ナーブルスィー著『ファイユームの歴史』アヤソフィア写本に 併録されたオスマン朝エジプト統治初年の徴税調査記録
熊 倉 和歌子
Tax Survey Records of the First Year of the Ottoman Rule in Egypt, Contained in the Ayasofya Manuscript
with Fakhr al-Dīn ‘Uthmān al-Nābulusī’s Ta’rīkh al-Fayyūm
K
UMAKURA, Wakako
Analysis of how taxation had been conducted, and who had been involved in it, are indispensable for studies of local governance and rural society in the Mamlūk period (1250–1517) and under the subsequent rule of the Ottomans in Egypt. However, the quantity of records and sources that we can access has been insufficient. Under these circumstances, a manuscript such as the one dealt with by this article might be useful to us. This article reveals tax survey records dated to the very first year of the Ottoman rule in Egypt. The records were contained in the Ayasofya manuscript with Ta’rīkh al-Fayyūm, a survey register compiled by Fakhr al-Dīn ‘Uthmān al-Nābulusī (d. 1261) in the Ayyubid period. The manuscript was presented to Jānim min Qaṣrūh, an mamlūk amīr (the commander of an army corps) who served as kāshif al-jusūr al-sulṭānīya (the inspector of the sultan’s embankments) in the Fayyūm and Bahnasāwīya district in the middle of the 16th century, to offer him basic information for the local governance.
The tax records were dated the 923rd kharājī year, which corresponds to a year from the autumn of 1517 to the summer of 1518. This was the first year of the reign of Khāyrbak, the Ottoman governor of Egypt. The survey was conducted on 27 villages that served as revenue sources for the dīwān al-dhakhīra, which administered resources under the direct control of the sultan, in Fayyūm. The records of each village contain unique information, lacking in other sources, such as the names of villagers who took responsibility for preparing reports of taxation, items of taxation and their breakdown, with special mention of the harvest and irrigation in that year. In addition, they reflect circumstances in the transition from Mamlūk to Ottoman rule. Therefore, this historical docu- ment can be considered as an important source for studies of local governance in 16th century Egypt.
Keywords: Ottoman Empire, Egypt, tax records, local governance, taxation, rural society
キーワード : オスマン朝,エジプト,徴税記録,地方統治,徴税,村落社会
序
土地記録や徴税記録というのは,ある時代の土地制度や徴税制度を詳らかにし,支配の構造 を明らかにするためには不可欠な史資料の1つである1)。しかし,西アジア地域においてその ような記録を量的かつ質的に得ることができるのは,オスマン朝以降の時代,かつその支配下 に置かれた地域に概ね限定され,多くの時代や地域においては部分的な記録が得られるのみで あろう[林2005: 24-25]。筆者が研究の対象としているマムルーク朝(648-922/1250-1517) 期からオスマン朝治下1520年代後半までのエジプトの史料状況についても同様である2)。し かし,近年,ミシェルNicolas Michelやアブー・ガーズィーImād Abū Ghāzīらによる新機 軸の研究により,史料上の制約が少しずつ取り除かれつつある3)。そして,本稿が取り上げる オスマン朝エジプト統治初年の徴税調査記録も実記録の空白期を埋めるものであり,今後マム ルーク朝やオスマン朝時代を対象とする研究者に利用されることが期待される。
マムルーク朝から16世紀前半にかけての土地記録と徴税記録のうち,現在史料として利用 できるものを時代順に列挙すると次のようにまとめられる。まず,イブン・ドゥクマークIbn 序
1. 『ファイユームの歴史』とその写本群 (1)『ファイユームの歴史』の概要 (2)写本の所蔵状況
2. アヤソフィア写本2960番の構成と編纂年
代および編纂の目的 (1)構成
(2)編纂年代と編纂の目的
3. オスマン朝統治初年の徴税調査記録の 由来と史料としての位置づけ
(1)序文
(2)記録の対象となった村々 4. 各村の記録内容
(1)徴税に関わるアクターと税目 (2)特記事項
結びにかえて
1) 本稿では,土地の耕作面積や税収高,その土地の権利者といった記録を土地記録,租税の内訳や金 額についての記録を徴税記録と呼ぶこととする。
2) マムルーク朝期エジプトの文書史料は,現在までのところ,エジプト国立文書館Dār al-Wathā’iq al-Qawmīyaとワクフ省Wizārat al-Awqāfが所蔵するワクフ(waqf:寄進)文書や土地売買文書群,
およびセントカトリーナ修道院が所蔵する文書群が確認されているが,検地台帳や土地台帳,徴税 台帳といった台帳史料の存在は確認されていない。エジプト国立文書館およびワクフ省所蔵の文書 群については,[Amīn 1981]とその日本語訳[菊池1988]を参照。また,セントカトリーナ修道 院所蔵文書については,[松田2010]を参照のこと。オスマン朝による統治開始期の文書史料につ いても同様の状況で,まとまった実記録が得られるのは1520年代以降に限られる。オスマン朝統 治初期の史料と研究の状況については,[Hanna 2012]に明快にまとめられている。
3)[Michel 1996]と[Abū Ghāzī 2000]は,マムルーク朝の土地記録を含むオスマン朝の土地台帳『軍
務台帳Daftar Jayshī』と『慈善台帳Daftar Aḥbāsī』を用いて数量的分析に取組んだ先駆的研究で
ある。ミシェルは『慈善台帳』を用い,マムルーク朝期からオスマン朝初期にかけての慈善リザク 地(その収益が宗教や慈善活動に充てられた土地)の件数の変化について検討した。また,アブー・
ガーズィーは『軍務台帳』に転記されたマムルーク朝期の国有地売却の記録件数を分析し,マムルー ク朝後期における国有地の私有化の拡大を示した。また,[熊倉2012]は『軍務台帳』に転記され たマムルーク朝期のイクター地(iqṭā‘:徴税地)保有者の記録を分析し,イクター地がマムルーク 軍人だけでなくマムルーク軍人の子孫であるアウラード・アンナースや文民などに広く分与され,
それらのイクター地が結果として私有地やワクフ地(寄進地)となっていったことを論じた。
Duqmāq(d. 809/1406)による『諸都市の中心にある勝利の書Kitāb al-Intiṣār li Wāsiṭa ‘Iqd al-Amṣār』(以後,Intiṣārと略記)とイブン・アルジーアーンIbn al-Jī‘ān(d. 885/1480)によ る『エジプトの村々の名前についての輝かしき至宝Kitāb al-Tuḥfa al-Sanīya bi Asmā’ al-Bilād
al-Miṣrīya』(以後,Tuḥfaと略記)があげられる4)。この2点の記録は以前から多くの研究者
に利用されてきたが,いずれの記録項目も各村の地積数・税収高(イブラ‘ibra)5)・土地権利 の種類・土地権利の保有者についての概要記録であり,土地片ごとのより詳細な土地記録を得 ることができない6)。しかし,ミシェルの研究によって,マムルーク朝後期(チェルケス・マ ムルーク朝:784-922/1382-1517)の詳細な土地記録を含むオスマン朝の土地台帳『軍務台帳
Daftar Jayshī』および『慈善台帳Daftar Aḥbāsī』がマムルーク朝史研究にとっての有効な史料
であることが示され,利用可能なマムルーク朝期の実記録は質量ともに飛躍的に増加した7)。 以上の4点が現在利用可能なマムルーク朝期の実記録であるが,これらはいずれも各村にある 土地権利の種類と土地権利の保有者の記録が主要項目である土地記録である。土地権利の保有 者が具体的にそれらの土地権利からどのような種類の税をどの程度得ていたかといった徴税記 録ではない。
現段階ではマムルーク朝の徴税記録はまだ発見されておらず,徴税記録が得られるのは,オ スマン朝の統治に移行してから10年後に実施された土地調査の記録である『ハラージュ年度8)
4) 各々の記録の年代については,イブン・ドゥクマークの記録は14世紀末[Garcin 1976: 454,
456],イブン・アルジーアーンの記録は1470年代後半のものとされている[熊倉2010: 12-15]。
また後者は,マムルーク朝前期(バフリー・マムルーク朝:648-784/1250-1382)のスルターン・
シャーバーン2世al-Ashraf Sha‘bān(r. 764-78/1363-77)の土地権利とその保有者の記録も収録 される。Tuḥfaの史料解題については,[熊倉2010]を参照のこと。また,この2史料の記録を村 ごとにまとめた[Halm 1979-82]も参照。
5) イブラは数年間の税収の平均をとって算出される税収高であり,ディーナール・ジャイシー(dīnār
jayshī)あるいはディーナール・ジュンディー(dīnār jundī)の単位で表わされる。ディーナール・
ジャイシーは,通貨ではなく,イブラを表す単位であり,1ディーナール・ジャイシーとディーナー ルの換算率は時代によって異なる[佐藤1986: 239-241; Sato 1997: 152-156]。一方,イルティファー ウ(irtifā‘)も税収高を表す単語であるが,現金はディーナール(dīnār),現物はイルダッブ(irdabb) 等の単位で表記された[Cooper 1976: 370]。つまり,イルティファーウはそのイクターに見込ま れる現金および現物の税収を示す数字であったのに対し,イブラはそのイクターからイクター保有 者が得られる収入を計算するための数字であったと解釈できる。
6) 本稿では,イクター地・リザク地・私有地・ワクフ地・ディーワーン(dīwān:政庁)地(あるい は政府直轄地)といった各種の徴税権の保有形態を総称して「土地権利」,各土地権利の保有者が 保有する一片の土地を「土地片」と呼ぶこととする。
7)『軍務台帳』と『慈善台帳』は,16世紀半ば頃にオスマン朝が編纂したエジプトの土地台帳であ る。『軍務台帳』には,オスマン朝が認可したワクフ地と私有地が,『慈善台帳』には慈善リザク 地が登記された。各土地片について,マムルーク朝期の土地台帳に掲載された記録とオスマン朝
期933/1527-8年に実施された土地調査記録が併記された。前者の記録から,マムルーク朝期のそ
の土地の保有状況を知ることができる。これらの台帳の存在自体は以前から知られており,[‘Abd al-Raḥīm 1986; El-Mouelhy 1989; ‘Afīfī 1991]において言及されていたが,実際に主史料として 利用し,史料の有効性を示したという点においてミシェルやアブー・ガーズィーの研究は画期をな している。『慈善台帳』の史料解題については[Michel 1996]を,『軍務台帳』の史料解題につい ては[熊倉2009]を参照。
8) ハラージュ年度(al-sana al-kharājīya)は,コプト暦に対応した年表記である。コプト暦はトウト 月(グレゴリオ暦の9月11日から10月10日にあたる)を第1月とする太陽暦である。太陰暦で あるヒジュラ暦は,1年がコプト暦に比べておよそ33分の1短く,季節とのずれが生じるため,
小麦を中心とする穀物からなるハラージュ(kharāj:地租)はコプト暦に従って徴収され,記録さ れた[Poliak 1939: 21; Rabie 1972: 133]。
933/1527-8年の土地調査台帳Daftar al-Tarbī‘』9)を待たなくてはない。しかし,本稿で取り上 げるオスマン朝統治初年の徴税調査記録は,それ以前の徴税記録であり,かつマムルーク朝か らオスマン朝への支配の移行期の記録である。オスマン朝によるエジプト統治初年という変化 の年の記録を,史料としてどうとらえるかは困難ではあるが,史料解題を行ない,今後の研究 に役立てられるように情報を整理していきたいと思う。本稿は全部で4章から成り,視点をマ クロからミクロに,関連写本群の全体像から当該記録に次第にフォーカスを合わせていくよう に解説を進めていく。まず第1章ではオスマン朝統治初年の記録が収録されている写本の主要 部分を構成するアイユーブ朝(567-648/1171-1250)期の調査記録とその写本状況について整 理する。第2章では,本稿の主史料であるアヤソフィア写本2960番の構成と編纂の目的につ いて考察する。以降はオスマン朝統治初年の記録の内容に入っていく。第3章では,序章の内 容と調査対象となった村々の傾向からこの記録の位置づけについて,第4章では村ごとの記録 項目とそこから読み取れる事柄について検討を加える。
なお,写本に登場する村名については,なるべく写本の表記に従い,シャクル(発音記号) がふられていない場合の読みはムハンマド・ラムズィーMuḥammad Ramzīの『地理事典al- Qāmūs al-Jughrafī』(以後,QMSと略記)を参考にした。
1. 『ファイユームの歴史』とその写本群
(1)『ファイユームの歴史』の概要
本稿が対象とする記録は,ハラージュ年度923年(西暦1517-18)のファイユーム県の一部 の村々の徴税調査記録であり,これは,『ファイユームの歴史とその村々Ta’rīkh al-Fayyūm wa
Bilādi-hi』(通称『ファイユームの歴史』)として知られる書の一写本に併録されている。『ファ
イユームの歴史』は,アイユーブ朝の官僚ナーブルスィーFakhr al-Dīn ‘Uthmān b. Ibrāhīm al-Nābulusī al-Ṣafadī10)(d. 660/1261)が,641/1243年 に ス ル タ ー ン・ サ ー リ フal-Ṣāliḥ Najm al-Dīn b. Ayyūb(r. 637-647/1240-1249)の命を受けて実施したファイユーム県の実地 調査の記録である。
ファイユーム県は,カイロal-Qāhiraから南西に約90キロメートル,ナイル川から西に約 25キロメートルのところに位置する盆地である11)。この盆地一帯の灌漑は,伝説でヨセフ12)
9) これは933/1527-8年にオスマン朝統治下のエジプトにおいて初めて実施された体系的な土地調査
の記録を収録した台帳である。この時にとられた記録は以後のオスマン朝の土地文書行政にとって の基礎データとなった[‘Afīfī 1991: 39-40; Michel 1996: 122]。この調査記録を収録した台帳は一 部伝世しているほか,『軍務台帳』や『慈善台帳』にもその記録の一部が書き写されている。
10)ナーブルスィーは558/1192年にエジプトに生まれた。彼の父方の一家は十字軍遠征によるパレス ティナからの難民であったという。ナーブルスィーは,スルターン・カーミル(r. 515-635/1218-38) の治世に政府に仕える身となったが,キリスト教徒官僚と衝突して失脚し,その後,カーミルの息 子サーリフの治世において復権した。彼の著作は『ファイユームの歴史』を含む5作品が知られて いる(内1作品の写本は未発見)。これらはアイユーブ朝期の行政を知る上で重要な史料として位置 づけられる[Becker and Cahen 1958-60: 120-122; Rapoport and Shahar online: “The Tax Register”]。
11)ファイユーム県の玄関口であり最も東部に位置するLāhūn村の標高は約30メートルであるが,現 在カールーン湖Birkat al-Qārūnに覆われている地域一帯は海抜30メートル以下である[Shafei 1940: MAP I]。
12)ヨセフ(アラビア語では,ユースフYūsuf)は『旧約聖書』の「創世記」に登場する人物である。
ユダヤ人の祖ヤコブとラケルの間に生まれ,エジプトのファラオに認められて宰相となり,7年間 の大飢饉からエジプトとカナンを救ったとされる[Encyclopaedia Judaica 11: 406-413]。
が掘削したと伝えられているユースフ運河Baḥr Yūsufによってなされ13),ファイユーム県の 入口に位置するLāhūn村に設けられた水量調節用の堰14)により,ナイルの増減水に関わりな く,一年中用水を確保することができたと見られる。しかし,ナーブルスィーによれば,アイユー ブ朝末期のファイユーム県について「政庁にはユースフ運河の浚渫に注意を払った記録はな く,100年以上もの間,それを管理するための費用の支払いがなかった」ために,水不足が生 じていたという[Ta’rīkh: 6; MS. Ayasofya 2960: 5v]。このような状況を改善するために,ス ルターン・サーリフは官吏達を派遣し,担当官を任命するなどの復興策を講じ,ナーブルスィー を状況調査のために現地に派遣したのであった。
『ファイユームの歴史』は,ファイユーム県の灌漑・勧農の状況と,各村の現金(‘ayn)・穀 物(ghalla)・現物(ṣanf)から成る税収高(irtifā‘)についての体系的かつ具体的な記録であり,
現段階で,ある程度のまとまりをもった伝世記録の中では,イスラーム期のエジプトにおける 最も古い徴税記録として位置づけることができる15)。記録の具体的な事例や量的分析について は,すでに佐藤Tsuigitaka SatoやラポポルトYossef Rapoportらによる詳細な研究があるの で,そちらを参照されたい16)。
(2)写本の所蔵状況
『ファイユームの歴史』は,モリッツBernard Moritzによって校訂され,1898年にヘディー ヴ図書館刊行物Publications de la Bibliothèque Khédiviale第11巻として発行された版が流 布している17)。この校訂本の題名が『ファイユームの歴史とその村々』であったため,ナーブ 13)この運河は,現在のアスユート県Dayrūṭ市付近でナイルから分岐し,Lāhūn村からファイユーム
盆地に流れ込み,最後はカールーン湖に排水される。
14) Lāhūn村の堰はプトレマイオス朝(B.C 306-B.C 30)期に設けられたとされる。この堰の設置に よって盆地への水の流入が減少して湖水が蒸発したために湖が縮小し,かつて湖底にあった土地の 開発が進んだとされる[Rapoport and Shahar 2012: 2]。
15)この記録は全10章から成る。1章から8章まではファイユーム県の自然環境,水利灌漑,人々, 宗教施設についてそれぞれまとめられている。残りの2章は徴税に関わる記録であり,第9章では ファイユーム県全体で見込まれる現金,現物,その他の税収高の総計,第10章では村ごとの税収 高とその内訳についてまとめられている。各章のタイトルは以下の通りである。第1章「その(ファ イユーム県の)概観についての描出」,第2章「その風土(mizāj)についての記述」,第3章「そ の空気と水についての描出」,第4章「河(nahr)が流れ込む,あるいは海に接することなしに,
断続的に水の流れがある理由についての記述」,第5章「その住民および遊牧民(badw)と定住民
(ḥaḍar)への分類についての記述」,第6章「変化したもの,すなわちその運河(baḥr)とその理 由,また,十分な財と長い期間[が投じられない限り]その維持が困難であるほど荒廃した村々に ついての記述」,第7章「アルファベット順によるその村々の名前」,第8章「そこにあるジャーミー,
マスジド,修道院,教会についての記述」,第9章「そこに内包される現金,現物,その他の総額
(jumla)についての記述」,第10章「その村々の描出と村ごとの税収高」。
16)[佐藤1986: 263-284]は,この調査記録を主史料として,当該記録の内容紹介と,それから得ら
れる情報をもとに「イスラム社会史」研究の可能性について論じた。また,[佐藤1986: 285-379;
Sato 1997: 177-239]は,当該記録の具体的な記録内容を利用して,エジプトの村落社会におけ
る人的構成・農業と灌漑のあり方・支配層による水利事業について検討した詳細な研究である。
[Rapoport and Shahar online]は,記録内容をデータベース化し,地理情報システム(GIS)で 地理的分析を試みた。この分析結果は,ウェブサイト上で一般に公開されている。この分析結果を 取り入れながら,[Rapoport and Shahar 2012]は,ファイユーム県の灌漑の維持管理のあり方に 焦点を当て,国家および地域社会がどのようにしてそれに関与したかについて検討した。
17) al-Nābulusī, Fakhr al-Dīn ‘Uthmān. Ta’rīkh al-Fayyūm wa Bilādi-hi. B. Moritz ed. (Publications de la bibliothèq khédievale, vol. 11) Cairo: al-Maṭba‘a al-Ahlīya, 1898(筆者未見). この書の再版 本には,1974年にベイルートのダール・アルジールDār al-Jīl社から刊行された版(al-Nābulusī, Fakhr al-Dīn ‘Uthmān. Ta’rīkh al-Fayyūm wa Bilādi-hi. B. Moritz ed. Repr. Beirut: Dār al-Jīr, ↗
ルスィーによる調査記録はこの題名で知られるようになった。しかし,この調査記録を収録す る写本を見ると,実際は異なる題名であった可能性が浮かび上がってくる。モリッツが校訂本 の序章で述べた情報を整理すると,この調査記録には下記の3写本が存在したという。
①フセイン・パシャ・フスニーḤusayn Pasha Ḥusnī文庫収蔵写本18)
概要:ブーラークの王立印刷所の所長を務めたフセイン・パシャ・フスニーの文庫の中に 収蔵されていた写本で,モリッツは校訂の際にこれを底本にした。しかし,その後 の所蔵先については不明である。
題名:現物確認はできないが,おそらく校訂本の題名となっているTa’rīkh al-Fayyūm wa
Bilādi-hiであると考えられる(この根拠としては,以下③の概要を参照)。
書写年:851/1447年
写字生:ムハンマド・アルバターティーMuḥammad b. Yūsuf al-Baṭāṭī
②エジプト国立図書館Dār al-Kutub al-Miṣrīya収蔵カイロ写本(MS. Tārīkh 1594)19)
概要:これはモリッツの手による①の写本の写しである。
題名:不明 書写年:1898年 写字生:モリッツ
③ スレイマニイェ図書館Süleymaniye Kütüphanesi収蔵アヤソフィヤ写本(MS. Ayasofya 2960)20)
概要: モリッツはアヤソフィア写本の存在を目録で確認し,その題名と著者名を校訂本の 序文に記している。しかし,彼は題名と著者名のいずれもが彼が底本とした①の写 本と異なることから,この写本と①の写本の関連性はないと判断した。したがって,
モリッツはこの写本を参照しなかった[Ta’rīkh: “Preface”]。
題名: 『ファイユームの村々の秩序についての永世者にして自存者たる神の御業の解説書 Kitāb Iẓhār Ṣan‘at al-Ḥayy al-Qayyūm fī Tartīb Bilād al-Fayyūm』
書写年:不明 写字生:不明
↗ 1974)と,ドイツのヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ大学フランクフルト・アム・マインのアラ ブ・イスラーム科学史研究所Institut für Geschichte der Arabisch-Islamichen Wissenschaften のイスラーム地理シリーズ第54巻の版(Studies on the Faiyūm Together with Tārīḫ al-Faiyūm wa- Bilādihī by Abū ‘Uthmān an-Nābulusī (d. 1261). Fuat Sezkin ed. Repr.. Frankfurt am Main: Institute for the History of Arabic-Islamic Science at the Johann Wolfgang Goether University, 1992)が ある。いずれも1898年の版の復刻であり,内容や頁に初版との異同はない。本稿ではダール・ア ルジール社版を参照した。
18)この写本の情報については,[Ta’rīkh: “Preface”; Rapoport and Shahar online: “The Tax Register”]
を参照した。紙葉の寸法は17×25.5 cm,行数は23行,葉数は100葉。
19)この写本の情報については,[Ta’rīkh: “Preface”; Rapoport and Shahar online: “The Tax Register”]
を参照した。筆者未見のため,題名,紙葉の寸法,行数,葉数,書体,状態は不明。
20)紙葉の寸法は26.9×17.9 cm,行数は19行,葉数は176葉(ただし,スレイマニイェ図書館の目録デー タベースでは葉数は171葉と登録されている)。書体はナスヒー体で,状態は傷や欠損はなく非常 に良い。
③に記された題名は,校訂本の題名と異なるものであるが,ブロッケルマンはこの作品の題 名として③の題名を挙げている[GAL Supl.: 573]。また,校訂本の題名は押韻されていないが,
③の題名は押韻がなされている点を考慮すると,本作品の本来の題名は『ファイユームの村々 の秩序についての永世者にして自存者たる神の御業の解説書』である可能性が高い。そして,
以後取り上げていくオスマン朝統治初年の徴税調査記録を収録している写本は,この題名を持 つ③のアヤソフィア写本である。それでは,次章でアヤソフィア写本の構成と編纂された年代,
そして編纂の目的について見ていこう。
2. アヤソフィア写本2960番の構成と編纂年代および編纂の目的
(1)構成
アヤソフィア写本2960番の構成は以下の通りである。
fol. 1r:表紙
fol. 1v-171r: 『ファイユームの村々の秩序についての永世者にして自存者たる神の御業の解
説書』
fol. 171v:白紙
fol. 172r:ファイユームの開拓と灌漑に関する言い伝え
fol. 172v-175v:オスマン朝のエジプト統治初年の徴税調査記録
fol. 176r:白紙
このように,この写本は,アイユーブ朝期の調査記録,ファイユームの開拓と灌漑に関する 言い伝え,オスマン朝期の徴税調査記録の3つの内容から成る。筆者はこの写本をデジタル画 像で閲覧し,現物を手に取って見てはいない。このため,デジタル画像から判断せざるを得な いのであるが,一見して写本に使われている紙の色は一様であり,筆致は徹頭徹尾同じもので あるように見受けられる。このことから,アヤソフィア写本は複数の写本を合冊にしたものと いうよりは,始めから1つの写本として編纂されたと考えるのが自然である。
1つずつその内容を概観していくと,まず,表紙の裏面からアイユーブ朝期の記録が始まる。
この内容をモリッツの校訂本と比較すると,章構成や序文から第8章までの文章に大きな相違 は見られない。筆者は徴税記録における細かい数字部分に至るまでアヤソフィア写本とモリッ ツの校訂を隈無く対照したわけではないが,管見の限りは記録内容に大きな相違点は見当たら ない。したがって,この部分はアイユーブ朝期の記録の写しであると見なしてよいと考える。
フォリオ172の表面にはファイユームの開拓と灌漑に関する言い伝えが簡潔に記される。数 行の文章ながら内容は完結しており,同フォリオの裏面から始まる徴税記録の表紙や序章にあ たると考えられる標しは見られない。以下はその翻刻と訳である。
賞賛は全世界の主であるアッラーにあり
ファイユーム:歴史家たちは以下のことをまとめた。ユースフ・アッスィッディークYūsuf al-Ṣiddīq―預言者と彼に神の恵みあれ―彼こそがそれを開拓し,天啓によってその運河を 拓いた。そして,ファイユームの村々にそれ(運河)を分かち,それらの村々から騎乗で 1日分の距離の運河としたのである。彼は(複数の)水位が交互に変わる運河(muṭāṭīyāt) を水位の高い運河(murtafi‘)にし21),また(複数の)水位の高い運河を水位が交互に変わ る運河にして,水を厳格に制御した22)。また,その中間地点のところに運河の排水場を設けた。
それがサイド湖Birkat al-Ṣayd23)である。聞くところによれば,その湖底はかつて湿地であっ たという。湖に24)[設置された](複数)の鉄門を開くと,水はオアシスの地(arḍ wāhāt)
21) murtafi‘は水位の高い運河,muṭāṭīyaは水門の開閉によって水位が変化する運河を意味する。マ
スウーディーal-Mas‘ūdī(d. 345/956)によれば,ファイユーム県の運河は,水位の高い運河
(murtafi‘),水位が交互に変わる運河(muṭāṭī),水位の低い運河(muṭāṭī al- muṭāṭī)の3つから 成るという[Murūj I: 346; Rapoport and Shahar 2012: 17-18]。
22)イブン・アブドゥル・ハカムIbn ‘Abd al-Ḥakam(d. 257/871)によれば,ヨセフによるファイユー ム県の開拓の結果,昼夜を通じ,時間単位のスケジュールで,交互に水位が変わる運河は水位の高 い運河に転じ,また水位の高い運河は交互に水位が変わる運河に転じるようになったという[Futūḥ Miṣr: 22-23; Mu‘jam al-Buldān IV: 287; Khiṭaṭ I: 665]。つまり,運河に水門を設置して運河ごとの 水位を調節することによって貯水と灌漑を行うようになったことを意味していると考えられる。
23)現在のカールーン湖である。この湖は,夏季に増水したナイルの水を逃がすための遊水池としての 役割を果たした。Ṣunūfar村とQushūsh村の間には2つの水門付の橋梁(qanṭara)が設置され ていたが,ナイルの増水によって洪水の危険が高まると,この水門を開いて余分な水をサイド湖へ と続く水路に逃がした。また水量が多い場合には,Dumūshīya村の対岸からHawwāra al-Baḥrīya 村までの間に設置された水路(tirā‘)を開いて同様にサイド湖に水を流したという[Ta‘rīkh: 151;
MS. Ayasofya 2960: 142r-143r; Shafei 1940: 308-309]。
24)テキストでは,「その上に(‘alay-hi)」の人称代名詞が男性形になっており,これを湖(birka,女 性名詞)と読むと矛盾が生じる。しかし,その前文「聞くところによれば(wa qīla inna-hu)」から,
湖は男性形人称代名詞で表されているため,ここでも湖を受けていると解釈した。
からサンタリーヤSantarīya25)へと流れる。西の村々(bilād al-Gharb)から西方へ流れた とも聞く26)。そして技術による(水の)統御は現在まで続いているのである。これらすべて のことは預言者の湖(サイド湖)についてのことである。その湖はと言えば,水が現在まで 冬も夏も湖面に湛えられている。このことを否定する者は誰一人としていない。アッラーこ そ救いを求める者たちを救い給うお方,助けを求める者たちを助け給うお方である。我々の 預言者ムハンマドとその一族および教友にアッラーの讃えと平安あれ。結。
文章の冒頭に明記されているように,これは先賢たちによるファイユームに関する諸説をまと めたもののようである。管見の限り,他史料において同一の文章を確認することはできないの で,この写本においてオリジナルにまとめられた可能性がある27)。
この後フォリオ172の裏面から,オスマン朝のエジプト統治初年の徴税調査記録が始まる。
この記録については次章で詳しく検討することとし,まずはアヤソフィア写本がいつ頃,何の ために作成されたものであるかについて考察していきたい。
(2)編纂年代と編纂の目的
アヤソフィア写本には,写本編纂の動機や経緯に関する情報や,書写年が記されていない。
そこで,この写本の表紙から得られる情報に基づき,この写本が作成された年代と,目的につ いて検討していきたい。
表紙には,頁の中央部に配された円形の欄の中に,書名『ファイユームの村々の秩序につい ての永世者にして自存者たる神の御業の解説書』と著者であるナーブルスィーの名が記され ている28)。そして,この下の欄に,「至高なる庇護者であり偉大なるアミール(amīr:軍団長) であるアッサイフィー・ジャーニム・ミン・カスルーフal-Sayfī Jānim min Qaṣrūh,ファイ ユーム県とバフナサーウィーヤ県におけるスルターニー・ジスルのカーシフ(kāshif al-jusūr
al-sulṭānīya:スルターンの灌漑土手の監督官)のために」という献辞が記されている。この
ことから,この書がアミール・ジャーニム・ミン・カスルーフに献呈されたものであることが わかる[MS Ayasofya 2960: 1r]。
ジャーニム・ミン・カスルーフ(d. 954/1547-8)について年代記史料から得られる情報は
25)サンタリーヤとは,現在エジプト・アラブ共和国とリビア国の国境付近に位置するオアシス都市 スィーワSīwaを指す[QMS 2-4: 258]。
26)「オアシスの地」はおそらく西方砂漠にオアシスが点在する地域一帯を漠然と指していると考えら れる。ユースフ運河の水門を開放すると,西方砂漠のオアシス都市からスィーワまで水が流れていっ たということであろう。西の村々というのは,おそらくファイユームの西側に位置するオアシスの 村々のことを指しているのであろう。このことは,当時の人々がファイユーム西方のオアシスの水 はユースフ運河に由来していると考えていたことを表している。
27)先のイブン・アブドゥル・ハカムやマスウーディーだけでなく,ヤークートYāqūt al-Ḥamawī
(d. 626/1229)の『諸国集成Mu‘jam al-Buldān』や,マクリーズィーTaqī al-Dīn al-Maqrīzī(d.
845/1442)の『地誌と遺跡の叙述による警告と省察の書al-Mawā‘iẓ wal-I‘tibār fī Dhikr al-Khiṭaṭ wal-Āthār』,イブン・イヤースIbn Iyās al-Jarkasī(d. ca. 930/1524)の『諸地域の驚異における 花々の吸引Nashq al-Azhār fī ‘Ajā’ib al-Aqṭār』などにおいても,ファイユーム県に関する伝承がま とめられているが,同一の文章は見当たらない[Mu‘jam al-Buldān IV: 286-288; Khiṭaṭ I: 655-675;
Nashq: 45r-47r]。
28)ただし,著者名はファフル・アッディーン・ウスマーン・ブン・アンナーブルスィーFakhr al-Dīn
‘Uthmān b. al-Nābulusī al-Shāfi‘īと記されており,校訂本との異動が見られる(校訂本では,Abū
‘Uthmān al-Nābulusī al-Ṣafadī al-Shāfi‘ī)。
多くないが,ジャズィーリー‘Abd al-Qādir al-Jazīrī(d. 977/1570頃)が著した『巡礼の見聞 と神に讃えられしマッカへの道に関する秩序正しき貴い真珠の書Kitāb al-Durar al-Farā’id al- Munaẓẓama fī Akhbār al-Ḥājj wa Ṭarīq Makka al-Mu‘aẓẓama』(以下Durarと略記)29)から略 歴を知ることができる。それによれば,ジャーニムはスルターン・アルガウリーQānṣūh al- Ghawrī(r. 906-22/1501-16)のマムルーク軍団の出身で,マムルーク朝期においてはスルター ン・アルガウリーの息子ムハンマドのダワーダール(dawādār:官房長官)30)を務めた。エ ジプトがオスマン朝の統治下に入ってからも,上述のカーシフ職の他,946/1539-40年から 951/1544-5年まで巡礼隊長(amīr al-ḥājj)を務めるなど,重職を歴任した[Durar 1: 534-540]。
さて,アヤソフィア写本の献辞にジャーニム・ミン・カスルーフが「ファイユーム県とバフ ナサーウィーヤ県におけるスルターニー・ジスルのカーシフ」として記されていたことをヒン トに,アヤソフィア写本が作成された年代について検討してみたい。ジャーニムが当該カーシ フ職に着任した時期は不明であるが,Durarによれば,彼が巡礼隊長を務めた6年間は,この カーシフ職を兼務していた。951/1544-5年には巡礼隊長職を解かれたのは,エジプト州総督 ダーウード・パシャ(r. 945-956/1538-49)と財務監督官(nāẓir al-amwāl)の不興を買い失 脚したことが原因のようである。ジャズィーリーは次のように伝えている。
彼ら(ダーウード・パシャと財務監督官)は彼(ジャーニム)を嫉視した。そして,その県
(iqlīm)において登録されているスルターン財(māl al-salṭana)[を利用する]方法と,彼 の気高い性格につけ込んだ強欲な策略や詐欺の方法によって,彼から多くのものを搾取し,
彼を傷つけた。これらのことは,彼を極限まで追いつめ,彼は2つの職(jihatayn)31)から 解任された。彼はすぐに邸宅から退去し,退役となったが,その2つの方法による不正な解 任によって傷つき,954/1547-8年に急逝した―アッラーよ,彼に慈悲の雨をもたらし給え―
[Durar 1: 539]。
このことから,件のジャーニムがカーシフ職に就いていたのは,951/1544-5年までであった と見なすことができる。一方,ジャーニム以前のファイユーム県とバフナサーウィーヤ県に おけるスルターニー・ジスルのカーシフ職の歴任者について史料から得られる情報は,オス マン朝第2代エジプト州総督のハーイルバクKhāyrbak(r. 923-928/1517-1522)の時代に 同職を務めたアミール・ジャーニム・ミン・ダウラート・バーイal-Sayfī Jānim min Dawlāt Bāy(d. 929/1523)32)にまで遡ってしまう。すると,この写本の作成時期は929/1523年から
29)ジャズィーリーは,カイロにおいてハッジュ(ḥajj:大巡礼)の際に編成される巡礼隊を率いる巡 礼隊長の書記を務めた経歴を持つ人物である。彼の著作Durarは,ハッジュについての卓越した 史料であり,957/1550年までの巡礼隊長の情報を得ることができる[Winter 1998: 2-3]。
30)ダワーダールは,スルターンまたはアミールの側近職である。原義はインク壷の保持者で,マムルー ク朝下ではスルターンやアミールについての報告,諸事の伝達などの重要な政務を司った[Ṣubḥ 4:
19; 5: 462; Khiṭaṭ 3: 720-721]。
31) jihataynを2つの地域,すなわちファイユーム県とバフナサーウィーヤ県を指すと解釈することも
可能であると思われるが,文脈から巡礼隊長職とカーシフ職の両方から解任されて退役となったと 解釈するのが妥当であると判断した。
32)この人物は,マムルーク朝時代からの軍人である。ハーイルバク期にファイユーム県およびバフ ナサーウィーヤ県におけるスルターニー・ジスルのカーシフを務めたが,929/1523年にガルビー ヤ県のカーシフであるイーナール Īnālと共にオスマン朝からの独立を目指す反乱を起こした。こ の反乱はオスマン朝軍によって鎮圧され,ジャーニムは殺害された。彼についての詳細は,[Holt 1966: 47-48; Winter 1992: 14]を参照。
951/1544-5年の間のいずれかの時点ということになるが,ジャーニム・ミン・カスルーフが 巡礼隊長とカーシフ職を兼務していた6年間あるいはその前の数年間を含めた時期に作成され たと考えるのが妥当であろう。ただし,この写本には書写年や書写者についての情報が記され ていないため,アヤソフィア写本がジャーニム・ミン・カスルーフに献呈された原本の写しで あるという可能性を完全に排除することはできない。したがって,ここで推定することができ るのは,献呈本の原本が作成された年代のみということになる。
次に,献呈本の所有者ジャーニム・ミン・カスルーフが就いていたスルターニー・ジスルの カーシフという職から,この写本の編纂目的について検討してみたい。スルターニー・ジスル のカーシフ職は,ジスルの維持管理を監督する軍政官職であった。近代以前のエジプトにおけ る灌漑方法である「ベイスン灌漑」は,耕地をジスル(jisr)と呼ばれる土手で取り囲んで耕 地をベイスン(たらい)状にし,そこに増水したナイルの水を流し込んで冠水させる灌漑方法 である33)。このため,この灌漑法においてはジスルが最も重要な灌漑設備であったが,これは
「スルターニー・ジスル(スルターンの灌漑土手)」と「バラディー・ジスル(村の灌漑土手)」 に大分された。前者は政府管理の大規模な土手,後者は村内部で管理される小規模な土手であ り34),スルターニー・ジスルの維持管理の監督官として行政県単位でそのカーシフが任命され たのであった35)。931/1525年に発布された「カーヌーン・ナーメ(K.ānūnnāme:法令集成)」36)
では,カーシフの業務は以下のように規定された。
第一に,カーシフが管轄する地域において,然るべき時期と季節に土手(cüsur)の適切 な修復と浚渫(cürafe)を行い,壊れたままの土手や浚渫[の放棄]がないようにする。カー シフたちは,彼らの管理下にある村々のシャイフたちと村の人々に対し,如何なる時も村の 土手に望まれるような修復と建設がなされるように促さなければならない。土手の建設や浚 渫の維持管理がなされないことが理由で,土地が非冠水地(yer şerāk.ī)になることが決し てないよう,努力し,注意を払うようにせよ。
祝福されたるナイルの増水期に,(水位が)最高潮に達し,各々の土地に[水が]届いたら,
[カーシフたちは,]まず,水が届いた土地の各々の農民たちに播種させ,耕作を命じる。水 が届いた土地において努力が欠如し,耕作がなされない土地が残るようなことが一切ないよ うにせよ。
カーシフが管轄する地域において荒廃した村がある場合,可能な限りの方策をとって,耕 33)この灌漑方法については[石田1974: 34-44; Borsch 2000; 加藤2010; 熊倉2013: 49-50; 長沢2013:
251-269]を参照のこと。
34)スルターニー・ジスルの多くは,ナイルに垂直に設置された土手であった。ナイルに対して垂直 の土手はサリーバ(ṣalība)あるいはサラーイブ(ṣalā’ib)と呼ばれ,堰の役割を果たした[Reg.
3001-001904; 長沢2013: 259, 315(n. 10)]。それゆえ,ベイスン灌漑の構造上最も重要な部分であっ たと考えられる。
35)「カーヌーン・ナーメ」によれば,カーシフが任命されたのは,シャルキーヤ県,カルユービーヤ県,
ビルバイス県,ダカフリーヤ県,カトヤー県,アトフィーフ県,ガルビーヤ県,ミヌーフィーヤ県,
ブハイラ県,ギザ県,ファイユーム県とバフナサーウィーヤ県,ウシュムーナイン県,マンファルー ト県,アルワーフ県であった[K.ānūnnāme: 360]。ファイユーム県はバフナサーウィーヤ県とあわ せて1管轄区とされた。
36)エジプト州の「カーヌーン・ナーメ」はスレイマン1世(r. 926-74/1520-66)期に,エジプト州 総督イブラヒム・パシャ(r. 931-2/1525-6)によって発布された。エジプトに駐屯する軍団,各 種役人の職務,土地権利の処分等について規定した,オスマン朝統治下において初めての明文法で ある[‘Afīfī 1991: 34-39; Michel 1996: 120-122; 熊倉2009: 64-65]。
作の推進に最善の努力を尽くすようにせよ。そして,耕作されるようになった村が(再び)
荒廃することがないよう,必要とされる行動をとり,最大限の警戒と事前の対策をとるよう にせよ[K.ānūnnāme: 360]。
また,業務内容はそれだけに留まらず,管轄県内での徴税の責任者でもあった。
カーイトバーイの時代にそうであったように,各々のカーシフの管轄地域にある土地にお いて賦課されたもの(tak.sīṭ)を『租税台帳irtifā‘ defterleri』に従って十全に集め,国庫に送 ることはカーシフの責任と義務である。現在もこれまで通りこの法に準ずることとする。各々 のカーシフが管轄する範囲において必要なことは,村々の良質の土地を十全に耕作すること を命じ,会計の台帳に従って生じる賦課されたもの及びハラージュを集め,非冠水地を除 く良質の土地から全てのハラージュ税を完全に集めて国庫へ送ることである[K.ānūnnāme: 360]。
灌漑設備の維持管理と徴税の他,アラブ部族の取り締まりなどに関する事柄もカーシフの責 任とされ,カーシフは地方のインフラ,財務,治安において責任を担った。その意味で,16 世紀前半のカーシフ職を県総督に位置づけることもできるであろう37)。しかし,その役割の肝 要は,やはり,土地から最大の利益(税)を引き出すことであったと言える。以上のことを踏 まえれば,ファイユーム県とバフナサーウィーヤ県のカーシフであったジャーニム・ミン・カ スルーフが,自分の管轄であるファイユーム県の灌漑や徴税に関する記録を持っていたことは,
カーシフの職務という点から説明することが可能である。特に,アヤソフィア写本に収録され た記録のうちアイユーブ朝期の調査記録には,ファイユーム県における灌漑設備や灌漑の構造 といったカーシフ職が必要とする知識についても収められている。アイユーブ朝期からオスマ ン朝期にかけて灌漑システムに大きな変化がなかったことを考慮すれば,アイユーブ朝期の記 録もオスマン朝のカーシフにとっては有意義なものであったに違いない。
以上がアヤソフィア写本2960番の構成および編纂年代と目的についての見解である。次章 では,オスマン朝統治初年の徴税調査記録に焦点を当て,その序文と,記録対象となった村々 の傾向を把握し,この記録が何に基づくものであるか,また史料としての位置づけについて検 討していきたい。
3. オスマン朝統治初年の徴税調査記録の由来と史料としての位置づけ
(1)序文
オスマン朝統治初年の徴税調査記録の構成は,序章(fol. 172v-173r)と各村の記録(173r- 175v)である。まずは序章について見ていこう。
まず,冒頭には定型句「慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において(bi-ism Allāh al-raḥmān
al-raḥīm)」が記され,それに続いて「ファイユーム県(iqlīm)において現在耕作されてい
る村々の割当て(tawjīb al-nawāḥī al-‘āmira),その一部は勝利の王国の高貴なるザヒーラ庁
37) 1576年にサンジャク・ベイが上エジプト長官(ḥākim al-Ṣa‘īd)に任命されて以降,カーシフ職は
上エジプト長官の配下に置かれる一軍政官職となっていった[Holt 1966: 51, 78]。
(Dīwān al-Dhakhīra)に返還された」と記されている[MS Ayasofya 2960: 172v, l. 1-3]。こ のうち「ファイユーム県において現在耕作されている村々の割当て」というのが,この記録の 標題部分に当たる。「割当て」と訳したのは,「タウジーブ(tawjīb)」という語である。これは,
本来「課すこと」,「義務づけること」を意味するが,具体的に何を指しているのであろうか。
ここでは,ひとまずこのように訳し,この訳語の妥当性については記録内容を見た後に改めて 検討したい。
同フォリオの5-9行目から,この記録がとられた当時のスルターンがセリム1世(r. 918- 926/1512-1520)であったことと,この記録がハラージュ年度923年/1517-8のものであるこ とが明らかである[MS Ayasofya 2960: 172v, l. 9]。
10行目からは,「その割当てを担う者(min mā tawallā tawjīb dhālika)」38)が列挙される。そ れは,バフナサーウィーヤ県におけるスルターンの土地測量のウスターダール(amīr ustādār al-misāḥa al-sharīfa al-sulṭānīya)であるマーマーイ・ミン・カーニバーイal-Sayfī Māmāy min Qānibāy,ファイユーム県およびバフナサーウィーヤ県におけるスルターニー・ジスルの カーシフ(kāshif al-jusūr al-sulṭānīya)および総督(nā’ib al-salṭana al-sharīfa)であるジャー ニム・ミン・ダウラート・バーイal-Sayfī Jānim min Dawlāt Bāy39),財務(istīfā’)をおこな うカーディーであるワリー・アッディーン・アブド・アルカーディルWalī al-Dīn ‘Abd al-Qādir
al-Nashīlīと,同じくカーディーであるシャムス・アッディーン・ムハンマドShams al-Dīn
Muḥammad al-Ṣafnāwīである。そして,これらの政府側からの人物に加えて,ファイユー
ム県におけるシャリーアの裁定者(al-ḥākim al-shar‘ī)であるカーディー・シハーブ・アッ ディーン・アルクラシーShihāb al-Dīn al-Qurashī,そして村びとたち(ahl al-nawāḥī)といっ た地元の人びとが陪席したことがわかる[MS Ayasofya: 172v, l. 10-173r, l. 1]。その後の文章 では,この記録がどのようなプロセスを経て得られたものであるかを知ることができる。
前述の割当て(tawjīb)についての質問が後述する事柄をもって考慮された。それは彼らが,
慈悲あまねく慈愛深き彼の他に神はなく,その御力が高められ,その美名が清められたる偉 大なるアッラーにかけて,次に我々の庇護者たるスルターンであり統治者であり勝利の王で ある上述のセリム・シャーに(アッラーが)与えし恩恵にかけて,互いに宣誓と誓約を交わ した後に行われた。[誓いの中で確認されたことは,]後述する彼らの地域(bilād)の村々
(nawāḥī)には以下の事柄[に回答すること]のみが課される[ということである。その事
柄は,]彼らが割当てについて尋ねたところのもの,すなわち慣例として課されるハラージュ とディヤーファ(ḍiyāfa:歓待料)について,そして誓いの破棄や高貴なる取り分の管理
[が課される]などしてそれと相違する事が生じた時について,そして924年ラジャブ月18日/ 1518年7月26日に,担当官(walī al-amr)が検分することについてである[MS Ayasofya:
173r, l. 1-9]。
38)原文では,min mā tawallā tawjīb dhālikaに続く部分に人名が記されている。これを直訳すれば「そ の割当てを担ったもの(物)のうち[の者は]〜(人名)」となる。人についての説明に人の意味を 持つ関係代名詞manではなく,物や事の意味を持つ関係代名詞のmāが用いられている点に文法 的な違和感を覚えるが,各村の記録部分においても同様の表現が用いられており,書式上の定型句 と解釈する他ないものと考えた。
39)この人物については,本稿,註32を参照。
以上が序章の内容である。序文に記された日付から,この記録がハラージュ年度923年の ものであり,それは924年ラジャブ月18日/1518年7月26日に検分されたものであることが わかる。ハラージュ年度は太陽暦であるコプト暦に対応しているので40),ハラージュ年度923 年のはじまりは西暦(グレゴリウス暦)1517年9月11日となる。すなわち,この記録は,西 暦1517年9月11日から翌年のナイルの増水期前までを対象としたものである41)。したがって,
この記録は,その年の課税額の記録ではなく,年度末に行われる何が徴税/納税されたかにつ いての徴税調査の記録であったと言える。
次に,この時代はどのように位置づけられ,そして,その時代にとられた記録は何を語って くれるのかについて検討を進めていきたい。セリム1世率いるオスマン朝軍のカイロ入城後,
922年ズー・アルヒッジャ月30日/1517年1月24日のカイロとフスタートの金曜礼拝のフト
バ(khuṭba:説教)がセリム1世の名で読まれた。これによって正式にエジプトを統治する
新スルターンとなったことを表明したセリム1世は,早速その翌日から,各地方のカーシフ 職等を任命し,土地調査,灌漑設備の維持管理,徴税業務にあたらせた[Badā’i‘ 5: 149, 160- 162]。カーシフらによる一連の任務は,923年ジュマーダーII月18日/1517年7月8日ごろ に達成され,彼らは派遣先の地方からカイロに帰還した。その後,シャアバーン月1日/同年 8月19日に,セリム1世はマムルーク朝のアミールで,オスマン朝に帰順していたハーイル バクをエジプト州総督に任命した。同月23日/9月10日には,オスマン朝の主力メンバーが イスタンブルに引き上げ,その3日後,ハラージュ年度の新年度の開始とともに,ハーイルバ クによる統治がはじまった。つまり,この記録はハーイルバク統治期初年の記録であり,オス マン朝が初めてエジプトにおいて播種,収穫,そして収税までの一連の流れを経験した年の記 録であった。
ハーイルバク統治初年というのは,マムルーク朝の統治構造を保存しつつ,イクター地,リ ザク地,ワクフ地といった既存の土地権利の接収と課税を強硬におこなった時期であった42)。 彼が州総督の座についてから最初に行なったことは,主要官僚たちの任命であったが,この時 の官庁組織などの統治機構はマムルーク朝時代のままであり,要職についてもマムルーク朝時 代の人材を再任したものにすぎなかった43)。旧体制の維持については,この記録の序文に見ら れる割当てを担う政府側の人間の官職名からも読み取ることができる。例えば,「スルターン の土地測量のウスターダール」であるが,ウスターダール(ustādār)はマムルーク朝期には スルターンやアミールの家政において財務を担当する役職であった44)。「スルターンの土地測
40)本稿,註8参照。
41)「ベイスン灌漑」時代のエジプトでは,増水期に溜めた水が耕地から引きはじめる10月からが小麦 を中心とする冬作物の栽培時期であり,翌年の春に収穫された。その後,年度末に最後の収税が行 なわれると,再びナイルの増水がはじまるというサイクルであった。エジプトにおける栽培作物の サイクルについては,[佐藤1986: 302-305, 311-313; Sato 1997: 188-192, 197-200]を参照。また,
収税のスケジュールについては[Cooper 1976]を参照。
42)オスマン朝統治初期の状況についての詳細は,[Holt 1966: 43-45; Winter 1992: 7-14; 熊倉2009:
62-64]を参照。
43)例えば,秘書副長官職(nā’ib kātib al-sirr)に再任されたアフマド・ブン・アルジーアーンal-Shihābī Aḥmad b. al-Jī‘ān,ワズィール庁の顧問役(mutaḥaddith dīwān al-wizāra)とマムルーク軍団の 書記官(kātib al-mamālīk)に再任されたシャラフ・アッディーン・アッサギールSharaf al-Dīn al-Ṣaghīr,軍務庁帳簿方(istīfā’ al-jaysh)に再任されたアブー・バクル・ブン・アルマラキー Abū Bakr b. al-Malakīがいる[Badā’i‘ 5: 208-210]。
44)例えば,スルターンの家政における財務長官である大ウスターダール職は,バフリー・マムルーク 朝(648-784/1250-1382)期の官僚ウマリーal-‘Umarī(d. 738/1338)によれば,スルターン ↗
量のウスターダール」職についての情報は叙述史料から得られないが,その名称からスルター ン財源である土地の測量や財務を担当したと考えられる。また,スルターニー・ジスルのカー シフや県総督職もまた,マムルーク朝から引き継がれた職掌であった45)。
このように,この序文はマムルーク朝からオスマン朝への支配の移行期の状況を映し出して くれる他,地方における徴税調査についての具体的な情報を与えてくれる。例えば,徴税調査 がどのように行われていたか,関係アクターやプロセスについての情報を得ることができる。
序文からは,その年の徴税調査のために,スルターンの土地測量のウスターダールやスルター ニー・ジスルのカーシフといった地方の軍政官と2人の財務官が調査団を構成し,地元の人々 に対する聴取を通じて調査を挙行したことがわかる。さらに,聴取の内容は,慣例的に村に課 されているハラージュとディヤーファ,変更点があればそれについて,そして最新の状況につ いてであった。また,聴取の前には,当事者間で宣誓が交わされ,各々の責任範囲を明確にす る手続きがとられたことも読み取ることができる。
また,この記録からは地元の名士の存在など,年代記史料などからは得難い情報が認めら れる。例えば,地元側からこの調査に参列したカーディー・シハーブ・アッディーン・アル クラシーの存在である。この人物は「ファイユーム県におけるシャリーアの裁定者」という 尊称が冠せられていると同時に,名前の後ろに「ユースフ運河のシャーヒド(shāhid al-Baḥr al-Yūsufī)であり,ウドゥール様(al-sāda al-‘udūl)」という役職名も添えられている。この ことから,彼が市井のカーディーでなかったことは明らかである[MS. Ayasofya 2960: 172v,
l. 19]。彼が担っていた役職であるシャーヒド(複shuhūd)とウドゥールというのは同義で,
アッシュフード・アルウドゥール(al-shuhūd al-‘udūl)やシャーヒド・アドル(shāhid ‘adl) とも呼ばれる村の役職であり,その主な業務はカーディーに随伴して証言や種々の確定作業を 行うことであった46)。この職務内容から,この人物が村々の租税や灌漑についての記録を把握 し,管理していたことは想像に難くない47)。第4章で後述するように,al-Ak‘ābī村(no. 11)
↗ の下で奉仕する従者,飲食料,衣類,敷物,馬・ラクダ・牛・羊とその世話係の監督をし,その 責任範囲はスルターン家政の人材・食材・物品・家畜類に及んでいた[『高貴なる用語』:45-47]。
チェルケス・マムルーク朝に入ると,大ウスターダールはムフラド庁(al-dīwān al-mufrad:独立 官庁)の最高責任者に位置づけられ,スルターン子飼いのマムルーク軍団に対する月給(jāmakīya) や飼葉(‘alīq)等の支給に責任を負った[Ayalon 1954: 61-62]。この他に,ワクフのウスターダー ル(ustādār al-awqāf)や私財のウスターダール(ustādār al-amlāk)など,各部局にその財務を 担当するウスターダール職があった。
45)カルカシャンディーal-Qalqashandī(d. 821/1418)によれば,カイロより南の上エジプト地域に 総督職が創設されたのは,チェルケス・マムルーク朝期以降のことである[Ṣubḥ 6: 6; al-Ashqar
1999: 78-81]。また,カーシフ職についてはバフリー・マムルーク朝期から見られ,「ジスルのカー
シフ(kāshif al-jusūr)」や「泥土のカーシフ(kushshāf al-turrāb)」とも呼ばれた[Ṣubḥ 3: 444-
445; Zubda: 129-130]。主たる職務はジスルの再建であったが,チェルケス・マムルーク朝期以降,
重要性を増していった。ファイユーム県とバフナサーウィーヤ県においては,スルターン・バルクー クが県行政の長たるワーリー(wālī:長官)を廃止して以降,ワーリーに代わってカーシフが置か れるようになった[Ṣubḥ 4: 65; Muḥammad 1987: 29-32; ‘Abd al-Rashīd 1999: 35]。
46)ウドゥールの職務内容は,売買や賃貸契約等に立会い,その正当性を確定(ithbāt)し,契約文書 に署名してその内容が正しいことを証言することや,官僚たちが作成した租税に関する台帳に署名 をすること,検地の際にその地域にやってきた官吏のもとに出向き,地域の村々の土地や農民につ いての情報を伝えることなどであった[‘Abd al-Rashīd 1999: 66-67]。
47)ミシェルによれば,オスマン朝期カイロにおける大法廷Bāb al-‘Ālīの台帳の記録の中に,「村の シャーヒドたちの台帳に従えば」という文言が記されており,これを根拠としてシャーヒドとウ ドゥールといった人々が政府によって作成される台帳とは別の独自の台帳を有していたことを示し ている[Michel 2012a: 194-196]。
の記録には,過去の記録が彼の証言に基づいて記録されている。また,「ユースフ運河の証人」
は,ファイユーム県独自の役職であり,各村に規定された取水量の記録管理を担う役割を担う 人物であったと考えられる48)。シャーヒドやウドゥールといった村の役職がマムルーク朝期に も見られたものであることから,おそらくこの職もまた,マムルーク朝期から継承されたもの と考えられる。
(2)記録の対象となった村々
次に,記録の対象となった村々について見ていこう。この記録に収録されている村は27村 であるが,これはファイユーム県全体の一部にすぎない。Tuḥfaによれば,15世紀後半の段階 でファイユーム県には102の行政村があったが49),これと比較するとこの記録に収録されてい る村々はファイユーム全体の4分の1程度に留まる。果たして,この記録はどのような村を対 象としているのであろうか。
[表1]は,この記録に収録される27村(行)について,『軍務台帳』の概要部分に転記さ
れたマムルーク朝治下16世紀初頭の記録とオスマン朝統治初年の徴税調査記録における土地 保有の状況(列)を対照したものである。この中のオスマン朝統治初年の記録を見ると,これ に収録されている村はワクフ地かディーワーン財源のいずれか,あるいはその両方がある村で あったことがわかる。
ワクフ地については,最初の4村がマムルーク朝スルターン・バルクークal-Ẓāhir Barqūq
(r. 784-791, 792-801/1382-89, 1390-99)のワクフ地(nos. 1, 2, 3, 4)であり,それ以外は 二聖都のためのワクフ地(nos. 8, 14, 27),スルターン・シャイフal-Mu’ayyad Shaykh(r.
815-824/1412-21)のワクフ地(no. 16),アミール・カーンスーフ・アルハムスミアQānṣūh al-Khamsmi‘a(d. 9098/1502)のワクフ地(nos. 15, 21),その他小規模ワクフ地(nos. 5, 9, 24)であった。これらのワクフ地は概ね『軍務台帳』においてもワクフ地として登記されてお り,2つの記録の間に大きな変化は見られない50)。
一方,ディーワーン財源のある村は計19村である。そのうち,「ザヒーラ庁に返還され た」財源であることが明記されている村が10村(nos. 5, 6, 7, 9, 10, 11, 14, 15, 17, 24)であ り,その他の9村はどのディーワーンに属する財源であるかは明記されていない。これらは どのディーワーンに属する財源と捉えるべきであろうか。チェルケス・マムルーク朝期には,
複数のディーワーンが存在し,各ディーワーンにはそれぞれ財源が割当てられていた。これ らのうち主要なディーワーンは,ワズィール庁(dīwān al-wizāra, dīwān al-dawla:財務庁), ハーッス庁(dīwān al-khāṣṣ:私財庁),そしてスルターン・バルクークによって創設された ムフラド庁であった51)。しかし15世紀半ば以降,王朝の経済危機に際して,ディーワーンご 48)エジプト国立文書館には948/1541年にオスマン朝政府によって編纂された『ユースフ運河の取水 台帳Daftar Irtifā‘ al-Miyāh bi-Baḥr sayyid-nā Yūsuf ‘an al-qabḍa al-Yūsufīya tābi‘ wilāyat al-Fayyūm』
の写しが現存しているが,その序文によれば,この台帳は当時ユースフ運河のシャーヒドであった 人物の台帳(daftar)に基づいた記録であるという[Reg. 3001-024267: 17]。このことから,ユー スフ運河のシャーヒドは,ユースフ運河の灌漑に関する記録を管理していたと考えられる。
49)Tuḥfaに収録される村数については,[熊倉2009: 74[表2]]を参照。
50)ただし,寄進先が異なる例(nos. 8, 27)や,私有地やリザク地がワクフ地化した例(nos. 15, 21, 24)などの若干の相違は見られる[表1]。
51)スルターン・バルクークは,子飼いのマムルーク軍団の拡充のために,専用の財源を確保し,そ れを管理するムフラド庁を創設した。ムフラド庁の創設については,[Igarashi 2006; 五十嵐2011:
37-66]を参照。