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古典派経済学と近代日本 : わが国への古典派導入 前史を中心として

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(1)

古典派経済学と近代日本 : わが国への古典派導入 前史を中心として

その他のタイトル Modern Japan and the Classical Political Economy

著者 杉原 四郎

雑誌名 關西大學經済論集

巻 13

号 4‑6

ページ 769‑789

発行年 1963‑12‑20

URL http://hdl.handle.net/10112/15433

(2)

今から恰度百年前の一八六三年︵文久三年︶に︑

大学のフィッセリング教授から経済学の講義をうけはじめた

C

( 1 )  

て︑七ヶ月の航海の後その年の六月にロッテルダムに到着した彼等は︑夏期休暇中現地でオランダ語の習熟につと

め た

が ︑

徳川幕府からオランダに派遣された二人の留学生が︑

いよいよ十一月からフィッセリングの自宅で毎週二回の講義をきくことになり︑以来一八六五年の秋まで

( 2 )  

の満二年間︑彼等の勤勉な学習がつづけられた︒あたかもその頃神田孝平や福沢諭吉等によっても西欧の経済学の

わが国への輸入がくわだてられつつあったが︑彼等のようにこの事を目的としてヨーロッパに留学し︑そこでニケ

年も系統的な学習をしたものは当時他になかったのであって︑その意味で彼等のこの勉学は︑木村毅氏がこれを杉

田玄白の﹃蘭学事始﹄になぞらえて﹁経済学事始﹂とよんだように︑日本人の経済学研究史の開幕をつげるものと

( 3 )   して重要である︒それ以来現在までわが国における経済学の歴史はすでに百年をけみしているが︑その間に日本と

古典派経済学と近代日本︵杉原︶

三 九

その留学生とは西周助・津田真一郎の二人であっ

ーわが国への古典派導入前史を中心として

1

古 典 派 経 済 学 と 近 代 日 本

ライデン

(3)

7 7 0  

三九二

いうこの後進資本主義国において西欧の経済学がいかに輸入され消化され発展せしめられて来たかという経過を︑

一方では世界の経済学の流れからの影響との関連を考え︑他方では日本資本主義の発展との照応を念頭におきつつ︑

い て

以 来

たどって見ることは︑非常に興味ある問題であろう︒私は学生時代に本庄栄治郎博士の日本経済思想史の講義を聴

︑ ︑

︑ ︑

︑ ︑

この方面につよい関心をもっていたが︑数年まえから︑古典派経済学の研究史という視角から近代日本

における経済学の発展というこのテーマにとりくむことをくわだて︑数人の同志と共同研究をすすめてきた︒古典

派経済学に焦点をしぽったのは︑わが国がはじめて接した西欧の経済学がほかならぬ古典派であったし︑しかもそ

れ以来現在にいたるまで︑学界の主要な研究対象となった経済学は時代とともに変遷を重ねて来たものの︑古典派

への関心はどの時代でも失なわれることなく抱きつづけられて来たし︑古典派に関するわが国の学史的な研究水準

は今や国際的に見てもかなり高いところにまで到達しているという事実と︑この国の経済学研究が一般的に有し

( 4 )  

ているいわば宿命的な特質が︑古典派ととりくむ場合の研究者の問題意識にも︑あるいはむしろそこにおいてこそ

最も顕著にあらわれるのではないかという予測とによるのである︒だが問題をこのように古典派経済学に限定して

もなおかつその対象領域は広汎であり︑しかも百年という長期にわたる研究史をふりかえることは︑われわれにと

ってはいわばホームグラウンドで仕事をするという決定的な有利さがあり︑この方面に関する先学の貴重な業績を

( 5 )

6)  すでにもってはいるものの︑文献調査という基礎作業の面でも︑分析視角の設定という方法論の上でも︑いまなお

未開拓な分野や未解決の問題がすくなくなく︑総括的な見通しを一応なりともたてることは︑なかなかむつかしい

現状である︒そこで本稿も未だ序論的覚え書きの域を脱しないのだが︑まづ百年の発展のあとを概観するための時

代区分を設定し︑ つぎにその準備期乃至前史ともいうべき大正九年までの時期におけるわが国への古典派の導入・

開西大學﹃網清論集﹄第十三巻第四・五・六合併号

(4)

(1)

いうまでもなく後の西周

(1829 ー 1897)•

津田真道

(1829 ー 1903) の二人であって、彼等の伝記につぎの二書があり、共 にこのオランダ留学のことにも関説している︒森鴎外﹃西周仔﹄一八九八年︑津田真治﹃津田真道﹄一九四

0

年 ︒ ( 2 ) フィッセリングと二人との間の交渉は︑フィッセリングの令息によって公表された当時の彼等の往復書簡によってうかが うことができる︒この資料は幸田成友や木村毅によって紹介されているが︑とりわけ木村﹁経済学事始ー文久二年遣蘭留

学 生 記 事 ー ﹂ 一 九 ︱ ︱

1 0

年︵木村﹃明治天皇と御治世下の人々﹄一九四二年所収︶がくわしくその経過をのべている︒

( 3 ) わが国に西欧の経済学をはじめて導入した先覚者として普通あげられるのは︑むしろ︑神田孝平と福沢諭吉であって︑そ

れは神田﹃農商弁﹄︵文久三年︶・﹃経済小学﹄︵慶応三年︶︑福沢﹃唐人往来﹄︵文久年間︶・﹁西洋事情﹄︵慶応二年︶

などの彼等の著作が︑西欧経済学の紹介に大きな力があったことによる︒とりわけ神田の﹃経済小学﹄︵後に﹃西洋経済 小学﹄と改題︶は

W .

E l l i s ,   O u t l i n e s   o f o c   S i a l  

Economy•1笠8

のオランダ語訳によ.つてはじめて経済学を体系的に紹介 したという栄誉をになうものであろう︒これに反して西と津田の帰国後の活動の主眼は経済学の分野にはなく︑西の湯合 は哲学︑津田においては法律にその重点がおかれていたことは事実である︒だがたとえ﹃経済小学﹄ほどのまとまった著 作の公刊を経済学の分野でしなかったとしても︑彼等が講義や雑誌論文を通じてフィッセリング直伝の経済学の知識を当 時のわが国につたえていることもまた事実であって︑彼等がせまい意味の経済学者ではなく包括的な知識をもった啓蒙家 であったー庶生義輝氏は彼等のことを﹁日本百科全書派﹂とよんでいる︒麻生﹃近世日本哲学史﹄一九四二年︑六ページ ー と い う こ と は

︑ 三 で 見 る よ う に

︑ 当 時 と し て は む し ろ 積 極 的 な 意 義 を も っ て い た と い わ な く て は な る ま い

. ( 4 )   C f .   S .   S u g i h a r a ,   S u r v e y f   o   S t u d i e s

n   i   t h e   H i s t o r y   o

8  f   S 

i a l   a n d   E c o n o m i c   T h o u g h t   ( 1 9 5 6  

1 9 6 0 ) ,   J a p a n   S c i e n c e   R e o i e S 5 E C o

ミ 0

m さ S c i e n c e , N o . 8 .   1 9 6 2 .   p .   2 1 .   ( 5 ) 文献調査の面ではわが国のものをもふくめた古典派に関する包括的な文献目録を編纂されつつある天野敬太郎氏の貢献は

大きい。スミス・マルサス・リカードウについてはすでにつぎの二書が刊行ずみである

~K.A

1 3   a n o ,   B i b l i o g r a p k y   o f h e   t   C l a s s i c a l   E c o n o m i c s .   V o l .   I

.  

( P a r t   1 , A   d a m   S m i t h ,

a   P r t   2 ,   T .   R .   M a l t h u s ) .   1 9 6 1 .   V o l .   I I   ( P a r t   3 ,   D .   R i c a r d o ) . 1962•O   ( T

h e   S c i e n c e   C o u n c i l   o f   J a p a n i   D v i o n   o f   E c o n o m i c s ,   C o m m e r c e   a n d   B u s i n e s s   A d m i n i s t r a t i o n ,  

E c o n   0 1 3   i c   S e r i e s   N o .   2

7 ,   30).M•

s .

︑ルおよびそれ以外の学者たち︑ならびに古典派一般に関する文献目録は現在続刊の準備中である︒

古典派経済学と近代日本︵杉原︶ 受容・研究のあらましを考えて見ることにしようと思う︒

三九三

(5)

772 

第一期文久三年(-八六三)ー—'明治ニ―年(-八八八) ミルについてはさしあたり︑関西大学経済学会資料室編﹁ジョン・ステュアート・ミル文献目録﹂︵﹃経済論集﹄第六巻 第七号・一九五六年︶︑杉原﹁戦後のわが国における

J.S

・ミル文献について﹂︵﹃経済論集﹄第三巻第四号︑第四巻

第二号︑一九五四年︶を参照︒

( 6 ) わが国における古典派経済学のあり方の特質をきわめるためには︑先進文化の後進地帯への伝播と受容についての一般的 な考察は別としても︑先進資本主義国から後進国への社会科学の伝播と受容について︑とりわけ後進諸国における経済お よび経済学の発展とその過程において古典派のはたした役割りについての比較思想史的考察を必要とするであろう︒ここ ではこの方面についてわたしの利用しえた若千の文献をあげておこう︒日﹁古典学派の学説の仏・独・米への流入﹂に関 する大道安次郎︑山川義雄両氏の概観︵堀経夫編﹃経済思想史辞典﹄一九五一年・三ニニー一二四四ページ︶︑口後進諸 国のプチ・プルジョアことにインテリゲンチャが古典経済学に接触した湯合に共通して見られる﹁観念的な深さと非現実 性﹂を以て﹁後進国の古典経済学のあり方の特色の一っ﹂とする出口勇蔵氏のローマン主義経済学の解説の中での指摘

︵出口編﹃経済学史﹄一九五三年・ニニ六ーニニ九ページ︶︑国日本や中国の事情にくわしい香港大学のカーピー教授 がアジア諸国の西欧経済学の.受容のし方についてのぺた興味ふかい論文︒

E .

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K i r b

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1  

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4 .  

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4 1

7 .

 

て い

る が

( 1 )  

幕末以降の日本経済学史の時代区分については︑あるいは経済学一般の発展という観点からの︑あるいはスミス

( 2 )

3)

4)

5)  研究史︑マルサス研究史︑リカードウ研究史︑マルクス経済学研究史という特定の視点からの種々な試みがなされ

日本資本主義の段階区分との照応をも念頭におきなが ここではこれらの諸見解を参考にするとともに︑

ら︑古典派経済学研究史という本稿の主題にしたがった時代区分を︑

前史︑文久三年(‑八六三︶ーー'大正九年(‑九二

0 )

開西大學﹃穂漬論集﹂第十三巻第四・五・六合併号

一応つぎのように設定して見たいと思う︒ 三九四

(6)

第三期

まづ前史と本史との区分を一九二 0 年にもとめた理由であるが︑ 一九一四ー一九一八年の第一次世界大戦と一

九一八年のロシア革命とが世界経済にとって︱つの劃期をなし︑わが国にとっても一九一八年の米騒動と一九二〇

年の戦後恐慌とによって日本資本主義があたらしい段階に入ることは︑

思想界もこれを契機にいわゆる大正デモクラシーの時代に入るのだが︑経済学の分野に限っていえばつぎの諸点が

大学にも経済学部が設置され︑ 注目される︒日一九一九年東大と京大の法学部から経済学部が分離独立し︑同年の大学令で改組された多くの私立

( 7 )  

アカデミックな世界における本格的な経済学研究の体制がととのった︒口これまで

経済学に関する全国的な唯一の権威ある学会であった社会政策学会がドイツ新歴史学派の退潮と社会主義思想の撰 頭という事態を反映して往時の活気を失い、学界における指導的地位を去っていった。•国一九一九年創刊の河上肇

の個人雑誌﹃社会問題研究﹄や同年出たカウッキー・高畠素之訳﹁マルクス資本論解説﹄の影響によってわが国の

思想界に大いに普及したマルクス主義は︑一九二 0 ーー二四年の高畠による最初の﹃資本論﹄完訳を契機として︑本 B 

古典派経済学と近代日本︵杉原︶ w

第四期昭和二八年(‑九五三︶ー昭和三八年(‑九六三︶

I I 第二期 m 

第一期 第三期 明治四 0 年(‑九 0 七︶ー│大正九年(‑九二

0 )

( 6 )  

本史︑大正九年(‑九二

0 ) ‑

昭和三八年(‑九六三︶

I I

第二期 明治ニ︱年(‑八八八︶ーー明治四 0 年︵一九〇七︶

大正九年(‑九二

0 )

ー昭和十二年(‑九三七︶

昭和十二年(‑九三七︶ーー l 昭和二 0 年(‑九四五︶

昭和二 0 年(‑九四五︶ー̲昭和二八年(‑九五三︶

ほぽ異論のないところであろう︒わが国の

三九五

(7)

774 

を区分することにしたのである︒ な体裁をとっているにもかかわらず︑ 閥西大學﹃網済論集﹄第十三巻第四・五・六合併号

( 9 )  

格的な研究期にうつることになった

0 四このような学界の新動向︑とりわけマルクス経済学の本格的導入に関連し

て︑わが国の古典派研究も新しい段階に入る C すなわち︑一九二 0 年には︑経済学史に関しての外国の書物の醗訳的

紹介や教科書的通史ならぬ専門的研究書としてはおそらくわが国では最初のものと思われる高橋誠一郎﹃経済学史

研究﹂が公刊されたし︑

論上のリカアドとマルクス﹂が発表されるし︑さらに︑独自の視角に立って古典派の思想を近代経済思想の流れの中

( 1 0 )  

に位置づけた河上肇の﹃近世経済思想史論﹄があらわれた︒別稿でくわしくのべたように︑本書は︑啓蒙的概説的

典派の通史であって︑ マルクス﹃剰余価値学説史﹄をつかったおそらく最初の本格的研究論文たる堀経夫﹁価値

﹁スミスからマルクスヘ﹂という視角から書かれたわが国における最初の古

この点を明確直裁に説明することによって︑古典派に対する一般的関心を高揚し︑わが国の

古典派研究の本格的段階を招来する上に大きな役割りをはたしたのだった︒

ス『富国論』の全訳・一九ニ―ー~二三年)、 あるいは彼の直接の指導のもとに︵堀経夫によるリカードウ﹃経済原論﹄の

わが国最初の抄訳・一九ニ︱年︑谷口吉彦によるマルサス﹁人口の原理﹄初版のやはりわが国最初の練訳・一九二三年︶︑古典学

派の代表的な古典の醗訳が本書の刊行につづく数年の間につぎつぎとおこなわれたことは︑わが国の古典派経済学

研究史上において河上のしめるべき地位の大きさと︑ その研究史がまさに大正十年以降において新しい段階に入っ

たことを︑あわせてしめすものといえるであろう

C かくてわたしは本書公刊の一九二 0 年をもって︑前史と本史と

( 1 )

た と

え ば

大 塚

金 之

助 ﹁

経 済

思 想

史 八

要 領

> ﹂

︵ ﹃

日 本

資 本

主 義

発 達

史 購

座 ﹄

所 収

︑ 一

九 一

i

三 年

︶ ︑

本 庄

栄 治

郎 ﹃

日 本

経 済

想史概説︵一九四六年︶︑舞出長五郎・山田盛太郎﹁理論経済学・経済学史﹂︵人文科学委員会編﹃日本の人文科学︑回

河 上

の 示

唆 に

よ り

︵ 竹

内 謙

二 に

よ る

ス ︑

一 九

(8)

顧と展望﹄所収︑一九四九年︶︒

( 2 ) 杉原﹁わが国のスミス研究史に関する覚書﹂

( 3 )

市原亮平﹁わが国のマルサス研究史﹂ ︵﹃経済論集﹄第六巻第四号︑一九五六年︶ c

︵﹃経済論集﹄第七巻第四号︑一九五七年︶︒

( 4 ) 真実一男﹁明治および大正前期におけるリカァドウ禅入史﹂︵大阪市大﹃経済学年報﹄第十六集︑一九六二年︶︒大塚︑

杉原︑市原の時代区分はこの真実論文に紹介されている︵六六

I

六七ページ︶︒本庄氏は明治初期ー日清戦争までの醜 訳時代︑日清戦争から第一次世界大戦までの建設時代︑および大正中期以後の三つに区分し︵前掲書ニ一五ーニニ八ベー ど︑舞出・山田両氏は︑﹁わが国の理論経済学及び経済学史研究は︑大体において︑三時期を劃して発展してきたもの とすることができる︒第一期は前史︹即ち主として外国経済学の輸入の時期︺第二期は理論経済学︹各︺派の確立期︑第 三期は戦後の期これである︒第一期は主として明治維新︵一八六八︶から第一次世界大戦頃までを包括し︑第二期は第一 次大戦後から今次の大戦頃までを包括し︑第三期は敗戦後の現下で将来の趨向をはらむものこれである﹂︵前掲書三二〇

l ︳二ニ︱ページ︶とのぺている︒

( 5

) 遊部久蔵﹃﹁資本論﹂研究史﹄(‑九五八年︶︒著者は﹁高畠氏の︹﹃資本論﹄の︺訳本の刊行が開始した大正九年を一 つの割期としてマルクス経済学の研究が本格化したと考える﹂とし︑大正九年以前を序幕的時代︵明治三

0 年代まで︶︑

黎明期︵明治三

0

年ー│大正八年︶に二分し︑大正九年以降を︑第一期︵大正九年ーー!大正十五年︶︑第二期︵昭和二年

|—昭和―一年)、第三期(昭和―二年ーー'昭和二

0

年)、第四期(昭和二

0

年以降)に四分している(ニ―七ー'—ニ―

九︑二三三ページ︶︒

( 6 ) 本史を戦前戦後に二分した上でそれぞれをさらに二分した根拠と各期の特色についてのくわしい説明は別稿にゆづること にするが︑ここではただ︑第一期と第二期とを昭和十二年で区分したのは︑第一期の科学的研究成果を総括したと見られ る舞出長五郎﹃経済学史概要﹄と第二期以降の新しい研究動向に対する有力な支桂となった大塚久雄﹃欧洲経済史序説﹄

︵時潮社版︶がともに昭和十二年に刊行されたこと︑また第三期と第四期とを昭和二八年で区分したのは︑対照的な研究 方法に基づく古典派の研究で戦後の学界に大きな影響をあたえた小林昇︑内田義彦︑平瀬巳之吉の諸氏の業績がまとめら れるのが昭和二八年前後であること︵小林﹃重商主義の経済理論﹄昭和二七年︑内田・吉沢・行沢﹁古典経済学﹂

1 1 出口 勇蔵編﹃経済学史﹄同二八年所収︑内田﹃経済学の生誕﹄同二八年︑平瀬巳之吉﹃経済学の古典と近代﹄同二九年︶にも

古典派経済学と近代日本︵杉原︶ 三九七

(9)

7 7 6  

とづくものであることを︑一言するにとどめておく︒

( 7 ) 東 大 経 済 学 部 の 創 設 に つ い て は 大 内 兵 衛

﹁ 経 済 学 を 国 家 学 か ら 独 立 さ せ た 人

︵ 大 内

﹃ 高 い 山

﹄ 一 九 六 三 年 所 収

︶ を 参 照︒大内氏はこの問題について高野岩三郎がいかに尽力したかを説明したあとでつぎのようにのぺている︒﹁こうして経 済学部を法学部から独立した学部とするという高野先生の提案は︑山川総長の健斗により成功した︒これが成功する見込 が立つと︑京都帝国大学の経済学の先生たち︵田島︑神戸︑小川︑河上︑河田諸教授を中心とした︶も︑法科から離れて 経済学部が独立することを企てた︒文部省は主義としてこれを容れぬわけにはいかなかった︒これよりさき東京高等商業 学校は別の筋を通って商科大学に昇格していた︒愛応大学︑早稲田大学その他の私立大学においても︑それらが大正八年 新大学令により大学として出発するに当っては︑すでにできあがった東大︑京大または商大(‑橋︶の例にならい︑経済 学部または商学部を独立の部としておくようになった︒こういう私立大学は痰応をのぞいては︑これまではたいてい法学 を教える法律学校であって︑経済学は法学の附属物であった︒それがこのとき︑一斉にこういう改革をやったのである︒

これは日本全体の学制史上未曽有の変化であった︒変化は社会科学のうちで経済学が法学または国家学からの独立という ことであった﹂︵大内︑前掲書六

0 ベージ︶︒

( 8 ) 福田徳三はその著﹃経済学考証﹄(‑九一八年︶の序文でのぺている︒﹁欧洲開戦以来我学者宿長老の凋落甚し︒我等は 近くシュモラーを失い又たフヰリッポヴヰッチを失へり︒師プレンタノ︑プュヒアー両先生は共に額齢の故を以て此頃退

隠せられたりと聞く︒⁝・・・満目の荒哀寂莫唯だ我等の心を傷ましむるのみ﹂︵四ページ︶︒世界大戦後におけるわが国の

社 会 政 策 学 会 の 凋 落 に つ い て は

︑ 住 谷 悦 治

﹃ 日 本 経 済 学 史 の 一 駒

︵ 一 九 四 八 年

︶ 三 一 九 ー 三 二 四 ペ ー ジ を 参 照

︒ 一 九 一九年におこった社会政策学会の内紛と改組およびそれにつづく老衰死については︑大内兵衛﹃経済学五十年﹄上巻︵一 九 五 九 年

︶ 八 五 ー 九 ニ ベ ー ジ に 興 味 ふ か い 叙 述 が あ る

. ( 9 ) 蓄 積 論 を め ぐ る 福 田 ー

I 河上論争は一九ーニ年から︑小泉信三と山川均との間の論争に端を発する価値論争は一九二二年

からはじまる︒

( 1 0 ) 杉原﹁河上査と古典派経済学﹂

︵﹃経済論集﹄第︱二巻第一号・一九六二年︶参照︒

閥西大學﹃網清論集﹄第十三巻第四・五・六合併号

一 九

(10)

゜ ︳ つ

古典派経済学と近代日本︵杉原︶ わが国の古典派経済学研究史の前史にあたる文久三年︐大正九年の五七年間を︑わたしはつぎの三期にわける︒

すなわち︑①主としてオランダ・アメリカ・イギリス・フランスの各国からわが国にはじめて西欧の経済学が導入

され︑当時の在野の思想家達の民権尊重の風潮の中で︑とりわけ自由主義的経済思想と古典派の理論に関する一般

的な知識が種々の概説書の醜訳を通じて普及した文久三年ーーー明治ニ︱年の第一期︒図明治政府の権力的基礎がた

めと呼応して︑官僚や官学の教授達により︑ドイツ・オースタリーから︑保護主義的・国家主義的・改良主義的な

新旧歴史学派の経済思想が導入され︑古典学派に対しても︑歴史学派な立場から︑その基本性格を批判的に論究す

るとともに︑かずかずの学派の中の︱つの学派としてこれを学史的に位置づけるという態度がとられはじめる明治

二 ︱

ー ー

' 四

0 年の第二期︒③日露戦争を契機とする産業資本の機構的確立にともなって︑学界の研究体制も種々の

点で整備されるとともに︑専門的な学術雑誌に本格的な研究論文が発表され出すという風に︑わが国の経済学も︑

従来の直訳輸入時代から一歩ぬけ出すにいたり︑学史研究に関しても︑前史から本史への移行を準備するという意

義をになうところの明治四 0 年ーー大正九年の第三期︒以下この一

期のそれぞれについて順次見てゆくことにしよ f l

先づ第一期であるが︑さきに見たフィッセリングにしても︑明治六年に来朝して立法事業を指都するかたわら経

( 1 )  

済学も講義したボアソナードにしても︑明治十一年以来同志社で経済学を講義したラーネッドにしても︑また当時

醜訳紹介された外国の経済学書の中でも普及度の高かったものの著者であるイギリスのフォーセット夫人やフラン

三 九

(11)

778 

開 西

大 學

﹃ 網

済 論

集 ﹄

第 十

三 巻

第 四

・ 五

・ 六

合 併

( 2 )  

スのバスティアにしても︑いずれもその社会思想はプルジョア・デモクラシーの精神を継承した個人主義乃至自由

主義を基調とするものであり︑ その経済理論は古典派の解体期を反映したいわゆる俗流経済学の色彩のつよいもの

であった︒経済学のわが国への伝来がこのようにまづオランダ・アメリカ・イギリス・フランスの諸国を通じてお

こなわれ︑輸入経済学の主流が自由主義的俗流理論であったということは︑うけ入れ側のわが国をとりまく当時の

国際情勢とうけ入れられる側の経済学の当時の学史的段階とを考え合せると︑当然そうならざるをえなかったこと

が理解されるであろう︒問題はそうした性格をもつ経済学が近代日本の黎明期にどのようにうけとめられとり入れ

られたかということである︒その後の時期における古典派研究の素地をつくったという点からいえば︑

においてすでにスミスの﹃国常論﹄や J.S ・ミルの﹃経済学原煎﹄のような大部の古典の繰訳がくわだてられ︑

( 3 )  

前者については全五巻の完訳︑後者についても四巻までの訳業が刊行されていることが注目されるが︑当時の現実

に対する影轡という点から見れば︑ こうした古典やその練訳から直接にというよりも︑むしろ種々な解説書や入門

害を通じて間接に得られた古典派の思想や理論が︑貨幣や銀行など各種の近代的経済制度の設立や運営の上に役立

てられたり︑貿易や財政など種々の経済政策をめぐる論争に利用されたりすることが︑むしろ主たるうけ入れられ

方であって︑総じてこの時期の受容の仕方は︑体系的理解や学問的探究とは正反対の︑技術的実用的目的に役立て

るための恣意的断片的な摂取という性格が一般的であったといってよいであろう︒ この第一期

だがこの時期のとり入れ方にはもう一.つの重要な特質があることに注訟しなければならない︒当時の人々にとっ

て︑自分達がうけ入れた輸入経済学が︑古典学派という歴史的個性を俗流的折衷的に色づけした末期的性質におい

て継承している特殊な経済学であることは︑明確に意識されておらず︑あたえられたものをそのまま経済学一般乃 四

00

(12)

論 ﹄

﹃ 権

利 提

綱 ﹄

ルソーの﹃民約論﹄︑

四 〇

あるいは﹃英国文明

至は最新最良の経済学としてうけとっている場合が多かった︒こうした極めて素朴な受容の態度は︑

見た経済技術的な意味での実用的性格をともなうけれども︑他面ではそれとはまさに逆に︑俗流的古典派経済学の

中にも前提としてながれているところの近代的な個人の自由と平等の主張をかぎとって︑ミルやルソーやスペンサ

ーの政治思想とともにそれを市民社会体制を建設してゆく上の思想的滋養分として吸収するという極めてイデオロ

ギー的な性格をもっていたと考えることができるであろう︒西と津田とがフィッセリングから経済学を受講した場

合でも︑決して経済学のみを孤立的に学んだのではなく︑性法学

( N a t u u r r e g

t ) ︑万国公法学

( V o l k e n r e g t )

︑国法学

( 4 )  

( S t a a t s r e g t )

および政表学

( S t a t i s t i e k )

とともに︑近代的社会科学体系の一環として学んだのであり︑このような諸

学の根底に流れる市民社会的な物の考え方をつたえられたという側面があったことを無視することはできない︒た

とえ彼等の学び方がこの点において不徹底であり︑明六社時代やその後の彼等の啓蒙活動が微温的なものに止まっ

たにもせよ︑伊藤博文にはじまる知識人の独壊への国家科学摂取のための留学とくらべるなら︑彼等がすくなくと

も明治初期においてブルジョア・デモクラシーの思想導入の上にはたした進歩的役割を軽視することはできないで

あろう︒このような受容の態度はしかし︑彼等のような官側の知識人ではなく︑自由民権運動の高揚期において地

方の農民の指導者として活躍した在野の知識層においては一そう顕著であったと考えられる︒たとえば︑自由民権

運動の中心地であった福島県石川町に明治八年日本最初の民主主義的政治結社として結成された石陽社が青年教育

のためにつくった石陽館の規則によると︑そこではモンテスキューの﹃万法精理﹄やミルの﹃利学﹄︑

﹃ 自

由 之

理 ﹄

スペンサーの﹃社会平権論﹄︑

﹃ 代

議 政

史﹄や﹃仏国革命史﹄などとともに︑ペリーの﹃理財原論﹄やフォーセットの﹁宝氏経済論﹄が学習用のテキスト

古典派経済学と近代日本︵杉原︶ 一面でさきに

(13)

780 

賜西大學﹃糎済儘集﹄第十三巻第四・五・六合併号

( 5 )  

として採用されていた︒自作農中心のこの地帯は明治十五年後のインフレーションによる農産物価格の高騰に刺激

されて商品作物の生産力を発展させ︑金納地代の相対的低下によってその経済的地位を強化することができたのだ

が︑このような社会的環境のもとで学習活動に参加した人々は︑おそらく独立生産者としての自覚と希望を以て︑

プルジョア・デモクラシーの思想的遺産を身につけようとしたにちがいない o 市民社会形成のためのイデオロギー

的武器としての古典派経済学は︑ この国において最もふさわしい受容の主体をここに見出したといってよいであろ

( 6 )  

う︒福島だけではなく全国の各地でこの当時みられたであろうこうした古典的政治経済学の国民的滲透はしかし︑

明治十四年以来の松方正義のデフレ政策と同十五年の福島事件にはじまる民権運動に対する政治的弾圧とによっ

て︑わずか数年の短期間で終りをつげ︑古典派経済学が国民の学問として定着し成長してゆく基本的条件が失なわ

れてしまう︒このことはその後の経済学の日本的存在形態を方向づけたものとしてまことに重大な意義をもってい

るといわなくてはなるまい︒もとより科学としての経済学史がわが国に確立し︑それによって古典派の研究も本格

的なものになるためには︑ このような草創期における︑素朴な︑

的な意味において︶受容の態度は克服される必要があった︒ しかし社会科学の健全な成長のために不可欠な国民的地

盤とのむすびつきをたちきれられてしまうと︑その学問はあしき意味での学問のための学問という現実逃避的性格

をおびてこざるをえない︒明治二 0 年代以降のわが国の経済学はこうした傾向に堕する危険性と同時に︑

に機械的に反発して草創期にみられたような二重の意味の実用主義的研究にはしるという危険性とを︑今にいたる

まで併有してきているのではないであろうか︒詳論は他日を期さねばならないが︑わたしは︑

学の特質を︑古典派経済学の研究史についても検証することが可能ではないかと考える︒ このような日本経済 実用主義的な︵官側では技術的な︑在野の側では政治 四〇

この傾向

(14)

( 1 )  S i m o n

  V i 器

e r i n g ( 1 8 1

R.

8   18~8) │ 

については

H .  

I .   P a l g r a v e   ( e d . ) ,   D i c t i o n a r y   o f   P o l i t i c a l   E c o n o m y ,   V o l .  

m ,  

1 9 2 6 ,   p .   6 3 1 .

  麻生︑前掲書︑五六ー五九ページを参照︒一八五

0

年以来ライデン大学経済学教授︒一八七九ー八一年大蔵大臣︒

マルクスは彼の主著﹃実際経済学提要﹄ Ha ミ

d b o e k 0 a n   p r a k t i s c h e   S t a a t h u i s h o u d k u n d e

  ( 1 8 6 0 ー

6 2 )

について﹁つまらな

い俗流経済学を最もそれにふさわしい形で購述している﹂とのぺている

( K . M a r x , a   D s   K a p i t a l ,   B d .  

I••

D i e t z ,   S .   5 ̲ 2 9

) ︒

ポアソナードについては住谷﹃日本経済学史﹄(‑九五八年︶一五六ーーー一五八ページ︑ラーネッドについては同﹃日本

経済学史の一駒』五七|—,――八ページを参照。

.

︵ 2

) 第一期に輸入された経済学の入門書のうちで最も多くの人々によまれたものは︑

M .

G .

  F

a w c e t t ,   P o l i t i c a l   E c o n o m y   f o r   B e g i n n e r   ( 1 s t   e d . ,   1 8 6 3 ,   6 t h   e d . ,   1 8 8 4 )

であって︑わが国

I

で 回

︷ *

の 塙

H

刻がしばしばおこなわれるとともに︑林正明訳述

﹃経済入門﹄︵明治六年︶や永田健助訳述﹃宝氏経済学﹄︵同十年︶によって紹介され︑とくに永田の訳書は﹁汎ク本邦 諸学校ノ間

1

一行ハレ原阪将二磨減セントス﹂︵改訳増補版の凡例一ベージ︶る仕どで︑明治二十年新版が刊行された︒

M

•G

・フォーセットはヘンリ・フォーセットの夫人で、夫萎ともに

J.S

・ミルの忠実な追随者であったことは周知のと

おりである︒バスティアの著作の邦訳はこの期に三種出ているが︑詳細については堀経夫﹁明治経済学史﹄一二三︑五二 ー 五 三 ペ ー ジ の 被 述 に ゆ ず る

︒ ( 3 )

第一期におけるスミス︑リカードウ︑マルサスおよび`︑ルの導入史に関しては︑つぎの諸文献を参照されたい︒

堀経夫﹁明治初期の経済学文献に現われたアダム・スミス﹂︵アダム・スミスの会編﹃本邦アダム・スミス文献﹄一九五

五年所収︶︒

真実一男﹁明治および大正前期におけるリカアドウ導入史﹂︵大阪市大﹃経済学年報﹄十六集・一九六二年所収︶

c

吉田秀夫﹃日本人口論の史的研究﹄一九四四年︒とくにその第一章﹁人口理論の輸入﹂︒

堀経夫﹁明治初期の思想に及ぽした︑︑︑ルの影響﹂︵堀経夫編﹃ミル研究﹄一九六 0

年 ︶

︒ ( 4 ) これらの講義はそれぞれ

H

神田孝平訳﹃性法略﹄明治四年︑口西周訳﹃万国公法﹄慶応四年︑国津田真道訳﹃泰西国法 論﹄同年︑四津田訳﹃表紀提網一名政表学論﹂明治七年︑として醗訳刊行されたが︑経済学の購義だけは紹介されずに終 った︒だが西は帰朝後経済学についての購義をおこない︑その草稿ものこっている︵堀﹃新修明治経済学史﹄上︑一四七

│'一七六ページ︑西周全集︑第二巻︑一九六一年︑三九七ー四︱︱ページ参照︶し︑津田も明六雑誌に自由貿易論に関

するいくつかの論文を寄稿している(堀『明治経済学史』―二六ー—_―二九ページ参照)。

古典派経済学と近代日本︵杉原︶ 四 0 三

(15)

782 

中川恒次郎﹃経済実学講義﹄︑明治一九 1 ー ニ 0 年︒﹃主として独乙国歴史学派の大家ウイルヘルム・ロシヱル

( 1 )  

氏に拠り⁝⁝聯か従来英国学風の先入主となれるものを排攘﹄せんとした︵同書﹁小引﹂参照︶もの C

和田垣謙三﹁講壇社会党論﹂︑

ばかりの和田垣は︑この中で︑貧富の差という社会問題に対する放任主義と社会主義との﹁両者ノ間二介立シテ保

( 2 )  

守に安セス急進二走ラス自助二依ラス共助二拠ラス開進二甘セス革命二陥ラス別ニ︱旗ヲ樹ツル者﹂としての講壇

大島貞益﹃李氏経済論﹄︑

明治二十二年リストの主著

F .

( 3 l  

6 k o n o m 符 ︑

1 8 4 1 .

のロイド

S . S . L l o y

の英訳からの重訳︒ d 社会党の所説を紹介している︒ る ︒

つぎに第二期であるが︑ つぎのような諸文献が明治二十年前後に輩出したことは︑従来の英仏系の自由主義経済

学を中心とする移入がこの頃から独壊系の歴史学派的経済学を中心とする移入へと転化したことを物語るものであ

( 5 )

高橋哲夫﹃福島自由民権運動史﹄(‑九五四年︶二九ーー'三八頁参照︒ペリーの書物の醗訳

( A . L .   P e r r y , E l   e m e n t s   o f  

Po-iticaiEComomy•

1 8 6 5 )

は川本清一により﹃理財原論﹄として明治九年および十三年に刊行されている︒

( 6 )

明治十年代の前半が﹁日本史上未曽有の国民総学習時代﹂であり︑この機運の中からこそかの国会開設請願運動も生れえ

たことについては︑戒能通孝﹁日本における政治過程と所有権﹂︵﹃東京都立大学法学会雑誌﹄第三巻第一・ニ合併号︑

一 九

六 三

年 ︑

四 五

' ー

ー 五

0 ページ︶を参照︒

﹃国家学会雑誌﹄第二巻第十三号・明治ニ︱年︒ 閥西大學『蓋済論集』第十三巻第四•五・六合併号

L i s t ,   D a s   m a t i o

ミ a l e

S y s t e m d   e r   p o l i t i s c h e n  

ヨーロッパ留学から帰朝した 四 0 四

(16)

有賀長雄﹃須多因氏講義筆記﹄明治二二年︒ 明治二 0 ーニニ年に海江田信義がウィーンでシュタイン

L o

r e

n z

( 4 )  

v o

n   S

t e i n

からきいた政治学の講義を筆記したもので︑その中に彼の社会政策論が展開されている︒

以上のような諸著作によってドイツの新旧歴史学派の思想が明治二十年代以降の主潮を形成するにいたったの

は︑自由民権運動を弾圧したうえで絶対主義的性格を根づよく残存せしめつつ独自の権力機構をきずきあげようと

する明治政府と︑いちはやく発生した社会問題に当面して社会主義的労働運動への対策を真剣に考慮せざるをえな

くなった産業資本との︑両面の要請に呼応するものであって︑

なったのが︑東大の金井延と桑田熊蔵であり︑彼等を中心として明治二十九年ごろに発足した社会政策学会であっ

( 5 )  

た︒第二期の古典派に対する関心も︑こうした学界の傾向によって一般的に方向づけられているのであるが︑この

時期における古典派研究について注目すべき諸点として︑ つぎのようなものをあげることができるであろう︒い明

( 6 )  

治 二

0 年代におけるおびただしい経済学史の入門書乃至概論書の刊行︒これは当時の経済学教育の普及にともなう

必要から生じたものでもあるが︑歴史学派的見解の盛行の︱つのあらわれとも見られる現象で︑これらの書物の多

くは歴史学派立場に立つコッサやイングラムの翻訳乃至その摘要であった︒そしてこれらの学史書はいずれも古典

派に最も多くのページをさいており︑古典派の学派としての特色を学史の流れの中で位置づけようとしているのだ

か ら

四 0 五 一般に歴史学派の立場からのものが多 このような思想界の新しい動向をリードする中心と

こうした古典派のとりあげ方は︑第一期における無批判的受容や実用的摂取の一面性を脱却する積極的意義

をもっていたといえよう︒回だが同時にこの時期の古典派に対する評価は︑

かったことから当然に︑古典派の自由主義・個人主義的思想の非現実性を問題とする一方︑リカードウに代表され

る古典派の自然主義的・抽象的方法を歴史主義的・帰納的方法との対比において批判するという特色をもってお

古 典

派 経

済 学

と 近

代 日

本 ︵

杉 原

(17)

784 

( 7 )  

り︑価値論を中心とする古典派の経済理論の内在的理解に関しては未だはなはだ不十分なものにとどまっている︒

り古典派の思想的立場に共感乃至親近感をもち︑その意味では第一期のそれと共通な性質をもっている古典派研究

は︑この期においても全然消失したわけではなく︑福沢諭吉の慶応義塾や天野為之の早稲田やあるいは田口卯吉の

『東京経済雑誌』などには英・米•仏系の自由主義的な思想や学問を重視する風潮がもちつづけられ、その中から

古典学派を中心とする経済思想史にふかい関心をもつ研究者が輩出することになる︒たとえば慶応を例にとるな

ら︑明治四四年に﹃三田学会雑誌﹄が慶応の七人のスタッフによってスミスの思想体系を全面的にとりあつかった

﹃国富論﹄出版大約百五十年記念の特集号を刊行し︑・大正十五年以来気賀勘重の﹃国富論﹄の醜訳をトップに﹃経

済学古典叢書﹄を出版するなど︑わが国の古典派経済学研究史の上に大きな役割りを演じてゆくのも︑第一期以来

継続的につづいてきたこうした学風に由来するところが大きいといわなくてはならない︒

( 1 ) 本書は堀経夫氏によって﹁我国における歴史学派の最初の導入書﹂とされている︵堀﹃明治経済学史﹄一九三五年︑五一

ページ︑同﹃新修明治経済学史﹄上・一九四八年︑ニ︱ 0

ー ニ ニ ニ ペ ー ジ 参 照

︒ ( 2 ) 明治文化全集改阪第六巻社会篇四六六ページ︒住谷氏は本論文を金井延の諸論文とともに﹁自由主義経済学に対する弔鐘

を撞いたと同時にドイツ流の新経済学への暁鐘を打ち鳴らしたものである﹂と評価している︵﹃日本経済学史の一駒﹄︑

一九四八年版二四九ページ︶︒もっとも和田垣は金井のように講壇社会主義の宣伝につとめたわけではなく︑学者として 見るぺき活動をほとんどせずに終ったが︑大内兵衛氏によれば︑それは和田垣がドイツ的というよりもイギリス的な思想

の持主であったゆえに、時流にのりえなかったためでもあるらしい。「:・・・・和田垣がイギリス、金井•松崎はドイツであ る。……和田垣先生があれだけの才能をもってして時代を作らなかったのはなぜか。金井•松崎があれだけの才能でしか

なかったのに時代を作ったのはなぜか︒日本の経済学が英米からドイツに変ったためであるといえよう﹂︵大内﹃経済学

五十年﹄上巻三三ページ︶︒

( 3 ) 本書には保護主義者の枢密顕問官寺島宗則や日銀副総裁富田鉄之助が序文をよせ︑スミスの自然主義・自由主義を批判し

閥西大學.﹃輝済論集﹄第十三巻第四・五・六合併号 四 0 六

(18)

て歴史主義・国民主義の重要性をといている︒大島貞益については本庄栄治郎氏の大島﹃情勢論﹂に附した解題︵一九四

三年︶︑西田長寿﹃大島貞益﹄︵一九四七年︶にくわしい︒

(4) シュタインのこの講義は明治文化全集第一巻憲政篇に収録されている(四九七’ーー六―――

1•(

ージ)が、その最終回の「内

務の第三区分﹂の講義・・ーーそこでは貧富の問題︑別序の問題︑資本労働の問題がとりあげられている 1

ーにおける彼の社

会政策論については︑住谷︑前掲書︑一五八

1 1

一六四︒ヘージ︑また彼の国家有機体説については︑蠣山政道﹃日本にお

ける近代政治学の発達﹄︵一九四九年︶七二'ーー八四ページを参照 C

( 5 )

社会政策学会の創立前後の事情については︑高野岩三郎﹁社会政策学会創立のころ﹂一九三五年︑︵高野﹃かっぱ●屁﹄︑一

九六一年︑八九ーー一〇八ページ︶︑河合栄治郎﹃明治思想史の一断面﹄︑一九四一年︑二四一ーニ四四ページを参照︒.

( 6 )

わたしは﹃本邦アダム・スミス文献﹄(‑九五五年︶の読後感をのべた中で︑明治二十年代に関する文献調査がそれまでの

時期に比しておくれていることを指摘し︑そのことは本書において明治二十年の阪谷芳郎﹃経済学史講義﹂から大正九年

の河上肇﹃近世経済思想史論﹄にいたるまでスミスに関説した経済学史が一冊もあげられていないことにもあらわれてい

るとのぺた︵杉原﹁わが国のス`︑ス研究史に関する覚え書﹂﹃経済論集﹄︑第六巻第四号︑一九五六年︶が︑このギャッ

プはその後真実一男氏による明治二 0 年代に刊行された経済学史の著作の調査によってかなりうづめられている︒真実︑

︱二七ページ参照︒ 前掲論文

( 7 )

歴史派的立湯からの古典派のとりあげ方の一例として︑﹃経済世界﹄︵明治三五年三月に創刊された同文館発行の月刊誌︶

に学説史研究を連戴していた木村亮吉の所説を紹介しておこう︒彼はハル阪のペティー著作集の刊行

( 1

8 9

9 )

を機に書い

た﹁英国経済学者の鼻祖としてのサー・ウ.イルヤム・ペチー﹂︵同誌明治三五年五月号︶の中で﹁彼はその時代の学者中

に卓越したる観察を有し︑社会政策は尽く経済学を基礎と為さざるぺからず︑而して経済学は統計なるものの

i n d u

c t i v

e

の基礎を有せざるべからずとの意見をとなえたり︒これ今日多くの歴史派の経済学者が唱道し主張する処と異らず︒然ら

ば歴史的経済学研究方法なるものはその由来するとこ.ろ遠く且つ深きを推知するに余りあらしむ﹂

( l

‑ I

四ページ︶と

のべ︑また﹁経済学者としてアダム・スミスを論ず﹂という長文の論稿の結論の中で︑﹁富国論は経済学に実際的学問た

るの性質を与え︑斯の学を以て純全たる

s p e c

u l a t

i v e

のものと為さず︑経済学は歴史的比較的方法に拠り研究を為すべき

ものたるの模範を与えたり⁝⁝実にかくの如きがスミスの経済学界に与えし大なる功績なるか﹂︵同誌三十五年︱一月号

古典派経済学と近代日本︵杉原︶ 四 0 七

‑ ・ ‑‑‑‑‑‑ ‑・ ‑ ‑‑‑‑・‑‑‑‑・ 一   , '

・・一•

(19)

786 

果してゆく C 回神戸高商の﹃国民経済雑誌﹄ ︵明治三九年創刊︶や慶応の﹃三田学会雑誌﹄ 一三ページ︶と書いている︒

( 8 ) この時代の慶応の学問的雰囲気については高橋誠一郎﹃経済学わが師わが友﹂(‑九五一年︶を参照︒またフェノロサか

らミルの経済学をまなび・主として︑︑︑ルの﹃経済学原理﹄に従ってかいた﹃経済原論﹄︵明治一九年︶やラフリンによる

﹁原理﹄の縮約版を醐訳した﹃高等経済原論﹄︵明治二四年︶によって古典派の学説の普及に力のあった早稲田の天野為

之については、浅川栄次郎・西田長寿『天野為之』(一九五

0

年)や平田冨太郎「天野為之ー— i 古典派経済学の先駆者

':│﹂︵﹃近代日本の社会科学と早稲田大学﹄一九五七年︑一三七│ー̲︱五 0 ベージ︶を参照︒

最後に第三期であるが︑日本資本主義が日露戦争の勝利を契機として一段と発展したことはいうまでもないが︑

明治四 0 年前後の経済学界にもそれにおける推移と照応するようないくつかのあたらしい事象が見られるようにな

る C たとえば︑い印社会政策学会が明治四 0 年から毎年一回全国大会をひらいて討論と講演をおこない︑成果を﹃社

会政策論叢﹂として公刊してゆくが︑ それによってこの学会は単にせまく社会政策に限らず経済学一般に関する問

題をもとりあげる全国的な唯一の学会として︑明治の末期から大正の中期にかけての学界における指導的役割りを

︵同四二年創刊︶のよ

うな経済学に関する純学術的な専門雑誌がこの頃に生誕し︑研究成果の発表と交流とが一段と活発化するが︑古典

派の研究に関しても︑本格的なモノグラフィーがわが国のアカデミズムの中でようやく書かれ出し︑大正九年以後

の本史への移行を準備する︒いマルクス経済学のわが国への導入にとっても明治四 0 年は記念すべき年であって︑

わが国でかかれたマルクス経済学の始めての体系的な解説である堺利彦・森近運平共著の﹃社会主義綱要﹄と山川

均による﹃資本論﹄第一巻のやはりわが国最初の内容紹介﹁マルクスの﹃資本論﹄﹂ ︵﹃大阪平民新聞﹄所載︶と

隔西大學『網済論集』第十三巻第四•五・六合併号 四 0 八

(20)

四 0 九 があらわれた︒すでに明治三二年刊行した﹃資本と労働の調和﹄の中で豊原又男は﹁社会主義を奉ずるものは其論 拠を固め︑其方法を弁護せんがためにスミス︑リカルドーの労働は価格の泉源なるのみならず其標準たりと云ふ議

﹁労働は之を加へたる物品の価値に影響を与ふべしと雖も︑需要供給の割合が

( l )  

価格を左右するに与りて最も力あるものなり﹂と論じて労働価値説を斥けていたが︑森近は﹃綱要﹄の中で﹁アダ

ム・スミス及リカードは︑物の価格あるは之を得るが為に人間の勤労を要するに因るとせり︒従って其勤労の大な

るものは価格大に︑其少なき物は価格小なりと云ふ︑之を勤労説と称す︒

﹁ゼヴォン一派の最終効用 る勤労が価格を生ずるやを詳論せり﹂とのべてマルクスの価値論の骨子を紹介した後︑

( 2 )  

説⁝⁝の真価はスミス以前の需要供給説の上に出づる者に非ず﹂と書いている︒また山川の論文は上記の豊原や森

近の文章にもあらわれているような価値と価格との混同を脱却して正確にマルクスの価値論・剰余価値説を要約す

るとともに︑二年まえの一九 0 五年にカウッキーによって公刊された﹃剰余価値学説史﹄第一巻にも言及してい

( 3 )  

る C その山川が﹃資本論﹄理解において当時のわが国の水準をぬきえたのは︑彼が巣鴨の獄中ですごした明治三二

( 4 )  

—三五年の三年間にイギリス古典派経済学を系統的に研究した上で『資本論』に立ちむかったからであるが、

森近や山川のこうした努力は︑大正九年以降において本格的に展開されるところの︑

古典学派研究を先駆するものとして︑高く評価されるべきであろう C

だが社会主義な立場からの研究は︑かの大逆事件を契機とする反動期の到来とともに︑しばらくは沈滞せざるを

えず︑第三期における古典学派研究の主流は︑大学の研究者たちによってすすめられていたのであるが︑ その中で

もとりわけ注目されるのは福田徳三と河上肇である︒明治三四年にドイツから帰朝した福田は︑河上よりも一歩さ

古典派経済学と近代日本︵杉原︶ 論を引用し﹂ていることに言及し︑

マルクス経済学的視角よりの マルクスに至っては︑更に進んで如何な

(21)

788 

きんじて活動を開始したが︑同じ新歴史学派でも︑金井延が右派のワグナーの影響をつよくこうむ 0 ているのに対

( 5 )  

して︑左派のプレンターノの薫陶をうけた福田は︑

イギリス古典学派の思想と理論との重要性を深く認識してお

り︑明治四 0 年前後からスミスやリカードウの学説をとりあげた研究論文をつぎつぎに発表してこの方面への彼の

( 6 )  

関心のふかさのほどをしめしている︒明治︱︱︱五年に東大を卒業した河上も︑ただちに経済学についての文筆活動を

一方では国家主義的思想をつよくうち出しながら︑古典派とくにスミスの

体系を貫いている労働生産力説的思考に親近感をしめしており︑京大で経済学史の講義を担当するようになってか

( 7 )   らは︑古典派の学説研究が彼の研究の一中心を形成するようになるのである︒だがわが国の古典派研究を準備期と

しての前史から本格的研究段階へと移行せしめるこの過渡期から本史の第一期にかけて最も大きな役割りを演じた

この二人の業績を検討することは︑大正九年以降の本史をとりあつかう別稿にゆづり︑本稿では︑

ランダでの経済学事始から一九二 0 年の河上肇の﹃近世経済思想史論﹄にいたる古典学派研究の前史を展望するに

( 8 )  

とどめておきたい︒

( 1 ) 豊原の﹃労働と資本との調和﹄については住谷︑前掲書︑一七

0 1

ー 一

八 0 ページを参照︒

( 2 )

﹃森近運平・堺利彦集﹄青木文庫︵一九五五年︶三六ーー三八ページ︒

( 3 )

同 書

一 八

八 !

ー ニ

0 ニベージ 0

( 4

) 山川均﹃山川均自伝﹄(‑九六一年︶ニ︱五ー│̲ニ︱六ページ︒なお大内兵衛﹁ある平凡でなかった社会主義者﹂︵﹃高

い山﹄一九六三年所収︶を参照︒

( 5 ) 大内兵衛氏は﹁ドイツ社会政策の日本における系譜は研究に値する問題である﹂といい︑﹁私見によれば︑金井︑桑田両 博士においてはワーグナーが強く︑その他︑例えば神戸︑小川︑河上諸博士においても同様にワーグナーが相当に強い︒

これに対してプレンターノを祖述すると思われるものは高野︑福田両博士である﹂とのべている︒大内﹁日本社会政策学

はじめており︑ その初期の著作の中で︑

閥西大學﹃網演論集﹄第十三巻第四・五・六合併号

一八六三年のオ 四一〇

(22)

後記

四 会の運命と現代日本経済学の使命﹂︵弘文堂﹃社会科学講座﹄

V I

一九五一年︑︱二八ページ︒︶

( 6 )

たとえば﹁アンダーソンの地代論とリカルドの地代論﹂﹃内外論叢﹄第五巻第四│ー五号︵明治三九年︶︑﹁マルクスノ不

変︑可変資本トアダムスミスノ固定︑流動資本トノ関係二就テノ研究﹂﹃国民経済雑誌﹄第六巻第六号︵明治四二年︶︑

﹁余剰価値論梗概︵其一︶﹂︵価値の原因と尺度とに関するマルサスとリカルドとの論争︶﹃国民経済雑誌﹄第一三巻第

一号︵明治四五年︶など︒

( 7 ) 河上の初期のスミス研究については︑前掲の杉原﹁わが国のスミス研究史に関する覚え書﹂︳︒

I ‑

三ページ参照︒

( 8 )

最後に当時の経済史の研究状況を瞥見しておこう︒わが国の経済史研究は︑明治末年に出た内田銀蔵﹃経済史総論﹄によ

って︑その理論的基礎をかためたといわれているが︑︵高村・小松﹃日本における経済史学の発達﹂一九四九年︑二三ー

二九ページ︶︑イギリス経済史について見ると︑商業史や銀行史に関するイギリスの原書が紹介されていた初期の実用主

義的翻訳の段階にはじまって︑明治三十年代以降になると︑

J .

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の紹介︵田尻稲次郎﹃経済史眼﹄一九 0

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8 4 の邦訳︵吉田巳之助﹃英国産業革命新論﹄(‑九

0 八年︶が見られるにいたり︑大正に入ると︑

たとえば︑石沢久五郎﹁英国の産業革命当時及びその後における経済思想と産業政策との関係﹂︵﹃国民経済雑誌﹄第二

三巻第五・六号︑一九一七年︶のような論文が見られるが︑わが国でイギリス経済史の本格的な研究がはじまるのは︑イ

ギリス古典派の研究と同様に︑やはり一九二 0 年代以降のようである︒

本稿は一九六三年九月二八日大阪外国語大学で開かれた経済学史学会関西部会で私が報告した原稿を補正

したものであって︑昭和三八年度の文部省科学研究費︵各個研究︶による研究報告の一部である︒

古典派経済学と近代日本︵杉原︶

参照

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