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Portuguese First Voyage to Japan and the EastAsian Maritime Trade

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Academic year: 2022

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

Portuguese First Voyage to Japan and the East Asian Maritime Trade

中島, 楽章

九州大学大学院人文科学研究院歴史学部門 アジア史学分野 : 助教授 : 中国社会史, 東アジア海域史

https://doi.org/10.15017/3701

出版情報:史淵. 142, pp.33-72, 2005-03-10. Faculty of Humanities, Kyushu University バージョン:

権利関係:

(2)

十五世紀末にアジア海域に登場したポルトガル人は︑一五二年にマラッカを占拠︑数年後には中国沿海にも  

来航した︒彼らが日本に到達するのはその約三十年後である︒ところがポルトガル人の日本﹁発見﹂の年につい  

ては︑一五四二年と一五四三年の両説があり︑決着をみていない︒ポルトガル人の日本初来航に関する日欧の基  

本史料とされてきたのは︑南浦文之﹁鉄灼記﹂と︑アントニオ・ガルヴァン﹃新旧発見記﹄である︒前者は天文  

十二 ︵一五四三︶年に︑後者は一五四二 ︵天文十一︶年にポルトガル人が日本に到達したと記すため︑日欧関係  

史や銃砲史の研究者による論争が続けられてきたのである︒  

一八九二年の坪井九馬三﹁鉄砲伝来考﹂では︑﹁鉄砲記﹂と﹃新旧発見記﹄を紹介したうえで︑﹁鉄砲記﹂によ  

︵1︶  りポルトガル人の種子島来航を一五四三年とした︒その後︑日本ではおおむね一五四三年説が普及し︑教科書や  

年表類でも﹁鉄砲伝来﹂の年は一五四三年とし︑一五四二年説を附記することが多い︒しかしポルトガル人初来  

M㌫†爪  航=鉄砲伝来に関する専論では︑明確に一五四三年説をとる論者は意外に少なく︑戦後では有馬成甫氏の著書が  

ポルトガル人の日本初来航と東アジア海域交易  

はじめに  

ポルトガル人の日本初来航と東アジア海域交易   

中    章   楽   島  

(3)

︵4︶  ︵3︶  目につく程度である︒幸田成友氏・洞富雄氏などは︑四二年・四三年の両説を併記して断定を避けている︒   

これに対し︑ポルトガル人の日本初来航を一五四二年とする論者は少なくない︒早くは岡本良知氏が四二年説  

︵5︶  をより妥当とし︑ついで李献嘩氏も﹁鉄胞記﹂ における年次の矛盾を指摘して︑ポルトガル人の日本初来を四二  

︵7︶  ︵6︶  年とした︒近年では︑清水紘一氏が﹁鉄胞記﹂には史実の混錯があるとして四二年説を主張した︒さらに最近で  

︵H︶ ︵9︶  は︑村井章介氏・関周一氏が︑東アジア海域史の立場から鉄砲伝来を再検討し︑ポルトガル人は王直のジャンク  

︵‖︶  ︵川︶  により四二年に種子島に到達したと結論している︒また所荘吉氏・的場節子氏も︑ポルトガル人の初来航は四二  

年であったと説くが︑彼らが種子島に鉄砲を伝えたのは翌四三年であったとする︒総じて近年の日本の研究では︑  

ポルトガル人の日本初来航を一五四二年とする見解が主流となりつつあるといえよう︒このほか宇田川武久氏は︑  

種子島に最初に鉄砲が伝来したという﹁鉄胞記﹂の記事自体に疑問を呈し︑鉄砲はポルトガル人よりもむしろ倭  

M順血 冠的勢力によって︑多様な経路から伝来したと論じている︒  

︵13︶  一方欧米では︑伝統的に一五四二年説が一般的であった︒しかし一九四六年︑ゲオルグ・シュールハンマー氏  

は︑﹃発見記﹄の記事は琉球漂着を日本漂着と誤伝したものであるとして︑ポルトガル人の日本初来航は﹁鉄胞記﹂  

︵15︶  ︵14︶  に記す一五四三年であると論じた︒この説は欧米でひろく受容され︑C・R・ボクサー氏︑ドナルド・F・ラッ  

チジョセフ・ニーダムなどが︑いずれも一五四三年説を採用している︒しかし最新刊のケネス・チエース  

︵18︶  氏の著書では︑近年の日本の研究に基づき︑一五四二年説をとっている︒   

このようにポルトガル人の日本初来航の年については︑百十年あまりにわたって論争が続きながら決着をみて  

いない︒近年では一五四二年説が有力になりつつあるが︑なお史料解釈上の疑問点も多く残されている︒一連の  

論争の過程では︑多くの新史料が紹介され︑最近では村井孝介氏などの研究を通じて︑ポルトガル人来航をめぐ  

る東アジア海域の全体状況も明らかにされつつある︒しかし一方で︑諸史料を全体として整合的に定置する作業    ポルトガル人の日本初来航と東アジア海域交易  

(4)

ポルトガル人の日本初来航に関する日本側の基本史料は︑文之玄昌︵号は南浦︶ の﹁鉄抱記﹂ である︒文之玄  

昌は︑江戸初期に薩摩藩のブレーンとして重用された禅僧であった︒慶長十一︵一六〇六︶年︑彼は種子島久時  

の依頼を受けて﹁鉄砲記﹂を代作し︑のちこれを﹃南浦文集﹄ に収めた︒久時は鉄砲伝来の当事者であった時亮  

の子であり︑﹁鉄胞記﹂でも︑時亮の鉄砲伝来に関する功績が顕彰され︑種子島から全国に鉄砲が普及したことが  

︵19︶  強調されている︒以下︑その主要部分を書き下しにより引用しよう 

︻史料A︼文之玄昌﹁鉄抱記﹂ ︵﹃南浦文集﹄巻一︶  いず   天文発卯︵十二年︶秋八月二十五丁酉︑我が西村の小浦に一大船あり︒何れの国より来るかを知らず︒船客   は︑なお十分とはいえないようだ︒このため本稿では︑先行研究の成果をできるだけ包括的に検討し︑そこで提  示された日本・西欧・中国などの諸史料を再解釈して︑一五四〇年代前半の東アジア海域交易の展開という文脈  上に定置することを試みたい︒こうした検討は単に西欧人の日本﹁発見﹂ の年代考証という問題にとどまらず︑  ポルトガル人の日本来航を︑東アジア海域における﹁交易の時代﹂ の序幕という大状況のなかに位置づけるうえ  でも︑有効かつ必要と考えられるのである︒   

なお行論の過程で︑多岐多様な先行研究の論点を︑逐一本文で紹介・検討したのではあまりに繁雑である︒そ  

こで本文では特に重要な問題を中心に議論を進め︑その他の個別的な論点はなるべく註において検討することに  

したい︒なお筆者はポルトガル語・スペイン語を解さないため︑両国語の史料は︑和訳または英訳により利用し  

たことをお断りしておきたい︒  

ポルトガル人の日本初来航と東アジア海域交易    一ふたつの日本側史料 − ﹁鉄胞記﹂と ﹃種子島家譜﹄  

(5)

は百余人︑その形は類せず︑その語は通ぜず︑見る者は以って奇怪となす︒その中に大明の儒生一人︑五峯  

たまた  と名のる者あり︒今その姓字を詳にせず︒時に西村の主宰に織部丞なる者あり︑頗る文字を解す︒偶ま五峯  

に遇い︑杖を以って沙上に書きて云く︑﹁船中の客︑何れの国の人なるかを知らず︒何ぞその形の異なるや﹂  

ま  と︒五峯は即ち書きて云く︑﹁これは西南蛮種の雪胡なり︒粗ぽ君臣の義を知ると維も︑未だ礼貌のその中に  た  あるを知らず︒この故に︑その飲むや杯飲して杯もてせず︑その食らうや手食して箸もてせず︒徒だ嗜欲の  

すなわ  いわゆる  かな その情に償うを知りて︑文字のその理を通ずるを知らざるなり︒所謂﹁雪胡一処に到れば鞭ち止まる﹂とい  

うは︑これその種なり︒その有する所を以って︑その無き所に易うるのみ︒怪しむべき者に非ず﹂と︒ここ  

に於いて織部丞は又た書きて云く︑﹁ここを去ること十又三里にして︑一津あり︒津を赤尾木と名づく︒我が  

ほとり  由りて頼むところの宗子︑世々居る所の地なり︒津の口に数千戸あり︒戸は富み家は昌え︑南商北酉の往還  

しか  なみだ まれ すること織るが如し︒今は船をここに繋ぐと錐も︑要津の深くして且つ漣たぎるの愈れるに若ず﹂と︒これ  

ひ  ただ  を我が祖父の恵時と老父の時亮に告ぐ︒時亮は即ちに扁艇数十をしてこれを撃かせ︑二十七日己亥に至りて︑  

船を赤尾木津に入らしむ︒⁝⁝︵中略︶⁝⁝  

貿胡の長二人あり︑盲和郎秒針と日い︑一を士部朴か針僻部如と日う︒手に一物を携う︒長きこと二三尺︑  

その体たるや︑中は通じ外は直にして︑重きを以って質となす︒その中は常に通ずと錐も︑その底は密塞す  

るを要す︒その傍に一穴あり︑火を通ずるの路なり︒形象は物の比倫すべきなし︒その用たるや︑妙薬をそ  

ま みずか  の中に入れて︑添うるに小団鉛を以ってす︒先ず一小白を岸畔に置き︑親ら一物を手にして︑その身を修め︑  

ぁた  すがめ その日を妙にして︑その一穴より火を放てば︑則ち立ちどころに中らざるはなし︒⁝⁝︵中略︶⁝⁝時亮は  

その価の高くして及び難きを言わず︑蛮種の二鉄砲を求めて︑以って家珍となす︒その妙薬の持節・和合の  さき ちか  きよ や  法は︑小臣の篠川小四郎をしてこれを学ばしむ︒時亮は朝に磨き有に拝め︑勤めて己まず︒響の殆ど庶きは︑    ポルトガル人の日本初来航と東アジア海域交易  

(6)

ここに於いて百発百中︑一として失するなし︒⁝⁝︵中略︶⁝⁝  

時尭は把玩の余り︑鉄匠数人をして︑その形象を熟視せしめ︑月鍛季錬し︑新たにこれを製らんと欲す︒  ゆえん  その形制は頗るこれに似たりと錐も︑その底のこれを塞ぐ所以を知らず︒その翌年︑蛮種の貫胡︑復た我が  ぐ  島の熊野の一浦に来る︒浦を熊野と名づくるは︑また小鷹山・小天竺の比いなり︒頁胡の中︑幸いに一人の  

鉄匠あり︒時亮は以って天の授くる所となし︑即ち金兵衛尉措定なる者をして︑その底の塞ぐ所を学ばしむ︒  おさ  漸く時月を経て︑その巻いてこれを蔵むることを知る︒ここに於いて︑歳余にして新たに数十の鉄抱を製る︒  

⁝⁝︵後略︶⁝⁝   

以上の要点を整理すると︑次のようになる︒  

︵i︶天文十二︵一五四三︶年八月二十五日︵太陽暦では九月二十三日︶︑種子島に百余人の異形の船客を乗せた大  

船が来航した︒  

︵‖n︶船客のなかに明人の儒生﹁五峯﹂がおり︑筆談により彼らが﹁西南蛮種の頁胡﹂ であることを告げた︒  

︵⁝m︶種子島時亮は要胡の長である﹁牟良叔舎﹂と ﹁喜利志多情孟太﹂から鉄砲を入手し︑家臣に模造を命じた︒  

︵.Ⅳ︶翌天文十三︵一五四四︶年︑﹁蛮種の要胡﹂が再来航し︑銃底を塞ぐ技術を伝授した︒これにより一年余りで  

数十挺の鉄砲を製造した︒  

さらに省略部分では︑紀州根来寺の僧兵が鉄砲を求めて種子島を訪れ︑時亮が求めに応じて鉄砲を贈り︑操作法  

を伝授したこと︑種子島に滞在していた堺の商人が︑鉄砲の製法を畿内にも伝えたことなどが記されている︒   

なお ﹁鉄胞記﹂とほぼ共通する内容の関連史料として︑﹃種子島家譜﹄ ︵文化二=一八〇五年成立︶ がある︒そ  

︵釧︶ の原型は︑やはり種子島久時の命により編纂された ﹃種子島譜﹄︑︵延宝五=一六七七年成立︶ であった︒鉄砲伝  

来の記事は︑十三代恵時 ︵時亮の父︶ と︑十四代時亮の項にみえるが︑ここではより詳細な前者の記事を紹介し  

ポルトガル人の日本初来航と東アジア海域交易   

(7)

︵21︶  よう︒  

︵天文十二年︶八月廿五日︑西村浦に一大船漂来せり︒何れの国より来るかを知らず︒その人︑形は類せず︑   

語は通ぜず︑見る者は以って奇怪となす︒西村の宰に西村織部丞時貫なる者あり︑杖を以って沙上に書きて   

云く︑﹁船客は何れの国の人なるかを知らずや﹂と︒大明の儒生五峯なる者有り︑書きて云く︑﹁これは南蛮  ただ   種の貫人なり︒怪しむ可き者に非ず﹂と︒即ちに時貫は人を遣わして恵時に告ぐ︒恵時は群臣に命じ︑軽舟   

をしてこれを卸かしめ︑廿七日に船を赤尾木津に入らしむ︒雪胡の長二人あり︑盲牟良叔舎と日い︑言   

責利志多陀孟太と日う︒共に手に一物を携う︒その体たるや比倫すべきなく︑その用たるや奇なり妙なり︒   

名づけて繊胞と日う︑恵時・時亮は見て以て兵器の甲なりとなし︑蛮種の鉄胞二を求め︑家珍となせり︒繊   

匠をしてこれを製らしむるに︑形象は頗るこれに似ると錐も︑未だ尽くさざる所あり︒  

︵天文十三年︶今春︑南蛮船熊野浦に漂来す︒船客中に一人の繊匠あり︑恵時・時亮は以て天の授くる所と   

なし︑即ち金兵衛清定なる者を遣わして繊胞を製ることを学ばしむ︒暮年にして新たに数十の繊抱を製り︑世  

に流布せり︒   

﹁鉄砲記﹂と共通する修辞表現も多く︑﹃種子島家譜﹄の編纂時に﹁鉄胞記﹂を参照したことは疑いない︒ただ  

し﹃家譜﹄では︑西村織部丞の名を﹁時貫﹂︑二度目の南蛮船来航の季節を﹁今春﹂と明記するなど︑﹁鉄砲記﹂  

にない記載もみられる︒延宝年間に﹃種子島譜﹄を編纂した際には︑﹁御当家の旧記と︑遍く聞説する所を以て︑  

更互に演揮してこれを記録﹂したとされ︑おそらく﹁鉄胞記﹂と﹃家譜﹄双方の史料源となった︑種子島家の古  

︵22︶ 記録が存在したのだろう︒﹁鉄胞記﹂の成立はポルトガル人の来航から六十年あまり後であり︑同時代的史料とは  

いえない︒しかし天文十二年の鉄砲伝来を詳記するその内容は︑種子島氏に伝わる首時代的記録に基づく可能性  

が高いのである︒    ポルトガル人の日本初来航と東アジア海域交易  

(8)

ポルトガル人が一五四二年に日本を﹁発見﹂したという説は︑ポルトガル人アントニオ・ガルヴァン︵AコtぎiO  

Ga−忌○︶の﹃新旧発見記﹄︵以下﹃発見記﹄と略称︶に由来する︒ガルヴァンは一五二七年からアジア海域で活動  

し︑一五三六年から一五四〇年まではモルツカ諸島の総督の任にあった︒ポルトガルに帰国後は国王のジョアン  

三世に冷遇され︑一五五七年にリスボンの王立病院で没した︒彼は帰国後の生活を︑古今の発見航海の記録を編  

纂することに費やし︑その遺稿は彼の友人によって︑一五六三年に出版された︒これが当室ざ計︵論述の普︶︑つ  

︵23︶ まり﹃新旧発見記﹄である︒﹃発見記﹄は二部からなり︑第一部ではギリシア・ローマ以来の地理的発見の歴史が︑  

第二部では一四九二年のコロンブスのアメリカ発見から一五五三年にいたる︑スペイン・ポルトガルの発見航海  

が︑年代記風に記録されている︒ポルトガルのアジア経営の最前線にあった人物による︑古今の地理的発見を概  

観した書物として重要であるが︑彼が帰国してからの記述は︑間接的な伝聞に基づいていることに注意しなけれ  

ばならない︒  

︵24︶  ﹃発見記﹄ における日本﹁発見﹂記事の全文は︑次のとおりである︒   

一五四二年︑ディオゴ・デ・フレイタスがシャム国ドドラ市︵アユタヤ︶に一船のカピタンとしていた時︑   

その船から三人のポルトガル人が︑l膿のジャンクに乗って脱走しシナに向かった︒その名をアントニオ・   

デ・モッタ︵AntOniOdaMOta︶・フランシスコ・ゼイモト︵FranciscONeimOtO︶・アントニオ・ペイショッ   

ト︵AntOniOPe営tO︶という︒北方三十度あまりに位置するリヤンポー︵舟山列島の双喚︶に入港しょうと航行   

したところ︑後ろから激しい暴風雨が襲来し︑彼らを陸から隔ててしまった︒こうして数日︑東の方三十二  

二 ふたつのヨーロッパ側史料 − ﹃新旧発見記﹄と﹃東洋遍歴記﹄  

ポルトガル人の日本初来航と東アジア海域交易   

(9)

度の位置にひとつの島を見た︒これが人々がジャポンエスと称し︑古書にその財宝について語り伝えるジバ  

ンガスのようであった︒そしてこの諸島は黄金・銀︑その他の財宝を有する︒  

一六一二年に出版されたディオゴ・デ・コウト︵DiOgO de COutO︶の﹃アジア史﹄第五編でも︑﹃発見記﹄ の日本  

︵25︶  発見記事を敷術して継承している︒さらに一六二〇年以降に執筆された︑ジョアン・ロドリゲス︵lOぎROdrigues︶  

の﹃日本教会史﹄では︑ガルヴァンの記事が種子島への鉄砲伝来と結びつけられた︒すなわち﹁アントニオ・ダ・  

モッタ︑フランシスコ・ゼイモト︑およびアントニオ・ペイショットが︑一五四二年に︑シャムからシナへ一隻  

のジャンクで出かけた︒⁝⁝彼らは不意に暴風雨に襲われた︒⁚⁚⁚それから数日後に︑日本諸島の問に流された︒  

⁝⁚・この船は薩摩の海上にある一つの島で種子島と呼ばれるところに入港した︒そのところでポルトガル人たち  

︵26︶  は鉄砲の用法を教えたので︑その用法がそこから日本中に広まった﹂というのである︒﹃日本教会史﹄以降︑三人  

のポルトガル人がシャムから中国に向かう途中︑種子島に漂着し鉄砲を伝えたという説は︑現在にいたるまで︵特  

に日本では︶一般化している︒   

しかし ﹃発見記﹄ と﹁鉄胞記﹂ の記述を比較対照してみると︑一致しない部分がきわめて多い︒  

︵i︶﹃発見記﹄では三人のポルトガル人が日本に漂着したとするが︑﹁鉄砲記﹂では百余人の南蛮人が来航したと  

記し︑﹁頁胡の長﹂ 二人の名を挙げる︒  

︵⁚11︶﹃発見記﹄では暴風雨により日本に漂着したと記すが︑﹁鉄砲記﹂の描写では︑暴風雨による漂着という様子  

はうかがえない  ︒  

︵⁝111︶﹃発見記﹄ではポルトガル人の漂着地を北緯三十二度とするが︑﹁鉄炬記﹂が来航地とする種子島南端は︑北  

緯三十度二十分に当たる︒  

︵.Ⅳ︶ ﹁鉄砲記﹂ に詳述されている鉄砲伝来に関する記事が︑﹃発見記﹄ には一切ない︒    ポルトガル人の日本初来航と東アジア海域交易  

(10)

こうした相違にもかかわらず︑﹁鉄砲記﹂と﹃発見記﹄が︑同一事件の記録とみなされてきた主要な根拠は︑両  ムラ︑ンヤクシャ  史料に現れる人名の一部が一致するとされたためであった︒すなわち牟長叔舎はフランシスコ ︵ゼイモト︶ の︑  ムラシャクシャ  キリシタダモウタ  ︵菩利志多︶佗孟太は︵アントニオ︶ダ・モッタの音訳とみなされてきたのである︒しかし︑牟良叔舎をFraロCiscO  ∴∵  の音訳とするのはかなり疑わしい︒他方︑俺孟太はたしかにdaMOtaと読める︒しかしC・R・ボクサ1氏によ  

れば︑﹁ポルトガルにおけるモッタとは︑︵イギリスにおける︶ ロビンソンやスミスのようなもの﹂であり︑こう  キリシタダモウタ  ︵器︶ した一般的な姓から同一人物とみなすことは難しいという︒︵喜利志多︶佗孟太はアントニオ・ダ・モッタとは同  

姓の別人︵おそらくクリストヴァン・ダ・モッタ︶である可能性も高いのである︒とすれば︑結局のところ﹁鉄  

灼記﹂と﹃発見記﹄ にはほとんど共通点がないことになる︒   

﹁鉄胞記﹂と内容的に共通するヨーロッパ史料は︑むしろフエルナン・メンデス・ピント︵FerコぎMende2PintO︶  

の﹃東洋遍歴記﹄︵語3嘩3.莞芯S以下︑﹃遍歴記﹄と略称︶であろう︒ピントはポルトガル人の冒険商人で︑一五  

三七年にアジアへ渡航し︑一五三九年から一五四三年まではマラッカを拠点に東南アジア各地で活動したようだ︒  

C・R・ボクサー氏は︑ピントは一五四一年から四三年にかけてはビルマに滞在し︑四三年にゴアからマラッカ  

閑暇円 にいたり︑四四年には中国沿岸を経て日本に渡航したと推定している︒一五四六年に薩摩に来航したジョルジェ・  

アルヴァレス︵JOrgeA−責eS︶にも同行したとい璽一五五一年︑三度目に日本を訪れた際にフランシスコ・ザビ  

エルと知り合い︑山口の教会建設のための資金を提供した︒一五五四年にはイエズス会に入信︑五六年にゴア総  

督の使節として豊後を訪れたが︑同年にイエズス会を離れ︑一五五八年にポルトガルに帰った︒帰国後は一五八  

三年に没するまで︑自伝的な冒険旅行記である﹃遍歴記﹄の執筆に専念した︒﹃遍歴記﹄の原稿は一五六九年頃に  

ほぼ書き上げられ︑没後の一六一四年に出版された︒   

﹃遍歴記﹄はいちおうピントの自伝的冒険記の体裁をとっているものの︑実際には事実とフィクションが混交  

ポルトガル人の日本初来航と東アジア海域交易   

(11)

し︑極端な誇張や年月の混乱にみち︑しばしば他人の事績や伝聞を自らの経験として語っており︑歴史史料とし  

てはきわめて厄介である︒ただし彼が最初期に日本を訪れたポルトガル人の一人であったことは間違いなく︑日  

本に関する記述には︑他の史料に照らして信用すべき内容も少なくない︒﹃遍歴記﹄では︑ピント自身を含む三人  

のポルトガル人が種子島に来航し鉄砲を伝えたと記すが︑上述のように一五四二〜四三年には彼はビルマにいた  

可能性が高く︑信じがたい︒そもそも﹃遍歴記﹄ では︑ピントらの種子島来航の年月も明記されておらず︑前後  

関係からはいちおう一五四五年となるが︑﹃遍歴記﹄の年月自体が矛盾に満ちているので︑鉄砲伝来の年次を考証  

︵31︶  する手がかりにはならない︒  

︵32︶  ピントが長々と語る鉄砲伝来の顛末をごく簡略に要約すると︑次のようになる︒  

クリストヴァン・ボラリョの三人のポルトガル人は︑中国人海賊  メンデス・ピント︑ディオゴ・ゼイモト︑  ランバカウ  のジャンクに同乗して広東近海の浪自演を出航したが︑暴風雨により漂流し︑種子島に漂着した︒島の前面  

に投錨したところ︑島の住民が船を寄せてきたので︑交易の希望を告げた︒住民は停泊すべき港を指示した  はしけ  ので︑辟船に導かれて︑大きな集落のある港に入った︒すると種子島の領主ナウトキンが銀を詰めた箱を携  

えて到来し︑ポルトガル人を上陸させ︑商品を交易し歓待した︒ある日︑ゼイモトが鉄砲で狩猟をするのを  

見て︑ナウトキンは強い関心を示す︒ゼイモトはナウトキンに鉄砲を贈り︑その製法を伝授した︒ナウトキ  

ンは鉄砲の練習に励むとともに︑家臣に鉄砲を製造させ︑ポルトガル人が五か月半後に種子島を出航したと  

きには︑六百挺以上の鉄砲が造られていた︒  なおとき  領主の名ナウトキンは︑種子島時亮の初名である直時を指すといわれる︒五ケ月半で六百挺もの鉄砲が造られた  

といった︑ピント一流の誇張もあるが︑①種子島到着後︑辟に引かれ領主の居住地に入港し交易︒②領主の前で  

鉄砲を射撃し︑関心を持った領主に鉄砲を贈る︒③領主は鉄砲の練習に励み︑家臣に鉄砲を模造させる︑という    ポルトガル人の日本初来航と東アジア海域交易  

(12)

M桃爪  大筋は︑﹁鉄砲記﹂とほとんど共通している︒ピントは一五四四年には実際に日本に渡航したと考えられ︑当時の  

航路からみて種子島を訪れた可能性が強い︒彼は直前に起きたポルトガル人の種子島来航と鉄砲伝来について詳  

︵34︶  しく知りうる立場にあり︑﹃遍歴記﹄ではその情報を自身の経験のように記したのだろう︒薩摩とポルトガルでまっ  

たく別々に執筆された﹁鉄砲記﹂と﹃遍歴記﹄の大筋がほぼ一致することから︑両者の記述は基本的に実際の事  

件を踏まえているとみてよいだろう︒逆にいえば︑ガルヴァンの﹃発見記﹄では︑日本について漠然と﹁金銀に  

富む﹂と記すだけで︑鉄砲伝来などの具体的記述が一切ないのは奇妙に思われる︒   

﹃発見記﹄ の記事と鉄砲伝来を結びつけたのは︑上述のようにロドリゲス ﹃日本教会史﹄ であった︒ロドリゲ  

スは同時に︑ピント﹃遍歴記﹄ の記事が虚構に満ち信頼できないことも強調しているが︑その背景にはイエズス  

会とピントの複雑な関係がある︒ピントは一五五四年にイエズス会に入会して多額の財政的貢献をしたが︑二年  

︵35︶  後に脱会したため︑彼の事績はイエズス会の記録からすべて抹消されてしまった︒ところが一六一四年に︑ピン  

ト自身が日本発見と鉄砲伝来の当事者であったと説く﹃遍歴記﹄が出版されたため︑イエズス会士のロドリゲス  

はこれを否定するためにも︑﹃発見記﹄の日本発見記事と︑種子島への鉄砲伝来を結びつけたのであろう︒しかし  

史料自体を検討するかぎり︑﹁鉄砲記﹂と﹃遍歴記﹄ の大筋は共通するのに対し︑﹁鉄胞記﹂と﹃発見記﹄ の内容  

はほとんど一致せず︑﹃発見記﹄と鉄砲伝来とを結びつける積極的な根拠は見いだせないのである︒  

ガルヴァン﹃発見記﹄の日本発見記事と関連して︑従来から注目されてきた史料に︑スペイン人ガルシア・デ・  

エスカランテ・アルヴアラード︵Garc叫adeEsca−aコteA−くaradO︶が︑一五四八年にメキシコ副王に送った報告書   三 ふたつのフレイタス情報 − ﹃新旧発見記﹄ とエスカランテ報告  

ポルトガル人の日本初来航と東アジア海域交易   

(13)

がある︒このエスカランテ報告には︑ポルトガル人ディオゴ・デ・フレイタス︵DiOgOde Freitas︶から得た情報  

が含まれる︒﹃発見記﹄ でも︑フレイタスの船から脱走した三人のポルトガル人が日本を発見したと述べており︑  

エスカランテ報告と ﹃発見記﹄ の内容は不可分の関係にある︒  

一五四二年︑メキシコ副王は新大陸とアジアを結ぶ航路の開拓をめざし︑ルイ・ロペス・デ・ヴィリヤロボス  

︵RuyL音ezdeくia−ObOS︶率いる艦隊を派遣した︒エスカランテはこの艦隊の商人頭︵factOr︶であった︒ヴィラ  

ロボス艦隊は一五四三年二月にミンダナオ島に到着︑セレベス島を経て一五四四年三月にモルツカ諸島の中心地  

ティドレ島にいたった︒この年︑ディオゴ・デ・フレイタスの弟であるジョルダン︵JOrdぎ︶・デ・フレイタスが︑  カピタン  ティドレ島の隣のテルテナ島の守備隊長に任命され︑十月に兄とともにテルテナ島に到着した︒ジョルダンはヴィ  

ラロボス艦隊のティドレ停泊を認め︑十二月にはヴィラロボスと会談している︒エスカランテが兄のディオゴか  

ら情報を得たのもこのころであろう︒しかし一五四五年︑モルツカ総督はヴィラロボス艦隊の停泊を認めた合意  

を破棄し︑艦隊はメキシコへ帰還する航路を探索したが成功せず︑十一月にポルトガルに投降した︒この艦隊の  

乗組員はポルトガルに送還され︑一五四八年八月にリスボンに到着した︒エスカランテはリスボンで艦隊の遠征  

︵36︶  記録を報告書にまとめ︑メキシコ副王に送ったのである 

︵37︶   ここでは岸野久氏の訳により︑フレイタス情報の主要部分を紹介しょう 

大陸にあり︑マラッカとテナと呼ばれるところの間にある−−−の  彼﹇フレイタス﹈がシャン ︵シャム︶ −  

町に船を留めていた時︑そこへレキオ人たちのジャンクがⅠ隻やってきた︒彼はこれらの人々と大いに話を  

交わした︒⁝⁝︵中略︶⁝⁝彼﹇フレイタス﹈は︑彼らレキオ人と非常によい友人となり︑そこを去ったが︑  

レキオ人は自分の国がどこにあるかを彼に言おうとしなかったのである︒  

またこのようなことも起った︒彼﹇フレイタス﹈ と一緒にそこ ﹇シャム﹈ にいた中の︑ポルトガル人二人    ポルトガル人の日本初来航と東アジア海域交易  

(14)

がテナ沿岸で商売しようと一隻のジャンクで向かったが︑彼らは暴風雨にあってレキオスのある島へ漂着し   

た︒そこで彼らはその島々の国王から手厚いもてなしを受けた︒それは︑シャンで交際したことのある﹇レ   

キオ人の﹈友人たちのとりなしによるものであった︒彼らは食料を提供され立ち去った︒  

これらの人々が﹇レキオ人の﹈礼儀正しさや富を目撃したことから︑他のポルトガル商人たちもテナのジャ   

ンクに乗って再びそこへ行った︒彼らはチナ沿岸を東に航海し︑さきの島に着いたが︑今回は上陸を許され   

ず︑持参した商品とその値段の覚書を提出すべきこと︑及び代金は直ちに支払われることが申し渡された︒   

ポルトガル人たちはそのとおり提供したので︑支払いをすべて銀で受け取り︑食料を与えられ︑退去を命じ  

られた︒  

フレイタス情報の要点は次のとおりである︒  

︵i︶フレイタスの船がシャムに停泊していた時︑レキオ︵琉球︶人たちが二肢のジャンクで来航し︑ポルトガル  

人と交友をもった︒  

︵⁚11︶その後︑フレイタスの船にいた二人のポルトガル人が︑ジャンクで中国沿岸に向かったが︑暴風雨によりレ  

キオス ︵琉球︶ に漂着した︒  

︵⁝m︶ポルトガル人はシャムで友人となったレキオ人の仲介により︑国王に厚遇され︑食料を支給され帰航した︒  

︵.Ⅳ︶その後︑別のポルトガル商人もジャンクで琉球に渡航したが︑上陸を許されず︑海上で商品と銀を交易し︑  

退去を命じられた︒  

エスカランテ報告には︑二回の琉球渡航の年を記していないが︑フレイタスは一五四四年はじめにはシャムを  

出帆し︑マラッカを経てテルテナ島に渡航しているので︑第一回目の航海は一五四二年︑第二回目の航海は一五  

︵謂︶ 四三年と考えられる︒エスカランテ報告と︑ガルヴァン﹃発見記﹄の記事は︑﹁シャムにいたプレイタスの艦船か  

ポルトガル人の日本初来航と東アジア海域交易   

(15)

ら︑ポルトガル人がジャンクに乗って中国沿岸に渡航しょうとしたが︑暴風雨にあい未知の土地に漂着した﹂と  

が共通しており︑同一の事件を伝えていることは疑いない︒両者の相違点は次の二つで  いう基本的なストーリー  

ある︒①﹃発見記﹄がポルトガル人の数を三名として︑各自の姓名を挙げているが︑エスカランテ報告ではポル  

トガル人の数を二人とし︑姓名を記さない︒②﹃発見記﹄では漂流した地を北緯三十二度の日本とするが︑エス  

カランテ報告ではレキオス ︵琉球︶ とする︒  

エスカランテ報告と﹃発見記﹄を比較すれば︑一般的にいって前者がはるかに根本的な一次史料である︒エス  

カランテは事件直後の一五四四年末ごろ︑フレイタス自身から直接話を聞いて報告書に記している︒これに対し  

ガルヴァンは一五四二年当時︑すでにリスボンに帰還しており︑日本発見の記事は間接的な伝聞に基づいている︒  

とすれば︑﹃発見記﹄の記事は︑実はエスカランテ報告に述べる琉球到達の記事を︑誤って︵または故意に︶日本  

発見と伝えたもの︑という可能性が浮上してくる︒そのことを最初に指摘したG・シュールハンマー氏は︑次の  

ように結論している︒①一五四二年にポルトガル人が到達したのは︑﹃発見記﹄に記す日本ではなく︑エスカラン  

テ報告に記す琉球である︒②翌四三年にもポルトガル人はふたたび琉球に渡航した︵エスカランテ報告︶︒③四三  

︵調︶  年にはポルトガル人が種子島にも来航し︑鉄砲を伝えた ︵﹁鉄胞記﹂︶︒   

しかし日本の研究者には︑﹃発見記﹄の日本漂着記事を琉球漂着の誤伝とみるシュールハンマー説はほとんど受  

け入れられていない︒特にポルトガル人の来航を一五四二年とみなす場合は︑シュールハンマー説とは逆に︑エ  

スカランテ報告にいうレキオス発見は︑実は日本︵種子島︶発見を意味すると考えなければならない︒その論拠  

として︑これまで次の二点が想定されてきた︒  

︵i︶エスカランテ報告にいうレキオスは︑実は種子島を指す︒  

︵⁚11︶エスカランテ報告では政治的理由から日本発見について記さなかった︒    ポルトガル人の日本初来航と東アジア海域交易  

(16)

まず︵・1︶の場合は︑西欧人にとって琉球と日本の境界は明確でなく︑また琉球王国の支配は奄美諸島にまで及  

んでいたので︑その北方の種子島もレキオスとみなされたと考える︒そしてエスカランテ報告に記す一五四二年・  

四三年のレキオス渡航は︑実は﹁鉄砲記﹂に記すポルトガル人の種子島初来航と︑翌年の再来航を示すと考える  

︵㈹︶ のである︒ただしその場合︑エスカランテ報告には鉄砲伝来を示唆する内容がまったくないという問題点がある︒  

くわえてエスカランテ報告では︑レキオスに再渡航したポルトガル人は﹁上陸を許されず︑退去を命じられた﹂  

とし︑﹁鉄胞記﹂では︑種子島に再来航したポルトガル人が︑銃底をふさぐ技術を伝えたと記すことも矛盾する︒  

エスカランテ報告のフレイタス情報全体を検討すれば︑やはりレキオスは種子島ではなく︑琉球王国を指すと  

考えざるを得ない︒エスカランテ報告によれば︑レキオスに漂流したポルトガル人は︑シャム滞在中に友人となっ  

たレキオ人のとりなしにより︑国王に厚遇されたという︒種子島の住民がシャムに渡航したとは考えられず︑こ  

のレキオ人は明らかに琉球王国から来航したはずである︒﹃歴代宝案﹄によれば︑琉球国王尚清は︑嘉靖十九︵一  

五四〇︶年に一般の貿易船︵正使毛是以下︑乗員百四十一名︶ を︑翌嘉靖二十︵一五四一︶年にも一腰の貿易船  

︵41︶  ︵正使頁満度以下︑乗員百五十三名︶ をシャムに派遣している︒フレイタスが﹁レキオ人たちのジャンクが一隻  

やってきた﹂と述べるのは︑一五四〇年の貿易船を指す可能性が高く︑その乗員がポルトガル人と交友をもった  

のであろう︒彼らは一五四〇年末に琉球を出航し︑四一年初頭にはアユタヤに入港したと思われる︒アユタヤ滞  

在中にポルトガル人と知り合い︑四一年夏の季節風で琉球に戻ったに違いない︒そして四二年に旧知のボルトガ  

︵42︶  ル人が琉球に漂着した際︑国王と彼らを仲介したのである 

なおエスカランテ報告では︑四三年に再渡航したポルトガル人が︑上陸を許されず退去を命じられた理由はわ  

からない︒しかし四三年の琉球王国には︑彼らの入港を認められない事情があった︒明朝の﹃世宗実録﹄ によれ  

ば︑これより先︑樟州人の陳貴らが密貿易のため琉球に渡航し︑潮州の海船と争って殺傷事件を起こした︒琉球  

ポルトガル人の日本初来航と東アジア海域交易   

(17)

王府は陳貴らを監禁し商品を没収したが︑陳貴らは脱走をはかって捕縛され︑その際に多くの仲間が殺された︒  

福建からこの事件の報告を受けた朝廷では︑陳貴らは密貿易により厳罰に処すが︑琉球が彼ちの密貿易を許した  

うえ︑商品を没収し︑監禁・殺害したことはきわめて不遜であり︑今後は﹁軽々しく中国の商民と交通貿易する  

を得ず﹂と戒告すべきである︑との結論に達した︒嘉靖帝もこれを裁可し︑一五四二年五月︑琉球が今後も密貿  

︵43︶  ただ  易を放任すれば﹁即ちにその朝貢を絶つ﹂という厳しい勅旨を下したのである︒この勅旨は︑年末までには琉球  

に伝達されたであろう︒このため一五四三年には︑琉球王府は中国船との貿易にきわめて慎重にならざるを得な  

かった︒この年に琉球に来航したポルトガル人は︑華人のジャンクに同乗しているので︑入港して貿易すれば嘉  

靖帝の勅旨に抵触することになる︒このため海上に停泊して貿易することは黙認されたものの︑入港は許されず︑  

退去が命じられたと考えられるのである︒   

つづいて仮説︵⁚11︶を検討してみよう︒この場合︑エスカランテが政治的理由により︑ポルトガル人の種子島漂  

着を︑故意にレキオス漂着として報告したと想定する︒スペインとポルトガルは一四九四年のトルデシーリヤス  

条約によって勢力範囲を二分したが︑その後もアジア東部では両国の分界線が確定せず︑勢力圏をめぐる競合が  

︑㌧ 続いていた︒スペイン艦隊の一員であったエスカランテは︑ポルトガル人が日本を発見したと報告して︑日本に  

対する優先権を認めることを避けようとした︒そこでエスカランテは︑意図的にポルトガル人の漂着地を種子島  

︵45︶  ではなく﹁レキオス﹂とした︑というのである 

しかしこの仮説を実証的に裏付ける史料的根拠があるわけではなく︑あくまでも状況証拠による推測の域を出  

るものではない︒さらにエスカランテ報告は︑一方ではポルトガル人が最初にレキオス ︵琉球︶ を﹁発見﹂した  

ことを明示する内容になっている︒もしエスカランテにポルトガル人の新領土発見を隠す意図があったとすれば︑  

なぜあえて琉球発見を明記したのか理解しがたい︒一五一〇年代に︑トメ・ビレス ︵↓Om佃Pires︶がマラッカで    ポルトガル人の日本初来航と東アジア海域交易  

(18)

︵46︶ 遭遇した琉球人について詳しく紹介して以来︑琉球の存在はむしろ日本以上によく知られていた︒﹃発見記﹄の著  

者ガルヴァンも︑ポルトガルに帰国後︑カタリナ女王にあてた書簡で次のように述べている︒﹁スマトラからモルツ  

カ ︵諸島︶ へは横断して四百レグアはありません︒⁝⁝シナへも同じくらいの里程です︒琉球にはそれよりやや  

多くなります︒⁝⁝また ︵メェバ・エスパーニャの︶ フエルナン・コルテス侯︑および新たに来任した副王のド  

ン・アントニオ・デ・メンドーサは︑シナ・レケオス・モルツカに遣わし︑また他の新たな世界を発見するため  

︵47︶  に︑ガレオンその他の多数の船の一船隊を作ることを命じました﹂︒メキシコ副王メンドーサが派遣した艦隊とは︑  

エスカランテが参加したヴィラロボス艦隊をさすが︑レキオス発見はその主要な使命の一つだったという︒さら  

にいえば︑エスカランテ報告書は﹃発見記﹄ のような公開を前提とした著作ではなく︑メキシコ副王にあてた内  

部報告書である︒この種の報告書で︑あえてまったく虚構の報告をする必然性があったとは考えにくいのではな   

\J \j O −∨−力   

また逆に︑ポルトガル人のフレイタスはスペイン人のエスカランテに対して︑日本発見の事実を隠して語らな  

︵48︶  かった︑と想定する論者もいる︒しかしこの仮説も︑フレイタスにポルトガル人の新発見を隠す意図があったな  

らば︑なぜ琉球発見をあえて語ったのか︑という疑問を避けられない︒またポルトガル人の日本発見を伝えれば︑  

むしろポルトガルの日本に対する優先権を主張することにもなり︑フレイタスにそれを隠す必然性があったかど  

うかも疑わしい︒フレイタス情報に日本発見の記事がないのは︑要するに琉球への漂着者が彼の部下だったのに  

対し︑種子島への渡航者とは特に関係がなく︑彼はそのことを語る立場になかったからではないだろうか︒   

なお上記のガルヴァン書簡では︑中国と琉球について言及しながら︑日本についてはまったく触れておらず︑  

彼が日本について十分な情報を持っていたとは考えにくい︒さらに ﹃発見記﹄ では︑ポルトガル人の日本発見を  

︵49︶  記した直後に︑次のような記事が続いている 

ポルトガル人の日本初来航と東アジア海域交易   

(19)

同じく一五四二年︑メェバ・エスパーニャ副王のアントニオ・デ・メンドーサは︑艦長と水先案内人を︑か  シエラネヴァダ  ってコルテスが訪れたエンガノ︵enganhO︶岬を発見するため派遣した︒彼らは北緯四十度にある雪の山︵ser・   

rasneuadas︑英訳Sierras Neuadas︶︑まで航海した︒そこで彼らは︑商品を積んだ ︵複数の︶船に出会っ   

たが︑その舶先にはアルカトラズ︵a−catrazes︶と呼ばれるある種の鳥や︑他の鳥の金銀でできた像が︑意匠か   

装飾としてつけられ︑帆桁は金で︑舶先は銀で塗られていた︒それらは日本もしくは中国から来たようであっ   

た︒彼らが言うには︑それらの国には三十日以内で航海できるという︒  

カリフォルニアのシエラネヴァダ山脈付近に︑日本や中国の貿易船が来航したという荒唐無稽な説には︑北アメ  

リカと東アジアの距離が実際よりかなり近く考えられていたという背景がある︒いずれにせよ︑﹃発見記﹄の日本  

関係記事には︑このような不確実な風聞も含まれていることに注意しなければならない︒   

モルツカでフレイタスから直接に得た情報に基づくエスカランテ報告と︑ガルヴァンがリスボンで間接的に得  

た伝聞に基づく﹃発見記﹄ の史料価値を比べれば︑一般的にみて前者の信頼性がはるかに高い︒くわえて﹃発見  

記﹄の内容は具体性に乏しく︑﹁鉄砲記﹂とほとんど一致しないうえ︑漂着地を北緯三十二度とするなどの疑問点  

もある︒一方エスカランテ報告のレキオスは明らかに琉球王国を指しており︑また政治的理由から日本発見を隠  

した可能性も低いとすれば︑やはりシュールハンマー説のように︑一五四二年にポルトガル人が漂着したのは︑  

日本︵種子島︶ ではなく琉球であり︑四三年には別のポルトガル人が種子島に渡航して鉄砲を伝えた︑と考える  

︵訓︶ のが妥当ではないだろうか︒    ポルトガル人の日本初来航と東アジア海域交易  

(20)

﹃発見記﹄ の日本漂着の記事が︑琉球漂着の誤伝であったとすれば︑通説的なポルトガル人目本来航の状況自  

体も再検討する必要がある︒﹁ポルトガル船が種子島に漂着して鉄砲を伝えた﹂という旧来のイメージに対し︑近  

年では︑﹁王直のジャンク船にポルトガル人が同乗し︑種子島に漂着した﹂という︑王直に代表される華人海商の  

役割を強調する見方が有力である︒これは﹁華人のジャンクに乗ったポルトガル人が日本に漂着した﹂︵﹃発見記﹄︶︑  

﹁明人の儒生五峯︵=王直︶が南蛮船に乗っていた﹂ ︵﹁鉄胞記﹂︶という記述を組みあわせたものだが︑﹃発見記﹄  

の記事が種子島漂着を示すものでないとすれば︑﹁ジャンクに乗ったポルトガル人の漂着﹂という見解にもいくぶ  

ん検討の余地がありそうだ︒   

まず圭直と鉄砲伝来との関係について︒いうまでもなく﹁五峯﹂は後期倭冠のリーダーであった王直の号であ  

る︒﹁鉄胞記﹂を執筆した南浦文之が︑中国海商の代名詞ともいえる五峯の名を拝借した︑という可能性も完全に  

は否定できない︒しかし一五四三年当時の王直の活動状況からみて︑たしかに彼がポルトガル人とともに来日し  

ても不思議ではない︒   

従来は﹃日本一鑑﹄ に︑王直は﹁乙巳歳︵嘉靖二十四=一五四五年︶ に於いて日本に往市し︑始めて博多津の  

︵51︶  倭︑助才門等三人を誘いて双喚に来市す﹂とあることから︑四三年に五峯=王直が種子島に来たとする﹁鉄砲記﹂  

との矛盾が指摘されていた︒しかし村井孝介氏が明快に論証するように︑王直は一五四〇年代前半から日本にも  

︑=︑︐■u  来航していたと考えられる︒﹃筆海図編﹄ には﹁嘉靖十九 ︵一五四〇︶年︑時に海禁は尚お弛し︒︵王︶直は葉宗  た  シャム ゆ 満等と広東に之き︑巨艦を造り︑将に硝黄・純綿等の違禁物を帯びて︑日本・遅羅・西洋等の国に抵り︑往来し   四 ポルトガル人の種子島来航と鉄砲伝来の状況  

ポルトガル人の日本初来航と束アジア海域交易   

(21)

五二  ポルトガル人の日本初来航と東アジア海域交易  

はか︵53︶ て互市すること五・六年︑富を致すこと砦られず︒夷人大いにこれに信服し︑称して五峯船主と為す﹂とあり︑  

王直は一五四〇年ごろから︑広東を拠点に東南アジアや日本を結ぶ密貿易を展開し︑﹁五峯船主﹂で通っていたと  

いう︒西洋︵東南アジア西部︶ の中心港はマラッカやパタニであり︑王直は広東・シャム・マラッカ・パタニな  

どでしばしばポルトガル人と接触したであろう︒その後王直は四四年に双喚の密貿易集団に参入し︑四五年には  

九州に渡航して︑その帰途に博多の助才門らを双喚に引き入れ︑四六年にも来日して︑日本−双喚の密貿易を展  

︵54︶ 閲したのである︒﹁鉄胞記﹂ の記録を信じるかぎり︑﹁五峯﹂は王直を指すとみてよいだろう︒   

それではポルトガル人は華人のジャンクに乗って︑種子島に来航したのだろうか︒﹃発見記﹄では︑三名のポル  

トガル人が華人のジャンクで日本に漂着したと説くが︑﹁鉄砲記﹂では︑﹁船客は百余人︑その形は類せず︑その  

語は通ぜず﹂とあり︑百余人の船客は日本人と似た華人ではなく︑ポルトガル人や東南アジア人だったように読  

クリストヴァン●ダ●モッタ  める︒誇張や文飾があったとしても︑﹁頁胡の長﹂である牟良叔舎と喜利志多佗孟大のほかにも︑かなり多くのポ  いず  ルトガル人や東南アジア人が乗っていた可能性がある︒一方で船種については︑﹁西村の小浦に一大船あり︒何れ  

の国より来るかを知らず﹂とあるだけで︑ポルトガルのナウ船か中国のジャンクか判然としない︒ただしポルト  

ガル人が一五一三・一四年に中国に初渡航した際には︑マラッカで現地のジャンクをチャータ1しており︑一五  

︵55︶  一七年に広東から琉球発見に向かった際も︑ジャンクに乗り華人の水先案内人を雇っている︒またエスカランテ  

報告によれば︑一五四二・四三年に琉球に渡航したポルトガル商人も︑華人ジャンクを利用していた︒さらに一  

五四四年から連年のように九州に来航した西欧人も︑マラッカ・アユタヤ・パタニなどの東南アジアの港市から︑  

︵57︶  ︵空 華人海商のジャンクによって渡航している︒すでに天文九︵一五四〇︶ には︑種子島に明船が来航しており︑四  

三年の時点で華人海商は種子島への航路を把握していたであろう︒こうした状況からみて︑やはりポルトガル商  

人は華人海商のジャンクに同乗し︑華人の水先案内人に導かれて種子島に渡航したとのではないか︒むろん王直   

(22)

がそのジャンクの船主であった可能性も高い︒   

それではこのジャンクは﹁暴風雨で種子島に漂着﹂したのだろうか︒﹃発見記﹄ではポルトガル人が暴風雨によ  

■ゝ︵・  り漂流し︑偶然に日本を発見したとするが︑﹁鉄砲記﹂には暴風雨による漂着をうかがわせる描写はまったくない︒  

東南アジアや華南から南西諸島を北上すれば︑まず種子島・屋久島などに到着する︒また﹁鉄砲記﹂に南蛮船の  

来着地とする種子島南端の西村浦は平坦な砂浜が続き︑南方海上から種子島に着岸するにはもっとも適当な地点  

である︒南方から黒潮ルートに乗って日本をめざした場合︑まず種子島南端に着岸するのは自然であり︑﹁鉄砲記﹂  

の描写からみて︑ポルトガル人は暴風雨により漂着したのではなく︑はじめから種子島をめざして来航したと考  

えるべきであろう︒   

なお王直に代表される華人海商が︑ポルトガル人初来日に重要な役割を果たしたことは疑いないが︑近年では  

さらに︑日本に鉄砲を伝えた主体はポルトガル人ではなく︑むしろ華人密貿易者が東南アジア式の鉄砲を日本に  

︵59︶ 伝えたという説も提唱されている︒その主たる論拠は次の二点である︒①一五四〇年代の朝鮮史料に︑福建から  

日本に渡航する密貿易者が︑日本に﹁火胞﹂を伝えたという記事がある︒②日本式火縄銃の形式が︑ヨーロッパ  

式よりも東南アジアのマラッカ式火縄銃に近い︒しかしまず①についていえば︑関周一氏が指摘するように︑朝  

︵鮒︶  鮮史料に見える﹁火砲﹂とは︑火縄銃ではなく伝統的な中国式の火器を指していると考えられる︒   

また②についても︑ポルトガル商人が私用ないし商品として︑東南アジアで現地調達した火縄銃を種子島に伝  

えたとしても不思議ではない︒的場節子氏によれば︑種子島伝来銃は銃床が頬付け式で︑火ばさみが銃口側に倒  

れる瞬発式火縄銃であり︑西欧で十六世紀前半に開発された鳥類狩猟用の火縄銃と特徴が一致するという︒的場  

氏はマラッカ方面で密林での狩猟用にこの種の火縄銃の現地生産が行われ︑ポルトガル人がそれを種子島に持ち  

︵61︶ 込んだと推定している︒﹃東洋遍歴記﹄でも︑種子島でポルトガル人が鉄砲で野鳥を狩猟するのを見て︑領主が強  

ポルトガル人の日本初来航と東アジア海域交易   

(23)

︵62︶  い関心を示し︑その操作と製造法を習ったと述べており︑種子島に伝わった火縄銃が狩猟用であった可能性をう  

かがわせる︒   

なお﹃日本一鑑﹄には︑﹁手銃︒初めは仏郎機国に出づ︒︵仏郎機︶国の商人︑始めて教え︑種島の夷の作る所と  

︵63︶  なる︒次いで則ち棒津﹇坊津﹈・平戸・豊後・和泉等の処も︑通じてこれを作る﹂という記事がある︒日本・中国・  

ポルトガルで別々に成立した︑﹁鉄灼記﹂・﹃日本一鑑﹄・﹃東洋遍歴記﹄が︑いずれもポルトガル人がもたらした鉄  

砲が︑種子島で模造され日本各地へ普及するという︑共通するストーリーを伝えているのは偶然ではありえない︒  

また関周一氏が述べるように︑天文二十二 ︵一五五三︶年ころ︑近衛植家が島津氏を介して︑種子島時亮に﹁南  

蛮人直令相伝﹂ の火薬調合法を幕府に伝えるよう依頼しているのも︑ポルトガル人が伝えた最初期の鉄砲技術が  

︵64︶  種子島から畿内に伝えられたことを示している︒その後は種子島以外からも別系統の火縄銃が伝来したであろう  

が︑一五四三年に種子島に来航したポルトガル商人が︑東南アジアで現地生産された火縄銃を︑最初に日本に伝  

えたことは疑いないだろう︒  

﹁鉄砲記﹂の後半部分は︑種子島に伝わった鉄砲が︑畿内や関東に伝播するプロセスを主題とする︒その最後で  

は︑種子島を出帆した遣明船が伊豆に漂着したことにより︑鉄砲が関東に伝わったと述べている︒しかしこの部  

分には︑﹁鉄砲記﹂前半部分との間に年代の矛盾があり︑それが鉄砲伝来を一五四二年とする説の有力な論拠とさ  

れてきた︒ここではこの問題を再検討するとともに︑問題の遣明船をめぐる諸史料を整理検討して︑鉄砲伝来当  

時の種子島をめぐる海域交易について展望してみたい︒    五 大友氏の遣明船派遣と種子島   ポルトガル人の日本初来航と東アジア海域交易  

(24)

﹁鉄胞記﹂によれば︑種子島時尭は一五四三年に来航したポルトガル人から鉄砲を入手し︑翌一五四四年に再来  

航したポルトガル人から銃底を塞ぐ技術を伝授され︑その後一年あまりで数十挺の鉄砲を製造したという︒した  

がって数十挺の鉄砲が完成したのは︑早くとも一五四五年初頭ということになる︒ところが﹁鉄砲記﹂の後半に  

は︑﹁新貢三大船﹂ の種子島出航をめぐる次のような記事がある︒   

我嘗てこれを古老に聞けり︒日く︑天文壬寅︵十一年・一五四二︶・発卯︵十二年・一五四三︶ の交︑新貢の   

三大船︑将に南のかた大明国に遊ばんとす︒:⁝・船を我が小嶋︵種子島︶ に賎し︑既にして天の時を待ちて  くだ   ぁ   ともづなかじととの  麿を解き模を斉え︑洋を望みて若に向かう︒不幸にして狂風は海を推げ︑怒涛は雪を捲き︑坤軸もまた折け  

ああほぼしらかいくだ  んと欲す︒呼︑時か命か︒一の貢船は椿傾き概堆けて烏有と化し去る︒二の貢船は漸くにして大明国の寧波  かえ   府に達す︒三の貢船は乗ることを得ずして我が小嶋に回る︒翌年︑再びその繚を解いて︑南遊の志を遂げ︑   

海貸・蛮珍を飽載して︑将に我が朝に帰らんとす︒大洋の中︑異風忽ち起こって西東を知らず︒船は遂に瓢  

いた  蕩して︑東海道伊豆州に達る︒州人はその貸を掠め取りて︑商客はまたその所を失う︒船中に我が僕臣の松  まとあた   下五郎三郎なる者あり︒手に鉄炬を携え︑既に発してその鵠に中らざることなし︒州人は見てこれを奇とし︑  およ   これ  窺伺・倣慕して︑多くこれを学ぶ者あり︒玄より以降︑関東八州より︑率土の演に埜ぶまで︑伝えてこれを  

習わざることなし︒   

この記事の要点は次の通りである︒  

︵i︶一五四二〜四三年︑新たに三彼の遣明船派遣が準備され︑種子島を出帆した︒しかし暴風雨により一責船は   

沈没︑二貢船は寧波に到着したが︑三貢船は種子島に引き返した︒  

︵⁚11︶翌一五四四年︑三貢船は種子島を再出航し︑中国で貿易を行って帰航したが︑暴風雨により伊豆に漂着した︒   

そこで乗員の松下五郎三郎が住人に鉄砲を伝え︑関東にも鉄砲が普及した︒  

ポルトガル人の日本初来航と東アジア海域交易   

(25)

つまり﹁鉄胞記﹂は前半で︑︵Ⅰ︶ポルトガル人が一五四三年に初来航︑四四年に再来航し︑四五年初頭までに  

鉄砲の模造に成功したと記す︒ところが後半では︑︵H︶一五四四年に種子島を出航した三吉船に︑松下五郎三郎  

が鉄砲を持って乗船していたことになる︒したがって︵Ⅰ︶か︵H︶のどちらかの年が誤っていると考えなければな  

らない︒もしポルトガル人の初来航を︑︵Ⅰ︶に記す一五四三年でなく一五四二年であるとすれば︑この矛盾は解  

消する︒その場合ポルトガル人の再来航は四三年︑鉄砲の模造成功は四四年初めになり︑四四年の初夏に出帆し  

︵65︶  たであろう三買船に︑松下五郎三郎が鉄砲を持って乗船することは可能になる︑というわけである︒   

この説では﹁鉄胞記﹂ のうち︑︵Ⅰ︶ポルトガル人初来航の年を一年前に修正し︑︵H︶遣明船出帆の年との矛盾  

を解消するわけだが︑当然ながら︑︵H︶遣明船出帆の年を一年後に修正し︑︵Ⅰ︶ポルトガル人初来航の年との矛  

盾を解消する︑ということも可能である︒そして結論から言えば︑関連史料の記述からみて︑年の誤りは︵Ⅰ︶部  

分ではなく︑︵H︶部分にあると考えられるのである︒  

︵66︶   まず﹃種子島家譜﹄ には︑次のような記事がある 

天文十三 ︵一五四四︶年甲辰︒⁚⁝・四月十四日︑渡唐船二合船と号す解模す︒  

天文十四 ︵一五四五︶ 年乙巳六月十四日︑合船帰朝す︒  

︵67︶  また﹃筆海図編﹄に︑嘉靖二十三 ︵一五四四︶年六月︑﹁夷船一隻︑使憎寿光等一百五十八人︑貢と称す﹂とある  

のも︑二貢船︵﹃種子島家譜﹄では二合船︶の寧波到着を指すに違いない︒つまり三膿の遣明船のうち︑二貢船は  

一五四四年四月に種子島を出帆し︑六月に寧波に到着︑翌四五年の六月に種子島に帰着したのである︒従って三  

腹這明の船が四一一一年に種子島を出帆し︑うち二貢船だけが寧波に到着したとする﹁鉄砲記﹂ ︵Ⅲ︶の記事とは一致  

︵68︶  しない 

ただし寧波に到着した二貢船の朝貢貿易は認められなかった︒日本の朝貢は十年一回が定例であり︑前回の遣    ポルトガル人の日本初来航と東アジア海域交易  

(26)

︵69︶  使から五年しかたっておらず︑かつ日本国王の表文もないことから︑明朝は朝貢を許さなかったのである︒この  

︵70︶  二貢船はその後も寧波近海の双喚附近にとどまって密貿易を行ったようだ︒﹃箸海図編﹄に﹁甲申︵嘉靖二十三=  

う︵H︶  たまたま  とどこお 一五四四年︶自り歳凶にして︑双喚の貨は塗るに︑日本の貢便通ま至り︑海商は遂に貨を販る﹂とあるのは︑二  

貢船の双喚入港を指すに違いない︒さらに﹃世宗実録﹄嘉靖二十四︵一五四五︶年四月突巳条には︑日本使節の  がえん  およ  この  朝貢を許さず帰国を命じたにもかかわらず︑﹁各夷は中国の財物を噂み︑相い貿易して︑歳余に延ぶに去るを肯ぜ  

ず﹂とあり︑二貢船は翌一五四五年の四月まで双喚に留まっていた︒その後ようやく双喚を出港し︑同年六月に  

種子島に帰着したのである︒なお二貢船の帰航に際しては︑四四年から双喚の密貿易集団に参入していた王直が︑  

︵72︶ 警護のため哨戒船を率いて同行している︒   

したがって二貢船の種子島出帆は一五四四年四月︑帰着は四五年とみるべきであり︑﹁鉄胞記﹂︵H︶ の﹁天文  

壬寅︵一五四二︶・突卯︵一五四三︶ の交︑新貢の三大船︑将に南のかた大明国に遊ばんとす﹂は︑﹁天文突卯・  

甲辰︵十三=一五四四年︶ の交﹂の誤りと考えなければならない︒とすれば三貴船が種子島を再出航したのは︑  

二貢船出航の翌年である一五四五年となり︑四五年初頭に完成した鉄砲を持って乗り込むのは十分可能になる︒  

﹁鉄胞記﹂の ︵H︶部分は︑文頭に﹁我嘗てこれを古老に聞けり﹂とあるように︑古老の伝承に基づいており︑  

種子島家の古記録に基づくと思われる︵Ⅰ︶部分よりも︑年代の誤りは生じやすいだろう︒さらに﹁三貢船に乗っ  

た松下五郎三郎が関東に鉄砲を伝えた﹂という︑︵Ⅲ︶部分の主題自体にも疑問が残る︒三頁船が漂着した伊豆は  

後北条氏の領国であるが︑宇田川武久氏によれば︑後北条氏による鉄砲使用が確認 されるのは一五六〇年以降で︑  

︵73︶  西日本の諸大名はもとより︑甲斐の武田氏に比べてもかなり遅れていた︒一五四〇年代に伊豆から関東へ鉄砲が  

広まったとは考えがたいのである︒   

さて上記の諸史料では︑一五四四年に種子島を出帆した遣明船の派遣主体は不明だが︑村井章介氏は︑ピント  

ポルトガル人の日本初来航と東アジア海域交易   

(27)

・■﹂︑ の ﹃遍歴記﹄ から次のような興味深い一節を紹介している︒  

イリヤ●ヂ●タニシュマ   さまざまな気晴らしに日を過ごしながら︑私たちがのんびりと満ち足りて︑この種 子 島に滞在すること二  ナウ   ブンゴ   十三日経った時︑この港に豊後王国から︑多数の商人の乗っている一隻の船が着いた︒彼らは上陸すると︑   

﹇ナウタキンは﹈私たちをそばに呼び︑   習慣になっている進物を携えてすぐにナウタキンを訪問した︒⁝⁝   

少し離れたところにいた通訳に合図して︑彼を通じて言った︒﹁我が友人よ︑今渡された︑余の主君であり︑  

かつおじである豊後王のこの手紙を読むのを是非聞いて貰いたい⁝⁝﹂︒  

村井氏はこの記事にいう︑﹁豊後から来た︑多数の商人の乗った船﹂こそが︑問題の遣明船ではないかと推定して  

いる︒前述のように︑ピントは一五四四年に種子島を訪れたと思われ︑おそらく彼が種子島滞在中に豊後から来  

航した遣明船を実見し︑そのことを﹃遍歴記﹄ に盛り込んだのだろう︒   

またこの当時︑大友氏が幕府から勘合を入手していたことからも︑遣明船の派遣主体が大友氏であったことが  

推定できる︒橋本雄氏が明らかにしたように︑大友氏はすでに文亀三 ︵一五〇三︶年に将軍足利義澄から弘治勘  

︵75︶ 合を入手していた︒ただし遣明船の派遣にはいたらず︑その間に大永三 ︵一五二三︶年の寧波争貢事件を経て︑  

大内氏が細川氏を対明貿易から排除し︑天文六 ︵一五三七︶年には独占的に遣明船を派遣した︒ところが天文十  

一︵一五四二︶年︑大内氏は日本国王の書契を偽造して︑朝鮮国王に対し︑﹁好濫の臣﹂が弘治勘合を盗みだして  

︵76︶  遣明船派遣を図っていると告げ︑このことを朝鮮から明朝に伝達してほしいと依頼している︒大内氏としては対  

明貿易の独占を維持するため︑大友氏がさきに入手した弘治勘合を利用して遣明船を派遣する前に︑機先を制し  

てこの書契を送ったのだろう︒ただし朝鮮政府はこの要請を断っており︑大友氏は四三年から対明貿易の準備を  

進め︑四四年には三鰹の遣明船が種子島を出帆したのである︒   

幕府から勘合を入手し︑遣明船を送ったのは大友氏だけではなかった︒﹃日本一鑑﹄には︑次のような一連の記    ポルトガル人の日本初来航と東アジア海域交易  

参照

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