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舒蕪『北京は私の故郷だ』 蔭山達弥

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Academic year: 2021

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研究者と図書館

 政府の要人が多く暮らす、中国北京市中南海 の西側を南北に通る府右街は、一般車両やバイ クの通行は禁止されている。天気の良い日、人 通りが少ない木蔭の下を南の方向(長安街方面)

に、妻と連れ立って自転車で走行すると、この 上ない爽快感を味わえる。

 今から九十年以上前、府右街にあった培根小 学一年生だった学者・舒蕪(1922-2009)は、『北 京は私の故郷だ』(《未免友情 舒芜随笔》东方 出版中心,1997年1月)の中で、次のように述べ ている。「言わせてもらえるなら、人々が自分 の故郷を愛するのは、往々にしてただそれが子 供の頃の記憶とつながっているからであり、北 京は私にとって故郷への情愛を持ち続けている 所だ。とはいえ、私の本籍は決して北京ではな いが。」

 舒蕪は安徽省桐城県の出身。母方の祖父は、

馬其昶と言い、詩や書道に長じ、桐城派最後の ひとり、北京大学で古典文学を教える守旧派で あった。袁世凱が議会を解散後、頭数を揃える ため、祖父は参政院参政に抱き込まれたが、最 後は袁への協力を断り、一旦桐城に戻る。1916 年、清史館の編集室主任として祖父は再び北京 に舞い戻った。

 舒蕪の父は方時喬と言い、上海の大学を卒業 後、若干二十二歳で北京大学予科国文講師を担 当していた。この頃、母も祖父と一緒に北京に 住んでいて、父と知り合い結婚した。やがて母 は舒蕪を身籠り帰郷。舒蕪が一歳の時、母は舒 蕪を連れ再び北京にやって来て、日本から帰国 した父との暮らしが始まった。しかし、まもな く父に別の女性ができ、両親は別居。舒蕪が七 歳の時、母は舒蕪を連れて、府右街に別れを告 げ、故郷に帰った。

 「ある晴れた午後、一人の先輩が拙宅に来て、

私に小さなゴムまりをくれた。私がまりをつけ ないので、彼はついて見せてくれた。私は見て 夢中になり、小さなゴムまりが自分で跳ね上が るのではなくて、まるでまりをつく人の手に何 か吸引力があって、小さなゴムまりを引き寄せ

て手についてくるようだ。これが私の府右街の 家に関する最初の記憶である。窓から斜めに差 し込む午後の陽光、あの私より高い食事用の四 角いテーブル、食事をしないときは壁に立てか け、傍らに一脚の椅子があり、その先輩がテー ブルのそばに腰掛けてゴムまりをついている様 子が、今でもありありと目に浮かぶ。」

 「毎日午後、授業が終わると、列を組んで、

歌いながら家に帰る。歌うのは“授業が終ると 太陽は西に、かばんを片付けて家に帰ろう。父 さん母さんを見たらお辞儀をしよう、父さん母 さんはそれを見てふふふと笑う。”小さな隊列 が府右街の西の歩道を北から南へ行進する。向 いの東の歩道に照らされる夕陽を見て、本当に 歌詞を理解できるのだ。」

 二十年後新中国が誕生し、北京に移って仕事 ができるよう、何度も足を運んだがかなわず、

その結果かつて自分を輝かしい地位に押し上げ てくれた著名な文学理論家・胡風(1902-1985)

を裏切り、「最初から『延安の文芸座談会にお ける講話』を学習しよう」を書いて、新中国最 大の反革命陰謀である胡風事件(冤罪)に加担 する立場に自身がなろうとは、当時の舒蕪少年 にとって想像すらできなかったことだろう。

 舒蕪は2009年8月18日、心不全のため北京の 病院で亡くなった。しかし彼の名は1955年に 起った「胡風反党集団」事件の火付け役として 歴史にしっかりと記憶されるだろう。舒蕪の役 回りについて、被害者たちは“ユダ”だと非難し、

批評家は利己主義だと見なす。とにかく、舒蕪 が胡風との私信を整理して第三者に手渡した行 為は弁解の余地がない。

 かげやま たつや(非常勤講師・中国文学)

中国のほんの話(82)

舒蕪『北京は私の故郷だ』

蔭山達弥

中国のほんの話 8 2

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