1.はじめに
日本移民研究の先進県と称される沖縄県において、 これまで県史や市町村史誌で、
独立した移民 ・ 出稼ぎ編が刊行され、 県民に現在でも移民事象は大いに関心がもてれて いる1)。 北米のアメリカ合衆国 ・ カナダ、 南米のブラジル ・ ペルー ・ アルゼンチン ・ ボリ ビアの県移民については、 数多く取り上げられているが、 中米のメキシコについてはその 論文等は少ない。 それでも、 詳細に記述されたものとしては 『具志川市史』 (2002刊)
第 4 巻、 移民 ・ 出稼ぎ、 論考編と 『名護市史』 (2008刊) 本篇5、 出稼ぎと移民 (Ⅱ)
が挙げられる。
筆者はこれまで日本本土および沖縄県において、 移民母村の研究と併せて、 移民先 国や地域の県系移民の研究を行ってきた。 しかし、 中米のメキシコへの県出身移民につ いては現地情報が十分に得られず、 明らかにすることができなかった。 本稿では文献資 料が主体ではあるが、 メキシコへの日本移民全体を含め、 沖縄県出身移民の歴史と実態 を一世移民を中心に取り上げる。
2.メキシコの概要
メキシコの面積は2011年現在196万4 ,000k㎡、 人口は2012年現在1億2 ,084万 7, 000人、 人口密度は1k㎡あたり62人である。 メキシコの首都はメキシコシティで、 人口 は2010年現在郊外を含めると 2,011万 7,000人である2)。 メキシコの国土は北緯14度32 分から同32度43分、 西経86度42分から同118度22分の範囲にある。 同国の面積は日 本の5. 2倍に相当し、 ラテンアメリカにおいてはブラジル、 アルゼンチンについで3番目 に大きな国である。
メキシコの地形は国土の大半を占めるメキシコ高原、 太平洋岸に沿った北西から南東に 向かって走る西シエラマドレ山脈、 メキシコ湾沿岸に平行して走る東シエラマドレ山脈、 メ キシコ高原の南縁をほぼ東西に横切るメキシコ横断火山帯、 メキシコ湾に臨む幅広い東 海岸、 カリフォルニア湾に面して幅の狭い海岸、 南メキシコのテワンテぺク地峡、 南シエ ラマドレ山脈、 ユカタン半島で成り立つ。
メキシコの高原は北部高原と中央高原に二分されるが、 北部の800mから 1,000mまで の高原から徐々に高度が増し、中央高原の南端では約2,000mから2,500mまでに達する。
しかし、 同高原は平坦なものではなく、 幾多の山脈と渓谷によって寸断され、 南に向かう にしたがって、 地形は極端に峻険となる。 また、 その間に 2,300mのメキシコ盆地などい くいつかの盆地があり、 産業の中心地となっている。 テワンテぺク地峡はこの地域では太 平洋と大西洋の両大洋に挟まれた最も狭い地帯であり、 南北約200㎞の平坦な地形を形
メキシコへの沖縄県出身移民の歴史と実態
石 川 友 紀
成している。 地理的にはこの地峡で北米から続いてきた地勢が継承し、 これから東南に 向かって中米が始まる。
メキシコは水の少ないサボテンの国と言われるが、 気候は緯度、 土地の高低、 海流 などの影響で複雑である。 国土の多くが高原や高い山岳地帯であるため、 海抜高度がメ キシコの気候を左右する大きな要素とされる。 すなわち、 海岸に沿って植物が最も繁茂 する暑熱地帯と、 夏は低地ほど暑くなく、 冬は冷たい風が吹き込まない温暖地帯と、 高 度1,800m以上の冷涼地帯と、 それ以上に位置する高地の寒冷地帯の4つに区分される。
一般にメキシコの気候は6月から10月までが雨季で、 11月から翌年の5月までが乾季 であり、 乾季にはほとんど雨が降らない。 海抜高度 2,240mに位置するメキシコシティを 中心とする中央高原の気候は、 日本の秋の気候に似てきわめて爽快である。
メキシコの歴史を振り返ると、 3世紀からマヤ文明を創造したメキシコの先住民は、 14 世紀に現在のメキシコシティを中心にアステカ帝国を建設した。 その後、 1519年にスペ イン軍が侵入し、 1521年フェルナンド ・ コルテスにより征服されて以来、 300年間もス ペインの植民地となった。 1810年独立戦争が始まり、 1821年にスペインから独立した。
1845年から1848年にかけて領土問題でアメリカ合衆国と戦って敗れ、 テキサスからカ リフォルニアなどにかけて国土の半分を失った。 そのため、 ほぼリオグランデ川を国境と するアメリカ合衆国との国境線が3,326㎞にも及ぶ。
メキシコの日本人移民研究の第一人者である国本伊代は、 メキシコの政治について、
歴史上3つの革命があったと、 つぎのように捉えている。 「1821年にスペインから独立を 達成したメキシコの近現代史を貫いているのは、 三つの革命である。 それらは、 独立革 命 (1810-21年)、 レフォルマ革命 (1854年-67年) およびメキシコ革命 (1910-
40年) で、 いずれも大量の血を流して闘われた事件であり、 メキシコ近現代史の流れを 方向づけた、 歴史上の転換期である。」3)
メキシコの人種構成は白人が約10%、 混血が約80%、 先住民のインディオが約10%
と称されている。 白人は大部分がスペイン系であり、 混血は白人とインディオとの混血で、
メスティーソと呼ばれている。 その結果、メキシコは「メスティーソの国」と言われる。 それでも、
人種の純粋を維持しているのはゲルマン、 ユダヤ、 アジア系の中国人 ・ 日本人、 先住 民などであるが、 混血を当然とする意識はこのような人種意識構造を失わせている。 メキ シコの宗教はキリスト教のカトリック教徒が約90%を占め、 公用語はスペイン語である。
メキシコの社会文化面をみると、 祖先はスペインと先住民のインディオから成り立ってい るため、 その双方の民族の特徴が融和して今日のメキシコを形作っている。 そのため、
風俗 ・ 習慣等にもスペイン人から受け継いだ享楽的なまた情熱的な一面と、 先住民の楽 観的な、 しかも素直な面がみられる。 メキシコは地理的にはいくつかの山脈と、 渓谷とに 区切られた孤立した地域がそのまま発達し今日に至っていることから、 地方色はきわめて 豊かであり、 かつ変化に富んでいる。
3.メキシコへの日本人移民の概略史
日本からメキシコへの初めての移民は、 1897年 (明治30年) 5月に入国した榎本武 揚が勧めた34人の榎本殖民であった。 しかし、 メキシコ南部のグアテマラに近いこのチ ャパス州エスキントラ付近に入植した榎本殖民地は、 土地の選定を誤ったとも言われ、 また、
営農の経験不足、 習慣の相違、 経営の資金難、 移民責任者の熱意の喪失など、 悪条 件が重なり、 失敗したと伝えられる。 しかし、 リーダーの照井亮次郎の子孫を主体とする 榎本殖民の末裔が、 現在でも同地域に定住していると言われている。
榎本殖民に遅れること4年1901年 (明治34) 11月、 熊本移民合資会社により第1回 のメキシコ契約移民82人が炭鉱労働者として日本から送り出された。 同移民会社はそれ 以降1907年 (明治40) 12月までに、 前後12回にわたり1,242人の契約移民を送った。
つぎに、 東洋移民合資会社は同社初のメキシコ移民を、 1904年 (明治37) メキシコ 北部カリフォルニア半島のサンタロサリオのボレオ銅山に507人の鉱夫を送った。 その契 約条件は渡航費前貸しによる3年間の契約移民であった。 この東洋移民合資会社はメキ シコへの移民を、 1907年10月までに12回3, 048人も送った。 もっとも第2回以後の移民 はすべてエスぺランサス炭鉱行きであった。
大陸殖民合資会社も1904年からメキシコ移民を取り扱い、 1907年5月までに前後11 回にわたり4,416人の移民を送った。 このうち、第7回の546人はコーヒーおよび麻耕地に、
第8回以降はオハケニア耕地、 セントラル鉄道、 ブラックマウンテン金鉱山への契約移民 であった。
以上を要約すると、1901年 (明治34) から1907年 (明治40) までの7年間に、熊本、
東洋、 大陸の3移民合資会社により、 メキシコへ送り出された日本人移民は8,706人にも 達した。 かれら移民は広大なメキシコのエスぺランサやフエンテの炭鉱、 ボレオの銅鉱山、
ブラックマウンテンの金鉱山、 セントラル鉄道などのほか、 コーヒー ・ 麻 ・ サトウキビ耕地 の契約労働者としても働いたのである。
メキシコへの移民の送り出しにあたっては、 毎回紛糾が生じ逃亡者が続出した。 それ にもかかわらず移民は相次いで送り出された。 これはメキシコの雇主が労働力不足のため、
日本人移民を積極的に導入しようとしたことよりも、 むしろ日本側に主な原因があった。
そのひとつは移民それ自体にあった。 すなわち、 日本人移民は最初からアメリカ合衆国 へ転航 (転住) するつもりでメキシコへ渡航した者が、 きわめて多かったからだということ である。
このメキシコへの移民の増加に決定的な打撃が加えられたのが、 1907年 (明治40)
3月のアメリカ合衆国政府によるカナダ、 ハワイと並んで、 メキシコからの転航禁止令の公 布であった。 加えて、 日本の外務省もメキシコへの移民の渡航を漸次制限せざるおえな くなった。 しかし、 転航禁止後もメキシコ移民で、 アメリカ本土に渡航を企てる者が少な くなく、 さらにはカナダを目的国としてアメリカ合衆国を通過中にそのまま逃亡する者もあり、
アメリカ政府は転航禁止令の実効をあげるように、 日本政府に対してメキシコ移民の取り
締まりを要望した。 そのため、 日本の外務省は1907年9月に定着率のきわめて低い鉄 道工夫について転航を禁止し、 炭鉱夫についても、 移民取抜人の許可申請にあたって は厳重に調査し、 実際に必要な人員に限り許可する方針をとった。
日本からメキシコへの集団としての契約移民は、 1907年をもってほぼ終わったと考えら れる。 その時点でメキシコには日本人移民が 2,000人から 4,000人近くまで残っていたと 言われる。 もともと地続きのアメリカ合衆国への入国を希望していたので、 入国禁止以前 の1906年、 07年ごろから合衆国への転出を図った移民も少なくなかった4)。
メキシコの日本人移民は1910年から1917年まで続いたメキシコの革命騒動に巻き込ま れていった。 日本人移民はメキシコ革命の混乱のなか、 しだいに出稼ぎから定住へとそ の社会的性格を変えつつあった。 1920年代から30年代にかけて、 とくにその傾向は強 くなり、 メキシコ北部のバハカリフォルニア、 ソノラ、 シナロア、 そして南部のベラクルス やチアパスの各州とメキシコシティに、 日本人移民の定住社会が生まれた。 1920年代 後半から各コミュニティーに日本人会も結成され、 1939年 (昭和14) の時点で日本人 家庭の90%以上が、 その会員になったと言われている5)。
1941年 (昭和16) 太平洋戦争が勃発すると、 1942年にメキシコは日米開戦に際し、
対日宣戦布告をし、 連合国側についた。 同年メキシコ政府はバハカリフォルニア州に住 む日本人は全員メキシコシティやグアダラハラへ移るよう命令が下された。 すなわち、 メヒ カリ、 エンセナダ、 ノガルスなどの日本人移民は、 時間的に余裕がなく、 その財産をメ キシコ人に託した者もわずかにみられたが、 一般には財産の処分ができない状態のまま の移動であった。 かれらは住み慣れた家を離れ、 とまどいながらメキシコ市共栄会の援 助で家や仕事をみつけた6)。
外務省の移民統計によると、 1938年 (昭和13) 12月現在メキシコ在留の日本人総 数は 4,635人であった。 その地域的分布は首都メキシコシティおよび中部地方に約50%、
北西部の3州および低加州 (ローカリフォルニア) に約50%が居住していた。 日本人移 民の職業は農耕 ・ 園芸 ・ 畜産業者が最も多く、 ついで物品販売業者、 その他は漁業、
製塩業、 銀行員、 会社員、 食料品製造業、 理髪店、 浴場経営者などがみられた。
第二次世界大戦後メキシコの日系コミュニティーには大きな変化が起こった。 日系人の 大半はメキシコシティとグアダラハラに集中したままで、 かれらは職業を農業から都市の小 規模経営の商業やサービス業などへと切り替えた。 戦後の日系コミュニティーは派閥争い や分裂を起こしていたが、 1950年代半ば以降は日墨協会が主要な役割を演じ、 コミュ ニティーをまとめた。 その結果、 日墨会館が建設され、 後には新たな二世の指導のもと、
メキシコ ・ 日本文化協会が生まれた。 今日では若い日系メキシコ人が、 メキシコの多文 化社会で、 より重要な役目を果たすと同時に、 日本人移民の過去の遺産を継承し、 さら に発展させ続けている7)。
4.メキシコへの沖縄県出身移民の歴史
メキシコへの沖縄県出身移民の歴史もまた他府県移民と同様に変遷し、 その経過をた どっている。 本項では外務省および沖縄県の移民統計を使用し、 時系列を追ってその 推移をみることにする。
表1は第二次世界大戦前1899年 (明治32) から1941年 (昭和16) までの43年間 の沖縄県からメキシコへの年次別移民数および全国比である。 同表の移民数の沖縄県を みると、 メキシコへの初回移民は1904年 (明治37) の223人である。 翌年移民数は0 となるが、 1906年 (明治39) には92人と回復し、 1907年 (明治40) には史上最高 の250人を記録する。 この時期はハワイへの移民が圧倒的に多く、 「移民ブーム」 とみ なされていたころである。 その後県からメキシコへの移民は全くみられなくなったが、 その 理由は前記したように、 アメリカ合衆国による日本人移民の転航禁止と、 日米紳士協定 による日本政府のメキシコへの移民の制限にあった。
大正時代に入り、 1914年 (大正3) に1人、 1917年 (大正6) に2人みられ、 以後 0がつづき、 1920年 (大正9) の15人以降メキシコ移民は継続するようになる。 移民数 は1925年 (大正14) の43人から急増し、 翌1926年 (大正15) には58人とピークを 形成する。
年次(年)
1899(明治 32)
1900(明治 33)
1901(明治 34)
1902(明治 35)
1903(明治 36)
1904(明治 37)
1905(明治 38)
1906(明治 39)
1907(明治 40)
1908(明治 41)
1909(明治 42)
1910(明治 43)
1911(明治 44)
1912(明治 45)
1913(大正 2)
1914(大正 3)
1915(大正 4)
1916(大正 5)
1917(大正 6)
1918(大正 7)
1919(大正 8)
1920(大正 9)
1 1 95 83 281 1,261 346 5,068 3,822
―
2 5 28 16 47 35 19 22 53 128 64 53223
―
92 250―
―
―
―
―
―
1―
―
2―
―
1517.7
―
1.8 6.5―
―
―
―
―
―
2.9―
―
3.8―
―
28.31921(大正 10)
1922(大正 11)
1923(大正 12)
1924(大正 13)
1925(大正 14)
1926(大正 15)
1927(昭和 2)
1928(昭和 3)
1929(昭和 4)
1930(昭和 5)
1931(昭和 6)
1932(昭和 7)
1933(昭和 8)
1934(昭和 9)
1935(昭和 10)
1936(昭和 11)
1937(昭和 12)
1938(昭和 13)
1939(昭和 14)
1940(昭和 15)
1941(昭和 16)
合計(総数)
5 19 8 10 43 58 38 20 9 18 3 15 8 4 2 6 4 3 3
―
― 859
7.2 24.7 11.8 13.2 26.9 17.3 11.9 5.7 3.6 4.1 1.1 10.1 9.4 5.0 3.8 9.7 6.2 7.9 4.5
―
― 5.9
6977 68 76 160 336 319 353 249 434 283 149 85 80 53 62 65 38 67 67 28 14,548
移民数 全国比
A 全国(人) B 沖縄県(人)(B÷A×100)
(%) 年次(年) 移民数 全国比
A 全国(人) B 沖縄県(人)(B÷A×100)
(%)
表1. 沖縄県からメキシコへの年次別移民数および全国比
出典:移民数(A)全国は国際協力事業団(1994)『海外移住統計』平成 6 年 10 月、pp.126-127.
(B)沖縄県は安里延(1941)『沖縄海洋発展史』、1939-41 年は外務省(各年)の「海外旅券下付表」より集計す。
(石川友紀作成)
昭和初期メキシコ移民は比較的多い。 すなわち、 1927年 (昭和2年) に38人、 翌 1928年(昭和3)に20人、1930年(昭和5)に18人、1932年(昭和7)に15人を記録する。
昭和戦前期上記以外の年には一桁台で推移し、 1939年 (昭和14) の3人でもって戦 前移民は終了する。 その結果、 沖縄県からメキシコへの移民数は1904年 (明治37)
から1941年 (昭和16) までの38年間に合計859人の総数となり、 同数値は全国総数1 万4,548人の5.9%を占めた。
つぎに、 表1の沖縄県からメキシコへの移民数の全国比をみると、 1904年 (明治37)
の初回移民は17.7%をも占めた。 しかし、 移民数が多かったにもかかわらず、 全国比は 1906年 (明治39) には1.8%、翌1907年 (明治40) には6.5%を占めるに過ぎなかった。
この両年は移民会社によるメキシコへの契約移民が全盛期で、 他府県からの移民も圧倒 的に多かったからである。
大正時代のメキシコへの県移民数の全国比は1920年 (大正9) に28.3%、1922年 (大 正11) に24 .7%、 1925年 (大正14) に26 .9%で、 全国の4分の1にあたる25%以 上を占めることもあった。 昭和期にはその全国比の最高は1927年 (昭和2) の11.9%で、
他の年次は10%前後か、 それ以下の1桁台であった。
以上、 第二次世界大戦前沖縄県からメキシコへ直接渡航した移民数や全国比をみて きた。 しかし、 メキシコへの移民は契約移民や自由移民を問わず、 金もうけのため、 周 辺諸国から入国し、 定住していった移民も少なくなかった。 県移民についてみると、 南 米のペルーやカリブ海地域のキューバ等から転住してきた移民の例も相当数みられたの である8)。
5.メキシコへの沖縄県出身移民の実態
(1)明治期初回以降のメキシコ移民
沖縄県から初めてメキシコへ移民を送り出したのは、 1904年 (明治37) 年6月のこと であった。 県の移民統計をみると、 表1のとおり同年223人がメキシコへ渡航したことにな っている。 しかし、当時の 『琉球新報』 の記事 (明治37年6月23日と9月15日付) によると、
同年7月メキシコへ到着した県出身移民の人数は202人となっている。 ちなみに、 その 新聞記事の内容を要約すると以下のとおりである9)。
東洋移民合資会社の募集による沖縄県からメキシコへの初回移民は、 明治37年6月2 2日に那覇港を210人で出発、 同年7月6日に神戸港を202人で出発、 7月26日にアメ リカ合衆国サンフランシスコ港へ到着、 7月31日にメキシコのエスぺランザス炭鉱へ到着 した10)。
上記の新聞記事によると、 那覇港を出発してから神戸港を出発するまでに14日間、
神戸港を出発してからアメリカ本土のサンフランシスコ港経由でメキシコへ着くまでに20日 間、 合計すると34日間も、 県初回移民は目的地近くに到着するまでに船便で要している ことになる。
いま少し、 メキシコへの3年契約の初回県移民について、 同契約移民の募集の段階から、
その実態を 『琉球新報』 の記事で追ってみよう11)。
1904年 (明治37) 5月1 7 日付の 『琉球新報』 に、 初めて沖縄県におけるメキシコ 移民の募集の記事が現れる。 それは日本初の移民会社である日本吉佐移民合資会社の 後身で、 東京に本社をもつ東洋移民合資会社の業務代理人肥後孫左衛門と社員神谷 忠雄の両氏が来県し、 メキシコ行移民数百名を募集する、 とのことであった。 そして、
肥後は近便にて東京より出張してくる狩谷三市と検査医田中音吉を伴い、 名護間切へメ キシコ移民募集のため出張する予定としている。
1904年 (明治37年) 5月17日付の 『琉球新報』 に 「移民募集」 と題して、 上記の 三氏が5月13日に名護に出張し、 メキシコ移民の募集をしたら、 予想外の多数の移民の 応募者があった。 という記事がみられる。 また、 同日同紙にメキシコ行移民募集の特別 広告も出している。 その後、 同紙の6月1日付には読谷山間切喜納村においても、 メキ シコ行移民の募集を6月1日より開始したい、 という特別広告を出している。
1904年6月23日付の 『琉球新報』 には 「メキシコ移民の出発」 と題して、 「東洋移 民会社の取扱に係る本県のメキシコ行移移民二百十名は昨日の便船にて出発せり」 との 記事がある。 そして、 同紙の6月27日付の特別広告に 「メキシコ行移民乗船永田丸瀬 底島附近エ座礁セシモ、 無事引卸シ、 船体少シノ損所ナク、 廿五日正后神戸へ向ケ 出発致候間、 此般広告候也。 六月廿五日東洋移民合資会社業務代理人 肥後孫左衛 門」 と出ていて、若干トラブルはあったようだが、無事那覇と名護の両港より移民を乗船させ、
沖縄県初のメキシコ移民は出発したことが知られる。 そして、同紙7月9日付の特別広告に、
先と同様肥後の名義で 「メキシコ移民諸氏は七月六日神戸出発相成候間此段広告候 也。」 とあり、 このことより1904年 (明治 37) 7月6日県初のメキシコ移民は神戸港を出 航したことが確認された。
1904年 (明治37) 9月5日付の 『琉球新報』 には 「墨国移民の危険 (上)」 と題す る記事がみられ、以後、沖縄県初回メキシコ移民の就労上の問題点などの不安材料が多く、
その後同紙でたびたび取り上げられている。 また、同紙9月15日付には 「本県墨国移民」
の題で、 メキシコにおける県初回移民の現状が、 和歌山 ・ 福岡 ・ 鹿児島 ・ 宮崎 ・ 広島 の5県の紛擾 (紛争) とは異なり、 皆無事である旨の記事が出されている。
メキシコ移民を取り扱った東洋移民合資会社の報告によると、 沖縄県出身初回移民は 1年後1905年 (明治38) 時点で、 エスぺランザス炭坑に就労している者は200人であ ったといい、 かれらの生活状況を以下のように記している。
県移民の炭坑での就労時間は定時より遅いが、 採掘仕事は真面目で好評を得ている。
仕事が終われば入浴、 食事のあと三味線を弾いたり、 公園を散策し、 メキシコ人と交流 したり、 ビールを傾けたりして生活を楽しんでいる。 食事は米 ・ 麦粉 ・ 豆 ・ 山羊肉であり、
とくに山羊肉は安く手に入り好んで食べ、 さほど食事に金がかからない。 県移民の特色 は性質は至極柔順で、 概して腕力が強く、 採掘坑業に適する。 しかし、 欠点としては
他府県人のように用意周到でなく、 危険に対する準備も目前に迫られなければしない。
送金に関しては東洋移民会社を通して、 数千円の多さに達していて、 今後とも増加する 見込みで、 県にとっても益するところ大であろう。
このように、 東洋移民合資会社はこのメキシコのエスぺラザス炭坑の沖縄県初回移民を 成功していると高く評価し、 今後各国の移民需要に対しても、 県移民の供給の計画を立 てているとの報告をしている。
1905年 (明治38) 9月27日付の 『琉球新報』 には 「メキシコ移民の送金額」 と題して、
つぎのような県初回移民93人が10か月間で稼ぎ、 送金した実態が知られる記事がみら れる。 「メキシコ移民本県人九十三名か昨年九月二日より本年六月廿六日に至る約十ヶ 月間に於て、 各父兄に送りたる総金高は凡五千百七十五円余にして、 其内多きは百二 十四円余、 少きは五円余なり。 而して、 総平均額は五十五円余なり。 これは勿論積立 金の外なりと知るべし。」
1906年 (明治39年) 2月11日付の 『琉球新報』 には 「メキシコ炭坑労働者の状況」
と題して、 メキシコ在の日本公使館より外務省への報告があり、 これが同省より沖縄県へ 通知された文書が記事となっている。 この記事の内容は東洋移民合資会社取り扱いの県 初回移民202人がメキシコのコワウイラ州ラスエスぺランザス炭坑に1904年 (明治37) 8 月に就労し、 炭坑総支配人の報告によると、 優秀な成績をあげ、 送金も多く、 労働に 熟練してくれば、 もっと稼ぐであろう、 と述べている。
1906年 (明治39) 8月30日付の 『琉球新報』 には北米メキシコ契約移民募集の広 告が現れ、 大陸殖民合資会社代理人の德田弥太郎や比嘉昌輝の名義で、 広告や特別 広告を出している。 これは沖縄県における第2回のメキシコ移民の募集とみられる。 以下、
『琉球新報』 8月30日付の初出の広告を載せ、 募集条件を把握してみよう。
北米メキシコ契約移民募集 一契約年限 二ヶ年、 一労働種類 砂糖、 コーヒー、 麻 ノ耕地及製造場、 一賃金 一日墨貨一弗五十仙凡我一円五十銭、 一申込 九月十日 マデ。○注意 眼ノ検査ナシ、 身長 四尺九寸以上、 年齢 十八年以上四十年マデ、
申込所 那覇区泉崎金城医院上同那覇区役所後 大陸殖民合資会社。
同上の広告記事をみると、 1904年 (明治37) のメキシコへの初回移民が東洋移民に よる炭坑への契約移民であったのに対して、 2年後の1906年 (明治39) の県の第2回 移民は、 大陸殖民合資会社による砂糖 ・ コーヒー ・ 麻の耕地および製造所への労働と なっている。 その契約移民としての契約条件は、契約年限が2か年、賃金が一日1円50銭、
年齢が18歳以上40歳まで、 身長が4尺9寸 (約148㎝) 以上、 眼の検査はなし、 とな っている。
その後 『琉球新報』 の1906年9月27日付の特別広告には、 上記の契約条件のもと 渡航費140円、 沖縄出発10月10日と出ていたので、 先の9月10日の〆切日までに募 集人員が満たなかったようである。 以後同紙の1906年9月28日付の特別広告には、 こ の北米メキシコ契約移民の条件には眼の検査はないので、 ハワイ行移民の不合格者でも
応募してよく、 那覇港出発も第一回が10月10日、 第2回が11月20日に変更されている。
県における最終メキシコ移民募集の特別広告が、 『琉球新報』 1906年11月25日付 の記事にある。 それによると、 契約条件は労働の種類が鉄道工夫に変更され、 那覇港 出発が1907年 (明治40) 1月中旬に予定され、 眼の検査もなし、 と強調されている。
この時期はハワイの移民ブームのころでもあったが、 メキシコへの移民も1906, 07の両 年には全国的にも多く、 県の移民統計 (表1) でも1906年に92人、 1907年に250人 の移民数を記録する。
振り返って、 メキシコにおける県初回移民の実態が、 炭坑のガス爆発により犠牲者を 出したことなど 『琉球新報』 に数多くの記事がみられた。 しかし、 その情報と同時に県 から中南米への最初の移民として、 メキシコへの契約移民が以下にみるように郷里へ多 額の送金をした事実もあった。 その裏には、 血のにじむような努力と苦労があったことが 判る。
このように、 明治期数多く渡航した県のメキシコ移民は、 早い時期から沖縄県へ送金 を行った事例が、 当時の新聞記事からうかがえる。 『琉球新報』 の1912年 (明治45)
3月2日付の記事によると、 1910年 (明治43) 中のメキシコから県への送金額は2万 9, 836円にも達していた12)。 また、『琉球新報』 1913年 (大正2) 8月21日付の記事によると、
1911年 (明治44) 中のメキシコから県への送金額も同様1万 1,661円で、 その時点で の在留人員は122人となっていた13)。
(2)大正期のメキシコ移民
本項では前半に明治期に引き続き、 大正期の県出身メキシコ移民の在留人員と郷里 への送金額の推移についてみる。 後半では大正期メキシコで生活した一世移民の居住 地の移動や職業の変遷などについて、 証言者の事例を通してみる。
①在留人員と郷里への送金額の実態
表2はメキシコにおける沖縄県出身移民の年次別在留人員および送金額である。 この 統計の原典は 『琉球新報』 と 『沖縄県統計書』 や 『沖縄県勢要覧』 であるが、大部分は 『沖 縄県史』 第20巻 (1967年刊) に収録された 『琉球新報』 の記事から拾い出したものである。
表中空白の欄は県の統計がみつからず、 不明にしておいた。
同表の在留人員をみると、 メキシコにおける県出身移民数は明治末期の1911年 (明 治44) に122人であったのが、 翌1912年 (大正元) には293人と2.4倍に増加している。
その3年後の1915年 (大正4) には136人となり、 200人台を維持する。
大正10年代にり、1921年 (大正10) には155人で、翌年の131人以後、1924年 (大 正13) の153人まで100人台であった。 在留人員は1925年 (大正14) には260人と ピークを形成する。
昭和期に入ると、1927年 (昭和2) の219人以後、1931年 (昭和6) の169人を除き、
1933年 (昭和8) の283人まで200人台で推移する。 在留人員は1934年 (昭和9)
には同表最高の332人に達する。 翌1935年 (昭和10) の322人までは多かったが、
1936年 (昭和11) の274人と減少し始める。 在留人員は1937年 (昭和12) には25 6人となり、 翌年の171人以後は100人台となり、 1940年 (昭和15) の196人で昭和 戦前期を終了する。
表2のメキシコから沖縄県への送金額についてみると、 総じてその変化が激しい。 また、
在留人員の全員が送金したとは限られないので、その相互の関係もなさそうである。 しかし、
在留人員が多ければ、 送金額もそれに比例して多くなったとは考えられる。
同表のメキシコ移民による県への送金額についてみると、 1911年 (明治44) に1万1 ,661円であったのが、 翌1912年 (大正元) には60%の6 ,960円にまで減少する。 翌 1913年 (大正2) には前年の48%の3,342円にまで落ち込んだ。
郷里へのメキシコ移民の送金は1921年 (大正10) に 6,105円であったのが、 翌192 2年 (大正11) には約2倍の1万2,419円を記録する。 その後、大正末期の1925年 (大 正14) には3万5,384円と、 大正期から昭和期にかけてそのピークを形成する。
昭和期に入ると、メキシコ移民の送金はほぼ1万円前後の送金額を維持し、1933年 (昭 和8) には史上最高と思える4万9,079円にまで達する。 翌1934年 (昭和9) の2万7,9 26円、 1935年 (昭和10) の4万 1,970円、 1936年 (昭和11) の2万 3,499円も比 較的送金額が大きかった。 そして、 メキシコにおける沖縄県出身移民の戦前の送金額は、
1937年 (昭和12) に1万 4,999円、 翌年に1万 6,446円となり、 1940年 (昭和15)
の4万0,311円のピークで終了したと思われる。
外務省の 『昭和十五年海外在留本邦人調査結果表』 (1943年刊) によると、 メキシ コにおける沖縄県出身移民の在留者数は、 1940年 (昭和15) 時点で男性が159人、
女性が78人で合計237人であった。 また、 沖縄県の 「分村と皇国農村の確立」 (1944
1911(明治 44)
1912(大正元)
1913(大正 2)
1914(大正 3)
1915(大正 4)
1916(大正 5)
1917(大正 6)
1918(大正 7)
1919(大正 8)
1920(大正 9)
1921(大正 10)
1922(大正 11)
1923(大正 12)
1924(大正 13)
1925(大正 14)
1926(大正 15)
122 293
236
155 131 149 153 260 144
11,661 6,960 3,342 420
6,105 12,419 3,767 12,389 35,.384 7,382
『琉球新報』大正 2.8.21
『琉球新報』大正 3.3.21
『琉球新報』大正 3.12.15
『琉球新報』大正 5.11.12
219 209 257 220 169 242 283 332 322 274 256 171 149 196
13,065 13,606 12,014 8,561 4,834 15,673 49,079 27,926 41,970 23,499 14,999 16,446 7,730 40,311
表 2. メキシコにおける沖縄県出身移民の年次別在留人員および送金額
(石川友紀 作成)
年次(年) 在留人員(人) 送金額(円) 資料の出所 年次(年) 在留人員(人) 送金額(円) 資料の出所 1927(昭和 2)
1928(昭和 3)
1929(昭和 4)
1930(昭和 5)
1931(昭和 6)
1932(昭和 7)
1933(昭和 8)
1934(昭和 9)
1935(昭和 10)
1936(昭和 11)
1937(昭和 12)
1938(昭和 13)
1939(昭和 14)
1940(昭和 15)
1941(昭和 16)
『沖縄県史』第 20 巻(1967)p.285
『沖縄県史』第 20 巻(1967)p.285
『沖縄県史』第 20 巻(1967)p.286
『沖縄県史』第 20 巻(1967)p.286
『沖縄県史』第 20 巻(1967)p.287
『沖縄県史』第 20 巻(1967)p.287
『沖縄県史』第 20 巻(1967)p.288
『沖縄県史』第 20 巻(1967)p.288
『沖縄県史』第 20 巻(1967)p.289
『沖縄県史』第 20 巻(1967)p.289
『沖縄県史』第 20 巻(1967)p.290
『沖縄県史』第 20 巻(1967)p.290
『沖縄県史』第 20 巻(1967)p.291
『沖縄県史』第 20 巻(1967)p.291
『沖縄県史』第 20 巻(1967)p.292
『沖縄県史』第 20 巻(1967)p.292
『統計にみる豊見城』 pp.56-57
『統計にみる豊見城』 pp.56-57
『統計にみる豊見城』 pp.56-57
『統計にみる豊見城』 pp.56-57
年刊) によると、 1944年 (昭和19) 1月時点で、 メキシコへ渡航した県出身移民の累 計は785人となっていた。
②メキシコ在住一世移民の居住地の移動と職業の変遷
1906年 (明治39) から1907年 (明治40) にかけ、 メキシコへ移住した初期の沖縄 県出身移民が、 渡航後どのような生活をしていたか、 すなわち、 その居住地と職業など の証言が得られた12名の事例があるので、 以下に取り上げてみる。 資料の出所は日本 人メキシコ移住史編纂委員会編の 『日本人メキシコ移住史』 (1971年刊、pp.254-374)
である。
比嘉安義: 南米のペルーではあれ程発展している沖縄県人も、 メキシコでは極めて寥 寥たるもので、 氏の如きは例外的な存在である。 氏は1907年 (引用者注以下同じ、
明治40) 当州 (コアウイラ) 炭山行移民として渡墨、 直ちにエスぺランサス炭坑に落着き、
一坑夫として奮闘努力すること5カ年にして、 多少の蓄財を得たので、 アリエンデ町郊外 で棉花栽培に乗り出した。 当初計画していた程の成績を挙げ得なかったので、 1923年
(大正12) にはクロエテ町に出て、 食料品雑貨店を始めて順調な発展を見るに至った。14)
仲宗根勝吉: 1907年 (明治40) オアハケニヤ耕地行移民として渡墨、 暫時耕地で 就働 (労) の後墨都に出でて、 外人経営の料理店の皿洗いとなって、 斯業の研究や、
言語の習得を始めた。 慣れない労働で、 而も異国の空での仕事で、 最初の苦労は想 像し難いものがあった。 然し男子志を立てて始めた以上、 万難を克服せねばならない。
氏は幾多の試練に堪え、 数年後には同郷の、 安里亀喜氏と共同にて、 独立した料理店を、
市内目抜のサン ・ ファン ・ レストラン街に開店することが出来た。 両氏のレストランは無類 の繁栄を見たが、 同氏等はこの外にも菓子製造工場を経営し、 その製品はあまねく全市 小売業店に販売され好評を博した。
真境名元憲:1906年 (明治39) オアハケニヤ耕地行移民として渡墨、数ヶ月滞在の上、
首府其地各地に転住、 その間言葉の研究と共に一般国情を視察し、 一応の自信を得た ので、 1910年 (明治43) には小規模ながら洋服縫裁店を開業した。 その後順調な繁 栄を見るに至った。 氏は日本人会の役員や沖縄県人会々長として、 在留邦人のために 尽す処も大であった15)。
新門亀・島袋常成: 両氏は共に1906年 (明治39) オアハケニヤ耕地行移民組であり、
サリナクルス港で下船後目的地に向って輸送され、 一応砂糖耕地の労働者となったが、
炎熱と風土病には堪え難く、 数ヶ月後には耕地を捨てて、 新門氏は墨都に向い、 島袋 氏は玖瑪に転航した。 両氏共、 戓は外人家庭か倶楽部に雇われ、 戓時には農園労働 者として働く等、 幾多の苦労を嘗めたが、 幸にして身体強健、 数年後には共に多少の 資金を蓄えることが出来た。 依って1922年 (大正11) には墨都に於て両人再会し、 洋 食料理店を開設した。氏等のレストランは“サロン東京”の屋号をもって市民に知られ、益々 繁栄に向った。
山内亀千代: 1906年 (明治39) 渡墨、 一先づオアハケニヤ耕地に落着き、 数ヶ月
就労の後墨都に出て一外人家庭に家事使用人として雇われた。 正直勤勉な氏の人物が 認められ、 家人に愛されて数年間留まり、 その間若干の貯蓄が出来たので、 1915年 (大 正4) には郊外のエル ・ オロ町で小料理店を開業した。 然し成績思わしくなかったので、
数年後には首府に移転し、 目抜の繁華な場所を選定し、 “東京ホテル ・ レストラン” の 屋号をもって料理店を開業した。 店舗は地の利を得たことと、 設備完全清潔のため、 日 を遂って繁栄し、 今日にては男女使用人及楽手 (楽師) 等合計40数名に達している16)。 福嶋方林: 1906年 (明治39) に渡墨したオアハケニヤ耕地行移民の中でも、 氏の 如く辛抱強く、 耕地の悪条件に堪え、 契約期間を満了した者は稀である。 耕地で2ヵ年 を過した後首府に出で、 外人経営の電気機械商に雇用され、 次でグアダラハラ市に移 って清涼飲料の路頭販売に従事した。 更に自動車の修理や運転技術を習得して、 首府 に再び帰って、 数台の自動車を購入し貸自動車業を開業した。 不幸にして1915年 (大 正4) には内乱のため、 政府軍により所有の自動車全部を徴発され、 無一文の状態に 陥った。 1923年 (大正12) には菓子製造販売業を始めたが、翌年にはこれを同胞に譲り、
自からは再び従前の貸自動車業を再開した。 メキシコの動乱時代が去り、平和回復と共に、
氏の事業も隆盛に向かった17)。
平田金福: 日露戦争直後の1906年 (明治39) にオアハケニヤ耕地行移民として渡墨、
耕地に留まること数ヶ月にして脱出、 首府に出で、 家庭労働に従事すること3ヵ年、 この 間に言語や風習を習い、 次でパチユーカ市の電気会社に入社し、 機械運転工として勤 務すること8ヵ年、 再び首府に出で、 レストラン従業員として働くこと1ヵ年、 その後行商 を行なうこと2ヵ年、 若干の蓄財が出来たので、 方向転換してミナチトラン市に出で、 食 料品雑貨商を開店した。 氏の商店は堅実な発展を遂げ、 今日に於ては雑貨、 雑穀類 の卸販売に迄発展するに至っている。
渡久平山戸: 1907年 (明治40年) 渡墨のオアハケニヤ耕地行移民の一員である。
暑熱焼くが如き当耕地に就働すること1ヵ年にして、 隣接のコンスタンシア耕地に転じ、
同耕地精糖工場の機械工助手として勤務すること2ヵ年、 次で同耕地の汽船運搬部に転じ。
小蒸気船の運転に従事すること3ヵ年、 この間氏の技術が高く評価され、 漸次優遇さるる に至った。 然し内乱戦のため、 砂糖工場は閉鎖するの已むなきに至ったので、 氏は多 年住み慣れた工場を後にして首府に向い、 適職を物色旁々各地の視察を行い、 爾後の 身の振り方につき熟考した。 その結果、 蓄積し得た小資金をもって小蒸気船1隻を買い 求め、 ミナチトラン町とイダルゴ州チトラン部落との間を往復して農産物の仲買業を始めた。
1916年 (大正5) には多少の蓄財も出来たので、 ミナチトラン町に定住することに決め、
食料品雑貨店を開いた。 其後当地に定着し、 順調な経営を行なっている。
田場太郎: 1906年 (明治39) 渡墨するや直ちにコロンビア砂糖耕地に4ヵ月、 オア ハケニヤ耕地に2ヵ年、 コンスタンシア耕地に1ヵ年と、 砂糖耕地廻りに過した後に、 首 府に出て3ヵ月滞在、 サンクリストーバル石油会社に4ヵ月と転々と職業と住所を換え、 最 後に昔のコンスタンシア耕地に舞い戻り、 大工職に従事すること7カ年、 精米所に6ヵ月、
半分放浪の生活ではあったけれ共、 その間に蓄め得た小金をもってミナチトラン町に移っ て、 食料品雑貨店の経営を試みた。 不運にも翌年には革命戦乱に見舞われ、 匪族の ため商品は雇われ、 家屋は焼き払われてしまった。 これに同情した近隣の同胞数氏は 義損金を集め、 食料品店の再開を援助した。 1924年 (大正13) には再度暴動の被害 を受けたけれ共、 ガソリン、 ボート1隻を購入し運送業を始めた。 幾多の災難に苦しめら れた氏も、 その後業務は順調に進んでいる18)。
仲宗根正(政)三郎: 明治23年生。 (インタビュー時) 80歳。 17歳と云う若い身で沖 縄丸に運ばれ、 横浜に着き、 次には何丸に乗ってサリナクリスに来たが、 もう忘れて居 られる。 コアウイラの炭坑で半年働き、 飛び出して、 野菜作りをするうちに、 革命が起る。
将来いかなる事変がくるかわからないので、 アメリカへ密入国し、 日に4ドルの大金を儲 けていたが、 官憲に発見され、 日本へ送還、 運悪く徴兵にとられ、 兵役を終へて、 キ ューバに渡り、 又メキシコに再入国する。 以来床屋を初め、 よろずの仕事をやり、 大戦 争中に長男が戦死するなど、 辛酸の一路をたどったと、 側をはなれず、 微笑している老 婦人と共に、 口をそろえて、 いかに子供を育てるのに苦労したかを語り、 長途の過去を しみじみと回顧せられる様に、 同情を禁じ得なかった。 幸いにいい子供さんにめぐまれ、
その一人は飛行機整備士である19)。
宮城兼吉: 明治20年生。 (インタビュー時) 83歳。 20歳で笠戸丸の船客となり、 コ アウイラのパラウーサと云う炭坑へ、 600人近い同船者と3年契約で入りましたが、 うまく やると2円にも、 そして3円にもなり、 日本では雇いは50銭にもなりませんでしたからね。
内乱時代は農業をやり、 又タンピコの石油地にもいたりするうちに、 大戦でこちら (タクバ)
に引っぱられました。 この工場 (ペプシコーラ) に23年も働いて、 もう退職したいのですが、
とても聞入れてくれませんと、いかにも誇り高く、うれしそうに、小型の身をゆすって居られる。
小々リューマチにやられていますが、 酒もタバコも十分いけますし、 おどりもやっています。
病気はしたおぼえもありません。 毎年のグワダルーペ祭には、 必ず日系人に交わり、 巡 礼団体に加わって、 テペヤックへお詣りするんですと、 カトリック信者の信の深さを示して 居られる。 異国の空で、 外人に愛され、 余生の全力を傾注して、 日本人の意気を外人 に掲揚して居られる80翁に、 心より賛嘆の言葉をささげ、 かたいお別れの握手をして下 さる20)。
(3)昭和期のメキシコ移民
前掲の表2でも知られるように、 メキシコにおける沖縄県出身移民の在留人員は大正末 期に増加し、 昭和期に入ると、 ほぼ200人台を維持し、 最高は1934年 (昭和9) の3 32人であった。 また、 送金額は年次による変動が大きかったが、 それでも郷里へ比般 的多額の送金をしていることが判明した。
沖縄県からメキシコへの移民は明治期の移民は炭坑など鉱山への坑夫か、 耕地への 農夫としての契約移民であった。 大正10年代以後の移民は自由移民が主体となるが、
その移民数は伸び悩んだ。 その理由は隣接するアメリカ合衆国という金もうけのできる巨 大な労働市場があっため、 同国へ密入国するメキシコ移民が少なくなかったからである。
また、 メキシコは革命や動乱が頻繁に起き、 治安の悪化などもあり、 定住の移民地とは ならなかった。 そのため、県の海外への移住国としての発展の余地が少なかったと言えよう。
沖縄県の 『国際交流関連業務概要』 (2012年刊) によると、 第二次世界大戦後県か らメキシコへの移民は、 1949年 (昭和24) に1人、 翌1950年 (昭和25) に2人、 19 56年 (昭和31) に3人、1958年 (昭和33) に6人、合計12人が送られているのみであった。
そのため、 北米につづく中米のメキシコ移民は戦前に渡航した移民が現地に定住するか、
キューバやペルーなどの中南米諸国から転住してきた移民が少なくなかったのである。 今 やメキシコの沖縄県系人は一世 ・ 二世は少なくなり、 三世 ・ 四世の時代に入っている。
県は前掲の業務概要で、 2011年 (平成23) 現在メキシコの沖縄県系人数を922人と 推計している。
最後に、 1970年代メキシコ沖縄郷友会会長を務めた前田信勝氏の 「メキシコ七十年 の歩み」 から、 当時のメキシコにおける県系人の実態を捉えることにする21)。
当メキシコ国における県人入国の歴史は、 相当旧いにも拘らずメキシコ国経済の発展 と国力の充実強化に伴ない、 他国民の移住や開発を歓迎せず、 遂には外国人移住者 の入国を法律で禁止したため、 沖縄からは終戦直後ごく僅かの家族移住者の呼寄せ入 国があっただけで、 日本人移住者の入国は全く途絶えてしまいました。
このようなことで、 当国に定住する県人の数は、 僅少なもので、 苦難を克服して自ら の運命の開拓に当った初代移住者の方々は、 次ぎ次ぎと他界され、 現在では一世移住 者のうち首都に約四十名、 メキシコ全国で五十名程にすぎません。
メキシコ在留県人は、 日常生活や経済面では各自それぞれの生活基盤が確立され、
社会的にも相当の地盤を築いていますが、 特に二世諸君の当国社会への進出は目覚ま しいのがあります。 医師や技師或いは弁護士として、 社会の第一線で活躍する有能な人 材が居りますことに吾々一世は満足し、 誇りにし、 先駆に鞭打って彼等の成長を助けて います。
メキシコ国の経済成長は、 発展途上にある中、 南米諸国の中でも一位にあり、 最近 では先進国に劣らないまでに、 経済が安定した国となりました。 ところで、 外国からの移 住者の入国は禁じているとはいえ、 メキシコは非常な親日国で、 われわれ県人は稀にみ る親日的国民の温情にささえられて、 何んの不安もなく楽しい日常生活を続けている現状 であります。
6.おわりに
メキシコへの日本人及び沖縄県出身移民研究の少ない現状に鑑み、 本稿では 「メキ シコへの沖縄県出身移民の歴史と実態」 と題して、 以上基礎研究の段階として 「メキシ コの概要」 「メキシコへの日本人移民の概略史」 「メキシコへの沖縄県出身移民の歴史」 「メ
キシコへの沖縄県出身移民の実態」 を記述してきた。
かつて、 琉球大学法文学部地理学教室において、 1992年度から3か年計画で、 文 部省の科学研究費補助金を得て 「北米における沖縄県出身移民に関する地理学的研究」
(研究代表者 琉球大学教授石川友紀) の一環として、 メキシコにおける沖縄県出身移 民の現地調査を実施する予定であった。 しかし、 文部省の予算が3年目は認められず、
結局1992年度―93年度の2か年でアメリカ合衆国とカナダにおける県出身移民の現地 調査が認められ、 両国の県系移民に対する面接聞取調査と資料収集を実施し、 後日そ の成果を発表した22)。 このプロジェクトの第3次調査で、 メキシコシティなどにおいて沖縄 県出身移民の実態調査を行う予定であると、 研究目的にも記しておいたが、 実現せず残 念であった。
このプロジェクトより以前に 「南米における沖縄県出身移民に関する地理学的研究」 (O ISLA) と題して、 やはり科研費により、 1978年度から1988年度まで10年以上にわたり、
ブラジル ・ ペルー ・ アルゼンチン ・ ボリビアの4か国を取り上げ、 琉球大学教授田里友哲 ・ 同中山満を研究代表者に地理学教員を主体に、 戦前 ・ 戦後の県移民の現地調査を、
予備調査と併せて3次の本調査を実施し、 多くの成果を挙げてきた23)。
現在、 沖縄県の 「国際交流関連業務概要」 (2012年刊) の 「海外沖縄県人会名簿」
によると、 2012年1月現在海外の沖縄県人会は25カ国1地域にわたり86もあり、 会員 数は7万4 ,315人とのことである。 うち、 メキシコ沖縄県人会は40世帯 ・ 211人が会員と して登録され、 会長はペレス ・ ナカンダカラ ・ エリアス氏である。
2016年 (平成28) 10月26日~30日には 「第6回世界のウチナーンチュ大会」 が沖 縄県内で開催予定である。 戦前 ・ 戦後苦難の道を歩んできたメキシコにおける沖縄県出 身移民の歴史と実態を、 われわれも情報として持ち合わせておくべきであると思い、 あえ てまとめた次第である。 これを土台にして、 メキシコを含む世界 ・ 日本 ・ 沖縄の移民事 象に関心がもたれ、 また、 若手移民研究者の輩出を望むものである。
[ 注 ]
1)石川友紀 (2011) 「第5部 沖縄移民の諸相 第5章 沖縄移民史の課題と展望」 沖 縄県文化振興会史料編集室編 『沖縄県史』 各論編、 第5巻、 近代、pp.466-468の 表1の移民 ・ 出稼ぎ編を含む市町村史誌、 沖縄県教育委員会を参照。
2)矢野恒太記念会編 (2013) 『世界国勢図会』 2013 /14年版、p.15p.34p.88、 矢野 恒太記念会。
3)国本伊代 (1997) 「第6章 メキシコ」 国本伊代 ・ 中川文雄編著 『ラテンアメリカ研究 への招待』p.181、 新評論。
4)ヘスス ・K・ 赤地、 カルロス ・T・ 春日ほか (2002) 「日系メキシコ人の歴史」 アケミ ・ キクムラ=ヤノ編 ・ 小原雅代訳 『アメリカ大陸日系人百科事典』p.280、 明石書店。
5)前掲注4) と同じ、p.285。
6)前掲注4) と同じ、 日墨協会 「第7章 メキシコの日系コミュニティ」p.277。
7)前掲注4) と同じ、p.277。
8)上野英信 (1984) 『眉屋私記』 潮出版社、 倉部きよたか (1989) 『峠の文化史―キ ューバの日本人』PMC出版を参照。
9)以下の記述は筆者が琉球政府編 (1969) 『沖縄県史』 第19巻、資料編9、新聞集成 ・ 社会文化、 琉球政府などを参考に、 西原町史編集委員会編 (2001) 『西原町史』 第 6巻 資料編5、 西原の移民記録、 西原町教育委員会、pp.28-40にメキシコの項で詳 述してある。
10)外務省外交史料館所蔵の外務省記録「移民取扱ヲ経由セル海外渡航者名簿」第17巻 ・ 明治37年の東洋移民合資会社が1904年 (明治37) 7月に作成した 「エスぺランザス 第一回移民名簿」 によると、 沖縄県移民は202人と記されている。
11)前掲注9) と同じ、 『西原町史』 第6巻、 pp.32-40。
12)石川友紀 (2012) 「新聞記事にみる明治期沖縄県における移民事象」 『南島文化』
第34号、pp.184-185、 沖縄国際大学南島文化研究所。
13)石川友紀(2012)「新聞記事にみる大正期沖縄県における移民事象」『移民研究』第8号。
p.68、 琉球大学国際沖縄研究所移民研究部門。
14)比嘉安義は外務省の 「海外旅券下付表」 によると、 戸主比嘉安勝の2男、 国頭郡名 護間切名護村出身。 21歳 (明治19年11月5日生) のとき、 明治40年4月19日に沖縄 県庁より旅券が下付、 同年5月18日に神戸港を出航した。 渡航地はメキシコ国、 渡航 の目的は炭鉱坑夫、 契約期限は3か年であった。 (沖縄県立図書館史料編集室編 (19 94) 『沖縄県史料』 近代6、 移民名簿Ⅱ、 沖縄県教育委員会、p.28所収)
15)真境名元憲は戸主、 士族、 島尻郡豊見城間切真嘉部出身、 39歳 (慶応2年12月8 日生) のとき、 明治39年11月19日に沖縄県庁より旅券が下付、 同年12月10日に日本 を出発した。 渡航地は墨国、 渡航目的は農夫、 契約期限は2か年であった。 (沖縄県 立図書館史料編集室編 (1992) 『沖縄県史料』 近代5、移民名簿Ⅰ、沖縄県教育委員会、
p.663所収)
16)山内亀千代は戸主山内口吉弟、 平民農、 中頭郡中城間切新垣村出身。 19歳 (明 治20年7月27日生) のとき、 明治39年11月20日に沖縄県庁より旅券が下付され、 同 年12月10日に日本を出発した。 渡航地は墨国、 渡航目的は農夫、 契約期限は2か年 であった。 (前掲注15) と同じ移民名簿Ⅰ、p.663所収)
17)譜久嶋方林は戸主譜久嶋方綱2男、 士族、 宮古郡下地間切仲地村出身。 19歳 (明 治20年10月24日生) のとき、 明治39年10月20日に沖縄県庁より旅券が下付され、
同年12月10日に日本を出発した。 渡航地は墨国、 渡航目的は農夫、 契約期限は2か 年であった。 (前掲注15) と同じ移民名簿Ⅰ、p.659所収)
18)田場太良は戸主、 平民農、 中頭郡与那城間切平安座村出身。 36歳 (明治3年8月 5日生) のとき、 明治39年11月22日に沖縄県庁より旅券が下付され、 同年12月10日 に日本を出発した。 渡航地は墨国、 渡航目的は農夫、 契約期限は2か年であった。 (前
掲注15) と同じ移民名簿Ⅰ、p.665所収)
19)仲宗根政三郎は戸主仲宗根政次郎の3男、 平民農、 国頭郡本部間切伊野波村出身。
17歳 (明治23年10月生) のとき、 明治40年10月12日に沖縄県庁より旅券が下付され、
同年10月23日に横浜港を出航した。 渡航地は墨西哥、 渡航目的は鉱業、 契約期限 は3か年であった。 (前掲注14) と同じ移民名簿Ⅱ、p.42)
20)宮城兼吉は戸主宮城兼長の3男、平民農、国頭郡名護間切宇茂佐村出身。 17歳 (明 治19年11月生) のとき、 明治40年10月12日に沖縄県庁より旅券が下付され、 同年1 0月23日に横浜港を出航した。 渡航地は墨西哥、 渡航目的は鉱業、 契約期間は3か 年であった。 (前掲注14) と同じ移民名簿Ⅱ、p.47)
21)兼本盛一編 (1974) 『雄飛』 第31号、 創立50周年記念号、pp.61-62、 沖縄県 海外協会事務局。
22)石川友紀 (2013) 「北米における沖縄県出身移民に関する地理学的研究―ハワイ一 世移民の現地調査事例を中心に (Ⅰ)-」 『移民研究』 第9号、pp.41-62、 沖縄移民 研究センター。 同 (2015) 『同上 (Ⅱ)』 『同上』 第10号、pp.43-68、 同センター。
23)琉球大学法文学部で発刊した 「南米における沖縄県出身移民に関する地理学的研究」
(OISLA) の成果は、 報告書3冊のほか論文などが20篇以上に及ぶ。 その詳細は石 川友紀 (2003) 「南米における沖縄県出身移民に関する地理学的研究―一世の地域 的分布と職業構成を中心にー」 『歴史地理学』 第45巻第1号、pp.72-85、 歴史地理 学会を参照してほしい。
付: メキシコの沖縄県出身一世移民の証言としては、 既刊の市町村史誌や字史誌の ほか、琉球新報社編集局編著 (1986) 『世界のウチナーンチュ2』 ひるぎ社が参考となる。