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﹃ 歎 異 抄 ﹄ の 統 一 的 解 釈

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(1)

はじめに   浄土真宗は︑親鸞と同じ﹁他力信心﹂を得ることをもって宗の生命とするが︑眼に見えな

い心の様相は同異の確認が難しいことから︑親鸞の信心とは異なる心のまま念仏する﹁異安心﹂が問題化されるようになった︒﹃歎異抄﹄はこうした異安心を主題とする一つのテクストである︒﹃歎異抄﹄は親鸞自身の著作ではな

く︑面授の弟子である唯円が︑記憶にある親鸞の行実︵親鸞法語︶を記し︑当時の異安心

者たちの思想を批判︵異義批判︶した述作とされ︑自筆原本は見当らない 2︒ ︒﹃﹄︵ ﹄︑

﹃ 歎 異 抄 ﹄ の 統 一 的 解 釈

││  第一〇条分断の是非を手がかりに  ││

木   村   元 太 郎

(2)

  唯円には﹃歎異抄﹄以外の著作がなく︑﹃歎異抄﹄について直接言及する関連資料もほとんどないのが現状であ

ることから︑﹃歎異抄﹄の研究は本書を内在的に読みぬき︑親鸞の著作や書簡等と対比して疑問や問題点の解決を図る︑という手法が取られて来た︒しかし︑自筆原本が存在せず関連資料も少ないという問題は︑様々な仮説や解

釈を容易に許す形となり︑注釈者による親鸞や唯円の思想への推考が︑自由に行われて来たと見てよいだろう︒

  そうした経緯を踏まえながら︑これまでの注釈書を総括して諸問題を解決すべく︑佐藤正英﹃歎異抄論釈﹄

が発行された 3︒佐藤による解釈は︑他に類を見ないほど微細かつ深遠に論脈を展開しており︑現在最も

重視すべき研究だと考えられる︒この﹃歎異抄論釈﹄において従来の疑義は諸説検討され︑すでに論議の尽くされ

たものも多いが︑佐藤による新たな問題提議は検証されるに至っていない︒佐藤は﹃歎異抄論釈﹄の中で︑底本と

される蓮如本に対する疑問を提示して︑本文中に錯簡があることを指摘する︒さらに﹁この錯簡を訂正して原形を復元すると︑唯円自筆の原本は二冊の書であって︑﹃歎異抄﹄前半の親鸞法語︵一〜一〇条︶は︑後半にある唯円

の異義批判︵一一〜一八条︶の付録である 4﹂という解釈を示す︵以下︑佐藤説と呼ぶ︶︒

  佐藤はこの﹃歎異抄﹄原本の二冊構成を︑複数の論拠をもとに立証しようとしているが︑その論拠の一つに第一〇条の分断がある︒一〇条は﹁親鸞法語と異義批判の序が混在する﹂という問題を︑古くから指摘された部分であ

る︒従来の解釈は一〇条の前半を親鸞法語とし︑後半を異義批判の序としており︑ほとんどの注釈書がこの解釈を

採用している︵図1を参照︶︒佐藤は﹁﹃歎異抄﹄の構成に関する新たな解釈が生まれないかぎり︑蓮如本第一〇条をめぐる﹃私記 5﹄以来の通説は動かし難い﹇⁝﹈親鸞の法語と異義批判の序という二つの異質な行文を一か条に接 合する錯誤を蓮如本が犯している 6﹂といい︑その錯誤を訂正すべく一〇条を分断して﹃歎異抄﹄を二冊に分ける

(3)

︵図2を参照︶︒だが︑この分断によって本来読みとるべき内容が失われることはないのだろうか︒これが本稿における問題意識の起点である︒

  佐藤の指摘にもあるように︑一〇条は﹃歎異抄﹄の構成において重要な

役割があると考えられる︒そこで本稿の目的は﹁念仏には無義をもて義とす⁝﹂という一〇条法語について︑唯円がなぜこの言葉を親鸞法語の最後

に記し︑異義批判の文頭に置いたのかを改めて考察することで︑佐藤説に

よる一〇条の分断が妥当ではないことを明らかにして︑底本とされる﹃歎

異抄﹄蓮如本の構成のまま︑統一的解釈を提示することにある︒

  手順として一節では︑先行研究ならびに佐藤説の内容を概観し︑論旨へ

の疑問を指摘する︒二〜三節では︑蓮如本の構成を再考すべく︑異義を批

判するそもそもの理由を考察する︒異義批判の目的が﹁親鸞と同じ信心を得ること﹂であるならば︑この目的に対して︑蓮如本と佐藤説の構成がど

のように関与しているかを︑ここで検討してみたい︒四〜五節では︑一〇

条法語と異義批判の関係について︑親鸞思想を基軸として︑両者が表裏一体であることを明らかにする︒ここでは親鸞思想を唯円がどのように継承

したかを掌握することができるだろう︒六節では︑一〇条にある異義批判

の冒頭とされる﹁そもそも﹂という言葉の意味を再検討する︒七節では一

漢文序 親鸞法語

1〜9 10 別序 唯円の異義批判 11〜18

後序 AB

流罪 記録

蓮如の 奥書 図1 蓮如本の構成

〈異義条々〉の部分 〈歎異抄〉の部分

別序 唯円の異義批判 11〜18

後序

後序

漢文

親鸞法語

1〜9 10 流罪 記録

蓮如の 奥書 10条と後序を分断して〈異義条々〉と〈歎異抄〉の2冊としている

図2 佐藤説の構成

(4)

〇条法語と一〜九条までの関係について︑親鸞から唯円が継承した自然法爾の思想をもとに︑﹁親鸞の法語と異義

批判の序という二つの異質な行文を一か条に接合﹂したと評される蓮如本一〇条は︑親鸞思想を継承する上で必要な構成であることを明らかにする︒

一  佐藤説の概要と疑問   まずは佐藤説を整理してみよう︒一〇条の分断以外にも︑佐藤は﹁漢文序は前半の親鸞法語のみに関わる序であ

る﹂﹁後記︵後序︶には錯簡があり︑これを訂正すると﹁大切の証文ども﹂︵親鸞法語︶を﹁この書﹂︵異義批判︶

に添える理由を語る文となる﹂﹁異義批判の後に記される序は﹃歎異抄﹄全体の後記ということはできず︑錯簡を

訂正することにより︑後記をめぐる疑問 7が解決し︑後記の分断が可能である﹂などを理由として︑﹃歎異抄﹄原本の二冊構成を提示する︒

  このうち︑本文中の錯簡に起因する原本の二冊構成は佐藤による新説であるが︑﹁大切の証文ども﹂が前半の親 鸞法語を指すという解釈は︑佐藤以前にも金子大栄校注本や 8︑姫野誠二﹃歎異抄の語学的解釈 9﹄などにも指摘される︒こうした佐藤以前の所説は︑﹃歎異抄﹄後序に記される﹁大切の証文ども﹂が何を指すのかを巡っての回答で あり A︑﹁異義批判の根據として︑本抄﹇歎異抄﹈にそれ以上の大切の証文があろうとは思えない B﹂ことが主な理由

とされてきた︒しかし﹁大切の証文ども﹂は﹁この書に添えられたもの﹂という記述があるため︑﹃歎異抄﹄︵この書︶が一冊のままでは︑﹃歎異抄﹄内にある親鸞法語を﹁この書に添えた大切の証文ども﹂とは解釈できないのが

難点であった︒佐藤説はこの難点を解消することができ︑図2のように一〇条と後序を分断して﹃歎異抄﹄を二冊

(5)

に分けることで︑﹁︿異義条々﹀の部分︵この書︶に︑︿歎異抄﹀の部分︵大切の証文ども︶を添える﹂という解釈が可能となる︒

  とはいえ︑佐藤説にも幾つかの疑問点がある︒例えば︑佐藤は漢文序の内容が﹃歎異抄﹄全体ではなく親鸞法語

︵一〜一〇条︶のみを指すとして︑﹃歎異抄﹄を親鸞法語と異義批判に分ける根拠のひとつとしている︒漢文序は

﹁先師﹇親鸞﹈の口伝の真信﹇他力信心﹈に異なることを歎き﹇⁝﹈故親鸞聖人の御物語の趣き C﹂を﹁行者の不審

を散ぜんがため﹂に記すとあり︑続く一〜一〇条までの親鸞法語には︑親鸞の口伝や唯円との対話による物語など

が編集されている︒しかし︑唯円との物語は異義批判の一三条にも記されており︑さらに一二条︑一五条︑一七条

には﹁親鸞の口伝﹂をあげて異義批判の論拠としている︒こうした記述は︑漢文序にある﹁先師の口伝の真信に異なることを歎﹂いた唯円が﹁行者の不審を散ぜんがため﹂に記した教化と考えられることから︑佐藤のいう﹁漢文

序は前半の親鸞法語︵一〜一〇条︶のみに関わる序﹂と解すには無理があるだろう︒

  また︑後序における錯簡は佐藤による独自の想定であり︑諸写本などの外的証拠があるわけではない︒錯簡による解釈が妥当であるか否かは﹁本文で語られている内実がより明確に捉えられているか否かに求める他はない

﹇⁝﹈蓮如本の本文のままでは解することのできない諸疑問を本文に即して明らかにする試みである D﹂と佐藤はい

う︒しかし︑論脈を重視するあまりに錯簡を想定し︑伝本の本文形態に改変を施さなくても︑唯円が何を信じ何を願い求めているのかを読み取ることで︑﹃歎異抄﹄というテクストの性格にしたがった︑自然な解釈ができるので

はないだろうか︒そこで次節では︑﹃歎異抄﹄がそもそも何を目的とした書であるのかを︑唯円が継承する親鸞思

想を基軸として考察してみたい︒

(6)

二  ﹃歎異抄﹄の目的について   ﹁上人﹇親鸞﹈のおほせにあらざる異義ども﹂とあるように︑﹃歎異抄﹄における異義とは︑﹁先師の口

伝の真信に異なる﹂信仰心や思想をいうが︑こうした異義を批判する目的は何処にあるのだろうか︒もち

ろん︑異義を批判し誤った思想を排除することは︑正しき信仰の護持発展につながるであろうことは言うまでもない︒しかし︑少なくとも異義は︑他力の教えにふれたものが起こす思想である︒それを親鸞の教えと比較して﹁こ

れは正しくないから﹂と︑排除することだけが目的ならば︑阿弥陀仏が﹁悪人成仏のため﹂に起こしたとい

う本願とは︑意趣が違ってくるのではないだろうか E︒   阿弥陀仏の光明と寿命が限りないのは︑あらゆる衆生を救い続けて止まないからであり︑その本願は﹁罪悪深重︑煩悩至常の衆生をたすけんがため﹂であるという︒唯円は他力の宗旨を乱す原因を﹁自見の覚悟﹇各人

による自分勝手な解釈﹈﹂としているが︑本願の意趣に沿うことを念頭に置くならば︑異義に傾倒し宗旨

を乱すような﹁悪人﹂に対してさえ︑他力信心に導く道理を示すことが異義批判の目的であり︑それがまた異義への抑止に繋がると考えるべきであろう︒

  唯円は﹃歎異抄﹄後序に︑いわゆる﹁信心一異の論争﹂︵他力信心は同じか違うかという論争︶をあげて︑﹁口伝

の真信に異なる﹂ことが法然在世時からあることを指摘している︒この論争はいわば法然と親鸞による異義批判であり︑他力信心は﹁如来よりたまわりたる信心なり﹇⁝﹈さればたゞひとつなり﹂という法然の答

えから︑信心を一にすべき必要性が生まれ︑さらに﹁別の信心にておはしまさんひと﹂は︑同じ浄土︵報

(7)

土︶へは往けない︑と法然は異義者を諭していることから︑異義を批判することは︑他力信心を得るための必要な手立てであることが分かるだろう︒

  また︑この論争は唯円による異義批判︵一一〜一八条︶の直後に記されており︑﹁右条々は︑みなもて信心のこ

となるより︑ことおこりさふらうか﹂という文を受けて示されることからも︑同じ信心を得ることは︑異義批判との密接な関係があると考えてよい︒唯円にとっての﹃歎異抄﹄は﹁一室の行者のなかに信心ことなることな

からんために︑なくなくふでをそめて﹂記したものであり︑自力の心のまま念仏しても︑報土に生まれず化

土にしか往けないことへの歎きから︑他力転入への願いが込められたものとなっている︒

  こうした唯円の歎きや願いは︑行者の心が﹁口伝の真信に異なる﹂からこそ生じるのであり︑それは親

鸞と同じ信心を得ることによって︑すべて解決することになる︒なぜなら︑他力信心を得ることは﹁すでに定聚の

くらゐにおさめしめたまひて︑命終すればもろもろの煩悩悪障を転じて︑无﹇無﹈生忍 Fをさとらしめたまふ﹂

ことが保証されるからだ︒さらに他力信心は﹁如来よりたまはりたる﹇同一の﹈信心﹂であることから︑異義が生じることもなく︑何があっても壊れず無くならない﹁金剛の信心﹂であるため︑この信心を

得れば異義には傾倒しないことを唯円は熟知している︒したがって﹃歎異抄﹄は︑異義に傾倒することで他力信心

から離れる人々に対して︑﹁親鸞と同じ信心を得る﹂ように導くことを︑その第一の目的としていることが分かるだろう︒

(8)

三  蓮如本の構成と佐藤説の構成との比較   では︑異義を批判する理由が﹁親鸞と同じ他力信心を得ること﹂にあるならば︑それが﹃歎異抄﹄の構成とど

う関係しているのだろうか︒親鸞の信心は端的にいえば﹁自力のこゝろをひるがへして︑他力をたのみたてまつ

﹇る﹈﹂ことである︒したがって﹃歎異抄﹄は︑この信心を読者に起こすような役割を担う構成をとることになる︒

  唯円は︑異義を歎いて他力信心への転入を願い︑未信者が異義へなびくことを憂慮して﹃歎異抄﹄を記すわけだ

が︑それは佐藤説のように﹁異義批判が主著であり︑親鸞法語が付録である﹂という意味ではない︒その理由は︑

主著とされる異義批判を最初に読むことで︑たとえ異義そのものが理解できたにせよ︑異義批判の基準となる他力信心とは具体的にどういう心であり︑その信心を得るにはどうすればよいのかが判然としないからだ︒こうした問

題に対応するかのように︑蓮如本では他力信心の全体像を親鸞法語の第一条に示しており︑この信心を得るには続

く第二条の中で﹁よきひとのおほせをかふりて﹇聞いて﹈信ずる﹂外にないことを記して︑以下条目を追うごとに他力の心得を理解できるよう構成されている︒また︑親鸞の教えを正確に伝えようとする唯円の立場からすれば︑

自分の書いた異義批判を中心に︑その証拠として親鸞法語を添えるという構成より︑まずは親鸞によるありのまま

の言葉を記して他力の様相を伝えた後に︑異義の実例をあげて批判することで︑異義への傾倒を抑止したいのではないだろうか︒

  佐藤による錯簡の訂正は﹁底本である蓮如本の本文そのものには一字の増減も加えていない G﹂という︒このこと

(9)

について﹁順番が違うだけなら結果的に同じではないのか﹂という疑問が生じるかも知れない︒しかし︑物事には順序が違うことで味わいが変わり︑大切なものが損なわれることも少なくない︒書籍などでも︑何かの手引きをす

る場合︑難解なものから学習させるのではなく︑まずは簡単なものや︑最も重要なことから学ばせることが大切で

ある︒この点において﹃歎異抄﹄の親鸞法語︵一〜一〇条︶は簡潔で親しみやすく︑異義批判︵一一〜一八条︶は総じて長文であり︑難解な部分も多く専門的である︒佐藤説の構成より︑蓮如本の構成の方が教説への理解を得や

すい︑と考えられる︒

  また︑前節にて検討した﹁他力信心を得る﹂という目的においても︑三条などは﹁善人なをもて往生をとぐ︑い

はんや悪人をや﹂という逆説的なフレーズを用いて︑﹁悪人が往生できるなら︑善人はなおさら往生できる﹂という社会通念を批判することで︑阿弥陀仏の救済は人の善悪にかかわらず﹁他力をたのみたてまつる﹇信心が﹈﹂

必要であることを︑分かりやすく伝えようとしている︒さらに︑他力信心を一条で明かした後に示される二〜

一〇条の法語や物語は︑時に﹁なぜ?﹂と思わせるようなレトリックを用いることで︑読者の心を引き付けながら︑親鸞と同じ信心獲得へ導くように編集されている︒﹃歎異抄﹄が他力信心の獲得を手引きする書であるならば︑

佐藤のいう異義批判を中心とした二冊構成より︑﹁親鸞法語から異義批判へ﹂という流れを持つ蓮如本の方が︑他

力信心を得やすい構成といえるだろう︒

四  一〇条法語と異義批判の関係   一〇条を﹁親鸞法語﹂と﹁異義批判の序﹂にわけて解釈することは︑多数の注釈書に支持された通説である︒し

(10)

かし︑現存する諸写本の本文は︑いずれも改行や空欄がなく一文で綴られており︑漢字やかなの違いはあるもの

の︑ほぼ同様に以下の文面となっている︒念仏には无﹇無﹈義をもて義とす︑不可称不可説不可思議のゆへにとおほせさふらひき︒そもそもかの御在生

のむかし︑おなじくこゝろざしをして︑あゆみを遼遠の洛陽にはげまし︑信をひとつにして︑心を当来の報土

にかけしともがらは︑同時に御意趣をうけたまはりしかども︑そのひとびとにともなひて︑念仏まふさるゝ老若そのかずをしらずおはしますなかに︑上人のおほせにあらざる異義どもを︑近来はおほくおほせられあふて

さふらうよし︑つたへうけたまはる︑いはれなき條々の子細のこと H︒   通説では︑﹁⁝おほせさふらひき﹂までを一〇条法語︑﹁そもそも﹂以下を異義批判の序としている︒しかし︑諸

写本を参照する限り︑二部構成を支える表記上の証拠は何ひとつ見当たらない︒したがって﹃歎異抄﹄が二部構成であるという解釈は︑本文内容の把握から導き出されたものである︒この一〇条から︑異義批判の序を抜きだすこ

とについて︑梅原真隆は﹁九条までは唯円の言葉が付加されない﹂ことを理由に︑一〇条も親鸞の仰せで打ち切る

べきであることを指摘して︑次のように述べている︒

﹁そもそも﹂とは発端のことばであるから︑﹁そもそも﹂からは筆端を新にすべきである︒且つ﹁いはれなき

條々の子細のこと﹂と打切つてあるのは︑後八條の前置の詞であると見るべきである︒よつて︑私は﹁そもそ

も﹂已下を﹁別敍﹂として抽出すことが原型に還元する所以であると考えるのである︒﹇⁝﹈このように前後の両部にわかれるが︑歎異の当相はまさしく後部の八條に存するのである︒蓋し︑この八か條こそ唯円が当時

流行した異義を指摘して悲嘆し批判したものである I︒

(11)

  梅原は﹃歎異抄﹄が二部構成であることに加え︑蓮如本︵諸写本︶と唯円の自筆原本には違いがあり︑後半の異義批判が唯円による歎異の中心であるという︒この論議に加え︑これまで構成に関するあらたな解釈も見られない

ことから︑佐藤は﹁親鸞の法語と異義批判の序という二つの異質な行文を一か条に接合する錯誤﹂があるとして︑

蓮如本﹃歎異抄﹄を一〇条で分断する論拠としている︒

  たしかに蓮如本﹃歎異抄﹄は︑一見すれば親鸞法語と異義批判から成る二部構成と捉えることができるだろう︒

しかし︑佐藤のように一〇条で分断して︑二冊の書へ分けることまでに妥当性はあるのだろうか︒二冊に分ける論

拠は︑ひとえに本文解釈にかかっている訳であるから︑ここでもう一度本文の内実を精査してみよう︒

  梅原によれば︑一〇条の親鸞法語は﹁他力念仏の妙趣を示したもの﹂であり︑﹁この第十條﹇の法語﹈は前の九條の歸趣である︒そして︑やがて後の八條の批判の基準となるもので︑この第十條は今鈔の眼晴とも稱すべきもの である J﹂という︒つまり︑二部構成ではあるものの﹁念仏には無義をもて義とす⁝﹂という法語は︑一〜九条まで

の親鸞法語と異義批判のどちらの解釈にも必要不可欠な教えである︑というわけだ︒

  また︑﹁そもそも⁝﹂の文だけを一一条以下の別序と見る考えは正しくないとして︑石田瑞磨は一〇条のすべて

を異義批判の序と解釈し︑﹁念仏には無義をもて義とす⁝﹂という法語の内実が﹁そもそも⁝﹂の文と密接である

ことを次のようにいう︒

﹁念仏においては︑あさはかなはからいの捨てられることが仏のはからいである﹂という命題は︑次に﹁そも

そも﹂ではじまる一文が語る異議に対して千鈞の重みをもった言葉として引かれているのではないか︒愚かな

ひとのあさはかな才覚を去ることが︑仏の智慧・才覚にすべてをまかせきる念仏者の在り方であるならば︑よ

(12)

うやく広まりつつある﹁聖人の仰せとはちがう︑間違った考え﹂は︑この愚かな才覚をほしいままにしたもの として否定されなければならないのである K︒   つまり︑異義︵聖人の仰せとはちがう︑間違った考え︶の起こる原因は︑自分の愚かな才覚を捨てることができ

ず︑それを欲しいままにするからで︑﹁念仏には無義をもて義とす⁝﹂という法語は︑浅はかな自分のはからいを

捨てて他力にまかせることを言われているのだから︑後の異義批判に対して重い言葉であり︑密接な関係をもつというわけである︒

  梅原や石田は︑﹃歎異抄﹄が親鸞法語と異義批判から成るという二部構成は維持しつつ︑﹁念仏には無義をもて義

とす⁝﹂という法語と異義批判との関係も認める立場をとるが︑佐藤のいう分冊はこの両者の関係を切り離すこと

になるだろう︒

五  一〇条法語の役割   ところで︑一〇条法語は他条と比べて短く纏まっているが︑法語として他条と同じ役割であるならば︑順番を気にせずに︵例えば七番目や八番目あたりに︶記されても構わないはずである︒蓮如本﹃歎異抄﹄の構成に意味があ

るのなら︑唯円はなぜ﹁念仏には無義をもて義とす⁚﹂という教えを親鸞法語の結びとし︑異義批判の文頭に据え

たのであろうか︒梅原や石田の指摘する﹁一〇条法語と異義批判の関係﹂をより明確とするには︑一〇条法語を何故ここに記したのかという理由をさらに考究する必要がある︒

  まずは﹁念仏には無義をもて義とす︑不可称不可説不可思議のゆへに﹂という法語の意味を再確認してみよう L︒

(13)

親鸞は﹃末燈鈔﹄︵書簡集︶の中で︑浄土への往生は何事も凡夫の計らいではなく︑阿弥陀仏にまかせるからこそ他力であるとして︑以下のようにいう︒

また他力とまふすことは︑義なきを義とす︑とまふすなり︒義とまふすことは︑行者のをのをののはからふこ

とを義とはまふすなり︒如来の誓願は不可思議にましますゆへに︑仏と仏との御はからひなり︒凡夫のはからひにあらず︒補処の弥勒菩薩をはじめとして︑仏智の不思議をはからふべきひとは候はず︒しかれば︑如来の

誓願には義なきを義とすとは︑大師聖人﹇法然﹈のおほせに候き︒このこゝろのほかに往生にいるべきこと候

はずとこゝろえて︑まかりすぎ候へば︑ひとのおほせごとにはいらぬものにて候なり M︒   親鸞によれば︑他力とは﹁義なき﹂︵行者の計らいがないこと︶を﹁義﹂︵根本となる重要な意義︒行者ではなく阿弥陀仏の計らいのこと︶とするもので︑仏の智慧は仏のみが知ることであるから︑たとえ補処︵菩薩の最高位︶

の弥勒をしても︑計らってよい人はいないという︵ただし︑ここでいう﹁はからい﹂とは︑阿弥陀仏の救済や仏の

諸説に関してのことであり︑世間一般のさまざまな﹁はからい﹂は含まれない︶︒また︑この法語は法然からの継承であり︑以上のようにわきまえるほかに︑往生に必要なものはないと心得れば﹁ひとのおほせごと﹂は不要であ

る︑と結んでいる︒

  親鸞は法義への疑問や︑異義への批判を書簡に記して門弟を教化していることから︑要らぬものとされる﹁ひとのおほせごと﹂とは︑人々による異義であると考えられる︒また︑親鸞はこのような異義がなぜ起こるのか︑別の

書簡にはこう記している︒

この餘﹇世﹈の念仏の義はやうやうにかはりあふてさふらふめれば︑とかくまふすにをよばずさふらへども︑

(14)

故聖人﹇法然﹈の御をしへをよくよくうけたまはりておはしますひとびとは︑いまももとのやうにかはらせた

まふことさふらはず︑世かくれなきことなればきかせたまひあふてさふらふらん︒浄土宗の義みなかはりておはしましあふてさふらふひとびとも︑聖人の御弟子にてさふらへども︑やうやうに義をもいひかへなどして︑

身もまどひ︑ひとをもまどはかしあふてさふらふめり N︒   ここでいう﹁義﹂は﹁はからい﹂ではなく﹁教義﹂の意味で使われている︒親鸞によれば︑亡き法然の教えを正しく承った人々は︑存命中と何ひとつ変わらない教えを説いているが︑かつて弟子であったにもかかわらず︑法然

の説いた浄土の教えと異なること︵異義︶を説く人々は︑﹁さまざまに教えを言い変え﹂て︑自分も他人も惑わせ

ているという︒

  つまり︑異義というものは︑聖人の仰せのままに信じて伝えることをせず︑あれこれと自分ではからう︵自分の判断をまぜる︶ことから起こるものである︒親鸞は自らの著作や書簡の中で﹁行者のはからいなきこと﹂や﹁義な

きを義とす﹂という言葉を多用して︑異義を離れて他力信心を得ることを勧めている︒行者のはからいが全くない

のが他力であり︑はからうことから生じるのが異義であるならば︑﹃歎異抄﹄において異義批判と﹁念仏には無義をもて義とす⁝﹂という一〇条法語を切り離すことは︑異義に対する親鸞思想の根幹を見えなくさせてしまうだろ

う︒

  この一〇条法語だけでなく︑唯円の異義批判には﹁すこしもみづから﹇自ら﹈のはからいまじはらざるがゆへに︑本願に相応して実報土に往生するなり﹂や︑﹁わがはからはざるを︑自然とまふすなり︒これすなは

ち︑他力にてまします﹂などの言葉が記されることから︑親鸞思想を継承し﹁他力信心を得る﹂ように導

(15)

く上で︑唯円は﹁行者のはからいがない﹂という立場をとりわけ重視していたことがわかるだろう︒ 六  ﹁そもそも﹂の意味   では次に︑﹁そもそも﹂という接続詞を︑どのように解釈すべきであろうか︒石田の解釈では﹁そもそも﹂から始まる異義批判に︑一〇条法語が重みを持つことは理解できるが︑この接続詞の用法がはっきりしていない︒多く

の注釈書は︑この﹁そもそも﹂︵さて︒いったいの意︶が発端のことばであることを理由に段落を分けている︒安

良岡康作は﹃歎異抄全講読﹄の中で次のようにいう︒

一般的に言って︑段落や章段をはっきりと区別する意識の乏しい古写本類︵これは﹃歎異抄﹄だけに限らない︶については︑現代の解釈的研究の立場においては︑適切な段落の立て方︑章段の切り方を決定することが

必要なのではあるまいか︒つまり︑古写本の表記に囚われない︑学問的な処理が求められるのではないだろう

か O︒

  安良岡の指摘は至当であり︑分かりよい解釈を読み手に示すことは注釈者の大事な作業であるが︑テクスト本来

の形を崩すことで見逃される意味もあるのではないだろうか︒したがって︑本来の形を崩さずに﹁そもそも﹂をど

う解釈できるのかを考察してみたい︒

  ﹁そもそも﹂は漢字に改めると﹁抑﹂となり﹁そも﹂と同じである︒﹃角川古語大辞典﹄によれば﹁そもそも︵抑︶﹂

は﹁そも︵抑︶﹂の畳語であり︑﹁そも﹂とは﹁上の叙述内容を受けて下の事を説き起す場合︑また︑改めて事を説

き起す場合に用いる︒﹁そもそも﹂と重ねても用い P﹂る︑とされる︒金子大栄は一〇条について以下のようにいう︒

(16)

﹁念仏には無義をもて義とす︒不可称・不可説・不可思議のゆへにとおほせさふらひき﹂とある言葉は︑親鸞 の語録を結び︑それを承けて︑しかるにその義﹇はからい﹈のないところに義﹇はからい﹈を雑えたものが異義であるとして︑その異義を批判するために︑この書を作るというのであろう Q︒

  つまり﹁そもそも﹂という接続詞は︑これまでの事柄を受けて︵いったん抑えて︶次説へと誘導する切り出しの 言葉とも解釈できる︒よって一〇条における﹁そもそも﹂は︑唐突に別の話を始めるための接続詞ではなく︑一〇条法語を承けつつ︑異義批判を説きおこす言葉だと解すべきではないだろうか R︒

  以上の考察を通じて︑一〇条にある﹁念仏には無義をもて義とす⁝﹂という親鸞法語は︑後に記される異義批判

との密接な関係を持つことが分かるだろう︒したがって︑蓮如本﹃歎異抄﹄の一〇条は︑通説や佐藤説のように

﹁親鸞法語と異義批判の序という異質な要素が無造作にまとめられた﹂のではなく︑﹁異義批判における最も大切な法語を文頭に置いた﹂と解すべきである︒そして︑一一〜一八条までの異義批判を記した後︑文頭の一〇条法語と

呼応するように﹁﹇他力信心は﹈たゞひとつなり﹂という﹁信心一異の論争﹂を添えて︑信心を一にするこ

とが異義批判の目的であることを示した︑と考えられる︒

七  一〇条法語と前九条までの関係   最後に︑﹁念仏には無義をもて義とす⁝﹂と一〜九条までの関係は︑どのように解釈すべきであろうか︒一〇条法語が異義批判と密接ではあっても︑親鸞法語を九条までとして蓮如本﹃歎異抄﹄を二冊に分けること

も可能であるから︑分割が好ましくないことを提示するには︑一〜九条との関係も明らかにする必要がある S︒

(17)

  梅原による﹁この第十條﹇の法語﹈は前の九條の歸趣である﹂という指摘は︑妙音院了祥﹃歎異抄聞記﹄

にその理由が詳説される︒了祥は﹁一〇条法語が一〜九条の決する所であり︑異義批判の根となるもので︑

﹃歎異抄﹄を貫く大切な教えである T﹂といい︑一〜九条を次のように論じている︒

第一章﹇⁝﹈無義にはからはず信ずる意︒第二章﹇⁝﹈はからはず他力にすがる意︒第三章﹇⁝﹈自力のはからひやめて他力のはからひに任せること︒第四章﹇⁝﹈唯念仏して慈悲の行をもはからふて勤めぬこと︒第五

章﹇⁝﹈唯念仏して別に親をたすけんともはからはぬこと︒第六章﹇⁝﹈我が弟子と思ふてはからふではな

い︑如来の御弟子と心得て︑弟子を育てるにも彌陀にまかせてはからはぬこと︒第七章﹇⁝﹈唯念仏して神を

たのまんとはからはず︑魔をよけんとも計らはず︑罪消さんとも︑善積まんとも計らはぬこと︒第八章﹇⁝﹈

我が行我が善と計らはぬこと︒第九章﹇⁝﹈喜びの薄きも急ぐ心のなきも氣にかけず︑唯念仏して往生いかゞ

と計らはぬこと U︒   了祥はこの一連の解釈について﹁斯く本願を信じ念仏する無義爲義をば九章に書いて︑此の第十章に︑夫れを無義爲義と止めた V﹂と説明している︒つまり︑一〜九条は﹁はからわない﹂という一貫したテーマのもとに編集さ

れ︑あれこれと計らわず親鸞の仰せのままに受け入れることが︑﹁弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて﹂

往生を遂げる︵他力信心を得る︶根底であることを︑一〇条に示して結語とした︑というわけだ︒

  また親鸞は﹃末燈鈔﹄の中で︑阿弥陀仏の誓願について行者の計らいのない状態を﹁自然法爾﹂と表現して︑他

力信心と行者の計らいの関係を︑以下のように説明する︒

法爾はこの御ちかひなりけるゆへに︑おほよす行者のはからひのなきをもて︑この徳のゆへにしからしむとい

(18)

ふなり︒すべてひとのはじめてはからはざるなり︒このゆへに義なきを義とすとしるべしとなり︒弥陀仏の御

ちかひの︑もとより行者のはからひにあらずして︑南無阿弥陀仏とたのませたまひてむかへんと︑はからはせたまひたるによりて︑行者のよからんとも︑あしからんともおもはぬを︑自然とはまふすぞ︑とききてさふら

ふ︒﹇⁝﹈この道理をこゝろえつるのちには︑この自然のことはつねにさたすべきにあらざるなり︒つねに自

然をさたせば︑義なきを義とすといふことは︑なを義のあるになるべし︒これは仏智の不思議にてあるなり W︒   阿弥陀仏の誓願に助けられるというのは︑行者のはからいが全くない状態であり︑それは阿弥陀仏の力によって

自然にそうなるという︒他力は行者が計らいを離れることを本義としており︑阿弥陀仏は﹁南無阿弥陀仏と﹇阿弥

陀仏に﹈まかせるように衆生を仕向けて﹇極楽へ﹈迎えよう﹂と誓ったわけだから︑行者自らがこれで善いとかこ

れでは悪いとか思わず︑阿弥陀仏にまかせることを自然といい︑この自然︵阿弥陀仏の救済︶を世事と同様に計らうなら︑﹁義なきを義とす﹂ということまでも一つの計らいとなる︑と親鸞はいう︒

  唯円は﹃歎異抄﹄に﹁わがはからはざるを︑自然とまふすなり︒これすなはち︑他力にてまします﹂

記していることから︑親鸞のいう﹁自然法爾﹂の思想を継承したのは明らかである︒唯円にとって︑一〜九条までの法語を記す目的は︑他力の大切な教えや心得を伝えることであるが︑教えのままに信じようとせず︑さらに教え

を計らうような事が起きれば︑その人は﹁なを義のある﹂状態︵異義︶となって︑他力から遠ざかることになるだ

ろう︒他力信心を得るには﹁有縁の知識に依る﹇仏法を聞く﹈﹂ことが不可欠であるが︑聞かされた教えに自らの計らいをまぜると︑親鸞のように﹁よきひと﹇法然﹈のおほせをかふりて信ずる﹂ことはできな

い︑というわけだ︒したがって︑一〇条の﹁念仏には無義をもて義とす⁝﹂という法語は︑﹁先師の口伝の真信に

(19)

異なることを嘆き︑後学相続の疑惑あることを思い﹇⁝﹈偏に同心行者の不審を散ぜんがため﹂に︑親鸞法語を記そうとする唯円にとって︑一〜九条までの法語を素直に聞き入れてもらうための結語として︑実にふさわ しい教えとなっている X︑と解釈できるだろう︒

おわりに

  ﹃歎異抄﹄は唯円が﹁さだめておかしきことにてこそ﹂と自らが言うように︑その表現が独特で荒削りな 箇所が散見されるテクストである Y︒本文の論脈を整えて分かりやすさを重視することも大切であるが︑そうした操

作によって見逃される意味もあるのではないだろうか︒本稿は︑蓮如本︵および諸写本︶のありのままの表記に則して︑無理のない解釈が出来ることを試みたわけであるが︑その成果として︑一〇条法語は﹁計らわずに一〜九条

を信じるための結語﹂であり︑さらに﹁計らうことから異義が生まれる﹂ことを教えるため︑異義批判の冒頭とい

う位置に配されることで︑﹃歎異抄﹄を一貫して支える﹁扇の要﹂ともいうべき重要な役割を果たしていることが確認された︒また︑﹃歎異抄﹄の目的と考えられる﹁親鸞と同じ信心を得る﹂という面において︑﹁はからわない﹂

ことを教える一〇条法語は︑異義を離れて他力信心を得るための根幹を担う重要な教えであることから︑蓮如本の

構成のまま異義批判とも連関させる方が︑より深くテクストの内容を取り出すことができるだろう︒したがって︑一〇条法語までを親鸞法語︑﹁そもそも﹂以下から一八条までを異義批判と分けて解釈するという通説は︑若干の

修正が必要ではないだろうか︒佐藤説も通説の提示する構成を︑そのまま踏襲したことにその一因があると考えら

れる︒

(20)

  蓮如本﹃歎異抄﹄が二部構成であるという解釈において︑それが﹁本文内容の把握から導き出されたもの﹂であ

るならば︑﹃歎異抄﹄は親鸞法語と異義批判という二つの大きな纏まりを持つことは確かであるが︑一〇条法語は異義批判との密接な関係を持つことから︑分断ましてや分冊は妥当ではないと考えられる︒﹃歎異抄﹄は﹁信心が

異なる﹂という現実を解消すべく︑親鸞法語と異義批判の両者が一体となって︑﹁他力信心を得る﹂という一つの

目的を持ったテクストとして構成される︑と解すべきであろう︒

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︶︒   3

︵﹃   4

  5﹄︵

  6︶︒

稿 ﹂︑﹁﹁ ﹂︑﹁﹁   7︑﹁

参照

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