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ヤコービのスピノザ主義批判

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(1)

ヤコービのスピノザ主義批判

著者 中川 明才

雑誌名 人文學

号 178

ページ 28‑49

発行年 2005‑12‑20

権利 同志社大学人文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000007638

(2)

ヤ コ ー ビ の ス ピ ノ ザ 主 義 批 判

中 川 明 才

はじめに

理性の自立性を原理とする哲学は︑真に有ると言えるものとしての神の存在を否定する﹁無神論﹂であり︑最終的

には神をはじめとする一切のものを無化する﹁ニヒリズム﹂に行き着くものである︒十八世紀ドイツの哲学者フリー

ドリヒ・ハインリヒ・ヤコービは﹁スピノザ主義﹂をそのような理性的な哲学の代表とみなし︑その問題性を論じ

た出される︑理性を超えもにのとしての神に対する見内︒義本論文は︑スピノザ主にの対するヤコービの批判理

性の関係をめぐるヤコービの諸省察を検討することによって︑スピノザ主義に対置されたヤコービの哲学の原理上の

諸特徴を解明することを主題とする︒

論述は以下の手順でなされる︒まず第一に︑﹃スピノザ書簡﹄の第二版︵一七八九年︶に付された﹁第七付録﹂を

主として参照しつつ︑ヤコービがスピノザ主義をいかなるものとして理解していたのかを明らかにする︵ヤコービの

スピノザ主義理解︶︒第二に︑神を自然に内在するものとみなすスピノザ主義の立場と神を超自然的なものとみなす

― 2 8 ―

(3)

ヤコービの立場の相違について論じる︵無神論としてのスピノザ主義︶︒第三に︑﹃フィヒテ宛て公開書簡﹄︵一七九

九年︶におけるヤコービの主要な見解︑すなわち︑フィヒテの知識学が﹁転倒したスピノザ主義﹂であり︑それは最

終的に理性以外の一切のものが無に帰するニヒリズムとなるという見解を取り上げ︑スピノザ主義と知識学との共通

性を検討する︵﹁転倒したスピノザ主義﹂としての知識学︶︒そして最後に︑スピノザ主義の原理としての理性の自立

性とヤコービの哲学の原理としての愛の依存性を対比させることによって︑ヤコービの哲学の原理上の諸特徴を解明

する︵理性の自立性と愛の依存性︶︒

一ヤコービのスピノザ主義理解

ヤコービのスピノザ主義理解は﹃モーゼス・メンデルスゾーン宛ての書簡におけるスピノザの教説について﹄︵一

七八五年︑以下﹃スピノザ書簡﹄と略記︶

そ年九八七一︵版二第のにに特︒るきでがとこる見︶

に付された﹁第七 付録︵BeilageVII︶﹂は非常に重要である︒というのも︑そこでは神と世界の関係について論じるスピノザの方法と しての﹁証明︵Demonstration︶﹂︵JGAI/1,123︶がいかに﹁支離滅裂な企て︵einungereimtesUnternehmen︶﹂︵JGAI/1, 260︶であるかということが主張されているからである︒そこでまず最初に︑﹁スピノザの神﹂に対する学的手続きと しての﹁証明﹂によって代表される﹁スピノザ主義︵Spinozismus︶﹂についてのヤコービの理解を検討しておきた

い︒

﹁第七付録﹂の冒頭では︑第一版で示された﹁スピノザの神﹂についてのヤコービの定義が引用されている︒﹁スピ

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ヤコービのスピノザ主義批判

(4)

ノザの神は︑一切の現実的なものにおける現実性の︑すなわち一切の現存在における存

!

明の !

!

!

原理である︒それ !

は決して個体性をもたず︑無限である﹂︵JGAI/1,247︶︒この定義において神に関する重要な特徴は二つ挙げられ る︒一つは︑神は﹁決して個体性をもたず︑無限である﹂という点において︑あくまで﹁個体性︵Individualität︶﹂︑ 有限で数多的である﹁個物︵dieeinzelnenDinge︶﹂︵JGAI/1,100︶から区別されるということである︒この場合の神 は﹁一切の存在者の唯一的にして無限なる存在︵daseinzigeunendlicheWesenallerWesen︶﹂︑﹁実体︵Substanz︶﹂︵JGA I/1,98︶とも称される

わ現実性の︑すなちけ一切の現存在におるお︒﹁もう一つは︑神は一に切の現実的なものけ

る存

!

明の !

!

!

ザいするものであるとう能ことである︒スピノに可原内理﹂であり︑個物のにをあって個物の現存在 !

の神は個物の外に存する超越的なものではなく︑個物に内在する実体である︒

さらにスピノザにとって実体としての神は﹁存在︵dasSein︶﹂と同義であり︑﹁それに先立って何ものも定立され うることがなく︑一切のものに対して前提されなければならないもの﹂である︵JGAI/1,59︶︒それに対して個物は 限定されたもの︵dasBestimmte︶である︒﹁限定は否定である︵determinatioestnegatio.︶︒⁝⁝それゆえ個物は︑それ がある限定された仕方で現に存在するかぎり︑非存在︵non-entia︶である﹂︵JGAI/1,100︶︒実体は存在であり︑個

物は非存在である︒個物はただ実体との関係においてのみ現存在することができる︒個物が非存在であるとは︑その

現存在において存在に依存しているということである︒個物は存在への依存関係において﹁現存在﹂であり︑﹁現実

性﹂である︒﹁ただ個物においてのみ表現されうる現実性﹂は﹁所産的自然︵naturanaturata︶﹂と称される︒それに 対して神は﹁可能性︑本質︑実体的なもの﹂であり︑﹁能産的自然︵naturanaturans︶﹂と称される︵JGAI/1,39︶︒個

物と神の両者に共通して﹁自然﹂という名称が与えられるのは︑個物における神の内在性を指示せんがためである︒ ヤコービのスピノザ主義批判

― 3 0 ―

(5)

このようにヤコービはスピノザの主要概念を取り上げながら︑実体ないし能産的自然としての神を﹁内在的で・自

!

!

!

!

!

I/1,11JGAでのるけあ徴特てしと︶るづ︒永︵﹂因原の界世・な的変不に遠 !

ところでヤコービが﹁第七付録﹂において主に批判しているのは︑スピノザの﹁証明﹂という手続きに関してであ

る︒証明は﹁説明︵Erklärung︶﹂︵JGAI/1,29︶であるとも言われる︒つまり︑神を個物との関係において捉え︑実体

とみなし︑世界の内在的原因として説明することは︑神に関する証明の一つである︒それではこの証明のいかなる点

をヤコービは批判しているのか︒

神を原因として説明するとは︑神を原因︱結果︱関係すなわち因果関係の内にもたらすことを意味する︒しかしヤ

コービによれば︑このことはスピノザの場合︑﹁原因の概念﹂と﹁根拠の概念﹂を混同することを伴う︵JGAI/1,255

f.︶︒﹁因果律﹂は言う︒﹁一切の為

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何れ︑は︺のもたさもこ起き引︹の !

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為される︹引き起こさ !

れる︺のでなければならない﹂︒それに対して﹁根拠律﹂は言う︒﹁一切の依

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何は !

!

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依存していなけ !

ればならない﹂︒このように対比される因果律と根拠律の混同をヤコービが憂慮するのは︑かかる混同の結果︑原因

の概念がその固有性を取り去られ︑思弁において﹁単なる論理的な存在者︵einbloßlogischesWesen︶﹂︵JGAI/1, 256︶にされてしまうからである︒原因の概念が﹁単なる論理的な存在者﹂にされるとは︑原因が結果との関係にも

たらされ︑その際に因果関係が制約者と被制約者の関係に還元されるということである︒原因の概念の固有性とは︑

原因は決して結果ではないということである︒スピノザの場合︑神は一切の個物の内在的原因であり︑自己以外のい

かなる原因ももたないものである︒それに対して根拠や制約者は︑相違する関係においては帰結や被制約者となるこ

とがある︒制約者と被制約者は︑さらに上位の制約者とさらに下位の被制約者との関係︑すなわち﹁被制約的な諸制

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ヤコービのスピノザ主義批判

(6)

約者の連鎖︵eineKettebedingterBedingungen︶﹂︵JGAI/1,261︶の内に存している︒それゆえ原因の概念は︑それが

帰結の概念と交替可能な根拠の概念と混同されるとき︑論理的には結果の概念と同様のものとなってしまうのであ

る︒

もちろん神が神以外のものを原因としてもつことはないということを論理的に表現することはできるかもしれな

い︒ヤコービはそのような論理的表現として﹁無制約者︵dasUnbedingte︶﹂︵JGAI/1,261︶の概念を挙げる︒しかし

この論理的表現こそ証明ないし説明という手続きの欠陥を示すものであるとヤコービは考える︒説明は﹁無制約者そ

のものという概念﹂を︑先に挙げた﹁被制約的な諸制約者の連鎖﹂││この連鎖をヤコービは﹁自然﹂とみなす││

との対比において︑﹁自然的に拘束されていない︑すなわち我々にとっては非拘束的な︑すなわち無制約的な︑自然

の制約﹂︵JGAI/1,261︶とみなす︒しかしヤコービはこの説明という手続きが破綻していることを次のように指摘し

ている︒﹁さてもしこの無制約者や非拘束者の││従って自

!

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!

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の概念が可 !

!

であるならば︑無制約者は !

無制約者であることをやめなければならず︑それ自身諸制約を受け取らなければならない︒すなわち絶

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は︑それが構 !

!

されるためにのみ︑可 !

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261I/1,JGA約﹂制無を神︒︶︵いにならなばれけなでのるな !

者とみなすとしても︑無制約者の概念によって神を説明するならば︑人はそこで無制約者の概念を可能にする制約を

問わなければならず︑無制約者の概念を﹁可能的なもの﹂とするのでなければならない︒要するに︑神に対していか

なる概念を与えようとも︑その概念を用いて神を論理的関係に取り込もうとするかぎり︑神は﹁被制約的な諸制約者

の連鎖﹂の内に解消されるか︑あるいは説明不可能なものとして論理的関係の外部に締め出されるかのいずれかに帰

するのである︒ ヤコービのスピノザ主義批判

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﹁第七付録﹂におけるヤコービのスピノザ批判は︑神に対する学的態度としての﹁証明﹂をめぐってなされた︒証

明とは説明することであり︑説明されるべき対象を根拠︱帰結︱関係や制約者︱被制約者︱関係といった論理的関係

に還元せんとすることである︒この点においてヤコービは証明が神にとって不適切な手続きであると結論づけた上

で︑スピノザと決別する︒そこで次に︑ヤコービがいかなる手続きを神にとって適切なものとみなしたかということ

を問うことにする︒

二無神論としてのスピノザ主義

ヤコービにとってスピノザの﹁証明﹂は﹁支離滅裂な企て﹂であった︒その企てのために神は﹁自然的に拘束され

ていない︑すなわち我々にとっては非拘束的な︑すなわち無制約的な︑自然の制約﹂という﹁不可能で︑全く支離滅

裂な存在者﹂︵JGAI/1,262︶となってしまう︒それゆえヤコービはスピノザ主義に次の決定的な評価を与える︒すな わち﹁スピノザ主義は無神論である︵SpinozismusistAtheismus.︶﹂︵JGAI/1,120︶と︒そこでヤコービがスピノザ主

義を無神論として斥けた上で︑自らの立場として採用したものがいかなるものであったのかということを確認してお

きたい︒

﹁無制約者の諸制約を発見せんと欲すること︑絶対的に必然的なものを概

!

!

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えんがために︑その必然的なも !

のに対して可能性を案

!

!

︑必然的なものを構 !

!

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ばなれけなれさ明解てしとて企裂と滅離支ばわ言︑はとこるす !

ならないと思われる﹂︵JGAI/1,260︶︒先に述べたように︑スピノザの﹁証明﹂が﹁支離滅裂な企て﹂であるのは︑

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ヤコービのスピノザ主義批判

(8)

その証明が一方では神を論理的関係の内に取り込もうとしながら︑他方では同じ論理的関係から締め出すことになる

からである︒しかし証明がいかに支離滅裂であるからといっても︑そこから直ちに﹁スピノザ主義は無神論である﹂

ということは帰結しないであろう︒問題は︑ヤコービはいかなる意味においてスピノザ主義を無神論とみなしている

かということである︒

この点に関してはヤコービのレッシング評が参考になると思われる︒﹁レッシングは︑世界から区別された︑諸事

物のいかなる原因も信じなかった︒つまり︑レッシングはスピノザ主義者なのである﹂︵JGAI/1,41︶︒さらにヤコー

ビは﹁スピノザ主義者﹂レッシングと自らを比較して︑次のように述べている︒﹁レッシングは︑一切を︿自

!

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いど的なものの哲学なと自いうものはありえな然超﹀っという点にとどまた︑︒それに対して私は !

が︑しかし両者︵自然的なものと超自然的なもの︶は明らかに現存するであろうという点にとどまった﹂︵JGAI/1,

31︶︒ここで注目されるべきは︑ヤコービがレッシングを︑彼が世界の内在的原因を信じ︑一切を自然的なものとみ

なしたという点で﹁スピノザ主義者﹂と評しているということであり︑またヤコービ自身はそれに対して自然的なも

のとともに超自然的なものの現存を認める立場を採用しており︑そのかぎりでスピノザ主義と決別しているというこ

とである︒﹁スピノザ主義は無神論である﹂というヤコービの命題は︑彼が神の超自然性を神の本質性格と捉えてい

るところからはじめて理解可能となる︒神が自然的であるか否かということは︑スピノザとヤコービの間に存する解

消しがたい相違を示しているのである︒

それではヤコービにとって神とはいかなるものなのか︒ヤコービの神とは︑一切を論理的関係に還元し︑しかるに

また一切を自然的なものに解消する手続きとしての証明によっては届かないもの︑すなわち超自然的なものである︒ ヤコービのスピノザ主義批判

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ヤコービが﹃スピノザ書簡﹄において超自然的な神に対する態度として選ぶのは証明や説明ではなく︑﹁露わにする こと︵enthüllen︶﹂︑﹁開示すること︵offenbaren︶﹂である︒ヤコービは言う︒﹁私の判断によれば︑探究者の最も偉大

な功績とは︑現

!

!

あ標究者にとっては目へはと至る手段︑道で探明を開露わにすること︑示説することである︒ !

る︒それは最短の道ではあるが︑││究極目的ではない︒彼の究極目的は︑説明されることのないもの︑不可解なも

の︑直接的なもの︑単純なものである﹂︵JGAI/1,29︶︒スピノザ主義の欠点は︑単に神を自然的なものとみなすとい

う点にあるのではない︑むしろ説明を徹底することによって︑神の説明不可能性すなわち超自然性に直面しながら︑

それでもなお神を自然という説明可能なものと同一視し︑﹁無限なもの﹂と﹁一切の有限的なものの総体﹂との同一

性に固執するという﹁支離滅裂さ﹂に存するのである︒﹁スピノザ主義は無神論である﹂という命題は︑スピノザ主

義における神の超自然性をめぐる錯綜した態度を非難するものとして解されなければならない︒この点に関してヤコ

ービは次のような補足説明を記している︒﹁すべてのスピノザ主義者が神を否定する者であるという説明から︑私は

遠く隔たっている︒まさにそれゆえに︑正

!

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!

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!

!

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うないといなし容許も式様るかスいの教宗が説教のザノピ !

証明が余計なことであるとは私には思えない︒他方︑スピノザ主義のある種の思いつきは︑あらゆる迷信や熱狂と非

常に結びつきやすい︒このことによって人は最も美しいセンセーションを巻き起こすことができる︒決然と神を否定

する者はこの思いつきの影に隠れるべきではないでないし︑他の者がこのことで欺かれてはならない﹂︵JGAI/1,

120.Anm.︶︒

さらに言えば︑超自然的なものとしての神は証明の対象ではない︒とはいえヤコービはそれを﹁すでに証明済みの

もの︵etwasschonErwiesenes︶﹂であるとも言っている︒﹁我々はただ類似性のみを証明することができる︒そしてあ

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ヤコービのスピノザ主義批判

(10)

らゆる証明はすでに証明済みのもの︑その原理が啓

!

124I/1,JGAれ︵よに用引のこ︒︶﹂でるいてし提前をのもるあ !

ば︑証明が関わるものは同一律や根拠律に従った論理的関係に還元されたものという意味における﹁類似性

︵Ähnlichkeit︶﹂である︒しかし証明は﹁すでに証明済みのもの﹂を前提する︒ここで言われる﹁すでに証明済みのも

の﹂とは︑ヤコービによれば︑証明に先立って事実として与えられているものである︒この﹁すでに証明済みのも

の﹂の例として挙げられるのは﹁超自然的なもの﹂である︒﹁被制約者すなわち自

!

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の連関の外 !

に存する一切のものはまた︑我々の認識の外に存するものでもあるのだから︑⁝⁝超自然的なものは︑それが我々に

!

わ定ても︑我々によって想さおれることはない︒すないにといして与えられているとう方こと以外のいかなる仕 !

ち︑そ

!

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I/1,JGA26ビとともに現存するこいうのとが︑ヤコーと的も自である﹂︵︶︒超然な的なものが自然の !

の主張するところであった︒﹁それは有る﹂すなわち超自然的なものが現存するということは﹁事実︵Tatsache︶﹂で あり︑しかも﹁啓示︵Offenbarung︶﹂である︒﹁すでに証明済みのもの﹂は啓示を原理とするがゆえに︑証明はそれ

を前提するより他はない︒

超自然的なものとしての神は啓示を原理とする︒ヤコービはこの啓示の原理を︑人間の身体の現存やそれとは区別

される物体の現存にも認める︒その上でかかる現存についての知をもたらすものとして︑ヤコービは﹁信仰

︵Glaube︶﹂もしくは﹁愛︵Liebe︶﹂を強調するのである︒﹁信仰によって我々は︑我々が身体をもっているというこ

と︑我々の外に他の身体︑他の思惟する存在者が現存するということを知る︒一つの真にして驚くべき啓示︒我々は

我々の身体のあれやこれやの性状を感覚する︒我々があれやこれやの性状を感じることによって︑我々はただ単に身

体の変化を覚知するばかりでなく︑それとは全く異なる︑感覚でも思想でもないものを︑すなわち他の現実的な物を ヤコービのスピノザ主義批判

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覚知する﹂︵JGAI/1,116︶︒ヤコービにとって信仰は︑それ自身超自然的なものの現存すなわち現存在であるところ

の自他の身体や物体に対して人間が有する唯一の接点である︒﹁説明されることのないもの︑不可解なもの︑直接的

なもの︑単純なもの﹂が探究者の最終目的であるならば︑その目的はただ信仰によってのみ達成されるのである︒証

明や説明と対置された﹁現存在を露わにし︑開示すること﹂とは︑現存在の原理である啓示にとって適切な仕方で︑

現存在を扱うことに他ならない︒そのように現存在を露わにすることを可能にするものが﹁愛﹂であり︑それはヤコ

ービの言う﹁私の宗教︵meineReligion︶﹂の核心部分である︒﹁それゆえ私の宗教の精神は以下のものである︒すなわち

人間はある神的な生によって神を直知する︒神の安らぎがあり︑それは一切の理性よりも高次のものである︒この安

らぎの内に概念把握不可能な愛の享受と直観が安らう﹂︵JGAI/1,117︶︒﹁愛は生である︒愛

!

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た︒ !

だ愛という様式のみが生ける自然の各々の様式を識別する︒彼すなわち生ける者が生ける者においてのみ自己を現示

し︑自己を生ける者に認識させることができるのは︑ただ引き起こされた愛によってのみである﹂︵JGAI/1,117︶︒

スピノザ主義を無神論として規定した上で︑ヤコービが提示した立場は超自然的なものへの信仰であり︑その核心

は愛であった︒ここで注目されるべきは︑ヤコービの言う信仰なり愛といったものが﹁生ける者﹂における神の自己

現示という仕方での神の認識を伴うか︑あるいはそれ自身がかかる認識であるということである︒つまり︑超自然的

なものとしての神に対して哲学が採用しうる適切な手続きとは︑神の認識と一つであるような愛に基づくものである

と考えられているのである︒ところでヤコービは﹃スピノザ書簡﹄公刊後も同種のスピノザ主義批判を繰り返してい

る︒かかる批判の反復においてとりわけ重要であるのは︑フィヒテの知識学に対する批判である︒というのも︑ヤコ

ービはフィヒテの知識学を︑無神論という点でより深刻さを増したスピノザ主義とみなしているからである︒そこで

― 3 7 ―

ヤコービのスピノザ主義批判

(12)

次にヤコービのフィヒテ批判を検討しておきたい︒

三﹁転倒したスピノザ主義﹂としての知識学

スピノザ主義に対するヤコービの批判は︑﹃スピノザ書簡﹄の第二版公刊より十年後︑論争の相手をフィヒテに代

えて︑新たに試みられている︒一七九九年の﹃フィヒテ宛て公開書簡﹄︵以下﹃公開書簡﹄と略記︶

では︑フィヒテ

の﹁知識学﹂を︑最終的には﹁ニヒリズム﹂へと至る﹁転倒したスピノザ主義﹂として規定するとともに︑フィヒテ

の﹁無の哲学的知﹂に対して﹁私の無知の哲学﹂を対置している︒ここではヤコービのフィヒテ批判を検討すること

によって︑ヤコービから見たスピノザ主義の問題性をより闡明にしておきたい︒

ヤコービは﹃公開書簡﹄の﹁前書き︵Vorbericht︶﹂において一先ず︑フィヒテの知識学を︑いわゆる﹁無神論﹂の 嫌疑から擁護している︵JGAII/1,192f.︶︒フィヒテの知識学は無神論ではない︒それは幾何学や算術が無神論ではな

いのと同様である︒また同じ根拠から知識学は有神論であることもできない︒しかし知識学は︑もし有神論的であろ

うとするならば︑直ちに無神論となってしまう︒というのも︑その場合には神はただ哲学的に妥当するだけのものに

なってしまうからである︒そこで神に対する知識学の態度としては差し当たっては﹁神とは知られうるものではな

く︑信じられるだけのものである﹂という態度が採用される︵JGAII/1,193︶︒しかしこの態度も︑知識学が神につ

いて何らかの仕方で言表しようとするかぎり︑無神論という非難を取り去ることはできない︒というのも︑その場合

の信仰は知識学の内部に取り込まれたものとして︑﹁神への単に人為的な信仰︵einnurkünstlicherGlaubeanGott︶﹂ ヤコービのスピノザ主義批判

― 3 8 ―

(13)

だからであり︑﹁人為的な信仰﹂は︑それが﹁専ら学的︵bloßwissenschaftlich︶﹂あるいは﹁専ら純粋に理性的︵bloß reinvernünftig︶﹂であろうとするかぎり︑﹁自然的な信仰﹂しかるにまた﹁有神論全体﹂を廃棄してしまうからであ る︵JGAII/1,193︶︒それゆえヤコービは︑知識学の内部における信仰すなわち﹁神への単に人為的な信仰﹂は﹁不 可能な信仰︵einunmöglicherGlaube︶﹂︵JGAII/1,193︶であると結論づけるのである︒

もちろん我々はフィヒテの信仰概念を不可能なものとして特徴づけるヤコービの見方を直ちに正しいものとして受

け取ることはできない︒人為的なものが自然的なものを廃棄するという見方はヤコービのものにすぎない︒従ってこ

こで問題であるのは︑フィヒテ的な意味における信仰が人為的か否かということではない︒むしろ人為的なものが同

時に﹁学的﹂であり︑﹁純粋に理性的﹂であろうとする場合には︑自然的なものを廃棄するというヤコービの見方そ

のものが問題なのである︒この見方を理解するためには︑ヤコービの理性概念が振り返られなければならない︒

ヤコービはフィヒテの知識学を﹁純

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!

!

!

徹︑ !

!

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哲学﹂︑﹁た !

!

!

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!

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哲学﹂とみなし !

ている︵JGAII/1,200︶︒ここで言われる﹁ただ一つの部分﹂とは﹁理性﹂しかも﹁純粋理性﹂のことである︒それ

ゆえ知識学はまた︑﹁もし純粋理性のみが︑自己自身から︑一切を導来するべきであるならば︑一切はただ理性にお

いて︑かつ理性によって︑自我としての自我において︑自

!

!

!

!

!

!

我れ自たま︑ずらなばけのないてれらえ与み !

性においてすでに保持されていなければならない﹂という仕方で成立する﹁真の理性体系﹂である︵JGAII/1,

201︶︒ところで理性とはそもそもいかなる働きであるのか︒ヤコービの定義によれば︑﹁理性の根元は認

!

!

!

!

!

!

Vernehmen︶である﹂︵JGAII/1,201︶︒特に理性が純粋理性である場合︑それは﹁た

!

自己自身の !

!

を認取するとこ !

ろの︑認取する働き﹂であり︑すなわち﹁純粋理性はただ自己のみを認取する﹂のである︵JGAII/1,201︶︒純粋理

― 3 9 ―

ヤコービのスピノザ主義批判

(14)

性がただ自己のみを認取するとは︑純粋理性は自己の外にいかなるものの存立も認めないということであり︑理性の

外に存する一切を無に解消するということである︒それゆえヤコービは言う︒﹁純粋理性の哲学的思惟は︑理性の外

に存する一切のものを無に解消し︑理性のみを残す化学的過程でなければならない﹂︵JGAII/1,201︶︒

理性の認取するという働きは理性以外の一切のものを無に帰する︒しかしその後に残る理性は実際には何らの﹁存

在者︵Wesen︶﹂でもなく︑一切を無に帰するという働き以外の何ものでもない︒その働きは﹁知において一切の存 在者を解消する働き﹂であり︑﹁捨象︵Abstraktion︶﹂と呼ばれる︵JGAII/1,203︶︒ヤコービはこのように理性の働き

を認取や捨象として捉えるとともに︑理性によって無に解消されることのないもの︑すなわち﹁真なるもの︵das

Wahre︶﹂に眼差しを向ける︒真なるものとは﹁知に先立って︑知の外に有り︑知と知の能力である理性にはじめて 価値を与えるところの︑或るもの﹂︵JGAII/1,208︶である︒理性は真なるものを前提することしかできない︒﹁理性 とは真なるものを前提する能力である﹂︵JGAII/1,208︶︒真なるものを前提しないような理性があるとすれば︑それ は﹁無意味なもの︵Unding︶﹂である︒ここで我々は﹃スピノザ書簡﹄に見られた主張と同様のものを見出すことが

できる︒証明がすでに証明済みのものを前提するのと同様に︑理性は真なるものを前提するのである︒

ヤコービがフィヒテの知識学を﹁転倒したスピノザ主義︵umgekehrterSpinozismus︶﹂︵JGAII/1,195︶とみなす理

由は︑真なるもの︑あるいは超自然的なものとしての神に対する態度︑知識学とスピノザ主義に共通する態度の内に

存する︒スピノザ主義の場合︑一切は証明や説明という手続きによって﹁被制約的な諸制約者の連鎖﹂すなわち自然

に還元され︑神は支離滅裂な仕方で自然と同一視された︒それに対して知識学の場合︑一切は理性によって無に解消

される︒知識学が﹁真の理性体系﹂であろうとするかぎり︑神は不可知なものとして全く度外視され︑一切を無に帰 ヤコービのスピノザ主義批判

― 4 0 ―

(15)

する働きとしての理性だけが残ることになるのである︒要するに︑理性とそれが前提する神との関係を廃棄するとい

う点で︑スピノザ主義と知識学は共通するのであり︑両者はそこにおいて真なるものとしての神が何らの所在ももた

ない無神論という意味での﹁ニヒリズム︵Nihilismus︶﹂︵JGAII/1,251︶に行き着くのである︒

ヤコービは言う︒﹁スピノザに︑彼の哲学的立方体を一度ひっくり返してみようという考え︑すなわち︑最上部の

側面︑スピノザが客

!

!

側面と名づけた思 !

!

の側面を︑スピノザが主観的で形 !

!

!

と名づけた最下部の側面にした上 !

で︑自分の立方体がそれでもなお同一のもの︑彼にとって唯一の哲学的形態でありつづけているかを調べてみようと

いう考えが生じなかったことは︑奇妙なことだ﹂︵JGAII/1,195︶︒スピノザの哲学的立方体をひっくり返すことを試

みるならば︑スピノザの実体は目の前から消え︑その代わりに﹁自己自身からのみ燃える純粋な火焔︑いかなる場

!

!

もいかなる燃

!

あ念焔が﹁超越論的観論の﹂すなわち知識学で火こもが必要としない火焔﹂燃︒え上がることになる !

るとヤコービは考えている︒知識学はスピノザ主義に反対するものではない︒むしろ理性の働きを徹底するという点

において︑スピノザ主義から帰結するものである︒﹁転倒したスピノザ主義﹂の﹁転倒した︵umgekehrt︶﹂とは︑ス ピノザ主義の﹁支離滅裂さ﹂から理性の働きの整合性への転換︵Umkehrung︶を意味すると解釈されなければならな

い︒

スピノザ主義が知識学へと転換し︑さらにニヒリズムへと至るのは︑理性が自らの純粋性を重視し︑ただ自己のみ

を認取せんとするからであり︑真なるものとの関係よりも自己自身との関係を優先するからである︒しかし理性が真

なるものとの関係に立ち返るとき︑真なるものを前提することしかできない理性とともに人間に与えられるのは﹁真

なるものの学﹂ではなく︑﹁真なるものを知りえないという感情と意識﹂であり︑﹁真なるものの予感﹂である︵JGA

― 4 1 ―

ヤコービのスピノザ主義批判

(16)

II/1,208︶︒フィヒテが理性をその純粋性において捉え︑その結果﹁無の哲学的知︵dasphilosophischeWissendes Nichts︶﹂︵JGAII/1,215︶しか手に入れることができないのに対して︑ヤコービはフィヒテの﹁無の哲学的知﹂に

﹁私の無知の哲学︵meinePhilosophiedesNicht-Wissens︶﹂︵JGAII/1,215︶や﹁その本質を無知の内にもつ私の非哲学

︵meineUnphilosophie︶﹂︵JGAII/1,194︶を対置するのである︒真なるものとしての神との関係において理性を保持す

るためには︑理性の純粋性に依拠する哲学とは別種のもの︑すなわち非哲学が求められなければならない︒かくして

ヤコービは理性という﹁ただ一つの部分から成る哲学﹂ではなく︑無知の哲学︑非哲学を選択するのである

四理性の自立性と愛の依存性

ヤコービから見られたフィヒテの知識学は﹁転倒したスピノザ主義﹂であった︒すなわち知識学はそれ自身︑神の

超自然性を否定するスピノザ主義の一帰結であり︑さらに言えば︑理性以外の一切のものは無であるというニヒリズ

ムへと転換してゆく徹底的なスピノザ主義であった︒しかし知識学をニヒリズムへと至る﹁転倒したスピノザ主義﹂

とみなすヤコービの解釈は︑一切を理性から導来せんとする﹁真の理性体系﹂を斥けるものであるとはいえ︑理性が

真なるものの予感を有するという点では︑理性の働きそのものを否定するものではない︒ここで我々が問うのは︑ヤ

コービの哲学において理性はいかなる位置を占めるのか︑ということである︒

理性が自己のみを認取するという点に理性の純粋性が存するということは先に述べた︒この理性の純粋性はまた

﹁自立性︵Selbständigkeit︶﹂とも称される︒理性の自立性とは︑理性が一切の真理を自ら産出するということであ ヤコービのスピノザ主義批判

― 4 2 ―

(17)

り︑理性が﹁真理の本質そのもの﹂であるということであり︑理性がそれ自身の内に﹁生の完全性﹂を有していると いうことである︵JGAII/1,209︶︒自立的な理性とは﹁善なるものと真なるものの充溢﹂︵JGAII/1,209︶である︒し

かしこのような理性の自立性は仮説にとどまる︒つまり︑自立的な理性すなわち﹁善なるものと真なるものの充溢﹂

が現存しないとすれば︑善なるものと真なるものはどこにも現存することはできない︑という仮説である︒理性に自

立性を認める見解は︑善なるものと真なるものは現存すべきであるという要請から出発しているにすぎないのであっ

て︑その要請はむしろ理性が生の完全性をもってはいないということを示しているのである︒﹁私が理性をもつとい

うことが確かであるだけに︑私がこの私の人間的な理性とともに︑生の完全性そして善なるものと真なるもの充溢を

もたな

!

II/1,209JGA知は次のような知と私ぐして獲得される︒﹁る性め︵とも確かである﹂︶を︒この理性の自立こ !

がこの生の完全性等々を所有し

!

!

ということが確かであり︑かつこ !

!

!

!

!

!

!

!

!

!

ということが確かであるだ !

けに︑私が次のことを︑すなわち︿ある一

!

!

!

!

う存いと﹀るいてし有に内の在の存そを源根の私は私︑りあが在 !

ことを知

!

!

!

!

ein209II/1,JGA﹁ヤコービはあこる一層高次の存在︵で︶こ確いうこともまたか︒なのである﹂︵と !

höheresWesen︶﹂を﹁我︵Ich︶﹂すなわち理性との対比において︑﹁我以

!

!

!

!

我︑よ !

!

!

!

!

!

!

!

︑すなわち全 !

き他

!

MehralsIch!BeßeralsIch!︵ !

II/1,ganzAnderereinJGAGott210称﹂とししている︒︶ち︵神﹁わなす︶︵﹂︶ −

かしこの神についての知は︑神とは何か︑善とは何かという問いに対する答えを含んだ知ではない︒ここで言われる

知はせいぜいのところ︑私以上の何ものかが有る︑ということを表現しているにすぎず︑それは﹁微かな予感︵eine

ferneAhndung︶﹂︵JGAII/1,210︶にとどまるのである︒ さらに﹃公開書簡﹄では︑理性の﹁統一︵Einheit︶﹂を原理とするフィヒテの﹁義務論︵Pflichtenlehre︶﹂が批判さ

― 4 3 ―

ヤコービのスピノザ主義批判

(18)

れる︒︵JGAII/1,212︶ヤコービはまず︑自分がフィヒテの義務論の原理すなわち﹁純粋理性の道徳論がそこから出

発する根本命題﹂の﹁真理性と崇高性﹂を否定する意図がないことを表明した上で︑﹁理性の道徳的原理﹂が真なる

ものそのものではないという批判を再度提示している︒﹁理性の道徳的原理は人

!

!

!

!

!

!

!

!

!

!

であり︑恒 !

!

!

!

!

!

であるが︑それは概 !

!

!

!

!

!

一︑在存現的性理は一統のこも最のういと︒るあでのもの高 !

!

の︑従ってま !

た一切の理性的にして自由な行為の︑絶対的にして不易な制

!

統ののそつか︑に内の一統そだちわなす︒るあでらか !

一とと

!

!

で統る︒しかしこの一ではそれ自身存在あののとみ︑人間は真理よるり高次の生を有す !

!

!

のではない !

し︑真なるもので

!

!

心理の間人も則法の性てのしくか︒いなもで !

以た則法のそてしを間人まと︑ずえりなてし決は !

上のものへと真に高めることもできない︒⁝⁝人間の心を超越論哲学は私から奪い去り︑その代わりに単

!

!

!

!

!

!

と性ために︑私を愛の依存かんら解放させるというこがら純た粋衝動を据える︒⁝⁝だな高邁によってのみ浄福に !

は︑私はしない﹂︵JGAII/1,212f.︶︒

ヤコービにとって理性の自立性は理性の統一である︒この理性における自立性と統一との同一視は︑フィヒテの

﹃学者の使命﹄︵一七九四年︶における﹁最高善︵dashöchsteGute︶﹂

るっとにテヒィフ︒なのと能可解理らか義定て

最高善とは﹁人間の自己自身との完全な一致﹂であり︑また﹁人間の外なる一切の物と︑それについて人間が有する

必然的な実践的概念││物がいかにして有るべきかを規定する概念││との一致﹂である︒それは﹁完全性︵Voll-

kommenheit︶﹂とも呼ばれる︒完全性は﹁人間の究極にして最高の目標﹂である︒しかしそれはまた﹁人間の到達し

がたい最高の目標﹂である︒従って﹁この目標への限りなき接近﹂︑﹁無限に完成を目指すこと︵Vervollkommungins

unendliche︶﹂が﹁人間の使命︵BestimmungdesMenschen︶﹂として提示される︵FGAI/3,31f.︶︒ヤコービはこのフィ ヤコービのスピノザ主義批判

― 4 4 ―

(19)

ヒテの最高善の概念を踏まえた上で︑﹁人間の自己自身との一致﹂を﹁理性的現存在一

!

の︑従ってまた一切の理性 !

的にして自由な行為の︑絶対的にして不易な制

!

︒るるす解理とるあでのもの高最れ﹂さ定想ていおに念概はてしと !

理性の統一は﹁概

!

!

!

!

!

理な﹂ではない︒真るもものを予感するのる最る高のもの﹂であ︒なしかしそれは﹁真 !

性としての﹁心︵Herz︶﹂は︑理性の統一を究極的なものとみなす﹁超越論哲学﹂によって﹁単なる自我性の純粋衝

動﹂に置き換えられる︒ヤコービはかかる超越論哲学に対抗するために︑その原理である理性の統一に対して︑﹁愛

の依存性︵AbhängigkeitderLiebe︶﹂を対置する︒愛の依存性とは︑理性が理性を超えたものとしての神に依存して

いるということを意味している︒﹁彼

た有り有たま︑しいなはでのるは︹私︑にしなとこる有が︺神 !

!

!

!

!

!

!

!

!

︵JGAII/1,210︶︒

さてここで我々は転倒したスピノザ主義としての知識学とヤコービの﹁非哲学﹂との原理上の相違を次の二点に要

約することができる︒

漓の性の統一であるに︑対して︑ヤコービ理りフ原ィヒテの知識学の理あが理性の自立性での

哲学の原理は愛の依存性である︒

滷はィヒテの場合︑︒純粋理性がただフうそにれぞれの原理は伴各々別種の知が自

己自身のみを認取することとしての知が︑理性の自立性に伴う︒それに対してヤコービの場合は愛の依存性が神に対

する﹁微かな予感﹂を理性に与え︑﹁概念把握できないものを信じること﹂を理性に強要する︒﹁抗いがたい威力をも

って︑私の内なる最高のものは︑ある私を超えた︑私の外なる至高のものを指示する︒この至高のものは私に︑概念

把握できないもの︑まさしく概念において不

!

!

!

!

!

愛て︑ていおに外の私つか︑いをおに内の私︑をとこるじ信 !

ゆえに︑愛から強要する﹂︵JGAII/1,210︶︒ ヤコービは理性によって神が無に帰することを危惧する︒﹁無か︑それとも神か︵dasNichtsodereinenGott︶﹂︵JGA

― 4 5 ―

ヤコービのスピノザ主義批判

(20)

II/1,220︶という二者択一が︑スピノザ主義を批判するヤコービに与えられている︒﹁神が有る︒すなわち私

!

!

!

生︑ !

!

!

そ︑ !

!

!

!

!

!

!

!

!

存在者が有る︒あるいは私 !

JGAか︵﹂いなも者三第るないがの外以れそ︒る有で神 !

II/1,220︶︒もちろんこの二者択一に対するヤコービの態度はすでに決している︒たとえ﹁キマイラ︵Chimäre︶﹂︵JGA II/1,215︶を﹁我以上のもの︑我よりも善なるもの﹂としての神と同一視することになるとしても︑神を無化するこ

とを避けるというのがヤコービの選択である︒﹁私︹ヤコービ︺がニヒリズムだと非難する観念論に私が対置したも

の﹂が﹁キマイラ主義︵Chimärismus︶﹂と呼ばれようとも︑ヤコービが自らの非哲学よりもスピノザ主義を優先する ことはない︵JGAII/1,215︶︒愛の依存性を原理とするヤコービの非哲学はスピノザ主義︑従ってまた無神論とニヒ

リズムに対置された哲学である︒我々はかかる非哲学を︑ただ単に反スピノザ主義の哲学としてではなく︑むしろヘ

ーゲルやニーチェよりも早い時期に︑﹁神の喪失︵Gottlosigkeit︶﹂︵JGAII/1,211︶という問題に正面から取り組んだ

哲学的試みとして︑評価してもよいであろう︒

結び

本論ではまず最初に︑ヤコービが﹃スピノザ書簡﹄においてスピノザ主義を︑個物から峻別された実体としての神

を︑証明や説明という理性的な手続きによって根拠︱帰結︱関係や制約者︱被制約者︱関係という論理的関係へと還

元し︑神の本質性格である超自然性を失わせるものとして理解していることを確認した︒第二に︑神の超自然性を廃

棄するスピノザ主義を無神論とした上で︑ヤコービにあっては超自然的なものとしての神との関係はただ信仰や愛に ヤコービのスピノザ主義批判

― 4 6 ―

(21)

よってのみ保持されるということ︑その場合の愛とは神の認識を伴うものであるということを論じた︒続いて第三

に︑﹃フィヒテ宛て公開書簡﹄におけるヤコービのフィヒテ批判を取り上げ︑﹁転倒したスピノザ主義﹂とみなされた

フィヒテの知識学を︑理性の純粋性に固執することによって︑神を不可知のものとして知の領域の外部すなわち無へ

と排除するところの徹底的な無神論すなわちニヒリズムへと転換してゆくものとして解釈した︒そして最後に︑知識

学の原理が理性の自立性であるのに対して︑非哲学の原理が愛の依存性であること︑その依存性の原理のゆえに非哲

学における理性は自立的理性から神を予感する理性への立ち返りを強いられるということ︑この予感する理性への立

ち返りの内にヤコービの非哲学の原理上の特徴が存するということを示した︒

無神論にしてニヒリズムであるスピノザ主義か︑それとも愛の依存性を原理とする非哲学か︒この二者択一に関し

て︑ヤコービが躊躇することなく非哲学を選択することは本論で述べた︒しかしこのヤコービの態度表明に対して同

時代人の種々の反応が存することを︑我々は留意しなければならない︒例えば︑フィヒテは﹃公開書簡﹄の翌年に出

版した﹃人間の使命﹄︵一八〇〇年︶において︑知に対する信仰の優位を説き︑信仰をして﹁知を妥当せしめんとす

る意志の決意﹂として特徴づけた

﹂の自由な聴従と﹁され︑良心の声私の︒がその際︑信仰﹁へ私の良心の声﹂が

神の意志と同一視されたという事実から︑フィヒテがヤコービの非哲学の構想を受容したと解釈する者もある︵vgl.

FGAI/6,293︶

をテ的なニヒリズム︑ィ一切の無化する理性ヒフ︒一また﹃信仰と知﹄︵八が〇二年︶のヘーゲルの

存立を許す不徹底なニヒリズムとみなし︑かかる理性を否定することによって︑理性の彼方に存する神でもなく︑一

切を無化する理性でもない﹁第三者﹂すなわち﹁絶対無﹂としての絶対者を認識することを﹁哲学の第一の課題﹂と

したことも見逃されてはならない

︒ムであるのかニリヒリズムへの転ズヒ︒ヒ果たしてフィテニの超越論哲学は落

― 4 7 ―

ヤコービのスピノザ主義批判

(22)

を回避するためには哲学は愛の依存性を原理とする非哲学とならなければならないのか︒それとも超越論哲学でもな

く非哲学でもない第三者としての﹁絶対者の哲学﹂を我々は選択しなければならないのか︒我々はこれらヤコービ

のスピノザ主義批判から発した問い︑すなわちいかなる哲学をもって我々は真に有ると言えるものとの関係を保持す るのかという問いをさらに引き受けなければならない︒

ヤコービおよびフィヒテからの引用は以下の版に従った︒引用に際しては︑主として本文中に︑略号と頁数の順︵ヤコービ全 集の場合は略号︑巻数・分冊数︑頁数の順︑フィヒテ全集の場合は略号︑系列数・巻数︑頁数の順︶に記した︒

Friedrich Heinrich Jacobi, Werke. Gesamtausgabe, hrsg. von K. Hammacher und W. Jaeschke, Hamburg/Stuttgart-Bad Cannstatt 1998 ff.

JGA

Johann Gottlieb Fichte, Gesamtausgabe der Beyerischen Akademie der Wissenschaften, hrsg. von R. Lauth, H. Jacob und H. Gliwitzky, Stuttgart-Bad Cannstatt 1962 ff.

FGA

盧 ヤコービのスピノザ主義批判が同時代人に与えた衝撃に関しては下記参照︒

Fr. C. Beiser, The Fate of Reason, German Philoso- phy from Kant to Fichte, Cambridge 1987, pp. 44-48.

なお

Beiser

は同書でヤコービの批判の問題性を︑ドイツ啓蒙主義とその敵対者との対立︑さらには理性的ニヒリズムと非

理性的信仰主義との対立に関するものとして捉えている︒

Jacobi, Über die Lehre des Spinoza in Briefen an den Herrn Moses Mendelssohn, 1785, JGA I/1, S. 1−147.

Ders., Über die Lehre des Spinoza. Erweiterungen der zweiten Auflage, 1789, JGA I/1, S. 148−268.

盻 ヤコービは

Wesen

という語を多義的に使用しているがゆえに︑やむを得ず文脈に応じて︑﹁本質﹂︑﹁存在者︹有るもの︺﹂︑

﹁存在︹有ること︺﹂という三つの意味に訳し分けた︒

Ders., Jacobi an Fichte, 1799, JGA II/1, S. 187−258.

ヤコービのスピノザ主義批判

―4 8―

(23)

眇 フィヒテの知識学とヤコービの非哲学との対決に関しては︑拙著﹃フィヒテ知識学の根本構造﹄︵晃洋書房︑二〇〇四年︶︑ 序論第三節﹁哲学と非哲学の間﹂を参照︒

Fichte, Einige Vorlesungen über die Bestimmung des Gelehrten, 1794, FGA I/3, 31.

Ders, Die Bestimmung des Menschen, 1800, FGA I/6, 257.

眤 フィヒテの﹃人間の使命﹄に対するヤコービの影響に関しては︑同書の﹁哲学文庫版﹂の序論執筆者である

Hansjürgen Verweyen

が示唆に富んだ見解を与えている︒特に同書の第三篇﹁信仰﹂では﹁フィヒテはヤコービと同調しつつ歩みを進めている﹂

Verweyen

は述べている︒もちろんその﹁同調︵

Einklang

︶﹂がいかなるものであるかは慎重に検討されなければならな

い︒

Vgl., Fichte, Die Bestimmung des Menschen. Einleitung von H. Verweyen, PhB 521, Hamburg 2000, S. XXVII.

G. W. F. Hegel, Glauben und Wissen, 1802, Gesammelte Werke, Hrsg. im Auftrag der Deutschen Forschungsgemeinschaft, Bd. 4, Hamburg 1968, S. 398.

なお﹃信仰と知﹄におけるニヒリズム問題に関しては下記参照︒

Vgl., H. -J. Gawoll, Nihilismus und Metaphysik. Entwicklungs- geschichte vom deutschen Idealismus bis zu Heidegger, Stuttgart-Bad Cannstatt 1989, S. 72 ff.

Hegel, Glauben und Wissen, S. 413. ―4 9―

ヤコービのスピノザ主義批判

参照

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