研究ノート
唐令と日本令O
唐 令 復 原 研 究 の 新 段 階
1戴建國氏の天聖令残本発見研究
池田温
前言
一戴建國﹁天一閣蔵明抄本︽官品令︾考﹂
二天聖田令・捕亡令と養老田令・捕亡令の対照表示
結言
注
唐令 と日本令
103
前
口
本稿(二)において︑一九九七年春刊行された﹃唐令拾遺補﹄の訂正と増補に関し九九年二月ごろまでに気付いた諸点
を列挙し︑該書利用各位の参考に資した︒その後本書に対する書評として滋賀秀三(法制史研究四八︑九九年三月︑二六
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一‑六頁)・岡野誠(東方二二〇︑九九年六月︑二〇1二一二頁)の両玉稿が刊行され︑指正を蒙るとともに概して好意的
に評価を加えられ︑過褒と思われる辞さえ含まれるのに接し︑両位の厚情に心から感銘せざるを得ない︒
ところが中国の﹁歴史研究﹂一九九九年三期(総二五九号︑九九年六月)に︑戴建国氏の﹁天一閣蔵明抄本︽官品令︾
考﹂と題する驚くべき内容の論考が発表され︑唐令復原研究は全く予想もしなかった新たな様相を呈すこととなった︒そ
こで今回は戴氏論文の紹介を主とし︑なお同氏から筆者及び共編の坂上康俊氏あて書信乃至口頭で教示された所をも加え︑
現在における研究状況を概観し今後の前進に資したい︒
戴建国﹁天一閣蔵明抄本︽官品令︾考﹂
戴建国氏(一九五三年生︑上海師範大学人文学院古籍整理研究所副研究員)は︑宋代法制史の専門家で︑すでに﹁宋代
編敷初探﹂(文史四二輯︑九七年一月︑=壬ニー四九頁)・﹁宋代家法族規試探﹂(漆侠・李堤主編﹃宋史研究論文集﹄雲南
民族出版社︑九七年一二月︑二七七‑九八頁)・﹁︽金玉新書︾新探﹂(古典文献与文化論叢第二輯︑杭州大学出版社︑九九
年五月︑三四七‑六三頁)・﹁宋代家族政策初探﹂(大陸雑誌九九巻四期︑九九年一〇月︑五‑二五頁)等諸論文を発表さ
れており︑その堅実で実証的学風は関係学界に認められ︑新進の有為な学究として注目されている︒
本︽官品令︾考の文頭に掲げられた﹁提要﹂(要旨)を和訳すると︑
本文は寧波天一閣の蔵する明抄本︽官品令︾に対し考証を進め︑この書がまさしく久しく浬滅していた宋代法律典籍
︽天聖令︾であると認める︒著者はこの残存令典の体例・篇目及びその保存する︽開元二五年令︾原文を詳細に考証し︑
この残本の発見が北宋の典章制度と人口などの問題の理解にとり重要参考価値をもつにとどまらず︑とりわけ唐令の研
究と復原作業にとり極めて重要な意義をもつと指摘する︒
本論文の主旨と価値はこの要約に明らかである︒以下順を追って論文の要点を紹介してゆこう︒本論は一〜四の4部に
105唐 令 と 日 本 令(三)
分って説述され︑一には対象となる一写本の外型と内容が解説され︑その内容が標題の︽官品令︾ではなく︑宋代の︽天
聖令︾に相違ない点を指摘し︑二で写本の含む﹁田令﹂の一条を例として︽天聖令︾には開元二五年令も附載される状況
を示し︑三において北宋前期の戸籍制度の理解に本︽天聖令︾が極めて有効なことなどを論じ︑四において︽天聖令︾が
開元二五年令復原の直接資料となる事情を説き︑ひいては日本養老令との比較にも有益な点に言及して終る︒
最初に一の外型説明を略叙すると︑本書は僅か1冊の残本で附籏に
官品令三十巻明口口口撰︑存十巻
巻二十一至巻三十︑烏練欄紗本
と記録され︑表紙の題籏には﹁官品令﹂とあるが︑現在はがれおちている︒紙面は
白口輩黒魚尾双辺欄︑
室名や葉次の記入は無く︑また題識や蹟語も附されていない︒毎半頁10行︑行18字︑双行小字注を含み︑文字は工整であ
る︒
篇目と篇次は左の通り︒
田令巻第二十一
賦(役)令巻第二十二
倉庫令巻第二十三
厩牧令巻第二十四
関市令巻第二十五(補亡令附)
医疾令巻第二十六(假寧令附)
獄官令巻第二十七
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螢繕令巻第二十八
喪葬令巻第二十九(喪服年月附)
雑令巻第三十
本書にかかわる目録記述を検すると︑漏貞群編﹃郵萢氏天一閣書目・内篇﹄(一九四〇)に
官品令政書存十巻一冊
と著録され︑政書に分類されている︒本書を翻検すると︑全書の載せる所すべて法律の令文であり︑これが令典に他なら
ぬことは疑問の余地がない︒
明代の﹃大明令﹄は尚書六部(吏戸礼兵刑工)を以て篇を分け︑︽官品令︾なる篇目は無いから︑本書は﹃大明令﹄の
可能性は全くない︒中国法制史上︑晋・北魏・南朝梁・階・唐・宋・金等諸王朝はいずれも令典を編纂したが︑そのいず
れにも︿官品令﹀は含まれ︑﹃唐六典﹄巻六刑部の記事によると階︿開皇令﹀・唐︿開元令﹀の首篇がともに︿官品令﹀
であり︑宋︿天聖令﹀・金︿泰和令﹀も同様である︒しかし歴代書目中に三〇巻の︿官品令﹀は絶えて見られず︑︿官品
令﹀は令典の一個の篇目にとどまる︒しからば本書の本当の書名は何か?著者はまず本残巻がどの王朝に属すかを考察
し︑ついでその書名に及ぶ︒
本書巻二七︿獄官令﹀第14条に
諸犯罪応配居作者︑在京分送東西八作司︑在外州者︑供当処︒
と見え︑仁井田陞﹃唐令拾遺﹄獄官令17条を参照すると︑同様の内容について
諸犯徒応配居作者︑在京送将作監︑⁝⁝在外州者︑供当処官役︒
に作り︑天一閣蔵︽官品令︾が唐︿獄官令﹀の﹁将作監に送る﹂を﹁東西八作司に分送す﹂と改めている︒東西八作司は
もと宋代の官署名であり︑﹃宋会要輯稿﹄職官三〇之七に﹁東西八作司は旧両使に分ち︑ただ一司︒太平興国二年(九七七)
XO7 唐令 と日本令(∋
両司に分ち︑景徳四年(一〇〇七)一司に井せ︑監官通掌す︒天聖元年(一〇二三)始めて官局を分置し︑東司は安仁坊
にあり︑西司は安定坊にあり︒﹂と見えるが︑他の朝代には東西八作司という官署の記載は見当らぬ︒これは︽官品令︾
の規定が宋代制度であることの明証である︒
また︽官品令︾巻二七︿獄官令>48条には
諸杖皆削去節目︑官杖長三尺五寸︑大頭闊不得過二寸︑厚及小頭径不得[過]九分︒小杖長不得過四尺五寸︑大頭径六分︑
小頭径五分︒訊囚杖長同官杖︑大頭径三分二厘︑小頭径二分二厘︒
とあり︑この規定は﹃唐六典﹄﹃通典﹄等の載せる唐制と合わない︒唐制は常行官杖の大頭闊二分七厘︑小頭径一分七厘︑
答の(小)杖は長三尺五寸︑大頭径二分︑小頭一分半(﹃通典﹄巻一六八刑法六)となっており︑乾徳元年(九六三)三
月の北宋の制は
睡︿獄官令﹀に拠り杖を用うも︑是に至り︿折杖格﹀を定む︒常行官杖は長三尺五寸︑大頭は闊二寸を過ぎず︑厚さ及
び小頭の穫は九分を過ぎず︒小杖は四尺五寸を過ぎず︑大頭の径⊥ハ分︑小頭の径五分︒⁝⁝訊[囚]杖は旧制の如し
(﹃続資治通鑑長編﹄巻四乾徳元年三月癸酉条)
の如くで︑宋朝創建の四年目にこの制が定められたのである︒﹁訊[囚]杖は旧制の如し﹂という旧制は唐制を指すはず
であり︑﹃通典﹄巻一六八に載る唐制は﹁訊囚杖︑大頭三分二厘︑小頭二分二厘︒﹂である︒これらによってみれば宋代の
常行官杖・小杖及び訊囚杖の刑具の規格を完全に知ることができ︑天一閣蔵︽官品令︾記載の制はこれと合致し︑これら
の規定する刑具は宋代の制である︒次に本書巻二六に附す︿仮寧令﹀の二条を見よう︒
天慶・先天・降聖・乾元・長寧・上元・夏至・中元・下元・騰等︑即各給仮三日︒
天祓・天既・人日・中和節・春秋︹二社︺二二月上巳・重五︹午︺・三伏・七夕・九月朔・授衣・重陽・立春・春分・
立秋・秋分・立夏・立冬・諸大忌日及毎旬︑井給休仮一日︒
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この両條は節日の休仮の制であり︑これを史籍に照すと宋代の制度とよく吻合する︒﹃宋会要輯稿﹄職官六〇之一五に
は︑
国初休仮之制はみな令・式を按じ︑歳節・寒食・冬至は各仮七日を給い務を休むこと五日︒聖節・上元・中元は各仮三
日︑務を休むこと一日︒春秋二社・上巳・重午・重陽・立春・人日・中和節・春分・立夏・三伏・立秋・七夕・秋分・
授衣・立冬は各仮一日︒⁝⁝其後或いは旧制に因り︑或いは慶節を増建し︑旬日に沐を賜いみな務を休ましむ︑井びに
令に著す︒
とあり︑宋代のこれら休仮制度が法令にとりいれられた︒その内容は天一閣蔵︽官品令︾中の︿仮寧令﹀条文とおおむね
一致する︒︽官品令︾にいう天慶・先天・降聖・天祓・天既等諸節は︑北宋前期に創建された国定の仮日である︒宋人趙
升﹃朝野類要﹄巻一﹁諸節﹂には︑
唐は二月一日を以て中和節と爲してより国朝はこれに因る︒正月三日を以て天慶節(景徳五年(一〇〇入)正月三日天
書降る)と爲し︑四日を開基節(周顕徳七年(九六〇)正月四日太組皇帝位に登る)と爲し︑四月一日を天頑節(大中
鮮符元年(一〇〇八)四月一日天書降る)と爲し︑六月六日を天既節(大中鮮符三年六月六日天書降る)と爲し︑七月
一日を先天節(後唐天成元年(九二〇)七月一日︑聖祀軒韓皇帝降る)と爲し︑十月二十四日を降聖節(大中群府五年
十月二十四日天書降る)と爲す︒是の日屠宰と行刑を禁じ︑注して令甲と爲せり︒
と伝える︒︽官品令︾に載せる乾元節と長寧節は︑宋の仁宗の時に立てられた節日であり︑﹃宋会要輯稿﹄礼五七之一六に︑
乾興元年(仁宗已に即位し未だ改元せず︑一〇二二年)二月二十六日︑宰臣丁謂ら上言し︑四月十四日を以て乾元節と
為さんと請い︑これに従う︒⁝⁝十一月九日詔し︑正月八日皇太后の降誕日を以て長寧節と為す︒
と見える︒宋の仁宗の後制定された聖節はなお沢山あり︑宋の英宗即位後に設けられた壽聖節や治平四年(一〇六七)設
けられた同天節等(﹃宋会要輯稿﹄礼五七之一七)もあるが︑︽官品令︾には載っていない︒ある王朝の規定するいくつか