“They are too pure to have a market value; they contain no muck.” and
“Nature has no human inhabitant who appreciates her.” (“Walden”, p.130).
This essay focuses on the understanding ways of relationships among “the Cosmos (Ten)”, “the Earth (Chi)” and “the earnest-Cosmopolitan (Jin)”, each of them related each other and affects the Agri-Cultural sustainability.
We should make much of our local senses for values and succeed them. It is hard to transform them according with the change of the times, for they had been formed by the enormous quantity of times and efforts. However, they lost easily in such a unique socio-ecological condition that is so-called the rapid economic growth and the following drastic changes of lifestyles.
This essay focuses on such a condition, and argues how we can create or re- create the new “Agri”-Cultural Ethos.
There might be many recovering ways of the natural environment, but at least one way is necessary to ahead the process, which is the symbolic form of the local inherent Ethos had been incorporated into the local society for
*
東北文化学園大学 総合政策学部 教授
自然的価値の認識手段としての「農」
―新たな「農」の文化的風土をいかに創造するか―
秡川信弘
*“Farming” as the recognizing method of the Nature value
- How can we create the new “Agri”- Cultural Ethos? - HARAIKAWA Nobuhiro
long time. For example, it appears clearly in the Japanese rice varieties. The consumers select the specific rice variety, and as the result, they select the specific natural environment corresponding to the specific farming system.
Though, the almost all of the traditional farming system had been lost already, and changed to the present types which take the new forms influenced by the agricultural calendar and also the foods market systems, but the local inherent Ethos is not changed essentially.
The Edo-era farmers, who lived in Aidzu-district, managed their farming systems using the way of their Cosmos, getting the benefit from their Earth and burning out their Activities. Contrasting with them, the present farmers, who have to hold many external factors (greater handicaps compared with other industries), are incorporated with the marketing system and it's too difficult for them to succeed the Edo-era's farming system as it was. But, above all of the difficulties, the transcendental adventures such as Thoreau's bean cropping at “a half cultivated field” and also our “half commercial” test marketing in the university's convenience store, we can experience the same feeling as the Edo-era's farmers felt in cold summer or Mishirazu-gaki (a variety of persimmon) farmers felt in 2016's spring. We believe that we can re-create the inherent “Agri”-Cultural Ethos, which is symbolized in the traditional farming system such as “Aidzu-Nousho”.
1.問題の所在
現代社会では,市場制度に馴染まないものが擬制的な値付けの対象とされ る1). 評価の根拠は意識調査の回答に求められるが,回答者自身は年齢,性別,
職業,居住地,収入等の属性によって識別され,価値判断に関する思考過程 は分析の枠外に置かれている . 支払意思額(WTP:willingness to pay)の推定 方法におけるバイアスを回避するための基本設計は,意思決定過程を明確に
1) 例えば,暑寒別手売焼尻国定公園の雨竜沼湿原において,「湿原植生が50% 回復すること」に対
する支払意志額は,登山口で配布・郵送回収された調査の結果から「平均2,395円」と推定されてい
る(栗山他[2005], pp.146-157).
する性質のものではなく,個人の思考過程は闇(black box)の中に残された まま集団の意識が数値化されることが通例である . したがって,評価結果が 社会的影響を持つ場合には,調査方法のみならず思考過程への配慮が必要で あると考えられる2).
「環境」が価値評価の対象とされるように,現代の「農」は「環境負荷」や「多 面的機能」といった概念から特徴づけられる .「農」が肥料や農薬等の資材投 入による水域の汚染原因として注目され始めたのは,「農業の近代化」に象徴 される「化学化」・「機械化」など,高度経済成長の下で農業生産過程の変革が 進展した1960年代3)であった . その頃から,農業経営は労働生産性(省力化)
を追求する過程において「環境負荷」という外部不経済4)を量産し始めた . 第二次世界大戦という狂気に満ちた5)集団行動がもたらした旧秩序の崩壊 から,戦後復興を経て高度経済成長に至る新たな時代に希望を見出そうとし た人々が軽視した諸問題は多くの悲劇を生み出した6). 国家間の戦争に対す る真の反省に基づいて人と自然の戦いを俯瞰すれば,自然に敵対する征服型 農業7),つまり,農薬という武力に依存して作物に被害を及ぼす病害虫を攻 撃し,征服しようと試みる農業技術がもたらす環境コストの大きさを容易に 洞察することができたはずである8).
しかし,『農業白書』に「環境保全」や「多面的機能」が登場し始めたのは,
1990年代のことであり,その頃にはすでに農業・農村の持つ「多面的機能」に
2) この文脈から,陪審制を応用した市民審議会(citizen's jury)の手法を導入する「審議型貨幣評 価」 (deliberative monetary valuation)は注目に値する(伊藤・竹内[2011],pp.54-73).
3) 燃
エネルギー源輸入,技術革新,GNP の成長,生活様式の変革などをともなう工業化・都市化が急速に進
展し,京浜,中京,阪神,北九州等での都市型公害が顕在化した時代である .
4) 公害等が社会問題化し,税を財源とする施策が講じられるなどの迂回的経路を介して初めて外 部不経済としての環境コストは,社会的コストに転化しうる .
5) 個人の正常な思考過程が抑圧されやすい社会状況にあったと考えられる .
6) 水俣病は肥料製造における典型的悲劇である .1956年5月,新日本窒素肥料水俣工場附属病院が 原因不明の中枢神経疾患の症例を水俣保健所に報告 .1959年7月に熊本大学水俣病研究班が原因 物質を有機水銀と発表し,同年10月には工場排水を投与した猫に水銀中毒症状を確認して工場責 任者に報告したが,工場側は公表を禁じた . 原因物質がメチル水銀化合物であると公式認定され たのは1968年9月26日であった .
7) 「対照的な二つの対環境戦略,「共生型戦略」と「征服型戦略」のいずれがより優勢であったかは,
時代や場所によって異なっていた」 (鷲谷[2004], p.64).
8) 1971年,公害防止,自然環境保護・整備等の環境保全行政を総合的に推進する環境庁が設置され,
日 本 有 機 農 業 研 究 会 が 発 足 し た . ま た,朝 日 新 聞 に 連 載 さ れ た『 複 合 汚 染 』 (1974.10.14 ~
1975.6.30)は扇情的であった .
対する臨場感は過去のものとなっていた9). 生い の ち命の風景が「もはや永遠に存 在しえない10)」ものだとすれば,現実的感覚と乖離した方向を目指す環境科 学的手法による解明は不毛な結果に終わる公算が高い . それでは,政策変革 の手法であるはずの総合政策学は,1960年代まで継承されていた「生命(い のち)の風景」を回復するための新たな「農」の文化的風土をいかに創造すべ きなのだろうか .
2.農林水産省による農業環境施策の基調
1990年代以降の農業環境施策の基調は,概略以下のように総括される11).
(1)「新政策」の中に「環境保全型農業」の推進を明記し(1992年度),生産性 と環境負荷の軽減との調和に配慮した持続的な農業を推進した .(2)「食料・
農業・農村基本法」を制定し(1999年度),①農薬・化学肥料の適正使用,②家 畜排泄物の有効利用・地力増進,③農業の自然循環機能の維持・向上 . ④「エ コファーマー」の設定・支援を行った .
また,(3)「農業環境規範」を創設し(2005年度),①土づくり,②施肥・防 除の適正化,③廃棄物処理の適正化,④エネルギー節減による環境調和型の 取り組みを推進するための制度的枠組みの構築を図った .(4)「有機農業推 進法」を制定し(2006年度),①技術体系の確立,②普及指導体制の整備,③ 消費者による理解の促進,④有機 JAS 認証手続きの簡素化,⑤有機農業の面 的拡大を目指した .(5)「農地・水・環境保全向上対策」を展開し(2007年度),
①地球温暖化防止や生物多様性保全に高い効果を持つ営農活動の導入促進,
②化学肥料・農薬の低減を目指す地域的取り組みを支援した .
さらに,(6)「環境保全型農業直接支援対策」を展開し(2011年度),①化学 肥料・農薬の低減と②地球温暖化防止や生物多様性保全の併進を支援し
9) 桑子[2013]は,荒川中流域における1950 ~ '60年代前半の記憶の中の「生命の風景」を「清冽な 水のなかに,巨大なカラスガイが横たわり,バラタナゴが数限りなく泳ぎまわっていた(中略)川 岸には,細かな砂だまりがところどころに広がり,その手触りはなんともいえないやわらかなも のだった」と描写している(桑子[2013],pp.53-54).
10) 「そのような風景はもはや失われた . 気の遠くなるような昔から存在した生命の風景は,もはや 永遠に存在しえないかもしれない」 (桑子[2013],pp.54)
11) 農林水産省「環境保全型農業の推進について」 (2017年4月).
た .(7)新たな「食料・農業・農村基本計画」を策定し(2015年度),①地域の 気象・土壌条件等に合う有機農業技術体系の確立・普及,②実需者と生産者 のマッチング等による生産拡大,③「農業の有する多面的機能の発揮の促進 に関する法律」に基づく環境保全型農業直接支払制度の活用,④地域的まと まりを持つ環境保全型農業の取り組みの推進,⑤農業者の技術向上 . ⑥消費 者の理解促進活動の推進,⑦生産者と実需者のネットワークの構築,⑧多様 な販路の構築を推進した .
以上の結果,環境保全型農業12)は,エコファーマー13)が約155,000戸(6.13
%
14)),特別栽培15)農家が約44,000戸(1.74
%
),有機 JAS 以外の有機栽培農家が約8,000 戸(0.32%
),有機 JAS 認証16)取得農家が約4,000戸(0.16%
)など全体で約21万 戸(8.3%
)強となっている . また,国際社会は地球温暖化防止や生物多様性保 全を重視する方向にシフトしつつあり17),環境保全に向けた農業者の意欲も 高まっている18). そのような状況を承け,農林水産省は環境農業者が直面し ている技術や販路の問題19),環境保全に貢献したいという購入理由が1割に 満たない20)消費者意識等を向上するために,有機農産物の生産者と実需者の 連携を促進し,新規就農者の定着や地域的生産供給拠点の構築を図る「安定12) 環境に配慮して営まれる農業生産方式の総称であり,①有機 JAS 規格の認定有機農産物は当然 のことながら,②当該規格が未認定であっても化学肥料や化学合成農薬不使用の農産物,および
③特別栽培農産物等のすべてを含む(「オーガニック・エコ農業」).
13) 「持続性の高い農業生産方式の導入に関する法律」に基づき,土づくり,化学肥料及び化学合成 農薬の使用低減技術の導入に取り組む農業者の総称 .
14) 全国の総農家数(約253万戸)に占める割合を百分率で示している(以下,同様).
15) 堆肥等による土づくりに加え,化学肥料と化学合成農薬を地域の慣行水準と比べて「相当程度」
低減する栽培法である .
16) JAS 法に基づく「有機 JAS」規格を満たす農産物の生産者 .
17) 近年,「地球温暖化防止や生物多様性保全への対応が急務となる中で,(中略)地球温暖化防止 や生物多様性保全に効果の高い取組も推進」 (農水省[2017],p.3)
18) 有機農業の取り組みに対する潜在的ニーズは高く,新規就農者の3割,慣行農業者の5割(但し,
条件次第)が有機農業を希望しているとされ,2009-2015年度に面積は16,000ha から26,000ha に増 加(62.5% 増)しているが,有機 JAS 取得率は56.8% から38.3% に低下している(農水省[2017],p.6, 15-16).
19) 労力,収量・品質,資材コスト,販売価格等がオーガニック・エコ農業実践者の直面する現実的 な問題として示されている .(農水省[2017],p.21)
20) 「環境に配慮した農産物を購入している又は購入したいと思う理由」を尋ねた質問に対して, 「安
全だと思う」を選んだ消費者が「特別栽培農産物等」および「有機農産物」でともに約76.0% である
のとは対照的に,「環境保全に貢献したい」を購入理由として選んだ消費者は,前者で3.9%,後者
では2.3% にすぎなかった .(農水省[2017],p.21)
供給体制構築事業」を実施している . さらに,農業環境対策課が事務局となり,
産学官連携ビジネスの展開に向けたネットワーク21)も構築されている . しかし,日本の有機農業の面積と農家数はともに1% 未満の水準にとどま り22),市場規模でも EU3.6兆円(独1.16兆円,仏0.74兆円など),米国3.8兆円 に対し,0.13兆円となっている23)(2015年). さらに,国民1人当たりの年間 消費額から見ても EU の7,212
円/年人
24)に対して日本はわずか1,074円/年人
にす ぎない .このため,国(農水省)は地域の気象や土壌に適した技術を開発・普及して 生産や品質を安定化させることを政策指針とし,JAS 有機認証取得手続き の簡素化や販路の確保等に取り組み,有機農産物の生産,流通および消費量 を拡大して2018年度までに有機農業の面積を1.0% にするという数値目標を 設定している . また,多面的機能関連の政策手段として「多面的機能発揮促 進法」(2015年)を施行し,有機農業25)を対象に含む「日本型直接支払制度」を 実施している26).
3. 地域学(仙台學)的視点-政策転換に向けた展望
3-1 仙台學の定義
佐藤[1999a]は河川行政において培われた学識と経験をふまえ,仙台にお ける「水の文化史」を掘り起こした . 川を知ろうとする者は「流域」を見よ(佐 藤[1997a],p.4)という理念に基づく「仙台學27)」の体系的思考は伊能忠敬を 彷彿させる丹念な踏査,聞き取り,古文書や古地図の解読を通して「雄大に
21) 例えば,NOAF:network for organic eco agriculture and food lifestyle Nippon.
22) 有機栽培による農地面積は約26,000ha(環境農業対策課調査値,2015年現在),有機農業に取り 組む農家数は約12,000戸(2010年世界農林業センサス). 有機 JAS 認証取得農家数は約4,000戸
(0.32%)であり,栽培面積は9,956ha(0.23%)とされている .
23) 有機農業の面積割合は日本の0.6%(2015年度)に対し,欧州ではイタリア10.8%,ドイツ6.3%,
フランス4.1%(2014年現在)である .
24) EU 非加盟国であるスイスの年間消費額は35,189円/年人である .
25) 「環境保全型農業直接支払」の支援対象となる「有機農業」は生物多様性保全に効果の高い営農 活動とされており,交付単価は8,000円/ 10a である .
26) 「環境保全型農業直接支払交付金」の2016年度実施面積は,総農地面積の約2%相当の85,320ha(有
機農業は14,427ha(16.9%))と推定されている .
して緻密」(佐藤[1999b],p.3)な「水の文化」という共有の遺産を保全しよう とする価値観であり,地球環境問題を考えるために「地域の諸問題を見つめ なおす」(佐藤[1997a],p.4)という方法論である . 迂回的ではあるが,膠着 した我国の農業環境政策の現状を変革するために,足元にある水道(みずみ ち)の来し方,行く末に着目しながら地域の自然と文化を継承する方法論を 佐藤[1999b]の「仙台學」から学びたい .
3-2 仙台學の生きた教材としての四ッ谷用水
四ッ谷用水は日常生活と密接にかかわっていた . 地下水の涵養(井戸水源),
消火,炊事・洗濯,生活排水,夏の散水と冬の雪捨場,庭池への導水,豪雨時 の洪水防止機能等ばかりではなく,数百町歩の水田を潤す農業用水機能を果 たし(佐藤[1999],p.3),城下に暮らす人々にとって,四谷用水は治水・利水 の両面で生活に欠かせない機能をはたす生命(いのち)の水路であった . また,通常は空堀状態で水運に利用する際に注水して城下消費量の7 ~ 8 割(4 ~ 5万 t)の米を運んだ「船ふな曳ひき堀ぼり28)」運河への注水機能の一部を四ッ谷用 水が補完したとされており(佐藤[2017],p.22),四ッ谷用水は梅田川(平ひら渡わたす 戸ど川)を介した運河への給水面から藩運営を支えたと考えられる . さらに,後 述のように降水量の季節・年次変動は大きいため,寡雨等のために梅田川の 流量が低下した場合にはその補完機能が重要な役割を果たしたと考えられる
29). ここで,運河幅5間,水深5尺,延長4.5km の船曳堀の満水量は約6万 m3 と推定され,1日で満たすには0.7 m3/s の流量が必要であるが(佐藤[2007],
pp.62-63),四谷用水の流量は覚性院丁付近で112,233 m3/day(1.3 m3/s)であ り,そこに北山水系からの流量44,029m3/day(0.5m3/s)も付加される(合計 156,262m3/day,1.3m3/s+0.5m3/s=1.8m3/s)とすれば,その一部が地下浸透や
27) 「本書は,この雄大にして緻密な仙台藩の水の文化史を,「仙台學」の基本にすえて,追跡・研究・
評価を行おうとした」 (佐藤[1999b],p.3).
28) 四ッ谷用水によって広瀬川を梅田川につなぐ「総合開発計画」の一環として寛文年間(1670 ~ 73年)に開鑿された福室と苦竹を結ぶ運河である .(佐藤[1999a],pp.66-67. 佐藤[1999b],pp.44- 49).
29) 例えば,佐藤[1997a]は「公共水域水質測定結果」資料を再集計し,水質測定時に観測された流
量に基づいて,大田見橋での梅田川の1983年~ 1994年の11年間の平均流量を0.22 m
3程度とした
上で,1987年の流量が0.11m
3であり,冬季には「0.05や0.07立方米などの最小流量」が生じている(佐
藤[1997a], pp.61-62)ことを明らかにしている .
蒸発散または分流等によって減水したとしても,相当量が梅田川に流入した
30)と推定される(同上書,p.60). 人口が1/20程度(5万人)で1人当たり水使 用量も低かったとはいえ,大規模ダムと溜池との間には102~ 103程に及ぶ 貯水量格差がある31). そのため,仙台城下に暮らす人々は旱魃時に広瀬川か らの取水量が極度に低下することや四谷用水の流路が土砂崩落によって遮断 されることを恐れていたと考えられる . したがって,そのような緊急事態に 備えた危機管理対策が存在したと考えられる32).
3-3 安定的な流量確保の困難さ-降水量の変動と水路の寸断-
佐藤[2007]は,仙台市下水道の第二期工事(1925年~)の際の測定値を引 用し,覚性院丁付近の四ッ谷用水の流量を112,233 t/day(1.3 t/s)としてい るが,その数値は四谷用水の平常時の流量を示すものであると考えられる . 気 象庁の資料が利用できる過去90年間の降水量(図1)調査に基づいた場合,仙 台の降水量には大きな年次変動が認められ,大規模ダムのなかった江戸時代 には渇水時の四ッ谷用水の流量確保が重要な課題であったと考えられる . そ の点に関して,佐藤[2007]は「小松島(海老沼)や与兵衛沼等の池沼からの水」
の合流という表現を用いて北山水系からの流入に着目している(佐藤
[2007],p.62). その補完システムの範囲を拡張すれば,国見丘陵水系からの 流入を考慮することも可能であろう . 佐藤[2007]は「大崎八幡宮西側と半子 町上手疱ほう瘡そう神しん近くには貯水池が築造され,大火の際などに四ッ谷用水の水量 を補い」(佐藤[2007],p.29)という史料を紹介しているが33),それは「大火」
時に限定される機能ではなかったと考えられる . また,城下絵図には八幡宮 西側や疱瘡神近くの溜池以外にも,「溜池」ではないかと推定される表示が複 数箇所存在することを確認しうる .
30) 四谷用水本流は御城下で分流し,新田上流で再び還流するなど流路は複雑であるが,溜池や湧 水から相当量が流入・補填されていたと考えられる .
31) 宮城県が管理する「大倉ダム」の貯水量は1,394万 m
3であり,国土交通省が管理する「七ヶ宿ダ ム」の貯水量は6,127万 m
3である .
32) 火災(大火)発生時には,二人体制の「小水配」のうちの一人が下役と20人の実働部隊(人夫)を 率いて水源(溜池)に駆けつけたとされている(佐藤[2007],pp.29-30,原典は,明治25年(1892年)
1月26日付「東北新聞」).
図1 仙台市における年間降水量の推移 1927年~ 2016年
出典:気象庁「気象データ
34)」
仙台市における年間降水量の年次変動は,1927年(昭和2年)から2016年(平 成28年)までの90年間で,最小814mm(1973年),最大1,892mm(1950年),
年間1,000mm(-1σ=1,001mm)以下が13年(14%),1,500mm(+1σ=1,464mm)
以上が11年(12%)と変動している . また,月別変動係数は0.43(6月)~ 0.85(12 月)の間に分布し,従来の田植期であった6月の変動係数は年間最小(0.43)で あるが,90年間の月間降水量は最小48mm(1933年)と最大351mm(1954年)
で7倍強の開きがあり,月間80mm(-1σ =81.8mm)以下の年が20年(22%),
月間210mm(+1σ =206mm)以上の年も14年(16%)となっている(図2).
1691年~ 1709年(元禄4年~宝永6年)における会津地方の気象概況を記 録に残している『会津農書附録35)』にも旱魃や長雨等が頻繁に記載されてお り36),江戸時代において農作物に被害をもたらす気象状況が頻発していたこ とは想像に難くない . とりわけ,地すべり地帯の「放山」を隧道で通過する
8
図 1 仙 台 市 に お け る 年 間 降 水 量 の 推 移
1927年 ~
2016年
800 900 1,000 1,100 1,200 1,300 1,400 1,500 1,600 1,700 1,800 1,900
1 4 7 10 13 16 19 22 25 28 31 34 37 40 43 46 49 52 55 58 61 64 67 70 73 76 79 82 85 88
降
水 量
mm
出 典 : 気 象 庁 「 気 象 デ ー タ
34」
仙 台 市 に お け る 年 間 降 水 量 の 年 次 変 動 は ,
1927年( 昭 和
2年 )か ら
2016年( 平 成
28年 ) ま で の
90年 間 で , 最 小
814mm(
1973年 ), 最 大
1,892mm(
1950年 ),
年 間
1,000mm( -
1σ =
1,001mm)以 下 が
13年(
14%),
1,500mm( +
1σ =
1,464mm) 以 上 が
11年(
12%)と 変 動 し て い る .ま た ,月 別 変 動 係 数 は
0.43(
6月 )~
0.85(
12月 )の 間 に 分 布 し ,従 来 の 田 植 期 で あ っ た
6月 の 変 動 係 数 は 年 間 最 小(
0.43) で あ る が ,
90年 間 の 月 間 降 水 量 は 最 小
48mm(
1933年 )と 最 大
351mm(
1954年 ) で
7倍 強 の 開 き が あ り ,月 間
80mm( -
1σ =
81.8mm)以 下 の 年 が
20年(
22%),
月 間
210mm( +
1σ =
206mm) 以 上 の 年 も
14年 (
16%) と な っ て い る ( 図 2 ).
1691
年 ~
1709年 ( 元 禄
4年 ~ 宝 永
6年 ) に お け る 会 津 地 方 の 気 象 概 況 を 記 録 に 残 し て い る 『 会 津 農 書 附 録
35』 に も 旱 魃 や 長 雨 等 が 頻 繁 に 記 載 さ れ て お り
36, 江 戸 時 代 に お い て 農 作 物 に 被 害 を も た ら す 気 象 状 況 が 頻 発 し て い た こ と は 想 像 に 難 く な い .と り わ け ,地 す べ り 地 帯 の「 放 山 」を 隧 道 で 通 過 す る 四 ッ 谷 用 水 に お い て は ,気 象 災 害 に 加 え て 土 砂 崩 れ に よ る 断 水 も 発 生 し て い た と 考 え ら れ る こ と か ら ,水 源 確 保 お よ び 気 象 災 害 発 生 時 に お け る 危 機 回 避 策( 減 災 対 策 )は 仙 台 藩 の 最 重 要 課 題 の 一 つ で あ っ た と 考 え ら れ る
37.
34 http://www.data.jma.go.jp/ged/risk/obsdl/index.php
を
2017年
10月
11日 に 閲 覧 .
35
観 察 拠 点 は , 会 津 藩 「 鶴 ヶ 城 」 の 西 方 約
2.5kmに 位 置 す る 旧 「 幕 内 村 」 で あ る .
36
秡 川
[2016]参 照 .
37
佐 藤
[1997b]は , 与 兵 衛 沼 に つ い て ,「 四 ッ 谷 用 水 に 事 故 が 起 こ っ た 場 合 や , 大 旱 魃 の た め に 梅 田 川 の 流 量 が 減 少 し た 場 合 , そ の 存 在 は 大 き か っ た も の と み ら れ る 」 と 述 べ て い る ( 佐 藤
[1997b],
p.10).
33) 佐藤[2001]は,仙台藩の行政機構に組み込まれた用水管理のネットワーク・システムについて 消防を事例に説明している(佐藤[2001], pp.201, 210-211)が,その中に,小水配は「常日は水道筋 改役と号し,市中を廻勤し」という記載があることから,日常的に用水路のモニタリングを行って いたと考えられる . したがって,旱魃等によって用水路の水位が低下した場合には,大水配(郡奉 行)に報告がなされ,その結果としてしかるべき対応(溜池の出水口の開放など)が行われたと考 えられる .
34) http://www.data.jma.go.jp/ged/risk/obsdl/index.php を2017年10月11日に閲覧 .
35) 観察拠点は,会津藩「鶴ヶ城」の西方約2.5km に位置する旧「幕内村」である .
四ッ谷用水においては,気象災害に加えて土砂崩れによる断水も発生してい たと考えられることから,水源確保および気象災害発生時における危機回避 策(減災対策)は仙台藩の最重要課題の一つであったと考えられる37).
図2 仙台市における降水量の推移(6月) 1927年~ 2016年
出典:気象庁「気象データ
38)」
幕末動乱期の1866年(慶応2年),弘法山の崩落による賢かしこ淵ぶち(広瀬川)への大 量の土砂流出(賢かしこ淵ぶちが埋没する程の量であったとされている)という事態が 発生し,それにともなって四ッ谷用水が決壊したという史実が残っている . ま た,下流域の水田約300ha に対して,大崎八幡宮西脇の貯水池(八幡池)から 急場を凌ぐための放水対策が講じられたが,その影響は1877年(明治10年)
の小田原寶塘の竣工を経て四ッ谷用水改修工事の完成に至る1879年(明治12 年)までの10年間余りに及んだという記録も残されている39).
9
図 2 仙 台 市 に お け る 降 水 量 の 推 移 ( 6 月 )
1927年 ~
2016年
0 50 100 150 200 250 300 350 400
1 4 7 10 13 16 19 22 25 28 31 34 37 40 43 46 49 52 55 58 61 64 67 70 73 76 79 82 85 88 91
降
水 量
mm
出 典 : 気 象 庁 「 気 象 デ ー タ
38」
幕 末 動 乱 期 の
1866年 ( 慶 応
2年 ), 弘 法 山 の 崩 落 に よ る 賢
かしこ淵
ぶ ち( 広 瀬 川 ) へ の 大 量 の 土 砂 流 出 ( 賢
かしこ淵
ぶ ちが 埋 没 す る 程 の 量 で あ っ た と さ れ て い る ) と い う 事 態 が 発 生 し ,そ れ に と も な っ て 四 ッ 谷 用 水 が 決 壊 し た と い う 史 実 が 残 っ て い る .ま た , 下 流 域 の 水 田 約
300haに 対 し て ,大 崎 八 幡 宮 西 脇 の 貯 水 池( 八 幡 池 )か ら 急 場 を 凌 ぐ た め の 放 水 対 策 が 講 じ ら れ た と い う 記 録 も 残 さ れ て い る
39.
3 - 4 仙 台 藩 の 治 水 ・ 利 水 対 策
佐 藤
[1999b]に よ れ ば , 「 治 水 」が「 洪 水 対 策 」に 限 定 的 に 使 用 さ れ る の は
1896年 ( 明 治
29年 ) の 「 河 川 法 」 以 降 で あ り , 江 戸 時 代 の 「 治 水 」 は 森 林 保 全 か ら 洪 水 対 策・利 水・水 運 に い た る 流 域 全 体 の 総 合 的 管 理 を 意 味 す る も の で あ っ た
40( 佐 藤
[1999b],
p.90). 仙 台 藩 は 広 瀬 川 中 流 部 ( 郷 六 ) に 堰 を 設 け , 隧 道 を 通 し て 城 下 に 四 ッ 谷 用 水 を 巡 ら せ , 井 戸 に よ る 飲 料 水 の 確 保 を 可 能 に す る と と も に , 余 水 を 農 業 用 水 と し て 利 用 し て い た
41.
38 http://www.data.jma.go.jp/ged/risk/obsdl/index.php
を
2017年
10月
11日 閲 覧 .
39 1868
年 ( 慶 応
4年 ) は 戊 辰 戦 争 に 凶 作 も 重 な り , 他 の 村 々 が 一 番 草 取 り を し て い る 時 に 代 か き が で き て い な い 状 態 で あ っ た と さ れ て い る ( 佐 藤[1997b],p.154).
40
藩 祖 政 宗 に よ る「 十 七 ヶ 所 の 藩 営 苗 圃 」の 設 置 や「 周 囲 二 尺 以 上 の 樹 木 」を 伐 採 す る 場 合 に は 一 本 に 付 き 「 苗 木 五 十 本 , 二 尺 未 満 の 場 合 は 苗 木 二 十 本 を 必 ず 植 栽 す る 」 こ と を 義 務 付 け た 「 青 木
あ お き留 木
と め きの 制 」 の 記 録 も 残 さ れ て い る ( 佐 藤
[1999b],p.72).41
効率のみを追求し,水資源の涵養を忘れた点を反省し,自然保護の原点に戻るべきであるとした,
仙台市の地盤と地下水調査に基づく地質学者の貴重な意見も残されている(奥津[1977],p.307).
36) 秡川[2016]参照 .
37) 与兵衛沼は,「四ッ谷用水に事故が起こった場合や,大旱魃のために梅田川の流量が減少した 場合,その存在は大きかったものとみられる」 (佐藤[1997b],p.10).
38) http://www.data.jma.go.jp/ged/risk/obsdl/index.php を2017年10月11日閲覧 .
39) 1868年(慶応4年)は戊辰戦争と凶作が重なり,他の村々が一番草取りをしている時に代かきも
できない状態で救荒所を設けて救済したとされ,かかる窮状打開のための小田原寶塘の重要性を
養賢堂教授武田英が記している(佐藤[1997b],pp.153-158).
3-4 仙台藩の治水・利水対策
佐藤[1999b]によれば,「治水」が「洪水対策」に限定的に使用されるのは 1896年(明治29年)の「河川法」以降であり,江戸時代の「治水」は森林保全か ら洪水対策・利水・水運にいたる流域全体の総合的管理を意味するものであっ た40)(佐藤[1999b],p.90). 仙台藩は広瀬川中流部(郷六)に堰を設け,隧道 を通して城下に四ッ谷用水を巡らせ,井戸による飲料水の確保を可能にする とともに,余水を農業用水として利用していた41).
3-5 小石沢(鶏沢・狐沢)と四ツ谷用水
佐藤[1997a,b]は1957年発行の地図に基づき,梅田川流域に37の溜池を確 認している42,43). そのうち,1671年(寛文11年)に鈴木与兵衛が堀鑿した「与 兵衛沼44)」や梅田川源流に位置する「月忌上池(うどう沼45))」は現存する . その他,「新堤」(貯水量7,000㎥),「海老沼」(貯水量不明),「安養寺上池」
(貯水量14,000㎥),「安養寺中池」(貯水量13,000㎥),「安養寺下池」(貯水量 8,300㎥)などが確認できるが(佐藤[1997a], pp.99-101),江戸時代の城下絵 図に示された穴田池46)は1957年発行の当該地図からは欠落しているという .
40) 藩祖政宗による「十七ヶ所の藩営苗圃」の設置や「周囲二尺以上の樹木」を伐採する場合には一 本に付き「苗木五十本,二尺未満の場合は苗木二十本を必ず植栽する」ことを義務付けた「青
あ お木
き留
と め木
きの制」の記録も残されている(佐藤[1999b],p.72).
41) 効率のみを追求し,水資源の涵養を忘れた点を反省し,自然保護の原点に戻るべきであるとし た,仙台市の地盤と地下水調査に基づく地質学者の貴重な意見も残されている(奥津[1977],
p.307).
42) 1/3,000地図(国土地理院,1957年)に記載されていない北山南斜面の池沼や清水沼,穴田池,大師沼,
荒巻神明沼等を除く梅田川流域の池沼は,月急山系5,吉成系7,貝ヶ森系3,菊田山系4,御嶽神社系2,
菖蒲沢系2,本沢系2,北山北斜面4,台原小田原系8,合計37とされ,権現森(314.2m)を頂点とする 国見丘陵を水源とする同流域には溜池が多数点在していたとされている(佐藤[1997b],pp.89-90, 94-95).
43)佐藤[1997a], pp.99-101; [1997b], pp.10-14, 152-3.
44) 七北田台地南面(梅田川流域)の「与兵衛沼」等は台地の浸食による谷地形を利用して造成され たものであり,台地の水を集めることによって,四ッ谷堰の灌漑用水だけでは不足する小田原の 農業用水需要を補助したとされている(佐藤[1997b],pp.10-14,原著は新田豊治[1931] ).「与 兵衛沼」の集水面積は69.6ha,沼自体は東西2町10間,南北1町(236m ×109m)に広がり,周囲は 6町30間(708m),堤長111.4m ×堤高4.5m の堰堤によって貯水される水量は約40,000㎥と推定さ れている(佐藤[1997b], p.10).
45) 東 西1町20間,南 北58間(145m ×104.4m)に 広 が り,周 囲 は4町20間,(472m),貯 水 量 は 18,700㎥と仙台市の溜池台帳に記載されている(佐藤[1997a], pp.142-149; [1997b], pp.191-216;
[1999b], pp.85-87.
梅田川流域以外では,四ッ谷用水を介して生活,消火,農業等の用水機能 を果たすとともに(佐藤[1997b], p.154-5; [2001], pp.191-205),梅田川(平ひら 渡わたす
戸と川)を経由して船曳堀への注水を補完したと推測される「八幡池47)」等も 重要な役割を担ったと考えられる . また,城下絵図周辺部(国見地域など)に 示された複数の溜池も八幡池に類似した利水機能を持ったと推測される . そ の一例が「小石沢(鶏沢)」上流の「棒芳湿地帯48)(仮称)」であり,非灌漑期49)
(晩秋~早春)には45,000㎥(600m ×30m ×2.5m)程の潜在的貯水量を有し50), その貯水能力には旱魃や地すべりによる断水時の緊急避難的な対応や台風や 大雨による洪水の防止に対する補完的機能を担保されていたと考えられる .
4. 会津と Concord -共通の地平-
4-1 『会津農書』農法の特徴
戦後間もない1946年,「先人の書を読み,農民の経験を聞き知って記録し た知識の集積にすぎない」江戸時代における多くの農書の中に,「経験を意 識的に記録し,各年度の結果の比較検討によって,有利な農耕法を見出して いる」例外的農書(「農民的農書」)が存在することを指摘した書籍を出版した 著者が示した「農民的農書」の中の一冊が『会津農書51)』である(古島[1975], pp.1-20, 313-331). 古島[1975]は,『会津農書』の特徴の一つを寒冷地稲作に 適した水管理技術52)に求め,雪国会津においてもとりわけ稲作上の条件不利 地である山間部(山郷53)),さらに,旱魃年・雨年などの気象変動にまで言及
46) 堤 町 の 入 口 に あ り,東 西1町20間,南 北1町35間(145m ×172m),周 囲8町45間(953m),
24,940㎡と推定されている(佐藤[1997a], pp.121-24; 佐藤[1997b], pp.114-20).
47) 東西50間,南北1町5間(90m ×118m),周囲5町45間(626m)と推定されている(佐藤[1997a], p.145; [1997b], p.154-5; [2001], pp.191-205.
48) 「棒芳」は明治時代以前における同地区の字名であると考えられる(早坂洋氏からの聞き取り調 査による情報).
49) 仙台藩の船曳堀利用は寡雨・渇水期にあたる非灌漑期が中心であったと考えられる . 50) 但し , この数値は歩測および目視等による推定に基づく暫定値である .
51) 天地自然に基づく農法論が貫かれた『会津農書』は典型的「農民的農書」であり,古島[1975]が
指摘したように,近代的農学研究の源流に位置すると考えられる . だが,かかる農民的農書の後継
者であったはずの近代農学は,非循環的 = 外部資材依存の方向に偏向し,自然生態系から乖離し
た知識の集積体へと変化していく .
した54),「本書の灌水の記事は,当時にあって最も詳細であり,特徴あるもの」
と評価している(古島[1975],p.320)
4-2 『会津農書』の農法論
天の道を用い,地の利に因りて人の事を尽くす(佐瀬[1982a],p.359)こと を旨とした百姓にとって,天地自然に即して生きる55)ことは疑う余地のない 日々の務めであったと考えられる . すなわち,農事暦を考え,四季折々の変 化を感じて農務にあたることが日常であり,農務の経過と結果を観察し,記 録することで天地自然の力を利用する作業体系が構築されて行く . それが
「人の事を尽くす」ことの一面である . とはいえ,観測可能な太陽の周回軌道
(黄道)によって定まる気候(その指標は二四節気などの農事暦)や時節の変 化56)が,冷夏や暖冬,長雨や旱魃等の頻発によって揺らぎの程度を増幅し57),
「年の豊凶ハさだかなし」という状況に陥った場合,恩恵の対象である天地の 位相が転移しうる .「不正の気」を記録した『会津農書附録58)』の世界において,
気象予報や気象災害に関する科学的対策が存在しなかった江戸時代の百姓は
52) 「苗代水は田の頭に水溜を作り,温めて施すのがよいとする . 苗代灌漑には特に保温が重大な問 題とされて,昼は浅く,夜は深くかけ,あるいは昼は乾かすことがすすめられている」 (古島[1975],
p.320)
53) 「「晩に来る水ハ昼の暖気を受て温し,故にあたゝまり来る水を晩にかけ,其水の翌日迄溜る様 に」するのをすすめている」 (古島[1975],p.320).
54) 旱魃年には「懸流し」を推奨し,その理由を「常の様に温水を湛へ置ハ,水もくさり,こえ過,湯 の内へ殖たるやうに成て,稲煩付,実不足(例年通りに灌水した場合,水温が上がりすぎて実りが 悪くなる)」と説明している . また,雨年には「雨水を深く湛へ置,成ほとぬるまる(雨水を利用し て深水とし,水温を上げる)」よう勧め, 「寒気故不断湛置ハ,また冷て悪し . 折々水を干てよし((多 雨の年は)水温が低いので,深水管理で外気を遮断するだけでは地温を下げ,湛水による保温効果 は望めない . 適切なタイミングで落水すべきである)」と説明した上で,その時期の一つを出穂期 としている . つまり,「稲穂の出かねる時も水を皆干て日を当て,土をあたゝむれバよし(出穂が 遅れる場合には田の水を干して日光を当て,地温を上げればよい)」. それと同時に,田の水を干 せば雑草が生えやすい状態がつくり出される点を注意している .(佐瀬[1982a],pp.53-54)
55) 農作業はその一部を構成するものにすぎず,与次右衛門の「農」に対する職業倫理も,自然循環 の中で生かされている「百姓」としての日常と調和するものであったと考えられる .
56) 「四
し時
じの気候,時
じ令
れ いを能
よ く勘
わきまへて農業を務
つとむるといへる事成へし」 (佐瀬[1982a],p.359).「天の道 に心を尽し,年を追て樹芸の節を試ミ,時の宣を計におゐてハ縦
たとひ正節に当たらすといふ共遠から す」 (佐瀬[1982a],p.392).
57) 「嘗
か つて天の道に常例あれ共,暫
しばらく不正の気ありて春の日布
す べ而
て寒き事あり,夏の日布
す べて冷
ひややか成
な る事あ り,秋冬も又如
かくのごとし此なり」 (佐瀬[1982a],pp.359-360)
58) 1691年~ 1709年の気象等が詳細に記録された『会津農書附録』から,当時は冷害,干魃,暖冬等
の「異常気象」が頻繁に起きていたことがわかる(秡川[2016],p.19).
いかなる対策を講じていたのだろうか59).
その問題を考える前提として,土壌および農地の分類について説明した い . まず,土壌であるが,甘味があり,比重が高く,すべての作物の能力を引 き出す「黄真土60)」を『会津農書』は最上位の土壌区分としている(佐瀬
[1982a],p.18). 石灰岩や火山岩等が浸食・風化作用を経て流水によって運 ばれた堆積土壌である「真土」は,土壌中の有機物,ミネラル,土壌微生物等 が豊富に含まれ,不純物がないために作物の生育が順調であるとされたもの と推測しうる .
また,9種類の水田のうち,「常に水灑そそく故に,水と泥等し」(佐瀬[1982a],
p.19)と記された「卑泥田」は原初的な湿地由来の水田であると考えられるが,
それは「田の等級」を直接的に規定するものではなく,「土」次第で可変的で あるとされている61). すなわち,常に水が流れ込んでいるために旱魃に対す るレジリエンスに優れた卑泥田は,乾田・機械化農法の視点とは異なり,ア プリオリに不良田と捉えられているわけではない . 現代人の価値観から見れ ば,腰まで浸かる苦汗労働といったネガティブな側面を孕みながら,そこに 生育するイネにとっては旱魃年にも枯死せずに子孫を残すことのできる「良 田」となりうる62).
このように,「田地位」に示された「土壌」の多様性は「地の利」,すなわち,
恩恵または豊かさとして認識されている . それと同様に,『会津農書』におい て,旱魃や長雨を含む気象変動も「地の利」に含まれる要素の一つとして恩恵 または豊かさと捉えられたと考えられる . 不規則に変化する気象を活用した 農業63)の実践を通して,<試行⇒観察⇒経験⇒記録>という過程を螺旋階段 状に循環・上昇して行き,人間(百姓)の「智・仁・勇」(知恵,人間性,勇気)
という生きるために求められる基本的能力が向上して行くと考えられる64). さらに,その点を敷衍した表現が,「自然の感応ありて 必かならず作さく徳とくを得うるへし」
であると考えられる . では,「自然の感応」とは何を意味したのであろうか.「フ
59) 気象災害等の天災後の回復過程については,別途,「弾力性」 (resilience)として捉えたい . 60) 「土の本色黄
きにして壌
じょうなり . 其味甘く,其性重く,能
よ く万物を生し,各其性気を含ませしむ . 是土の
真性不雑之誠 . 故に真土と書てまつちと読也」 (佐瀬[1982a],p.18).(下線は引用者)
61) 「厥
そ の上下ハ本
も との土の上下に帰
かえりて,漢にハ塗
と泥
で いと言
い ふなり」 (佐瀬[1982a],p.19).
62) その価値観は「田冬水」とも通底すると考えられる(佐瀬[1982a],pp.54-55).
63) 農業とは,天地に順応して生きる人が「天地人」三者の調和を図る営みである(秡川[2016],p.33).
ロー65)」または「天の道」(天文学・暦学等)と「地の利」(土壌学・作物学等)
との境界領域にあり,それらを結び付けるものであろうか . 保科正之を介し て考えれば,王禎『農書』を会津地方の気候風土に即して実践的に改良した
『会津農書』が,輸入暦学の基礎上に上奏された渋川春海の「貞享暦」と時期的 に重なることも単なる偶然とはいえないだろう .
4-3 天の道を用いた農事暦
古島[1975]は,江戸時代の農事が太陰暦で定められたという俗説を改め,
「季節の運行と密接に関連する二四気」に基づいたとし,二四節気と太陽暦と の対照表を掲げている(表1). 周知のように,二十四節気は太陽の運行との 関係で定められるもので,太陽暦との誤差は少ない66). たとえば,『会津農書』
には,「梅ばい花かのつほミを見て勘かんがふへし . 柳の小ゑこい模様ニ依よりて遅ち速そく有り . 又 彼ひ岸がん七日之内ニ,毎年里の雪消ぎえ時どきをしり,乍さり去ながら寒気深き節ハ彼ひ岸がん過すぎ迄ある 也 . 其年は梅花のつほミも遅かるへし67)」(pp.179-180)と述べられている . 『会津農書』は作物生育と二十四節気(太陽暦)に従った「農事暦」に基づき,
草木の観察に基づいて年ごとに変化する自然の状態を知る重要性を指摘して いるが,その点に関して「年中の節気を植物の生育によって定め,それを基 として農事を定めよとしている」(p.331)と古島は述べている . それに該当す るのが以下の箇所である .
64) 短期的収支において,災害が百姓に与えるものは恩恵ではなく損失である . しかし,長期的観点 に立てば,冷害や旱害などの艱難辛苦は気象災害に対する経験や技能ばかりではなく,「智仁勇」
など人間総体の能力を高め,持続性を形成する弾力性(resilience)を上昇させる(例えば,降雪の 量と期間は「会津人魂」という特殊な精神的風土(ethos)を形成する要因の一つであると考えられ る). かかる文脈において,天変地異は百姓の恩恵となりえたと考えられる .
65) Csikszentmihalyi [1990] ま た は,“Could a greater miracle take place than for us to look through each other's eyes for an instant? ”(Thoreau [1995],p.6)
66) 古島は『会津農書』下巻の「農家事益部」が二四節気に基づくものであることを示している . 例 えば, 「年中行事の記載で注目すべきことは,記された行事そのものではなく,節の見方である . 今 までみてきたように,本書(『会津農書』を指す(引用者註))の耕作時期の表現は,各月の節・中を 中心としている . これは二四気候と合致するので,陰暦ではない . この書には陰暦は現われていな い .(中略)主として草木の生長をみて,判断するのであって,草木の自然の発育は陽暦である節 にほぼ合致すると考えているのである . ここに知られるものは節そのものではなく,気温その他 草木の生育を左右する自然条件の動きである」 (古島[1975],p.330)
67) 【拙訳】 (播種期は)梅花の蕾のふくらみ具合いを観察して考えるべきである . 柳の小枝の状態に
も早い遅いの違いがある . 例年,彼岸7日の内に雪が消えるはずだと思っていても,彼岸過ぎまで
雪が残る寒い春もある . そういう年には梅花の蕾がふくらむのも遅いはずである .
「草木の芽 並ならびに花実の時を受うけて耕作をなすへし . 巳すでニ昔ゟいひ伝わるハ,
種た ね の子時節にハ桜花咲 . 依これにより之,たねまき桜と云いへリ . 田たうえのこう植候節せつハ卯うの花開ひらき,故ニ 五さつきの
月乙お と め女花ばなと云いふ. 又藤ふじの花開たる時ハ胡ご麻まをまき,漆うるし木ぎの葉萌もえ出いづる時ハ瓜を 植うへ
,又晩ばん麻あさを蒔まくと伝へリ . 是ハ里さと郷ごうの積つもり也 . 山やま郷ごうの考へ時節ハ違へ共,草木 に聴クハ同意也 . 耕作の 企くわだて遅けれハ草木の萌芽も又遅し68)」(『農書』下,
pp.188-189).「草木の芽並花実の時」を知る「自然の感応」によって,気象の 変動に応じた適切な技術選択が可能となり,「必かならず作さく徳とくを得うへし」という結果 が生じる .「農」とは天地自然に即し,その「化育」を補助するものであること を佐瀬与次右衛門は『会津農書』,『会津農書附録』,『会津歌農書』を通して 会津地方で生きていく若者たちに伝えようとしたと考えられる69).
すなわち,「自然の感応」とは「農」にかかわり始めてから70)約半世紀を経 て与次右衛門が到達した元禄期篤農家の技術水準を示す表現であると考えら れるが,そのような自然との関係が当時の政治的権力層に理解されていた点 は注目に値する71). 無論,「土」から離れた封建制下の支配層が現代に通じる 高度な生態学の知識を持っていたとするのは不条理であり,彼らの認識基盤 は儒教的精神に制約された狭隘な知識体系であって,生態学的農法は理解し えなかったものの,「自然の感応」にいたる修養によって「作徳」という結実 が得られ,財政基盤が安定するという構造は理解しえたと考えられる . 但し,
人間の感性およびそれを育む社会的環境が著しく変化したと考えられる現代 社会にあって<自然の感応→作徳>系を再構築するには,少なくとも人間の 感性を補完する多面的かつ複合的な伝統的 = 新技術が求められる . そのため には,近代的な科学技術が軽視してきた生物資源の活用や自然生態系の保全 が重視されることになるだろう .
68) 【拙訳】草木が芽吹き,花が開き,実をつける時を観察して耕作をすることが大切なのだ . 昔か ら言われてきたことだが,桜は種籾を蒔く時期に咲くから「種蒔き桜」という . 田植えの時期には 卯の花が咲き,「五月乙女花」と呼ばれる . 藤の花が咲いたら胡麻を蒔き,漆の葉が芽生える頃に は瓜を植え付け,晩生の麻を蒔けという . それは平地の村々に伝えられていることだが,山間部で も時期が違うだけで,草木に聴くという姿勢は同じはずだ . 山間部で耕作の開始時期が遅いのは 草木の芽生えが遅いからである .
69) 「内にハ我子孫に伝へ,田家の記録もなし,其業に至らしめんかため,是一ツ也 . 外にハ職分の 勤を励し,居村麁耕の輩に教しめんかため,是二ツなり . 然る則ハ郡中の諸農,小き補にもならむ か」 (佐瀬[1982a],p.6).
70) 「正保元年(西暦1644)十四才の若さで親名代職を勤めた」 (佐瀬[1968], p.23).
71) 与次右衛門は,「元禄二年の秋に御褒美として米を賜った」 (佐瀬[1982b], p.411).
4-4 地の利に因る-生態学的土壌科学-
佐瀬[1982a]は,天地(自然)から切り離された仮想空間(観念世界)にある ヒトの知識や経験のみに依拠することなく,天地と交流する動植物の本能に 信頼を寄せている . それは生態学に近い視点からの自然認識とその「農」への 応用につながっている . それに対し,経済成長に偏奇した市場経済的価値観 は「土」を「農」の「中央に位す72)」とした佐瀬[1982a]の考え方を否定し,ヒ ト以外の生物が生きにくい空間とその空間で暮らせないヒトを増やした . 単 位時間当たりの収量を増やす「効率化」と化学化・機械化に適合する「合理化」
との相互依存関係は自明であろう . 農薬や化学肥料を普及させ,「土」に象徴 される「地」の多様性を否定する価値観は,ヒト自身を含む生物の多様性を失 わせ,自然界を貧相にする . その末路として,現代の都市住民は,「天の道を 知り,地の利を知り,人の事を知りて(中略)然し か る而後のち百穀の成熟を語かたりて上下の 神祇に仰おん願ねがふ73)」(p.361)という生き方が現実に存在していたことさえ忘れか
15
表 1 二 四 節 気 と
2016年 の 日 付 と の 対 照 表
二 十 四 節 気 雑 節 日 付 二 十 四 節 気 雑 節 日 付
立 春 2 月 04 日 夏 の土 用 7/19~8/6
雨 水 2 月 19 日 立 秋 8 月 07 日
啓 蟄 3 月 05 日 処 暑 8 月 23 日
彼 岸 3/17~23 二 百 十 日 8 月 31 日
春 分 3 月 20 日 白 露 9 月 07 日
清 明 4 月 04 日 彼 岸 9/19~25
穀 雨 4 月 20 日 秋 分 9 月 22 日
春 の土 用 4/16~5/4 寒 露 10 月 08 日
八 十 八 夜 5 月 01 日 霜 降 10 月 23 日
立 夏 5 月 05 日 秋 の土 用 10/20~11/6
小 満 5 月 20 日 立 冬 11 月 07 日
芒 種 6 月 05 日 小 雪 11 月 22 日
入 梅 6 月 10 日 大 雪 12 月 07 日
夏 至 6 月 21 日 冬 至 12 月 21 日
半 夏 生 7 月 01 日 小 寒 1 月 06 日
小 暑 7 月 07 日 大 寒 1 月 21 日
大 暑 7 月 21 日 冬 の土 用 1/18~2/3
( 註 ) 古 島
[1975](
p.5) に 基 づ き ,
2016年 版 に 修 正 .
4 - 4 地 の 利 に 因 る - 生 態 学 的 土 壌 科 . 学 -
佐 瀬
[1982a]は , 天 地 ( 自 然 ) か ら 切 り 離 さ れ た 仮 想 空 間 ( 観 念 世 界 ) に あ る ヒ ト の 知 識 や 経 験 の み に 依 拠 す る こ と な く ,天 地 と 交 流 す る 動 植 物 の 本 能 に 信 頼 を 寄 せ て い る .そ れ は 生 態 学 に 近 い 視 点 か ら の 自 然 認 識 と そ の「 農 」へ の 応 用 に つ な が っ て い る .そ れ に 対 し ,経 済 成 長 に 偏 奇 し た 市 場 経 済 的 価 値 観 は「 土 」を
「 農 」の「 中 央 に 位 す
72」と し た 佐 瀬
[1982a]の 考 え 方 を 否 定 し ,ヒ ト 以 外 の 生 物 が 生 き に く い 空 間 と そ の 空 間 で 暮 ら せ な い ヒ ト を 増 や し た .単 位 時 間 当 た り の 収 量 を 増 や す「 効 率 化 」と 化 学 化・機 械 化 に 適 合 す る「 合 理 化 」と の 相 互 依 存 関 係 は 自 明 で あ ろ う . 農 薬 や 化 学 肥 料 を 普 及 さ せ ,「 土 」 に 象 徴 さ れ る 「 地 」 の 多 様 性 を 否 定 す る 価 値 観 は ,ヒ ト 自 身 を 含 む 生 物 の 多 様 性 を 失 わ せ ,自 然 界 を 貧 相 に す る . そ の 末 路 と し て , 現 代 の 都 市 住 民 は ,「 天 の 道 を 知 り , 地 の 利 を 知 り , 人 の 事 を 知 り て ( 中 略 ) 然 而
し か る後
の ち百 穀 の 成 熟 を 語
かたりて 上 下 の 神 祇 に 仰
お ん願
ね がふ
73」(
p.361) と い う 生 き 方 が 現 実 に 存 在 し て い た こ と さ え 忘 れ か け よ う と し て い る .
72
【 拙 訳 】 土 地 や 圃 場 ( 土 壌 ) の 違 い を 理 解 し , 何 を 選 ぶ べ き か を 考 え る こ と が 大 切 で あ る . 五 行 ( 木 火 土 金 水 ) の 中 心 に 「 土 」 が あ る .
73
「 畑 の 産 物 に 対 す る い っ さ い の 請 求 権 を 棄 て て ,最 初 の 実 り だ け で は な く 最 後 の 実 り も ,心 の な か で 神 々 へ の 生 贄
いけにえと し て 捧 げ よ う と す る 」( ソ ロ ー ・ 飯 田
[1995a],p.296).72) 【拙訳】土地や圃場(土壌)の違いを理解し,何を選ぶべきかを考えることが大切である . 五行(木
火土金水)の中心に「土」がある .
けようとしている .
では,そのような現実を前提した場合,現代の「農」はどのようにして持続 可能な社会の実現をもたらせるのだろうか . 江戸時代の農業や生活は「自然 循環」が基本である . 微生物の力を借りて排泄物を発酵させ,それらを田畑の 土壌に還元する暮らしは快適さや便利さを犠牲にして廃棄物を土づくりの素 材として用い,循環サイクルから漏れ出る量を制御し,物質循環の持続性を 支える生き方であった . 石川[1997]は,そのような江戸時代を生きた人々の 視点から厳しい警句を投げかけている . すなわち,「短期的合理性に目をく らまされたわれわれは,千年もかけて作り上げた見事な植物資源の循環シス テムをせっせと破壊しながら,一方では長期的合理性を無視した工業化のツ ケである膨大なごみの山を前にして悪戦苦闘している」(石川[1997],p.85)
佐瀬[1982a]は,天地自然の摂理(神明はその象徴)を知らずに得た成功は 単なる偶然にすぎず74),必然的な「作徳」はその摂理を理解することによって もたらされるとしている . また,自然の摂理を知り,人事(技)を尽くして「作 徳」を得るためには,検証もせずに「諺」(慣例)を信じる愚行を避け,自らの 実践を経験として記録に残し,その記録に基づいて検証を重ねるべきである としている . さらに,人知を超えた天地自然の摂理の下で,失敗を恐れず,成 功を信じて実践を続けて行くために,人には「祈り」が必要なのだろう75). つまり,『会津農書』における「祈り」とは超自然的な存在に身を委ねるこ とではなく,自らの内なる自然の力を天地自然に重ね,それとの調和を図る べく,実践,記録,検証を通して天地自然に対する理解を深めていくための
「禮」を意味していると考えられる76). すなわち,
正月の中の五日に耕しの 真ま似ねしてをくハ春祭りなり(佐瀬[1982b], p.334)
七夕の牛にと麦の初刈を 心はこぶも祭りなりけり(佐瀬[1982b], p.335)