ハイ ドンゆか りの地を訪ねて
小 幕 幸 夫
はじめに
昨年
( 2 0 0 9
年)はフランツ ・ヨーゼ フ ・ハイ ドン (FranzJosephHaydn,1 7 3 2
年‑1 8 0 9
年)の没後2 0 0
年だった。 この機会 にハイ ドンゆか りの地を訪れてみた0ハイ ドンは同時代に活躍 したモーツアル ト
( 1 7 5 6
年‑1 7 91
年)やベー トーヴェ ン (1 7 7 0
年‑1 8 2 7
年)に比べ、生涯 において劇的な事件が少ないせ いか、どち ら か というと地味な存在であるが、モーツアル トが6曲か らなる弦楽四重奏曲集 『ハ イ ドンセ ッ ト』を捧げ、ベー トーヴ ェンが師事 した ことか らも分かるように、多くの尊敬を集めた時代 を代表する作曲家であった。周知のように彼は交響曲の父、
また弦楽四重奏曲の父 と呼ばれているが、古典派音楽の確立者 としての地位は音 楽史上不動のものである。作品は交響曲が
1 0 4
曲 (+2曲+協奏交響曲1曲と断片 1曲)、弦楽四重奏曲6 8
曲をは じめ とし、膨大な数に上る。昨年Brilllantか ら発 売 された 『Haydnedltion』はC D1 5 0
枚か らなる大部のものであ り、今 まで録音 さ れていなかったバ リ トン三重奏曲 (この部分だけで も2 0
枚 !なお ここでいうバ リ トンとは男声ではな く、弦楽器である) まで含 まれているが、 これで も完全な全 集ではない。 日本の中学校の音楽の教科書にも取 り上げ られた 『弦楽四重奏曲作 品第7
7番 (作品7 6
の3)』1の第2楽章に用い られた皇帝讃歌 「神よ、皇帝 フランツ を守 り給え」の旋律は、戦前にはオース トリア国歌 として、現在は ドイツの国歌 として用いられ、広 く知 られている。1 弦楽四重奏曲が全部で68曲 しかないのに第77番 とい うのは奇妙な感 じがす るが、 これは次の よ うな事情 による. ハイ ドンの作品は通常 「ホ‑ボーケ ン番号」で呼ばれ るo これはオ ランダ の音楽学者ア ン トニ‑ ・ヴ ァン ・ホ‑ボーケ ン (AnthonyvanHoboken1887年‑1983年)がハイ ド ンの作品 を整理 し、ジャンル別 に、作曲順 の番号 (‑ホーボーケ ン番号) を付 けた ものである。
その結果83曲がハイ ドンの弦楽四重奏曲 と認定 されたが、後 に偽作 と判 明された もの(op.3な ど 8曲)及び他 の曲種か らの編 曲 (op.51の7曲) を除 くと、オ リジナルの弦楽四重奏曲 としては 68曲になる。ただ し、付 された作曲順 の番号は、それ まで慣習的 に使われて きたため、除かれた 番号 を欠番 としてそのまま使われている。
1.ローラウ (Rohrau)
ハイ ドンは
1 7 3 2
年3月31
日に、当時は神聖 ローマ帝国の一部であった下オース トリア大公国の寒村 ロー ラウに、車大工 の父の長男 として生まれた。現在はニー ダーエスター ライ ヒ州 に属 して いるo ロー ラウに行 くには ウ ィー ンか ら電車でB ruc ka nd e rLel t ha
に行 き、そ こか らHai nb u rg
行 きのバスに乗 り継いで行かなけ ればな らない。7年前 にも一度訪れた ことがあるが、だいぶ昔の ことなので、バス の運転手に頼む と、生家のす ぐ近 くで降ろして くれた。辺都な所なので以前 も訪 問者はまば らだったが、昨年は没後200年だったにもかかわ らず、着 いた時は訪問 者が筆者 しかいなかった。(ハイ ドンの生家。ハ ンガ リー風 の茅葺屋根が見 られ る)
(生家の中庭。 中央 にハイ ドンの胸像が立 っている)
(ハイ ドンが誕生 した部屋。 中央 に使 った揺 り寵、右奥 には彼 の胸像が見 える)
(ハイ ドンが使用 したピアノ)
2. ウィーン ( Wi e n )
8歳 の時、ウィー ンのシュテ フ ァン大聖堂 の聖歌隊のメンバー とな り、一般教 養 と音楽 の基礎 を身につける。そ の後弟 の ミヒヤエル (1737年‑ 1806年) もこの 合唱団に加わ った。
「
(ハイ ドンも歌ったシュテファン大聖堂)
1749年、17歳 になったハイ ドンは声変わ りのため退団 し、音楽の個人教師や 町の楽団に加わって 自活する。
3. アイゼンシュタット ( Ei s e n s t a d
t)当時の ドイツ、オース トリアにおける音楽家 としての最高の地位 は、王侯貴族 のお抱え楽師であった。 ウィー ン社交界の花形であった トウ‑ ン伯爵夫人の音楽 教師を皮切 りに
、2 5
歳頃にはフユール ンベル ク男爵のワイ ンツイールの居城 に招 かれ、ヴ ァイオ リン奏者 となる。 ここで最初 の弦楽四重奏曲群 を作 曲す る。27歳 頃にはボヘミアのモル ツイン伯爵家の楽長の座 に就 き、最初期の一連の交響曲を 作曲す る。ハイ ドンの音楽活動 を決定づけたのは、 1761年、29歳 の時のハ ンガ リーの大貴 族エステルハ‑ジ侯爵家副楽長への就任である。 1766年、ハイ ドン34歳の時、楽 長のヴ ェルナ‑が死去 したので、楽長 に就任 し、 1790年か ら96年 まで、約5年間 の中断が あるものの、 1804年、ハイ ドン72歳 の年 まで結局38年間仕 え る ことと なった。
エステルハ‑ ジ候 の居城 はオース トリアのブルゲ ンラン ト州 の州都 アイゼ ン シュタ ッ トにある。 ここはウィー ンか ら何本 もバスが出てお り、鉄道 もある。
ここにはハイ ドンゆか りの場所が多い。 まず はアイゼ ンシュタ ッ トの顔 ともい えるエステルハ‑ジ候 の居城、エステルハ‑ジ (エステルハ‑ザ)宮殿。昨年は 折 りLもハイ ドン記念年 ということで、数多 くの音楽会 とともに、大規模な展覧 会が催 されていた。訪れたのが8月だったので音楽 を聴 く機会はなか ったが、展 覧会では彼の生涯 と作品が順 を追 って紹介 されてお り、要所要所で彼の代表作 を ヘ ッ ドフォンで聴 きなが ら見学できるような構成 になっていた。ハイ ドンが使用 したヴ ァイオ リンや前述のバ リ トンな ど興味深 い品 も展示 されていたが、写真撮 影は禁止 されていた。 またハイ ドンザール (Haydnsaal)という、ハイ ドンが 自分 の作品を演奏 した、音響 も外観 もすぼ らしい立派なホールがあるのだが、残念な が らここも撮影禁止だった。なお先 に述べた『Haydnedltion』に収め られている
「交響曲全集」(これは 『交響曲全集』として も分売 されている)は、アダム ・フィッ シャー指揮、オース トリア ・ハ ンガ リー ・ハイ ドン管弦楽団の演奏 によるもので あるが、すべて このホール を使 って録音 されて いるので、そ の豊かな響 きを堪能 できる。
(エステルハ‑ジ宮殿)
次に訪れたのはハイ ドンが住んでいた住居。現在はハイ ドン記念館 になってい て、ハイ ドンのかつ らなど面白い展示物があったが、残念なが らここも内部は撮 影禁止だった。 ここには宮殿か ら歩 いて5分程度で行ける。アイゼ ンシュッタッ
トの中心部は広 くないので、歩いて回ることができる。
(ハイ ドンの住居)
次に訪れたのはハイ ドンの眠るベル ク教会。 この中にハイ ドン廟がある。教会 の内部は見学無料だが、ハイ ドン廟 を見 るには受付の女性 に見学料 を払わなけれ ばな らない。
(ベルク教会)
(教会 の内部)
(ハイ ドン廟)
(墓碑銘)
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最後 にブルゲ ンラン ト州立博物館内に行きハイ ドンが使用 したオルガ ンを見学 した。
(ハイ ドンが使用 したオルガ ン)
エステルハ‑ジ家でハイ ドンは
4
人の侯爵 に仕えたが、3
人 目の君主バ ウル ・ア ン トン侯は音楽 にまった く関心がな く、ハイ ドンに名誉楽長 の称号 を与 え、 自由 な活動 を許 した。そ こでハイ ドンは1791年か ら92年 と1794年か ら95年 にかけて、ロン ドンの興行主ザ ロモ ンの招 きで
2
回にわたってイギ リス に渡 り、ザ ロモ ンが 主催す る演奏会のために12曲の 「ザ ロモ ン交響曲集」(交響曲第93番〜 104番)を作 曲 し、 自ら指揮 をす る。 この作品群はハイ ドンの交響曲の頂点 を極めた ともいえ るもので、『驚情』、『軍隊』、『時計』、『太鼓連打』、『ロン ドン』な どのニ ックネー ムのついた名曲の数々が含 まれている。イギ リス国王がハイ ドンにイギ リス永住 を勧めたほど、 ロン ドンにおけるハイ ドンの人気は圧倒的であった。イギ リスでの滞在はハイ ドンの創作 にも大 きな成果 をもた らした。ハイ ドンは ロン ドンで 『メサイア』 をは じめ とす るヘ ンデルの作品を聴 く機会 を得たが、 こ れは後 に 『天地創造』 と 『四季』 を作曲す るきっかけになる。
4.
再びウィーン一時はイギ リスに永住す ることも考 えたハイ ドンであったが、バウル ・ア ン ト ン侯 の後 を継 いだ4人 目の君主、ニ コラウス2世侯 の希望 によってオース トリア に帰国 し、ウィー ンに家 を建てた。 ここでエステルハ‑ジ家のために6曲のミサ 曲を作曲す るとともに、ハイ ドン音楽 の総決算 ともいうべき2つのオ ラ トリオ、
『天地創造』 と 『四季』 を発表 し、大作曲家 としての名声 を高める。 また先 に触 れた 『弦楽四重奏曲作品第77番』 (通称 『皇帝』) もこの時期 に作 られている。
ハイ ドンが晩年に住んだ屋敷は現在 ウィー ンの西駅の近 くにある。場所が良い せ いか多 くの観光客が訪れていた。 ここの展示 もなかなか充実 した ものであった。
長年尽 くして くれた使用人たちへの財産分与な どハイ ドンの心遣 いが感 じられる 資料や、ナポ レオン戦争の頃のウィー ンの様子な ど興味深 いものがあったが、内 部はやは り撮影禁止であった。なお この家の中にはハイ ドンを敬愛 したブラーム スの記念室 もあ り、合わせて見学できる。
(ハイ ドンが晩年 を過 ごした家。ウィー ンの歴史的建築物 には このよ うに紅 白の 旗が
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本立ち、W (
ウィー ンの頭文字) をかた どっている。(入 り口への通路。奥 に中庭が見 える)
(ハイ ドンが愛 した中庭)
1809年、ハイ ドンはナポ レオンのウィー ン侵攻の中で亡 くなった。砲声の聞こ える中、使用人たちはあわてふためいていたが、ハイ ドンは 「心配することは何 もないよ。ハイ ドンのいる所では何 も起 こらないか ら」を言った と伝 えられてい る。事実ナポ レオ ンは老巨匠に敬意 を表 し、ハイ ドンの家は標的にしなかったと いわれる。パパ ・ハイ ドンという愛称 にふさわ しい立派な最期であった。