ペ チ ー と グ ロ ー ン ト の 生 涯
東 京 商 科 大 學 教 授 商 學 博 士
藤 本 幸 太 郎
︑14ウヰリヤム・ぺチーとヂヨン・グローントとは十七世紀に於げろ英図政算撃班の開組として統計撃史上特記すべき偉人で
めるが︑鬼戌にこ共の生涯の二斑か述べて挫友武藤君在敬慕する素志を果しおいと恩ふ︒
﹁ベチtの生涯
ペチーは一六二三年五月二十六日︵月曜日︶英国バンプシャ州ロムセイに極めて貧乏な衣服商を管業としてゐた
父の家に生れた︒ペチーが後年オープレー︵Aubrey︶に奥へた少年時代の回顧録によれば︑彼は鍛冶屋︑時計師
絨鍛商︑指物師のやぅな工匠を見ることを好み︑それ等の中でどれが自分に適してゐるかを見極めようと企てた
と記してゐる︒十二歳の時には可なりの程度まで羅典語に執達し︑十六歳の時には又相雷の域まで希臆語に上達
してゐた︒十四歳の項ペチーはその早熟性を良い方面に樽向する横合に恵まれたと思はれる︒其の項彼は英園の
一商船にケビンボーイとして約十ケ月間の弊働に服してゐる間に脚部を負債したた.め︑轡員は彼をカン︵Caen︶
に程近き沸団の海岸に上陸せしめた︒そしてこの不幸な少年は自らその運命を開拓しなければならぬ程に見知ら
* Sir Wi lliam Petty, Jo hn Graun t.
ぺ チ ー と グ ロ ー ン ト の 生 活
四七
商 業 と 経 済
四八
ぬ土地に投け出されたのである︒役︑がかつて受えた羅典誌が役にたって此の町の建設の牧師法がペチーを助けた
詐りでなく︑進んで彼をその経営にかかる墜校の生徒として入墜を詐可した︒日疋慮で彼はその好める車問の遺伝
続けたのは勿論︑更に仰繭西認守閣一ぶことが出来た︒この間彼は側関西士官に航海術を︑叉英図に遊ばんとする
一紳士に英語を教授して僅かに糊口の資在得てゐた︒そして共の教授には経典語在媒介の用具としてゐた︒英図
に師ってから体は数ナ月の間海軍に働いてゐたが︑一六四三年図王と議合との衝突の結果︑彼は和闘に避難した
軍隊に加はって︑其底で修墜にいそしみ︑殊にクトレヒト︑盛田︑アムステルダムでは皆墜に精進した︒
一六
四五
年
十一月頃彼は巴里に赴き解剖阜守研究した︒巴里では蛍時知名の堕者注に知池在得てゐる︒笠年彼は郷里ロムゼ
イに蹄省して暫く父の業務に従事してゐたゃうである︒ロムゼイに在る聞に複お機を後明して一六四七年三月頃
には之を完成し十七ク年の特詐慌を得てゐる︒同年十一月彼は右の特詐椛を貰却せんとして倫敦に赴いたが結局
失敗に蹄した︒その後の述懐によれば︑後明家ない乙は世人の想像するやうに決して有利なものではないといって
ゐる︒倫敦でペチlは美術を愛好する人々の倶楽部に加入することを得て︑自然その常時の知名な人法とも交際
をすることとなった︒就中ミルトンの友人ハl
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出口
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とも親交を結び︑後には車問の或る
部門の進歩に封するベチ!の忠言
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muu)と題する論文をこの人の座右に提出した程であった︒
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lトリップの勧奨によって商業史
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一六四八年ペチlは倫敦から牛津に移碍してゐる︒蛍時は恰も議舎の政廷に依って大事の改遣を企てた折であ*
った
︒彼
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一
d教授クレートンの代理となったが︑
一六
五
O年一月クレートンはベチl身推して教授の椅子を
議ることとなった︒その後間もなく彼は母車博士の皐位を得てプレlスノーズ・カレツヂ
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誌の
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一六
五
O年十二月小児殺の嫌疑在受けて牛津で死なんとした下粋︑アン・グリーン(kpEの
58 )
を蘇生せしめた事件に関川県して
一一
般そ
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器を
一品
めに
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その頃プレlスノーズ・カレツヂの副校長に選準せら
れ︑一史にグレツシヤム恩院の一音楽教授にもなった︒副校長の席には一六五九年八月九日まで︑叉グレツシヤム皐
院には一六六O年三一月八日まで其の峨に在った︒一六五一年四月大堅守訪れに税皐官蓬が彼に異数の侵渇を奥ふ
ることとした︒印ち二ク年に瓦る休暇と三十時の年金とを彼に輿へに︒其の間数ク月間殺は何をしてゐたのか︑
今日全く不明であるが︑
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丘町
一定
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待︒)は︑ベチiは恐く放行に出掛けたの文らうと推
定してゐる︒そは兎に角その頃彼は其の全生涯に瓦って決定的な影響を典ふるやうな任務を負ふべき運命が到来
してゐた︒それは彼が愛附の陸軍皆官となって総帥たる陸軍中賂附の皆宵ともなったことである︒これより後物
質的にも精神的にも常に愛前と隣るることのできない関係を有することとなった︒
陸軍皆官としてベチーは約七ク年間愛闘に居住しに︒一六五九年彼はへンリ1・クロムワエルの推薦肢を携へ
てその頃ランプ家(目
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樹てに政府に仕へんとて英前に腕った︒そして︒ヘチーが愛闘の土地測量ハロ
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﹀を企てたのも此の附別であった︒此の卒業こそ彼の財産と平くも其の名珪在準ぐるニとが出来ペチーとグロlントの生活
匹1
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商 業 と 経 済
五O
大基礎となったものである︒一六四一年愛蘭の反軍を沈座してから彼等の土地を浸牧して︑之を勝利を博した軍
人達に其の半分を︑叉軍隊の汲遣方に資金を提供した倫敦の冒険者逮にその依の半分を頒つことと定めた︒之
がために必要な浸牧地の面積や位置を測量することが企てられた︒ベチ!が最初愛閣に到若した頃には既に右の
測量が進行の中設にあったが︑彼は総督ベンヂヤE
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193
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の測量の不完全にし
て無計劃の遣り口を非難し︑自分で一居完全な測量をなし得ることを主張した︒而も之を錯し濯ぐるに一ク年一
んノ月で地岡を作製し︑全日加に編んで上申することが出来るといった︒之に封しては穏々の議論もあったが結局一
六五四年十二月十一日彼の主張が採用せられた︒しかし測量の完成に要する時日はその後一六五五年二月から十
三ク月間に延長せられた︒かくてベチl
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るを一吋の割合に縮おした地岡を作製し且つ土地
の豊否を明かにし軍人所属の土地と然らざる土地とを明瞭に描おした︒彼は更に一般の利用を目的とした土地の
測量を行ひその中には浸牧地たると否とに閲せ中凡て之を含めた各部部に疋る貴族領との境界を明にした極めて
有盆な地岡をこしらへた︒一六五六年二月の頃︑軍人所属の土地の測量が完成したから費用の支緋方を攻府に請
求しかっ自己の責任を解除せられるやう請願した︒彼の事業は陸軍代表の委員舎に報告せられて其の承認を得
大
0 4んもクオllスレ
は屡
Eベチ!の訣謬を指摘して之を非難してゐるのであるが︑彼の指摘せる程の過はか
かる大事業には到底克れ得ぬほEのものにすぎない︒しかしベチlは之に答ふべき詳細な反駁文を起草した︒山首
時一
フル
コム
(C SO B‑ HR gB
は有名な判事であったが︑ベチlの測量事業が迅速に港行せられたことに同情して)
之に有利の判決を下してゐるのであるが︑事寅は係争問題のため其の支排方も一六五七年三月まで延期となり︑
叉その責任の解除も同年十二月まで賢現の運びとならなかった︒他方︑測量の結果を公表する出版の事業もなほ
数年の後となった︒
軍人所路地の測量卒業の完了後も愛的と彼との関係は結末をつけなかっに︒一六五六年七月七日彼は自分の測
骨一一した筏牧地を支官と兵士とに分配する委員舎の一員となった︒然るに委員の一人ピンセント・グツキン(ヨロl
gE Co oE
るは間もなく議舎に出席するため英繭に向けて出愛した許りでなく︑他の一員シムナ
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∞ 句
HH50円)に︑他の軍人法の怒を買はんことを恐れて︑斯る事業に口を出すなと忠告した︒そのためベチーはこの
面倒な事業を殆E溺力で底置しなければならないやうになった︒幸に一六五七年二月頃までに土地配蛍の役目を
果すことが出来た︒其の間又彼はりオlスレ!と協力して佼牧地の中冒険者蓬に局する半分の土地を測量した︒
この測量に基いた土地の配蛍は倫敦の胃険者連の間に悦ばれなかったため一六五八年五月まで遅れに︒総督も殆
んど勘忍袋の絡在切らしたのでベチーを倫敦に出して委員合そ組織してその手で之が解決を計らうと決心した︒
ペチ!の倫款に者するや彼は是等の投資家法が︑ダプリンから匿名の書面でベチーが軍人を欺賦しにやうに出来
得べくば投資家法をも欺かうとするの記と認ひてゐることを知った︒しかし幸に総督の全幅的な信認を得て彼は
此の事業を敢行する最適任者なりといふ支援のカが強かったから︑ベチl
の攻
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狼狽
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第二
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一日
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て︑ベチーが投資家法に自分の不正な測量を強ひ符るのは彼が版密院書記官たるの身分と総督の絶大なる愛物
Aチーとグロ1シトの生活
五
商 業 と 経 済
五
* から冗と罵った︒然るにこの書信は倫敦への途中で抑止されへンリl・クロムクエルの注意を惹いた︒クロムワ
エルのベチlに封する信認は終始捻る所はなかったが︑彼は直ちに七名の官吏から成る委員合に命じて右の誹誘
の蛍7A
口を
審判
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一方
ベチ
iは一六五九年十二月主夜飛行身惑の危険を問けして漸くダプリンに到達した︒
この時﹃}そ彼は旦に之を利明の加設にと感銘してゐ大程であるから常時﹃)の事件のため彼の受けてゐた迫害の大
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ωといふ者も加って侃J市
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であったことが想像される︒右の委員舎には克に牧税官︑段督官各々一名︑放に合計に明るい而も人格の高かっ
といふことが明瞭になった︒
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愛市岡に於ける士官の背徳行匁は必中しも無恨の風説のみではなかった︒保民官たる総
m u の莞去に際し英閣議九百
内の攻窓人たる軍人法は其の子一連の保護に少しも注意を向けしめないやうな運動をなした程であった︒ベチーは
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から議員として選出せられたのは全くクロムワニルの友人としてのためであつに︒ 其の全生涯を通じてクロムウ一ムル家の張問なる支探者であったが︑ベチーがリチヤlド内閣時代にウエスト・ル
それ
故議
命日
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が︑ベチ!に背信行焦があったな左と攻撃を加へたのは︑グプリンに在る士
官遼にこれな早党総督に封する誹設に外ならぬとしたのは少しも怪しむに足りない︒活時議長バンププヰl
ルド
岨何
ω B ( 町
H ) ペチーは問︒仏)から態々のす一日面がベチ!の注立を喚起し︑起ってサンキ!の非難に答ふることとなった︒
答辞の日として定められた日に議舎に出席し極めて謙遜な態度で自分の地位︑行匁について賠護の演説を試み
持 HenryCromwell
てゐる︒彼等の加へた攻撃は何れも花決として詮明のたにぬもので軍人に局すべき土地の分配といふやうな炭
汎な︑しかも困難な事業には自然多くの政敵を作るに至るのは勢の己むか}待ない所であり︑他方叉友人を作るの
機合にも乏しかった︒ベチーは何等隠すところなく寧ろ正々堂々と身の明しを立てんこと守巽墜してゐたのであ
るが︑サンキlは以越な午一一日前な用ひて︑ベチ!な攻躍して止まないので議合も終に助忍し得歩︑丈来日守以て之申告
陳述すべしとの命令ぞ体へに︒不幸にして︑翌日印ち四月二十二日クロムクエルは議舎の解散な断行して了つに
ので彼は再び犯罪J信託ふの己むなきに至った︒
談合の解散とともに彼は愛闘に急行したが︑再び勿位として倫敦に腕来し︑へンリ
1.
クロムウエルの命によ
ってフリ!トウッドに汲泣せられることとなっに︒サンキーは蛍時反動期に於ける政局の重要人物であつにが︑
七月十二日ランプの議合でベチーを主非犯人にと訴へに︒議ん何回は印庄に之ーを愛闘委員合に移牒したけれども︑右
の委員合は迭に之が決裁守なすことが出来なかった︒之がためベチーは会議の緯明も不能になったから皮く之を
一般の輿論に問うて身の明し仕立てんと決心しに︒一六五九年七月十二日までのサンキ!との係字問題に闘し明
映な記録在公刊しに︒笠年克に二百頁程の小加子に其の測量と分配の方法を詳述し︑自分に封する攻撃以何れも
ゃい一次改正と熊汲的嫌怒とから来てゐるにすぎぬと訴へてゐる︒同年十月頃愛陶土地測量問題に関する長編の沿革を記
した者主によってベチ!の立場な明かにし︑一史に他にも二部の著書に依ってこの事件の解決心充てたのであるが
今日では恐く皆欠はれて後見しねぬであらう︒
ベチ1とゲロl
シトの生活
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長.Flcetwood.
商 業 と 経 済
五 四
り河ベチ!は倫敦に蹄ってから間もなく種々の倶楽部に加入したが︑就中クッド・ストリートに在つにずツダ!ド
水母
博士の宅や︑チiプサイドに在ったパルのヘットタグァ!ン(問︒え吋雪月ロ)で開かれに討論合には熱心に出席
した彼は蛍時漸く益四してきに自然科壊の研究に興味守持ち︑牛・津大惑の前記のゴツグ!ド︑巧ω
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Eといふ新人法との交際が深かった︒是等の人々の組織してゐた牛沖合はベチ!の自宅uや︑愛闘に赴いてゐ大不
在中はクヰルキンスの自宅等で閃かれてゐ大︒その合員中じは知名の人法も段々に冷してきたため︑後にはグレ
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記
h同地で彼等は水︑木の雨限規則正しく自然科墜について車問上の討論を
︐ 市 中 市 水 品 内 氷 山 小
湾すのを常例とするやうになった︒其の日にはクリストアアl・レンの天丈翠と︑ローレンス・ルックの代数閥単
の講演を聴くのが例となった︒そのころ合員中の合話の中に偶々外周に於ける之と類似の車合に関するものに鰯
れたが︑其の結果官時集った同人(ベチ!も其の一人である﹀法は︑この九百合が今少し規則正しき方法で九百合し多
少資盆にもなりかつは他闘に行はれてゐるやうに経験哲翠の後展に貢献せしめたいとの決議をなしに︒斯く形式
抜きに組織せられた塑舎で論丈を朗読した人々の中にはベチ!の名が屡々出てゐる︒
張
︒ 市 中 市 山 市
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漸く熟して右の合合は主として自然科撃の知識冶普及する目的で王立問中士院の成立を見ることとなり︑ベチ!は 一六六二年七月十五日時機
直ちに評議員の一員たる
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2 8 日)は其の速力に於ても︑・安全性に於て色躍底的に比べて謡かに
優ってゐるとなす論文は恐く墜士院で朗設されたもの﹄一に相違なからう︒彼は後日自分の主張の設りなきこと
持 Dr.Goddard. ;~ B叫
主炉*cαh立r凶出riiistp凶h1児町e町rWren 殺工La引訓抑抑wr町ア'守reθ何ln町 悶C白eRoo尚k王句ee
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を質詮せんとして三般の複底般を建造して一六六二年ダプリンで竣工せしめに︒日疋等の般はその頃ダプリン港に
在ったどの般よりもその速力が優ってゐ大︒図王の所有であつに蛍時快速第一と稽せられてゐ大出
oq Z包
3 ?
}与すらも凌いだのである︒そこで彼はこの舶在英前に持ち蹄り友人ベピスの紹介でヨlク公︑海軍大臣︑更に
園王の御覧に供した︒チヤ!ルス二世はベチ!の驚くべき程々の考案と其の旺盛な努力とを賞揚せられた︒
スベリメントと名くるベチlの考案に成った筏底舶は其の速力優秀であったが不幸にして愛蘭海峡で沈浸して了
ったのと倫敦大火の際彼の所有にかかる住宅の全焼したのとJ指て加へて愛繭裁判所に於けるペチーにとって不
利な判決の結果は延いてその後殆ど二十ヶ年ほEの間舶の建造や宜験から離れてゐ大︒しかし彼が二ハ八二年ダ
プリンで倫敦の王立臨一士院に似た哲臨一舎を創設せんとの考に燃えてゐる聞にも往年熱心克つに複良一般の問題が強
く彼の胸中に往来してゐたのである︒
王攻復古はベチlに取つては何等の不幸を粛さなかった︒
一六
六O年一月二十日の勅欣は一六五九年五月七日
に得た土地一切の所有楳を確保してゐるし︑其の上
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しかし淡牧地所有者の受けに不利盆はベチlも免れることは出来なかっに︒幸に愛前にある彼の土地は依然とし
て自分の所有に蹄し︑図王からは貴族に列せられかつ名義のみではあったが︑愛蘭測地総監∞ロ
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に任命された︒ベチlは蛍時流行してゐ大悲疫を恐れてダlデンスに隠退して種々の機械の護明に忙殺
せられてゐに︒
ベチlとゲロ1シトの生活
五 五
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商 業 と 経 済
五六
一ムパ六六年春裁判上の必要から再び愛繭に赴きダプリンに居を定めた︒これより数年間引緩いての愛闘の居住
からベチーは完全に愛閣と利害を問うして最早や離るべからざる関係を結ぶこととなっ大︒往年の軍援として︑
賂た測量附としての腿験はなほ一個の滞在者といふ気持にすぎなかつにが︑クリlに於ける土地所有者としてマ
ウント・モンガ1
トン
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同]
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Zろから五部エーカーに偽る土地を所有してゐ大彼は数多い仕事に治以
れて相蛍多忙の日を怠った︒しかし常時受闘におけゐ土地の所有椛は極めて不安でいつの間にか自分の所有棋が
他人に渡ってゐるやうな有様であった︒ベチlは新うしに不安な運命に保されてゐたが︑彼は終始頑強に其の正
山首
な椛
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主張
し績
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ゐ大
︒
ペチーはこの煉獄の火から免れて後ダプリンに居な椛へてゐに︒しかし彼の成大な土地はクリl州のクンメl
ヤにあったから︑其彪に彼は新教徒達の殖民地
( H E E E P
一 ︒ ︒
} 8
5 を打建てようと試みた︒この計主のためペチ
ーは周到な注意を抑ひ一ナ年に二回︑彼のいふ﹁世界の不思議な片隅﹂に政行を企てた︒不幸にして彼の計主は成
功しなかつに︒彼を閣総する愛繭の隣人法は何れも好意在有せ示︑それにクンメヤーはその地を知れる者のいふ
所では︑港は加を浮べるにはよいが土地は総じて不毛で雇入れた靴匠をすら養ふに足りぬ程の貧しい所主とのこ
とである︒しかし叉有利な傑件も備ってゐ大︒海岸では俄が県富で︑樹木は津山にあって︑木炭の供給に苦じま
持 Kerry
芸Iζenmare
なかったから︑彼は鋭︑銅の工場を設けたが︑愛闘では鍛錬の産出せぬため結局これも不成功に終った︒しかし
新敦信者の移.民蓬は︑その周固に兵敦信者在浮山にもってゐにから尚頁は繁昌した︒クンメヤ!は十分の資本と
賢明な指導によって之そ導くことが出来れば愛蔚の殖民事業は確かに成功すべきもの交と詮明せられにのである
が︑ゼ!ムス二世の御世になってから是等の移民法は愛前人の犠牲に供せられ︑加ふるにチルコン︑不ルの攻策も
襲って来ににめ︑ベチ!の程々な施設中最も成功の絡についてゐ大殖民事業すら遂に跡形もなく消えうせて了
つに
ベチ!の愛闘に於ける犠牧の会々大となるに連れて利害の怨がだんノ︑に一品められに︒彼は王攻復古の蛍時︑ ︒
愛前談合の議席に列なり︑移住法
(k J2 ch mo Eσ BS
円)の賢施に関する委員舎の一員となって︑愛蘭産家者の英
繭への輸入禁止法案に反封した︒叉其の頃彼は法律の性質すら理解してゐないに関ら宇海事裁判所の一一判事たら
んと運動しにことすらあつに︒ベチ
︑か愛闘の財玖に関係したのは隠れなき事宜である︒1 .
非﹁課税論﹂で到恋し七決論の若干守愛闘の現以に適用せんと試みに︒彼の得た後年の経験が宜純なるこの書の理
一六
六
O年頃彼は其の
論に武際的な特色を附興すゐに至ったのは全くこの七めである︒一六六八年愛繭の財政菜箆を名として︑機に乗
ぜんとした一味の哉がォlモンドや其の他大蔵宙局に攻撃の矢在放った︒この陰謀︑か功在中突し国王は同年のクリ
スマスから向ふ七ク年間年額二十一一雨九千五百砂で欣入を請負はすこととなつに︒新長場の監理は政府に取って
は不利で︑人民にとっては路制な免れなかっに︒斯くて其の後長年問︑愛闘の財政方針は確立するに歪ら?︑オ
ーモンドの出づるまで︑愛一附の財玖は何言︒
Fm
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)片
品目
ロ的
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︒♂
回目
円 ]ω B2 25
2などのために︑案飽の極に達
した︒ベチlもそのにめ税々の苦楚在住めさせられに︒其の後二ク年依り倫敦に滞在中は友人との定交も治めら
パチーとグロ1ントの生活
五七
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商 業 と 経 湾
五八
れ再び王立製士院の合員ともなった︒
一六七六年夏彼は再び愛蘭に居を構へた︒
一六
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O年の春一度倫敦を訪ねた以外は約五ク年問︑全部愛蘭に在
った︒丁度この頃彼は有名な
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一 一 回
の著惑を企てた︒その頃また彼は自作農(附︐
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一連との係争問題を惹き起したが︑さすがに気
丈なベチlも之がために痛く悩ん記︒山町田時彼の攻敵同
go
Fちは大蔵大臣の要職にあり而も自作曲民であったか
ら︑ペチーが裁判所を侮辱したのを理由として︑彼を問国の人とすることも容易であった︒之がため彼は恨悩の
幾日かを建ったが︑この間彼は聖典を絡いて僅かにその愛関の情を慰むるの外なかった︒
一六七七年ォ!モンドが再び愛蘭総督に任命されたが︑ペチlに針する彼の評債は必宇しも高くはなかった︒
自作農との係弔問題も小やみとなり︑その年の十一月頃には大分案じられた彼の病気も最平や回復したので︑身
惑の憂の解消したベチ1は呉面白に公共の事業に力を致さんと考へた︒それには貴族の肩書や地位といふやうな
ものも必要であった︒蛍時貴族となるには︑官惑に相蛍の賄賂を贈るのが殆んど公然の秘密であつに︒ベチlに
封しでも図王から密伎を以て之を悠思する所があったが︑倫敦の大火等で財攻上の痛手を負った彼は鰭よく辞し
に︒
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もこ
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チヤ
lルス二世の愛繭に卦する攻策にもよるのである0・といふのは図王は自分の岡山ふやうに左右
してゐる諮問機闘を作ってベチ!等には何等の模限をも奥へぬやうに考へてゐたのであるから資力の伴はない一肩
幸一
一回
や地
位の
如き
は一
個の
虚飾
にも
すぎ
ない
もの
交と
回ゆ
った
から
であ
る︒
一六 八
O年愛前に踊ってから︑叉復に自作農との雌執を惹起し︑更に愛繭の財政攻策が英繭攻府蛍局の問題と
もなってベチlの倫敦招喚︑建策等とも表れたが結局役の主授は容れられ示︑
闘に腕来した︒クリーへの政行に出で僅かに償悶在慰諾してゐに︑その頃になって二十年前彼の官て考案してゐ 一六八三年夏彼は痛く失望して愛
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h複底舶の資験を始めにり︑ダプリン折口問一合の設立に力を致す論文などな認めたりした︒
ゼlムス三世印位の報の俸はるや︑ペチlは一六八五年初夏倫敦に師った︒岱時の玖府活局のベチlに封する
態度はその前任者に校べて決して惑しき方ではなかった︒彼は愛闘改革の業を港ぐるは今を措いて他に求むべき
でないと信じた︒叉寅際自分の段督下に農地法や愛陶統計局等の改造なども極めて順調に行はれゃうとしてゐ
大︒ペチ1は困王が彼に奔謁を賜はるとの御沙汰を奔し.是等の事業や他の愛陶に関する諸般の事項につき重要
な改革案を賀行し得る好機︑にと思ったのは寧ろ平計だった︒加之公共的事業の潮流中に彼の個人的利盆は全く不
利金なる欣態に陥って了つに︒岱時行はれた程々の攻策中ゼlムス二世は平くルイ十四世の磁紳を脆せんとして
焦慮したことと︑英闘が蛍時の欧羅巴に於て主要な役割ゆ伊品川山ぜんとするの機運にあったことが強くペチーを刺戟
するものがあった︒攻治村井術と題する十年前の著書中に彼は英的がこの極の役割な捨蛍するに相応はしいこと︑
或は彼自身の一人よがりにすぎなかったかも知れないが︑英山川の潜勢的な富と立カとは仰固と掠抗するに十分︑に
と主張してゐる︒今や叉彼は玖治算術に用ひたと同一の準法在以て倫敦が世界第一の部舎にと力説する幾篇かの
論文
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草し
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王の
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品
Hハつに︒そして日記等の努力は英園内外の好事家法の興味を唆ったが︑ゼlムス二世
ペチlとゲロ
lシトの生活
五九
商 業 と 経 済
六O
の園策には何等の影響を粛さなかった︒
ベチ!はゼlムス二世の行ったψ犯罪宣言は英閣の図民的統一運動のために賢明な攻策︑にと信じたゃうである︒
ベチ!は英陶殊に愛一闘に於ける新教徒の・笠質的優勢な椛倍する所があったから︑笠に口に之を図王に詳述する
所があった︒それゆゑ右の官一言は聞に雑崎高教徒に針する利盆のために渡せられたのだとは彼には到底信宇るこ
とを得なかった︒従て彼はチルコン︑不ルや︑極端な愛前人一汲の誇張な妄想は園王の意思に惇る無根のこと︑たと
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認めてゐた︒しかし︑愛関に於ける英闘新教信者注の間に専ら流布されてゐに報告やマッカーシーがクリ!州知 n o n
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ベチ
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はナンメヤーが全く破壊された事宜を生前中知ることを得たか否か明白でない︒彼は数ナ月間も病祷に芸主主:
事に任命されに事責などからベチl
や新教信者逮は事宜自分法は危機に瀕しつつあつにこと在自賛するに至つ
e それにひい版行にも拘ら守︑彼はセント・アンドル就いてゐ大︒lの日に墜士院に出席し︑病を獲て蹄宅しE 大 ︒
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終りに彼の結婚に就てで一一一日すゐ︒一六六七年六月二日トリニチl
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リツス・フエントンの夫人であったエリザペスと結婚した︒ベチ
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人は美人で而も世にも稀な賢明な続人であった︒この結婚の極めて幸一踊であったことはベチーが夫人に怠った令官出日
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札山沿信の中からも︑叉夫人がベチlに致した通信の中からも十分に窺ひ得る︒かつてエペリンのいってゐるやうに︑
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ψ巾 た︒ペチlの脚部は全く生を喪って十二月十六日ピカデリlに在った自宅で往生をとけた︒
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彼女は頓智に富み︑美人で其のうへ慎み深ま婦人であった︒
更にベチ!の入と匁りについて述べる︒彼と同時代の人々でその性格も素養も夫れん
¥h遣ってゐる三人が各々
其の税角を具にして役を批評してゐる︒その一人ォ
iプレーはいふ︒ベチl
は身の丈け六沢︑補色の頭髪を戴い て之を恰好よく後万に返した立汲な男につに︒彼の日はグ
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グレ
l色を帯び︑一辺眼であったが︑そのやさしか
ったのは性総の舌良であつにことの泣践である︒まつ毛は浪く而も果く足直であった︒そして彼の以は普通より
**山小
も大きかったと︒エベリンは︑ベチ
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は才科滋刺たる人であつにといってゐる︒ベピスも亦︑ベチ
lに就いては
衆口一致するものがあるが︑彼は自分の聞いてゐる最も合理的な人である
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の著者で近代統計阜の鼻祖であり︑叉英図攻算路一汲の尖でもあるが︑ハンプシヤ生れのへンリ!・グロlントの
リ官 本山 小山 小
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lは倫敦市でパl
チン・レーンに七星の屋披在持った央版印を管ん
子として倫敦市で孤々の聾をあけた︒
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へンリ!と妻メリ!との聞には八人の子供があったが︑ジョンは一六二
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年四月十四日午前七︑八時の
川町生れ長男であったゃうである︒
ジョンは少年時代に英語を習ひ︑後には応の時間前に経典誌を修めた︒彼は塾術上の晴好もあって倫有名な密
AチーとFロ1
シ干の生活
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童家クiバl守友としてゐたのみでなく︑宵像造家ジョン・ヘイルスとも同僚として交際してゐた︒ペピスのい
ふ所によれば彼は給査の蒐集家として設も優れてゐる一人であったゃうである︒グロlントは或る小間物商に丁
稚奉公に出なければならなかったが︑その後も彼は主としてこの職業に従事してゐた︒彼は後にその枇舎で相活
有力な地位の入となってゐたことは種々の方而から説明し得られる︒彼は叉市のいろ
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lの名将峨にもついて市
参事曾員ともなり二ク年間共の峨にあった︒グロlントは平和の愛好者で屡々係争事件の仲裁役を勤めた担任の凶
満な入でもあった︒彼はま︑に三十歳にも足らぬ若年で友人︒へJアーをグレツシヤム・カレツヂの音楽の教授に推皐
する程の力量と信用とをもってゐた︒倫敦大火の治時彼はシチlの有力な商人の一人であった︒倫敦市民として
叉呉服商として命記するに足る種々の事賓もあらうが︑彼の名控φ竺日川めたのは前に掲けた一六六二年の刊行にか
かる﹁倫敦市死亡表に関する観察﹂と題する一舎にあることは云ふ迄もない︒
グロ
lントが如何なる動機で右の著述を鴛すに一主ったのか︑叉何時の川町から之を始めたのか︑今日となっては
唯之を推測する丈けである︒彼れ自身のいふ所では恨めて軽微な意味しか有してゐない︒彼はどういふハズi
か死亡表につき思考を凝らしながら自分にも殻期してゐな.かった攻治的︑自然的な観察在鍔すに至ったのであ
る︒其の研究が寧ろ偶然であったから時日と忍耐とを多分に要したと都してゐる︒しかし死亡去の第三版が刊行
せられた時分には彼の壊界に於ける地位は最平や定まった後であったから︑彼は過去八十年間にわたる倫敦市死
亡表の全部を設み悲したともいってゐる︒今之を其の第一版の序文中に︑自分は一尚買でありながら敢て準界に
菜Jolm Haylcs
特 SamuelCooper
に佼し入った非の深かったのを半ば詑ぷるが如き態度光ったのに較べると賓に少からぬ相違を見るのである︒死
亡去の第一版の序文には二ハ六12年一月二十五日と認めてゐる︒この書は江湖の歓迎を受けたもののゃうである
が︑其の印刷に先︑につことこんノ月前にベピスはウエストミシスター‑ホールで一本を求めんとしてゐ大︒そして
第一版は年内に資り議された程世間から新規な研究にと税られたのである︒グロlントの受けた名曲替はいふ迄も
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u物のためであるが︑就中彼にとって路一土院合員に推薦された程の大きな名容はなかっに︒一六六二年
二月五日つ死亡去の観察﹂五十部がクイストラl
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るによって著者のために︑グレツシヤム・カレツ
ヂに集まった哲路一者注の合合に之を提出せられた︒その折の合長ロパl
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グローントに謝併を呈し︑‑弐で路一士院合員の候補者として推薦せられ
大︒しかし周一士院では多少之を臨時したから二月十二日此の論文のために股格なる調査をする目的で委員舎を組
織しに︒ゴツダlド︑クヰストラl︑エントの三人の博士注が委員となってこの著書の審査守することとなっ
大︒斯くて同月二十六日グロlントは正式に早士院合員となった︒最初彼は風一士院の合員に選ばれやうなどの野
心は毛凶なかったし叉モlレl博士に奥へた書面にも其の怠味を窺ふに足るのであるが︑彼は直ちにその推薦を
受諾した詐りでなく︑吹田からの合合に出席する旨を俸へてゐる︒併しグロl
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形式的で︑資質的には左して主要ではなかった︒爾後彼は五ク年に五り屡々例合等にも出席し︑その問自らサl・
ジョン・ポlトマン在候補者の一人に推薦してゐる︒彼は又種々の委員合に出席し︑評議員として一六六四年十
ベチ
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商 業 と 経 済
六回
一月二十日から一六六六年四月十一日まで従事してゐる︒しかし異にその車問上の合合に関係巻持ったのは極め
て僅少のゃうであ万︒一六六六年以後グロlントの名は墜士院の記市すから全然消えてゐる︒これは彼が倫敦大火
のために大損害を被ったためのゃうである︒友人ベチlは相岱に物質的の援助をも惜しまなかったに関ら歩︑グ
ローントの受けた不幸の偽りに大きかったため港に恢復の遁を失って了ったやうに忠はれる︒晩年のグロl
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* 一六七四年四月十八日泣おとして淋しく逝いた︒彼の墓所はフリ!ト街のセント・ダンスタン寺は不幸続きで︑
院に在る︒彼の葬儀にはさすがにや川代の理者︑知名の人々が数多く設葬の刈に加はった︒其の中で分けて心から
の涙を漉い︑たのは誰あらう友人ベチl其の人であった︒ペチーは始終グロlントと仲の良い友達であった︒
グロ
lントが常時の理者法の間に傘敬を博してゐたことは疑を零れない事貰で︑これには種々の泣撲がある︒
ジョンの苔友リチヤlド・スミスはや川時有名な令官物の蒐築家であったが︑グロlントを聡明で質りのいい︑立汲
な皐者だったと賞めてゐる︒︒ヘピスは能くグローントのド八潟りを知れる人であるが︑彼れの議論は品も傾聴に値
するものだったといってゐる︒才l
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といひ︑彼の死は総ての人々から心から惜しまれてゐるとも附け加へてゐる︒ジョンも亦得難き人物の一人であ
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県守ttq冨.,IJ-"二ピ時点宣言ピ畏ピトモE~治p己将二OSさピAローへ..<‑.,IJ民(τ、時'VS't*早朝、寺告白...J';‑',Qぬo<r*' Q判;::6ぬ
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