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『聯邦志略』を読む

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(1)

著者 坂本 恵子

雑誌名 新島研究

号 110

ページ 120‑143

発行年 2019‑02‑12

権利 同志社大学同志社社史資料センター

URL http://doi.org/10.14988/pa.2019.0000000621

(2)

『聯邦志略』を読む

坂 本 恵 子

Ⅰ.はじめに

新島襄(脱国前の「新島七五三太」。以下本稿においては「新島」とい う。)は、幕末の多数の知識人の中で、その民主主義的思考において群を抜 いていた。彼は当時の知識人たちと同様に、書物によって世界の状況を把握 していたと思われる。それらの中で三冊の書物が彼の「脱国」に大きな影響 を与えたといわれている。私はその中の一冊である『聯邦志略』について興 味をもった。新島の民主主義的思考の基礎の一つを形成したと考えたからで ある。

2017年10月の東京新島研究会例会で『聯邦志略』について発表する機会 を得た。この『聯邦志略』は版を変えて出版されているが、新島が読んだの はどの版のものか、ということが話し合われた。理論的には1861年版であ るが、中国語による『聯邦志畧』なのか、日本版の訓点付『聯邦志略』なの かについては結論に至らなかった。

後述のように、1861年版訓点付『聯邦志略』は日本における初版本であ る1)。上記例会当時、私が入手できたのは1864年版『聯邦志略』の写しで あり、1861年版の写しの入手は困難であった。その後、国立公文書館で中 国語による『大美聯邦志畧』の写しととともに1861年版訓点付『聯邦志略』

の写しを入手することができた。それにより、彼が読んだ『聯邦志略』を確 認することができたのである。

本稿は、新島が読んだ『聯邦志略』を確認するとともに、彼はその書物に よってどのような影響を受けたのか、彼の民主主義的な考え方の根底にある ものについて追究を試みたものである。

(3)

Ⅱ.「本」との出会い

1.3

冊の本

新島がアメリカ行きを決意した背景には3冊の本との出会いがあった。

3冊の本とは『聖書』、『ロビンソン・クルーソー』、『聯邦志略』である。

『聖書』は漢訳の部分訳のものである。新島は、17、18歳のころ、中国の 古典を熱心に学ぶ中で、実はキリスト教に関する中国の本を手にしていたよ うである2)

ダニエル・デフォー(Daniel Defoe 1660年〜1731年)の『ロビンソン・

クルーソー』( Robinson Crusoe 1719年)は、当時オランダ語を通して日 本語に訳した、黒田麴盧の『漂荒紀事』(1848年訳了。草稿本外題には「魯 敏遜荒島紀事」とある3)。)と横山由清の『魯敏遜漂行紀略』(1857年出版)

があったが、後者は子どもを対象とした簡略本であるので新島が読んでいた のはおそらく『漂荒紀事』であろうと思われる4)

『聯邦志略』は、アメリカ人宣教師イライジャ・コールマン・ブリッジマ ン(Elijah Coleman Bridgman 1801年〜1861年)によって著された中国語に よるアメリカ合衆国の地理歴史書である。

2.アメリカへ渡る決意

江戸に住み、西洋へのあこがれを抱いていた新島は、友人から借りた「ア メリカの地図書」(合衆国の地理歴史書)を繰り返し読んでいた。この友人 は杉田廉卿5)と推測されている6)。さらに彼の書斎で小さな漢訳聖書7)を見つ け、孔子の教えとは全く異なる「神とは何か?」という問いに対する答えを 模索している8)。この頃はまだキリシタン厳禁であったが、新島は杉田廉卿

・津田仙・吉田賢輔らとキリスト教の勉強会を持っていたようである9)(図

1)。「外国を訪れてみたいという欲望をかきたてたのはこの本だった」10)と新

島が述べているように、『ロビンソン・クルーソー』の日本語訳を読んで彼 はアメリカへ渡る決意をほぼ固めたのである。

アメリカ行きを決意させることになるこれら3冊の書物を新島が読んだの

(4)

は、(聖書に関しては本格的に読んだのは)1863年頃である11)。その背景に は玉島航海があった。すなわち、前年11月12日からこの年の1月14日に かけて、備中松山藩の洋式帆船、快風丸に便乗して江戸から玉島まで航海す る12)が、その時の様子を彼は次のように述べている。

「江戸に戻ってくるのに3か月あまりかかったが、私はその航海を心か ら楽しんだ。私が青春時代のすべてを過ごした安中藩主の正方形の囲い 地(江戸藩邸)─そこでは私は、天というものが四角形で切り取られた ほんの小さな一区画でしかないと思っていた─からはるか遠くに離れた のは有益なことだった。

これが、いろいろな人々と交わりさまざまな場所を目にする初めての体 験であった。この航海によって、私の精神的な視界は明らかに大きく広 げられた。」13)

新島は、この玉島航海によって狭い藩邸中心の生活から広々とした外界の 生活を経験し、はじめて解放感を味わい、さらに狭い閉鎖的な日本社会では なく、広く海外に目を向けるきっかけとなったのである。

1 「津田仙氏の信仰経歴談」

(5)

一方、ペリー来航以来、日本国内でアメリカ、イギリスに対する関心が高 まる中で、1863年、新島は英学に興味を持ち、その年には父民治からイギ リスの国音辞書および国文法書を購入してもらい英語の勉強を始めてい る14)。翌年には、蘭学に見切りをつけて、駿河台袋町の川勝広道の英学塾に 寄寓して英語を本格的に学んでいる15)

Ⅲ.『聯邦志略』について

1.『聯邦志略』

『聯邦志略』のことを新島は My Younger Days において‘a historical ge- ography of the United Sates written by the Rev. Dr. Bridgman of the North China

mission’16)と述べている。また、ボストン上陸直後にハーディー夫妻(Al-

pheus Hardy 1815年〜1887年、Susan Holmes Hardy 1817年〜1904年)に提 出した(1865年10月)手記、いわゆる「脱国の理由書」では ‘an atlas of United States of North America’17)(北アメリカ合衆国地図書)と表記されて いる。

ハーディー夫妻の息子で Life and Letters of Joseph Hardy Neesima (以下 Life and Letters と表記)の編者であるA. S.ハーディー(Arthur Sherburne Hardy 1847年〜1930年)は前述の「北アメリカ合 衆 国 地 図 書」に つ い て

「ここで『地図書』と呼ばれているものは、中国、上海のブリッジマン博士 によって書かれた合衆国史である。」18)と注釈している。

また、新島は「脱国の理由書」の中で、「繰り返し読み、脳髄が頭からと ろけ出る程驚いた」19)と述べ、『聯邦志略』を読んだときに受けた衝撃につい て当時の心境を語っている。

日本では幕末に持ち込まれて、佐久間象山、吉田松陰、横井小楠、橋本左 内らが競って読み、この書物によって世界の情報、知識を得ていたのであ る。文久年間(1861年〜1864年)に書かれたものではないかと考えられ、

柳川春三の著とされる『横浜繁昌記』には「舶来書籍」の項がある。そこに は「近今、英・米二国、務めて漢学を修め、香港・上海等の処に在って、刊 する所の漢字の著書頗る多し。(中略)新出の書目、推歩(暦算)には『談

(6)

天』『数学啓蒙』『代数学』(中略)、広輿史乗(地理・歴史)には『瀛環志 略』『地理全志』『地球説略』『万国綱鑑録』『大英国史』『聯邦志略』、新報記 事(新聞雑誌)の属には『遐邇貫珍』『六合叢談』『中外新報』『上海新聞』

等」と記され、当時、中国から入って来た書籍、新聞、雑誌が挙げられてい る。そして最後の所に「老人未だ多くこれを目撃せず、姑く耳聞を録して、

以て看客の参考に備ふるのみ」(原漢文)と書かれている20)。このように、

当時、新知識を求める人々の間で、『聯邦志略』をはじめとする中国舶来の 書籍、新聞雑誌が話題になっていたことがうかがえるのである。

2.『聯邦志略』の著者

著者ブリッジマンは中国名を高理文、裨治文といい、中国に最初に赴任し たアメリカ合衆国のプロテスタントの宣教師であった。

マサチューセッツ州ベルチャータウンに生まれた彼は、アーモスト大学を 卒業した(1826年)のち、アンドーヴァー神学校を卒業し(1829年)、アメ リカン・ボードの宣教師となり、中国に赴任した。1830年、1月にマカオを 経て2月広東に到着し、その後上海に赴任した。病のため一時帰国した

(1852年)が翌年上海に戻り、その後も長く中国に留まって教育や翻訳の仕 事に従事した。死後、上海に葬られた。彼は聖書の中国語訳や英語の月刊誌

Chinese Repository の創刊、編集にも携わっている。

3.『聯邦志略』の種類

『聯邦志略』は1838年に初版が出版されてから、タイトル、内容、印刷所 を変えながら数回、再版されている。

このうち、日本で出版された『聯邦志略』について、吉田寅氏は以下の

(d)〜(g)の4種を提示している21)のに対し、吉海直人氏は(d)〜(h)の5 種を提示している。

そこで、出版年を辿りながら、本のタイトルと特色をみてみよう。

(a)『美理哥合省國志畧』1838年版

1838年にシンガポールで出版された初版本であり、全125葉(1葉は2ペ ージ)から成る。27章に分かれ、アメリカの諸事情を総合的に紹介してい

(7)

る。

『海國圖志』22)の中のアメリカについての記述はもっぱらこの『美理哥合省 國志畧』によっている。この『海國圖志』は幕末に佐久間象山、吉田松陰、

橋本左内、横井小楠らに多大な影響を与えた書物である。

なお、この『美理哥合省國志畧』は、1844年に香港で重刊され、『亜墨理 格合衆國志畧』として出版されている。

(b)『亜美理駕合衆國志畧』1846年版

『亜墨理格合衆國志畧』を改題し1846年に廣州で出版されたものであり、

全75葉から成る。27章の構成は『美理哥合省國志畧』と共通であるが、折 込の地図や、より新しい情報が加えられている。のちに、『聯邦志畧』と改 題されている。

(c)『大美聯邦志畧』(図2、図3)1861年版

『聯邦志畧』を増補改題し1861(文久元)年に上海で出版されたもので、

全107葉から成る。国立公文書館所蔵の『大美聯邦志畧』は上・下の二巻が 合綴されている。また、叙に孟夏と記されていることから、本書は4月に刊 行されたことがわかる。

大幅に改訂した理由について、改訂版に付された「重刻聯邦志畧叙」の中 でブリッジマンは次のように記している。

今垂二十餘年、原版散失、杳不可、尋予又遷居滬上、索書者踵接於門、

2 『大美聯邦志畧』扉 図3 『大美聯邦志畧』より

(8)

懼無以應其請也、因不得已復捜初稿、輿華友宋君重加冊改、並創為漢字 地球等圖。

(20年余り経って、原版が散失しどうしようもない。そこで私は上海に 転居した。『聯邦志畧』を探し求めて多くの人が家にやってきたが、そ の要請に応えることができないのでやむを得ず初稿を捜した。中国の友 人宋君と初稿をもとにして地球等の図を付け加えたり書き改めたりして 改訂した。)

また門生梁植敬は 今垂二十䠚年、國事日有増益、吾将重刻新之、予蓋為 我校乎。(私のためにまた校訂してくれないか)というブリッジマンの言葉 を「跋」において述べている。

中国ではこの頃、アヘン戦争が終わり、太平天国運動の時期に入って、ア メリカ社会に関してより正確な情報が必要とされたことも改訂の背景にある のかもしれない。

(d)『聯邦志略』1861年版(図4、図5)

みつくり げ ん ぽ

1861(文久元)年に江戸で出版された日本での初版本であり、箕作阮甫が

『大美聯邦志畧』に訓点を施した、上・下二巻から成る和刻訓点本である。

訓点とは元来、和読するために付す返り点と送り仮名のことであるが、箕 作阮甫の訓点は、返り点を付けるが送り仮名はほとんど付けていない。その 代わりに和読の便宜を図った洋訓がカタカナで書かれている。

4 1861(文久元)年版『聯邦志略』扉 図5 1861(文久元)年版『聯邦志略』より

(9)

『大美聯邦志畧』の和刻訓点本の開板願出が出された期日について明らか ではないが、「開板見改元帳」(開板見改酉歳分)には次のように記載されて いる23)

「聯邦志略上下二冊

右私蔵板支度奉存候間此段草稿を以奉伺候 以上 文久元酉年

十月十五日 家持万屋兵四郎煩ニ付代市太郎 ㊞

朱ニ而消候分都而相削其場所不明様送込板下出来之上今一応為見改 可差出事但し此本井原図共相添差出可申候」

1861年の10月には既に開板の準備が整っていたようである。しかし、検 閲の結果、朱筆部分を削除させられ、再度の検閲を課せられての条件付き出 版となったことがわかる24)

また、本書の末尾には「文久紀元辛酉晩冬改刻」と記されている。したが って、10月に開板願出が提出され、12月に出版されたと考えられる。さら に「改刻」となっているのは蕃書調所での検閲の結果、何らかの手が加えら れたということであろう。

なお、文久元年晩冬という時期については、刊記の刊年ではなく、末尾蔵 書目録にある刊年からの類推であるという指摘もある25)

(e)『聯邦志略』1864年版(図6)

馬邦裨治文撰述・大日本箕作阮甫 訓點『聯邦志略 全部』として江戸 で出版された訓点版であり、上・下 二巻から成る。「元治甲子秋日」と 記載されており、1864(元治元)年 の秋に出版されたことがわかる。

一丁の最初に「跋」がある26)。こ れは、『大美聯邦 志 畧』、1861年 版 訓点付『聯邦志略』ともに、最初に

6 1864(元治元)年版『聯邦志略』扉

(一丁の最初に「跋」がある。)

(10)

「重刻聯邦志畧叙」と記されていたのとは異なっている点である。

(f)『聯邦志略』1871年版

1871(明治4)年に日本で出版されたものであり、上・下二巻から成る。

「跋」から始まり、「重刻聯邦志略叙」と続き、本文の体裁と内容は1864 年版と同じである。

(g)『聯邦志略』1874年版

1874(明治7)年に日本で出版されたものであり、上・下二巻から成る。

1871年版と同様、「跋」から始まり、「重刻聯邦志略叙」と続き、本文の 体裁と内容は1864年版と同じである。

(h)『聯邦志略』刊年未詳版(無刊記版)

吉海氏所蔵の版種であり、敦賀屋九兵衛・秋田屋太右衛門・河内屋甚助・

須原屋茂兵衛・山城屋佐兵衛・椀屋喜兵衛・和泉屋市兵衛・和泉屋孝之助と いう八書肆の合版になっている27)

Ⅳ.新島が読んだ『聯邦志略』の確認

『聯邦志略』は1838年のシンガポールでの初版以来、中国、日本で複数回 出版されているが、新島が読んだのはどの『聯邦志略』であろうか。

まず、『大美聯邦志畧』の「叙」においてブリッジマンが述べているよう に、初版(1838年)の原版は散失し、初稿しか残っていないので、初版、

1844年版、1846年版を新島が手に取ることは不可能である。また、新島が 1864年7月17日(陰暦6月14日)夜半にベルリン号に乗船し脱国したこ とを考えると、彼が読んだ『聯邦志略』は、1864年版よりも前、つまり 1861年版のものであろうと考えられる。

しかし、上記Ⅲで挙げたように、1861年版の『聯邦志略』には中国で出 版された『大美聯邦志畧』と日本で出版された訓点付のものがある。いずれ か確認できないであろうか。国立公文書館で写しを入手できた『大美聯邦志 畧』と1861年版の訓点付『聯邦志略』を比較しながら考えてみたい。

(11)

1

.内容からの考察

1861年版の訓点付『聯邦志略』の刊記には先に述べたように中国の『大 美聯邦志畧』を「改刻」した旨の記述がある。どのように改刻したのであろ うか。改刻の箇所、内容が判明すれば新島が読んだ『聯邦志略』が確認でき るのではないかと考え、検討してみることにした。具体的には、削除あるい は加筆されたものがあるか、あるとするならば、それはどのような内容かと いう観点に基づく調査である。

アメリカ合衆国を説明するにあたり、キリスト教についての説明がないの は極めて不自然ではないかと考えた。訓点付にざっと目を通してみたとこ ろ、「牧師」「礼拝堂」という言葉はみられるが、「天父」、「神」という文字 は全体を通して見当たらない。

そして、もしキリスト教についての記述があるなら、当然新島はそれにつ いて触れているに違いない。特に、17、18歳でキリスト教に関する本を読 んだ経験がある新島にとって、彼の読んだ『聯邦志略』にキリスト教につい て述べた箇所があるなら強い関心を示し、それについて何らかの彼の考え 方、感じ方が記されているのではないか。彼の記述の中でキリスト教に全く 触れていないというのはきわめて不自然だと考えられる。このようなことか ら、訓点付『聯邦志略』において、キリスト教に関する記述が削除されてい たのではないかと考えられるのである。

2.『大美聯邦志畧』と訓点付『聯邦志略』についての比較、検討

(a)体裁

『大美聯邦志畧』では、扉には「辛酉夏續刻/大美聯邦志畧/滬邑墨海書 館活字板」、次に「馬邦畢遮/邑裨治文撰」とある。次に「重刻聯邦志畧叙」

が一丁に、「原序(原叙)」が二丁に、「叙(宋叙)」が三丁に、「發凡」が四

・五丁に記されている。六・七丁には、「大美聯邦志畧全目」とあり、「巻 上」、「巻下」の目次がそれぞれ書かれている。本文の一丁には「大美聯邦志 畧上巻/馬邦 畢禮遮邑裨治文撰」とあり、「覓地原由」から始まり、五十 丁の最後には「大美聯邦志畧上巻終」と記されている。続いて、一丁に「大 美聯邦志畧下巻/馬邦 畢禮遮邑裨治文撰」とあり、「緬邦」の説明から始

(12)

まり、四十八丁の最後に「大美聯邦志畧下巻終」と記されている。次に丁を 改めて、一丁から二丁まで「跋」があり、最後に「辛酉之歳孟夏中浣」、「受 業端渓梁植敬跋」と記されている(図7)。

訓点付『聯邦志略』では、扉には「馬邦裨治文 撰述/大日本箕作阮甫訓 點/聯邦志略 全部/江左老皂館藏梓」とある。次に「重刻聯邦志畧叙」が 一丁に、「原序(原叙)」が二丁に、「叙(宋叙)」が三丁に、「發凡」が四・

五丁にある。六・七丁には「大美聯邦志畧全目」とあり、「巻上」、「巻下」

の目次へと続く。本文の一丁には「大美聯邦志畧上巻/馬邦 畢禮遮邑裨治 文撰」とあり、「覓地原由」から始まり、四十七丁の最後には「大美聯邦志 畧上巻終」と記されている。「聯邦志略下巻」の一丁には「大美聯邦志畧下 巻/馬邦 畢禮遮邑裨治文撰」とあり、「緬邦」の説明から始まり、四十八 丁の最後に「大美聯邦志畧下巻終」と記されている。次に丁を改めて、一丁 から二丁まで「跋」があり、最後に「辛酉之歳孟夏中浣」、「受業端渓梁植敬 跋」と記されている。続いて、「東都江左老皂館發行書籍目録」が掲載され、

「右之外舶来新竒之書籍月々翻刻備高覧伏希博雅諸君日々多披閲文久紀元辛 酉晩冬改刻/大日本國江戸竪川第三橋/老皂館書舗 萬屋兵四郎記 ㊞」と なっている(図8)。

(b)目次

両者の目次は、上巻、下巻とも同じ記述である。

7 『大美聯邦志畧』跋 図8 『聯邦志略』跋

(13)

上巻は総論的な内容で、合衆国の地理(地図を含む)、歴史、政治、教育、

文化、言語、風俗、機械、貿易などに関する説明がなされ、目次として次の ような項目が挙げられている(図9、図10)。

覓地原由/疆域度数/山川平地/邦都道路/天時地気/土産物類 開国原始/民脱英範/建国立政/設官分職/理刑規制/語言文字 学館書籍/教化説源/百工技芸/商賈貿易/善挙述略/風俗人事

下巻は合衆国各州の地誌的紹介である。当時の合衆国は合計34の州と若 干の準州などによって構成されていた。各州ごとに州名と経緯度による地理

9 『聯邦志略』地図 図10 『聯邦志略』目次

11 『聯邦志略』目次 図12 『聯邦志略』目次と本文の一丁

(14)

的位置を示し、さらに政治の仕組みや教育事情について詳細に説明してい る。目次として次のような項目が挙げられ、縦二段組で記されている(図 11、図12)。

(c)目次と本文との照合

訓点付『聯邦志略』において目次と本文の内容を照合してみると、本文に おける「学館書籍」の見出しと説明の次に「百工技芸」の見出しと説明がな されていることが判明した。すなわち、目次では存在していた「教化説源」

の項目が本文においては見出しも説明も全くなされておらず、すべて削除さ れているのである。そして、この「教化説源」こそが、『大美聯邦志畧』に おいてはキリスト教についての項目であり、教義や教会活動、信仰への勧め が述べられている項目である。

(d)言葉、単語の置きかえ

次に、『大美聯邦志畧』の各項目で書かれている言葉や単語が、訓点付

『聯邦志略』においては別の単語に置きかえられている箇所が存在する。

例「原序」:聖学を教書と改める

(15)

「覓地原由」:聖経を教書と改める

「開国原始」:至上之主を神と改める

「善舉述略」:聖教を西教と改める

「風俗人事」:聖書を教書と改める(2か所)

「馬邦」:聖、医、律、三大学也。を教、医、律、三大学也。と改める

「瑪邦」:天主教会を洋教会と改める

「禄邦」:天主教を洋教と改める

「米邦」:天主教を洋教と改める

「跋」:聖教を西教と改める(2か所)

「跋」:聖学を教書と改める

(e)単語、文節、文章の削除

また、『大美聯邦志畧』の各項目で述べられている単語、文節、文章全体 が、訓点付『聯邦志略』においては削除されている箇所もある。

例「原序」:今日其創造者之啓予心乎、殆欲使予宣揚聖道、聯四海為一家 也。

「叙」(宋叙):抑若造物者特蓄此以待聯邦者、不誠巧哉。

「覓地原由」:況乎開闢化育、生成保養之恩、物與民胞、善悪存亡之要、

豈可忽而勿論。然而欲究此理必求正道/

謹按聖経、富鴻濛混沌、天地未形、惟風輿水、激揚鼓蕩。

至上之主発命、万彙攸成、譬彼国君家主、令出功成。惟 人原祖、至上之主親自匠始、復取男脅創立女配、賦以魂 霊、統鎮羣彙。詎受魔迷、自召禍害、日趨陥溺、淪胥以 亡、慈恩錫救我、主攸降、具載聖経、玩索自得。溯自原祖、

万国斯分、是普天下邦域衣冠、制度律例、縦或異同、既 原一祖尽属兄弟、興言及此、何復有本邦他国之異視哉。/

鳴謝上主、扶持恩徳遠邁往古、

「山川平地」:噫、造物之有益於人也、不䊓大哉。

「開国原始」:至上之主之䕃/聖書垂訓/以楽正道

「民脱英範」:創造者之

「語言文字」:蔑視至上造物者因(削除しこれを神と改めている)

(16)

「教化説源」:全文削除

「善舉述略」:惟基督聖教乖離神之意以立言純全無偏専以愛神愛人為主。

「風俗人事」:教以事眞神之道の「眞」を削除

「跋」:然聞流俗之世、趨向靡定、或流於道或流於釈、独未有知救世主 之聖道者、因慨然曰、儒教之忠恕、即聖教之愛人如己也。邦域 雖異、本同一源吾何不以大父之訓誥、普告異派同源之兄弟、使 知有所依帰乎。

(f)以上のような考察、比較、検討によって、新島が読んだ『聯邦志略』

は、1861年版訓点付『聯邦志略』であると確認できるのである。

3.「改刻」の内容

訓点付『聯邦志略』では『大美聯邦志畧』がどのように改刻されたのか、

改刻された内容がどのようなものであったのか。

改刻されたのは先に推察したようにキリスト教に関する部分であることが 明らかであろう。当時のいわゆる舶来本と同様に、訓点付『聯邦志略』にお いてもキリスト教に関する記述が削除、改変されていたのである。

Ⅴ.『聯邦志略』を読む

先に述べたように、新島が『聯邦志略』を友人の杉田連卿から借りて読ん だのは1863年頃である。二十歳の新島がこの書を読んで何を思ったか、

1861年版訓点付『聯邦志略』によって追体験してみよう。

1.『聯邦志略』の衝撃

新島は「脱国の理由書」において、先述の言葉に続けて次のように述べて いる。「大統領を選ぶこと、授業料無料の公立学校や救貧院、更生施設、工 場などを建てることを知って驚嘆した。そこで私は、日本国の将軍はアメリ カの大統領のようでなければならないと思い、こうつぶやいた。ああ日本の 将軍よ、なぜあなたはわれらを犬や豚のように抑圧するのか。われわれは日 本の人民だ。かりにもわれわれを支配するつもりならば、あなたはわれわれ

(17)

をわが子のように愛さなくてはならない。その時以来私はアメリカのことを 知りたいと思うようになった。」28)

そして別の箇所で、「日本人は外国人と貿易をする方法を知らないからわ れわれは外国に出かけて貿易の仕方を覚え、外国に関する知識を学ばなくて はならない。しかし幕府の法律が私の考えをすべて無視したので私は叫ん だ。幕府はなぜわれわれを自由にしてくれないのか。なぜわれわれを籠の鳥 か袋の鼠のようにしておくのか。そうだ、われわれはそのような野蛮な幕府 を倒さねばならない。アメリカ合衆国のように大統領を選出しなければなら ない。しかし、悲しいかな、そのようなことは私の力の及ばないことだっ た。」29)と述べている。

これらの言葉はアメリカ独立宣言について直接触れてはいないが、その影 響を受けていることを示すものである。

2.アメリカ独立宣言

(a)以下の英文は、アメリカ独立宣言のうち最も有名な箇所である。

「We hold these Truths to be self-evident, that all Men are created equal, that they are endowed by their Creator with certain unalienable Right, that among these are Life, Liberty, and the Pursuit of Happiness−That to secure these Rights, Governments are instituted among Men, deriving their just Powers from the Consent of the Governed, that whenever any Form of Government becomes destructive of these Ends, it is the Right of the People to alter or to abolish it and to institute new Government, laying its Foundation on such Principles,」

(b)同箇所について、今日の日本では次のように訳されている。

「われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主 によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、そのなかに生命、

自由、および幸福の追求の含まれることを信ずる。また、これらの権利 を確保するために人類のあいだに政府が組織されたこと、そしてその正 当な権力は被治者の同意に由来するものであることを信ずる。そしてい かなる政治の形体といえども、もしこれらの目的を毀損するものとなっ

(18)

た場合には、人民はそれを改廃し、かれらの安全と幸福とをもたらすべ しとみとめられる主義を基礎とし、また権限の機構をもつ、新たな政府 を組織する権利を有することを信ずる。」30)

(c)一方、『聯邦志略』上巻の「民脱英軛」の項をみるとアメリカ独立宣言 の要約が記載され、ここでは上記箇所が次のように書かれている。

「蓋以人生受造、同得一定之理、己不棄、人不奪人、乃自然 而然、以保生命、及自主、自立者也。苟欲此理、則當政以 従民志。設與理有合、即宜民更生。况明哲之心、人皆有

之。」

こうしてみると、原文に比べて要約され、ある程度意訳されているようで あるが、それでもアメリカ独立宣言の理念を新島に伝える契機となるには十 分と考えられる。

3.革命権

「建国立政」の項では、政治が話し合いによって行われること等、主権在 民の民主主義についての考え方や制度が記され、革命権と理解できるような 以下の表現もある(図13)。

「一曰君民同権、相商而治、如英法等國是也。一曰君非世及、惟民 所選、権在庶民、君供其職、如我聯邦國是也。夫我聯邦之政、

法皆民立、権不上操。其法之已立者、則著為定例、上下同遵。」

(大統領と人民は同等の権利をもつ。イギリスやフランスのように自治 を行う人民とともに経済活動を行う。わがアメリカ合衆国においては大 統領が人民に支持されないなら、人民が大統領を選出する。連邦政治に おいて、法は人民が制定するものであり、一部の者が制定するのではな い。また、制定された法はすべての者が遵守しなければならない。)

4.三権

「建国立政」の項には革命権に続いて、立法権、行政権、司法権について の記述がみられる。

(19)

「立法権柄、總由國會中元老紳 董従兩院司掌、外職不

分瓣理。・・・

行法権柄、總歸國君主持、位 分正 副、率 任 四 年。是 二 君 者、槪由各邦會中公舉。其選 舉 之 制、按舊 君 滿 任、選 期 將一レ届、先于前一年之冬月

・・・

國中審判總權、䈐歸國會之司

審總院、及所屬各官專執、其屬該若干院、若干員、悉由國會詳定。

・・・」

(立法権は、元老院と代議院から成る国会に属する。・・・

行政権は、大統領にある。正副の大統領を置き、その任期は4年とす る。大統領は各州会の中から選ばれる。その選挙制度は前任者の任期満 了に合わせて選挙の期日を前年の冬の月に届け、・・・

連邦裁判は、すべて最高裁判所及びもっぱら専門とするところに属す る。裁判所及び裁判官の詳細については国会が定める・・・)

このような箇所に、新島は日本とは異なった政治制度の存在を感じていた であろうと考えられる。今まで想像したことのない制度の存在があった。大 統領を選ぶことなどは、当時の日本では考えられないことである。将軍を選 挙するなどということは新島にとって理解できないことであったろう。

5.社会政策

「善挙述略」の項には、合衆国におけるキリスト教会の実態のほか、以下 のような社会政策的な内容の記述がある。

(a)授業料無料の公立学校

「義学之會」として授業料無料の公立学校が説明されている。

「義學之會、如貧家幼孩、有師從學、則捐金設學以 図13 『聯邦志略』「建国立政」の項

(20)

之。有男館、有女館、・・・」

(義学の会は、学校に通い続けることができない貧しい家庭の子どもの ために、資金を出し合い設けられた学校である。男子校、女子校、・・

・)

(b)老人施設

「養老之會」として老人施設が挙げられている。

「養老之會、如民中有老而無子、及寒苦無依者、不男婦、則 立此會以養之。」

(養老の会は、国民の中に子どものいない老人や寒苦のときに頼れる者 のいない老人がいるが、男女を問わず、この会を設立して彼らを養 う。)

(c)救貧院

「恤貧之會」として救貧院(経済的に恵まれない人たちに衣食住を保障す るもの)について説明されている。

「恤貧之會、如貧民之作工者、積銀若干、慮用、則入銀於

本會、會中存其銀、按月給厚利以補助之、俾貧民失業有一レ

仰望焉。」

(恤貧の会は、不慮に備えて少しずつ資金を積み立てる制度である。本 会に積み立てた資金は、福利厚生のための補助となる。貧しい者が失業 した場合、希望に応じてこの補助を受けることができる。)

(d)更生施設

「化罪之會」として更生施設に関する記述もみられる。

「化罪之會、凡監中之犯人、居處飮食、鮮潔者、民則立會爲之 建屋、俾各居一房、給以衣食、課以工作、不本屋之 外、・・・」

(化罪の会は、軽い罪を犯して更生施設に入れられた者には居所と食事 が与えられ、各部屋に一人入れられ、衣食が与えられ作業が課されると いう制度である。許可がなければ施設の外に出られない、・・・)

(e)そして「善挙述畧」の項の最後には次のように記され、締めくくられて いる。

(21)

「如是諸會、以故我国無甚貧者、是即聯邦之諸善舉也。」

(これらの会によって、我が国には非常に貧しい者はいない。これは連 邦の諸善舉によるものである。)

新島はこのような弱者への行き届いた施策にも驚嘆したに違いない。

以上みてきたように、『聯邦志略』に書かれているアメリカの国家制度の 印象は新島にとってきわめて強烈であった。そして、幕藩体制下の政治や社 会に対する批判的関心から彼はアメリカの政治制度や社会制度に深い興味を 示していたといえよう。

Ⅵ.おわりに

A. S. ハーディーは Life and Letters において、『聯邦志略』の説明にあ

たり、ブリッジマンの死後、妻イライザ・ジェーン・ジ レ ッ ト31)(Eliza Jane Gillett Bridgman 1805年〜1871年)が中国から日本にわたってきて、横 浜在住のアメリカ人宣教師S. R.ブラウン32)(Samuel Robbins Brown 1810年

〜1880年)を訪問し、亡き夫の著作を何冊か贈った、その何冊かがブラウ ンを通して配布されたのだと記している。そして新島の手に入ったのは疑い なくこれら数冊の中の一冊であったろうとも述べている33)

一方、すでにみたように、日本で和刻訓点本『聯邦志略』の開板願出が出 されたのが10月であり、出版されたのは12月である。イライザがブラウン を訪ねたのはいつか確認できないが、ブリッジマンが亡くなった1861年11 月2日以降である。ということはイライザが日本に持ってくる前にすでに開 板願出が出されていたということになる。つまり、開板願出が出された『聯 邦志略』はイライザがもってきたものとは別ルートで日本に入ってきたとい うことであろうか。イライザがブラウンに持っていった数冊の『聯邦志略』

が幕府の検閲も受けずにそのまま広まったとは考えられない。しかし、すべ て検閲を受けていたのか、数冊のうちわずかでも個人に渡されて、個人の手 元に残されたものがあるのか、興味あるところである。もし、個人の手元に 残されたものがあるなら、検閲前の幻の『聯邦志略』が存在することにな

(22)

る。

なお、イライザ・ジェーン・ジレットは、ブリッジマンの死後、彼の伝記 The pioneer of American missions in China : The life and labors of Elijah Cole-

man Bridgman を著している。今回入手を試みたが、日本では難しいよう

である。この伝記を読み解くことによって、『聯邦志略』についての新しい 発見があるかもしれない。

1)これについて杉井氏は、1864年5月の新島襄の「航海日記」にルビが使用され ていることを指摘し、『聯邦志略』の初版本は1864年5月以前でなければならな いことから、1861年版訓点付『聯邦志略』を探しあてた旨を述べている。新島 襄編集員会編『新島襄全集』5日記・紀行編(同朋舎、1984年)、p.538

吉海直人「『聯邦志略』について」『総合文化研究所紀要』第15巻(同志社女子 大学総合文化研究所、1998年)、p.34

2)「十七八年ノ比ヨリ窃カニ基督教ニ関スル支那ノ書類ヲ得ミ大ニ心ヲ養フ所カア リマシテ、」と述べている。新島襄全集編集委員会編『新島襄全集』2宗教編

(同朋舎、1983年)、p.416

3)吉海直人「『ロビンソン漂流記』について」『総合文化研究所紀要』第16巻(同 志社女子大学総合文化研究所、1999年)、p.32

4)本井康博著『千里の志 新島襄を語る(一)』(思文閣出版、2005年)、p.54 5)(1846年〜1870年)杉田玄端の義理の甥。当時の蘭学者杉田正卿の娘縫と結婚し

て杉田家に入っている。

6)新島襄全集編集委員会編『新島襄全集』8年譜編(同朋舎、1992年)、p.16 7)この漢訳聖書抜粋は、伝道用小冊子『真理易知』(Divie Bethune McCartee 麦嘉

1820年〜1900年が1853年寧波で、1862年上海で出版)であると考えられる。

布施田哲也「新島襄が初めて読んだ漢訳聖書抜粋『真理易知』について」『新島 研究』第103号(同志社社史資料センター、2012年)、pp.63-64

8)布施田哲也「新島襄が初めて読んだ漢訳聖書抜粋『真理易知』について」『新島 研究』第103号(同志社社史資料センター、2012年)、p.55

9)「津田仙氏の信仰経歴談」『護教』344号、1898. 2. 26(横浜市立中央図書館藏)

10) My Younger Days p.39

11)新島襄全集編集委員会編『新島襄全集』8年譜編(同朋舎、1992年)、p.16 12)新島襄全集編集委員会編『新島襄全集』8年譜編(同朋舎、1992年)、pp.12-15

(23)

13) My Younger Days p.37 日本語訳は『現代語で読む新島襄』編集委員会編『現 代語で読む新島襄』(丸善株式会社、2002年)、p.15

14)新島襄全集編集委員会編『新島襄全集』8年譜編(同朋舎、1996年)、p.15 『現 代語で読む新島襄』編集委員会編『現代語で読む新島襄』(丸善株式会社、2002 年)、p.273

15)『現代語で読む新島襄』編集委員会編『現代語で読む新島襄』(丸善株式会社、

2002年)、p.292 16) My Younger Days p.39

17)A. S. Hardy(ed.), Life and Letters of Joseph Hardy Neesima , Boston, 1891, p.3

(reprinted by Doshisha University Press Kyoto Japan, 1980)p.3(以下 Life and Let- ters と略す)

18)Ibid.(reprinted)p.3 19)Ibid.(reprinted)pp.3-4

20)増田渉著『西学東漸と中国事情』(岩波書店、1979年)、pp.22-23 21)吉田寅『中国プロテスタント伝道師研究』(汲古書院・1997年)p.378

22)魏源や中国人、西洋人によって書かれた、さまざまな地理書や歴史書を魏源が編 集したもので1842年に初版本が出版されている。

23)杉 井 六 郎「『大 美 聯 邦 志 略』の 翻 刻」『史 窓』第47号(京 都 女 子 大 学 史 学 会、

1990年)、p.35

24)吉海直人「『聯邦志略』について」『総合文化研究所紀要』第15巻(同志社女子 大学総合文化研究所、1998年)、p.33

25)吉海直人「『聯邦志略』について」『総合文化研究所紀要』第15巻(同志社女子 大学総合文化研究所、1998年)、p.34

26)同志社大学人文科学研究所所蔵の『聯邦志略』では、『大美聯邦志畧』、1861年 版訓点付『聯邦志略』と同様に、上巻「重刻聯邦志畧叙」から始まり、下巻「補 餘」の後に「跋」が記されている。

27)吉海直人「『聯邦志略』の版種について─資料(影印)と解題─」『総合文化研究 所紀要』第21巻(同志社女子大学総合文化研究所、2004年)、p.34

28) Life and Letters (reprinted)p.4 29)Ibid. pp.6-7

30)高木八尺、末延三次、宮沢俊義編『人権宣言集』(岩波書店、1957年)p.114 31)上海に女学校「裨文女塾」を開いた(1850年)が、これは上海で最初のプロテ

スタントの女学校であった。

32)アメリカ、コネティカット州出身のオランダ改革派の宣教師であり、新島とゆか

(24)

りのある人物である。最初、中国に赴任した(1839年〜1847年)が、妻の病気 のためアメリカに帰国、その後1859年11月に来日し、横浜に居住して、ヘボン

(James Curtis Hepbum 1815年〜1911年)とともに新約聖書の翻訳を進めた。い ったん帰米(1867年7月〜1869年8月)した折、アーモスト大学に家族ととも に新島を訪ねて一泊し面談している(1869年6月)。(『新島襄全集』8)。8月に 再来日し、新潟に赴任したが、その途中、安中で新島邸に立ち寄り、祖父弁治、

父民治と面会している。(『新島襄全集』3)。これは新島とブラウンの交流が密接 であったことをうかがわせるものである。

33) Life and Letters (reprinted)pp.3-4

資料

・馬邦畢遮/邑裨治文 撰『大美聯邦志畧』滬邑墨海書館、国立公文書館藏

・馬邦裨治文 撰述/大日本箕作阮甫訓點/『聯邦志略全部』/江左老皂館1861(文 久元)年、国立公文書館藏

・馬邦裨治文 撰述/大日本箕作阮甫訓點/『聯邦志略全部』/江左老皂館1864(元 治元)年、国立国会図書館藏

参考資料

・新見吉治「明治初年の米国知識─聯邦志略と米利堅志」『史学研究』39・1949年

・高谷道男『S. R.ブラウン書簡集』(日本基督教団出版部、1965年)

・和田洋一『人と思想シリーズⅡ 新島襄』(日本基督教団出版局、1973年)

・J. D.デイヴィス著 北垣宗治訳 『新島襄の生涯』(小学館、1977年)

・白井厚・田中義一・原田讓治「『アメリカ独立宣言』の邦訳について(1)」『三田学 会雑誌』第77巻第3号(慶應義塾経済学会、1984年)、pp.118-127

・新島襄全集編集委員会『新島襄全集』3書簡編Ⅰ(同朋舎、1987年)

・井上勝也『新島襄 人と思想』(晃洋書房、1990年)

・北垣宗治編『新島襄の世界──永眠百年の時点から』(晃洋書房、1990年)

・吉田寅「十九世紀中国・日本における海外事情摂取の諸資料─『聯邦志略』『地理 全志』『大英国志』の資料的考察─」『立正大学東洋史研究資料』Ⅵ、1995年、pp.3 -44

・吉海直人「初期同志社に関わるキリスト教諸文献の書誌的研究」『総合文化研究所 紀要』第19巻(同志社女子大学総合文化研究所、2002年)、pp.8-11

・岩田高明「漢訳洋書の西洋教育情報(その2)─『聯邦志略』『英国志』の分析」安 田女子大学大学院文学研究科紀要第9集、教育学専攻第9号(紀要 第9集 分 冊

(25)

27)、2004年、pp.1-18

・坂井誠「新島襄の平民主義と人民観」『新島研究』第97号(同志社社史資料センタ ー、2006年)、pp.134-174

・横浜プロテスタント史研究会編『横浜開港と宣教師たち─伝道とミッション・スク ール』(有隣堂、2008年)

・『書道字典』(角川書店、昭和58年107版)

・『漢和中辞典』(角川書店、1990年227版)

・『五體字類』(西東書房、平成13年改訂第三版)

・https : //zh.wikipedia.org/wiki/大美聯邦志略(畧)

参照

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