• 検索結果がありません。

と鳩山政権の比較から

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "と鳩山政権の比較から"

Copied!
13
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

と鳩山政権の比較から

著者 北村 知史

雑誌名 同志社政策科学院生論集

巻 3

ページ 27‑38

発行年 2014‑01‑10

権利 同志社大学政策学部・総合政策科学研究科政策学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013362

(2)

日米安保条約をめぐる日本の世論の影響

―岸政権と鳩山政権の比較から―

北 村   知 史

概要

 日米安全保障条約は、日本の安全保障政策の 根幹であり、日本の安全保障政策の根幹であり、

日本政府は、日米安全保障体制の意義について、

①米国の軍事力による抑止力を有効に機能させ ることで、日本側の適切な防衛力の保持と合わ せ、日本の安全を確保すること、②日本に駐留 する米軍のプレゼンスによって日本の周辺地域 の平和と安全が確保されていること、そして、

③米国と協力して国際的な安全保障環境の改善 に取り組むことが日本の平和と繁栄をさらに確 かなものになることの三点を指摘している。

 第1章、第1節では日米安保条約の制定とそ の内容の同条約の制定過程を明示した。第2節 では現在に至る日米安保体制の変遷を論じた。

 第2章では日本の世論が日米安保条約をどの ようなものとして見ていたのかその変化を明ら かにした。第2章、第1節の世論の変動期(1948 年−1970年)では1960年の安保改定前には世 論は安保条約に対して、反対の態度を示してい たが、第2節に見る世論の安定期(1971年−

現在)では世論は安保条約に安定した反応を見 せており、変化した事が指摘できる。第3章の 日米安保条約に与えた世論の影響では、ヒルズ マンの同心円モデルを用いて分析を行った。そ の結果、鳩山首相のリーダーシップは岸首相の 強いリーダーシップと比較して機会主義的で あったと指摘した。

 終わりに、日米安保体制には現在でも課題が あるとはいえ、今後の日米の両国間を取り巻く

安全保障上の課題を日米同盟が強固な関係であ ることによって問題を解決することこそが日本 の選択であることを提言した。

はじめに

 日米安全保障条約(以下、日米安保条約と略 す)は、日本の安全保障政策の根幹であり、日 本政府は、日米安全保障体制の意義について、

①米国の軍事力による抑止力を有効に機能させ ることで、日本側の適切な防衛力の保持と合わ せ、日本の安全を確保すること、②日本に駐留 する米軍のプレゼンスによって日本の周辺地域 の平和と安全が確保されていること、そして、

③米国と協力して国際的な安全保障環境の改善 に取り組むことが日本の平和と繁栄をさらに 確かなものにすることの三点を指摘している1。 そのために、日米安保条約では、第5条におい て、日本への武力攻撃があった場合、日米両国 が共同対処を行うことを、そして、第6条にお いて、日本の安全及び極東における国際の平和 と安全のため、米軍のわが国における施設・区 域の使用を認め、 同条に基づき、米国の軍隊を 日本に駐留させることが定められている。

 冷戦崩壊後の現在においても、この日米同盟 はゆるぎないものとして位置づけられているも のの、その歴史においては、1960年代の安保 改定をめぐる国内騒乱や、2009年の民主党政 権の誕生による沖縄の普天間基地移設問題をめ ぐる激しい国内的対立によって、その動揺が生

1 防衛省編『平成25年版日本の防衛』2013年、129-130ページ。

(3)

じた時代がある。前者は、世論の反対を押して 岸政権が安保条約の改定を国会で強行したこと が背景にあり、後者は、世論の期待値を鳩山首 相の最低でも県外の発言により高めたにもかか わらず、結果としてその約束を履行せず、沖縄 県民を中心に世論の強い反発を招いた事例であ る。

 これまで、日本において、世論は政府の政策 決定に様々な面で影響を及ぼしてきた。内政で は、たとえば、消費税の増税は世論の強い反発 によって、歴代政権の命運をかけたものとして 位置づけられてきた。外交においても、岸信介 首相が退陣したのは、安保改定の強行に対する 世論の強い反発によるものであった。鳩山由紀 夫首相の退陣もその直接の原因となったのは、

普天間基地の移設問題をめぐる公約の断念に あったといえるだろう。ニコルソンが指摘する ように、民主主義国家における外交は、究極的 には主権者である国民の意志に従うべきもので あり、民意の支持なしに、政権が勝手に外交政 策や安全保障政策を進めることはできない2。  そこで、本稿では、先ず日米安保条約の歴史 的経緯の概略を述べた後、日米安保条約につい ての世論調査の結果の変遷を見る。そのうえで、

世論が政権の帰趨に大きな影響を与えた岸政権 と鳩山政権において、世論がどのような影響を及 ぼしたかを、ヒルズマンの同心円モデルを用いて 分析を試みる。そのうえで、東日本大震災にお ける米軍のトモダチ作戦を契機に日米同盟に対 する世論がどのように変化し、そのことが、日米 同盟の安定に寄与するかに言及することとする。

1. 日米安保条約の制定過程と現在まで の変遷

1. 1 日米安保条約と改定の経緯

 日米安保条約は第二次世界大戦後の終結後か ら約6年後にアメリカと日本の間で制定された

条約である。1951年に締結されたこの条約は 旧安保条約と呼ばれる。

 第二次世界大戦後の日本社会において安全保 障体制が急務に迫られることとなった。1950 年には朝鮮戦争が発生し、日本に駐留していた 米軍の大半が導入されることになりマッカー サーは警察予備隊の創設を指示した3。  1951年1月25日、ダレス特使と随行員が来 日し、日本政府との交渉に入った。両者はまず 再軍備問題で衝突し、ダレスは再軍備は望まし くないと説明する吉田茂首相に対していらだち を隠さなかった。交渉が行き詰まることを恐れ た日本側は講和条約後に保安隊を発足させた4。  この間の交渉において、日本側は事前協議に おいて条約期限を10年間にするという提案を 行ったものの、米国側に拒絶された。また、旧 日米安保条約の第1条では米軍の駐留を日本が 許与することを明記する一方で、米軍が日本を 防衛する義務はなかった5。また、内乱条項にお いても第1条の後半部に外部の国による教唆ま たは干渉により日本での内乱が生じた場合には、

米軍が出動できると定められていた6。当時の時 代状況から、日本国内では、労働組合の反政府 運動が高まり、共産党主導による火炎瓶事件が 発生し、外国勢力が介入する可能性を否定でき ない状況にあり、加えて朝鮮戦争を目の当たり にしていたことがこの内乱条項の背景にあった7。  1951年9月に日米両政府の間で日米安全保 障条約が調印され、1952年4月28日、日米安 全保障条約が発効し 、これにより、日本は講 和条約による国際社会への復帰とともに、安全 保障においてアメリカの庇護下におかれる現在 の体制が発足した。しかし、この講和条約のも とにおいても、沖縄や小笠原諸島は依然として、

米国の統治下に置かれることとなり、沖縄が本 土に復帰するのは、1972年の沖縄返還協定を 待たねばならなかった。こうした沖縄の特殊な 事情が、在日米軍の基地面積の7割以上が沖縄 に集中するという今日の沖縄米軍基地問題の根 源となったのである。

2 H・ニコルソン(斎藤眞・深谷満雄訳)『外交』東京大学出版会、1968年、76ページ。

3 草野厚『日米安保とは何か』PHP研究所、1999年、33ページ。

4 五百旗頭真編『戦後日本外交史』有斐閣、2007年、70ページ。

5 草野・前掲書34ページ。

636ページ。

741ページ。

(4)

 しかし、この旧安保条約の最大の問題は、そ の対等性の問題であった。内乱条項を削除する ことは独立を回復した日本には不可欠であっ た。また、旧安保条約では米軍の駐留権限が明 記された一方、米軍の日本の防衛義務は明確に 規定されていなかった8。その一方で、1958年 に発生した台湾海峡危機によって、日本国内に、

日本が米軍の戦争に巻き込まれるのではないか との懸念が広まった。その歯止めとして、在日 米軍の域外使用を事前協議をとすることが検討 課題となっていた。旧安保条約改定の動きは反 基地闘争で沸き起こった条約破棄の運動によっ ても促進された。米軍試射場の無期限使用に反 対した村民と警官が衝突した石川県の内灘事件

(1953年)、東京の立川基地拡張をめぐり地元 住民が物理的抵抗を行った砂川事件(1955年)

などにより、国民の反米感情を刺激することと なった9。1954年には自衛隊が発足し、1956年 の『経済白書』では「もはや戦後は終わった」

と書かれたように、第二次世界大戦後の日本経 済は朝鮮戦争特需をきっかけにして著しく成長 していた10。旧日米安保条約を非対等なものか ら、対等な条約にするための安保改定の必要性 が国内の各方面において出てきたのである。

 安保条約の改定交渉はまず、鳩山内閣の1955 年8月、重光外相とダレス国務長官との間で日 本側が改定を持ち出したが、一部この段階では、

アメリカ側によって拒否されている11。1957年 に岸信介が首相に就任すると、片務的な性格の ある安保条約を改正することを表明し、アメリ カ側との具体的な交渉を始めることとなった。

 1957年6月、岸首相はアイゼンハワー、ダ レスと会談し、「1951年の安全保障条約が本質 的に暫定的なものとして作成されたものであ り、そのままの形で永久に存続することを意図 したものではないという了解を確認した」との 共同宣言が行われ12、アメリカ側の安保改定に

同意を得られることとなった。

 そして、1958年10月4日に日米間で安保改 定交渉が正式にスタートすることとなった。し かし、この安保改定の交渉と同時期に警職法改 正案が国会に提出されると、国民の間に、岸首 相に対して、復古・反動主義者というイメージ が強まることとなり、安保改定交渉にも影を落 とすこととなった。改定の内容がいかなるもの かにもかかわらず、岸がやるから危険であると いった印象論が力を持つようになった13。  安保改定交渉は岸内閣の藤山外相とマッカー サー大使の間で行われ、マッカーサー大使はア メリカ側から最初の草案を出すことを主張し、

交渉はアメリカ政府の草案をたたき台にして開 始された。しかし、警職法改正問題にともなう 国内政治の紛糾のため、交渉は中断した14。中 断されていた条約改定交渉は1959年4月13日 に再開され、調印できる段階まで至ったが、日 本政府は、国会戦術と国会日程を理由にして、

調印の先延ばしを申し出た15。調印延期の後、

詰めの話し合いが続けられた。

 そして、3年にわたる米国との交渉により 1960年1月にワシントンで調印され、日本側 が求めていた米軍の対日防衛義務は第5条に明 記され、日本側も在日米軍の防衛に責任を持つ ことになった。事前協議については条約には盛 り込まれなかったが、交換公文に入った。また、

旧安保条約にあった内乱条項が廃止された16。  しかし、1960年5月の国会における条約改 定の強行採決後、国会議事堂の周辺では学生、

労働者20万人による大規模な安保反対運動が 発生した。6月10日には、アイゼンハワー大 統領の秘書が大統領の訪日の打ち合わせに来日 した際に、デモ隊に阻まれ、ヘリコプターで脱 出する騒ぎにまでなった。そして、6月15日 には全学連のデモ隊が国会に突入し、女子学生 が警察との衝突により犠牲となった17。この安

840ページ。

941ページ。

10 41ページ。

11 西原正・土山實男監修『日米同盟再考―知っておきたい100の論点―』亜紀書房、2010年、70ページ。

12 細谷千博・有賀貞・石井修・佐々木卓也編『日米関係資料集 1945−97』東京大学出版会、1999年、399ページ。

13 五百旗頭・前掲書101ページ。

14 坂元一哉『日米同盟の絆』有斐閣、2000年、210ページ。

15 211ページ。

16 草野・前掲書42ページ。

17 43ページ。

(5)

保騒動は「反岸」の運動の要素が強く、岸に代 表するとおもわれた戦前の国家主義に反対する 運動でもあった。岸が退陣すると、安保反対運 動は急速に冷めていくこととなった18。  改定された新安保条約は、1951年に締結さ れた旧安保条約の不備をさまざまな点で是正す るものであった。新条約はアメリカの日本防衛 義務を明文化し、条約に期限を付け、内乱条項 は削除され、日米の経済協力関係が謳われた19。 しかし、新安保条約は締結されたものの基本的 に日本がアメリカに米軍基地となる土地や施設 を提供し、アメリカが日本を防衛するという旧 安保条約の片務的な構造を抜本的に変えるもの ではなかった。また、憲法上の制約から、日本 側は海外派兵の義務を負うことはなかった20

1. 2 1970 年代以降の変遷

 新安保条約では、有効期限が改定され、新条 約発効の10年後にあたる1970年には第10条 に基づき、両国は条約を終了する意思があると きは、通告できることになっていた。しかし、

1970年においては、日米両国は、ともに通告を 行わず、自動的に延長されることとなった21。自 動延長の前後には学生運動を中心に反対闘争が 激化したが、1960年の安保騒動のような知識 人や世論の支持はなく、日米安保条約は1970 年に自動延長され、現在まで日米安保条約は条 文の改正無しで、維持された状況となっている。

 しかし、現行の日米安保条約では、日米両国 の共同行動を宣言しているにもかかわらず、有 事が発生したときの、自衛隊と米軍の協力の方 法については、定められていなかった。また、

条約が締結されて以降、日米間の具体的な共同 防衛の議論はなかった。国内の世論の強い抵抗 により、そのような議論を行う国内的な余地が なかったともいえよう。しかし、1970年代に なるとニクソン・ショックやベトナム戦争にお

けるサイゴン陥落が発生し22、日本を取り巻く 環境は大きく変化した。

 このような中、1975年8月、三木・フォー ド会談において、日米安保条約の円滑で効果的 な運用のための協議が提案され、その後の坂田・ シュレンジャー会談で、防衛協力機構の設置が 決定した。1976年7月、日米安全保障協議委 員会の下に日米防衛協力小委員会が設置され、

8回の会合を経て、1978年11月に日米安保条 約に基づく日米協力を具体化するための「日米 防衛協力のための指針(ガイドライン)」が制 定された23

 また、現行日米安保条約の取り決めに関して、

アメリカ側が負担していた基地の労務費などの いわゆる「思いやり予算」を日本側が負担する こととなった24

 1980年代には、レーガン政権と中曽根政権 のもとで、日米同盟はより強化されたが、アメ リカから日本に対する同盟への「ただ乗り論」

の批判が強くなっていくこととなった。このよ うな中、1990年の夏に湾岸危機が勃発し、ア メリカを中心とする国際社会は早期の行動をと ろうとしたが、日本側は国内政局や世論の消極 性から自衛隊の派遣に躊躇し、結果的に、経済 的な援助に終始することとなった。このような 日本の対応はアメリカをはじめ国際社会から批 判を受けることとなり、日本国内でも政府の対 応が批判された25

 湾岸戦争での対応を批判された日本政府は、

国際安全保障の分野で貢献する必要性を認識 し、1992年6月にはPKO協力法を可決、その 3か月後にはカンボジアにおけるPKOへの参 加を実現することとなった。その後、自衛隊は 1994年にルワンダの難民救援、1996年に中東 ゴラン高原、1999年に東ティモールのPKOや 救援活動に参加し、国際的なプレゼンスを徐々 に高めてゆくこととなった26

 一方で、1989年の冷戦終焉により、アメリカは、

18 五百旗頭・前掲書102ページ。

19 102ページ。

20 103ページ。

21 草野・前掲書73ページ。

22 西原・土山・前掲書86ページ。

23 86ページ。

24 草野・前掲書66ページ。

25 ロバートエルドリッヂ「国家安全保障─日米同盟の歴史と現在」高阪章編『国際公共政策学入門』大阪大学出版会、2008年、223ページ。

26 223ページ。

(6)

ヨーロッパやアジアから米軍兵力を削減しよう とした。しかし、北東アジアでは、全体主義体 制、独裁体制や共産主義といった政治体制が存 在し、領土問題などの対立も残っており、不安 定な地域であった。それを象徴するようにこの 地域では1993年から94年にかけての北朝鮮の 核開発疑惑、1995年から96年にかけての中国 の台湾に対する軍事的な圧力、1998年には北朝 鮮によるミサイル発射という危機が発生した27。  このような状況に対応するために1997年に は、1978年の日米ガイドラインが一新され新 指針が制定された。また、前年の1996年には 日米両国の首脳が「21世紀にむけての同盟」

と呼ばれる共同声明を日本で発表し、日米両国 は日米安保条約が冷戦終焉後も重要な役割を果 たしていることを再確認した28

 1990年代までは日米同盟は北東アジアを対 象とするものであったが、2001年の9月11日 のアメリカでの同時多発テロ事件をきっかけ に、世界規模の同盟へと変化を遂げる。

 2001年の同時多発テロ以降、アメリカなど が各地でテロ活動をしているアルカイダが潜伏 していたアフガニスタンを攻撃した際、日本は 参加しなかったものの、政治的に支持すると同 時に、その後のインド洋の燃料補給などを行っ た。日本は「ショー・ザ・フラグ(旗を見せろ)」

のアメリカの期待に応え、約10年前の湾岸戦 争時に日米間で生じた問題が2001年の9.11事 件の後には生じることはなかった29

 また、イラク戦争において2004年から2006 年までイラク復興のために自衛隊を派遣した。

アメリカ、イギリスなどのイラクの進攻の是非 をめぐって、国内外に大きな議論はあったが、

日本政府は支持を表明している30。このように、

同時多発テロ後も日本の国際貢献は、後方支援 や復興活動などの非軍事的貢献に限定されてい る31

 一方で、沖縄では、1995年に発生した米海 兵隊員による少女暴行事件や、普天間飛行基地 をめぐる事故などの頻発によって、米軍に対す る反基地闘争がかつてなく盛り上がった。そう

した中で、2009年の衆議院選挙で民主党を中 心とした政権が発足し、鳩山内閣が誕生した。

鳩山由紀夫首相は政権発足後に沖縄県の普天間 基地を最低でも県外に移設することを表明し た。しかし、政府内の意見は一致することなく、

鳩山首相自身が移設先として徳之島などの候補 地を念頭に地元の関係者と交渉したものの、移 設の受け入れは拒否された。こうした普天間基 地の移設の失敗により、鳩山首相は責任を取っ て辞任をすることとなった。その一方で、2011 年の3月11日の東日本大震災以後、アメリカ 政府はトモダチ作戦として被災地にアメリカ軍 を派遣し、日米同盟のきずなが国民レベルで認 識を高めた。

 2012年の自民党政権への復帰は、2004年か ら始まったミサイル防衛を日米の共同運用の観 点から強化することとなり、第二次安倍政権に おける集団的自衛権の行使容認の議論は、片務 的とされた日本のアメリカに対する防衛義務を 双務的にするものでもある。もっとも、このよ うな憲法や現行日米安保条約の根幹にかかわる 実質的な修正については、世論の支持がなけれ ば到底実現できるものではない。

2. 日本の世論から見る日米安保条約、

世論の状況

 ここまで、日米安全保障条約の歴史とその運 用過程の概観を見てきたが、日本の世論は日米 安全保障条約をどのように見ていたであろう か。本稿では、1948年からの世論調査をもと にして見てゆくことにしたい。

2. 1 世論の変動期 1948 年− 1970 年

 1948年から1970年の時期の時代背景は1951 年に日米安保条約が締結され、1960年には安 保条約は改定された。安保騒動の後、池田政権 になり、日本は高度経済成長の時代を迎えるこ ととなった。

27 224ページ。

28 224ページ。

29 224ページ。

30 225ページ。

31 224ページ。

(7)

 まず、1951年の安保条約が締結されている 前後での世論調査を見てみたい。日米安保条約 に関連する世論調査は条約が締結される前の 1948年に実施されている。1948年の11月の「吉 田内閣をどう思う」という見出しで世論調査が なされ、質問の内容は5つあり第1問から4問 までは選挙の内容が質問の項目であった32。そ の中の「次のような政治問題のうちあなたはど れに一番関心を持つか」という項目において講 和会議が一番の関心事に挙げられており33、講 和会議には人々は関心があったことはうかがえ るが、日米安保条約についてはこの時点では全 く触れられていない。国民は当時の政局と講和 会議の問題の二つが多くの関心を持っていたも のといえる。特に講和問題についての関心が大 きな関心事であった。

 1951年9月8日にアメリカのサンフランシ スコで日米安全保障条約、正式には日本国とア メリカ合衆国との間の安全保障条約が締結され た。安保条約が締結された1951年はこれまで と比較して世論調査が行われており、1948年 から1950年までの調査では、国防軍、講和と いう言葉で調査がされていたが、1951年から日 米安全保障条約に関する調査が行われている。

 1951年、10月の世論調査で「こんどの臨時 国会で日米安全保障条約の承認が行われている といわれますが、あなたはこれをどうおもいま

すか」という質問内容で、調査で日米安全保 障条約という言葉が初めて世論調査で出てき ている(図1)。回答は①すぐに承認すべきだ 33.5%②先に延ばして慎重にすべきだ25.4%③ 新国会で承認すべきだ6.6%④承認すべきでな い2.8%⑤わからない31.7%であるが、この調 査で①のすぐに承認すべきだの33.5%、②先に 延ばして慎重にすべきだ25.4%、⑤わからない

31.7%の3つの考えが顕著ではあるが、当時の

世論は特にわからない、もう少し正確にいえば わかっていない国民が大半だったのではないか とこの結果を見ることが出来る34。そして、日 米安保条約よりも講和条約の方が当時の国民の 関心事であることがわかる。

 また、「日米安全保障条約の締結で日本の安 全が保たれると思いますか、それともかえって 危険になると思いますか」という質問では、① 安全が保たれる31.8%②危険にする15.8%③ わからない52.4%となっている。この質問で は③のわからない52.4%が一番多く回答され ており、大半の国民は日米安保条約が締結され たからといってどのようになるのか予想する事 が出来ないという見方が出来る。また、日米安 保条約というものを知らないし、分かっていな い人々も多く存在したのではないだろうか。む しろ、言葉は知っているが分かっていない人々 が多数であったのではないかと思われる。

32『読売新聞』1948 1113日 第一問は「吉田内閣をどう思う」、第二問は「政局を安定させるにはどうしたらよいか」、第三問は「解 散したら何党候補に投票するか」、第四問「あなたの求める政権はどんな政権か」である。

33 それ以外の関心事では疑惑事件、行政関連などがある。

34『読売新聞』1951 10月8日

33.5 25.4

6.6 2.8

31.7 すぐに承認すべき

先に延ばして慎重にすべき 新国会で承認すべき 承認すべきではない わからない

図1 日米安全保障条約の承認について

『読売新聞』 1951108日より 筆者作成

(8)

 岸内閣が発足した1957年からは安保に関連 する調査は増加している。1959年の10月4日 の調査では「安保改定をどう見るか」であり、

日米安全保障条約のそのものの全体像を見るこ とが出来る調査となっている。「それではしめく くりとしておたずねしますが日米安全保障条約 は必要だと思いますか、必要でないと思います か。必要だとすれば政府の改定案に満足ですか、

不満足ですか」という質問内容に対し、回答結 果は①必要46%(内訳 改定案に満足12%、改 定案に不満足13%、改定案を知らない21%)② 不必要12%③わからない42%である35(図2)。  1959年に行われた調査では日米安保条約の 改定に対して否定的ではなかったが、安保が改 定される事になった1960年では日米安保条約 はどのように見られていたのか。

 1960年4月の「安保条約をどうみる」の調 査では1959年の10月の世論調査と比較して変 化を示すものとなっている。「国会が安保条約 を承認することを望みますか、しないことを望 みますか」が質問内容に対し、結果は①承認 することを望む21%②承認しないことを望む 28%③意見なし、わからない51%である(図 3)。全体として「わからない」が過半数を占 めているが36、特筆するべきは「承認しないこ とを望む」が「承認することを望む」よりも上 回っている。これは1959年の10月の調査の 時と比較して変化をしていることが注目され

る。この変化は当時、反対派によるデモ行進が 行われるなど世論は安保騒動に関心を持ち、そ して岸首相自身の手順のまずさ、岸信介自身の イメージが大きな側面になったものとおもわれ る。また、「岸内閣は退陣すべきだという意見 と引き続きやってゆくべきだという意見と両方 ありますが、あなたはどう思いますか」に対し 回答は①すぐ退陣するべきだ26%②安全保障 条約が一段落したら退陣すべきだ26%③もっ と続けてやるべきだ16%④意見なし、わから ない32%である。この結果は反岸の傾向がう かがわれ、安保に反対というよりも岸内閣に、

または岸信介本人に反対している人々が安保騒 動の一つの要因であったと思われる。

 1960年の安保改定後、政権は池田勇人、佐 藤栄作へと変遷した。池田政権は所得倍増政策 を行い、経済優先の政権であった。佐藤政権は 沖縄返還交渉を掲げ、日米関係は安定遂行をし た。1968年4月22日の「日本の防衛 国民の 考え」の調査があり37、日米安保条約に関する 調査がされている(図4)。

 「日本はいまアメリカと安保条約を結んでい ます。この条約は日本の安全に役立っていると 思いますか」に対し回答結果は①大いに役立っ ている12%②少しは役立っている43%③役立っ ていない17%④どちらともいえない10%⑤そ の他1%⑥わからない16%⑦無回答1%とい う結果になっている。過半数の人々が役立って

35『読売新聞』1959 10月4日

36『読売新聞』1960 年4月3日

37『読売新聞』1968 年4月22

46

12

わからない 42 不必要 必要

図2 日米安保条約は必要か

『読売新聞』 1959104日より 筆者作成

(9)

いると答えている。結果としては55%の人々が 役に立っていると答えている。多くの世論が役 に立っていると答える結果となっている。

 1970年は安保の自動延長の期限が切れる年 であり、結果として日本政府は日米安保条約は 破棄されることなく継続の道を取るが1970年

承認することを望む

承認しないことを望む

わからない

21

28

51

図3 国会で安保条約を承認することを望むか

『読売新聞』1960年4月3日より 筆者作成

役立っていない 役立っている

どちらともいえない その他 わからない

55 17

10 1

16

図4 日米安保条約は日本の安全に役立っているか

『読売新聞』1968年4月22日より 筆者作成

わからない 不満

満足 41.9

27.6

30.5

図5 日米安保の自動延長に満足か

『読売新聞』1970年5月31日より 筆者作成

(10)

5月31日の調査で、「安保条約は来月(6月)

22日に期限が切れて、自動的に延長がされる 予定です。この自動延長に満足ですか」に対 し①大いに満足9.6%②まあまあ満足32.3%③ やや不満16.6%④大いに不満11.0%⑤わから ない30.5%という結果で、約40%の人々が満 足している結果となっている38(図5)。以上、

1948年から1970年の世論調査の結果を見てき たが、世論は1950年台は安保条約よりも講和 に関心があり、1960年前後の岸内閣の時は世 論は安保に反対ではなく、反岸の傾向を示した が、安保条約は改定され、1970年の自動延長 の時には世論は安保条約に満足する結果となっ ている。世論において日米安保に大きな関心を いだいていたのは1960年の改訂前後がピーク であったといえよう。

2. 2 世論の安定期 1971 年―現在

 1970年に安保条約が日米間の間で自動延長 してからも、世論の安保条約に対するイメージ は肯定的なものになった。1972年には沖縄が 日本に返還されることとなり、これにより日本 はアメリカからの独立が出来たといえよう。し かし、沖縄返還と同時に沖縄本土には多くの米 軍基地が存在し、約75%が沖縄に駐留してい る結果となっている。それは、現在でも大きな 問題であり、日本の安全保障を担っているとい う側面と、沖縄の人々を犠牲にしているという

ジレンマも抱えている。これは現在でも日本の 大きな問題であり、2009年当時の民主党の鳩 山政権でもいわゆる普天間基地問題により、政 権は辞任に至った。

 1970年の自動延長以降においても、世論は 日米安保条約に対して肯定的な見方が多く、世 論の安定期とみることができる。また、自動延 長された後の1971年前後は日本は高度経済成 長期であり、世論は自動延長後、日米安保条約 にそれほど関心を示すことはなかったものと思 われる。

 1980年代では中曽根康弘政権のいわゆる「ロ ン・ヤス」関係となり、日米関係は良好な関係 を保ち、日米安保条約については役立っている と考えている国民は70%を超えるものとなっ ている。

 1991年の湾岸危機・湾岸戦争により日本政 府は多国籍軍に対し、110億ドルの財政支援を 行ったものの、湾岸戦争後のニューヨークタイ ムズのクウェートの感謝広告には日本の名前は なく、当時の海部俊樹政権の対応のまずさも あって1991年は若干低下したが、1991年以降 の60%台から2000年代以降は70%台になり、

年を追って微増している結果となっている(図 6)。それは、2003年のイラク戦争においても 同様であった。最近の2012年の調査では前年 の東日本大震災での被災地のアメリカ軍による トモダチ作戦の任務の遂行もあって80%が役 立っていると答えている。

38『読売新聞』1970 年5月31

図6 日米安全保障条約についての考え方

内閣総理大臣官房広報室『自衛隊・防衛問題に関する世論調査』20121月より 筆者作成

(11)

 日米安保条約が1960年に改定され、1970年 に自動延長された後も世論は一貫して肯定的な 見方をしていたといえる。

3. 日米安保条約に与えた世論の影響─

同心円モデルによる分析

 世論と政策決定の関係をめぐっては、有権者 の選好が政府の政策決定に及ぼした影響に関す る理論モデルがこれまで提示されてきた。ここ では、1987年にヒルズマンが大統領・スタッフ・ 政治責任者・議会・官僚を第一の円に、第二の 円に利益団体とメディア、第三の円に世論と有 権者を位置づけ、政策決定に対する影響力の度 合いを中心からの距離で示した同心円モデルを 用いることとする39。信田はこのヒルズマンの モデルを日本の事例に置き換え、日本の首相を 中心円の核集団として位置づけ、その外環に位 置するものとして、官邸、内閣官房を置き、外 側の層に含まれるのが政府全体と自民党、さら に外側の層をなすのが野党、そして、同心円の 周りにあるのが圧力団体やメディアで、一番外 側の層が国民と世論と位置付けた40。政策過程 は、こうした政権の中枢と関係するアクターの 距離によってその影響力が測定されるが、日米 安保条約をめぐる政策決定過程においては、特 に、もっとも外環に位置する世論の影響力は無 視できない。議院内閣制の日本では、世論の支 持の動向は、国政選挙における与党の勝敗に直 結し、首相のリーダーシップを大きく拘束する からである。以下、この同心円モデルを用いて 岸政権の安保条約の制定過程の分析と鳩山政権 における普天間基地移設問題の分析を試みる。

 まず、岸政権における安保改定でリーダー シップをとったのは、岸首相自身である。岸は、

アメリカ側との交渉に腹心の藤山外相を充て、

みずからもマッカーサー駐日大使や、アイゼン ハワー大統領との会談で直接交渉に関与した。

外務省には、条約の修正なしで、米国の対日防 衛義務をアメリカ側に求める外務省案があった ものの、岸首相は条約の全面改正案を首相案と

して通した。その結果、共同防衛の範囲を日本 本土に限定し、米軍基地については日本も防衛 義務を負う第5条と極東の安全のために在日米 軍基地の使用を許可して双務性を持たせた第6 条に切り分けて、日米双方の合意につなげた。

その半面で、国会の外では、安保条約反対闘争 が激化し、同条約改定案は国会を通過したもの の、岸首相は、アイゼンハワー大統領の訪日を 断念し、退陣を余儀なくされた。世論調査では、

岸首相により安保改定が表明がされた1959年 までは改定についての評価はむしろ高かった。

しかし、岸自身の強行的な手法に対する批判も あって、1960年には世論は安保改定に反対す る意見が多くなり、最終的には、政権退陣に追 い込まれた。これは同心円モデルにおいて首相 が政策決定の中核にあったものの、外延部に位 置する世論が野党をバックアップする圧力装置 となって、首相が辞任をするという結果となっ たといえる(図7)。もっとも、この岸の決断は、

のちの日米同盟を冷戦下においてゆるぎないも のにし、戦後の日本の繁栄の礎ともなる功績を 記すものとなったといえよう。

 これに対して、対称を示したのは、普天間基 地移設問題をめぐる鳩山首相の姿勢であった。

鳩山首相は普天間問題において当初は2009年 内に移設を決定と表明したものの、年内先送り を表明した。これにより、支持率は発足当初か ら次第に低下してゆくこととなった。また、機 会主義的であり、流動的な行動をとり、米国側 の圧力と地元沖縄の世論の板ばさみになってい た。そして、移設先の候補地である徳之島など との交渉も移設先決定の直前にされたものの拒 絶され、移設先の選定に失敗し、自民党政権時 の辺野古移設案に回帰することとなってしまっ た。また、鳩山政権では普天間基地の地元であ る沖縄の世論の影響力が強く、連立関係にあっ た社民党の力も大きかった。地元世論の力が強 く、社民党の影響力も強い中、鳩山首相のリー ダーシップは発揮されることなく、世論は次第 に鳩山政権を見はなすこととなった。鳩山政権 の同心円モデルでは鳩山首相自身が中核を成し ておらず、地元世論、連立与党であった社民党

39 Roger Hilsman, The Politics of Policy Making in Defense and Foreign Affairs: Conceptual Models and Bureaucratic Politics, Englewood Cliffs, N.J.:

Prentice Hall, 1987, pp.104-267.

40 信田智人『冷戦後の日本外交―安全保障政策の国内政治過程』ミネルヴァ書房、2006年、61-62ページ。

(12)

が過剰に影響力を行使することで、鳩山首相は リーダーシップが発揮できなかったといえる

(図8)。リーダーシップが発揮できない鳩山首 相に対して世論は鳩山政権の支持をしないとい う評価を下し、辞任することとなった。この様 な背景から鳩山政権は鳩山首相のリーダーシッ プの手法のまずさに加えて、同心円モデルにお いて、地元世論や連立与党の力が大きく作用し たものであるということができよう。

 岸政権は強行採決などにより国民の世論の外 圧が高まって辞任することとなったが、鳩山政

権は機会主義的で受動的なリーダーシップを 取ったことにより、地元沖縄の世論の力と連 立パートナーであった社民党の影響力により、

舵を取ることが出来なくなり支持率も低下し、

辞任することとなった41。鳩山首相自身のリー ダーシップは岸首相の強いリーダーシップと比 較して受動的で機会主義的であったことが指摘 できよう。このように、両者の政権における政 策決定の結果は異なるものの、政策過程におい て外環に位置する世論が、政権運営において与 える影響力は強いものといえる。

終わりに

 これまで日米安保条約の制定経緯とその後の 運用過程を概観し、その動揺期である岸政権と 鳩山政権における世論の影響力を見てきた。日 米安保条約の現状としては、米軍基地が集中す る沖縄の負担が大きいことである。負担が多大 であっても世論が肯定的なら良いものの、地元 が否定的な反応を示していることは日米安保条 約を考える上での重要な課題である。

 しかし、東アジア情勢の不安定な状況も日米 安保条約の課題である。北朝鮮情勢や尖閣諸島 は猶予できる問題ではない、少しでも舵を取り 間違えたら有事に発生する蓋然性は小さくな い。沖縄の世論は米軍基地に対しては好意的で はないが、現在の北朝鮮情勢等を見ると在日米 軍そのものが撤退をすることは、日米両政府に とっても、到底肯定できるものではない。そこ に、地元世論と安全保障とのジレンマがあると いえる。

 こうした基地があるがゆえの弊害がある一方 で、東日本大震災におけるトモダチ作戦を契機 に日米安保条約が役に立っているとする世論は 約80%を超えているのも事実である42(図9)。

災害派遣により日米安保体制の存在が役に立 ち、それにより世論が好意的な反応を示したと いうのは新たな日米安保観であるといえるだろ う。

41 鳩山内閣の世論の支持率は政権発足こそ約70%と高かったものの、普天間の移設の年内先送り、移設先の迷走、受け入れ先の会談の失 敗なども重なって支持率は発足当時から上昇することはなく、20%台に低下し、辞任に至った。

42 米軍が遂行したトモダチ作戦の世論の反応は79.2%が成果をあげたと示しており、また、2012年の内閣府の調査でも日米安保条約が 81.2%役立っていると答えている。内閣府「自衛隊・防衛問題に関する世論調査」内閣府大臣官房政府広報室、2012 年1月

図7 岸政権の安全保障政策決定過程

図8 鳩山政権の安全保障政策決定過程

࿾ర਎⺰

ㅪ┙ਈౄ

࿶ജ࿅૕

᡽ᐭ䊶᳃ਥౄ

䊜䊂䉞䉝 㚂⋧

⥄᳃ౄ

࿾ర਎⺰䋾ㅪ┙ਈౄ䋾࿶ജ࿅૕䋾᡽ᐭ䊶᳃ਥౄ䋾䊜䊂䉞䉝䋾㚂⋧䋾⥄᳃ౄ

(13)

 日米安保体制は現在でも課題があるとはい え、1951年から途切れることなく、継続的に 締結されている条約である。そして、時代によ り冷戦時のソ連の脅威、冷戦後の同時多発テロ や北朝鮮情勢などの懸念材料はあったものの安 定して継続している。今後の様々な課題はあっ ても、日米の両国間を取り巻く安全保障上の課 題に対して、日米同盟が強固な関係であること によって問題を解決することこそが日本の選択 であるといえよう。

参考文献

全く成果をあげなかった 成果をあげなかった 成果をあげた

0.8 15.5

79.2

図9 米軍の「トモダチ」作戦に対する印象

内閣総理大臣官房広報室『自衛隊・防衛問題に関する世論調査』20121月より 筆者作成

五百旗頭真編 『戦後日本外交史』有斐閣、2007

外務省「東日本大震災に係る米軍による支援(トモダチ作戦)」

2011年8月

 www.mofa.go.jp/mofaj/saigai/pdfs/operation_tomodachi.pdf(2013 11月7日確認)

草野厚『日米安保とは何か』PHP研究所、1999 坂元一哉『日米同盟の絆』有斐閣、2000

信田智人『冷戦後の日本外交―安全保障政策の国内政治過程』

ミネルヴァ書房、2006年

内閣府「自衛隊・防衛問題に関する世論調査」内閣府大臣官房 政府広報室、2012年1月

 http://www8.cao.go.jp/survey/h23/h23-bouei/2-4.html(201311 月7日確認)

西原正・土山實男監修 『日米同盟再考―知っておきたい100 論点―』亜紀書房、2010

H・ニコルソン(斎藤眞、深谷満雄訳)『外交』東京大学出版会、

1968

Hilsman,R. The Politics of Policy Making in Defense and Foreign Affairs: Conceptual Models and Bureaucratic Politics, Englewood Cliffs, N.J.: Prentice Hall, 1987.

防衛省編『平成25年度版 日本の防衛』防衛省、2013 細谷千博・有賀貞・石井修・佐々木卓也編『日米関係資料集 

1945−97』東京大学出版会、1999

ロバートエルドリッヂ「国家安全保障―日米同盟の歴史と現在」

高阪章編『国際公共政策学入門』大阪大学出版会、2008年

参照

関連したドキュメント

The Lahu is not a famous ethnic group in China because of its mediocre status as the 24 th largest population in 56 ethnic groups and lack of specific original “culture.” But

 The present study was performed to determine items required in mother and child health checkups performed at different types of facility, and problems in mother and child health

(使用回数が増える)。現代であれば、中央銀行 券以外に貸付を通じた預金通貨の発行がある

Standard domino tableaux have already been considered by many authors [33], [6], [34], [8], [1], but, to the best of our knowledge, the expression of the

I., 1973. Linear Algebra Appl. Theorems of Katznelson–Tzafriri type for contractions. The core function of submodules over the bidisk. Banach spaces of analytic functions.

“Breuil-M´ezard conjecture and modularity lifting for potentially semistable deformations after

[Mag3] , Painlev´ e-type differential equations for the recurrence coefficients of semi- classical orthogonal polynomials, J. Zaslavsky , Asymptotic expansions of ratios of

(( , ((( ─ (0 (Pierson, Paul (2004) Politics in Time: History, Institutions, and Social Analysis, Princeton