[調査報告] 内モンゴル自治区・遼寧省における唐
・契丹国(遼朝)・金時代の遺跡・文物調査報告
その他のタイトル [Report of field work] A Report on Relics and cultural relics of the Tang, Liao and Jin dynasties in Inner Monglia and Liaoning
著者 森部 豊
雑誌名 史泉
巻 129
ページ A8‑A13
発行年 2019‑01‑31
URL http://hdl.handle.net/10112/00020709
二〇 一八 年八 月二 八日 から 九月 一〇 日ま で︑ 中国 の内 モン ゴル 自治 区 お よび 遼 寧 省 に散 在 す る唐
︑契 丹 国︵ 遼 朝︶
︑金 に か か わ る 遺 跡・ 文 物の 調査 をお こな った
︒以 下︑ その 概要 をご く簡 単に 報告 する
︒ 一 調査 概要 八月 二八 日 大阪
︵関 西国 際空 港︶ から 北京 経由 でホ ロン バイ ル市 ハ イラ ル︵ 海拉 爾︶ 区へ
︒同 地泊
︒ 八月 二九 日 ハイ ラル から 東へ
︒大 興安 嶺の 中に 入り
︑北 魏を 建国 し た鮮 卑拓 跋族 の発 祥の 地と され てい る嘎 仙洞
︵写 真一
︑二
︶の 調 査︒ 洞窟 の入 口は 天井 が低 いが
︑奥 へい くほ ど高 く︑ かつ 広く な って いる
︒洞 窟入 口左 手に
︑有 名な 北魏 皇帝 が使 者を 派遣 した 際 の祝 詞の 全文 が刻 まれ てい るが
︑現 在は 金属 の保 護カ バー で覆 わ れ︑ オリ ジナ ルを みる こと はで きな い︒ 現地 スタ ッフ の説 明で は
︑こ の碑 文が
﹁発 見﹂ され てほ どな くし て︑ 猟銃 が暴 発し
︑碑 文 にダ メー ジが 加え られ たと いう
︒オ ロチ ョン
︵鄂 倫春
︶泊
八月 三〇 日 オロ チョ ンか ら再 び大 興安 嶺を 横切 り︑ ホロ ンバ イル 平 原へ もど る︒ 金の 時代
︵一 一一 五年
│一 二三 四年
︶の 長城
︵金 界壕 と い う︶ を遠 望 し
︑黒 山 頭城 遺 址︵ 写 真 三
︶を 調 査
︒エ ル グ ネ
︵ア ル グ ン
;
額爾 古納︶の 街へ もど り︑ エル グネ 民族 博物 館を 参観
︒エ ルグ ネ 泊︒ 八月 三 一 日 エル グ ネ から ロ シ ア との 国 境 沿い に 西 へ移 動 し︑ 満 洲 里 にい た る
︒途 中︑ ジ ャラ イ ノ ー ル
︵扎 賚 諾 爾
︶で 鮮 卑 古 墳 群
︿調 査 報 告﹀
内 モ ン ゴ ル 自 治 区
・ 遼 寧 省 に お け る 唐 ・ 契 丹 国 ︵ 遼 朝
︶ ・ 金 時 代 の 遺 跡
・ 文 物 調 査 報
森
告
部
豊
写真一 嘎仙洞
写真二 嘎仙洞入口銘文
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︵ 写真 四︶ とジ ャラ イノ ール 博物 館を 参観
︒ 九月 一日
満 洲里 から ハイ ラル 区へ 移動
︒そ の途 中︑ ホロ ンバ イル 平 原に ある 浩特 陶海 古城 遺址 を調 査︒ 浩特 陶海 古城 は遼 代の 城郭 都市 遺 跡 で︑
﹁通 化 州 城﹂ に 比定 さ れ てい る
︒こ の 遺跡 は 呼 倫 湖 以 東
︑ア ル グン 河一 帯の 辺防
城 とし ての 防備 も担 って いた とさ れる
﹇今 野二
〇
〇 五﹈
︒ハ イ ラ ル 区に も ど り︑ ホロ ン バ イル 民 族 博 物館 を 参 観
︒そ の 後︑ ジャ ラン トン
︵扎 蘭屯
︶へ 移動
︑宿 泊︒ 九月 二日
こ の日 は雨
︒朝 から 午前
︑や や強 い雨
︒そ の中
︑金 界壕
︵ 写 真 五
︶の 調 査
︒内 モ ン ゴ ル 自 治 区 と 黒 竜 江 省 と の 境 界 に 沿 っ て
︑ か つて の金 界壕 が良 好に 保存 され てい る︒ 我々 は︑ その 一段 の﹁ 䶎子 山 段﹂ を調 査し た︒ この 後︑ ウラ ンホ ト︵ 烏蘭 浩特
︶市 へ移 動し
︑興
チ ン ギ ス ハ ン
盟 旗博 物館 を見 学後
︑成 吉思 汗廟
︵写 真六
︶を 参拝
︒ち なみ に︑ この 廟 は﹁ 満洲 国﹂ 時代 に創 建さ れた もの であ る﹇ 田中 二〇
〇九
﹈︒ 九月 三日
こ の日 は︑ ウラ ンホ トか らジ ャル ート
︵扎 魯特
︶旗 へ移 動
︒午 前中 は移 動︒ 午後
︑ジ ャル ート 旗の 街を 通過 し︑ 境内 にあ る金 界 壕︵ 写真 七︑ 八︶ の調 査︒ この 地域 の金 界壕 は︑ 八八
〇〇 メー トル ほ ど残 り︑ また 城郭 をと もな った 要塞 もの こる
︒ジ ャル ート の街 へも ど る途 中︑ 豫州 城遺 址に たち よる
︒豫 州城 遺址 は︑ 契丹 国︵ 遼朝
︶時 代 の頭 下軍 州︑ すわ わち 皇族 や有 力部 将の 私城 の一 つで ある
︒﹃ 遼史
﹄ 巻 三七
﹁地 理志
・頭 下軍 州条
﹂に
﹁豫 州︒ 横帳 陳王 の牧 なり
︒南 のか た 上京 に至 るに 三百 里︒ 戸五 百な り﹂ と記 され る︒ 九月 四日
朝 一番 にジ ャル ート 博物 館を 見学
︒お 昼に 巴林 左旗 の林 東 鎮 に 到 着
︒契 丹 国
︵遼 朝
︶の 上 京 遺 址 が あ る と こ ろ で あ る︒ 昼 食 後
︑ま ずは 契丹 国︵ 遼朝
︶初 代皇 帝︑ 太祖
・耶 律阿 保機 の墓 陵で ある
写真五 金界壕䶎子山段 写真四 鮮卑墓群
写真六 成吉思汗廟
写真三 黒山頭城遺址
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写真九 祖陵 写真一〇 祖州城内の石室
写真一一 祖州城 写真一二 祖陵入口・龍門
写真一三 祖陵から龍門を望む 写真一四 遼上京・乾徳門
写真七 金界壕(ジャルート)
写真八 金界壕(ジャルート)
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祖 陵︵ 写真 九︶ 参詣
︒祖 陵は 自然 の 山を 利用 して いる
︒そ れは
︑ち ょ うど 馬蹄 の∩ のよ うな 形で
︑奥 ま った とこ ろに 祖陵 があ る︵ 写真 一
〇︑ 一 一︑ 一 二︑ 一 三︶
︒入 口 外 には
︑祖 陵の 奉陵 邑で ある 祖州 城 があ り︑ 城壁 が現 存す る︒ 武田 二
〇 一 四﹈
︒祖 陵 参 詣 後︑ 遼 上 京 遺 址
︵写 真 一 四︑ 一 五
︶へ い き
︑ 進 行中 の考 古発 掘現 場を 参観
︒詳 細 は︑ 次節 にま わす
︒ 九月 五日
午 前中
︑林 東の 北に の こ る 遼 の 北 塔 を 見 学︒ つ い で
︑ 遼 上 京 遺 跡 を 調 査︒ 西 門 か ら 入 り
︑城 壁 と 城 内 を 徒 歩 で ま わ る
︒ そ の後
︑南 塔︵ 写真 一六
︶へ
︒林 東 の南 の丘 陵の 中腹 に位 置し
︑遼 上 京 遺 跡 が 遠 望 で き る︒ そ し て
︑ 巴 林右 旗博 物館 を参 観後
︑内 モン ゴ ル を あ と に し︑ 遼 寧 省 界 に 入 る
︒朝 陽泊
︒ 九 月 六 日 こ の 日 は 一 日 朝 陽
︒ 午 前中
︑朝 陽市 博物 館を 表敬 訪問 し
︑つ いで 地下 倉庫 に保 管さ れて
い る唐 代墓 誌の
﹁朱 寿墓 誌﹂
﹁劉 祖墓 誌﹂ の二 点を 調査 させ ても らう
︒ 午 後か ら関 帝廟 を見 た後
︑大 遼河 東岸 の双 塔区 博物 館を 調査
︒ 九 月 七 日 朝 陽 を 出 発 し︑ 北 票 へ 向 か う
︒北 票 博 物 館 を 見 学 し た 後
︑耶 律仁 先墓 へむ かう
︒午 後︑ 阜新 博物 館と 阜新 蒙古 族博 物館 を見 学
︒阜 新泊
︒ 九月 八日
朝
︑北 鎮へ 移動
︒午 前中
︑医 巫閭 山山 中で 発掘 中の 瑠璃 寺 遺 址 の 見 学
︒午 後 か ら 医 巫 閭 山 山 麓 で 発 掘 中 の 契 丹︵ 遼︶ 墓 の 見 学
︒と もに 契丹 国︵ 遼朝
︶史 研究 上︑ 重要 な遺 跡で ある
︒次 節で 詳し く 紹介 する
︒ 九月 九 日 北 鎮 から 遼 寧 省の 省 都・ 瀋 陽へ 移 動︒ 瀋 陽 故宮 を 見 学
︒ 昼 食を はさ んで 遼寧 省博 物館 の参 観︒ 旧大 和旅 館に 投宿
︒ 九月 一〇 日 帰国
︒台 風二 十一 号の 影響 で関 西国 際空 港が 利用 不可 能 なた め︑ 瀋陽 から ソウ ル経 由︑ 福岡 着便 で帰 国︒ 二 主要 調査 地点 と新 発見 遺跡
︵ 一︶ 遼寧 省北 鎮瑠 璃寺 遺跡 この 遺 跡は
︑遼 寧 省 北 鎮市 富 屯 街道 龍 崗 子村 の 西 北 の医 巫 閭 山中
︑ 現 地で は﹁ 二道 溝﹂ と呼 ばれ てい る場 所に ある
︒海 抜六 六〇 メー トル ほ ど の 地 点 で
︑山 を か な り 上 っ た 場 所 に な る︒ こ の 遺 跡 は 林 の 中 あ り
︑二
〇一 七年 から 発掘 が行 われ てい る︒ 考古 発掘 の結 果︑ 前・ 中・ 後 の三 部分 の建 築基 壇が ある こと がわ かり
︑遼
・明
・清 の三 代に わた っ て造 営さ れた 建築 物の 遺跡 であ るこ とが 判明 した
︒ 特に 遼代 の大 型建 築基 壇が 発掘 され てお り︑ 瑠璃 瓦の ほか
︑灰 陶な
写真一六 遼上京の南にある遼塔 写真一五 遼上京西城壁
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ど の建 築資 材が 出土 して いる
︒こ の建 築は
︑医 巫閭 山に おけ る契 丹国
︵ 遼朝
︶の 皇 帝陵 の 陵 墓 前に あ っ た建 築 の 遺跡 で あ ろ うと 推 測 され て い る︒ 遼 寧省 北 鎮 の 医巫 閭 山 には
︑契 丹 国︵ 遼 朝︶ の皇 帝 墓 の う ち
︑ 顕 陵と 乾陵 とあ ると され るが
︑そ の具 体的 地点 は今 のと ころ
︑確 定さ れ てい ない
︒こ の瑠 璃寺 遺跡 の建 築群 が︑ その どち らか の墓 陵前 の建 築 物で あれ ば︑ 玄宮 の位 置も 推定 でき る大 きな 材料 とな りう る︒ これ に 関し ては
︑次 に紹 介す るも う一 つの 墓陵 遺跡 と関 連す る︒
︵ 二︶ 北鎮 新立 遺跡 この 遺跡 は︑ 瑠璃 寺遺 跡の ある 山中 から ふも とに 下っ たと ころ にあ る
︒北 鎮市 富屯 街道 新立 村桜 桃溝 村民 組の 西北 約一
〇〇 メー トル の黄 土 台地 上に あり
︑北 鎮の 市街 地区 の西 北約 八キ ロの 場所 にあ たる
︒こ の 遺跡 から は︑ 台地 の北 部か ら大 型の 建築 遺址 とそ れに 付属 する 小規 模 な建 築遺 址が
︑そ の南 側に 発見 され た︒ また
︑北 の大 型建 築遺 址の 西 南に 全長 八四 メー トル もあ る巨 大な 墓が
︑ま た北 には 全長 四四 メー ト ルあ る墓 が発 見さ れて いる
︒こ の二 つの 墓と 建築 遺址 の距 離は 極め て 近く
︑両 者が 密接 な関 係を もっ た一 群の 遺跡 であ るこ とは 疑い ない と いう
︒ 大型 建築 遺址 は︑ 東南 方向 に向 いて おり
︑殿 門と 正殿
︑そ して その 東 西南 北の 四面 を回 廊で かこ んで いる
︒こ の遺 跡か らは
︑上 等な 瑠璃 瓦 や建 築材 が出 土し てい る︒ 正殿 の周 囲か らは
︑高 級な 石材 が発 見さ れ てお り︑ これ は皇 帝の 宮殿 や皇 帝陵 の建 築に しか 使用 され ない もの で ある とい う︒ また
︑正 殿か らは 契丹 小字 と漢 字で 刻字 され た破 損し た 玉冊 が発 見さ れた
︒さ らに 遺跡 東側 の坂 から は精 緻な 彫刻 がほ どこ
さ れた 大型 の石 螭首 が発 見さ れて いる
︒ この 建築 遺跡 の構 造や 出土 遺物 を︑ 内モ ンゴ ルに ある 有名 な慶 陵の そ れと 比較 する と非 常に よく 似て いる こと から
︑こ の遺 跡は 遼代 の皇 帝 陵の 玄室 の前 にあ った 祭殿 の遺 跡で ある と推 測で きる
︒さ らに
︑こ の エリ アの 皇帝 陵は 契丹 国の 顕陵 と乾 陵と があ るが
︑慶 陵と の近 似性 や 出土 文物 の時 代的 特徴 から
︑こ の遺 跡は 遼代 の乾 陵の 皇帝 陵前 の祭 殿 であ ると いう 推測 が中 国側 から 提出 され てい る︒
︵﹃ 中 国文 物報
﹄二
〇 一八 年九 月二 一日
︶
︵ 三︶ 遼上 京遺 跡 内モ ンゴ ル巴 林左 旗林 東鎮 にあ る遼 の上 京遺 跡は
︑近 年︑ 発掘 が進 行 し︑ 従来
︑不 明瞭 であ った 城郭 都市 内の 構造 が次 第に 明ら かに され て きて いる
︒二
〇一 六年 六月 から 十月 にか けて
︑遼 上京 宮城 の南 門遺 址
︑二 号 院 南 廊 廡 遺 址
︑皇 城 東 門 内 大 街 遺 址 の 発 掘 調 査 が お こ な わ れ
︑報 告書 もで てい る︒ 二〇 一 八 年 に 訪 問 し た 際 に は︑ 城 内 の 二 か 所 で 発 掘 が す す ん で い た
︒そ の情 報の 一部 は︑ ネッ ト上 の﹁ 文化 赤峰 網﹂ で公 開さ れて いる が
︑正 式報 告は まだ 出て いな い︒ 現在
︑こ の遺 跡は 中国 社会 科学 院考 古 研究 所の 内蒙 古第 二工 作隊 と内 蒙古 自治 区文 物考 古研 究所 が合 同で 発 掘 をお こ な っ てい る
︒遼 上 京の 構 造 は︑
﹁日
﹂の 字 形 で
︑北 部 が 皇 城
︑南 部が 漢城 から なる 二重 構造 であ った とい うの が中 国の 解釈 であ る
︒二
〇一 八年 六月 から は︑ 上京 宮城 内の 発掘 がお こな われ
︑二 か所 か ら 大型 の 建 築 遺 址 が 発 見 さ れ た︒ ま た 祭 祀 坑 の 跡 も み つ か っ て お り
︑馬 や犬 など が埋 葬さ れて いた こと が明 らか とな って いる
︒
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