元禄十六(1703)〜宝永四年(1707)朝鮮留学前後の雨 森芳洲とその周辺
その他のタイトル Genroku(元禄)16〜Hoei(宝永)4 years,
Amenomori Hosyu(雨森芳洲)and his relatives concerning his visit to Korea
著者 泉 澄一
雑誌名 関西大学東西学術研究所紀要
巻 27
ページ 25‑54
発行年 1994‑03‑31
URL http://hdl.handle.net/10112/16250
元禄二年の対馬藩への出仕から元禄十五年までの雨森芳洲につい
(1 )
てはすでにのべたので本稿ではその後の芳洲の朝鮮留学をめぐる行
実を中心にのべてゆくことにする︒前にものべたが雨森芳洲に関す
る著書や論文には芳洲が勤仕した対馬藩の藩政記録︵﹁宗家文書﹂︶
(2 )
に依拠したものはほとんどない︒そのうえそれら論著の多くは芳洲
を﹁対馬藩の朝鮮外交を主宰した人物﹂あるいは﹁外交の実務家﹂
などと考え誤説を展開している︒それは芳洲といえば対馬藩の朝鮮
外交担当者と思い込み︑なお元禄十一年芳洲が任じられた﹁朝鮮支
配役﹂の佐役を﹁朝鮮方﹂の佐役︵頭役の補佐役︶とまちがえたこ
とにも起因すると思われる︒芳洲が任じられた佐役はいわば支配役
のプレーンなのだが︑それゆえ朝鮮外交の実務とは直接関係がなく
外交にかかわる権限などもまったくなかった︒ただ支配役のもとへ
朝鮮
留学
前後
の雨
森芳
洲と
その
周辺
は じ め に
判経験者などもいた︒
二五
いわゆる朝鮮通交における﹁功者﹂と称され ﹁無遠慮罷出﹂朝鮮外交に関する意見を具申できるだけで︑朝鮮関係の業務を行なう朝鮮方の佐役とはまったく別の任務であった︒こういう根本的な誤解は対馬藩の藩政の機構や人事のあり方が十分理解されていないためで︑本稿ではまずその点に留意して対馬藩に勤仕する芳洲をみてゆきたいと思う︒
芳洲が勤仕した元禄期ころ︑対馬藩では行政の機構や人事の組織
も整い︑それは中央の藩庁から末端の郷村にまで及んでいた︒その
ような対馬藩に芳洲は﹁奥廻り﹂︵﹁奥詰﹂とも表現されるが要す
るに藩主に近侍する面々を指す︶の儒者として仕えたのだが︑その
任務や藩内における地位や立場などはほぼ決っていた︒それゆえ芳
洲が進んで藩政に関与したりあるいは朝鮮外交に積極的に立ち入っ
たりすることはむずかしかった︒また対馬藩と朝鮮との通交には長
い歴史があり︑その中で実務に堪能な代官や外交の機微に通じた裁
朝鮮留学前後の雨森芳洲とその周辺
︵一七
0
三
︶
︵ 一
七
0
七 ︶
元禄十六ー宝永四年︑
泉
澄
元禄十六年︑雨森芳洲に関するはじめての記事は朝鮮留学の許可 . ヽ
元禄 十六 年︑
る人たちで︑有能な芳洲といえども二年や三年朝鮮で学んだぐらい
では及びもつかぬ豊富な経験の持ち主だった︒そういう環境の中で
芳洲はどのようにして外交にかかわる知識を積み自説を主張し得る
一方︑上方に育ち江戸︑長崎に学んだ芳
洲にとって対馬での生活は耳慣れぬ方言や異なる習慣などのため意
に満たぬ日々も多かったにちがいない︒だが対馬にいる限りそれは
克服せねばならず︑それゆえ芳洲にとって妻の実家︵小川加賀右衛
門家︶は対馬での唯一の親戚として何かと頼りになったはずである︒
また職務を遂行しみずからを高めるためにも先人の指導や助言も受
けたはずで芳洲一人の力で諸人から仰がれるような人物になり得た
ので
はな
い︒
したがって本稿では芳洲の対馬における人間関係にも
できるだけ留意し芳洲の周辺もみてゆきたいと思う︒ともかくこれ
までの︑芳洲関連の論著に不備が多いのは﹁宗家文書﹂を用いてい
ないからで︑それゆえ本稿では全面的にそれに依拠し︑とくに藩政
づけてゆくことにしたい︒なお対馬藩には多種の藩政日記があるが
( 3 ) ( 4 )
︵5
)
そのうち表書札方︑奥書札方︑組頭方の毎日記を中心により的確な
芳洲像の構築を図ることにしたい︵以下︑各毎日記については﹁表
毎日記︑奥毎日記︑組毎日記﹂と表記する︶︒
第一回目の朝鮮留学
記録の根幹である藩庁の毎日記を中心に年代順に芳洲の行実をあと ようになっていったのか︒ 雨森東五郎
右者朝鮮江罷渡学文仕度由先頃内々︳一而願上置候︒御在国之内
ー一願之通被仰付置候間弥可被指渡上下四人︳一被仰付候︒飯米合
力之員数ハ重而御究被成可被仰付候問手前相仕廻候様︱一と之御
事召寄申渡ス︒
芳洲の釜山行の目的は朝鮮語及び朝鮮事情を学ぶことにある︒昨
元禄
十五
年一
1一月︑参判使の都船主としてはじめて朝鮮へ渡った芳洲
はそれまで聞き及んでいた朝鮮事情と現状とが大いに異なることに
驚き自信を失なったのか帰国後まもなく佐役の辞任を申し出た︒
だがそれは認められなかった︒かくて芳洲は佐役の任務遂行のため
には朝鮮語や朝鮮事情を自力で学ばねばならぬと考え正月ごろには
藩庁にあて釜山行を申し出ていたものと思う︒
義方︶が参勤を目前にひかえていた︵元禄十六年三月七日対馬を出
立︶からで﹁御在国之内ーー願之通被仰付置候﹂ というのは藩主︵宗
とあるのはそのこと
を指しているものと思う︒芳洲は藩主に近侍する奥詰の儒者ゆえ︑
かような人事については藩主じきじきの裁断が必要であったようで
ある︒ところで許可を得ながら半年近くも渡航が遅れたのは︑つぎ
︵元 禄十 六年
︶
のような事情によるものと思われる︒この年二月︑宗義方の襲封を
賀し朝鮮から問慰訳官一行が派遣されてきたが折からの悪天候のた
め鰐浦沖で全員遭難した︵二月五日︶︒遺体は八体を得たのみで一︱︱ 条 ︶ ︒ を伝えるものでつぎのように記されている︵﹁表毎日記﹂七月九日
二六
月十日に釜山へ届けられたが納棺に際し芳洲がその栴様などについ
て相談を受けたりしたらしい︒遺体送還の使者が持参する書契の案
文作成も芳洲が行なっていたと考えられるが︑七月になり事件の処
理もほぼ終わったので改めて藩庁から出発許可を伝えたのであろ
う︒十日後の七月十九日には芳洲から﹁上下四人﹂に加え﹁︵釜山
へ︶召連度者御座候間加札壱枚被指免被下候様﹂にとの申し出があ
り認められている︵﹁表︑組毎日記﹂同日条︶︒渡釜に際しては臨時
の出費もあり使者などの多くは規定の人数以外に﹁加札﹂を得て商
人等を連れ渡り臨時の収入を得ていたのである︵和館の役人︑年例
(6 )
送使など上下の人員は決っていた︒芳洲の場合は﹁上下四人﹂すな
わち芳洲と家来一1一人だが︑これは和館の医師︑東向寺の書役僧と同
様で
ある
︶︒
だが肝心の釜山滞在中の宛行が決らず八月九日になってつぎのよ
うに勘定所へ申し渡しがあった︵﹁表︑組毎日記﹂同日条︶︒
雨森東五郎
右 右 同 同
之 者
碍銀
‑‑ —下四
通 為 端 帰 白 銀 四 百 被 学 物 国 米 弐 人 参 仰 問 裁 之 壱 拾 扶 拾 付 朝 合 節 俵 五 持 目
と 鮮 如 積 宛 匁 仕
之 表 例 前 出
御 へ 三 客
事 罷
渡 拾 来俵
朝 由 鮮 先 御 頃 支 願
配 上ふ 願
御 之 勘 通 定 被 所 仰
被置
ヘ 付 仰 候 渡 付 候 御 由 宛。 た打
朝鮮
留学
前後
の雨
森芳
洲と
その
周辺
二七
この宛行の決定が遅れたのほそれまで藩儒が学問のため渡釜した
前例がなくその算定に手間どっていたからではないかと思う︒宛行
の中に﹁客来﹂のため毎月白米壱俵を認めているが︑これなどその
好例であろう︒客とは芳洲が朝鮮語の学習あるいは学問のために招
く東莱府の訳官や通詞などを指しているものと思う︒七月十九日の
﹁加札壱枚﹂のときもだが︑この宛行についても﹁朝鮮御支配﹂よ
り勘定所へ申し渡されている︒﹁朝鮮御支配﹂とは芳洲が佐役をつ
とめる支配役の年寄︵このときは平田直右衛門と樋口佐左衛門︶の
ことで朝鮮関係一切の伺いは支配役からその可否を伝えられたから
である︒その間に同行する家来も決り九月初めには府中の港で風待
ちをしていたらしいが﹁組毎日記﹂九月六日条にはつぎのような記
雨森東五郎朝鮮江罷渡候︳一付乗船仕居候︒然処来ル八日迄者御
︵侯 議か
︶
用之儀有之候間出船相揺リ□御月番i申来候付東五郎方へ以
手紙
申遣
︒
ところで 当時の船旅は出帆の数日前から乗船し風待ちをしていて︑ときには悪天候のため上陸︑乗船を繰り返し何日も風待ちしている例がある︒無理に出船しても﹁欠戻︵引き返す︶﹂の例が多い︒
芳洲は乗船している︵風さえあればいつでも出帆できる︶のに何用
か二日間の延期を命じられた︒だが渡航はさらに延期されたらしく
芳洲の釜山到着は約二か月後の十一月朔日であった︵﹁和館毎日記﹂
︵釜山和館館守の執務日記︶同日条︑以下﹁館毎日記﹂とする︶︒ 事がみられる︒
一相触候様︳一と一代官吉野五郎七︑御横目頭内野市郎左衛門へ なお延期を伝えた﹁月番﹂とは﹁月番家老﹂のことでこのときは朝鮮支配役である樋口佐左衛門がつとめていた︒したがってこの延期は朝鮮支配の所用のためかと思われ︑あるいは遺体送還使の接遇をめぐって交渉が進まず佐役の芳洲に足留を命じたのかとも思う︵訳官遺体の送還使について対馬側は特使の接遇を求めたが朝鮮側は単なる漂流使として応じた︶︒芳洲の渡航延期については関連の史料がなくこれ以上説明し難いが﹁館毎日記﹂十一月朔日条には芳洲の釜山到着にかかわってつぎのような記事がみられる︒
ク御米中漕春日丸三善丸井御米漕福吉丸去ル廿六日渡海仕候処逆
風︱︱逢館着難成艮日旧助羅浦江着船︒今巳ノ刻廻着仕︒
逸雨森東五郎為学問依願被指渡右福吉丸便︳一着船仕゜
ヶ右東五郎為行規大小姓横目賀嶋権八︑御徒横目石田甚左衛門・
落合弥七罷出例之通行規仕゜
立雨森東五郎名之儀妥元在留中院長と申唱候様ーーと依願被仰付候
由平田直右衛門︑樋口佐左衛門殿ふ以御状被仰下候︒
も右之通申聞候︒依之聞伝︳一申唱候ふも館中之面々へ相触候ハ
ハ可然候付則右之通東五郎名之儀妥元在留中ハ院長と申唱候様
以手紙申遣ス︒
まず芳洲の渡釜についてだが最初の記事から若干の事情がわかる︒
芳洲が乗った福吉丸だが釜山往復の米積船で十月二十六日︑他の二
隻とともに多分佐須奈を出帆したものと思う︒それまでの日程がわ 尤東五郎 からないが芳洲が佐須奈で一ー一か月半を過したとも思えず︑一度出帆したが漂流ののち佐須奈へもどり再度出帆したようでもない︒やはり芳洲は何かの事情で府中に足留めされ十月下旬に入って府中を立ち佐須奈で福吉丸に乗船したものと思う︒
﹁逆風﹂にあい三隻とも西へ押し流された︒
条にはそのことがつぎのように記されている︒
別差方か申聞候ハ去ル廿六日ー一下乗仕候処旧助羅浦へ致着船昨
日加徳迄漕廻し候由案内︒
東莱府訳官の別差が福吉丸など三隻の助羅浦着と︑十月二十九日
には釜山西方の加徳島まで回航してきたことを和館へ報じたもので
三隻はかなり西へ流されたのである︵助羅浦は巨済島の港と思われ
る︶︒対馬から朝鮮への渡航船は己酉約条によって釜山以外の港へ
は入
れな
い︒
したがってこの三隻のような場合は到着地の官憲に対
馬からの渡航船であることを示す﹁吹挙︵渡航証明書︶﹂を提示し
然るべく処置を受けるわけである︒また当地の官憲はすぐ東莱府へ
その旨を報じ︑釜山近辺であれば東莱府の訳官が出向いて吹挙の有
無を調べ出航の処置をとる︒
また
ところが途中で
﹁館毎日記﹂十月晦日
ときに和館近くであれば和館の目付が
訳官に同行する場合もあった︒三隻はこのあと助羅浦から加徳島を
経て釜山まで丸四日を要したわけだが無事につき芳洲自身も安堵の
想いだったにちがいない︒上陸後︑芳洲は横目から行規をうけてい
るがこれは﹁身改め行規﹂のことで禁輸品の所持検査のこと︒その
ほか荷物の検査もある︒芳洲は馬廻の上士格ゆえ上位の大小姓横目
ニ八
朝鮮
留学
前後
の雨
森芳
洲と
その
周辺
が立ちあい行規を行なっている︒
そのあと芳洲は館守︵嶋雄八左衛門︶のもとへ到着の挨拶に出か
けている︒かねて朝鮮支配役より館守あてに芳洲の和館滞在及びそ
の間のよび名について連絡があったむね記されているが藩庁でも相
応の配慮をしていることがわかる︒何分にもはじめての藩儒の朝鮮
留学であり朝鮮に対してもそれなりの格付けの必要があった︒芳洲
の和館滞在中の呼称となった﹁院長﹂は和館内部ではなく︑むしろ
朝鮮に対するものであったといえる︒このことについて対馬藩医で
(7 )
あった古藤文庵︵生没年不詳︶の聞き書集﹃閑窓独言﹄にはつぎの
雨森先生別号数多有之︒芳洲︑伯陽︑裸斎︑院長︒院長ハ朝鮮詞稽古井彼国ノ事状詳——知ラレ候クメ数年逗留内ノ号故朝鮮人
皆用
之︒
すなわち﹁院長﹂は朝鮮に逗留中の号であり︑それゆえ朝鮮人も
みな﹁院長﹂とよんだという︒ではこの﹁院長﹂は何に由来するの
であろうか︒院といえば学問にかかわって翰林院が想定されるが︑
芳洲の立場を朝鮮側に理解しやすいように翰林院院長のごとく格付
けしたのではあるまいか︒院長の呼称については芳洲自身も希望し
たと記されているが朝鮮でも理解しやすい呼称だったからだろう︒
芳洲のかような希望を聞き館守は﹁聞伝︳一申唱候iも館中之面々へ
相触候ハ︑可然﹂と判断し館内の要所(‑代官と横目頭︶に文書で
そのことを通達している︒まことに適切な処置というべきで館内諸 ようにあってこのことを裏付けている︒
二九
人への伝達も確実であった︒そして和館到着のこの日に芳洲はまず
館守から﹁院長﹂とよばれたはずで︑それは日々に館内に浸透して
行った︒余談だが館守の嶋雄八左衛門は二月の訳官遭難事件のあと
和館の責任者として朝鮮側との交渉にあたり難局を乗り切った能吏
である︒﹁館毎日記﹂に記録されてはいないが館着の芳洲に対し館
守の振舞があったはずで︵年例送使の正官︑高位の使者等には館守
の振舞がある︶︑芳洲の約一年に及ぶ留学の第一日はかくて無事に
過ぎて行ったと思われる︒ところで藩の﹁奉公帳﹂によると今回の
芳洲の渡釜についてつぎのように記録されている︒
︵元 禄︶
一︑同拾六癸未年学文為稽古朝鮮表へ被指渡九月出帆宝永元甲
申年
十一
月ー
ー帰
国︒
﹁奉公帳﹂は藩士の経歴を記し公式記録として信頼できるものだ
が何分にも後年の編纂によるゆえときに誤記もみられる︒ここにあ
る芳洲の﹁九月出帆﹂だが﹁館毎日記﹂の記事等からみてやはり誤
まりではないかと思う︒しかしいまこれ以上に関連の記録がなく後
考をまつことにしよう︒
二日後の十一月三日﹁館毎日記﹂にはつぎのような芳洲の申し出
が記録されている︒
雨森院長罷出被申聞候ハ私儀寒気孟コリ至極難儀仕候︒依之唯
︵ママ︶今之内ハ長髪仕居申座候︒願之通被仰付被下候哉之由申聞候ニ
付弥
心次
第ー
一月
額立
被申
候様
ーー
と申
渡ス
︒
︵一 六九 一︶
寒気を理由に芳洲が長髪を願い出て認められた記事だが元禄四年
十二月︑芳洲は還俗を認められ士籍に入っていた︵元禄一二年︑大学
頭・林鳳岡が僧侶同様であった儒学者を士籍に入れるよう幕府に認
めさせ︑蓄髪も許されることになった︶︒それゆえ芳洲は蓄髪をし
ていたが朝鮮の寒気は厳しく﹁月額剃﹂をやめ総髪にしたくこの申
し出となったらしい︒ところでこの記事では﹁雨森院長﹂と記述し
ていることに留意すべきで館守みずから芳洲をかようによびかつ佑
筆に記録させている︒おそらくこれが藩の公式記録にみえる最初の
﹁雨森院長﹂の記録であろうと思う︒つぎに和館滞在の芳洲につい
て特別な立場を朝鮮側に認めさせている﹁館毎日記﹂十一月七日条
の記事をあげよう︒
今日訓導入館仕候付申渡し候ハ此度国元か雨森院長罷渡候︒此
人之
俊何
そ朝
鮮国
︱︱
対し
たる
用事
ーー
て罷
渡る
︱︱
てハ
無之
候得
共︑
館之用事︱︱付為被指渡仁之儀︱︱候間炭柴之俵大小姓横目之格ニ
一ヶ
月ー
ー炭
十弐
俵︑
一日
ーー
柴三
把宛
相渡
候様
ーー
と申
渡候
処︑
導申聞候ハ被仰聞候段承届候︒弥御指図次第ーー相渡可申由申聞
候︱︱付則右之趣院長方へ以手紙申渡ス︒
これは和館にきた東莱府訳官の訓導︵別差の上役︶に対し芳洲が
日常必要とする炭薪の供給を要求したもの︒朝鮮側から炭薪の供給
をうけるのは年例送使や参判使などいわゆる使節と和館の員役に限
られていて︑これはどうみても例外というほかない︒しかし館守の
いい分は妙を得ている︒すなわち﹁此人之儀何そ朝鮮国︱︱対したる
用事︱︱て罷渡たる︱︱ては無之候得共︵芳洲はとくに朝鮮に所用があ
訓
ってきた使者ではないが︶﹂と断っておいて﹁館之用事︳一付為被指渡
仁︵和館に所用があって派遣されてきた人物︶﹂ゆえ炭薪の供給を
されたいとの申し出である︒つまり和館と朝鮮国への所用は同様で
あるというわけで︑館守の巧みないい回しである︒だが訓導もさす
がにその辺りは察しているらしく館守の申し出をあっさり認めてい
る︒何事によらず訳官との交渉はおおむね埒の明かないものだがこ
れは珍しい事例といえる︒ところで来館後半月も過ぎたが釜山滞在
中認められている宛行の支給がなく芳洲から館守へつぎのような申
し出が記されている︵﹁館毎日記﹂十一月十五日条︶︒
雨森院長罷出申聞候ハ私儀於妥元被成下候御扶持︑御合力之儀
未御国御役方;御代官方へ不申参候由︱︱而不被相渡候︒依之差
当難儀千万奉存し候︒御国元ふ申参候迄ハ御扶持︑御合力内借
被致候様ーー御代官方へ被仰渡被下候ハ︑隊可奉存由申聞候︒然
ハ御支配オ此方へ如何様共不申参候得共於御国元院長へ被仰付
候通院長も申聞︑殊組頭中ふ此方江院長御扶持︑御合力之儀申
参候通別而相違も無之候故弥毎月四人扶持︑御合力銀廿五匁︑
︱ヶ月︱︱白米一俵ッ︑被相渡候様︱︱と則代官吉野五郎七へ申渡
ス︒尤院長へも申渡ス︒
芳洲の在館中の宛行は先述のように八月九日に決定しそれは当日
の﹁表︑組毎日記﹂に記載されていた︒またその宛行について組頭
方から館守に連絡があったことはここにも記されているが肝心の代
官方に通知がなく芳洲を困らせたわけである︒幸いこれも館守の適
1 0
こま
, , " ` ︑
朝鮮
留学
前後
の雨
森芳
洲と
その
周辺
切な判断で仮支給されることになったが家来三人を伴なっている芳
洲にとっては思いも寄らぬことであった︒ところで短い記事にもか
かわらず︑ここには四か所﹁院長﹂の用語が用いられていてそれは
半月ほどの間にすっかり定着していたようである︒扶持米︑合力銀
等の必要経費が支給され芳洲はいよいよ学文稽古に向け全力をあげ
たことと思うが実はこのあと﹁館毎日記﹂には関連の記事がまっ
ただ先にもあげた﹃閑窓独言﹄たくなくその間の事情を知り難い︒
右︵学文稽古のため和館滞在︶ノ節呉インギト云仁都ョリ下リ
坂ノ下ー一久敷逗留セシメ候ーー付親敷仕ラレ朝鮮詞ハ専ラ其人ョ
(8 )
リ習
ハレ
候由
︒
とあって︑朝鮮語を﹁都ョリ下リ坂ノ下二久敷逗留﹂していた﹁呉
インギト云仁﹂に専ら習っていたと伝えている︒﹁呉インギ﹂とは
都から赴任してきた訳官と考えられ元禄十七︵宝永元︶年二月四日
に東莱へ到着した﹁別差呉判事﹂のことと思われる︵﹁館毎日記﹂
同日条︑呉判事は前任者が都へ召喚されたため訓導李余知とともに
着任した︶︒訳官︵訓導︑別差︶の宿舎は通称﹁坂ノ下﹂︵現︑釜
山直轄市中区瀧州洞︶にあり訳官はここを拠点に東莱府や和館の用
をつとめていた︒また﹁坂ノ下﹂には対馬の使節が朝鮮国王像に礼
拝する粛拝所などもあり日本人は通行札さえ所持しておればこの
﹁坂ノ下﹂までは出かけられたのである︵通常は和館から出ること
(9 )
を許されていない︶︒芳洲の手になる﹁詞稽古之者仕立記録﹂には
思わ
れ︑
﹃閑窓独言﹄にあるつぎの一文はおそらくそのことを示し いる︶か﹁通事﹂ みずからの朝鮮語学習の状況について﹁毎日坂之下へ参リ令稽古⁝炎暑之節坂之下ょ罷帰り習ひ候言葉なと書写候時目之くらみ候事も有之候•…••」と記述している。一方「雨天之節者守門軍官又ハ通詞を呼相勤候﹂とあるので雨天の日以外は﹁坂ノ下﹂へ出かけ呉判事から朝鮮語を学んでいたのである︒したがって芳洲が学んだ朝鮮語は都地方で使われる標準語であったと思われる︒なお和館から坂の下まではおよそ1一キロメートルの距離があり「炎暑之節•…・・目之く
らみ候事も有之候﹂というのはその通りであったと思う︒︱
ところで芳洲が呉判事に学んだのは朝鮮語だけではなかった︒言
葉だけであれば雨天のときに学ぶことにしていた﹁守門軍官﹂︵和
館から坂の下へ向かう出入口を守門といい︑朝鮮の軍官が守衛して
︵釜山郷通事とよばれる下級通事︑三十人いた︶
ですむことであった︒芳洲がわざわざ﹁坂ノ下﹂へ出向き呉判事に
指導を仰いだのは文法をはじめ朝鮮語の基礎を学ぶためであったと
ているものと思う︒
︵芳 洲︶
先生朝鮮詞ヲ一月程習ハレ候ヘハ明リ見へ二三ヶ月︳︳至リ明9
ーー出候卜先生説話也︒然レハ彼国学文ノ教深クシテ言語章ヲ成
( 10 )
セル事多キ故早ク明リニ出玉フト知ラレクリ︒
﹁‑
︱︱
︱︱
ヶ月
二全
リ明
リー
ー出
候﹂
と芳
洲自
身の
話だ
とあ
るが
まず
文
法を習得したことで﹁読み書き﹂の基盤を固めた︒﹁彼国⁝⁝言語章ヲ成セル事多キ故·…••」とあるのはそのことで、朝鮮語は文法が
整っているゆえそれさえ理解できておればという意味であろう︒し
たがって﹁聞く話す﹂はその後朝鮮人とどれだけ接するかで決る︒
芳洲の朝鮮語学習は当初文献中心であった考えてよかろう︒﹁詞稽
古之者仕立記録﹂によると芳洲は朝鮮逗留中に﹁交隣須知一冊︑酉
年工夫一冊︑乙酉雑録五冊︑常話録六冊︑勧懲故事諺解︱︱一冊﹂を仕
立て︑そのほか﹁外淑香伝1一冊︑李白寝伝一冊﹂を自分で筆写した
とのべている︒もっとも芳洲は一一回﹁丸二年︵実際は一年と七か
月︶﹂逗留中の仕事だとしているゆえ今回の渡釜ですべてが出来し
たわけではない︒むしろ今回は文法をはじめ基礎学力の習得に力を
注いだにちがいないが全体としてかような朝鮮語学習書等の作成︑
小説等の筆写が学文稽古に含まれていた︒こういう作業ができたの
はやはり呉判事から文献中心の指導をうけたからにちがいない︒都
︵漢城︶から派遣されてくる訓導︑別差は司訳院の倭学に所属し日
本語について組織的かつ系統立った訓練をうけてきている︒それは
対馬藩の通詞たちが朝鮮語に堪能な先輩から口伝えに学ぶのとは根
本的にちがっていた︒司訳院では日本語の文法を教え読み書きを習
得させるためテキストを用意し選抜考試が行なわれていた︒そのう
え彼らは中央にあって環境にも恵まれ教養もあった︒芳洲はかよう
な事情に十分通じていたはずである︒でなければわざわざ都下りの
訳官を頼ることはない︒
また芳洲には朝鮮の政治︑社会︑文化など諸方面の現状を把握し
それに通じる目的もあった︒先述のように昨年三月はじめて渡釜し た芳洲は朝鮮及び朝鮮人の実状にふれ大きな衝撃をうけた︒以後芳洲は朝鮮及び朝鮮語の理解に向け本腰を入れはじめたのである︒
﹁詞稽古之者仕立記録﹂に﹁︵釜山より︶罷帰候已後早速朝鮮言葉
功者之衆中︳︳下稽古いたし﹂とあり芳洲の覚悟のほどが伝えられる︒
﹁朝鮮言葉功者之衆中﹂とあるが通詞連中だけでなく商人や和館の
下役のものにも功者とよばれる堪能なものがいた︒だが芳洲はそう
いう人々の中でも﹁朝鮮人︳︳聞まかひ候ほとの上手﹂︵﹁詞稽古之者
仕立記録﹂︶と称えられた功者中の功者橋辺判五郎に﹁下稽古︵手
ほどき︶﹂をうけたのではないか思うが残念ながらそれを伝える史
料はない︒橋辺判五郎の家は嘉吉年代からつづく特権商人﹁古六十
人﹂に属し︑判五郎は長く和館で町代官をつとめたあと﹁元方役﹂
に就任した︒それゆえ和館滞在も長く商売のため朝鮮人と絶えず接
し﹁
自分
より
言葉
稽古
︳︳
精出
し﹂
︵﹁詞稽古之者仕立記録﹂︶功者中
の功者になっていた︒その判五郎の長男がのち芳洲に師事したゆえ
このような推測をしたのだが︑長男のことついてはのちにふれる︒
ともかく芳洲の語学をはじめ朝鮮の諸事に関する学習にはその知的
な要求に応じ得るインテリが必要であった︒和館に出入りする数人
の訓導︑別差らはその条件を満たした人たちだが︑その中で呉判事
が選ばれたわけである︒
だが芳洲の学文稽古の日常を伝える記録もなく呉判事との接触も
いかようであったか明らかでない︒ただ﹁館毎日記﹂︵宝永元年七
月八日ーニ十二日条︶と﹃交隣提醒﹄の一文が和館での事件に関し
朝鮮
留学
前後
の雨
森芳
洲と
その
周辺
両者の若干のかかわりを伝えるだけである︒七月八日﹁別差︵呉判
事︶附之通事ウンホキ﹂︵ウンボキは郷通事︶が和館から帰ってこ
ないと申し出があり調べたところ殺され館内の川端に埋められてい
た︒人参を持ち込んだウンボキが人夫の吉右衛門に殺されたものと
わかったが︑結局吉右衛門は斬罪に決った︒だが折しも﹁天龍院様
︵宗義真︶御一一一回忌﹂の法事等があり処刑の日程を東莱府と交渉す
るよう国元の年寄中より和館に訓令が届いた︒その中に﹁異国之出
入ーー候問幸雨森東五郎義在館之事ーー候問前以熟談之上彼方へも申達
候様﹂︵七月二十一日条︶に申し添えられている︒芳洲が朝鮮支配
役の佐役だからであろうが芳洲はこの一件をめぐり呉判事と接触し
ていたらしい︒実はこの一件は対馬藩にとって大事件であったのだ
(12) がのち﹃交隣提醒﹄の中で芳洲はつぎのようにのべている︒
撤供撤市いたし候ヘハ対州之人ハ嬰児の乳を絶候こと<︱‑候
と彼国之人常︳︳申事︳︳而︑此方︱︱いたてをあて候第一之上策と
ゥンポギ存居申候︒小川又三郎館守之時館内之者銀奉と申朝鮮人を殺し
中川ーーしづめ置候を︑朝鮮人共右之死骸を取出し候段東莱へ相
聞︑若も其相手を日本人出し不申候ハ︑撤供撤市いたし候様ニ
と被申付候伝令︑別差呉判事懐中いたし居見せ申候︒其節訓別
より
不申
出候
内ー
ー館
内
i右之科人之事申出候者有之︒早速館守
被召捕候故右之伝令を出し候了も不及候キ︒
つまりこの一件により対馬側がもっとも恐れている朝鮮側の処置
すなわち﹁撤供撤市︵対馬への米大豆の供与停止と和館における公一
二
︑ 帰 国 か ら 第 二 回 目 の 留 学 ま で
﹁表毎日記﹂十一月十日条には
私貿易の停止どが行なわれようとしていたのである︒対馬側が犯
人を出さなかったら﹁撤供撤市﹂を行なうべく伝文を﹁別差呉判事
懐中いたし居見せ申候﹂とあるが︑これは事件をめぐって芳洲が呉
判事とかかわりがあったことを示している︒芳洲とて﹁撤供撤市﹂
回避のため悲壮の想いであったにちがいなく︑それがこの﹃交隣提
醒﹄の一節となったのだがこれだけでは呉判事との交渉の有様を判
断し難い︒だが芳洲が吉右衛門処刑の日程だけにかかわっていたの
一
ではなく︑対馬の命運にかかわる﹁撤供撤市﹂について呉判事と接触をもっていたことはまずまちがいなかろう︒しかし芳洲がとくにこ
の事件を通して呉判事と懇意になったわけではあるまい︒実は﹁館
毎日記﹂はこのあと十月から翌宝永二年八月分まで欠本となってい
て留学中の芳洲を伝える記録がなく帰国前後の状況もよくわからな
い︒ただ﹁朝鮮方毎日記﹂宝永元年十一月六日条に芳洲の釜山出立
が簡単に伝えられるだけである︒
﹁雨森東五郎朝鮮表生帰帆仕︑手船︳一而着船仕候由遂案内﹂とあっ
て芳洲の無事帰国が記録される︒約一年間︵元禄十六年十一月朔日
釜山着ー宝永元年十一月六日釜山発︑この年閏月なし︶の朝鮮留学
を終え学問的成果もさりながら芳洲個人としてそれなりの感懐があ
ったことと思うがそれが伝わらないのは残念である︒
帰国して二日後の﹁表︑奥毎日記﹂十一月十二日条に芳洲に関し
る ︶ ︒
︵樋 口︶
雨森東五郎被召出孟子講釈御聞被遊︑御年寄中井久米右衛門︑
︵ 杉 村
︶
︵ 嶋 雄
︶
又左衛門︑多内︑大目付多田判兵衛其外御側廻リ之面々聴聞仕
レ ︒
御 麻 上 下 一 具 雨 森 東 五 郎 へ
右者朝鮮ふ帰国初而講釈御聞被遊候付被成下ル︒
芳洲にはまだ船旅の疲れもあったと思うが藩主︵宗義方︶に孟子
の講釈をつとめている︒芳洲にとってはこれが本務ゆえ出仕は当然
だが帰国直後とて準備が大変であったと思われる︒藩主︑年寄中の
ほか御用人︵樋口久米右衛門ら三人︶︑大目付などが参じているが
いずれも奥詰の役々である︒なお対馬藩にはこのころ論語の講釈を
担当する儒学者がいた︒昨元禄十六年九月五日﹁新知弐百石﹂で召
し抱えられ対馬へ赴任してきた松浦儀右衛門︵霞沼︶である︵霞沼
はそれまで木下順庵のもとで学業に励んでいた︶︒松浦霞沼︵儀右
衛門とすべきだが一般的に通用する霞沼を用いることにする︶の対
( 13 )
馬到着は十月二十六日で︑釜山へ向け出航した芳洲が逆風にあい助
羅浦へ仮泊した日である︒ちょうど芳洲と入れ違いとなったわけで
ある︒霞沼が対馬藩主︵宗義真︶にそのオを認められ順庵の門に入
ったのは元禄元年十三歳のときで芳洲の対馬藩出仕︵元禄一一年︑
1 1
十歳︶より一年先んじていた︒互いに順庵のもとで学んでいたが芳
洲は元禄五年から長崎遊学︑対馬往復をくり返し元禄十一年(‑︱‑+ つぎのような記事がみられる︵詳しい﹁奥毎日記﹂の記事をあげ
今日松浦儀右衛門江論語之講談被仰付御聞被遊︑
被仰付候故御小袖被成下之︒
とあって霞沼の初講談が伝えられる︒﹁当年初而﹂とあるが霞沼が
対馬へ赴任の折藩主は江戸にあり︑これが霞沼にとってはじめての
講談であった︒以後︑霞沼は芳洲とともに論語︑孟子の講釈を担当
して
いる
︒
右者
雨森
東五
郎同
前︱
︱今
日ォ
奥御
番所
ーー
而御
礼被
仰付
︒
とあって︑この日から奥御番所に出て芳洲同様に挨拶するよう申し
つけられている︒奥御番所は奥詰の面々が勤務する部屋で霞沼もこ
の日から正式に奥詰の一員となったのである︒芳洲との再会など私
的なことが伝わらないが芳洲の帰国後まもなく藩主︵宗義方︶の初
入国を賀して問慰訳官︵韓策知︑呉正︶一行が対馬へ着いた(+‑
( 14 )
﹁訳官記録﹂によると十二月朔日条に﹁訳官
月二
十二
日府
中着
︶︒
茶礼ー一付御料理被成下候面々左記之﹂
年寄中︑寺社奉行︑御印判役︑組頭︑平田外記︑大目付︑裁判
役︑町奉行︑勘定役︑訳官奉行︑雨森東五郎︑松浦儀右衛門︒
芳洲と霞沼は藩儒として藩の諸役ととも訳官の茶礼に参じていた
条に
は︑
一歳︶から対馬へ定住した︒はじめて対馬へ赴任した霞沼は芳洲と
の再会を願いかつ芳洲の助言等を期待したことと思うが約一年間ま
たねばならなかった︒芳洲帰国の約一か月前﹁表毎日記﹂十月二日
﹁奥毎日記﹂十一月十五日条をみると︑ 当年初而講談
とあってつぎのようにある︒
四
松浦俊右衛門
一︑去年拙子都船主相務貴国へ罷渡候節通事中i願書壱通拙子
朝鮮
留学
前後
の雨
森芳
洲と
その
周辺
口 陳
のだが︑これが両人そろって藩儒の任をつとめた最初の記録でもあ
る︒なお霞沼については芳洲に関係深い人物ゆえこのあとも折々に
とりあげてゆくことにする︒
ところでこの渡来訳官が対馬藩へ﹁釜山郷通事﹂︵ふつう小通事
とよんでいる︶の貧窮救済を求めてきたが芳洲がその交渉の窓口と
なり尽力することになった︒この貧窮救済は﹁義田一件﹂とよばれ
( 15 )
ことの概略は﹃天龍院公実録﹄元禄十四年条に記されてはいるが︑
﹁訳官記録﹂にある書簡がその経緯をよく伝えているので以下にそ
れをあげることにする︵訳官が任務を終え乗船した︵宝永二年正月
二十一日︶むね記述したあと︑芳洲と訳官の義田をめぐる往復書簡
がつ
ぎの
よう
にあ
る︶
︒
一︑今般小通事共資生愁訴之儀元禄六年癸酉御家督使樋口佐左
衛門︑同拾五年壬午退休使樋口佐左衛門在館之時書付差上置候
得共許容不決︒宝永元年甲申四月代官吉野五郎七江も又々願書
差出置候得共許容不決御返答無之︱︱付︑同年十1
一月
訳官
問慰
之
時先年之退休使都船主雨森東五郎迄韓危知︑呉正i右之願書差
出之︑小通事共
i
も裁判佐治宇右衛門迄差出候願書之真文井年寄中
§評
給之
儀申
渡候
真文
左ー
ー記
之︒
︵真
文略
︶
右之
儀︳
︳付
雨森
東五
郎方
i韓痕知︑呉正江申達候口上書写
五
方へ致持参︑通事中窮迫︱︱及候間何ーーとそ救済被成被下候様ニ
と之儀ーー候故︑帰国之節其旨早速官上へ申上候得共大喪又者凶
︵吉 野五 郎七
︶
変其外諸事紛擾之節ーー候故何之沙汰も難被成︑今春旧一代官帰
悼之節又々通事中i右之願書差出候付︑旧一代官帰国之後被差
︵訳 官︶
上候得共未及詳陳罷職被致候︒然処今度各々渡海ーー付通事共も
︵年 寄中
︶
罷渡幸之時節ーー候故右之次第委細ーー歴々中へ申上候処︑歴々中
被仰候者以前i通事中江御見合等有之候而も或官長i押取︑又
ハ通事中一時酒果之費ー一致候段聞召被及︑左候而ハ御前ーー申上
施行いたし候事無用之事ー一成行候︒何とそ槌ー一皆共救済之験有
之様
可成
哉之
由御
問ー
ー候
故︑
拙子
申上
候者
通事
へ銀
子弐
貫目
︱︱
而
も或参貫目孟皿も被成下田地相調義田ー一定置候者︑歳収を以永
之通事中費用之資ー一成候様ーー被仰付候者宜敷可有御座と申者も
有之候︒其通二被仰付候而者如何可有御座哉と申上候得者弥其
通ー
ー可
罷成
事ー
ー候
哉︑
悔ー
一年
究候
様︱
ーと
有之
候故
先頃
金左
衛門
を以
御問
申候
処︑
弥通
事中
為ー
ー者
特恩
︳︳
候由
御返
答︳
︳候
故其
旨
又々申上候得者︑歴々中被仰候者近年以来ハ通事中之風儀も以
前ーー違無礼放碑之者も有之︑欺詐楡穎之族も有之︑炭柴とても
順便ーー不入来︑送使待接之官物を以私家奢俊之冗費は以多し候
由相聞へ︑至極無形之働切歯不平之仁も毎々有之候得共︑其段
︵東 莱︑ 釜山
︶
者下々無知妾作之故︳一候得者必しも非可計較候︑時節を以東釜
江も申達懲戒之路可有之候︒差当り我国之事︳一労役いたし候者
之窮迫︳一及候段其通ーー捨置可申様無之︑畢党渠輩之儀他国之者
ニ而も我国之民同前ー一候間弥設置義田之事集輩之益二可罷成候 者御前へ申上其通l︱被仰付候様︱︱可致候︒乍然御意を窺御銀被
成下候以後万一義田を設置不致候欺︑又ハ一時酒果之費︳一失候
欺︱ー而者歴々中処分疎濶之責有之候間︑得と渡海訳官井承合候
通事共ーー内証二叩相尋決定之返答承候様︱︱と之事二候︒各此段
如何被思召候哉︑右義田を設置其歳収を以通事中費用之資と成
候︑人柄者交代有之候而も田地者永ーー其時役相務候通喪之所務
と究メ︑其外ーーも後日之弊端︱︱可成事を委細ー一致書載碑石二彫
付通事庁︱︱建置︑歴々衆御遠慮之通後々永々迄も通事役相務候
者ハ右之田地孟叫少究之たすけを得申候様之仕形可有之候哉︑
其段悔成御返答有之候者此儀者十︱︱八九相済可申と存候︒委細
ニ可
被仰
聞候
︒
一︑右之儀槌成被仰聞さへ有之候ハ︑相済可申候︒乍然拙子歴
々中迄申上候者内証ーー候故夫計︱︱而ハ御前へ御案内難被申上候︒
右之御返答承候者今一応歴々中江内証申上︑其後御左右可申候
間其節通事中ふ裁判を以願上候様︱︱可被成候︒
十二月十五日 一︑願之通相済候共委キ被仰付ハ朝鮮表館守方へ被申遣︑幾重ニ
も後日之弊端を防申候条約分明なる様二訓導︑別差各々井裁判
相談を以永久之計をいたし候得と被仰付︱︱而可有之候︒以上︒
雨森院長
右之通以和文申達スル
右之旨両訳官致審悉則韓餃知︑呉正井小通宴中ぷ裁判佐治宇右
雨森 奉
状東五郎公
正
韓餃知
呉 衛門︑雨森東五郎方江差出候真文左ーー記之︒
︵小通事中から裁判への真文は略︶
即問歳暮寒日尊起居如何慰偉不レ浅僕等特ー伝型左右之用旋—無レ弊竣レ事幸莫レ
甚レ
焉︒
就陳我国通事之輩皆以=貧賤之人1長立
‑ 1館
門二
小レ
分
1一
萱夜
1奔
ル ノ ヲ
走仰レ役食不=其時︱其情誠不憾也而一経=丙丁一之後尤為=赤
ニス
脱荷担将レ散之歎非レ朝即夕突︒仄聞自
島中面び有I I
顧伽之I I
道
1云
物之
厚薄
姑捨
勿レ
論以
一一
義理
ニ︱
9
之此前古一所レ未有レ之ニ テ カ ン ヤ
盛挙也︒若非ユ父隣之誠信1何
以 出
1一此恩於嚢々無知之通事1
セ
^ ヲ
乎︒如有孟び贈之物
1付
之於俺等回悼之時一則僕等帰誇一I I
t一
於我
ケ ー ︱
国与
1
判事危中二以頌レ徳懸レ板︑一以厳立=節目1
1然
後 広 貿
1 1
也L・使1二通事得
11耕食ー則渠輩雖一頑漠愚唄I I
沃土
一名
レ之
曰
1一
義田
f
レソヤ登敢忘
I I
ン ヤ ナ ラ
豊不レ美哉︒然事在
1 1
シ テ ヘ
^
︵土 か︶
殿様特施之徳—哉゜且田士文害堅封蔵置於訓導家次々伝掌伝=
ル ノ ー ー シ テ
之無窮
1則此是永世不レ忘之資而︑
ー ー ナ ラ ン ニ ソ ヤ
殿様生成之沢与レ世倶長登不レ善哉︑
ハ ル フ ク サ ヲ ノ ミ
尊黙会中
1余
不レ
既レ
言耳
︒
︵宝永元︑一七0
四 ︶
甲 申 十 二 月 日
六
問慰官
朝鮮
留学
前後
の雨
森芳
洲と
その
周辺
以上だが芳洲の書簡にしたがいことの経緯をみておこう︒問題の
釜山郷通事︵三十人︶は釜山近辺の農民たちでその会話力を買われ
都下りの訳官に付属し通訳の助手をつとめていた︵先述の殺された
ウンポキが郷通事である︶︒
はいるが日本人との接触はなく会話力がほとんどなかったからであ
る︒小通事の貧窮をめぐってはこれまで一︱一度︵元禄六︑同十五︑宝
永元年︶訴えがありいずれも対馬藩の認めるところとならず回答も
していなかった︒今回訳官の渡来に小通事も同行するため年寄中へ
( 16 )
救済を申し出たがかつて藩からの援助が﹁或官長ふ押収︑又ハ通事
中一時酒果之費﹂になっただけとわかり︑それでは再度藩主へ申し
上げようもない︒確実で恒久的な救済法でもあればとのことゆえ芳
洲から田地を買い与えその収入を資生とさせてはと提案に及んだと
ある︒しかし近年は通事たちのよろしからぬ風儀や行為も伝えられ
年寄中には快からぬ想いもあった︒それに対し芳洲は﹁其段者下々
無知妄作﹂の故で東莱府使あるいは釜山危使に申し出れば﹁懲戒之
路﹂もあるとし︑それより小通事が﹁他国之者︱︱而も我国之民同前﹂
であるゆえ﹁渠輩之益﹂になるなら義田の設置を藩主へ進言してほ
しいと請願している︒だが年寄中の心配はつづく︒援助をしても義
田を設けずまたまた﹁一時之酒果之費﹂ともなれば責任問題にも
なりその段訳官︑通事へしかと確かめるようにとある︒年寄中の心
石︱
︱彫
付通
事庁
ーー
建置
﹂
配は当然のことゆえ芳洲は﹁後日之弊端﹂となるような事項は﹁碑
くようにさせ永く通事たちが田地から資生 訳官は司訳院で日本語の実習をうけて
一 七
藩主の﹁徳沢﹂に結びつけるあたりなかなかのもの︒また日朝問に を得られるように︑このことを訳官たちが年寄中に確約すれば解決に至るのではないかと指示に及んでいる︒つづいて一︑年寄中へ私︵芳洲︶が申しあげたことは内々のことゆえ年寄中の内意があれば通事中から裁判へ正式に申し出ること︒一︑援助が決定すればその詳細については和館の館守へ伝えられる︒そのときには﹁後日之弊端﹂を防ぐ約条を明確にし訓導︑裁判ともども義田の﹁永
久之計﹂を相談するよう年寄中より申しつけられるであろう︑とあ
って訳官あての書状を結んでいる︵ただし訳官へは真文の書状が送
られる︶︒要するに援助の実際をめぐる問題であり今日においても
類似の事例を世界各地でみることができるのは皮肉である︒
これに対する訳官の回答をみると芳洲の提案を全面的にうけ入れ
ていることがわかる︒そのうえ末尾では﹁⁝・:広貿沃土名之曰義
田﹂とのべ関係文書を﹁堅封蔵置於訓導家次々伝掌﹂し︑なおそれ
が﹁殿様︵対馬藩主︶生成之沢﹂を後世に長く伝えることになると
あっては常套語ともいえるが﹁交隣之誠信﹂を回答のベースにして
いて外交書簡としては的確に要所を押えているといえる︒問慰行の
訳官はいわば実務型の外交官であって対馬との間に生じた日常的な
外交問題については彼らの手で処理されることが多い︵対馬側では
おおむね裁判が担当する︶︒この義田一件はその好例の一っだが︑
芳洲との往復書状から一部とはいえそのような交渉の経過をみるこ
とができたのは望外のことといえる︒だがのちに﹁誠信之交﹂を主
別差
︑
るかのような印象をうける︒ 張した芳洲がここでは訳官の﹁交隣之誠信﹂に一歩先んじられてい
さてこの﹁義田一件﹂になぜ芳洲がかかわることになったのか︒
本来このような場合︑対馬側の窓口は裁判あるいは和館の館守であ
るのが普通であって参判使への申し入れは異例というべきであろう︒
ではなぜ朝鮮側が参判使に交渉しようとしたのであろうか︒元禄十
五年︑参判使樋口佐左衛門︵都船主は雨森芳洲︶が渡釜したとき小
( 17 )
通事等が佐左衛門に送った書状の中につぎのような一節がある︒
︵佐 左衛 門︶
伏以笑徒等如レ是仰漬︑極知1一
憧愧
f而今聞大人新到
‑ 1
弊境f行
レ仁
施レ
恵︑
革レ
苛蘇
レ残
云︑
故敢
陳
1
f其築以備1
1
f反三之地1
このことから小通事らが佐左衛門の﹁仁恵﹂に期待し援助の申し入
れを行なったことがわかる︒藩政記録ではわからないが佐左衛門は
仁篤の人柄で小通事などにかような評判があったらしい︒むろん若
干の外交辞令はあろうがありもしない人柄を褒め援助を求めても意
味はない︒通事らが佐左衛門の人柄に頼ったことが第一の理由であ
ろう︒つぎに佐左衛門はそのとき朝鮮支配役で︑芳洲がその佐役で
あった︒かような要職については当然朝鮮側も理解している︒した
がって通事らは参判使ではなく﹁支配役﹂である佐左衛門に援助を
訴えるのがもっとも効果的だと理解したのではあるまいか︒ただこ
のとき偶々︑佐左衛門が参判使︑芳洲が佐役であっただけのことだ
と私は考えている︒だが佐役が都船主として同行していたことは朝
鮮側にとっては幸いであった︒佐役が小通事らの実状を見︑その間 の事情に通じてくれていたからである︒佐左衛門は参判使また支配役としてもトップでありかような事例を実見する立場にもなく交渉の実務を担当することもない︒もちろん支配役の佐役とて外交にかかわる意見を具申できるだけで日常その実務に携わっていたわけではない︒しかし都船主としての芳洲は参判使の総務を掌る立場にあり小通事らとの交渉の一切を担当することになったのである︒渡来の訳官が芳洲と交渉し書状を交わしているのはそのためである︒また芳洲の書状には年寄中の意向がのべられるが朝鮮にかかわって年寄中をまとめるのは佐左衛門である︵支配役にはもう一人平田直右衛門がいるがこの問題には直接関係していない︶︒したがってこの問題の解決にはまず佐左衛門を説得しその諒解を得ることが肝心で芳洲書状の行間にはそのことが読みとれるように思われる︒
ところで芳洲が書状に﹁雨森院長﹂と認めているのが目をひく︒
先にみたように院長は朝鮮逗留中の号であって帰国した芳洲が用い
るのは若干異にも思われるが︑これは相手が訳官ゆえであろう︒そ
の訳官に同行の小通事たちは対馬へきても釜山滞在中と同様に芳洲
に対し院長とよんでいたものと思う︒それゆえ芳洲も訳官︑通事ら
に対してはみずから院長と称していたにちがいなく︑この書状はそ
のことを示す一例であろう︒さて郷通事の援助についてはおおむね
芳洲の提案にそい成約に至ったようだが義田が実現したのは約十年
(18) 後である︒そのことについて﹃宗氏実録﹄に注記があるのでそれを
つぎにあげこの一件を締めくくることにしよう︒
八
1 2 月
2 7 日
月1 2
2 2 日
月1 2
1 9 日
月1 2
1 2 日
月1 2 7日
月1 1
2 7 日
1 2 月2日
と思
う︒ 甲申宝永元年韓叙知以渡レ海来︑又以レ此為レ請︑因賜二銀三百両f
使 ー
1一
之創
コ置
義田
f次次伝掌︑以為孟呂レ生之資f
而任
訳不
=肯
為レ
之出ブカ︑遷延者累年︑癸巳正徳一︱一年杉村采女以
‑ 1
告訃使
︱往
︑
雨森東五郎又為
1
f其都船主1
韓会知適任
1
f訓導1
於是
始為
買レ
田︑
韓餃知呈
一 1 1
書於
1一
采女
︳日
︑昔
年蒙
レ許
参百
両︑
請ー
11
取干
一︳
御代
官中
f
即買=田沓f
使=
通事
従レ
今耕
食︳
云々
︒
約十年後︑芳洲と韓餃知が釜山で再会し義田の実現を見るに至っ
たがこれは奇縁が生んだ日朝問の稀な外交的成果というべきだろう
さて訳官渡来の最中にもかかわらず藩主は年末にかけ芳洲と霞沼
に何度も講談を申しつけている︒つぎに﹁奥毎日記﹂から関連の記
事をあげてみよう︒
昼時於御書院雨森東五郎孟子之講釈御聞被遊゜
︵講日の予定であったが聴聞なし︶
昼間於御書院雨森東五郎へ孟子之講釈御聞被遊御年寄
中︑大目付迄聴聞被仰付ル︒
昼時於御書院雨森東五郎孟子之講釈御聞被遊
・:
・:
O
昼時表御年寄中詰間へ御出︑松浦儀右衛門論語講釈御
聞被
遊ル
︒ 御書院ー一而雨森東五郎孟子之講釈御聞被遊•…••O
︵御霊屋参詣より帰りがけに︶直︱︱於九老之問雨森東
五郎孟子講釈御聞被遊ル︒
朝鮮留学前後の雨森芳洲とその周辺
︳ 九
前藩主の宗義倫は幼少から聡明で好学の仁であったことはよく知
( 19 )
られているが現藩主︵宗義方︶についてはとくに好学を伝えるよう
な記録もない︒だが年末にもかかわらず行事のあい問に芳洲と霞沼
の講釈を聴聞に及ぶなど通り一ぺんのこととも思えず︑これは義方
の未知の一面ではないかと思う︒訳官が渡来し︑とくに芳洲は先の
義田一件があって忙しかったはずだが藩主の好学は望ましいことゆ
え藩儒として講釈に力を注いだことと思われる︒それは霞沼とて同
様であろう︒
︵一 七
0
五 ︶
年が改まり宝永一一年に入る︒訳官一行はまだ滞在中だが藩屋敷の
正月行事は例年のように行なわれている︒表勤め︑奥勤めの面々が
正月の藩主への挨拶︑定例行事に参じるのは元日︑二日︑二十日で
ある︒まず正月元日︑書院において藩主へ御礼︵挨拶︶に罷り出た
諸役の面々をみると︑
年寄中役々︑寺社奉行︑御印判役︑組頭井年寄中嫡子︑瀧六郎
︵ 御 用 人
︶
右衛門︑加納幸之助︑物頭︑町奉行︑御郡奉行︑御船奉行︑馬
廻医師外科︑表茶這頭︑組之者︵弓︑持筒︑鉄砲︑旗︑足軽︑
下目付︶︑表坊主︑料理人︑賄下代︒
とあり︑これは表勤めのもの︒このあとつぎのように奥勤めの役々
が挨拶に罷り出る︒
御用人︑大目付︑御勘定役︑雨森東五郎︑松浦儀右衛門︑御馬
廻之御小姓︑同医師御小姓︒
この正月御礼の出仕から藩士がそれぞれ表と奥の職務に大別され
いずれも儒者なればこそつとめ得る仕事であり大方の藩士たちの
なし得ることではない︒芳洲が江戸︑長崎で学んだように相応の学
問的訓練を積んだもののみが藩儒たり得たことがわかる︒以上の用
︵一 六九 八︶
務のほか芳洲は元禄十一年から朝鮮支配役の佐役に任じられている
がこれは先述のように支配役のブレーンであって実務を伴なってい 四︑漂着船の筆談役︒五︑家譜の編纂︒ て藩政に従事していたことがわかるが︑以上の役々が藩主のもとへ挨拶に出仕するのは正月のほか孟蘭盆︑八朔︑重陽など年に数回あり正月同様に記録されている︒この役々をみていると表勤めは藩政を掌る諸役︑奥勤めは藩主に近侍する諸役とわかる︒対馬藩の体制はこの表︑奥の二本でできあがっていてそれぞれに職域︑職権︑職秩︵順席︶も決っていた︒誰であれ職域を越えて藩政に関与することなど到底不可能であった︒たとえば奥詰の儒者である芳洲や霞沼が﹁表﹂の職域にかかわることなど︑よほどのことがない限りこの藩体制からみてなし得ぬことといってよい︒したがって芳洲は儒者として藩庁から命じられた用務に従事はしたがそれ以上には出ていつぎのようである︒
一︑孟子︑論語の進講︒
二︑
真文
役︒
︱︱
‑︑
文庫
の書
物掛
︵元
禄十
三年
l )
︒ ない︒現在判明している芳洲の宝永
i
享保期前後の用務をあげるとない
︒
いうなれば藩政の機構にない役目ゆえ職次もなければ職権も
なかった︒このころ﹁表︑奥︑組﹂毎日記の正月元日条のほとんど
はいま見たような御礼出仕の面々に関する何の変哲もない記録であ
る︒だがこれこそが藩の体制や機構を伝える基本的な史料なのであ
り﹁毎日記﹂のもつ史料的価値をこのような所に見出すことができ
るの
であ
る︒
正月二十日︵年によって若千日程がずれる︶には藩主の出座のも
と表︑奥勤めの面々に酒と鎧餅︵正月の飾り餅︶が振舞われる︒表
勤めに変わりはないが奥勤めは正月元日条の面々につづいてつぎの
ような役々が記録されている︒
御納戸掛︑御元方役︑御作事掛︑御庭掛︑日帳付︑御側歩行︑
御磯掛︑茶湯゜
藩主直属の諸役に勘定役︑御納戸掛︑御元方役︵和館における藩
の私貿易担当掛︶など意外に藩経済にかかわる役々が含まれている︒
納戸掛は明らかに宗家にかかわる出納を掌るが︑勘定役はいわば藩
の財政担当であり御納戸銀など宗家に入れるべき利潤銀にかかわっ
たからだろう︒たとえば﹁奥毎日記﹂には折々に納戸蔵に収める
﹁浜出入運上銀﹂などの記事があるが︑それには必らず勘定方から
役人が立ち会い算用帳の作成など行なったからだと思う︒また元方
役だが和館の私貿易を担当し藩経済にとって重要な役割を担ってい
た︒ときに納戸銀を用い私貿易を行なうこともあり︑なお貿易利潤
の何程かを納戸蔵へ収めるようになっていたゆえ奥向の職域に入っ
四〇
朝鮮
留学
前後
の雨
森芳
洲と
その
周辺
ていたのではあるまいか︒このほか奥詰のトップに大目付がいる︒
大目付はいわば県警察本部長にあたり代表的な藩主直属の職司とい
ってよく奥詰に所属して当然であろう︒
さて訳官一行も正月二十一日に府中を立ちなにかと行事の多い正
月も過ぎてまもなく﹁奥毎日記﹂二月一1一日条につぎのような記事が
ある︵﹁朝鮮方毎日記﹂にも同様の記事がある︶︒
白 米 拾 五 俵 雨 森 東 五 郎 へ
右者朝鮮へ罷渡候付為御見合被成下︒
芳州がいつから第二回目の留学を志したのかわからないが︑ある
いは意外に早く正月前ではなかったかと思う︒同役の松浦霞沼が藩
儒となって一年︑芳洲が不在でも職務の差支えは少ない︒また一年
の留学で朝鮮語にも耳慣れ来島の訳官一行ともかなり会話もでき芳
洲はいま一度釜山行を思い立ったのが実状ではあるまいか︒藩への
申し出︵芳洲の場合は御用人に伝える︶をいま一応正月前としてお
こう︒釜山行の許可を伝える記録がまったくないが二月三日︑合カ
米の申し渡しからみて許可は正月下旬ごろと思われる︒前回と異な
り同行の家来やその扶持米︑また合力銀や客来用白米など滞在中の
宛行についても記録を欠くが︑まさか﹁白米拾五俵﹂のみの支給で
あったとも思えず後考をまつことにしよう︒出立をひかえ多忙の毎
日だったと思われるが︑二︑一二月には芳洲自身を伝える記録はまっ
たくみられない︒
四
塩川竹松
乾 松 波 印
三
︑ 第 二 回 目 の 留 学 及 び 帰 国 後 の 芳 洲
芳洲が釜山行の準備で忙しかったと思われる二月十六日﹁表毎日
記﹂につぎのような記事がみられる︒
乾松波願書差出左記
乍恐口上之覚
塩川竹松儀只今小学へ遣物読等為仕候へ共大勢手習子共之交り
故物読果敢取不申候︒依之大坂表越治兵衛方へ差登物読等為仕
度奉存候間三四年之御暇被成下候ハ︑至極難有奉存候︒其以後
︵ ヽ︶
口雨森東五郎︑松浦儀右衛門へ相頼幾々御用ーーも罷立候様仕度
奉存候︒願之通御暇被成下候ハ︑只今拾人扶持被下置候内五人
扶持大坂表︳︳而被成下候ハ︑難有可奉存候︒此段御序之刻宜被
仰上可被下候︒奉頼候︒以上︒
二月十一日
御組頭衆中
右者祖父乾松波書付を以願上候者一=四年大坂表へ御暇被成下候
ハ︑越治兵衛事伯父之義一︳御座候問彼方へ差置物読等為仕度候
間被下置候養育拾人扶持之内五人扶持於大坂被成下候ハヽ難有
︵候 処か
︶
可奉存候旨申上候︒役方二而吟味仕□
御国
ーー
而被
成下
候直
段
ーー
メ被
成下
候
□
︱ ︳
□少も御費無御座候︒学文下地も出来候刻雨