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能登半島珠洲郡江戸時代後期の九谷焼

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Academic year: 2021

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著者 佐々木 達夫

雑誌名 金大考古

巻 49

ページ 9‑14

発行年 2005‑06‑11

URL http://hdl.handle.net/2297/2974

(2)

正院焼

 正院焼は今の珠洲市内にある正院村で江戸時代後期 に弥蔵が始め、弥蔵焼とも呼ばれる。窯跡は未発見で、

正院にあると推定されている。陶土は蛸島村の上田の 坂で採掘された。弥蔵は本名を鷹島次兵衛、職名を紺 屋次兵衛、屋号を柏屋と称し、染物屋を営んでいたが 焼物を始めた。初期は越中瀬戸や小杉焼の陶器、さら に青九谷に似た焼物を作ったと言われる。天保頃、若 杉窯の画工三田勇次郎(赤絵勇次郎)が上絵の指導を 行い、九谷焼風の焼物が増えた。底部に四角枠内に正 院、正、福、九谷などが手書きで記される。遊鯉文大 鉢(珠洲市指定文化財)内面に「天保丙申冬遊干能州 正院陶舎平安文龍(花押)」とあり、天保7年(1836)

に京都の画家長谷川文龍が絵付している。羽咋滝村の 南画家山崎雲山も絵付けしている。天保8年に次兵衛 が没し、二代目が継ぐ。藩から借りた年賦金の返済も 困難となり、天保 14 年頃(1843)に廃されたと言わ れる。

 窯は正院にあったと推定されているが、未発見であ る。『珠洲郡誌』に「弥蔵・時代を詳にせざれども文 化文政の頃の人の如し、陶器の術に長じ、火の宮坂の 付近に工場を設けて、盛に之を製造したりと」とある。

『石川県史第三編』に「弥蔵焼は珠洲郡正院に製せらる。

天保の頃同郡同村の人弥蔵の創めたるものにして、陶 土を蛸島村上田の坂に採り、窯を正院地内観濤山に設 く」とある。郡誌と県史で窯のあった場所が違い、『加 能郷土辞彙』と『日本陶器全書』は窯のある場所を正 院村とする。『珠洲市史』は伝承によると正院地内ある いは川尻浜にあると記す。

 開窯は江戸時代後期であるが、いくつかの説がある。

『珠洲郡誌』は「弥蔵・時代を詳にせざれども文化文政 の頃の人の如し」、『石川県史第三編』は「天保の頃同 郡同村の人弥蔵の創めたる」、『加能郷土辞彙』は「珠 洲郡正院に於て天保初年の頃弥蔵というものが製した 陶器で」、『日本陶器全書』は「珠洲郡正院村に、享保、

文化の頃弥蔵なるもの陶窯を開き越中瀬戸系のものを 焼く」とある。『珠洲市史』では享保は享和の誤りかと

八月七日 正院次兵衛 江戸ニテ死去仕候骨ニテ送葬 致候也」とある。

 製品について。『日本陶器全書』は「この弥蔵焼には 異れる二系統あり、一は越中瀬戸系及び小杉焼に酷似 せる陶器にして、一は青九谷系統に属するもの是れな り。惟ふに文化文政頃までの製品は、越中系のものに して、天保以降の九谷風に転ぜしものならんか」とい う。『珠洲市史』もこれに従い、越中瀬戸系は無款で色 絵は九谷風でほとんど銘款があるという。

 伝世品を見ると、磁器はなく陶器ばかりのようであ る。素地は粗く灰色、茶褐色である。日常生活用具か ら茶道具、置物まで様々な陶器を作るが、飲食器が多 い。色絵は吉田屋風の塗り埋め手が多いが、五彩風の 赤色のみの色絵もある。色絵は鉢と皿が多い。九谷や 有田の色絵とは感覚的に違いがあり、色釉の組合せも 他窯との違いがみられ、緑と黄が基調となるがピンク 色にも特徴がある。内面に描かれる文様は唐獅子、楼 閣山水、牡丹、石榴、魚、花木がある。裏文は渦文と その崩れ文で、全面を緑釉で塗るものが多いが、連続 枝葉文もある。

 年代が知られる製品は2点ある。水差「天保八年丁 酉赤絵勇次郎於正院造之」天保八年の三田勇次郎の作 品。色絵遊鯉文大鉢「天保丙申冬遊干能州正院陶舎平 安文龍(花押)」天保七年冬の京都の画家長谷川文龍の 作品。

 色絵製品は吉野孝太夫の紹介で金沢にも販売され た。飯田町春日神社宮司葛原秀藤の日記、天保七年二 月二十二日の条に「廿二日吉野彦太夫ヨリ二月六日所 口ヨリ出ス状廿日ニ来ル・・・中略・・・正院弥蔵方 ヘ別封来ルヲ送リヤル。弥蔵焼物ヲ金沢ニ売リ弘ムル 事吉野ハタラキナリ何ソ此儀ニ付テカ」とある。

 三杯焼

 三杯焼は今の珠洲市内にある江戸時代後期の窯跡で ある。上戸南方村の豪農三杯助兵衛が弟九郎左衛門の 生業として天保頃に始めた。『石川県史第三編』に「三 盃焼は、天保中珠洲郡南方村の富豪三盃助兵衛が、弟

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− 10 − 正院焼 , 色絵蜃気楼図大平鉢 ,19 世紀

前半 , 高さ 6.2cm, 口径 44.0cm, 底径 20.0cm・珠洲焼資料館蔵。九谷銘

正院焼 , 色絵鉢・珠洲焼資料館蔵。

九谷銘

正院焼 , 色絵皿・珠洲焼資料館蔵

正院焼 , 色絵鉢・珠洲焼資料館蔵。

九谷銘

正院焼 , 色絵徳利

・珠洲焼資料館蔵。角福銘 正院焼 , 色絵唐獅子置物 ,19 世紀前半

, 高さ 11.0cm, 径 20.0 17.0cm・

珠洲焼資料館蔵

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正院焼 , 色絵鉢・珠洲焼資料館蔵。

九谷銘

正院焼 , 小皿・珠洲焼資料館蔵

正院焼 , 色絵皿・珠洲焼資料館蔵。

角福銘

正院焼 , 色絵皿・珠洲焼資料館蔵。

角福銘

正院焼 , 赤絵唐草文六角徳利 , 19 世紀 前半 , 高さ 20.0cm, 胴径 8.0cm, 底径 5.5cm・珠洲焼資料館蔵

正院焼 , 獅子置物・珠洲焼資料館蔵

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− 12 − 正院焼 , 黒釉擂鉢・珠洲焼資料館蔵

正院焼 , 色絵大鉢・石川県立美術館蔵。正銘

 海岸に隣接する山裾の斜面に三杯登 窯跡が残る。

九郎左衛門の生業として谷崎の地に窯を設けたるに起 こる」とあり、『加能郷土辞彙』や『日本陶器全書』も 同様の内容を記す。三杯は文化文政頃居村南方村だけ で百十二石余から百二十五石余を所持し、珠洲郡内の みでなく鹿島郡なども合わせると千石高を有した豪農 で、酒造りの他に、上戸町南方から宝達に通じる谷崎 の山裾に窯を築いた。飯田町春日神社宮司葛原秀藤の 日記、天保八年(1837)五月廿三日の条に「三盃陶器 焼場ヘ一見ニユク谷崎ニアリ」とあり、この頃には開 窯されていた。窯跡は海岸に沿う山斜面に残る。

 陶工は九谷焼から招いたようだが、京都からも招い た。北方村善慶寺過去帳、安政三年(1856)辰三月廿 四日条に「幸次郎、此者ハ三杯助兵衛之陶工山城八幡 住人於当地没・・・」とある。

 『珠洲市史』には窯跡に破片や壁塊、サヤ、トチン、

ハマがあり、窯跡は長さ 12 m、幅 4 m、傾斜は 20 度内外、窯跡の下方部で破片が多く採集でき、窯跡の 左側斜面平坦地に作業場があったという。現在、採集 品の所在は不明である。

 『加能郷土辞彙』に「明治 20 年の頃に至るまでその 業を継続せり」とあるが、『珠洲市史』では明治初頃の 三盃家の状態を鑑み、幕末か明治初に廃窯になったと 推定している。

 竹端家文書の中に、明治 12 年に提出した明治 14 年 開催第2回内国勧業博覧会への出品願がある。南方村 三盃助兵衛が陶器度壱種但弐合、寺社村本家清右衛門 が磁器石壱種但弐塊を出品したいという願いで、珠洲 郡役所からその陶器、磁器の製造法を問われたが、北 方外二カ所村戸長竹端榮太郎からの返書は「製造法は 職工他邦ノ者ニテ十余年前ノ営業ニシテ該方法伝承ノ 者無之・・・」であった。1879 年の十余年前に廃業 されたという。文久元年(1863)3月、筒井文書諸商 売役銀図書に「陶器焼の儀奥郡ニ而ハ当時直組南方村 助兵衛迄ニ而・・」「拾五匁程役立被仰付可然」とあり、

1863 年には操業中である。三杯窯は明治直前頃に廃 窯となったようである。『珠洲市史』には上戸村字南方 の谷口与八老は「三杯さまの窯は谷崎で明治の初めま で焼いていた」「明治の初め頃まで竹中橋付近に三杯さ

三杯窯跡現状(2004 年 12 月 4 日)。 窯跡室内側壁の一部が見える。

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三杯焼・珠洲焼資料館蔵

三杯焼褐釉甕・珠洲焼資料館蔵

三杯焼・徳利・珠洲焼資料館蔵 三杯焼・徳利・珠洲焼資料館蔵

三杯焼・無釉鉢・珠洲焼資料館蔵 三杯焼褐釉壺・珠洲焼資料館蔵

三杯焼・陶器碗・珠洲焼資料館蔵

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− 14 − 三杯焼 , 珠洲焼資料館蔵。押印・三杯

まの焼物などを売る店があった」という。明治初に廃 窯となった可能性もある。

 製品は九谷風の他に粟田焼や御菩薩焼などの京焼に 似たものがある。色絵牡丹文寿福文四角隅入鉢の底裏 に「天保十二年丑五月出来紅屋六左ヱ門」銘がある。

紅屋六左ヱ門は地元の紺屋であった。竹根形花生(珠 洲市指定文化財)の胴部には三杯、柏山と押印がある。

竹根形花生(珠洲焼資料館蔵)の下部に三杯の押印が ある。色絵には押印も銘もない。壺、甕、徳利、碗な ど単色釉の日常生活用品が多く、絵付されたものは少 ない。成形には轆轤、型が使われた。

 陶土は南方の穴竈(穴釜)、上戸寺社の中ノ坂(カメ ワリ坂)で採取したと言われる。

 京都や信楽に似た軟質の黄味がかる素地、白色に近 い素地がある。白化粧土したものもある。磁器を作る 磁石は未発見であるが、信楽や山城(京都)から原料 を運んだとも言われている。

  

 九谷焼考古学研究会は 2004 年 12 月 4 日、第 23 回研究会を開催し、能登半島珠洲の江戸時代後期三杯 焼窯跡踏査及び三杯焼と正院焼の見学を珠洲焼資料館 で実施した。併せて珠洲焼窯跡(西方寺窯跡など)を 見学した。本稿はその記録である。珠洲焼資料館長平 田天秋氏始め館の皆様にお世話になった。感謝。

文献

和田学「正院焼と三杯焼」『珠洲のれきし』珠洲市役所 ,  142-143, 2004.

中野錬次郎「正院焼と三杯焼」『珠洲市史』6, 1980.

日置謙編『加能郷土辞彙』金沢文化協会 , 1942. (1956 年改訂版 , 1973 年復刻版 , 北国新聞社 )

大西林五郎編『日本陶器全書』1918.

金大考古第 49 号 金沢大学文学部考古学研究室

920-1192 金沢市角間町 TEL(076)264-5360 内線 2513

264-5327,5328,5465,5950 FAX(076)264-5362

2005 年 6 月 11 日 連 絡

原稿募集 「金大考古」の原稿を募集しています。

原稿は考古学教員にお送り下さい。

◆「金大考古」は考古学研究室ホームページに掲載 しています。

  http://web.kanazawa-u.ac.jp/^arch/top.htm   2005 年度金沢大学考古学大会  日時:2005 年 6 月 11 日 場所:金沢大学 1 開会挨拶 佐々木 達夫

2 発表(司会 九千房 百合)

 増山 仁(金沢市文化振興財団)

  「金沢城下町の武士と町人」

 小松 隆史(井戸尻考古館)

  「中部高地の縄文前期集落の展開」

 山下 平重(香川県教育委員会)

  「香川県における埋蔵文化財保護行政について」

 野上 建紀(有田町歴史民俗資料館)

  「17 世紀後半のアジアの陶磁器交易について」

 (発表者以外の参加卒業生)

  伊藤 伸幸(名古屋大学考古学)

  桜井 秀雄(長野県埋蔵文化財センター)

  勝俣 竜哉(御殿場市教育委員会)

3 記念撮影

4 在学生、卒業生自己紹介 5 閉会挨拶 藤井 純夫

研究室だより

参照

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