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真宗研究46号 005加来雄之「世俗化の中の「顕真実教」――浄土真宗における「教」の今日的意義――」

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Academic year: 2021

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世俗化の中の

ー lB

の今日的意義ーー

大 谷 大 学 加

はじめに|世俗化のなかの浄土真宗

︵ 1 ︶ 一つは、原理主義であり、もう一つは﹁世俗化﹂であ る。原理主義が、宗教の絶対化であるとすれば、世俗化は宗教の限りなき相対化といってよいだろう。この小論では、 日本仏教が、そして浄土真宗の教団がおかれている課題的情況を﹁世俗化﹂という概念でおさえてみたいと思う。世 俗化の中で、仏教は習俗化し、カルチャーセンター化し、寺院は風景と化したとまで評される。石田慶和は、﹁現代 は世俗化の時代である。世俗化とは、現代の世界のあらゆる宗教が、現に直面している、あるいは近い将来直面しな ︵ 2 ︶ ければならないひとつの根本的事態である﹂と述べている。ポール・リク l ルは﹁世俗化過程の焦点﹂を人間として 実存する可能性が表現される言語の諸次元の忘却、歴史が表す可能性の忘却という根本的な忘却と関連づけて考察し ている︵﹃聖書解釈学﹄ヨルダン社、一九九五、六二頁参照︶。宗教者にとって課題となる﹁世俗化﹂とは﹁宗教的言 語︵宗としての教︶が世俗的関心によって侵食される事態﹂であると理解することができるだろう。つまり宗教的言 今日、世界の宗教が直面しているこつの切実な問題がある。 世 俗 化 の 中 の ﹁ 顕 真 実 教 ﹂ 四 五

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世 俗 化 の 中 の ﹁ 顕 真 実 教 ﹂ 四 六 語、教えが世俗関心のなかに取り込まれ、生き生きとした宗教的関心を喚起することができなくなる社会的事態・プ ロセスが﹁世俗化﹂である。﹁世俗化﹂を取り扱う意図は、その一般的定義である宗教システムの影響力の衰類を問 題にするためではない。今日の社会が、私たちが伝統としての﹁教﹂、ことに﹁宗とする教え﹂を有しているという と 均 つ 化 て し 損 て 失 か

とけ

い が つ え よ の り な も い 悲 意 惨 味 で を あ(見 る旦失 。 わ せ 深い意義を私たちの生活から根こそぎ奪い取りつつあるように思われるからである。世俗化は、かぎりなく人聞を平 一般的な事柄に還元して相対的な価値のなかに埋没させる。それは人間に ︵ 3 ︶ 思うに、宗教原理主義の台頭もイデオロギーの問題であるが、世俗化による宗教の侵食もまたイデオロギーとして 取り扱うべき問題ではないかと思われる。なぜなら第一には、世俗化を促進する一因に、宗教がイデオロギーとして 機能したことへの宗教不信があると思われるからである。歴史事象としての﹁浄土真宗﹂は、時代時代のイデオロ ギ l に呪縛されてきたし、またイデオロギーとして奉仕し機能してきた︵宿業などの差別の問題、真俗一一諦の問題、 戦争責任の問題など︶。しかも私たちは、これらの問題をいまだ十分に総括できていない。そのことが今日の﹁浄土 富 一 ︵ ウ 一 小 ﹂ への不信感を生み、私を含めた宗門人の自信喪失、閉塞感を生みだしているように思える。 第二に、世俗化の根底に、宗教を相対化するある種のイデオロギーというべきものがあり、その見極めと批判が必 要と思うからである。たとえば石田によって現代の﹁世俗化﹂の原理とされる自然科学的世界観はひとつの主義のよ うに教義体系をとっていないだけに自覚も批判もしにくいが、緩やかだがとてつもなく大きな観念の体系であること ︵ 4 ︶ にはちがいないからである。 本来、仏教の教え、また浄土真宗の教えとはイデオロギーを超えていくことを本質とするものであった。しかしな がらそれらの﹁教﹂という概念がイデオロギーの呪縛からどこまで脱出できているだろうか。もし﹁浄土真宗﹂とい う﹁教え﹂が一つのイデオロギー体系以上でないならば世俗化のなかで相対化されていくことも仕方がないのではな

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A O U , 刀 親鷲が﹁顕真実教﹂という表現をもってあきらかにしようとしたのは、このような宗教的関心を喚起するはずの ﹁教え﹂が世俗的関心によって侵食され、その結果、宗教が世俗の相対的なサブシステムに位置づけられてしまうと いう事態を克服するためであった。そのような課題のもと、親鷲は﹃教行信証﹄において﹁教﹂という術語の使用に ついて深い配慮を払い、しかも﹁教巻﹂においては、独自の↓記述形式、構成、表現、論理を駆使して﹁真実教﹂を ﹁顕﹂わそうとする。親驚の﹁顕・真実教﹂という教学の営為を検討することで、今日の社会における閉塞的な情況 を超えていく手がかりを見出したいと思う。

の現実的動機||﹁昏教﹂と﹁明仏教﹂

親鷲は﹃教行信証﹄﹁教巻﹂において独特の記述形式︵教相判釈的関心がない︶を用いながら、 みずからが帰依し た教法︵真実之教 浄土真宗︶を﹁顕・真実教﹂という主題のもとで明らかにする。はじめに親驚が﹁顕・真実教﹂ という課題を担うことになった現実的動機について検討しておきたい。 親驚が、﹁真実之教﹂を明らかにしなければならなかった現実的動機は、法然によって成し遂げられた浄土宗独立 という事業のラディカルな意味が誤解され、その結果、危険思想とみなされ弾圧されたからである。そのことが﹃教 行信証﹄後序にあらわされている。 親驚は記す。当時の僧の教権を代表する﹁諸寺の釈門﹂と世俗の教権を代表する﹁洛都の儒林﹂が結託することに よって、興福寺学徒の奏達がなされ、その結果、﹁主上臣下︵俗権︶﹂が﹁法に背き、義に違し、誌を成し怨みを結﹂ び、不当な専修念仏弾圧を生みだした、と。﹁後序﹂の冒頭は大きく次のような構造になっている。 世 俗 化 の 中 の ﹁ 顕 真 実 教 ﹂ 四 七

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世 俗 化 の 中 の ﹁ 顕 真 実 教 ﹂ 四 人 輿福寺学徒奏達 ー諸寺釈門昏教分不知真仮門戸﹂ −聖道諸教行証久廃

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十 ﹁ 洛 都 儒 林 迷 行 令 無 弁 邪 正 道 路

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縞以上 ﹁浄土真宗証道今盛|然|愚禿釈驚 主上臣下背法違義成窓結怨 親驚があげる ﹁興福寺奏状﹄は九箇条からなるが、その第一におかれた﹁新宗を立てる失﹂に主張するところをみ てみよう。そこでは、法然が﹁八宗﹂のほかに﹁浄土の念仏をもってもって別宗と名づけ﹂たが、本来﹁すべからく ︵ 日 ︶ 公家に奏して以て勅許を待つベ﹂きであったのに、﹁私に一宗と号すること、甚だ以て不当なり﹂と非難している。 この非難にあらわれているように、﹃興福寺奏状﹄はどこまでも、法然の浄土宗を﹁八宗﹂の外に立てられれた﹁別 宗﹂としてしか位置づけていなかった。そしてその主張は、中国以来の﹁宗﹂という理解からすれば誤っているわけ ︵ 日 ︶ ではない。むしろそれゆえに﹁八宗﹂とはまったく違った原理の﹁宗﹂を立て、協和しない法然の専修念仏を許すこ と は で き な か っ た の で あ る 。 親鷲は、﹁聖道の諸教﹂によるそのような﹁宗﹂の理解自体が﹁教に昏﹂いことを暴露したという。﹁聖道﹂は自力 と い わ れ る 人 間 の 個 々 人 の 能 力 と 諸 関 心 に 立 つ 以 上 、 ﹁ 諸 教 ﹂ と い う 形 を と ら ざ る を 得 な い が 、 ﹁ 諸 教 ﹂ で あ る か 、 ぎ り 、 ﹁教に昏くして真仮の門戸を知﹂ることはできない。なぜなら諸教という枠組みのなかにある限りその﹁宗﹂の決定 は 教 相 に お か れ る の で あ り 、 みずからの宗を﹁行証﹂という視座に立って真か仮かと問、つ関心をもてないからである。

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つまり、﹁諸教﹂は、すでに﹁宗﹂として﹁久しく廃れ﹂ているというしかないのである。﹁聖道の諸教﹂とはみずか らの﹁行証﹂を現実︵時と機︶のただ中で問うことがない﹁教﹂なのである。親驚が﹁聖道の諸教﹂と﹁浄土の真 宗﹂と、﹁諸教﹂と﹁真宗﹂とを対峠させているのもそのような意図によるのであろう。﹁聖道の諸教﹂というあり方 は、そのような真の宗への無関心があるからこそまったく違った世俗の原理に立つ﹁洛都の儒林﹂と結託できたので ︵ ロ ︶ ある。﹁教行信証﹂坂東本には﹁洛都の儒林﹂に﹁ミヤコ/ミヤコ/ソクカクシヤウ︵俗学生︶ナリ﹂の左がなが付 けられているが、﹁ソク︵俗ことはまさしく当時の政治・人倫を支配した儒教イデオロギーをあらわしていると思わ れる。この小論の課題に即していえば、﹁聖道の諸教﹂はもう﹁久しく﹂儒教イデオロギーによって﹁世俗化﹂され ︵ 日 ︶ ていたのである。教義となった諸教は、すでにイデオロギー︵顕密仏教︶としての機能を果していたのである。だか ︵ H H ︶ らこそ法然の﹁仏教の宗教改革﹂と呼ぶべき浄土﹁宗独立﹂の事業の意義を根源的に理解することができなかったし、 ︵ 日 ︶ その結果、八宗を代表する﹁輿福寺の上奏﹂として正体をさらけ出すことになったのである。 親驚は、輿福寺奏状が﹁仏法王法猶身心のごとし、互いにその安否を見、よろしくかの盛衰をしるべし﹂︵﹃輿福寺 ︵日間︶ 奏状﹄第九回土を乱る失︶といわれるような﹁俗﹂たる﹁洛都の儒林﹂との不即不離関係︵王法仏法相依論︶を主張す る仏教のあり方に基づくことを知っていた。そしてその両者が、法然の浄土宗をみずからのシステムに取り込めない ︵ 口 ︶ がゆえに、さまざまな教義︵諸教︶の一つとして媛小化し、文字通り地上から抹殺しようとしたこと、それが承元の 専修念仏弾圧の正体であることを見破っていた。 以上述べてきた﹁聖道の諸教﹂の﹁宗﹂理解は、法然が﹁宗﹂の精神を﹁選択﹂に、﹁宗﹂の態度を﹁廃立﹂にあ い﹁聖道の諸教﹂に対して、法然を﹁仏教に明らか﹂︵正信 偶︶であると端的に言いきる。それは法然が﹁宗﹂の真意義を明らかにしたからである。そして﹁浄土宗﹂独立の意 味 に つ い て 、 ﹁ 真 宗 の 教 証 を 片 州 に 興 す ﹂ ︵ 正 信 偶 ︶ と お さ え て い 九 日 。 そ れ ゆ え に 親 驚 は 、 ﹁ 浄 土 の 真 宗 ﹂ と い う 仏 教 るとした立場にみごとに対峠する。親鷲は、﹁教に昏﹂ 世 俗 化 の 中 の ﹁ 顕 真 実 教 ﹂ 四 九

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世 俗 化 の 中 の ﹁ 顕 真 実 教 ﹂ 五 O の事業を顕わすために﹁諸教﹂としてあらわれる世俗化された﹁教﹂を峻別し対決しなくてはならなかったのである。 その教学的責任の所在を一不すのが﹁然るに愚禿釈の驚﹂以後に記される内容︵本願に帰し、﹃選択集﹄を付属され、 法然の肖像画を図写し、親鷲と名のることを認められたこと︶であろう。

﹁顕真実教﹂教巻における記述形式の独自性

親鷲は﹁真実之教﹂をどのような事実として受けとめ、世俗化した﹁聖道の諸教﹂とどのように峻別しようとした のか。そのことを明らかにするために親驚が﹁教巻﹂においてとった独自の記述形式に注目してみたい。親驚は読む ものに疑問をもたせるような独自の記述方法を用いる。それゆえに読者は、そこに配置されたそれぞれの仕掛けに託 された親鷲の意図を丁寧に汲み取っていかなくてはならない。﹁教巻﹂には多くの仕掛けが指摘されているが、ここ ︵ 印 ︶ では﹁顕真実教﹂という表現だけを取りあげて検討したい。 親 驚 は ﹃ 教 行 信 証 ﹄ に お い て ﹁ 顕 真 実 教 ﹂ と い う 表 現 を 一 一 一 箇 所 に 効 果 的 に 使 用 し て い る 。 ま ず 標 挙 に つ づ く 標 列 に 、 凶﹁顕真実教 とあげる。そして﹁教巻﹂に入ると、二箇所に配置する。一つは、真実教をあきらかにしていく冒頭に置かれる、 倒﹁夫れ真実の教を顕わさば、則ち﹃大無量寿経﹂これた円 o ﹂ の一句である。そして、もう一つは﹁出世の本意を知﹂るための引文が終ったあと﹁教巻﹂の結びに配置される、 削 ﹁ 爾 者 ︵ し か れ ば ︶ 則 ︵ ち ︶ 此 の 顕 真 実 教 の 明 札 制 。 ﹂ '- -︵ 忽 ︶ の一句である。この﹁顕真実教﹂という表現の独自性は、すでに先人が注目するところである。なぜこれが仕掛けな のか。試みに、凶倒仰の句から、﹁顕﹂という一字を省いてみたらどうだろうか。﹁真実教 こ ﹁ そ れ 真 実 の 教 は 、

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すなわち﹃大無量寿経﹄これなり﹂﹁しかれば則ち此の真実教の明証なり﹂と、こう読んでもほとんど違和感がない。 とすれば、それは私たちがいままで違和感がないような意識でしかこの文章︵親驚の意図︶を受けとめてこなかった ということである。あるいは親鷲は﹁真実教﹂も﹁顕真実教﹂も区別しなかったかもしれない。たとえば、﹃浄土文 類緊紗﹄には、﹁然に教と言、つは則ち﹃大無量寿経﹄也。﹂という表現もあるからである。しかし﹃教行信証﹄の文脈 においては、﹁顕﹂という一字に決定的な意味を読み取るべきだと思う。 まず凶﹁総序﹂の直後に置かれた標挙の﹁真実之教﹂ 標列の﹁顕真実教こという二つの﹁教﹂の表現に注目し

’ 目 、 。

ナ 人 し 大無量寿経川真実之教 間顕真実教 浄土真宗 顕真実行 顕真実信 顕 真 実 証 四 顕 顕 化 真 身 仏 上 土 六!..?五 く 、 ﹃ 教 行 信 証 ﹄ 先人の指摘があるように、この標挙・標列は、その置かれた場所からみても、﹁教巻﹂だけに限定するべきではな ︵ げ ︶ 一部の総襟と構成を示すものとして了解すべきであろう。標挙・標列は、﹃大無量寿経﹂を﹁真実之 教﹂として見出すところに聞かれてくる﹁浄土真宗﹂と名づけられる仏道を明らかにするために、﹁顕真実教 以下の六巻が展開することを示している。まさしく標挙の﹁真実之教﹂は一部すべてを包んでいるが、標列の﹁顕真 し一一 実教こは展開するか六巻の一部であり、﹁真実之教浄土真宗﹂に帰依した仏弟子のなされなければならない第 世 俗 化 の 中 の ﹁ 顕 真 実 教 ﹂ 五

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世 俗 化 の 中 の ﹁ 顕 真 実 教 ﹂ ﹁この課題なのでん日。﹁浄土真宗﹂の仏道すべては﹁真実之教﹂につつまれる。しかし、その教えがどのような 五 意味で真実であるかを﹁顕す﹂という教学的課題をもつのが﹁顕真実教乙であるといえよう。そこでは教の内容で はなく、教という概念自体が問われるのである。 このように標列におかれた﹁顕真実教こは、﹃教行信証﹄の第一巻の課題がどこまでも﹁真実教を顕わす﹂こと に あ る こ と を 明 示 し て い る と い え よ う 。 次に倒の句は、その断定的な記述形式についていろいろと問題が提起されている。﹁則﹂という接続詞の文法上の 特質に注目し、この文を﹃大無量寿経﹄は真実の教なりと理解することを拒否しているという指摘は注目すべきであ ろう。この﹁真実教を顕わさば則ち﹂という表現に、﹁真実の教えとはいかなるものかを顕わすならば﹂という意味 を汲み取るのはあまりにも穿った理解であろうか。 最後の仰の句の訓み方は独特である。坂東本・西本願寺本においては﹁此の顕真実教の明証﹂と、﹁顕真実教﹂と 白文のまま読まれており、非常に理解しにくい。ただ高田本には返り点訓点が付されおり、﹁是の真実教を顕わす明 ︵ お ︶ 証也﹂と読まれているようである。しかし高田本を検討すると、その訓みは左側についており、おそらくは高田本も ︵ 幻 ︶ また﹁是の顕真実教の明証﹂と読むことを指示していると理解すべきなのである。 このように﹁顕﹂の一字はないほうがはるかに理解しやすいにもかかわらず、あえて﹁顕﹂という字が置かれてい る。そこに﹁真実教﹂ではなく﹁顕真実教﹂と記述することに託されたなにかしらの意図があると考えるべきであろ ︵ お ︶ 、 ﹁ ノ 。 つまり﹁顕真実教﹂という表現で、親鴛が確かめようとしている事柄は、﹁真実の教﹂や﹁真実を顕わす教﹂では なく、﹁真実教を顕わす﹂ということである。﹁真実教﹂という固定した教義を説明しようとするのではなくて、﹁此 の顕・真実教﹂という﹁明らかな証し﹂を見よという意図があるのであろう。それゆえに﹁此の顕真実教﹂は﹁明

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証﹂であって﹁論証﹂ではない。教巻に引用される釈尊の出世本懐にかかわる文は ﹃ 大 無 量 寿 経 ﹄ の 他 の 経 典 に 対 す る卓越性を論理的に証明するために引かれているのではない。﹁明証﹂は、文字通り、どのような弁明も必要としな い 事 実 そ の も の が 語 る 明 白 な 証 明 と い う こ と で あ ろ う 。 明 証 は 、 いわゆる教相判釈による論理証明ではない。出世の釈尊との今日的値遇、換言すれば機教の因縁が熟した ところに実現する﹁今現在説法﹂という事実そのものが﹁此の顕真実教の明証﹂である。真実教として確かめようと していることは、経説の内容であるよりも経典が﹁説﹂かれる発起因縁である。だからこそ﹁大無量寿経﹄発起序に ︵明日︶ よって﹁出世の大事を知﹂るのである。そこでは﹁教相判釈﹂という方法を用いる必要はないし、また用いてはなら なかったのである。教相判釈を用いれば、そこに﹁教﹂を教義・教理として誤解させ、イデオロギーとして機能させ る余地を残すことを親鷺はよく知っていたに違いない。 ﹁出世の大事を知る﹂ためには、どのような内容の教義・教理が説かれたかは問題ではない。むしろどのような因 縁で説かれたのか、誰のために説かれたのか、何のために説かれたのか、という経説が生み出される大地こそが根源 的 で 決 定 的 な 意 味 を も つ の で あ る 。 ﹁知来無蓋の大悲をもって三界を於哀し﹂﹁世に出興する﹂事実であるような教え、これこそが﹁真実教﹂であり、 親鷲が﹁往相回向の教﹂として言い当てたかった事柄である。どのような内容であっても、それが教義・教理として あればそれは方便の教である。如来として釈尊が説いているという今現在の事実だけが﹁真実の教﹂である。つまり 如から群筋に来たということが﹁説﹂ということであり、それが真実教の本質なのである。この﹃大無量寿経﹄発起 序によって、釈尊が知来として﹁如来の本願を説く﹂という意義︵宗致︶がはっきりとしたのである。親驚が単に ﹁知来の本願﹂といわずに﹁如来の本願を説くをもって﹂と﹁説﹂の一字を加えたことに﹁顕真実教﹂と名づけられ ︵ 初 ︶ る教学的課題がもっ独自性が明らかになっている。 世 俗 化 の 中 の ﹁ 顕 真 実 教 ﹂ 五

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世 俗 化 の 中 の ﹁ 顕 真 実 教 ﹂ 五 四

親驚は﹁顕真実教﹂を表現する方法として﹁丈類﹂を選んだ。その実践が﹃教行信証﹄である。なぜ親驚は、﹁聖 道の諸教﹂に対して﹁浄土の真宗﹂を﹁丈類﹂︵歴史的文献︶によって基礎づけようとしたのか、また命終わるまで そ の 教 学 的 営 為 を 続 け た の で あ ろ う か 。 ﹁丈類﹂という聖教の引用による証明方法自体は、聖教証と呼ばれる仏教の古い伝統である。聖教証とは、理量 ︵直覚的認識︶、比量︵推理的認識︶、聖教量のうちの聖教量による証明とされ、聖教量は一般に﹁聖者のことばには ︵ 幻 ︶ 誤りはないものとしてこれによって種々の義を量知する﹂ことであると定義されている。これは仏教学の普遍的方法 であって、聖道・浄土を問わない。しかしこれを通俗的に解釈すれば、聖教を不可侵の権威として、その教義によっ て論証するという立場となり、教の絶対化になる。また反対に、聖教証は道理証のための手段、つまり河をわたる筏、 月を指す指にしか過ぎないというならば、そのような教は方便の教といわなくてはならないし、これは教の相対化と なるだろう。しかし親驚において﹁丈類﹂という方法は、単に絶対化された教条でも、相対化された手段でもなかっ た 。 親 鷲 の ﹁ 文 類 ﹂ と い う 教 学 の 方 法 は 、 ﹁ 其 の 教 行 証 を 明 か す 所 の 文 を 類 緊 す る ﹂ ︵ ﹃ 六 要 紗 ﹄ 一 ︶ と お さ え ら れ る よ うに、文は要文、類は類棄で、﹁浄土真実を顕わずの要文を集めた﹂という意味であろう。そして親鷲がこのような 方 法 を と っ た の は 、 ﹁ 霊 芝 宗 暁 ︵ 一 の﹃楽邦文類﹂にみられるように、宋代の天台では文類類衆 ︵ 認 ︶ が流行し、以後浄土門に重用された﹂という当時の状況もあったとされる。おそらく、その指摘は基本的に正しいと 一 五 一 l 一 一 一 一 四 ︶ 思われる。しかし親驚が、当時の流行りとはいえ、この記述方法を選んだのは、 みずからが出会い担っていこうとす

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る仏道を表現するもっとも適切な方法とみたからであり、近くは、法然の﹃選択本願念仏集﹄源空集という教学の姿 勢・事業を継承するものであったと思う。︵もちろん興福寺奏状の法然の宗独立には伝承がないという批判にこたえ る 意 味 も あ る だ ろ う 。 ︶ ﹃ 教 行 信 証 ﹄ ﹁ 総 序 ﹂ は 、 ︵ お ︶ ﹁ 聞 く 所 を 慶 び 、 獲 る 所 を 嘆 ず る な り ﹂ と結ぼれるが、これが親鷺の文類の姿勢、精神であり、﹃教行信証﹄全体がそのような精神で著わされている。その こ と は 、 ま た ﹁ 化 身 土 巻 ﹂ に 、 ﹁愛に久しく願海に入りて深く仏恩を知れり。至徳を報謝のために真宗の簡要をひろうて、恒常に不可思議の徳 ︵ 弘 ︶ 海 を 称 念 す 。 い よ い よ 斯 れ を 喜 愛 し 、 特 に 斯 れ を 頂 戴 す る な り 。 ﹂ ﹁慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。深く知来の衿哀を知りて、良に師教の恩厚を 仰ぐ。慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し。輩に因って真宗の詮を紗し、浄土の要をひろう。ただ仏恩の深き ︵ お ︶ こ と を 念 じ て 、 人 倫 の 醐 り を 恥 じ ず 。 ﹂ ﹁ 真 一 言 を 採 り 集 め て 、 往 益 を 助 修 せ し む 。 ﹂ ︵ ﹁ 定 親 全 ﹂ 一 、 ﹃ 教 行 信 証 ﹄ 化 身 土 、 二 一 八 三 一 頁 ︶ とあることからも領けるであろう。安田理深は﹁丈類﹂という教学的方法の意義について、次のように語っている。 ﹁自分が明らかにするというより、自分に先立って既に証明がされているということである。自分の主張を文類 ︵ 初 ︶ に依って証明するというよりも、むしろ個人を超えた歴史、歴史的意識をあらわすものが﹁文類﹂なのである。﹂ ﹁文類﹂という方法は、聖教による証明と誤解されるかもしれない。しかし﹁文類﹂は、主観の独断を超えていく ことのみならず、客観的教義の呪縛をも超えていく方法であり、そのことがもっ深い意義は歴史的意識に立つという ことなのである。もし﹁教﹂が教義に過ぎないならば、﹁文類﹂という営為は丈証という意味しかもたないだろう。 しかし﹁教﹂が﹁今現在説法﹂であるらば﹁文類﹂とはそのまま歴史的証明という意義をもつのである。 世 俗 化 の 中 の ﹁ 顕 真 実 教 ﹂ 五 五

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世 俗 化 の 中 の ﹁ 顕 真 実 教 ﹂ 五 六 人聞が歴史的証明を要めるのは、人の迷いや苦悩が歴史や社会から孤立した主観的なものではなく、深く広い背景 をもつからである。私たちの苦悩は、孤立した個人おいては成り立たない。私たちが誰とも関わらなかったら苦痛は あっても苦悩することはない。いかなる苦悩も無限の歴史と無辺の社会との関係のなかで成り立っている。なぜ人は 伝承としての教を必要とするのか。それはみずからの苦悩を歴史と社会のなかで位置づけることによって苦悩を克服 しようとするからである。だからこそ伝承がない己証は主観になってしまう。仏教が、﹁無始己来﹂﹁蹟劫来流転﹂と いう表現でかたろうとするのは、私たちの迷いや苦悩が深い歴史・社会的背景をもっていることを神話的象徴的に語 っているのである。私たちの迷いや苦悩は、快楽や観念や教義でごまかすことができるほど浅いものではないという ことである。私たちの迷いや苦悩の根は、私たちが思っているよりも広く深いのである。仏教が、歴史や社会から切 り離された苦悩からの解放を小乗・二乗的関心と名づけて庇めたのは、そのような関心は結局、苦悩する存在の閉塞 化、震小化でしかないからであろう。 親驚が、私たちの苦悩が無限の深さと広さをもっていることを言葉を尽くして語るのは、私たちに罪意識や恐怖心 を植え付けるためではない、苦悩の深さと広さ、その自覚によって存在の無上の意味を回復しなくてはならないから である。﹁教﹂という伝承の言葉によって自らの目覚めを証明する要求があるのは、このような人間存在の迷い・苦 悩の構造に基づいているのである。衆生的課題を担い、開顕していく伝承としての教を根拠としえないとき、私たち の自覚は皮相的で浅薄で閉鎖的な主観︵辺地慨慢、疑城胎宮︶に留まることになるだろう。ここに﹁教﹂が見失われ ることの悲惨さがあるのである。 人間の迷いが言葉によることは仏教の基本的認識である。 つまり教証を求め集めるということは、言葉を通して歴 史を担い、社会に関ることである。そしてそのことは思想家としてやヒューマニストとしての義務ではなく、私たち が苦しみ悩み、喜びしている存在として自利利他円満するためにどうしても必要なことなのである。しかし﹁教﹂が

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言葉として表現されるかぎり、 つねに世俗化によって教義に転落するという傾向を逃れることはできない。ここに ﹁顕真実教﹂という教学の課題が生れる理由があるのである。 おわりに|今日の課題としての

﹁世俗化﹂という概念を手がかりに考えようとしたのは、宗教の社会への影響力の減退というような宗教社会学的 な関心からではない。私たちの生活のなかから伝承としての﹁教﹂、人類的、衆生的課題をもった﹁教﹂、とそれに基 づいた問いが見失われつつあり、その結果、私たちの見出す生の意味や自覚が伝承・関係から切り離された浅薄なも のになっているという現実があるからである。 この論文で定義される﹁世俗化﹂は、近代のみに特有なプロセスではなく、仏教の出発点からつねに存在した世俗 イデオロギーによる宗教言語の侵食という事態を意味するのである。親鷲当時、仏教を﹁諸教﹂として世俗化するイ デオロギーは儒教であった。親驚は﹁真﹂という一点から浄土宗を弾圧した仏教における﹁世俗化﹂の正体を見極め、 ﹁仮﹂なるあり方をする人々を悲歎し、﹁偽﹂なる思想を教誠する︵﹃教行信証﹄化身土巻︶。現在、仏教を世俗化す るイデオロギーは・自然科学に代表される人間中心主義であるといってもよいのかもしれない。とめどのない世俗化の 暴流なかで既成教団としての宗教、教義・教理としての宗教は、今後も衰退していくだろう。イデオロギーとなった 仏教は、世俗化のイデオロギーによって過去へおし流がされるだろう。 浄土真宗という宗教が問題にすべき﹁世俗化﹂とは﹁真実数﹂を見失うことである。とすれば私たちは世俗化のな かで、﹁浄土真宗﹂を名乗る﹁諸教﹂に陥ること、﹁諸宗﹂という意味のイデオロギーに取り込まれること、﹁真宗﹂ を見失うことにこそ深い危機感をもたなくてはならないのである。﹁教﹂という宗教的事実がもっ意味が見失われて 世 俗 化 の 中 の ﹁ 顕 真 実 教 ﹂ 五 七

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世 俗 化 の 中 の ﹁ 顕 真 実 教 ﹂ 五 八 いる今日こそ、親驚の﹁顕・真実教﹂という教学の営為に立ち返る必要があると思う。 註 ︵ 1 ︶世俗化という概念が、聖・俗を区別する西欧︵とくにキリスト教︶のものであって、仏教、なかでも浄土真宗のあり方 を考えていくときに適当なタ l ムであるかどうか問題も残る。しかし浄土真宗もふくめ日本の宗教がおかれている今日的 な 課 題 を よ く 言 い 当 て る 概 念 で あ る こ と は 疑 え な い 。 石 田 に よ れ ば 、 ﹁ ﹁ 世 俗 化 ﹂ と い う 概 念 は 暖 昧 で あ り 、 多 義 的 で あ る 。 元来それは、﹁宗教と社会変動﹂の問題をめぐって一般化され、当初は現代社会における宗教の影響力の衰類を意味する ものであったが、その後いろいろな角度から検討され、今日では宗教の非教会化、個人化を意味すると考えられるように なり、とくに一部のキリスト教神学者によって、聖書的信仰の帰結として、積極的に意味付けられている﹂︵﹁世俗化の中 の宗教﹂、﹁親驚の思想﹄二七四頁︶とされる。元来、﹁世俗化﹂とは宗教社会学で使用されるようになって概念で、林淳 は ド ベ ラ l レの﹁社会全体を大きくおおう超越的宗教システムが、社会の他のサブシステムと並ぶ一個のサブシステムと 並ぶ一個のサブシステムとなり、社会をおおった宗教からの要請が縮小する社会的なプロセスをさす﹂という定義を﹁長 年にわたる世俗化をめぐる議論の成果が生かされた偏りのないものであり一定の評価を得ているものである﹂としている。 ︵ 林 淳 ﹁ 日 本 宗 教 史 に お け る 世 俗 化 過 程 ﹂ 、 ﹃ 現 代 宗 教 学 4 権威の構築と破壊﹂所収、三七三八頁参照︶果たして、こ のような宗教社会学の概念をもちいることが適当であるかどうかはわからないが、もしもこの﹁社会的なプロセス﹂を社 会システムだけに限定するのではなく、社会における宗教的関心の縮小という視点から捉えなおすことができるならば、 ﹁宗教的関心を喚起する教が世俗的関心に立つシステムのなかのひとつのサブ・システムに置き換えられてしまうという プロセス﹂もしくは、﹁宗教が世俗のサブシステムの一つとなり宗教的関心を喚起することができなくなる社会的事態﹂ を示す概念として取りあげることができるのではないか。また石田は同書において、親驚の﹁非僧非俗﹂にこの世俗化の 中に﹁この世の唯中での超越的なものとの出会﹂う宗教的あり方を見ていこうとする。つまり聖と俗ではなく、僧と俗と いう二分法である。ここでは詳しく取りあげることはできないが、﹁世俗化﹂を批判する視座を聖や僧にではなく﹁真﹂ においたのが親驚であろう。その意味では、親驚は、宗教を聖か俗か、もしくは僧か俗か、という二分法でおさえるパラ ダイムから、仏教における伝統的な真俗という二分法を通して、さらに﹁真﹂か﹁俗︵仮・偽︶﹂かという範騰に立って 宗教の現実をみていくというパラダイムへの転回を要請しているといえよう。その意味で、佐々木月樵が、親驚のあきら かにした仏教、真宗を﹁真を宗とする仏教﹂と定義したことは示唆的である。 私は、世俗化を、浄土教の文脈のなかで押さえるとすれば、﹃論註﹄冒頭にあげられる五難などから浄土﹁外道化﹂﹁自

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力化﹂ということが相当するのではないかと考えている。 ︵ 2 ︶ 石 田 慶 和 ﹁ 世 俗 化 の 中 の 宗 教 ﹂ 、 ﹃ 親 驚 の 思 想 ﹂ 二 七 四 頁 。 ︵3︶イデオロギーという用語で私が思い浮べているのは、仏教でいうところの﹁執﹂である。とくに分別起の我執・法執と いわれるような後天的に与えられた意識を規定する自我と諸存在についての観念である。﹁イデオロギー批判は、わたし たち自身を呪縛するイデオロギー的思考を問いなおし、ひいては社会全体のイデオロギー的呪縛をも考察するものであ る 。 ﹂ ︵ T ・ イ l グルトン﹃イデオロギーとは何か﹄、平凡社ライブラリー、一九九九、大橋洋一﹁解説﹂四六八頁︶と、 イlグルトンがいみじくも言うように、一時、イデオロギーの終罵ということもいわれたが、もしイデオロギーが観念に よる人間の意識・思考の呪縛を意味するなら、今日なおイデオロギー批判という課題は終わっていない。また、原理主義 と世俗化をイデオロギーという概念で括ることにも問題を感じないわけではないが、現代人と共有できる適当な言葉をい ま の と こ ろ 知 ら な い 。 ︵4︶たとえば石田氏は、﹁﹁世俗化﹂が、簡単に言って宗教的世界観・人間観からの解放を意味し、それにかわる自然科学的 世界観・人間観の確立を促進するもの﹂︵﹁世俗化の中の宗教﹂、二七六頁︶と、自然科学にもとづく観念が現代における 世 俗 化 の 本 質 と い う 見 方 を し て い る 。 ︵6︶世俗化のもつ問題を石田は次のようにおさえている。﹁かけがえのない個々の経験を、すべてくりかえしのきく一般的 な事柄に還元してしまうならば、人間の生存の音信咋や根拠も見失われざるを得ない。現代の人聞が、自らの生きがいの喪 失 を 訴 え る の も 、 こ う し た 事 態 と 無 縁 で は な い の で あ る 。 ﹂ ︵ 石 田 同 掲 書 ﹁ 世 俗 化 の 中 の 宗 教 ﹂ 二 二 七 頁 ︶ ︵7︶たとえば、﹁﹃わたくしはこのことを説く﹄ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執着を執着であると確 かに知って、諸々の偏見における︵過誤を︶見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た o ﹂ ﹁ ヴ ェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至るころがない。かれの本性はそのようなものでないからで ある。かれは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。かれは執着の巣窟に導き入 れ ら る こ と が な い 。 ﹂ ︵ 中 村 元 ﹃ ブ ッ ダ の こ と ば ﹂ 、 岩 波 文 庫 、 一 八 六 一 八 八 頁 ︶ な ど が あ る 。 真宗については、﹁すべて行者のはからいなきをもちて、このゆえに、他力には義なきを義とすとしるべきなり﹂﹁よし あしの文字をしらぬひとはみなまことのこころなりけるを善悪の字しりがおはおおそらごとのかたちなり是非し らず邪正もわかぬこのみなり小慈小悲もなけれども名利に人師をこのむなり﹂︵﹃正像末和讃﹂︶などが思い浮かぶ。 ︵ 8 ︶ ﹁ 化 身 土 巻 ﹂ ︵ ﹃ 定 親 全 ﹂ 一 、 ﹃ 教 行 信 証 ﹄ 一 一 一 八 O 頁 ︶ 段 落 分 け は 筆 者 が 行 っ た 。 世 俗 化 の 中 の ﹁ 顕 真 実 教 ﹂ 五 九

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世 俗 化 の 中 の ﹁ 顕 真 実 教 ﹂ 六 O ︵9︶﹃日本思想体系一五 ︵ 日 ︶ ﹃ 同 左 ﹄ 一 一 一 一 一 一 頁 ︵日︶﹃望月仏教大辞典﹂の﹁宗巴

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﹂の項に﹁是れ諸教に各其の崇ぶ所の主旨同じからざるものあるを名づけて宗と な す の 意 な り ﹂ と あ る 。 ︵ ロ ︶ ﹃ 定 親 全 ﹄ 一 、 ﹃ 教 行 信 証 ﹄ 二 一 八 O 頁 。 ︵日︶ここでいう﹁世俗化﹂は現代の狭い定義には当てはまらないかもしれないが、﹁宗教﹂が﹁宗としての教﹂の本質を失 っていくことという広い意味でとらえるならば、承元の専修念仏弾圧も﹁世俗化﹂の結果であったということができる。 ﹁洛都の儒林﹂の左訓がもっ意義は広瀬呆によって注目された。最近では、篠弘信が﹁非俗﹂の﹁俗﹂を﹁洛都の儒林﹂ に 配 当 す る 視 点 を 提 起 し て い る 。 ︵ ﹁ 親 驚 教 学 ﹂ 七 六 号 、 五 二 頁 ︶ ︵U︶﹁安田理深講義集 5 親 驚 の 宗 教 改 革 ﹄ 弥 生 書 房 、 一 九 九 八 、 二 二 頁 。 ︵ 日 ︶ 輿 福 寺 奏 状 で は 、 ﹁ 宗 ﹂ を 以 下 の 視 点 か ら お さ え て い る 。 ﹁ 諸 宗 ﹂ 、 ﹁ 自 宗 ﹂ 、 ﹁ た と ひ 功 あ り 徳 あ り と い え ど も 、 す べ か ら く 公 家 に 奏 し て 以 て 勅 許 を 待 つ べ し 。 私 に 一 宗 と 号 す る こ と 、 甚 だ 以 て 不 当 な り 。 ﹂ ︵ 日 本 思 想 体 系 ﹃ 鎌 倉 旧 仏 教 ﹄ 一 二 三 頁 抜 粋 ︶ 。 ︵ 日 ︶ 同 右 、 四 一 頁 。 ︵

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︶ ﹁ 専 修 は 深 く 諸 宗 を 嫌 い 、 同 座 に 及 ば す ﹂ ︵ 同 右 四 一 頁 ︶ 。 ︵同︶この﹁真宗の教証﹂という独自の表現が、後序の﹁浄土真宗証道今盛﹂という句と呼応していることはあきらかである。 ﹁ 浄 土 真 宗 一 証 道 ・ 今 盛 ﹂ H ﹁真宗教証・興﹂ここに押さえられる﹁教証﹂とは、教行証の略ではなく、おそらく法然が明 らかにした教の本質をあらわすものである。つまり、証を結果として期待する教ではなく、教が証の実現であるような教 を示そうとしたのであろう。この節の後序の考察については、広瀬呆の﹃序説浄土真宗の教学﹄﹃序説浄土真宗の教 学 ︵ 続 ︶ ﹄ ︵ 文 栄 堂 ︶ な ど を 参 照 に し た 。 ︵川口︶先輩たちの問題提起に注目するだけでも、﹁大無量寿経真実之教浄土真宗﹂という標挙の﹃教行信証﹄における位 置、標挙にあげられた﹁真実之教﹂と﹁浄土真宗﹂の関係、﹃教行信証﹄の六巻のなかで﹁教巻﹂の標挙にだけ願名があ げられなかった理由、標列において序教が置かれる意味。とくに教について﹁顕真実教こと﹁一﹂とされる意味。親 鷺が﹁無量寿経﹂の発起序の文だけをもって真実教を証明しようとする意義、二尊が弥陀・釈迦の次第で記述される意味、 引証の文における独自の訓みなど、その疑問は枚挙に暇がない。それらを丁寧に読み解くことが必要である。 鎌 倉 旧 仏 教 ﹂ 、 岩 波 書 店 、 一 九 七 O 、 三 二 頁 ︶

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︵ 初 ︶ ﹃ 定 親 全 ﹂ 一 、 ﹃ 教 行 信 証 ﹄ 九 頁 、 原 漢 文 。 ︵ れ ︶ ﹃ 定 親 全 ﹄ 一 、 ﹃ 教 行 信 証 ﹂ 一 五 頁 、 原 漢 文 。 ︵幻︶西本願寺本では、﹁爾者︵しかれば︶則此の顕真実教の明証也﹂とあり、高田本では﹁爾︵し︶者則此の真実教を顕す 明 証 也 o ﹂と﹁真実教を顕す﹂と訓じている。藤場俊基は﹁則﹂は論理的逆転を許さない接続詞であることに注意し、つ まり、どこまでも真実の教をあきらかにすることを求めたら﹃大無量寿経﹂に行き着いたということであり、その逆では な い こ と を 指 摘 し て い る 。 ︵ ﹃ 親 驚 の 教 行 信 証 を 読 み 解 く 1 教 ・ 行 巻 ﹄ ︵ ︵ 明 石 書 一 一 、 一 九 九 八 、 一 O 八 頁 ︶ ︶ ︵ お ︶ ﹃ 定 親 全 ﹄ 一 、 ﹁ 教 行 信 証 ﹄ 七 頁 、 原 漢 文 。 ︵

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︶広瀬呆氏は、﹁単に金六巻中の一巻としての﹁教巻﹂の標挙であるということではなく、むしろこの一句を﹃教行信証﹄ 全 巻 の 標 挙 と し て 置 い た も の と 了 解 す べ き で あ ろ う 。 ﹂ ︵ ﹃ 真 宗 救 済 論 ﹂ 、 法 蔵 館 、 一 九 七 七 、 九 七 | 九 八 頁 ︶ と 述 べ 、 こ の 見 解 に 関 わ る 詳 し い 注 記 を 付 し て い る 。 ︵お︶﹁教行信証﹂高田本によれば、標挙と標列は総序と教巻の聞に配置される。西本願寺本には総序の後に標挙と標列が、 そ し て 教 巻 の 終 り に あ ら た め て 標 列 が お か れ い る 。 ︵ お ︶ ﹁ ︷ 疋 親 全 ﹄ に 記 載 さ れ た 註 に は ﹁ [ 高 ] ﹁ 顕 真 実 教 ﹂ と 送 る o ﹂ ︵ ﹁ 定 親 全 ﹂ 一 、 一 五 頁 ︶ と あ る 。 ︵ 幻 ︶ 坂 東 本 で は 、 ﹁ 固 定 ﹂ を 抹 消 し て ﹁ 此 の ﹂ が 上 書 き さ れ て い る 。 西 本 願 寺 本 で は ﹁ 此 の 顕 真 実 教 の 明 証 也 ﹂ と な っ て い る 。 高田本では、﹁此﹂が﹁是﹂になっているし、また返り点だけでなく訓みも左側に付してあり、しかも後に付加された別 筆のように見える。その意味では訓は補記に過ぎず、本来は﹁是の顕真実教の明証也﹂と読むべきなのであろう。 ︵お︶﹁顕真実教﹂という用語に注目した論文として一楽真﹁顕真実教の明証﹂︵大谷学報第七五巻第三号、一九九六年一月 発 行 ︶ な ど が あ る 。 ︵ 刊 日 ︶ 金 子 大 栄 は 真 実 教 の 根 拠 が 発 起 序 で あ る 意 味 に つ い て 、 ﹁ 宗 祖 は と く に 経 典 の 序 分 に 留 意 せ ら れ た 。 ︵ : ・ 中 略 : ・ ︶ 両 経 の 内容よりも、先づもって序分の発起因縁に求められねばならない﹂︵金子大栄著作集、別巻一一、一五七・一五八頁︶と指 摘 し て い る 。 ︵初︶さて﹁本願を説く﹂ということを﹁宗致﹂とする経だからこそ、そのような経の基﹁体﹂となるのは﹁仏の名号﹂なの である。ちなみに﹃浄土文類衆紗﹂でもまったく同じ表現がとられている。 ︵ 幻 ︶ 法 蔵 館 ﹃ 仏 教 学 辞 典 ﹂ 。 ︵ 認 ︶ 安 富 信 哉 ﹁ ﹃ 教 行 信 証 ﹂ 世 俗 化 の 中 の ﹁ 顕 真 実 教 ﹂ へ の 序 論 ﹂ ︵ 一 九 九 六 年 安 居 次 講 講 録 、 東 本 願 寺 出 版 部 、 一 九 九 九 年 ︶ 福 島 光 哉 ﹁ ﹃ 楽 邦 文 類 ﹂ ム ノ、

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世 俗 化 の 中 の ﹁ 顕 真 実 教 ﹂ の 研 究 ﹂ 、 一 九 九 六 年 安 居 次 講 講 録 、 東 本 願 寺 出 版 部 、 ︵ お ︶ ﹃ 定 親 全 ﹂ 一 、 ﹃ 教 行 信 証 ﹄ 総 序 、 七 頁 、 原 漢 文 。 ︵ 鈍 ︶ ﹃ 定 親 全 ﹂ 一 、 ﹃ 教 行 信 証 ﹄ 化 身 土 巻 、 三 OO 頁 、 原 漢 文 。 ︵ お ︶ ﹃ 定 親 全 ﹂ 一 、 ﹁ 教 行 信 証 ﹄ 化 身 土 、 三 八 三 一 頁 、 原 漢 文 。 ︵ お ︶ ﹃ 安 田 理 深 選 集 ﹄ 第 十 五 巻 上 、 ﹁ 総 序 聴 記 ﹂ 、 三 頁 。 一 九 九 九 年 ︶ な ど 参 照 。 ム ノ、

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