わが国における音楽経言うの歴史的変遷
古 田 庄 平
はじめに
わが国における音楽教育については、すでに多くの先覚者達によって、音楽め基礎的な 面から、また、声楽・器楽など演奏の面から、或いは、外国の音楽教育と比較した面から など、色々な角度から、多くの研究がなされ、論じられてきてはいるが、戦後30年を経た 今日でも尚且、学校の教師や、音楽教育者達の間では、 現在の音楽教育は、芸術教育の 本質から、外れているのではないか? また黛知識偏重・技術偏重の教育に、落ち入って いるのではないか? という多くの疑問や問題が提起されている。
そこで、「わが国における音楽教育」というものが、どんな姿あもあであるかを認識す るためには、「音楽教育」の本質的な面から、研究を進めるのが、順序であったかもしれ ないが、今日の「わが国における音楽教育」というものが「どの様な歴史をたどって、生 れてきたか」ということを先に把握しておきたかったがため、あえて、「わが国における 音楽教育の歴史的変遷」から研究を進めることにした。
次に「音楽教育の歴史的変遷」を述べるにあたっては、音楽教育が存在した当時の社会 情勢と、無関係に論じていくわけにはいかないので、なるべく時代の流れに沿って、社会 情勢を最小限に加味しながら、研究を進めていくことにした。
尚「音楽教育の実績」は、その当時の音楽教育思潮の変遷によって、興廃するものであ り、また、音楽教育思潮は、一般社会の情勢と、教育思潮及び教育制度などの変遷によっ ても、左右されると考えられることから、音楽教育の実績とその思潮は勿論のこと、その 他の領域にも、できるかぎり照らし合わせながら、考察をしてみることにした。
また、 「音楽教育の場」は、「家庭教育」 「学校教育」 「社会教育」など、非常に広い 範囲の場が考えられることから、今回は、「学校教育」の場に限定することにした。
最後に「学校教育の場における音楽教育」といっ言葉は、 「学校教育の場における音楽 教科としての音楽教育」といういい方が、正しい用語であろうが、略して「音楽科教育」
という言葉を使う場合もあることを、前もって、断っておく。
1 明治維新以前
わが国における音楽教育の発生は、音楽があったといわれる、遠き神代の昔に逆のぼる ことになる。しかし、はっきりした形での音楽教育が行なわれるようになったのは、仏教 の伝来と、中国の教育思潮の影響により、儒教の「礼楽刑政」が、わが国で取り上げられ、
中国から多くの音楽が輸入されるようになった奈良・平安朝時代からであるといわれてい
る1}。特に平安朝時代の貴族社会においては、「音楽は人間の修養上にも、また国家を治
める上からも、必要欠くべからざるもの」といわれ、「必ず学ばねばならないもの」とな
っていたため、当時音楽は、隆盛を極めていた。ところが、徳川時代に入ると、武家と町
人が対立し、階級制度によって音楽が異なり、武家社会においては、能楽が社交の道具と して興じられ、一般庶民の間では、箏や三味線音楽が普及した。特に町人の婦女子は、塾 や寺小屋で、「読み書きそろばん」の教育を受けるかたわら、別に師匠2)を求め、華道や 茶道などと共に「箏や三味線音楽を教養の一端として学んでいた。このような「遊芸教授」
の姿を、当時の「音楽教育」 (「社会教育の場」における)の姿といえばいえるのかもし れない。しかし、名人芸的な内容と、技術を持った師匠の音楽芸術の教授(伝授)は、師匠 の経済的保証を意味した当時の「お家元制度」や、秘伝的な伝承方法を重視した「秘密主 義的口伝の方法」などによって起る弊害によって、広く一般社会に普及させる意味を持っ た「音楽教育」という姿には、発展し得なかったのであった。
II 明治維新以後
明治維新は、鎌倉・室町・江戸時代の長期にわたって続いてきた幕府の鎖国政策に、終 止符を打ち、国民の目を海外に向けさせた。特に当初は、アメリカ及びヨーロッパへの進 出が目覚ましかった。また一方外国人の渡来も多く、文化の輸入が盛んに行なわれるよう になったので、その影響を受けて、わが国の音楽文化も一大転換期を迎えるに至ったので
ある。
明治5年(ユ872)8月「学制頒布」によって、 「学校」が設立され、音楽がその新しい 施設において、「唱歌」という名目によって、教育されることになった。この「唱歌教育」こそ、
わが国の学校教育の場における音楽教育の始まりであり、「音楽科教育」の誕生といえよう。
しかし、小学校では「唱歌」、中学校では「奏楽」という名で、制度上立派に誕生した にもか・わらず、「当分之を欠く」という、但し書きが各々に付記されていて、「唱歌」
「奏楽」共、有名無実の状態で、事実上、長い間行なわれなかった。それは、当時の一般 庶民の間において、 「音楽」は「遊芸」であり、 遊芸は婦女子のたしなむもの また
歌舞音曲は身分のいやしいものが行なうもの という考え方が残っており、音楽に対す る社会一般の評価が「読み書きそろばん」に比べ、非常に低いものであった。また他の教 科のように、それまで寺小屋や塾などで、ある程度行なわれていた科目と異なり、「唱歌」
という全く目新しい科目であったがため、多くの教師は、ためらいを感じ、何を教材とし、
どう教えてよいのか、皆目見当がつかなかったからでもあった。勿論この事によって、「
唱歌」の科目が設置される以前に、その新しい科目の唱歌を指導する教師の養成と、教材 の準備がなされていなかったことが、「唱歌教育」(音楽科教育)の実施を遅らせた最大 1の原因であったといえよう。
明治8年(1875)8月師範学科取調べのため、アメリカに留学した伊沢修二(1851−19 17)は、師範学科を学ぶかたわら、音楽教育家のメーソン(L.W. M asonユ828−1896)
について音楽教育を学び、帰国後彼は、明治11年4月留学生監督官の目賀田種太郎と共に、
わが国に音楽教育の必要性とその実施方法を述べた「上申書3)」を時の文部大輔田中不二 磨に提出した。これが功を奏し、明治12年10月音楽取調掛(後の上野音楽学校、現在の東 京芸術大学音楽学部)が創設され、伊沢修二はその御用掛に任命された。そこで早速彼は 音楽取調掛における、音楽と音楽教育の研究についての「見込書4)」なるものを作成し、
文部卿寺島宗則に提出した。それには、「明治5年、我省始て学制を全国に頒布し、国民
教育の目途を一変せしょり今日に至るまで、何れの地方を論ぜず、其教則中、皆な唱歌を
以て普通学科の一に列すと錐も、実際に就て之を察すれば、未だ一を行われしの例あるを 聞かず。図れ、あに下下の無用に属するが故ならんや。唯其着手に当り、種々の障碍あ るが故に、今日まで之を実行するを得ざりしのみ。」と述べられてあり、制定後7年を経て も、尚且つ全国の小学校において、一校も唱歌の授業が実施されていなかったことを物語 っており、またその理由として、「今、其一大障碍の由て来る所を察するに、是れ素と、
唱歌を実施するの難きに非ずして、予て適当なる音楽を撰択するの難しきにあるものの如 し。」と述べ、唱歌の指導に適した教材が無かった事をあげている。そこで「世の音楽の 事を談ずる者の言を聞くに、平門、概ね三あり。」と次の三国からなる音楽教材観を論じ
ている。
甲説では、
乙説では、
丙説では、
「西洋音楽が最も勝れているのでわが国に移植すべし。」
「わが国固有の国楽から、我国固有の音楽を培育すること。」
「甲乙の中を取って、東西二洋の音楽を折衷し、我国に適したものを制定す
ること。」
以上の三児の中から、丙説を取り上げることに決定しているが、この決定こそが、今日 わが国の音楽教育界を、西洋音楽偏重に導いた源点であったように感じられる。もし彼が この時、乙説を採択していたなら、多分今日の音楽科教育は、日本独自の民族色豊かな音 楽教材を生み出し、もっと個性の強い音楽教育が展開されていたのではなかったろうかと 推測される。
さて学説を採用することに決定し、音楽取調掛の実際の研究内容と事業について、「東 西二洋の音楽を折衷し、将来、我国楽を興すの一助たるべきものを造成するを以て、現今 の要務となすときは、実際取調ぶべき事項、大綱三あるべし。」と述べ、凹め三項のよ
うな実施内容が詳しく説明されてある㌔
第1項 「東西二洋の音楽を折衷して、新曲を作る事。」
第2項 「将来国楽を興すべき人物を養成する事。」
第3項 「諸学校に音楽を実施する事。」
こうして明治13年置1880)3月には、アメリカから、音楽教育家のメーソンを音楽取調 掛の教師として日本に招き、同年10月から、伝習生を入学させ、 将来国楽を興すべき人 物を養i成する かたわら、黙東西二洋の音楽を折衷して、新曲を作る という事業と研究 が実際に開始されるこどになったのであった。
明治14年(1881>10月伊沢修二は音楽取調掛長に任命される。
同年11月文部省音楽取調掛編集による唱歌教材集「小学唱歌集」初編が出版され、続い て明治16年(1883)に第2編、明治17年(1884)に第3編が刊行された。これら唱歌集全 3巻は、わが国音楽教育史上画期的な出版物として注目され、現在でも、当時の唱歌教育を 研究する上での、唯一の貴重な資料とされている。またこの唱歌集は、その後出版された 多くの他の唱歌集の参考として、役立ったことは言うまでもない。尚この初篇の巻頭に記 された「緒言5}」には、「凡そ教育の要は徳育・平平・体育の三者に在り、而して小学に 在りては、最も宣く徳性を洒養するを以て要とすべし。今夫れ音楽の物たる性情に基づき、
人心を正し、風化を助くるの妙用あり(中略)唱歌集初篇と云是草創に属するを以て、或
は未が完全ならざる者あらんと錐も、庶幾くは亦我教育進歩の一助に資するに足らんと云
爾。明治14年11月音楽取調掛長伊沢修二智識」と述べられてあり、教育は「徳育・智育・
体育」が重要であり、特に「徳性を酒養する」ことが大切であって、それには「音楽の性 情6)」によって、「人心を正し、風化71を助くる」ことができる。即ち唱歌教育は「徳 性を酒養する」ものであり、「徳育」を担当する教科であるといっている。この徳育思想 は、それ以後出版された多くの唱歌教材集及び、唱歌教育に、強い影響を及ぼすことにな った。また明治14年5月文部省から出された、 「小学校教則綱領」第24条には、 「唱歌は 美徳を溺養せんことを要す」と明示され、教育制度上においても、「唱歌は徳性を酒養す る徳育教科」であることが公示された。ついで、明治24年「小学校教則大綱」、明治33年 の「小学校令施行規則」などにも「唱歌は、(中略)徳性を酒養するを以て要旨とす。」
と公示され、この徳育思想は、昭和16年小学校令の大改革である「国民学校令」制定まで の、長期にわたって、わが国学校音楽教育思潮の根底に流れていたのであった。
明治15年(1882)音楽取調掛の研究内容を示した、「音楽取調事務大要8)」が作制され、
上呈された。その第1の「諸種の楽曲取調の事」の中には、「諸種の楽曲中、特に取調を 要するものは、本邦の部に在て雅楽・俗楽とし、外国の部に在て西洋楽・清楽とす。俗楽 に於ては、箏曲、長唄等を始め、其他各種に及び、西洋楽に於ては、古楽、今代品等、皆 其取調を要するものとす。(以下略)」と内容及びその取調べ方法が記されてあり、当時 の取調掛においては、雅楽の外に、箏曲や長唄など俗楽についても、研究され取調べられ ていたのであった。また第IIの「学校唱歌の事」には、(1)「楽譜及び歌詞の撰定」、
(2)「図書の編輯」、 (3)「楽器の練習」、 (4)「唱歌普及の方法」の4つの問題 が提示され、説明が付記されてある。
(1)には、「楽譜は、本邦人若くは西洋人の作を撰用し、歌詞は、既有の楽譜に隔て作為 するものと、楽譜の撰定に先だちて作為するものとの二種とす。……」とあり、これは、
和洋折衷の唱歌教材の作り方が示されたものであるが、邦人の旋律や、外国曲に、既成の 歌詞の一部を改変して、あてはめたり9)、徳育教育にふさわしい歌詞を作ってそれに作曲 するという、所謂「唱歌教育あたああ二丁角教材」作り、即ち「教育南書楽」作製方法で あった。(2)には、「図書の編纂は唱歌掛図、唱歌本、及び唱歌教授法とす。……」とあり、
こ・では、瓦版の「小学唱歌集」初篇に従い、高次用を作ること。また唱歌の教授法は、
新設学科(教科)のために、資料が無く、唱歌教授用書の製作が必要であるということを いっている。(3)では、「学校唱歌に用いる所の楽器は、本邦の箏・胡弓、西洋のヴァイオ リン・風琴(オルガン)・洋琴(ピアノ)と定むべしdといい、箏や胡弓で唱歌指導する ことをすすめておきながらも、「下等若くは中等小学の唱歌には、箏・胡弓等を以て足れ
うとす桑亡。若しヴァイオリン又は風琴あれば、最も二丁とす。上等小学若くは中学等に 在りては、必ず二二を備うるを要し、若し洋琴を備うるを得ば、最も善しとす。……」(
傍点筆者)と付記がある。これは、楽器使用上における和洋折衷案のようにも伺えるが、
外国楽器重視説のように感じられる。(4)では、「学校唱歌を普及するは、師範学校生徒と、
当掛伝習人とによりて、其目的を達すべし。……」と述べられていることによって、師範 学校生徒と取調掛の伝習人によって、いよいよ本格的な唱歌指導が開始されることになっ たことがうかがえる。
明治23年(1890)10月「教育勅語」が発布され、この中にうたわれた忠君愛国の精神
は、国民に天皇制を強調し、国家主義的思想を強めることになった。また儒教的思想の中
心である道徳精神が強調され、明治24年制定された「小学校教則大綱」には、 「唱歌は耳
及発声器を練習して、容易き歌曲を唱うることを得せしめ、兼ねて音楽の美を弁知せしめ、
徳性を滴養するを以て要旨とす。」(傍点筆者)と公示された。こ・で初めて「徳性を酒養 する」という言葉が、制度上はっきりと使われることになり、これによって、増々唱歌教 育は、徳1生を酒養する教科であることが、国民全体に強調されることになった。
明治26年(1893)8月「祝日大祭日儀式唱歌」が制定された。それは次の9曲から成っ
ている。
「君が代」1ω・「勅語奉答」・「1月1日」・「元始祭」・「紀元節」・「神嘗祭」
「天長節」・「新嘗祭」・「明治節」11}
これら一連の儀式唱歌は、それぞれの祝日儀式に、生徒・教師及び来賓は勿論のこと、
参列した父兄も含む全員に歌わせられたため、祝日のみならず、年間を通して絶えず、国 民の問で歌われるようになった。また、これらの唱歌に付けられている歌詞は、教育勅語 や、徳育思想の精神を盛り込んだものばかりであったため、これらの唱歌を歌うことによ
って、その人々の心の中に、その歌詞のもつ精神が強く植え付けられることになった。尚 当時の他の多くの唱歌にも、このような歌詞が付けられていることから、当時の唱歌教育 情楽科教育)は、「音楽の美を弁知せしめる」ということよりも、音楽を道真として、嵌 詞あ内容を教育することに重点をおいた、 「徳性を酒養する」 ための「徳育教育」であ
ったといえる。
明治15年1月「悟入勅諭」が発布され、忠節・礼儀・武勇・信義・質素の6画面徳自を あげ、軍人は「世論に惑わず、政治に拘らず、只々一途に己の本分の忠節を守り……」と、
政治への不関与を説き、天皇制国家の精神を強く打ち出した1鋤。その後朝鮮と京城条約・
清と天津条約などの締結や改正のこじれから、明治27年(1894)8月「日清戦争宣戦布告」によ り日清戦争が起り、軍国主義は徐々に高まり、日露戦争が勃発した明治37年頃になると、最:
高潮に達したのであった。この軍国主義の波は日本全土に広まり、勿論音楽教育にも強い 影響を及ぼし、 「軍歌」を生み出したのである。「軍歌」は、当時の唱歌集の中にも教材
として、多く取り入れられ、学校でも歌われるようになった。
明治33年(1900) 「幼年唱歌」(言文一致唱歌集)が田村虎蔵と納所弁次郎とによって 出版された。この言文一致論はすでに慶長時代に始まり1紛、 「言文一致唱歌」は、伊沢修 二が、その「小学唱歌」の中で、僅かに試みた程度であった。ところが明治21〜2年頃か
ら、この言文一致論は文芸界で高まり、その影響により、田村虎蔵・大和田建樹・佐々木 信綱・納所弁次郎など、多くの人達によって「言文一致唱歌4 (歌詞が口語で作られてい る唱歌)の研究が行なわれ、力作を生み出すと共に、多くの唱歌集㈹が出版された。また この言文一致唱歌は、後の小学校唱歌教材の革新に、大なる貢献をすることになった。
明治34年(1901) 「中学唱歌」 (東京音楽学校編)に、当時まだ音楽学校生であった滝 廉太郎の「荒城の月」や「箱根八里」が、唱歌教材として載せられた。これらの曲は、今
日でも尚、日本の代表的な歌曲として、広く外国でも歌われている。明治40年(1907)第 3回目の「小学校令の改正」が行なわれ、 「唱歌科目」は、やっと「必修科目」として認 められることになって、教育面玉上に一大区画を示したのであった。これにより唱歌科目 の時間数も多くなり、音楽教育の充実がなされていった。
明治43年(1910)文部省編纂による「尋常小学読本唱歌」が出版された。これは文部省
が著作出版した、わが国最初の唱歌教育用の教科書であり、その中の旋律は、全部邦人の
作曲によるものであった。また、続いて出版された「尋常小学唱歌」全6巻は、翌44年(1911)
から大正3年の長期にわたって発行され、前記「尋常小学読本唱歌」を前身として、文部 省が編集した唱歌集である。その内容は、全曲邦八の作詞・作曲によるものであり、各学 年毎に別冊になっているため、画期的な唱歌集として、各方面から注目された。
斯くして、学制頒布と同時に誕生した「唱歌教育」(音楽科教育)は、その後の社会的 変動や教育制度の改正などによって、様々に変容しながら、「音楽の美を弁知せしめる」
と共に「徳性を酒養する」ことを歌い文句にして、「徳育思想」を音楽教育思潮の根底に 秘め、大正期の「唱歌教育」へと受け継がれて行ったのである。
III大正デモクラシー
明治44年(1911)平塚雷鳥や与謝野晶子らによって創刊された「青轄」は、自我覚醒と 個人の自由を主張する「自由主義」(デモクラシー)を文学運動として、文芸界から出発し た。また大正3年置1914)小西重直によって、わが国にもたらされた新しい「芸術教育思 潮」は、一般芸術教育の方面に、強い影響を及ぼし、山本鼎によって、芸術教育運動とい
う形で、「自由画教育」なるものを生み出した。一方「自由主義思想」の文学運動の影響 は、芦田恵之助によって、綴方における「自由二二」という方法を生み出させた。
大正7年(1918)少年雑誌「赤い鳥」が鈴木三重吉によって創刊された。
大正8年(1919)鈴木三重吉は「赤い鳥」童謡第1集を発行した。その序において彼は、
「われわれは哀れにも、お互に殆ど謡ふべき謡を持ってみない。子供たちでさへも、ただ 機械酌た敢扱ほ腕そある工種あ低級なもあ以外に何ものを誇り得るであろう。第一われわ れは、根本に於て、これまで殆ど、子供たちのための特別なる眞箇の芸術家を擁し得た例も ない。これに対して、ただひとり「赤い鳥」は、われわれの第一流の作家詩人、作曲家た ちを抜いて、手工〜)たあた眞実なる創作を寄與ずる最初の一大運動を導いてみる。……」】励
(傍点筆者)と述べ、当時の学校唱歌を「機械的に取扱はれてるる二種の低級なもの」と 痛烈に批判し、彼の「赤い鳥」は、「子供のために眞実なる創作を寄与する」ものであり、
「赤い鳥」童謡運動こそ、真の芸術運動であると主張した。この童謡運動に刺激され賛同 した北原白秋・野口雨情・三木露風など多くの詩人や、山田耕搾・本居長世・成田為三・
中山晋平など多くの作曲家達は、当時の子ども達の心情に合うような、解放的な作詞・作 曲をした。それら多くの童謡は、これまでの学校唱歌に無い、新鮮な感じを子ども達に与 えたため、学校唱歌を圧倒し、家庭の中まで浸透して行った。そして、やがてこの童謡運 動の波は 童謡でなくば歌にあらず とまでいわれるほどの全盛期を迎えたのであった。
またこの「赤い鳥」童謡運動の波は、学校唱歌教育思潮にも強い影響を及ぼし、「童謡」は、
「言文一致唱歌」と共に、大正末期に出版された唱歌集1⑤の中に、その姿を現わし始めた のであった。
学校音楽教育界の指導者達は、「学校における唱歌教育の何たるか」を論じ、彼等の間 では、「徳育教育」から「芸術教育」へ脱皮しようとする気運が高まって来て、今までの
「教師中心の教育」から児童を解放した「自由教育」への教育感が四国しはじめた。
大正13年置1924)ドイツの鑑賞教育が輸入され、当時広島師範訓導の山本寿によって、
「音楽の鑑賞教育」という本が出版された。また蓄音器の普及や、ラジオ放送の開始(大
正14年3月)によって、音楽の放送と共に、音楽鑑賞教育の研究が増々盛んになった。
大正15年(1926)当時奈良師範訓導の幾尾純は、 「自由作曲」の実践的研究をおこなっ た。また草川宣雄は「唱歌法及発声法」で、 頭声主義 を、福井直秋は「唱歌の歌い方 と教え方」で、 二二主義 を、田村虎蔵は、 弱声発声法 を、外山国彦は、 自然的 唱法 を主張し、論議百出して「声楽界」は混乱をきたすことになった。
このように、大正デモクラシー(自由主義)は、当時欧米から流入して来た色々な主義
・思想と共に、当時の国民思想を混乱させた。それはまた音楽教育界にも影響を及ぼし、
各地で自由な音楽教育研究がなされ、主義・主張が百出し、混乱を招くことになった。だが 一方それまで歌うことのみに終始していた「唱歌教育」は、「言文一致唱歌」・「童謡運 動」や「自由教育」などの強い影響によって、「教材の改変」とか、また「鑑賞ド「創作」
及び「発声法」などの研究によって、徐々に、近代的な「音楽科教育」の方向さと、その 姿を変容しはじめたのである。がしかし、明治から受け継がれた「徳育思想」は、脱皮す る気運が高まったにもか・わらず、完全には発展し切れず、「御性を溺養する」音楽教育 思想はそのまま、昭和の「唱歌教育1ヘル洪り杁まれて行ったノ)であっヵ、
(以下次号)
註 1
1) 「本邦音楽教育史」乗杉喜壽…音楽教育書出版P.1〜P.39参照
2)師匠には、検校・勾当・座頭・などの位があり、箏曲は盲人の為の特別音楽として、特権組織(当道)
にて、幕府から保護されていた。 「日本音楽の指導」文部省・東山書方・P.26要約。
3)馬場健「日本の音楽教育・人間とその軌跡(4)伊沢修二(その4)」音楽教育研究・S46:7・音楽之
友社。
4)伊沢修二・山住正己校注「洋楽事始」音楽取調成績申報書P.3〜P.10・平凡社。
5)同上書P.161
馬場健「資料篇1〈明治期〉」P.50〜P.51音楽教育研究1973・Nα82 6)新村出「広辞苑」P.1183「性情①性質と心情」・平凡社
7)同上書P.1849「風化①下のものが上のものの徳に教化されること。」
8)既出「洋楽事始」P.20〜24
9) 「小学唱歌集」初篇2篇3篇・それ以後の「唱歌集」の中には、ドイツ民謡の外アイルランド・スペ イン・スコットランド・などの外国民謡や、外人作曲家の旋律が、非常に多く取り上げられていて、日
本歌詞が付けられている。「日本唱歌集」堀内敬三・井上武士・岩波書店。
1①安田元久「日本の歴史」P.322(1888年)明治21年12月「君ヶ代」を国歌に制定する。
井上武士「音楽教育明治百年史」P.107「君が代」は明治13年(1880)10月に完成され、明治15年目 1882)に太政官から国歌として制定されたことが、布告された。
11)同上書(井上武士)P.109「明治節」は後年に至り、明治節が制定されてから追加されたものである
ことはいうまでもない。12)安田元久「日本の歴史」P.317「軍人勅諭」一部引用。
1鋤 同上書P.321「言文一致運動」参照。
1の先出書「音楽教育明治百年史」P.110参照。
瑚 「音楽教育研究」1973・No 82「唱歌教育の歴史」P.100・資料20「赤い鳥」童謡第1集序・引用・音
楽之友社。
1の 「音楽教育明治百年史」P.125田村虎蔵「検定唱歌集・尋常科用」 (大正15年)田村虎蔵「検定唱歌
集・高等科用」 (大正15年)福井直秋「大正小学唱歌」 (大正15年)参
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