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南アジア研究 第29号 005倉橋 愛「フォート・ウイリアム・カレッジの開講科目」

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(1)南アジア研究第29号(2017年). 研究ノート. フォート・ウイリアム・ カレッジの開講科目 ―イギリスによるインド統治のための教育―. 倉橋. 愛. 1 はじめに 1600年に設立されたイギリス東インド会社は、当初は貿易を担う一会 社に過ぎなかったが、次第にインド統治という役割を担う組織へと変容 していった。それに伴い、会社官吏に必要とされる能力も、商業知識か ら行政に関する知識へと変化した。そうした中でインドに赴任したウェ ルズリー総督(Richard Colley Wellesley, 1760-1842)は、会社の新人 文官であるインド派遣書記(のちのインド高等文官)がイギリスでの一 般教養の学習課程を終えずにインドへ渡ってくる現状や、彼らがインド で借金を作るなどの悪習に陥っていることを知り、インド派遣書記の質 を向上させるべく、1800年にインドのカルカッタ(現コルカタ)に フォート・ウイリアム・カレッジ(the College of Fort William、以下 FWC とする)を設立した。 FWC では、当時、インド社会に英語が浸透していなかったためにイ ンド統治業務を行う上で習得が不可欠であった現地言語のペルシア語、 ヒンドゥスターニー語、ベンガル語、アラビア語などの教育を主軸とし つつ、法律、自然科学、倫理などの広範な分野の教育を実施することが 執筆者紹介 くらはし あい●大阪大学言語文化研究科博士後期課程修了 19世紀前半インドにおけ るイギリス人官吏養成教育 ・倉橋愛「インド派遣書記を対象とする包括的な教育組織―フォート・ウイリアムカ レッジが目指したもの―」『Ex Oriente』大阪大学言語社会学会、第21号、 pp. 175191(2014) ・倉橋愛「フォート・ウイリアム・カレッジの学籍制度」『 比較文化研究』日本比較文 化学会、第127号、 pp. 23-32(2017). 124.

(2) フォート・ウイリアム・カレッジの開講科目. イギリスによるインド統治のための教育. 目指された。しかし、FWC が会社の取締役会への十分な説明なしに設 立されたという経緯や、会社側が予想していたよりも莫大な維持経費が かかるという懸念から、FWC は会社取締役会から反対に遭い、設立後 直ちに縮小命令を受けることとなった。 しかし、そうした中でも、FWC では活動が続けられた。特に、イン ド諸語、特に現代ヒンディー語と現代ウルドゥー語の基とされる、ヒン ドゥスターニー語の教育・出版活動が行われたことから、このカレッジ は、インド文学史においても重要と見なされてきた。また、同カレッジ では、ヒンドゥスターニー語教授のギルクリスト( John Borthwick Gilchrist)によって、ヒンドゥスターニー語の音を英字アルファベットや 現地言語の文字であったデーヴァナーガリー文字とペルシア・アラビア 文字で表す方法が模索され、ベンガル語、サンスクリット語、マラー ティー語の教鞭を執ったケアリー(William Carey)によって、インド の現地言語への聖書翻訳が行われるなどの試みがなされた。インドの地 方言語の活字フォントを制作したことから、FWC は、活版印刷術の発 展にも大いに寄与したと言える。 本稿では、先行研究で詳しく扱われてこなかった、FWC の開講科目 に焦点を当てる。当時のインドの言語状況を踏まえつつ、教育の中心で あったインド諸語科目の開講状況と、その背景について取り上げる。先 行研究や史料に基づき開講科目を精緻化することにより、イギリス東イ ンド会社の官吏養成教育の実際を明らかにしたい。. 2 開講科目 FWC の開講予定科目は、FWC 設立の際に定められた、 「FWC 設立 1. 法9」という規則の中で規定されている。また、実際に開講されたとさ − 1947:14;1971:330-331〕 れる科目は、ヴァルシュネーヤ〔Varsneya 、 ... スィッディーキー〔Siddiqi 1979:114-115〕、浜渦〔浜渦:2009:140〕、浅田 〔浅田 1998:105〕が挙げている。これらの文書や研究書中で挙げられて いる科目名の中には、共通して見られるものと、そうでないものが見受 けられる。. 125.

(3) 南アジア研究第29号(2017年). 2-1 開講科目名に関する記述と実際 2-1-1 授業の開講形態. 授 業 の 履 修 に 関 し て は、FWC 設 立 後 の1801年4月 に 定 め ら れ た 「FWC 法」の中で、以下の通りに示されている。 Ⅳ. 全学期とも、教授(Professors) 、講師(Lecturers) 、教師(Teachers) 2. は、FWC 評議員会 によって規定された方法で学生を指導するもの とする。全学生は各学期とも、1言語以上のインド諸語の授業を受 ける。履修した授業は、学期の最後まで出席するものとする。 3. 〔P. P. 1812-13:23〕 授業の日程については、かなり詳細な記述が存在する。 言語の授業は、週2回のペースで行われていた。1800年11月15日付で アラビア語、ペルシア語、ヒンドゥスターニー語の講義の開始が決定し たが〔Ranking 1911:7〕 、その際にはアラビア語は1800年11月24日月曜日 から月曜日と木曜日の10時、ペルシア語は11月25日から火曜日と土曜日 の10時、ヒンドゥスターニー語は11月26日から水曜日と金曜日の9時か ら開始されると定められた。この時間割は、1800年12月31日まで適用さ れることになった。その後、1801年4月29日には講義時間が変更となり 科目も追加され、ペルシア語とアラビア語は月曜日と木曜日、ヒンドゥ スターニー語は火曜日と土曜日、ベンガル語は水曜日と金曜日に開講さ − 1947:19-21〕 れることとなった〔Varsneya 。1801年1月1日から4月28 ... 日までの時間割については正確なところは不明であるが、恐らくそれま でと同じ曜日と日時で授業が続けられていた可能性が高い。 2-1-2 開講科目に関する各記述の比較. ここで、開講予定とされていた、もしくは開講されていたという記述 がなされている科目名を、各研究書や文書毎に以下に示す。これらの科 目名は、ウェルズリーが「FWC 設立法9」の中で挙げている科目名と 基本的には一致しており、後述する1803年の公式文書中ではそれらより も挙げられている開講科目が少ないことから、各著者は、 「FWC 設立 法9」で示された予定開講科目と、実際に開講された科目とを混同して いる可能性がある。なお、列挙している科目の順番は、比較しやすいよ う統一し、さらに言語科目とそれ以外の科目とに分けた。引用文献中で 126.

(4) フォート・ウイリアム・カレッジの開講科目. イギリスによるインド統治のための教育. の科目の順番は、以下に挙げる通りではない。 (1) 「FWC 設立法9」の中でウェルズリーが挙げた予定開講科目 この設立法の中では、立地場所や組織機構、学期や試験等についての 規則が項目別に示されている。予定開講科目については、そうした項目 の1つとして挙げられている。 (a)言語科目 アラビア語、ペルシア語、サンスクリット語、ヒンドゥスターニー語、 ベンガル語、テルグ語、マラーティー語、タミル語、カンナダ語、ヨー ロッパ近代語(modern languages of Europe)、ギリシア語、ラテン語、 古典英語 (b)その他科目 イスラーム法、ヒンドゥー法、倫理学、民事法律学、国際法、英国法、 総督やセント・ジョージとボンベイの統治者らによって制定された法、 政治経済学(特に EIC の貿易組織と利益) 、地理学、数学、古代と近代 の一般的な歴史、ヒンドゥスタンとデカンの歴史と遺跡(antiquities)、 自然史(natural history) 、植物学、化学、天文学 〔P. P. 1812-13:20〕 (2)ヴァルシュネーヤが FWC で開講が目指されていたとしている科目 1 ヴァルシュネーヤは20世紀の研究者であり、この研究書は、彼自身の 見聞によってではなく、資料に基づいて書かれている。 (2)では、 「FWC 設立法9」の序文についての引用がなされた後、同設立法各項 の内容要約と共に、以下の科目名が示されている。ヴァルシュネーヤが 挙げているこれらの開講科目名は、表現の相違は見られるものの、 「FWC 設立法9」で挙げられている科目名とほぼ同一である。ヴァル シュネーヤは、自身が挙げた開講科目名の引用元について言及していな いが、文脈から推測する限り、 「FWC 設立法9」の「開講予定科目」 の項からの引用である可能性が高い。. 127.

(5) 南アジア研究第29号(2017年). (a)言語科目 アラビア語、ペルシア語、サンスクリット語、ヒンドゥスターニー語、 ベンガル語、テルグ語、マラーティー語、タミル語、カンナダ語、ヨー ロッパ近代諸語、ギリシア語、ラテン語 (b)その他科目 イスラーム法、インドのダルマ・シャーストラ、倫理学、法学、国際法、 大英帝国統治のために総督とセント・ジョージやボンベイの統治者らに よって制定された法、政治経済学(特に EIC の貿易組織と利益) 、地理 4. 学、数学、古代イギリス文学(古典)、古代と近代の一般的な歴史、ヒ ンドゥスタンと南部の歴史と考古学、自然科学(prakriti-vigyan)、植 物学、化学、天文学 − 1947:14〕 〔Varsneya ... (3)ヴァルシュネーヤが FWC で開講が目指されたとしている科目2 (3)の研究書は、 (2)の約四半世紀後に出版されたものである。こ の研究書では、FWC の文学への貢献、当時の東インド会社の状況につ いて言及された後、以下の科目が開講予定科目として挙げられている。 (2)と(3)では、科目名の記載に相違が見られる。例えば、 (2)では 「英国法」という科目名が挙げられていないが、 (3)では明記されてい る。また、 (2)の「古代と近代の一般的な歴史」と「ヒンドゥスタンと 南部の歴史と考古学」が、 (3)では「古代や近代のヒンドゥスタンと南 部の一般的な歴史と伝統技芸」に変化している。しかし、全体的に見れ ば、若干の表現の相違が見られるにとどまっている。これらのことから、 以下の科目名は(2)に修正が加えられたものと捉えるのが妥当である と考えられる。 (a)言語科目 アラビア語、ペルシア語、サンスクリット語、ヒンドゥスターニー語、 ベンガル語、テルグ語、マラーティー語、タミル語、カンナダ語、ヨー ロッパ近代諸語、ギリシア語、ラテン語 (b)その他科目 イスラーム法、ヒンドゥー法、倫理学、民事法律学、国際法、英国法、 大英帝国統治のために総督とセント・ジョージやボンベイの統治者らに 128.

(6) フォート・ウイリアム・カレッジの開講科目. イギリスによるインド統治のための教育. よって制定された法、経済学(特に東インド会社の貿易組織と利益) 、 地理学、数学、古代イギリス文学、古代や近代のヒンドゥスタンと南部 の一般的な歴史と伝統技芸、自然科学、植物学、化学、天文学 − 1971:330-331〕 〔Varsneya ... (4)スィッディーキーが FWC で開講が目指されていたとしている科目 下記の科目名は、ギルクリストの FWC における活動に関する節の中 で挙げられている。節の冒頭で、 「FWC 設立法9」が定められたこと、 また設立日の決定について述べられているのに続く形で、以下の開講科 目名が挙げられている。この研究書の開講科目名の記述に関しては、文 中に注釈が付され、 「FWC 設立法9」から引用している旨が記されて いる。 (a)言語科目 アラビア語、ペルシア語、サンスクリット語、ヒンドゥスターニー語、 ベンガル語、テルグ語、マラーティー語、タミル語、ヨーロッパ近代諸 語、ギリシア語、ラテン語、古典英語 (b)その他科目 (特に EIC の)商法、イスラーム法、ヒンドゥー聖典、倫理学、法律学、 インド固有法、英国法、総督の枢密院やセント・ジョージとムンバイ管 区の統治法、古代又は近代の世界史、古代又は近代のヒンドゥスタンや デカンの歴史、医学史、植物学、化学、天文学 〔Siddiqi 1979:114-115〕 (5)浜渦が FWC で開講されていたとしている科目 以下の科目名は、FWC の教育内容に関する項の中で挙げられている。 (a)言語科目 東洋諸語(アラビア語、ペルシア語、サンスクリット語、ヒンドゥス ターニー語、ベンガル語、テルグ語、マラーティー語、タミル語、カン ナダ語) (b)その他科目 イスラーム法、ヒンドゥー法、地理学、数学、インド史、古典学、ヨー 129.

(7) 南アジア研究第29号(2017年). ロッパ近代史、政治経済学 〔浜渦 2009:140〕 (6)浅田が FWC で開講されていたとしている科目 以下の科目名は、FWC が設立後にインド諸語のみを教える学校へと 縮小されたことについて取り上げている項の中で、縮小前の開講科目名 として示されている。浅田は、これらの科目名の引用元について明確に は言及していないが、開講科目名の記述箇所に最も近くにある注釈では、 ウェルズリー総督が取締役会へ宛てた、FWC を設立する旨の公文書を 引用文献として挙げている。 「FWC 設立法9」は、この公文書に添付 されていたものである。このことから、浅田も「FWC 設立法9」から 開講科目名を引用したのではないかと考えられる。 (a)言語科目 東洋現地語 (b)その他科目 イスラーム法、ヒンドゥー法、国際法、英国法、東インド会社の法律や 規則、ヒンドゥスタン史、民事法律学 〔浅田 1998:105〕 これらの内容を比べてみると、これら全ての中で共通して挙げられて いるのは、インド諸語科目と、イスラーム法、ヒンドゥー法、インド史 の科目である。インド諸語科目の具体的な言語名については、スィッ ディーキーはカンナダ語を挙げておらず、列挙もれの可能性が高い。ま た、インド諸語科目を浜渦は「東洋諸語」 、浅田は「東洋現地語」とし ている。浅田は、東洋現地語が指す具体的な言語名の詳細を挙げていな い。また、ヴァルシュネーヤが挙げている「大英帝国統治のために総督 とセント・ジョージやボンベイの統治者らによって制定された法」とい う科目は、浅田が挙げている「東インド会社の法律や規則」と類似して いる。さらに、 「FWC 設立法9」で挙げられている「ヒンドゥスタン とデカンの歴史と遺跡」という科目は、ヴァルシュネーヤが1947年に挙 げている「ヒンドゥスタンと南部の歴史と考古学」 、また、恐らくこの 1947年の科目名に修正を加える形で1971年に挙げている「古代や近代の 130.

(8) フォート・ウイリアム・カレッジの開講科目. イギリスによるインド統治のための教育. ヒンドゥスタンと南部の一般的な歴史と伝統技芸」という科目、さらに スィッディーキーの「古代又は近代のヒンドゥスタンやデカンの歴史」 、 浜渦が挙げている「インド史」という科目、浅田が挙げている「ヒン ドゥスタン史」という科目と同一科目を指していたと考えられる。 先述の通り、スィッディーキーの研究書で挙げられている開講科目名 は、 「FWC 設立法9」からの引用であると明記されてい る。ま た、 ヴァルシュネーヤ、浅田が挙げている開講科目名は、 「FWC 設立法9」 に記載の開講予定科目を、実際に開講されたものとして引用したもので ある可能性が高い。中にはヴァルシュネーヤのように、 「FWC 設立法 9」から引用し、さらにその後修正を加えたと見られる例も存在する。 浜渦の研究書に関しては引用元を特定することは難しいが、 「FWC 設 立法9」から引用したか、同設立法を記載している文献から引用したの ではないかと考えられる。 予定開講科目と実際に開講された科目とを判別するには、各科目が FWC において予算として計上されていたのかを見ることが有効である。 そこで、FWC の当時の経費見積表について見ていくこととする。 5. FWC 設立後間もない時期に作成されたと考えられる経費見積表 では、 以下の科目が実際に開講されていた科目として挙げられている。これら の科目が開講されていたことは、経費を要していたことによって裏付け されている。 The laws and regulations of the British Government in India, Hindu law, Greek, Latin, Arabic, Persian, Hindostanee, Bengalee, Shanscrit, Mahratta, Experimental Philosophy, Modern Languages. 〔IOR/H/489:23〕. さきにも述べたが、当初 FWC では、自然科学や法律等の科目も開講 されていた。 自然科学系科目は、上記のうち Experimental Philosophy と挙げられている科目のことであったと考えられる。この科目は、現代 の自然科学に相当する科目であった。また、法律系科目と し て は、 Hindu lawと、The Laws and Regulations of the British Government in 131.

(9) 南アジア研究第29号(2017年). India が開講されていた。上記科目のうち、The Laws and Regulations of the British Government in India、Hindu law、Greek、Latin に関し ては、1804年5月1日付の経費一覧表に科目名の記載がないため、それ 以前の時期に不開講になったと考えられる。Experimental Philosophy と Modern Languages に関しては、1804年5月1日付の経費一覧表に は科目名が記載されている。しかし、その後1805年6月1日にこれらの 科目の教員のポストが廃止されており、1805年8月以降の経費見積表に は科目名の記載がない〔IOR/H/489:30-63〕。 マラーティー語に関しては、本稿の 2-2-2-6 で示している、ダースの 研究書中の表〔Das 1978:46-47〕を基に著者が作成した表によれば、 1810年までの受講人数が判明している。1802、1803、1806年には受講者 がいたことから、マラーティー語が開講されていたと確認できる。また、 タミル語、テルグ語、カンナダ語に関しては、開講科目とされていたの はごく短期間であった。タミル語とテルグ語は、ボンベイとセント・ 6. ジョージの言語教育センター へとすぐに移転されてしまった。タミル 語の講師としてはアッポ(Appo)とマリアダサン(Mariadasan)の2 人が実在していたとされ、テルグ語やカンナダ語の講師も任命されてい た。カンナダ語の講師ラーオ(Bowary Rao)は、1801年頃 FWC で働 いていた。また、テルグ語の講師スダルシャナ(Sudarshana)やカン ナダ語講師のラーマナ(Bharat Ramana)は、1815年頃に講師を務めて いたが、1816年2月末に解雇された〔Das 1978:46-57〕。 なお、これまでに挙げた開講科目には含まれていないが、FWC 設立 当初、中国語の教育を実施しようとする動きもあった〔黄 2016:70〕。 以上を踏まえると、FWC で一度でも開講されたことが確実な科目は、 以下の通りである。 アラビア語、ペルシア語、サンスクリット語、ヒンドゥスターニー語、 ベンガル語、テルグ語、マラーティー語、タミル語、カンナダ語、ヨー ロッパ近代語、ギリシア語、ラテン語、ヒンドゥー法、インド統治にお けるイギリス政府の法令・法規、自然科学 2-2 FWC の言語科目 FWC における教育は、主にインド諸語科目に重点が置かれていた。 FWC の開講言語科目は、以下に述べるように、科目によって重視され 132.

(10) フォート・ウイリアム・カレッジの開講科目. イギリスによるインド統治のための教育. る程度が異なっていた。 2-2-1 ヒンディー・ヒンドゥスターニー・ウルドゥー. まず初めに、当時の言語状況を知る上で一助となることから、 「ヒン ディー」、「ヒンドゥスターニー」、「ウルドゥー」の、FWC においてな されていた定義について述べる。 当時、イギリス人によるこれら3つの言語に対する定義は、以下の記 述に見られる通り、十分になされていない段階にあった。 「ヒンドゥスターニー語」という言語名がヨーロッパ人によって考案 されたものであると公に述べられたのは、19世紀後半になってからのこ とであった。この言語は、インドの民衆が日常的に用いていると判明し てからインド全土の「共通語」と見なされるようになったが、この言語 が本当にインド中で通用するのか、あるいは北インドのみで通用するの か、それとも港湾や市場等で限定的に使用されているのかについては、 18世紀を通して考究がなされた。 「ヒンディー語」という言語名は、当 初サンスクリット語やドラヴィダ系諸語を広く指して使用されていた。 しかし、19世紀に研究が続けられる中で、現代の定義に近付いていった。 「ウルドゥー語」は、土着の言語名と確認でき、その概念自体の成立も 早期になされていたと考えられるが、19世紀に至るまで、ヨーロッパ人 が残した記録にはほとんど登場しなかった〔藤井 2003:66-68〕。 このように、当時は、イギリス人によって統治のためにインド諸語の 現状を把握しようと試みられて間もない時期であり、言語の定義も社員 や学者達によって多様であった。以下に述べるように、FWC の内部に おいても、同様の混乱した状況が見られた。 当時のイギリス人官吏は、ヒンドゥスターニー語を最も有用な言語で あると見なした。しかし、実際のところ、ヒンドゥスターニー語科の教 員ギルクリストらは、現代のウルドゥー語にあたる言語に対してヒン ドゥスターニーという名称を使用していた〔Das 1978:42〕。しかし、そ の一方でギルクリストは、ヒンディー語に対してもヒンドゥスターニー 語という名称を使用した。ギルクリストは、 「ヒンディー」と発音の似 ている「ヒンダヴィー」や「ヒンドゥイー」とを区別するために、 「ヒ ンディー」と同じく「インドの」という意味を持つ「ヒンドゥスター ニー」を、言語名称として好んで使用した。彼はインドに広まっている 言語を、 (1)宮廷の、つまりペルシア語、 (2)ヒンドゥスターニー語、 133.

(11) 南アジア研究第29号(2017年). (3)ヒンダヴィー語、の3つに分類している。彼は、 「ヒンダヴィー語 +アラビア語+ペルシア語=ヒンドゥスターニー語」という公式も示し − 1947:168-169〕 ている。 〔Varsneya 。 .. 7. その後、FWC にプライス(William Price)が在職していた頃に、ヒ ンディーという言葉が FWC の書簡の中で使用されるようになった。 FWC のヒンドゥスターニー語科は、 「ヒンディー語科」もしくは「ヒ ンディー・ヒンドゥスターニー語科」、プライスは、 「ヒンディー語教 授」又は「ヒンディー・ヒンドゥスターニー語教授」と呼ばれるように − 1971:356-357〕 なった〔Varsneya 。 ... ヒンドゥスターニー語科の名称が変更されたのは、ギルクリストと後 任の語科長の「ヒンディー語」や「ヒンドゥスターニー語」の定義につ いての見解が異なっていたことが関係していると考えられる。ギルクリ ストは、現代のヒンディー語とウルドゥー語にあたる言語の両方に対し て、 「ヒンドゥスターニー」という名称を使用した。しかし、プライス は、ヒンドゥスターニー語とウルドゥー語を同一のものと捉え、ヒン ディー語をヒンドゥスターニー語とは別の言語であると見なした。プラ イスがヒンディー語をヒンドゥスターニー語と別の言語と見なした理由 は、恐らく両者に見られる使用文字と語彙系統における相違が1つの言 語として扱うには大き過ぎるということが、ヒンドゥスターニー語の教 育や研究が進む中で明らかとなったためと考えられる。何故ヒンドゥス ターニー語科の改編後の名称が「ヒンディー・ウルドゥー語科」とされ なかったのか、あるいは「ヒンディー語科」と「ウルドゥー語科」に分 けられなかったのかについては資料が見つからないため定かではないが、 「ヒンドゥスターニー語」という名称を語科名から完全に消すことで、 混乱を招く恐れがあったためではないかと考えられる。しかし、それで も言語名に生じた混乱は、収まらなかった。ダースによると、ヒン ディー語とヒンドゥスターニー語はしばしば混同され、両者の区別に関 しては19世紀の間中議論が重ねられた〔Das 1978:43〕。 2-2-2 各言語科目の開講状況 2-2-2-1 ペルシア語とヒンドゥスターニー語及び西部ヒンディー方言. 後述の通り、FWC で特に受講者の多い言語科目がペルシア語とヒン ドゥスターニー語であった〔S. K. Chatterjee 1993:234〕ことから、まず はこれらの言語について述べる。 134.

(12) フォート・ウイリアム・カレッジの開講科目. イギリスによるインド統治のための教育. ペルシア語は、1837年まで会社が採用した言語であり、習得している 8. 官吏は優遇を受けた 。ペルシア語は、FWC における必須科目とされて いた。一方、ヒンドゥスターニー語やその方言であるブラジ・バー 9. シャー とプールヴィー・バーシャーは、会社の兵士や官吏が業務を行 − 1947:2うインドの全領域において話され理解されていた〔Varsneya ... 115〕 。さらに、FWC においてアッサム語、オリヤー語、グジャラー. ティー語、スィンディー語を教えることに関する規定は定められておら ず、ヒンドゥスターニー語の知識は、これらの不開講の言語を話す人々 と意思疎通を行なうのに十分なものと見なされていた〔Das 1978:37〕。 アラビア語とサンスクリット語の学習には多くの時間がかかったため、 FWC の学生は、たいていペルシア語とヒンドゥスターニー語とベンガ − 1947:80〕 ル語を学びたがっていた〔Varsneya 。 ... このように、インド統治における需要や学生側の都合により、各イン ド諸語の FWC における重要性は左右された。 2-2-2-2 アラビア語 10. アラビア語は、FWC が設立当初は重視されていた が、その後アラ ビア語科はペルシア語科に統合されることになる。 11. FWC 創設者達 は、 (1)アラビア語の文法知識がペルシア語を学ぶ 上で不可欠であり、 (2)アラビア語はイスラーム法の原文に使用されて いる言語である、という2つの理由により、設立当初はアラビア語を重 視した。しかし、設立後、経費削減の決定によって、アラビア語科はペ ルシア語科に統合されることとなった。当時教授の職にあったベイ 12. リー( John Bailley)は、この決定に反対した。また、ペルシア語科の 13. 中にもラムスデン(M. Lumsden)のように、アラビア語科を発展させ ていこうとする教授もいた。しかし、ペルシア語教員の多くは、彼のよ うな熱意を持たず、学生も影響を受けることはほとんどなかった〔Das 1978:40-49〕 。. 2-2-2-3 ベンガル語. FWC においてベンガル語は、当初軽視されていた。しかし、受講者 数の多さや教職員の働きかけによって、次第に重視されるようになった。 FWC においては、必須科目のペルシア語以外にも、学生はインド諸 語を他に1言語選択履修する必要があった。ペルシア語と共通した語彙 を持つヒンドゥスターニー語を学習する方が能率的との見解から、 135.

(13) 南アジア研究第29号(2017年). FWC ではペルシア語とヒンドゥスターニー語を学ぶ傾向にあった − 1947:115〕 〔Varsneya 。 ... 一方、ベンガル語学者ら(Bengali scholars)も、サンスクリット語 に傾倒し過ぎていた。しかし、そうした中で、教員のケアリー(William Carey)は、FWC でベンガル語を教え、同僚達からの反対に遭い ながらもベンガル語の重要性が認識されるように働きかけた〔Das 1978:45-46〕 。ケアリーは、1803年にカルカッタで、 『パンチャタント 14. ラ』 (Pan˜catantra)のベンガル語版を出版する 〔McGregor 1974:67〕 等の活動を行った。 しかし、それでも、ベンガル語科も他の語科と同じく、設立後間もな い時期から取締役会からの圧力に屈せざるを得なかった。ベンガル語科 も経費削減の対象となり、1805年6月24日付の評議員会の決定により、 ベンガル語科はサンスクリット語科やマラーティー語科と統合された − 1947:66〕 〔Varsneya 。 ... ベンガル語圏に立地していた FWC でベンガル語が軽視されたのは、 先にも述べた通り、当時のインドにおいて、行政業務での公用語として ペルシア語が採用されていたこと、また、会社の統治領域で、現地の民 衆に最も広く通じた言語がヒンドゥスターニー語であったことが関係し ていたと考えられる。しかし、ベンガル語の受講者数は当初から多くい たため、FWC の教職員らはベンガル語教育を軽視し続けることは出来 なかった。また、ケアリーを初めとする教員の活動は、ベンガル語の重 要性を認識させただけでなく、FWC でのベンガル語作品の翻訳活動を 促進するという役割も果たした。 2-2-2-4 サンスクリット語. サンスクリット語は、FWC ではほとんど学ばれていなかった〔Das 1978:46〕 。しかし、FWC では、サンスクリット語古典文学作品を当時. のインド諸語に翻訳する等といった、サンスクリット語に関連する多く の著作活動が行われた。また、サンスクリット語の重要性については、 FWC 公開演習討議の議題とされることもあった。サンスクリット語は、 インドの古典について知る上で不可欠な言語であると FWC 内で認識さ れていた。 FWC 設立以前の18世紀末頃には、ウイリアム・ジョーンズ卿がサン スクリット語とギリシア語やラテン語との関連性を主張したことをきっ 136.

(14) フォート・ウイリアム・カレッジの開講科目. イギリスによるインド統治のための教育. かけに、サンスクリット語の重要性が認識されるようになった。FWC がサンスクリット語の価値を認識した理由は、主に以下の3つであった。 1つ目は、アラビア語がイスラーム法の研究にとって必要な言語であっ たのと同様に、サンスクリット語がヒンドゥー法の研究に役立つ言語で 15. あったことである 。次に、サンスクリット語がヒンドゥー教の思想を 探ることの出来る言語であったことも挙げられる。また、サンスクリッ ト語が、当時さきに述べたようなジョーンズの主張により隆盛していた 比較言語学研究にとって重要な、インド・アーリア語派の古典言語で あったことも、理由の1つであった〔Das 1978:42〕。 サンスクリット語で書かれた作品は、インドの伝統的な思想を学ぶ上 で重要な資料であり、インド統治を行なうために現地の人々の文化や思 考様式を把握する上で必要とされていた。当時の FWC においてサンス クリット語は実用的な言語とは言えなかったけれども、こうした背景に よって教育が実施された。 2-2-2-5 その他インド諸語. タミル語、テルグ語、カンナダ語は、FWC 設立時に開講科目として 位置付けられており、設立当初は開講されていた。しかし、これらの科 目は前述のように、設立後間もない時期に不開講となり、FWC での教 育の対象からも外された。 一方、パンジャーブ語は、FWC 設立当初から開講されていなかった。 しかし、ヒンドゥスターニー語科のパンジャーブ語を母語とするムン 16. シーであった、ラーエ(Kashi Ray(Raj, Rai?))という人物は、パン ジャーブ語で著作活動を行なった。彼は、 『ヒンディー・ストーリー・ テラー』 (Hindi Story Teller)をパンジャーブ語に訳した。 『グリスタ ン』 (Gulistan)をパンジャービー語に翻訳したのも、恐らく彼である。 彼は、最初のパンジャービー語文法書も編纂したが、出版には至らず、 原稿も紛失している。ライデン(Leyden)という人物も、出版には至 らなかったが、パンジャービー語文法書を著した〔Das 1978:57〕。 また、ケアリーの主導により、アッサム語やオリヤー語、マラー ティー語等のインド諸言語で、聖書の翻訳が行なわれた。 2-2-2-6 主要な言語科目の受講者数推移. さきに述べたような形で FWC における言語教育は続けられたが、 FWC における各言語科目の人気や重視される程度については、言語や 137.

(15) 南アジア研究第29号(2017年). 図1:インド諸語科目受講者数一覧 生徒数 1801 1802 1803 1804 1805 1806 1807 1808 1809 1810 1811 1812 1813 1814 1815 1816 1817 1818 1819 1820 1821 1822 1823 1824 1825 1826 1827 1828 1829 1830 計. A 23 4 0 0 0 0 1 5 0 0 0 0 2 1 1 0 1 0 0 0 1 1 1 0 0 0 2 0 0 0 43. P 72 12 17 7 10 18 14 17 9 17 11 13 25 26 9 20 14 19 19 15 20 14 11 23 17 25 47 14 11 9 555. 言語名 H B 66 26 15 6 7 11 14 7 13 7 24 8 17 4 22 11 11 5 23 15 15 6 12 10 18 12 15 13 7 3 14 8 9 6 13 6 10 10 12 3 19 1 13 1 11 1 16 7 8 9 9 17 20 29 2 12 10 14 6 9 451 277. S 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 1 2 1 0 0 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 9. M 0 3 1 0 0 1 0 0 0 0. 時期によって異なっていた。そ のことは、本稿中で示している、 FWC 主要言語科目の1801年か ら1830年にかけての学生数の推 移に関する、ダースの研究書中 の表〔Das 1978:46-47〕を基に 筆者が作成した表からも明らか であ る。な お、表 中 の A は ア ラビア語、P はペルシア語、H 17. はヒンドゥスターニー語 、B は ベ ン ガ ル 語、S は サ ン ス ク リット語、M はマラーティー デ ー タ 無 し. 語の略である。 一覧によれば、これらの言語 のうち、ペルシア語、ヒンドゥ スターニー語、ベンガル語の学 生数が、全体の大半を占めてい る。そのうち、ペルシア語は、 初期のほぼ全ての年において2. 5. 番目に学生数が多く、後には最 も学生数が多くなっている。ヒ. ンドゥスターニー語は、初期のほぼ全ての年において最も学生数が多く、 その後2番目、さらには3番目へと転じている。ベンガル語は、一覧で 記されている時期において、最後の5年間で2番目へと転じているのを 除けば、ほぼ常に3番目を占めていた。FWC への入学者の全体人数も 年度によってかなりの変動が見られたため、受講者数の推移について、 言語科目別に明確な理由を導き出すことは難しい。ただ、FWC の必修 科目であったとされるペルシア語に関しては、入学者人数〔倉橋 2017: 27〕と受講者数の人数が一致している年が多く見られる。このことから、. FWC の学生の多くが、入学後初年度にペルシア語を履修し、同時に他 の言語も併せて履修していた可能性が高いと考えられる。. 138.

(16) フォート・ウイリアム・カレッジの開講科目. イギリスによるインド統治のための教育. 3 結びにかえて 本稿では、FWC で開講された科目に焦点を当てた。最初に、FWC 設立時の法規で開講予定とされていた科目が、実際に開講されていたと は限らないことを指摘した。その上で、FWC のその後の記録を基に、 実際に開講されたと考えられる科目名を挙げた。次に、FWC の開講科 目の大半を占めていたインド諸語科目について、その開講状況を述べた。 FWC における開講科目については、FWC の設立後間もなく、財政 上の理由等により会社の取締役会からの圧力を受け、度重なる削減を余 儀なくされた。開講の存続が認められたのは、ほとんどがインド諸語科 目であったが、インド諸語科目についても、科目によって FWC 内で重 視される程度は異なっていた。インドで実際に業務に就く際に役立つか どうか、学習を通してインドの思想を学ぶことが可能かどうか、学生が 関心を持っているかどうか、等といった基準により、FWC で開講され る価値があるかどうかが左右された。本稿中の表で示した通り、各イン ド諸語科目の受講者数は年によって増減が見られた。本稿では、こうし た増減の詳しい理由については明らかにできなかった。しかし、FWC のインド諸語科目の講義が、かなり多くの受講者数を獲得していたこと は確認できる。FWC の言語教育は、インド統治業務上必要な現地の言 語や現地に関する様々な知識を官吏に習得させることにより、インド植 民地支配に必要な資質を備えた官吏を多く輩出したという点で、その功 績を見出せる。 イギリスでヘイリーベリー・カレッジが開校されたことにより、1807 年以降、インド統治に携わる官吏を目指す者は、まずヘイリーベリー・ カレッジで行政関連科目や自然科学科目、入門レベルのインド諸語を学 び、本人が希望する場合に、FWC で本格的にインド諸語を学ぶことと なった。しかし、その後も会社取締役会からの縮小命令は続き、FWC は1854年に閉校した。FWC が閉校となったのと同時期にヘイリーベ リー・カレッジも閉校となり、インド高等文官の採用は、会社取締役に よる推薦制から、公開競争試験制へと移行された。この変更は、インド 統治業務に携わる官吏を、実力重視で採用しようとするものであった。 こうした転換期に、FWC は運営されていたのであった。 なお、FWC 設立後数年は開講されていたとされる法律系科目と自然 139.

(17) 南アジア研究第29号(2017年). 科学系科目の詳細については、今回取り上げなかった。これらについて は、今後の研究課題としたい。 付記・本稿は、自身の博士論文の一部に、加筆・修正を加えたものである。. 1. この「FWC 法」は、その後何度も修正され、改訂版が出された。. 2. FWC の学長と副学長、評議員から構成され、FWC の運営に関する決定権を持っていた。. 3. イギリス議会文書(Parliamentary Papers)を、筆者が省略表記したもの。1800年8月18 日付の総督の覚書、1800年7月10日付の「FWC 設立法9」、1801年に出された「FWC 法」 が収録されている。. 4. ここではヒンディー語で書かれている文献記述(pracin angrezi sahitya(classics))を 「古代イギリス文学」と訳したが、英語の原語は不明である。. 5. この見積表が作成された年については、詳しいことは判明していない。同文書中では、こ の見積書は縮小措置が下される以前の時期のものであると述べられている。前にも述べた 通り、1803年に取締役会から詳細な縮小命令が下されたことから、この見積表はそれ以前 のものであると考えられる。. 6. language-teaching centres established in Bombay and at St. George。セ ン ト・ジ ョ ー ジ (マドラス)には FWC と同様のカレッジ(Fort St. George College)が設立されたが、ボ ンベイには設立されなかった。従って、セント・ジョージの言語教育センターは、フォー ト・セント・ジョージ・カレッジと同一の組織である可能性も考えられるが、実際のとこ ろは不明である。. 7. 1813年から1830年に在職〔Das 1978:124〕。1823年11月20日から1831年まで教授を務めた 〔Begum 1983:59〕 。. 8. ムガル帝国第2代皇帝のフマユーンの時代からの、帝国言語であった。イスラーム聖典の 言語であるアラビア語と共に、インドにおいて別格の地位を占めた〔藤井 2012:311〕。. 9. インド人兵士の多くが彼らの母語であるブラジ・バーシャーを使用していたことから、 FWC では軍官学生を主な対象としてブラジ・バーシャーが教えられた。1819年9月6日 付のプライスによる報告書には、ブラジ・バーシャーの教育が実施されていたことが記さ. 10. − れている〔Varsneya 1947:82-83〕。 .. チャトルジーは、1799年1月にウェルズリーが EIC の若手文官に、ギルクリストの下でア. ラビア語とペルシア語を学ぶよう指示を出したと述べている〔S. K. Chatterjee 1993: 229〕 。しかし、以前の節で述べた通り、これはアラビア語とペルシア語ではなく、ヒンドゥ スターニー語とペルシア語の誤りである。 11. 引用文献中では「FWC 創設者(the founders of the Fort William)」が具体的に誰を指す のか説明されていないが、FWC の運営において権限を持っていた評議員会の、初代メン バーを務めた教職員のことではないかと考えられる。. 12. 1801年に FWC のアラビア語教授に就任〔Das 1978:123〕。. 13. 1801年に FWC のペルシア語教師に就任、1807年からは教授となる。1823年に定年退官. 140.

(18) フォート・ウイリアム・カレッジの開講科目. イギリスによるインド統治のための教育. 〔Das 1978:123〕。 14. その後、ヒンドゥスターニー語科のムンシーに任命されたラッルーラールが、ナーラーヤ −− ナ(Narayana)の『ヒトーパデーシャ』 (Hitopades´a)とこの『パンチャタントラ』を基 . − に、ブラジ・バーシャーで『ラージニーティ(Rajnīti) 』を著し、1809年に出版に至ってい. る〔McGregor 1974:67〕。 15. 1802年8月5日付でウェルズリーが EIC の取締役会議長(chairman)に宛てた手紙の中 でも、サンスクリット語はヒンドゥー法の知識を得る上で不可欠であり、マドラスやボン ベイの文官にとっても必要である、と述べられている〔IOR/H/487:326-327〕。. 16. 1801年就任〔Das 1978:125〕。. 17. 尚、ダースの同研究書では、前に述べた「ヒンディー・ヒンドゥスターニー語」という名 称は使用されていない。このため、ここではダースの記述に従い、「ヒンディー・ヒンドゥ スターニー語」ではなく「ヒンドゥスターニー語」とする。. 参照文献 研究書 浅田實、1998、 「東インド会社とヘイリーベリー校」『大英帝国と帝国意識. 支配の深層を. 探る』木畑洋一(編)、97-122頁、ミネルヴァ書房。 倉橋愛、2017、「フォート・ウイリアム・カレッジの学籍制度」『比較文化研究』、127、23-32 頁。 黄イェレム、2016、「インドにおけるプロテスタント宣教師の儒教経典英訳事業」 『東洋学 報』 、98-2、61-89頁。 浜渦哲雄、2009、『イギリス東インド会社. 軍隊・官僚・総督』、中央公論新社。. 藤井毅、2003、 「近現代インドの言語社会史」『現代南アジア⑤社会・文化・ジェンダー』小 谷汪之(編) 、63-98頁、東京大学出版会。 藤井毅、2012、 「インド近現代における文字論争」『多言語主義再考. 多言語状況の比較研. 究』砂野稔幸(編)、310-378頁、三元社。 − Nusrat PaBegum, Obaida, 1983, Fort William College ki adabi khidmat, Calcutta: Taqsīmkar . blīsharz.. Das, Sisir Kumar, 1978, Sahibs and Munshis: An Account of the College of Fort William, Calcutta: Orion Publications. J. T. K. Daniel, R. E. Hedlund, 1993, Carey’s obligation and India’s renaissance, Serampore: Council of Serampore College. McGregor, Ronald Stuart, 1974, Hindi literature of the nineteenth and early twentieth Centuries, Wiesbaden: O. Harrassowitz Ranking, G. S. A., 1911, Bengal Past and Present Vol. VII, Calcutta: Journal of the Calcutta Historical Society. Siddiqi, M. Atiq., 1979, Gilchrist Aur Auska Ahed, Dehli: Anjuman Taraqqi Urdu (Hind). − − Varsneya, Lakshmīsagar, 1947, Fort William College: 1800-1854, Allahabad: Allahabad Uni.. versity.. 141.

(19) 南アジア研究第29号(2017年). − − Varsneya, Lakshmīsagar, 1971, Adhunik Hindi Sahitya Ki Bhumika: 1757-1857, Prayag: .. Manhar Press.. 公文書(大英図書館蔵) IOR/H/487, 1781-1803, Educational establishments in India. IOR/H/489, 1803-1812, College at Fort William Bengal; the supply of materials for the Oriental Repository at East India House. 公文書(イギリス議会文書) P. P.(筆者が本稿中で文書名を左記のように省略表記):East Indies, 1812-13, Papers relating to East India affairs : viz. copy of a minute of the Governor General, relative to the College of Fort William, dated the 18th August 1800; --together with copies of the regulation for the establishment of that college, dated the 10th of July 1800; and of the statutes of the College of Fort William.. 要旨. フォート・ウイリアム・カレッジ(FWC)は、1800年にインド総督ウェルズ リー(Richard Wellesley, 1760-1842)によって、カルカッタ(現コルカタ)に設 立された。このカレッジの目的は、インドの政府機関に配属される予定のイギリ ス東インド会社若手官吏に、インド統治業務に必要な教育を行うことであった。 しかし、会社取締役会からの反対を受け、FWC は最初の5年程で、その規模を 縮小せざるを得なくなった。 縮小命令後も開講が許されたのは、インド諸語科目であった。特に、ペルシア 語とヒンドゥスターニー語が、FWC 内では重視された。ベンガル語は当初重視 されていなかったが、学生の関心が高く受講者も多かった。また、アラビア語は ペルシア語やイスラーム法の研究のため、サンスクリット語はインドの伝統的な 思想を学ぶ上で不可欠であるとして、教育が続けられた。 FWC は、縮小命令を受けながらも約半世紀の間存続した。教育内容がインド 諸語のみに制約されながらも多くの官吏を輩出したことは、FWC が残した功績 の一つであると言える。. 142.

(20) フォート・ウイリアム・カレッジの開講科目. イギリスによるインド統治のための教育. Summary. The Subjects Taught at the College of Fort William: Education for the Governance of British India Ai KURAHASHI The Governor-General of India, Richard Wellesley (1760-1842), established Fort William College (FWC) in Calcutta in 1800. The purpose of this college was to educate the junior officers of the East India Company who were to be assigned to administrative posts in India. Several subjects were taught at FWC, including law, natural science and Indian languages. Because of opposition from the East India Company Court of Directors, FWC was scaled down within the first five years. Hence, it could not successfully educate these junior officers, although this was necessary. However, it succeeded in producing several competent individuals given the education it provided in Indian languages. In this thesis, I examine the subjects that were taught at FWC. They were Arabic, Persian, Sanskrit, Hindustani, Bengali, Telugu, Marathi, Tamil, Kannada, Modern Languages, Greek, Latin, Hindu law, the laws and regulations of the British Government in India, and Experimental Philosophy. After FWC began to scale down only Indian languages were taught. Among these languages, some were considered important, while others were not. As Persian was adopted as the official language of the East India Company and Hindustani was widely used by the native people in India, these two languages were emphasised. Bengali was not considered necessary, but teachers at FWC had to give this language importance because it was popular among the students. Arabic and Sanskrit were not considered important, but they were also taught because Arabic was necessary to study the Persian language and Islamic law while Sanskrit assisted in the understanding of traditional Indian concepts.. 143.

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参照

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