自らの心の問題で あり,外部から強制されるものではない.我々の なかには,人が心のなかで何を意識するのかは人 によって異なり,従って道徳的規範の内容も人に よって異なるのは当然であると主張する者もいる が,驚くことに我々が心の内で知る道徳的法則は 時代も民族も超えて,また一人一人の違いを超え て,殆ど変化していない. 「人を殺めてはならな

い」 , 「泥棒してはならない」 , 「虚偽の行為をして はならない」 , 「嘘をついてはならない」 , 「約束を 破ってはならない」といった道徳律は,無条件的 に表現されていて,時代や文化や個人差を超えた 普遍的なものである.多くの宗教が教える道徳的 法則は明らかにこうした法則である.このような 普遍的法則によって生きるべきなのか,それとも 道徳的法則に反してでもそのつどそのつどの自分 の利益を優先して行為すべきなのかに関して,

我々には選択の余地があるのかと問われれば,そ れには「否」と答えざるを得ない.利益とは人と の関わりを基とする経済活動から生まれるもので あり,それは必ず他の人々が道徳的規律に従って 約束を守り誠意を尽くすことから生まれるもので ある.もしこの条件が満たされないならば,自ら の努力だけによって利益を確保することはできな いのである.このことは,利益という概念は道徳 的法則という概念と必然的に結びついていること を意味する.後者がなければ,前者は存在しない.

この意味で道徳的法則は何らかの利益を求める 我々の活動の必然的条件なのである.更に,アリ ストテレスが述べているように,我々の生は行為 的生であり,この生の第一原理は,理性的可能態 である我々が完全現実態となって活動することに あるとするならば,利益とはこうした活動から生 まれるものである.利益とは収益から費用(代償)

を差し引いたものであるから,利益という概念を 理解するには,収益という概念と費用という概念 の両方を理解する必要がある.我々の活動が社会 のニーズに応えることができなければ我々の生産 から収益は発生しない.また,我々の活動は必ず 資源を介してなされるものである.この資源には 時間も含まれている.我々がある資源をある用途 に配分するときには,その資源を別の用途に配分 した場合には何が得られるのかという犠牲が伴 う.この犠牲のうち最も高いものが資源をある用 途に配分した場合の費用(代償)と呼ばれるもの である.そうすると,利益を得るためには,社会 が必要とするものを自らの活動によって生産し,

それにかかる費用を最小化しなくてはならない.

(8)

そうしなければ資源の配分において無駄が発生し ていることになるからである.我々が完全現実態 となって活動するとき,この現実態の活動に無駄 があってよいわけではない.こうしてみると,

我々の生は行為的生である,この生の究極的目的 は理性的可能態である我々が完全現実態となって 活動することである,この活動は社会が必要とす るものを生み出す活動である,生み出したものは 社会から収益をもたらしそれに必要な資源には費 用が伴う,資源には限界があり無駄は許されない,

従って,我々の活動はすべて生産がもたらす収益 とそれに配分される資源の費用との差である利潤 の最大化を意識してなされる,我々の生産活動は すべて他の人々の生産活動によって支えられてい るのであって,自分だけが独立して行うような活 動は存在しない,だとすれば我々の生産活動を互 いに支えるのは道徳的法則である,ということに なる.即ち,我々の生の第一原理にとって道徳的 法則は必然的条件なのである.また,我々はこの 第一原理を言語を介して現実化している.この現 実化において我々は意思の伝達を言語の規律によ って行っているが,「言語の規律を守る」という ことも実は道徳的法則の一部なのである.

このように現実態となって活動する我々にとっ て道徳的法則が絶対的に不可欠であることを内心 で認めてはいるが,一方でその原理をあたかも相 対的で永久に根拠を正すことのできない性質のも ののように語ることが横行しているのも事実であ る.特に,今日の教育においては経験的科学主義 が台頭し,自然及び倫理・道徳の形而上学的考察 は最早意味をなさないものとして忘れ去られてい るように見える.しかし,人間の幸福追求に資す るとみなされている学問においても,それを成立 させている道徳的規範があり,またその背後には 世界をどのように見ているのか,或いは人間をど のような存在と見なしているのかという哲学がそ の土台に存在していることを見逃してはならな い.人間の行動について経験的データを集めれば それだけで因果律・原因性に基づく知識が得られ るわけではないし,それによって人間存在の本質

的理解が進むわけではない.データにそれが含む 内容を語らせるには,経験に先立つ原理が必要だ からである.

人間学に属する諸々の分野の学問の背後には,

人間存在についての根本的見方が存在しているこ との一例として経済学を考えてみることは有用で ある.一口に経済学と言っても,それに含まれる 見方や考え方は多様であり,伝統的な見方もあれ ば異端的な見方もある.しかし,経済学をそれら しくしているのは,やはり伝統的な見方であり,

その視点から経済学を見てみると,経済学は心理 学,社会学,文化人類学,或いはその他の社会科 学とは異なる特異な学問分野であることがわか る.その理由は経済学が合理的(rational)な行 動を分析の対象とするからである.経済的行動は,

単に外から観察されるだけの行動ではなく,行動 する主体の内から内省的に観察される行動であ り,従って,この行動は,行動する主体が設定す る目的という主観的価値と,この主体の置かれた 資源制約(即ち,この目的の達成に資する資源の 使用可能な範囲)という客観的制約とが接すると ころで起こるものとして認識される.即ち,経済 主体の行動は,置かれた資源制約の下で,主観的 目的が最も達成されるように資源を配分するとい う意味での最適な行動とみなされるのである.

我々の行動が最適化行動であることに対する批判 はあるが(Herbert Simon (1955,1957)が主張した ように,人間・企業の行動の合理性は,最適化行 動を阻む諸々の条件の下での限定的合理性である とする批判はその主なものである),最適化の意 味は置かれた資源制約下において「最善の選択を する(目的が最もよく達成される)」という意味 でしかない.これを主観的格律として見れば,人 は,「その人の主観的目的が最も達成されるよう に使用可能な資源を配分せよ」ということになる が,人は誰でもよりよく生きたいとする目的(善)

をもつかぎり,そしてこの目的に資するもので自

らが諸々の用途に配分できるものはすべて資源で

あるとすれば,この目的の追求を,資源を無駄に

してはならないという条件の下で行へと命ずる格

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律は,我々に強制を強いるような格律とはなり得 ない.それはむしろ目的と手段に関する普遍的原 理として内的原理だからである.目的のための手 段を間違えれば必ず目的はそれだけ達成すること が難しくなることは否定できない.即ち,目的と 手段が何らかの実質的関係にあるからこそ,行為 が原因となって何かの目的が達成されるのであ る.個人の目的は主観的であっても,目的と手段 の関係は客観的でなくてはならない.この繋がり が客観的に存在しなければ,手段によって目的を 実現することは不可能である.第一義的に存在す るのは自らの内から自発的に生まれる目的であ り,そこからこの目的達成に資する手段に有用性 という価値が派生し,この有用性に基づいて選択 可能な範囲から最適な手段を選択するという概念 が導かれる.経済学の発展に多大な影響を与えた カール・メンガーが,「経済学原理」において,

我々にとって有用なものの価値のすべてを,我々 が最終的に求めるものの価値から演繹的に導きだ したのは画期的なことであった.しかし,この選 択の原理が普遍的原理であるのは,すべての人は その人固有の目的と手段の体系のなかで,自らの 目的を追求する存在であるからである.経済学に おけるこのような見方は,経験に先行するもので あり,我々が自らの行為を内省的に観察するとき に見える行為の実践的形式を明確にしたものであ ると言ってよいであろう.

この目的を単純に欲求或いは欲望という言葉 で置き換えることには問題はあるが,そのような 置き換えを認めるとすれば,個人の欲求はその人 固有のものであるから,目的の追求は,個人的な 欲求・欲望の満足という概念へと変貌する.そし て,人は,他の誰かがその人に代わってこの目的 を遂行してくれるわけではないので,自らが責任 をもってこの欲求・欲望の満足に努めることにな る.そうなると,詰まるところ,経済的な現象は 欲求が自発的に発生させる現象となり,従って,

道徳的法則に意味があるとすれば,それは欲求・

欲望の原理に基づかなければならないとされてし まうのである.欲求・欲望の満足という原理は,

理性が実利的な格律によって守ろうとする合理的 な自愛の原理と考えることもできる.人々は,こ の原理に基づいてそれぞれの幸福を追求すること になる.この追求は空想によるものではなく,手 段が目的の達成にどのように繋がっているのかと いう関係を意識して,適切な手段を具体的に選択 することによって実質的になされる.従って,幸 福の追求は単なる願望ではなく実質的な原理でな くてはならない.経済学で提示されている人間行 動や経済現象全体への理論的見方は,この意味で すべて実質的なものである.自愛の原理に基づく 幸福追求は,個人の目的が中心に置かれているた め,この追求は,自己の内的な価値を中心とする 価値体系と道具的手段の体系から構成される全体 的体系に基づいている.自分の目的がすべての手 段に目的への貢献度に応じた価値を与え,選択可 能な手段のなかから最も目的への貢献度の高いも のが選択される.交換すべきか,どれだけの情報 を取得すべきか,如何なる戦略によって事に臨ん だらよいのか,対人関係においてどのような態度 で接したらよいのか, どのような言語を話すのか,

会話にどれだけの時間を費やすのか,共同作業に どの程度参加したらよいのか等々,およそ考えら れる人間の意思決定において「どのように行動し たらよいのか」が問題になるとき,それに指示を 与えるとされる原理は,自らの実質的幸福を追求 する自愛の原理に還元されるのである.すべての 行動の動機がこの原理に還元されるのであれば,

人間関係も経済の取引関係も社会の繋がりもすべ て実利に基づく全体的体系であることになる.し かし,このような幸福追求の原理が我々の意志の すべてを支配すれば,我々は人の行動をすべから くこの視点から把握し理解することになる.こう した理解のもとでは,如何なる行動においても,

目的達成に貢献するという実利がその動因とな

り,それ以外の動因はすべて排除されることにな

る.結果,実利が認められなければ人がなぜ行動

するように行動するのかを説明することができ

ず,実利を超越した理論は空論であるということ

になる.このような世界観にはそれなりの信憑性

(10)

があることは認めざるを得ない.人は実際のとこ ろ空虚な想像的満足ではなかなか動かないからで ある.

自分の実質的幸福という目的を中心に添えると なると,我々はこの目標に或る種の形而上学的的 存在を認めなくてはならないことになる.確かに 我々の行為は何らかの目的(善)を目指してはい るものの,殆どの場合目指した目的を追求する過 程から一体何が得られるのかは実は事前的にわか っていない.にも拘らず人間の行動を資源制約下 での目的追求という形式によって分析するため に,経済学は,目的を有益性に基づく効用という 概念によって抽象化し,それを事前的に与えられ たものとみなすのである.この意味で「効用」は 形而上学的概念,即ち形式である.効用という形 式的概念が前提されれば,現実にそれが何である かを誰も直感によって把握することができない が,すべての手段の体系は,単独によっても或い はそれらの結合によっても,手段がどれだけの効 用をもたらすかという有益性の価値尺度で計られ た体系となる.効用の存在が中心に置かれること によって,現時点で視野の中に入るすべての手段 の効用価値も,或いは将来のいかなる時点におい ても視野に入るであろうすべての手段の効用価値 も,同じ効用によって計られ,選択可能な手段の 全集合から選ばれる多期間にまたがる「最適手段 の選択」は,配分された一つ一つの資源の最後の 一単位の目的達成度が均衡するように為されるこ とになる.人はこのようにして己を中心に置きな がらあらゆる道具的手段に何らかの有益性の価値 を付与して選択を行っているのである.そして,

時の推移とともに,置かれる環境も自分自身が設 定する幸福追求という目的の内容も,またそれに 連れて内的価値の体系も変化するため,目的と手 段の全体的価値体系も,またどのような手段を最 適な手段として選択するのかという選択計画も常 に変化することになる.これらの変化は経験を通 して実感されるため,幸福追求の実質的原理は経 験に依存することになる.また,最適手段の選択 という均衡現象は,選択という言葉が「自由な選

択」という意味に解釈されることから,「自由な 選択現象」であると解されてもよいが,それは物 理的な均衡現象に類似する性質のものであり,カ ントが「道徳の形而上学」及び「実践理性批判」

で問題にしている「自由」に基づくような選択の ことではない.効用という目的を中心にそえる限 り,手段の選択は,あたかも人間が明確な目的を 追求することを命じられた機械のように選択する 様相を呈することになるのである.この意味では,

目的と手段の実利的体系に基づく選択理論は,効 用の存在を前提するかぎり,機械論的な理論に帰 結してしまい,カントが問題にしている自由の原 理とは一線を画することになる.

ここで注意すべきは,方法論的に効用の存在を 認めるということは,この尺度のもとですべての 人間の行為或いは選択の対象となる手段が,それ が何であろうとも,比較可能な有益性の量に還元 されるということである.幸福の追求に資する財 だけでなく,道徳的行為までもが,効用という内 的価値によって計られるのである.道徳的法則を 守った場合に得られる利益とそれを守らなかった 場合に得られる利益を効用によって計り,前者が 後者を上回れば道徳的法則を守り,そうでなけれ ば道徳的法則に反してでも行為するという具合で ある.我々の行動はすべて資源という制約によっ て繋がっている以上,自己利益を優先するかぎり このことは必然であるように見える.義務を果た そうとして,それに必要な時間を工面すれば,そ の時間には必ず別の用途から得られる利益という 代償(犠牲)が伴う.或いは,心意に基づいて義 務を果たすことを当然のこととして受け入れ,そ れを果たそうとする徳が積まれていれば,義務の 履行は時間の節約に結びつくかもしれない.別の 言い方をすれば,すべての行為は,それが道徳的 行為であろうと,自愛に基づく実質的行為であろ うと,時間という資源によって繋がっているかぎ り,あらゆる行為が例外なく必要とする時間は,

必ず他の行為から得られる価値を犠牲にするとい

う意味での費用を伴うのである.実はそれだけで

はない,道徳的行為は,例えば嘘をつくことによ

(11)

って他人に誤った情報を与える場合であれ,或い は約束を違える場合であれ,それが他人の行動計 画を狂わせ,結果として直接的に関与する他人の みならず,これらの人々と何らかの関係にあるそ の他の人々が達成できたであろうものをも犠牲に する.従って,効用の存在は道徳的行為を含めて すべての行為を同一の数量で表される内的価値に 還元するが,この還元によって人々の繋がりを意 識した道徳的行為の価値,或いは非道徳的行為の 費用といったものを一応論ずることはできる.効 用理論にはもう一つの決定的に重要な有益性があ る.それは人間の行動を先験的に(ア・プリオリ に) 分析することを可能にするということである.

他の経済理論と違って効用理論は人の行動を最適 選択として先験的に導出する.このことの重要性 は見逃され易いが,他の経済理論の多くが歴史的 観察に基づいていたり,或いは人間の行動の実験 的観察から導き出された仮説であることを考える と,その違いは明瞭である.従って,効用理論に 基づく経済理論は先験主義的な理論であると言え る.効用理論とは反対に,歴史的観察に基づく理 論は歴史の運動の法則を歴史そのものから抽出し ようとする.こうした理論は,歴史の動きを法則 的に説明できれば,この法則に自然法則に似た妥 当性を与えることになる.しかし,この法則は,

その信憑性を疑うに足る多くの事実を捨象した上 でしか成立しない. 一見もっともらしく見えるが,

この歴史的運動法則の必然性は,我々の選択の自 由という概念にも,またこうした選択が生み出す 取り引きから生まれる秩序の自生性の概念にも矛 盾するし,また,運動法則があるとすれば,我々 は,如何なる目的と手段の体系に基づいた選択の 結果としてそのような法則が現れるのかを説明し なければならない.現象の法則性は,先に述べた 我々の行為の形式によって根拠づけられなくては ならないのである.法則は,何が原因として起こ れば何が結果として起こるのかという因果的繋が りがなければ成立しない.それを目的と手段の体 系から言えば,我々は何をすると何が得られるか を前もって知っているので,望む結果の原因にな

り得る行為を選択するということになる.詰まる

ところ,法則は我々の行為の原因性が自らの内に

あることによって説明されなければ,歴史を運動

法則によって説明することは自由という原因性と

矛盾する.更に追加すれば,我々は,歴史的事実

と言われるものが一体何を含んでいるのかという

ことを忘れてはならない.歴史上起こったすべて

の人の行為が記録されているわけではない.また

その時の環境が如何なるものであったのかを詳細

にわたって総括的に把握できるものでもない.も

し,我々に,歴史上起こったすべての行為を示す

膨大なデータが示されたならば,我々はそのデー

タから何を読みとったらよいのであろうか.この

時我々が構築しうる理論は無数にあるであろうこ

とは容易に想像がつく.無論,我々にそのような

データが与えられているわけではない.それは現

在の時点についても同様である.一人一人が,置

かれた状況のなかで何を選択して実行したのかが

すべて記録されていたと想定するならば,我々が

理論化によってなしえるのは膨大な事実の捨象に

よってである.我々は,こうした捨象によって歴

史を解釈するのである.想像もしていなかった新

しい事実が発見されれば,歴史の解釈は大転換を

迫られる場合もあるし,また現代の視点が要請す

る新しい解釈の必要性によっても歴史は常に見直

される.従って,歴史的諸法則なるものは,それ

が如何に信憑性があるように見えようとも,歴史

を事実に基づく可能的解釈の全体として捉え,常

に一つの解釈には限界があることを意識しておか

なくてはならないのは当然のことである.これと

同様に,我々の行動の観察についても,観察結果

は行動における自由の原因性(資源制約下での最

適選択という行為の形式)によって説明されなけ

ればならない.人間は観察されるように行動する

というだけでは,観察されるような行動を自由な

選択結果として説明したことにはならず,結局観

察から引き出される一見事実と思い込まれがちな

経験的諸法則や経験的事実に依拠する理論は,そ

れだけでは我々の選択そのものを説明したことに

はならない.歴史的法則の必然性と同じように,

(12)

観察結果に見られる諸法則の必然性も,結局は自 由の原因性に基づく選択の結果として説明されな くてはならないのである.このようにして,歴史 の観察,行動の観察といった経験的事実を土台と する理論は,同時に先験的な選択の理論(人間の 行為の先験的形式)を要請するのである.効用理 論は経験的事実を超越した形式である.この理論 は,我々の行動を先験的に把握することを可能に するのである.

効用理論に代わって一世を風靡した理論にケイ ンズ経済理論があるが,この理論は実は経験的事 実に基づいた理論でもなければ先験的理論でもな い.ケインズの理論は,経済の主要変数間の構造 方程式を基として構築された理論的モデルであっ て,大恐慌のような不況の出現を説明することが できるという意味で,それを十分に説明すること ができなかったとされる古典派理論に対して画期 的な見方を提供したことは事実である.しかし,

構造方程式が表している変数間の関係は,後の計 量経済学の発展がその関係の推計に貢献したので あるが,最初から経験的に割り出されたものでは ないし,また経済行動を資源制約の下での最適化 行動として捉える経済理論から導出されたもので もない.細かいことを捨象すれば,主な構造方程 式には,今期の消費は今期の所得に依存するとい う関係,今期の投資は今期の金利に依存するとい う関係,或いは,今期の貨幣需要は今期の所得や 今期の金利に依存するという関係といったものが あるが,これらの構造方程式は前提されているだ けで,それらには効用理論のような先験的裏付け がない.従って,経済での生産・所得・雇用に見 られる変化は,将来への不安が引き起こす投資家 の不安心理が引き金となって起こる投資の変動 が,限界消費性向に起因する乗数過程によって増 幅された反応結果とみなされる.将来への見通し が期待の概念を通して導入されても,将来への期 待はやはり過去の経験に基づいて形成されるとい う形で導入される.従ってケインズ理論のモデル そのものは大まかに言って過去依存型の理論であ る.この理論に対して続出した批判は,当然のこ

とながら構造方程式の関係が先験的に導出されて いないとするものであった.先験的に導出すると は,構造方程式の関係を目的と手段の体系から規 範的に導出することであり,それは,経済主体の 最終目的である効用を,資源という手段の制約条 件下で,最大化するという形式から導出すること を意味する.合理的期待形成仮説によってこの批 判は一気に進むことになり,この批判によって今 日では如何なる理論も目的と手段の体系に基づく 先験的関係をその基盤とするようになったのであ る.ところで,効用理論によって目的と手段の体 系から行動を先験的に導出するということは,こ の理論が本質的に未来志向型であることを意味し ている.我々の行為は現在から将来へと計画を通 して繋がっているのであり,効用理論は,現在の 選択肢も将来の選択肢も同様に同じ効用という尺 度に還元する.そのことが我々の行動を先験的に 現在から将来にわたる行動計画として導出するこ とを可能にするのである.また効用理論が現在か ら将来にわたる選択肢すべてを包括すると,この 理論は必然的に将来の経済環境の予測を必要とす る.このことから最適に期待を形成するとはどう いうことかという問いが生まれ,それに答えて最 適期待形成理論の一環として合理的期待形成理論 が舞台に登場し,それが構造方程式や過去依存型 期待形成理論を軸とするケインズ理論的経済予測 に伴う矛盾を露呈したのである.こうした経済理 論の興亡の詳細については別紙で論じたが(早川,

2011),効用理論そのものが先験的導出を可能に

したこと,またこの理論が包括する選択肢が現在 の選択肢だけではなく将来の選択肢にまで及ぶ と,効用理論はそれまで以上に理論的力を発揮す るに至ったことは事実である.この理論的展開は,

我々は常に目的を設定することによって選択計画

を立て,この計画の一環として現時点で何を為す

べきかを決めている事実と符号する.人間の行動

は,過去に誘発されるようなものではなく,常に

未来に設定する目的を達成するような行動だから

である.我々の過去の行動は,現在自分が保有す

る資本(人間資本という能力を含めて)・資産を

(13)

形成するものであり,そのかぎりにおいて過去の 行動の結果は現時点での初期条件を成し我々の将 来の行動の範囲を限界づけるものである.しかし,

それだからといって過去の行動が現在及び将来の 行動に必然的に結びつくわけではない.現在にお いて我々が何を為すべきかを知ることができるの は,現在の可能的選択肢が我々が将来に設定する 目的にどれだけ貢献するのかが(想像の域をでな い場合もあるが)或る程度見えるからである.別 の言い方をすれば,アリストテレスがニコマコス 倫理学において述べているように,将来に設定す る目標があって初めてそれを達成する副次的目的 がわかり,更にそれらを達成するためのより副次 的な目的がわかり,と言うようにこうした関係を 辿っていくことによって最後に現時点で何を為す べきかが見えるのである.行為の善(目的)がな ければ,我々は今為すべきことを知ることはでき ないのである.

人間の行動をこのような目的と手段の実利的体 系として把握することが当然のこととして認めら れると,また効用理論が道徳的行為を含めて我々 の行動の説明にそれなりの有用性を持つことが認 められると,我々は人間のすべての行為をそのよ うなものとして解釈することになる.こうした見 方の説明力・応用力が強ければ強いほどその傾向 は強くなる.しかし,我々の理性は,目的をどの ように達成したらよいのかについて考えるだけの 能力を具えているだけではない.我々の純粋な理 性は,人間の行動をどのように理論的に把握しよ うとも,理論はすべて仮説であることを知ってい る.しかし,仮説ではあっても,人の行為は目的 と手段の実利的体系に基づくとする見方の有用性 は認めざるを得ない.何故なら,人は何らかの実 利的動機がなければ行動しないであろうことを 我々は自分自身の行為の内的な観察によって知っ ているからである.如何に「そうすべきではない,

こうすべきである」と叫んでみても,人は動機と なり得る実利的な何かがないかぎり,そのような 命令には従わないものである.しかし,同時にま た我々の理性は,この仮説が人の行為の全範囲に

及ぶものではないことを知っている.我々の理性 は,目的と手段の実利的体系を超越することが可 能であることを知っているからである.人の行為 はその人が設定した目的によって決まると考える ならば,すべての選択行動はこの目的との関連で しか把握することができないのは当然である.で はあるが,同時に目的と手段の実利的体系は安定 的なものではなくむしろ非常に不安定なものであ り,社会で生きる人間の規範になるにはあまりに も脆弱なものである.何故なら目的そのものも自 発的に変化し,どのような手段が開示されてくる のかも常に変化するからである.人間はすべてこ うした体系によって行動すると仮定してしまえ ば,互いの行動は,それが当てにしている実利に よって解釈され,誠意ある行為も義務を守る行為 もすべからく実利が伴わなければ為されない行為 とみなされ,その内的価値は,他の道具的手段と 同様に比較可能な価値として存在することはあっ ても,比較を超越した価値としては存在しないこ とになる.我々の選択の多くは確かに実利に基づ いた選択であり,そしてこの選択が幸福を実質的 に実現しようとする我々の努力と不可分利的に繋 がっていたとしても,我々は実利に基づかない選 択があり得ることを理性の働きによって知ってい るのである.実は実利的行為があるということを 知っているということは,逆に実利に基づかない 行為があり得ることを知っていることを意味す る.もしすべての行為が実利的行為であるとする ならば,我々はもともとそれがどのような行為な のかを知ることはできない.対立する二つの概念 があって初めて,それぞれの意味が理解できるか らである.効用をもたらす実利によってしか活動 しないのであれば,我々の存在は,効用の最大化 が支配する機械と何ら変わらなくなる.自由に選 択していると思い込んでいても,効用機械を想定 するかぎり,同じ効用尺度に支配された人間は置 かれた資源の制約が同一であるかぎり必ず同じ行 動をする機械的存在になってしまうのである.

効用理論を受け入れるかぎり, 我々は人間の

すべての行動を効用という同一の尺度に還元し,

(14)

何を為すべきかを衡量によって決めているという ように解釈することになる.効用そのものは形而 上学的概念であるにも拘わらず,結果として我々 は道徳の価値を他の道具的手段と同じ比較可能な 土台に乗せてしまうのである.道徳と他の道具的 手段を比較することは不可能であるとして,道徳 的な行為には,道具的手段の効用とは別にそれ自 体の特異な効用があるとして,道徳的行為の選択 をそれ固有の効用によって分析しようとする動き はある(Etzioni 1988) .しかし,両者に効用に基 づく序列があるかぎり,それらが個人のなかでど のように包括的に処理されるのかについては未解 決の問題が多く残っている.先にも述べたように,

確かに道徳を効用の視点から分析することはある 範囲内で可能であり,このような分析は実利に基 づいた分析であるため,対象となる道徳的行為は この意味で現実性を獲得する.そしてこの分析可 能性を延長して,人間のすべての行為は実利的行 為であると思い込んでしまえば,理性はその解釈 に基づいて道徳的行為の是非を合理的に判断する ことになる.このような考え方がこの世界には充 満しているように見受けられる.あたかもそれは,

行動はすべて何らかの目的を達成するための実利 的行為であるとして,そのような原理に基づいて 経済社会を解釈した上で己の行動を決めるほうが 理性への負担が少なくなるかのようである.しか し,我々の理性は,行為が実利に基づかずに為さ れる場合を想像することもできるし,また我々自 身そのような行為を実際に実行することができる ことも知っている.我々がある人を尊敬する場合,

その理由はその人が大きな実利的成功を収めたか らでも社会的名誉を得たからでもない.その人の 行為は既に報酬によって報われている.行為がそ れに見合う何らかの報酬によって報われていると き,我々がその行為を為す人を尊敬することはあ り得ない.また人間の人格性が持つ尊厳は,実利 にも名誉にも基づくものではない.人は,明らか に実利や名誉といったものを求める行為とは別の 行為を為し得る存在である.この行為は一体どの ような行為なのであろうか.或いはまた我々は,

目的を求める行為において,その行為が従うべき 道徳的法則を意識する.例えば,嘘をつかずに目 的を達成する,誠意を尽くして仕事を行う,など の場合である.その場合,この法則に従ったとこ ろでどれだけの実利が得られるのかを計ることな ど到底できない.ただ,虚偽の行為が大きな被害 をもたらすことについては誰でも経験的に知って いるので,こうした経験的知識を援用して道徳的 法則を破ることが相手にもたらすであろう被害を 推測し,それを道徳的法則を守ることの実利と考 えることはできる.しかし,このような被害が直 接的に或いは間接的にどれだけの相手に及ぶのか は我々の想像を遥かに超えている.また,我々は 不完全ではあるが,相手が誠意を尽くして接して くれる場合には,同じく誠意をもって接したいと 思い,相手が虚偽の行為をしなければ,同じよう に虚偽の行為をしないようにしたいと思う.こう した行為の組み合わせが登場することにも我々は 注目すべきである.

我々が行為の全範囲を考察する際,注意したい

ことがある.我々は実利を求めて行為する存在で

あるという考え方がそれなりの魅力をもつもので

あることは既に述べた.人間が実利のみしか求め

ないとすれば,そしてそのような原理が人間その

ものに内在するとすれば,我々はあえて実利を意

識する必要はない.我々は,あたかも機械である

かのごとく動因となる何かがそうさせるように最

も実利が得られる方向へと行動をとるからであ

る.「実利を求めよ」という命令は行為の格律で

はあり得ないのである.それに従わないという行

動が考えられない以上,我々の行為はすべからく

我々の自由な意思決定によって決まるのではな

く,内在する効用が命じるままに行動するからで

ある.我々の行為には最早意思決定が介在するこ

とはないのである.先にも述べたが,我々の行動

が実利的行動であるとするのは一つの仮説であ

る.我々の行為が実利的行動であるといっても実

利はすべて時の経過とともに経験的に得られるも

のであり,この実利がどのような確率をもって実

現するのかは殆どの場合我々の予想の範囲を超え

参照

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