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The Feeling that Accomplishes Reconciliation : Nature and Skill in Wakai

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The Feeling that Accomplishes Reconciliation : Nature and Skill in Wakai

SHIBATA Shoji

Wakai(Reconciliation) is a work based on the author Shiga Noaya’s reconciliation with his father in 1917, following a long period of antagonism since his youth. Although Wakai has been seen as an archetypical Japanese Shishosetsu (I Novel), it clearly and objectively describes the process of the change in the hero’s feelings that ultimately results in reconciliation. This description reveals the universal story of a man who becomes more accepting of others after attaining social maturity.

The persuasive description of the hero’s transformation in Wakai illustrates the author’s supreme skill as a novelist. The protagonist, a novelist like the author himself, comes to reconcile with his father by realizing that his previously held antagonism was nonsensical through his writing of a novel with the same theme. That is, by objectifying the antagonistic relationship with his father, the hero recognizes that any objective reasons for a continuing the strained relationship had already disappeared. Moreover, the birth of his second daughter one year after the death of his first daughter makes the hero realize the triviality of the problem.

The scene of reconciliation between the hero and his father in the final part of the work is touching because the annihilation of the antagonistic feeling of the hero is described through his life experiences and actions as novelist in minutiae. Further, it must not be forgotten that the trend of Seimei-shugi (Vitalism), which became popular during the Taisho era, underpins this work.

(3)

この重なりにも暗示されている。

13解と悸動な常異に「出描の面場の和)は郎哲辻和に、うよたげ挙で節1熱

い涙」を覚えたと述べており、また小林秀雄は『志賀直哉論』(『改造』

一九三八・二)で、「同じところで感動し、同じ性質の涙が出る」と語っ

ている。なお小林はここで「志賀氏の小説の骨組は、非常に簡明なもので、

描かれた世界は、いつもそれを直かに眺めて得心する作者の主観を通じ

て整然と現れてゐる」と述べているが、一見「非常に簡明」に見える志

賀の叙述が実は周到な技巧をはらんでいることは小論で見てきたとおり

である。

14繞著原三、一九一社、北南訳、石谷)大(』命運と慧智は『用引は

一九〇五)による。菊田茂男「志賀直哉とメーテルリンク――調和的精

神の形成についての序説」(『文芸研究』第

49集、一九六五・二)によれば、

メーテルリンクの日本への紹介を最初に手がけたのは上田敏であり、志

賀は武者小路とともに上田を通してメーテルリンクの文学と思想を知っ

たようである。

15)『白樺』のロダン特集は明治四三年(一九一〇)一一月号に組まれている。

執筆者は武者小路、有島、柳といった同人に加えて、高村光太郎、永井荷風、

木下杢太郎、姉崎正治らが寄稿しているが、志賀は執筆していない。

志賀直哉の作品の引用はすべて『志賀直哉全集』(岩波書店、

一九七四~七五)による。なお引用に際して旧字体は新字体

に改めている。

(4)

性の抑圧による「孤立化過程」が「鏡像的なわたしから社会的なわたし への反転にはじまるパラノイア性の自己疎外(aliénation paranoïaque)を

準備するものだとします」と述べ、「父の名」を受け容れ、自己を社会化

する過程で「パラノイア性の自己疎外」すなわち去勢がともなうとして

いる。

(3)フロイトのもとで学んだ古澤平作は一九三二年にフロイト自身に、「罪

意識の二種」という表題をもつ論文を提出し、そこで『教行信証』で語

られる阿闍世の物語を紹介した。その後小此木啓吾が古澤の着想を継承、

発展させる形で、日本人における母の存在の大きさを主題化する「阿闍

世コンプレックス」の理論を『日本人の阿闍世コンプレックス』(中央公

論社、一九八二)『エディプスと阿闍世』(青土社、一九九一)などで展

開していった。なお古澤に関する記述はこれらの小此木の著書による。

(4)山口直孝「『和解』の表現空間」(関西学院大学『日本文藝研究』第四四

巻第三号、一九九二・一〇)。

(5)本多秋五は『志賀直哉』(上下、岩波新書、一九九〇)で、大正三年(一九一四)

に直哉が「衣食に困らないだけの金」(『くもり日』『新潮』一九二七・一)

を貰って家を出た段階で、父直温は息子の職業選択を許容し、さらに『和

解』のなかにも現れる、大正四年(一九一五)春にあった、京都に住ん

でいる直哉のもとに父が「和ぎを作る目的」(『和解』)をもって訪れた出

来事をもって「不和対立の壁であった現実問題はすでに解消している」

と述べている。本多がいうように、和解として意味づけられる現実的な

段階はそれまでも何度か生起しているが、直哉が問題としたのはもちろ

ん両者の心の波長が一致するという次元での和解であり、それはやはり

『和解』に描かれる大正六年(一九一七)の出来事を指すと考えるしかな

いであろう。

(6)この作品は大正七年(一九一八)に発表されているが、『創作余談』(『改造』

一九二八・七)に「最も古いもの」「私の処女作といつていいかも知れない」

と記されており、執筆自体は明治四一年(一九〇八)一月になされている。

(7)「関子と真造」は『濁つた頭』(『白樺』一九一一・四)に、主人公が書い

ている小説として盛り込まれており、またその箇所を含む草稿「きさ子

と真三」が存在する。『濁つた頭』に引用されているのは、「道徳家」で ある主人公が情欲を妻に向ける時にだけ優しくなり、それ以外は邪険な

態度しか示さないというくだりだが、ここに見られる自然と制度のアイ

ロニカルな関係は、漱石や有島の作品にもしばしば現れる、明治四〇年

代から大正初年代の文学の中心的な主題のひとつである。

(8)寄稿者は概して志賀自身の漂わせる雰囲気と作品の印象が合致している

という印象を語っているが、武者小路は「趣味の上でも、神経でも、心

のもちから即ち道徳的にも珍らしい潔癖家」と評し、広津は志賀の眼差

しが放つ「何とも云はれない芸術的な重苦しい感じ」を語っている。ま

た有島は容貌から受ける「一種の憂鬱な気分」や「威厳」を指摘した後、

「作品と比べて見ると、志賀君の特色ある性格は、非常によく、しつくり

裏書されてゐる」と述べている。

(9)草稿「或る男、其姉の死  自転車」の執筆年月は不明である。なお表題

の近似した『或る男、其姉の死』は大正九年(一九二〇)一月に『大阪

毎日新聞』に連載されており、それ以前に書かれた稿と推されるが、内

容的な連関は乏しい。

10』聞新済経本日訳、郎太陸田福(て)え超を西と東チ『ーリB・は用引社、

一九八二)による。原著(Beyond East and West)はリーチの晩年に当た る一九七八年にFabwr & Faber社より刊行されている。

11 Wiv. 79,19ssre Pgoicaf Ch otysier Unhehe. F. Sibley, T Shiga Hero, T)シブリー

は『和解』を「書くことによる自己治療」として捉えている。これは語

り手の「自分」の立場に立っていわれているが、志賀自身にとっての創

作行為は総じてその面が強いといえよう。

12う日命の母実が日の解和のと父に、よ)るれさ摘指もで考論の美登木鈴で

もあることも見逃せない。鈴木は「自分」に「現在と過去、生と死といっ

た通常の区別が消散するような非日常的な時間的=空間的経験」への志

向があり、この日に対しても「特別な質を直感的に感じとっているよう

に見える」と述べている。その「特別」さについて鈴木はとくに論じて

いないが、「命日」とは死者の鎮魂をおこなう日であり、彼らの和解も相

互に憎悪を向け合っていた心を〈鎮める〉ことによって成っている。作

品の冒頭も「最初の児の一周忌」から始まっていたのであり、ここにお

ける和解が何よりも〈心〉や〈魂〉の次元に成り立つものであることが

(5)

たちのひとつの指標となっていた芸術家である。『和解』でも「ロダ

ンの本の挿画」を眺めながらその「芸術の持つ永遠性を沁々と感じ」、

「自分は自分の心がロダンの心を求め、それへ飛びついて行かうとし

て居るやうに感じた」(十一)と記されるように、「自分」の内面に浸

透し、それを励起させる力を持つ芸術の創造者として位置づけられて

いる。この「ロダンの本」が翻訳書であるとすれば、大正三年(一九一四)

に洛陽堂から出された『ロダンの芸術観』(木村荘八訳)や大正五年

に阿蘭陀書房から出された『ロダンの言葉』(高村光太郎訳)などが

想定されるが、「挿画」が多く含まれるものとしては前者が該当する。

ロダンの愛好家である志賀はどちらにも眼を通していると思われる

が、それらでは「生命あるものも静物も、空中に浮ぶ雲も野にある緑

の若草も、一つとして芸術家の為めに、あらゆる物の中に匿されてゐ

る偉大なる力の秘密を保つてゐない物はない」(『ロダンの芸術観』)、

「どんなモデルにも其処に自然全体がある。物の見える眼は其を発見

し又其を追求する。実に遠くまで!  其処には殊に大抵の者の眼に見

えないものがある。測り知られない深さ、生命の奥底だ」(『ロダンの

言葉』)といったように、いずれも表層的な美ではなく人間や自然が

内在させた霊的な生命の力を捉えることが芸術家の使命であることが

主張されている。

メーテルリンクやロダンから汲み取られる、意識や理性に依拠する

のではなく、その内奥に潜んでいる生命力に感応し、それを表出する

という姿勢は、志賀をはじめとする白樺派の作家たちが強く共鳴する ものであり、『和解』の「自分」もそれを分有している。父との不和

を持続させることの無意味さはもっぱら〈書く〉行為によってそれを

対象化、客観化することで「自分」に悟られるものであったが、そこ

から一歩踏み出して和解の成就に至るには、生から死へ、さらに新た

な生へと流れていく人間を貫く生命の流れに身を委ねることが必要で

あった。それはここで眺めたように、父子の周辺の人物たちの様相を

通して作中で周到に描き込まれていたが、今挙げたような西洋の芸術

家たちの思想、言説はそれを後押しする力として作用していただろう。

そこにこの私小説の代表的な作品がはらむ時代的な文脈と、それを取

り込みつつ展開を構築する作者の技巧を見ることができるのである。

〔註〕

(1)フロイトは『エディプス・コンプレックスの崩壊』(一九二四)で「自我

に投射された父親または母親の権威は、自我において超自我の核を形成

する」と述べており、子供に抑圧として作用する超自我の源泉に「母親

の権威」も考慮している。このことは子供ないし息子が受け取る抑圧が、

母親への性愛的な関心を禁止する父親のみに限定されず、人生の先行者

としての母親からも与えられうることをフロイトが認識していたことを

物語っているだろう。なお今の引用はS・フロイト『エロス論集』(ちく

ま学芸文庫、中山元編訳、一九九七)による。

(2)フロイトは『エディプス・コンプレックスの崩壊』(前出)で「エディプ

ス・コンプレックスは去勢の脅しを基礎とするものである」と述べている。

この去勢を比喩的な次元で考えれば、前註で述べたようにそれを与える

主体は父親には限定されない。またラカンは『〈わたし〉の機能を形成す

るものとしての鏡像段階』(宮本忠雄訳、『エクリⅠ』弘文堂、一九七二、

所収、原報告は一九四九)で、アンナ・フロイトを引用しつつヒステリー

(6)

一九一九)で、内在する生命の力に否応なく駆り立てられることで、

社会の規矩を逸脱することになる行動を取ってしまう主人公の姿を描

いていたことはいうまでもない。

またこうした作品に見られる、人物に動的な行動を付与する内在力

としての生命のみならず、『和解』に見られるように個体としての生

命体の誕生が印象的に描出されることも重要な一面である。大正四年

(一九一五)二月から五年(一九一六)一月にかけて『白樺』に断続

的に掲載された長与善郎の『彼等の運命』は、結婚を決意した青年が

妻との共同体をつくっていくことで、それまで強すぎるようにも思わ

れた家族との絆を相対化していくという、『和解』と対照的な構図を

もつ作品だが、ここでも主人公が妻とした女性が出産する経緯にかな

りの頁数が割かれていた。また白樺派以外でも、大正四年に発表され

た夏目漱石の『道草』(『朝日新聞』一九一五・六~九)が、三女の誕

生を仔細に描写していたことは見逃せない。ここでは生まれてきた三

女は主人公健三に不気味な印象を与える存在で、『和解』や『彼等の

運命』におけるような生命の賛歌的な彩りを帯びていないが、その物

質的な生々しさによって知識人の健三を脅かすという意味では、やは

り〈自然〉のしたたかな生命感を漂わせていた。

こうした比喩的ないし物質的な次元における様々な生命の様相に作

家の眼が注がれるのは決して偶然ではなく、大正初年代に顕著になっ

てきた生命主義的な潮流が派生させた現象であったといえるだろう。

白樺派に影響を与えていた西洋の芸術家の言説にもこうした生命への 言及が多く見られ、逆にいえばそうした傾向を持った芸術家が彼らの関心を惹きつけていた。なかでもメーテルリンクやロダンは志賀個人の人生観を左右するような力を及ぼしていた表現者で、作品やエッセイにも姿を現している。

メーテルリンクの影響については『創作余談』(『改造』

一九二八・七)でそのエッセイ集『智慧と運命』について、「「智慧と運命」

は永い間よくなかつた父との関係にも大変よく働いた」と記されてい

ることでよく知られているが、その言説には確かにここで眺めてきた

『和解』の構築にはらまれる、父子を和解に導く原理との強い照応が

認められる。つまり和解の条件となるものは、非意識的な〈心〉の次

元ではすでになされている相手の受容を、行動の次元で具現化するこ

とであったが、『智慧と運命』では「理性は智慧に門戸を開いて呉れる。

然し最も活躍たる智慧は理性の中には存せぬ」(大谷繞石訳、以下同

じ)

とらこる優に性理が慧智たれえ支にき働の霊で、形たっいと14

が強調されている。さらに運命の苛酷さから自己を護る力を宿したも

のが「内的生命」であるとされ、「此の内的生命は其霊が善になる時

に始まるもので、その智力が成熟する時に始まるものでは無い」と述

べられている。『和解』の「自分」はまさに理性ではなくこうした「内

的生命」の声に導かれつつその「智慧」を発揮し、父との和解を果た

すのだといえよう。

またロダンは『白樺』明治四三年(一九一〇)一一月号でその特集

が組まれている

家や作の派樺白が想思念理の作創のそに、うよ15

(7)

産のように成し遂げられるのも、その「自然」さを際立たせる作者の

技巧によって、そのように読み手に印象づけられるということでもあ

12

またこの技巧のなかで父の言葉も、彼の側における和解に向かう「自

然」の要請を垣間見せることになる。それは加齢によって否応なくも

たらされる個体としての衰退であり、あらゆる人間に訪れるその変化

のなかで父は〈支配者〉の立場から息子を斥けようとする姿勢を撤回

する姿勢を示すのである。ここには彼らに間にあったエディプス的な

構図のひとつの帰結が見られる。ともに我の強い父子を配し、その間

の葛藤が解消されるに至る経緯を描くことで、『和解』はライフサイク

ルにおける人間の消長を映し出す側面をもつことになった。もちろん

古澤平作や小此木啓吾の疑念に見られるように、エディプス的な構図

が人間にとって普遍的であるわけではないが、父子が互いに抱いてい

た敵意が超克される様はやはり劇的な彩りを作品に与え、作中で強調

されているようにそれが〈作為〉や〈人為〉ではなく「自然」の流れ

のなかで成就される経緯が巧みに構築されることで、人間が迎える人

生の階梯がそこに浮かび上がってくる。反目し合っていた一組の親子

が和解に至る経緯を描く私小説としての性格をもつこの作品が広く読

者の心に訴えかける力を備えている

のは、そうした人間にとって13

の普遍的な問題性を前景化させているからにほかならない。

六  生命主義との呼応 いいかえれば、大正六年のこの時点において、父子が互いに相手を

斥けあう不和のなかにいることが〈不自然〉な状態として実感されて

いたということでもある。この〈不自然〉さは非意識的な次元では両

者に強く感じ取られていたものだが、意識や理性の地平ではそれが否

認されがちになるために、とくに「自分」はそのズレのなかに過ごし

てきたのだった。このズレを直接的な解消に導く契機を次女の誕生と

祖母の衰えが与えていたが、この〈生命〉をめぐる対極的な様相が「自

分」に訴えかける背後には、やはりこの時代特有の文脈が作用してい

ることが想定される。すなわち志賀や武者小路、有島武郎らの白樺派

はいわゆる「大正生命主義」の代表的な担い手であり、理性よりも人

間が内在させる生命の力の導きを重んじる潮流のなかにあったから

だ。

日露戦争後に明確になってくるのは国家と個人の蜜月の終焉であ

り、個人を位置づける枠組みを国家からより普遍的な地平に求めよう

とする流れが生まれてきた。この思想自体は明治二〇年代から北村透

谷や高山樗牛によって提唱されていたものであったが、その後強まっ

ていく国家主義的な傾斜のなかでかき消されていき、明治末期から大

正期にかけてあらためて浮上してくることになった。なかでも白樺派

の作家たちは人間がはらむ生命力の発露を尊重した人びとであり、志

賀の朋友であった武者小路実篤も、しばしば自身の生命の呼び声にし

たがって愚直に見える振舞いを取る人間の姿を描いた。また有島武郎

が、『カインの末裔』(『新小説』一九一七・七)や『或る女』(叢文閣、

(8)

のように扱われるかは分からないものの、誕生の場面ではその「自然」

さが強調されている。

  出産、それには醜いものは一つもなかつた。一つは最も自然な出

産だつたからでもあらう。妻の顔にも姿勢にも醜いものは毛程も現

はれなかつた。総ては美しかつた。(十)

すなわち慧子と留女子は約一年を隔てて〈死〉と〈生〉の対比をな

すとともに、人為的なものと「自然」なものとの対比をもなし、人間

が「自然」の流れになかに生きることの〈美しさ〉が示唆されること

になる。そして「十」章の留女子の誕生と「十二」章の手紙の場面の

間に、祖母が肉体的な衰えを示す挿話が置かれている。七月二三日の

留女子の誕生が語られた後、「十一」章は「そして、それは今から四週

間程前の事になる」という一文が冒頭に置かれ、和解の一週間前に当

たる八月二三日に時間が移行している。この時「自分」はM(武者小

路)とともに歌舞伎を見るべく上京しようとしたもののすでに公演は

千秋楽を過ぎていたために、とりあえず彼と会うために日本橋に出向

き、そこの銀行から実家に電話をすると、祖母の「顎が外れた」(十一)

ことを義母に知らされたのだった。M夫妻に会った後に実家に赴いた

「自分」は、赤ん坊が元気であることを告げたのに対して、祖母が「眼

をつぶつたまま、わからない位に首肯いた」(十一)という反応を示し

たのにつづいて、本人もはっきりと意識しないまま失禁するという場 面に遭遇するのである。

この祖母の衰えは前章で描かれる赤ん坊の誕生と対比をなすととも

に、一年前の慧子の死と共鳴することで、祖母自身の死の領域への接

近として色付けられる。そしてその姿は久しく会っていない父の老い

をも想起させることになるが、実際八月三〇日に面会した父は、前節

で引用した箇所を含む次のような内心の表白をおこなうのだった。

  「実は俺も段々年は取つて来るし、貴様とこれ迄のやうな関係を

続けて行く事は実に苦しかつたのだ。それは腹から貴様を憎いと思

つた事もある。然し先年貴様が家 を出ると云ひ出して、再三云つ ても諾 かない。俺も実に当惑した。仕方なく承知はしたものの、俺

の方から貴様を出さうと云ふ考は少しもなかつたのだ。それから今

日までの事も……」(十三)

この父の表白の前に祖母の衰えの姿が差し挟まれることで、父の言

葉は人生の活動からの退場を含意するものとしての響きを強く帯び、

息子を受容する姿勢が生の実感の次元において生まれていることが示

唆されるのである。『和解』における複雑な時間構築は、こうしたイメー

ジ的な折り重ねを実現するための技巧としての側面をもっている。時

間的な距たりのある出来事を隣接させることで、そこにはらまれた生

死をめぐるイメージが対比や相互浸透を生じさせ、そこに現れる人び

との姿に色付けを与えることになる。父子の間の和解が「自然」の所

(9)

葛藤のあり方を「自分」に吟味させ、それを客観的な地平に置いて眺

めさせる契機となる。先にも引用したように、「実際の生活で、其儘

に信じていい事を愚さから疑つて、起さなくてもいい悲劇を幾らも起

してゐるのは不愉快な事だ」といった感慨がそこからもたらされ、そ

れが父との不和を相対化することになる。それに加えて興味深いのは、

執筆時に近い時間における心性から構想される場面が、それを無意識

のうちに映し出すことによって、和解を先取りする意味をもつことだ。

父との不和自体を主題とする「夢想家」の帰結を構想しながら、「自分」

は「父が其青年を殺すか、其青年が父を殺すか、何方かを書かうと思

つた」にもかかわらず、「急に二人が抱き合つて烈しく泣き出す場面

が浮んで来」て、思わず「涙ぐんで」(七)しまうのだった。ここで

は「自分」のなかの願望が投影されたというよりも、そうした場面を

自然に描いてしまう心性のなかに「自分」がおり、その内的状態が作

品の本来の構想を裏切ってしまうのだといえよう。

五  和解につながる「自然」

この自身の企図に逆行する場面の浮上は、時間的なズレをもって作

中に並存する二つの気分に照応する、「自分」のなかにある二つの自己

を示唆しているだろう。つまり「自分」のなかでは父と距離を取りつ

づけようとする自己と、父と和合しようとする自己の二つが、意識な

いし理性と無意識ないし気分の二層をなす形で混在している。いいか

えれば後者においては「自分」はすでに父との和合に向かう志向が醸 成されているが、これまでの経緯を振り捨てられない前者の次元では

容易にそれを外化することができないのである。「自分」は和解の約一

週間前に当たる大正六年(一九一七)八月二四日に父に手紙を書いて

自分の意向を伝えようとするが、「理窟でいいならそれは易しい事だつ

た。然し理窟で自分の要求が如何に正当であるかを書き現はせた所で、

それが実際で何の役にも立たない事はよく解つてゐた」(十二)という

もどかしさを感じ、何度か書き直すものの結局「手紙では今の自分に

は如 何しても感じは現はせない事を知つた」(十二)という結論に達し

て、手紙を父に送っていない。

ここに見られる「理窟」と「感じ」のズレは、まさに今述べた二層

のズレと照応するものである。このズレは「自分」の社会的営為であ

る創作行為によっても乗り超えがたいもので、彼と父の和合を成就す

るにはそこに作用する外的ないし偶発的な力が必要となる。『和解』の

叙述の巧みさは、「自分」を父への接近へと仕向けるその外的な契機を

中盤以降の展開に巧みに盛り込んでいるところにも見られる。そのひ

とつは次女留女子の誕生であり、もうひとつは実家で目撃した祖母の

衰えである。前者は冒頭で語られる長女の一周忌の約一週間前の出来

事で、長女慧子の死を乗り超えるようにもたらされたのだった。1節

でも触れたように、慧子の死について「自分」には、「若し皆に父と自

分との関係に赤児を利用する気がなかつたら、赤児は死なずに済んだ

のだ」(七)という思いがあるが、それは慧子が人びとの〈作為〉の

対象として扱われたという認識にほかならない。一方留女子が生後ど

(10)

くのである。

この時間構成はきわめて巧みになされており、私小説の典型とも見

なされるこの作品がやはり意識的な所産であり、そのなかで作者の主

題が明瞭化され、読者に感動をもたらす結果が生み出されていること

が分かる。展開は「此七月卅一日は昨年生れて五十六日目に死んだ最

初の児の一周忌に当つて居た」(一)という一文で始まっているように、

大正六年七月末を起点としているが、これは「十」章で語られる留女

子の誕生が成った七月二三日の約一週間後に当たり、慧子の死を乗り

こえるように留女子の誕生がもたらされたことで、「自分」の心境も

刷新された段階にあることが示唆される。「四」章から「六」章にか

けて詳しく語られるように、慧子の死は彼女が「自分」と父との和解

の道具のように扱われたことによってもたらされたと「自分」は受け

取っており、その意味で慧子の死は彼らの間に成らなかった和解の象

徴にほかならない。しかし逆に見れば、死んだ慧子が〈和解の失敗〉

を象徴するものとなることで、一年後に誕生した留女子は和解に向か

う新たな〈再出発〉の契機として意味づけられることになるのである。

そうした子供の生死がはらむ象徴性は後半になって遡及的に浮上し

てくるとはいえ、作者が意識的に仕組んだ時間的な布置のなかに和解

に向かう展開が周到に準備されていることが分かる。またその配慮は

「一」につづく近過去の「二」章で、一度「自分」を父に会わせると

いうくだりを配していることにも現れている。ここで二年ぶりに麻布

の実家で父と面会した「自分」は、父に「不愉快な顔」をされたにも かかわらず「如 何したのか穏やかな気持で父の顔を見上げて居られた」

(二)のであり、彼がすでに父を受容しうる段階にあることが示され

ている。

こうした伏線が張られた上で、より険悪な関係のなかに両者があっ

た「一昨年の春」に時間が移行している。この時父は「不和の後に或

る和ぎを作る目的」(三)をもって「自分」の一番上の妹とともに、

当時住んでいた京都を訪れたのだったが、「自分」は「父に対する不

快を押し包んで何気ない顔で話しする事は迚 も堪へられなかつた」

(三)ために父との面会を回避している。そのことが父の憎悪を一層

高め、その後我孫子に住むようになった際に父に挨拶に行った折に、

今後実家への出入りを禁じる旨を通告されることになったのだった。

この時点ではもちろん「自分」のうちに「調和的な気分」はなく、相

互の憎悪を循環的に昂じさせていく状態にあった。志賀自身において

も、『和解』執筆の二年前に当たる大正四年(一九一五)二月に父の

家から除籍して独立しており、父とその家から距離を取ろうとする姿

勢は明確であった。

すなわち執筆時の「自分」は和解の前提となる「調和的な気分」の

なかに生きていながら、作中に盛り込まれている過去の時間において

は決してそうではなく、その二つの「自分」を融和させることが問題

となるが、それを果たす機能を担っているのが〈書く〉という行為に

ほかならない。具体的な形を成さなかった「夢想家」や『好人物の夫

婦』の原案を構想、執筆することは、自身が入り込んでいる父との不和、

(11)

このように眺めていくと、『和解』における父子の和解の特質を理

解することができる。結局それは職業や結婚といった具体的な問題に

ついて両者が何らかの合意に達するということではなく、相手を否認

しようとする気分が低減することによって、互いを受け容れようとす

る地点に達することにほかならない。逆にいえば、彼らを引き離して

いた不和とは相互の存在を否認し合う関係のことであったが、そのた

めそれを具体的に説明することはできなかったのである。志賀が「不

和の源因を少しも書かず、和解の効果をあげる事が出来た事を何故認

めないかと云ひたい」という不満を記さねばならなかったのも、その

不和の性質によっている。もっともこの相手を否認する心性は相互に

同時的に生起したものではなく、ウィリアム・シブリーが「父がつ

ねに自分を憎んできたがゆえに彼は父を憎んでいる」(『志賀主人公』

一九七九)

父志るす定否をい舞振や向の子息に、うよるす摘指と11

に対する対抗として主人公に抱かれるようになったものである。現実

にはその父に向けられた対抗としての否認は、それを正当化するだけ

の内実をともなわないゆえに不機嫌という気分に転化されていたが、

『大津順吉』や『児を盗む話』により明瞭なこの事情は、『和解』では

すでに超克される段階に至っている。

いいかえればこれまでの主人公のなかにあった、父を否認し、突き

放そうとする自己は、『和解』の時点ではすでにかなり摩滅しており、

それによって「自分」は「調和的な気分」の主体となりえている。も

ともと不機嫌とは相手を斥けつつ求めるという二面性をもった気分だ が、そのうち前者の比重が低減することで、父という相手に対して距離を取りつづけなくてはならない必然性が無化されることになる。もちろんそうした気分は父の側にも想定されるものでなくてはならないが、父は息子の社会的な未成熟を咎めねばならない段階がすでに終

わっているうえに、肉体的な老いを感じ取ることで、息子を突き放す

だけの膂力が失われていることを認識している。和解がなされる場面

でも、父は「実は俺も段々年は取つて来るし、貴様とこれ迄のやうな

関係を続けて行く事は実に苦しかつたのだ」(十三)という感慨を口

にしているのである。

けれどもこうした父の側の老いの意識も、「自分」の「調和的な気分」

も作中において一様ではなく、鈴木登美が指摘するように「過去」と

「現在」の間で差違が存在している。この二つの時間を行き来する『和

解』の独特の構造は、両者の間における父子それぞれの内的外的な事

情の変容と照らし合っており、とくに「自分」においてはその落差を

〈書く〉という行為が埋めていっている。これまでも論評の対象となっ

てきたように、『和解』は〈書く時間〉と〈書かれる時間〉の二層を

はらむのみならず、過去に帰属する〈書かれる時間〉も一昨年と昨年、

及び執筆時に近い近過去の三つの層に分かれており、大正六年七月末

という近過去から始まる展開は、父に自宅への出入りを禁じられた一

昨年秋の出来事と、昨年七月に起きた長女慧子の死をめぐる顛末が語

られた後に大正六年七月に戻り、次女留女子の誕生が語られる。そし

てその約一ヵ月後にもたらされる父との和解の場面へとつながってい

(12)

もっとも『児を盗む話』の発表以後三年間の休筆期間があるよう

に、「調和的な気分」に至る経緯は直線的ではなく、創作を手がけよ

うとしながら実を結ばせることのできないその期間において志賀自身

の不機嫌は持続していたと考えられる。志賀が創作をおこなわなかっ

たのは、父との不和という主題が切実なものとしてありながら、『和

解』で「自分の仕事の上で父に私怨を晴すやうな事はしたくない」(二)

と記されるような思いが志賀の筆をとどめていたからでもあろう。そ

こからあらためて彼を創作に向かわせる動因となったものは、大正四

年(一九一五)一〇月に移り住んだ我孫子での生活で持った、武者小

路実篤、柳宗悦、中勘助や陶芸家のバーナード・リーチといった人び

ととの交わりであった。大正三年(一九一四)から四年にかけては松

江や京都といった、知己の少ない土地であえて孤独を求めるかのよう

に暮らし、創作に対しても消極的になっていた志賀は、鎌倉での生活

を経て移った我孫子では文学や芸術に関わる仲間たちと親しく付き合

い、次第に表現に向かう意欲を掻き立てられていった。

この土地を舞台とした作品としては『好人物の夫婦』(『新潮』

一九一七・六)、『雪の日』(『読売新聞』一九二〇・二)などがあるが、

とくに大正六年(一九一七)に書かれた前者は、前節で引用した「品

行方正とは云はれない良人」とその妻をめぐる話が具体化されたもの

であり、父との和解の前に明確になっていた「調和的な気分」を傍証

する作品である。我孫子での生活自体については『和解』でも、「M

が暮れ近くから隣村に住むやうになつてからは我孫子も賑やかになつ た。五六年前から多く他の地方で住んでゐた自分は久し振りでMと

繁々往来するやうになつた」と武者小路との交わりに触れられている

が、武者小路やリーチの遺した文章からもその様相がうかがわれる。

武者小路の『或る男』(『改造』一九二一・七~二三・一一)では、朝の

仕事を終えた「彼」が実名で出てくる志賀や柳の家に頻繁に出かけ、「昼

飯か、晩飯はたいがい、柳か志賀のところで食った。志賀や柳も時々

来たが、彼が二度ゆけば一度来る位いのわりであつたらう。そして毎

日に逢つてゐた」という親交が語られている。この武者小路の姿勢に

背中を押されるように、志賀も再び創作の筆を執るようになった。リー

チの『東と西を超えて』(一九七八)では、彼を日本の陶芸の世界に

導いた柳と討論を重ねた場に「白樺派の志賀直哉や武者小路も参加し

た」(福田陸太郎訳、以下同じ)ことが語られ、それにつづいて「彼

らは二人共、名声を博しつつある作家で近所に住んでいたのだ」

10

という紹介がされている。

こうした交わりは、それまで自身の内向する気分のなかに立て籠も

りがちであった志賀の内面を相対化して他者や外界に向けて開き、「調

和的な気分」をもたらす契機になったはずである。そこでは文学や芸

術の世界に生きる友人たちと接することが志賀をあらためて創作行為

へといざない、その表現が志賀の内面を一層客観化、社会化するとい

う好循環が成り立っていたと考えられる。そうした気分が醸成されて

いった帰結として父との和解が成り立ち、『和解』が生み出されてい

るのである。

(13)

にあるものがそうした気分であることを実感している。たとえば、あ

る「品行方正とは云はれない良人」の妻が留守中に、女中が懐妊する

ことになり、それについて夫は「女中の相手は俺ではないよ」と言う

と、妻は「ああ、さうですか」と答えてその言葉を信じる、という物

語を着想した際に、「自分」は次のような感慨を覚える。

良人も細君も賢かつた。悲劇はたうとうつけ込み損つた。さう云ふ

事を自分はそれで現はしたかつた。少しづつ調和的な気分になりつ

つある自分には実際の生活で、其儘に信じていい事を愚さから疑つ

て、起さなくてもいい悲劇を幾らも起してゐるのは不愉快な事だと

云ふ考があつた。そしてそれは必ずしも他人に就いての考へでない

のは勿論の事だつた。(九)

引用の最後の文に記されているように、「実際の生活で、其儘に信

じていい事を愚さから疑つて、起さなくてもいい悲劇を幾らも起して

ゐるのは不愉快な事だ」という「考」が、自分と父との関係にも押し

当てられることはいうまでもない。『大津順吉』や『児を盗む話』の

段階では「自分」の内にあった、父と対立するだけの感情的な内実が

『和解』の執筆時にはすでに失われている、すなわち「調和的な気分」

のなかに現在の自分がいることを彼は作品の執筆を通して実感するこ

とになる。とくに「九」章ではこの気分への言及が繰り返されており、

やや後の箇所でも次のような記述が見られる。   自分は自分が段々調和的な気分になりつつある事を感じた。これでいいかしらと云ふ気も少しはした。然し今までの不調和よりは進んだ調和だと考へた。そして自分も好人物の好運ばかりを何時迄もほ書いてはいられまいと云ふやうな事も考へた。(九)

そしてこれにつづけて「自分の調和的な気分は父との関係にも少し

づつ働きかけて行つた」(九)と記され、この気分が和解の成就を導

き出す動因であることが示唆されている。ここで語られる「調和」に

は、単に結果としてもたらされる父との関係における「調和」だけで

なく、青年期から表現者への志向を抱きつつそれを十分に外化しえな

い齟齬のなかに置かれてきた「不調和」が解消されたという意味にお

ける「調和」も含意されている。鈴木登美は『語られた自己―日本近

代の私小説言説』(大内和子・雲和子訳、岩波書店、二〇〇〇)で、「『和解』

における和解は、父と子のあいだの和解であるとともに、二つの対立

する時間的、解釈的な視点のあいだの、「自分」のなかでの和解でも

あるのだ」と述べているが、これは的確な解釈であろう。けれども重

要なのは、その「「自分」のなかでの和解」をもたらす心性が、どの

ように彼のなかで醸成されてきたのかということであり、ここで追っ

てきたのはその経緯と機構であった。

四  多層的な時間

(14)

に参画し、同会社の専務取締役となるほか他の数社の取締役も兼ね、

資産を形成していった人である。志賀の弟子であった阿川弘之の『志

賀直哉』(新潮社、一九九四)によれば、「かうして事業を興し、儲け

た金は無駄使ひせず、徐々に太らせながら子に伝へ、さらに孫に伝へ、

末永く志賀の家を栄えさせて行きたい」というのが直温の目論見で

あったが、にもかかわらず直哉が「それを無視しようとするから、直

温は跡取り息子に立腹し、絶望する」のだった。

このように見ると、父直温が直哉にとって1節で眺めた〈父〉の二

様の形をいわば兼備する存在であったことが分かる。すなわち直温は

社会的な経験を積み重ねた年長者として息子に威圧的に振舞う人物で

あり、それが直哉の敵意を掻き立てていた。またそこには直温の後妻

であり直哉にとっては義母である浩に対して、草稿(「或る男、其の

姉の死  自転車」)9)に「自分は美しい後の母を心から愛した」と記

されるような愛情を抱いていたという事情があることを考慮すれば、

一層フロイト的なエディプス・コンプレックスの構図が父子の間に想

定されることになる。またそうした性愛的な要素を抜きにしても、直

温は社会的な達成を遂げた人物である点で、直哉が参入すべき社会の

秩序・制度、ラカンの用語を借りれば「象徴界」の暗喩となりうる存

在であった。そしてフロイト的な〈父〉もラカン的な〈父(の名)〉

もともに息子ないし子供に〈去勢〉を強いてくる主体であり、前者は

自身への無条件の屈服と忠順という形で、後者は鏡像的なイメージと

自己愛的に戯れる「想像界」からの離脱という形でそれをおこなわせ ることになる。『大津順吉』や『児を盗む話』においては、父はこうした去勢的な

圧力を主人公、語り手にかけてくる存在であり、とくに文学という「想

像界」に生きようとする彼らはそれを受け容れがたく感じるものの、

それをはねのけて自己を主張しうるだけの社会的な実績をまだ手にし

ていないために、不機嫌に陥らざるをえない。彼らと比べれば、『和解』

の「自分」はすでに職業作家としての社会的認知を受け、作中におい

ても創作の営為に関する叙述が繰り返しなされている。彼は父との不

和を素材とする「夢想家」という作品を構想し、執筆にも着手してい

るが、結局作品内の時間においては完成に至らず、父との和解が成就

したことでこの作品を完成させる必然性自体も最後には無化されるこ

とになる。そこに至る過程には「自分は八月十九日までに仕上げねば

ならぬ仕事を持つてゐた」(二)、「偶然或る雑誌社の人が其雑誌に創

作を載せる事を勧めに来た」(九)といった記載が点綴され、「自分」

がすでに職業的な創作家であることが明示されている。志賀の主人公

たちの不機嫌の要因が、〈書き手〉として自己を社会化しようとしな

がらそれをなしえていない齟齬から来ていたとすれば、『和解』にお

いてはすでに「自分」を不機嫌にしなくてはならない基本的な条件が

消失しているのである。

そのためこの作品では「自分」の不機嫌が語られることはなく、む

しろ彼が「調和的な気分」のなかに自分がいることが語られている。「夢

想家」やそれ以外の作品の構想、執筆を進めながら、彼は自分のなか

(15)

た『大津順吉』は同人誌の『白樺』ではなく一般誌である『中央公論』

に発表されたものであり、志賀の〈書き手〉としての社会的認知の進

展を物語っている。

そして父との和解が成就し、『和解』が発表された大正六年

(一九一七)においては、志賀は満三十四歳に達し、大正三年(一九一四)

から大正五年(一九一六)にかけての休筆期間をはさみながらも、文

壇の中心人物としての評価を得つつあった。この年の六月に短編集『大

津順吉』が新潮社より刊行されているが、『新潮』大正六年九月号に

掲載された相島種夫の批評「志賀直哉氏の芸術――『大津順吉』を読む」

では、「日本全体の文壇に求めて見ても志賀氏位作家らしい風格を備

えた人は尠 い」という印象から始まって、短編小説の名手として志賀

がチェーホフになぞらえられ、集中ではとくに『児を盗む話』が「最

も力強く病的神経の悩ましい世界」を描いた作品として「日本人の生

んだ芸術の中最も誇るべきもの」と絶賛されている。また同誌一一月

号では「志賀直哉氏の印象」というコーナーが設けられ、武者小路実

篤、広津和郎、佐藤春夫、有島武郎らがその人物像について語ってい

(8)

父との関係をモチーフとする志賀作品の系譜における主人公、語り

手の気分状態の変容は、こうした作者の作家としての認知度の進展と

照応している。主人公の不機嫌の描出が顕著なのは『大津順吉』にお

いてであったが、それは彼の自恃の念とその社会化のズレがこの時点

でもっとも大きかったからである。そのズレは先に見た祖母への態度、 発言に現れていただけでなく、「仕事に対するその烈しい野心と、実

際持ち得る自信とには何処か不均衡な所のあるのは自分でも感じてゐ

たのである。いひかへれば其時の現在に於て、多少なり自信を持ち得

るやうな仕事が出来てゐなかつた」(「第二」十二)と語られる地の文

の記述からも明瞭である。またこの作品に語られる出来事は執筆時の

五年前のものであり、ここで際立っている順吉の不機嫌の様相とこう

した「不均衡」の強調は、両者の相関関係を作者がよく認識した上で

の表出であることを物語っている。

『大津順吉』の主人公を不機嫌にしていたのは、この「野心」とそ

れに見合う「仕事」の不在というズレないし「不均衡」のなかに自分

が生きていることを知りながら、なおうち消せない強い自恃の念が彼

の内側でうごめいているからであった。それは『児を盗む話』でも根

本的には解消されておらず、振り向ける先をもたなくなった不機嫌が

狂気に接近していく虚構が作品の軸をなしていた。その際先に触れた

ように、家庭内の人間関係で彼にこうした不安定な気分状態をもたら

す根源にあった存在が父親であったことは見逃せない。『大津順吉』

における忠言や『児を盗む話』の冒頭での罵倒に典型的に見られるよ

うに、主人公の父は息子に現実社会で着実な位置を確保することを望

んでおり、またそれを要求しうるだけの実績を父は積み重ねてきてい

た。

彼らのモデルである志賀直哉の父直温は、慶應義塾を卒業後第一銀

行の東京本店、石巻支店勤務などを経て退職した後、総武鉄道の創業

(16)

して何事かをなしうる能力を持っていると感じながらも、それに見合

う実績はまだなく、また自己の可能性を具体的に説明するつもりもな

い。その上でただ「『何かする』事を信じて」もらおうとするのである。

こうした自己説明を回避する心性の背後で働いているのは「甘え」

の感情であり、総じて不機嫌は甘えと強く結びついた気分状態である。

この二つの気分ないし感情の関係を主題化した加藤諦三の『「不機嫌」

と「甘え」の心理』(PHP文庫、二〇〇四)では、不機嫌が「執着

人物に対する表現ができない敵意」であると規定されているが、それ

はまさに順吉の内面にうごめいている心性に適合する。彼が「敵意」

を抱く中心的な相手は当然父だが、それを父に向けて表現することが

できないために、代替的な相手として祖母に向けられている。加藤が

繰り返し述べるように不機嫌な人物が「気持ちの表現ができない」と

いう共通項を持つのは、自分が語る以前に周囲の他者に自己の内面を

察してもらいたいからであり、この甘えが向けられやすいのが順吉に

とっては祖母だったのである。一方甘える相手のいない『児を盗む話』

の「自分」は、不機嫌を内向させざるをえないために精神の均衡を失っ

ていくのだといえよう。

三  「調和的な気分」の獲得

『和解』で成就される父子の和解の性質を明確化するために、『大津

順吉』『児を盗む話』という先行作品に言及してきたのは、『和解』で

ほとんど省筆されている彼らの不和の事情がうかがわれるからという だけではなく、この一連の作品には明らかにひとつの問題をめぐって主人公、語り手が変容を遂げてきた経過が映し出されており、それが父との関係を左右しているからである。その問題とは〈書く〉ことをめぐる彼らの社会的な認知であり、志賀自身の歩みに照応する形で彼らが表現者として自己を社会化していく度合いが次第に高まってきている状況がこの三作から汲み取られる。

すなわち明治四〇年(一九〇七)を背景とする『大津順吉』では主

人公は「関子と真造」という習作7)を書いただけであり、作品に示

されない伝記的事実としても、志賀はこの年の四月から武者小路実篤、

木下利玄、正親町公通と「十四日会」という合評会を開くようになる

ものの、まだ小説作品を公にする機会を持っていない。そのためこの

作品では父は順吉の創作活動を云々することはなく、もっぱら「貴様

は大学を出たら必ず自活して呉。ええ?  これは貴様を一個の紳士と

見て堅く約束して置くからナ」(「第一」四)と、息子が実世界におい

て自立することだけを望む忠言を与えるにとどまっている。主人公が

創作家を目指していることへの反対はその後本格化することになり、

大正元年(一九一二)の秋から冬にかけて展開していく『児を盗む話』

では、先に引用したような罵倒が「自分」に与えられるのだったが、

この時点では志賀は『白樺』の同人として『大津順吉』を含む十を超

える作品を公にしている。父の姿が作品に現れるのは大正元年九月発

表の『大津順吉』が初めてであり、『児を盗む話』の冒頭に置かれた

父の罵倒は、それを不愉快としてのものであったとも考えられる。ま

(17)

からは空想。然し此空想を本気でした事は事実」と記されているよう

に、志賀は大正元年(一九一二)一〇月末に父との不和が昂じて家を出、

一時京橋の旅館に滞在した後に尾道に赴き、翌年五月まで一時的な帰

京の時期を除いて尾道で一人暮らしをしている。引用した冒頭部分か

らは、父が志賀に向けた否定の性質と、その主人公たちが不機嫌に捕

らえられる所以がよくうかがわれる。父が「自分」をなじる際に口に

する「そんな事」や「ヤクザな奴」が指しているものは、彼らが雑誌

『白樺』を舞台としておこなっていた文学活動のことであり、それは

「私(或ひは私達)」という指弾の対象を複数化していい直す表現から

も察せられる。それに応じるように、家出先の田舎町でも「自分」は

創作に取り組むもののすぐに行き詰まってしまい、「頭が重く肩が凝っ

て何となく不機嫌になつて」いくのだった。

作家としての歩みを始める前の明治四〇年(一九〇七)を舞台とす

る『大津順吉』では、創作の問題は強く前景化されていないが、主人

公順吉の気分を底流するものはやはり表現への志向を内包するもの

の、それに見合う外的な成果を挙げていないという自覚である。順吉

が祖母に向けて暴発させる次のような憤懣は彼のなかに鬱屈している

ものが何であるかを明瞭に物語っている。

  「兎も角近頃はお祖母さんに解つて貰はうとも思はないけど、邪

魔だけはなるべくして貰ひたくないんですよ。(中略)それに私だ

つていまに何か仕ますよ。それがお祖母んを喜ばす事かどうかは別 問題として屹 度何か仕ますよ。其『何か』は云つてもどうせ解りは

しないのだから、只『何かする』と云ふ事を信じてゐて貰へばいい

んです。(後略)」(「第二」五)

ここで順吉が「何かする」といっているのは当然表現者として社会

的に認知されるということだが、順吉は具体的な作品のプランを語っ

たりするわけではなく、「只『何かする』と云ふ事を信じてゐて貰へ

ばいいんです」と、無条件の信頼を祖母に要求している。この場面で

順吉が激昂したのは、その前に祖母が彼に対して「手紙一つ本統に書

けもしない癖に」(「第二」四)という批判を口にしたことを受けてお

り、この言葉が〈書く〉という表現に関わる者としての順吉のプライ

ドを傷つけたからである。批判の主が父であれば順吉は憤懣を呑み込

んだかもしれないが、相手が祖母であることによってそれをぶちまけ

ることになった。ここでも祖母は不機嫌の要因というよりも、それを

表現する相手として存在しているが、彼女の批判は順吉のいわば一番

痛いところを突くものであったために、彼の激昂を招いたのだといえ

よう。

なかでも「其『何か』は云つてもどうせ解りはしないのだから、只

『何かする』と云ふ事を信じてゐて貰へばいいんです」という順吉の

言葉は、不機嫌という気分の特質をよく示唆している。つまり不機嫌

とは自己への認知を他者に求めながら、それを実現するための行動を

回避しようとする心性にほかならないからだ。順吉は自分が表現者と

(18)

一九七六)で志賀作品を流れるこの気分に着目し、それを日露戦争後

の日本社会を覆っていた気分的状態の典型として論じている。山崎が

『大津順吉』で、山崎によればこの作品は「全篇を通して、「不機嫌」

といふ気分をほとんど唯一の主題として書かれた作品」である。それ

が突出して現れている場面として取り上げられているのが主人公順吉

と祖母とのやり取りだが、ここで順吉は自分の不機嫌をあからさまに

祖母にぶつけ、その後で自己嫌悪に駆られて泣いたりする。出発時の

『或る朝』(『中央文学』一九一八・三)6)にも現れる、この主人公が

祖母に不機嫌を向ける関係について、彼らを不機嫌にしているものが

この祖母と孫という「不安定な、二義的な人間関係だつたと見ること

ができる」とされる。祖母は家庭のなかの年長者として統治者的な位

置を占めるとともに、年齢的な衰えから弱者として扱われるという二

面的な存在だからである。

この山崎の『大津順吉』に対する解釈は二重の意味で首肯しがたい。

不機嫌は人間の感情として普遍的であり、どのような時代社会におい

ても生起しうる。志賀の初期作品には日露戦争後の時代状況の刻印は

希薄で、とくにそこから主人公の不機嫌が生まれているという因果性

は明確ではない。また山崎の論調では、志賀の主人公の不機嫌は祖母

との関係に起因しているかのようだが、明らかにそうではなく、その

気分は主に父親との関係に胚胎しており、祖母はその一翼を担いなが

らももっぱらそれを向けるのに好適な相手として選ばれている。現に

山崎が取り上げていない『児を盗む話』(『白樺』一九一四・四)でも 主人公は家出先の田舎町で不機嫌に陥るが、ここでは父との衝突から展開が始まっているのに対して、祖母は姿を現さないのである。『児を盗む話』では父親が決めつけるように主人公を指弾する次の

ような場面から始まっている。

或朝父が、

「貴様は一体そんな事をしてゐて将来どうするつもり 000だ」と蔑む

やうに云つた。

「貴様のやうなヤクザな奴が此家 に生れたのは何の罰かと思ふ」

こんな事を云つた。

尚父は私の顔を見るさへ不愉快だとか、私が自 家にゐる為に小さ い同 胞の教育にも差し支へると云つた。父は私が現代の弊害を一人

で集めてる人間のやうに云つて、だから、私(或ひは私達)が社会

から擯斥されるのは当り前だと真正面から平手で顔をピシャリ

撲るやうな調子で云つた。其処で私も乱暴な事を云つた。そして久

しぶりで泣いた。

こうした父との衝突のあげく、瀬戸内海の小さな町で暮らし始める

ようになった主人公は、次第に不機嫌の度合いを強めて精神状態に変

調を来し、女児を盗み出すという妄想に捕らえられるようになり、遂

にはそれを実行してしまう。『続創作余談』(『改造』一九三八・六)で

「尾の道生活の経験で、半分は経験で、半分は事実、児を盗むところ

(19)

は「自然」な形で成ったことに重きが置かれており、それを浮かび上

がらせるように作中では「不自然」な作為との対比のなかで「自然」

な事の運びへの尊重が繰り返し語られている。とくに父との関係を改

善するための道具のように扱われたことによって、長女の「不自然な

死」(七)がもたらされたと「自分」が受け取っているのに対して、

その約一年後に次女が「最も自然な出産」(十)によって生まれたこ

とは、明らかに父との間に成る和解の伏線として機能し、その性質を

予示している。山口はこの作品の「自然」を「ある種予定調和的な、

ゆるやかな方向性をもったもの」であるとしており、その流れのな

かに父との和解も成り立つとしている4)。この解釈自体は妥当だが、

看過しえないのはそうした帰結の「自然」さが、起点にある不和、対

立の性格と呼応していることだ。つまり彼らの和解が「ある種予定調

和的」な流れのなかに生まれているとすれば、その胚珠はもともと彼

らが落ち込んでいた不和自体のなかにはらまれていたと考えられるの

である。

二  不機嫌な主人公

『和解』でほとんど省筆されている父子の不和の事情自体は、志賀

の伝記的事実や他作品の叙述によって広く知られている。すなわちそ

れは実業世界の人であった志賀の父とうって変わって文学の道に生き

ようとする直哉の志向や、結婚も考えた女中との関係に対して父直温

が拒絶の姿勢を示したこと、また直哉の側としては、近代日本の最初 の公害事件として知られる足尾鉱山鉱毒事件を調査しようとしたのを直温が抑止しようとしたのに立腹したことなどである。これらが相乗する形で生じた対立が直哉の結婚問題を機に明治四〇年(一九〇七)

頃に深刻化し、それが十年近く持続することになったのだった(5)

けれども作品の源泉としてはこうした要因は並列的ではなく、比重

の差違が存在する。『和解』に至る一連の作品において、主人公、語

り手の内面をもっとも強く特徴づけているのは、表現者として自立す

ることを強く志向しながら、それがなかなか実を結ばない現実に焦慮

せざるをえない齟齬である。『大津順吉』(『中央公論』一九一二・九)

などに描かれる女中との恋愛沙汰は、そうした齟齬が主人公に喚起さ

せる心理的な負担を相殺するものとして位置づけられている面があ

る。それはこの作品で繰り返し語られる主人公の「不機嫌」が昂じた

時に彼女への愛情が高まるように感じ、そうした心の動きに対して「そ

れは悪い意味で自分は利口だからである」(「第二」六)と記されてい

ることからもうかがわれる。彼はこの使用人でありまた美しくもない

女性と相対することによって、自分の負い目を軽減することができる

ように思うのであり、「一言にいへば結婚はしたくないといふ気が充

分にある」(「第二」六)自分の欺瞞的な内心を感じ取ってしまうので

ある。

志賀直哉の初期作品の基調をなしているともいえる不機嫌という気

分は、もっぱらこの自己をあるべき領域で社会化しきれていないと

いう自覚から生まれている。山崎正和は『不機嫌の時代』(新潮社、

(20)

はあの作の中で、不和の源因を書かうとすればきりがない、といふ事

を再三、書いて」おり、「「不和の源因を少しも書かず、和解の効果を

あげる事が出来た」事を何故認めないかと云ひたい」という自讃的な

反論をおこなっている。ちなみにこのエッセイの表題に挙げられてい

る福士幸次郎は大正時代に口語自由詩を手がけた詩人・評論家で、『和

解』の作者が「道徳的」な認識力を欠如させているという批評(「批

評の職分とは何ぞ」『新潮』一九二二・二)を前月に書いていた。

志賀が自讃するように、『和解』は総体としては発表時から肯定的

に受け取られており、「不和反目の原因に就いては殆ど描く処もない」

という南部修太郎の評でも、「さうした欠点をまざ

と感じたにも

係らず、尚も深い貴い感激を味つた」と作品自体は称賛されている。

和辻哲郎も早い時期の評で、「父との不和の原因を描いてゐない、と

いふ非難」を耳にしていたにもかかわらず、相互に「自敬の念」の強

さゆえに対峙し合っていた父子が和解を遂げる場面には「異常な動悸

と熱い涙」を経験せざるをえないと語っていた(「今年の創作界に就て」

『黒潮』一九一七・一二)。

こうした評価の二面性はおそらく一体のものであり、この作品のも

たらす感動は、一組の父子が陥っていた対立の具体的な所以が語られ

ないことをむしろ条件としている。志賀自身もそのことを了解してお

り、「或る「主題」を捕へて作された作物ではなく、もつと直接な「動因」

によつて作者が追ひ立てられて書いた作物である」(「唇が寒い(福士

幸次郎君に)」)という自己評価を与えている。これも父子を対立させ ていた「主題」の追尋と解決が彼らの和解の本質的な要件ではないという認識を示唆しているだろう。志賀は必ずしも論理的な言葉でその特質を語っていないが、『和解』を読む際に探求する必要があるのは、

こうした表現を必然化している彼らの和解という出来事とその前提と

なる対立の独特の色合いにほかならない。

このエッセイに記される、父との間に成った和解を志賀が時間を置

かずに作品化しようとした「直接な「動因」」として挙げられている

のは、「永い

不和の後に漸く来た和解の喜び」だが、「永い

と形容される不和の時間の長さは、そこに至る人生の軌跡そのものと

重なり、その間で辿られた両者の歩みがようやく合致するように和解

がもたらされたという実感をほのめかしている。それは作中でも示唆

されており、末尾に引用された叔父の手紙にある「先日の和解は全く

時節因縁と深く感じ申候。父上も此度は大丈夫だらうと話された」と

いう一節にある「時節因縁」は、まさに父子の間に成った和解の性質

を物語っている。志賀が福士幸次郎に指摘されたような「道徳問題」

を十分に「主題」化していないという批判を斥けるのは、「問題」といっ

た具体的な限定性のなかに彼らを乖離させていた要因が求められない

からである。

すなわち長年父子が陥っていた不和が解消されるのは、彼らが人生

のある「時節」ないし段階に達することによっておのずからもたらさ

れた帰結であり、少なくとも志賀自身はそのように受け取り、表現し

ようとしている。山口直孝が指摘するように、この作品における和解

参照

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