1
現行の高等学校﹁国語総合
﹂の
教科書では︑一般に︑﹃万葉集﹄
が文学史的に学べるように構成されている︒その基本となるの
が︑戦前に提唱された四期区分説︵澤瀉久孝・森本治吉﹃作者
類別年代順 萬葉集﹄新潮社・一九三二︶である︒多くの場合︑
第一期は額田王︑第二期は柿本人麻呂︑第三期は山上憶良か山
部赤人︑第四期は大伴家持の歌が教材とされる︒それに東歌と 防人歌を加え︑一○首前後で構成されるのが普通である︒
﹃万葉集﹄
の巻二十には︑
天平勝宝七 ࡞࡞ࡏ歳乙 ࡁࡢࡦࡘࡌ未二月︑相 ࠶ࡦࡣ
替 り て
筑 ࡘ
ࡃ
紫に遣はさる ࡋࡘ
る防
ࡉࡁࡶࡾ
人等
ࡽの歌
として︑難波津︵現在の大阪にあった港︶に集結した東国︵静
岡県・長野県以東の国々︶出身の防人たちの歌八四首が︑国ご
とに載せられている︒右に掲げたのは︑そのうちの駿河国の防
人歌一首︒また︑それとは別に︑﹁昔年の防人の歌
﹂ ︵
巻二十・ ︿研究へのいざない﹀万葉歌を読む
23
梶 川 信 行 教科書 の 中 の 万葉歌 ︱ 防人歌 を 読 む︱
父 母が 頭 かき撫 で
幸 あれて 言 ひし言 葉ぜ 忘 れかねつる
右の一首︑ 丈
部
稲 麻 呂
︵巻二十・四三四六︶に乗せられ︑さらに遠い九州まで送られることもあって︑﹁無
事でいて﹂という父母の言葉が︑より切実に蘇って来たのであ
ろう︒
また︑当該歌
は﹁
若い防人の姿が目に見えるようである﹂︵水
島義治﹃萬葉集防人歌全注釈
﹄︶ ︑
﹁
出て行くものはとくに若い
年齢であった﹂︵伊藤博﹃萬葉集釋注十﹄集英社・一九九八
︶ ︑ ﹁
若
い防人なのだろう﹂︵阿蘇瑞枝﹃萬葉集全歌講義十﹄笠間書院・
二○一五︶などとされ︑若い防人の歌だとする見方がある︒一
方︑旅の平安を祈る神前の儀式とする見方︵吉野裕﹃防人歌の
基礎構造﹄伊藤書店・一九四三︶もあり︑それを支持する注も
ある︒しかし︑﹁国語総合﹂の授業では︑必ずしも諸説あるこ
とに言及する必要はあるまい︒
奈良時代︑数え年で二十一歳から六十歳の男子︑すなわち﹁正
丁﹂には兵役の義務があった︵賦役令︶︒しかし︑二十歳に満た
ない﹁少丁﹂の兵士もまれに含まれていた︵﹃律令︿日本思想大
系﹀﹄補注︶︒したがって︑当該歌の作者は未婚の若い男性だっ
たと考えておけばよい︒現代の高校生と年齢が近いこともあっ
て︑両親と別れ︑辺境の防備に行かなければならない作者の悲
しみは︑十分共感できるものであろう︒
2
防人歌はその享受史の中で︑不幸な形で脚光を浴びたことが
あった︒それは昭和の戦時体制の中でのことである︒たとえば︑
日本文学報国会立案︑情報局後援︑大政翼賛会賛助になる﹃愛
國百人一首
﹄ ︵
昭和十七年十一月廿一日情報局発表︶には︑﹃万 四四二五〜四四三二︶八首と︑﹁昔年に相替りし防人の歌
﹂ ︵
巻
二十・四四三六︶一首も収録されている︒それらの歌を集めた
のは︑天平勝宝七歳︵七五五︶当時︑兵部少輔︵軍政一般を管
轄する役所の官人︒従五位下相当
︶の
大伴家持である︒
防人とは︑﹁崎守
﹂の
意︒養老の軍防令︵兵士向京条
︶に
﹁
辺
守るをば︑防人と名づく﹂︵井上光貞ほか﹃律令︿日本思想大系
﹀ ﹄
岩波書店・一九七六︶とされる︒筑紫・壱岐・対馬など辺境を
防備した兵士のことだが︑﹃万葉集
﹄に
は﹁
嶋守
﹂ ︵
四四○八
︶と
表記された例も見える︒丈部稲麻呂は︑その一人︒駿河国の出
身だが︑伝未詳である︒
﹁さくあれて﹂は︑当時の中央語では﹁さきくあれと﹂︑また
﹁けとばぜ﹂は﹁ことばぞ﹂︒いずれも古代東国の訛音︵訛り︶で
ある︒しかし当該歌︵四三四六番歌を︑以下こう称する︶は︑
高校生にとっても︑それほど意味を取ることが難しい一首では
あるまい︒
水島義治﹃萬葉集防人歌全注釈
﹄ ︵
笠間書院・二○○三︶は︑
二十世紀以前
の
防人歌研究
を
逐一検証
し︑
集大成
した 労作
だ
が︑当該歌を次のように口語訳している︒
︵いよいよ出発という時︶父母が︵かわるがわるに私の︶
頭を撫でながら︑﹁無事でいておくれ﹂と言った︑︵あの︶
言葉が︵心に沁みて︑忘れようとしても︑どうしても︶
忘れることができない︒
これは駿河国から遥々難波までやって来た時の感慨である︒
﹃延喜式
﹄ ︵
巻二十四・主計上︶の規程を参考にすれば︑駿河の
国府から難波までは︑陸路十日ほどの旅であった︒ここから船
︵神野志隆光ほか編﹃セミナー万葉集の歌人と作品 第十一巻﹄
和泉書院・二○○五
︶が
適切に整理している︒また︑別稿
︵ ﹁
国
語教科書の中の防人歌││享受史から見える危うさ││
﹂ ﹃
語
文﹄一五五輯・二○一六︶で論じたので︑詳しいことはそれら
に譲る︒しかし︑﹃万葉集﹄に負の歴史があったということは︑
記憶に留めておかなければならない︒
さて︑筆者も高校時代︑当該歌を暗唱させられた記憶がある︒
現在も東京書籍︵国総
302・
304︱以下︑三桁の教科書番号はすべ
て国総である︶︑教育出版︵
310︶ ︑
筑摩書房︵
322・ 323︶の三社五
種類の教科書が︑当該歌を教材としている︒また︑当該歌に限
らなければ︑九社二三種類の﹁国語総合﹂の教科書のうち︑八
社一七種類で防人歌が教材とされている︒
戦後︑多くの教科書が防人歌を教材として来たのは︑もちろ
ん忠君愛国の精神を涵養するためではない︒それは﹃万葉集﹄
に関する次のような解説と関係があろう︒
短歌・長歌・旋頭歌などの歌体を含み︑作者は︑天皇・貴
族から︑防人ら庶民層に及ぶ︒
︵東京書籍総
301︑ 302︑ 304︶
編集の中心は︑大伴家持と考えられており︑歌人は天皇か
ら庶民まで幅広い階層にわたる︒
︵三省堂・
306︑ 307︑ 308︶
皇族や貴族の作品ばかりでなく︑無名の民衆の作である東
歌や防人の歌も収録されており︑歌風は実感に即した感動
を率直に表現した
︑生命感にあふれた力強さに特色があ
る︒ 葉集﹄から二三首が選ばれているが︑そのうちの六首が防人歌
である︒﹃万葉集﹄の全歌数のうち︑防人歌は二パーセント強
に過ぎないのに︑ここでは四分の一以上を占めている︒
大君の命かしこみ磯に触り海原渡る父母を置きて
丈部人麻呂
眞木柱ほめて造れる殿のごといませ母刀自面變りせず
坂田部麻呂
霰降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍に吾は來にしを
大舎人部千文
今日よりは顧みなくて大君のしこの御楯と出で立つ吾は
今奉部与曽布
天地の神を祈りて幸矢貫き筑紫の島をさして行く吾は
大田部荒耳
ちはやぶる神の御坂に幣奉り齋ふいのちは母父が為め
神人部子忍男
﹃愛國百人一首
﹄は
﹁
忠君の純情︑國体の禮讃︑敬神と崇祖の
根本精神︑かやうに眞に日本的なるもの﹂︵川田順﹃愛國百人一
首評釋﹄朝日新聞社・一九四三︶のアンソロジーだとされる︒
その選定には︑佐佐木信綱・斎藤茂吉・尾上柴舟・大田水穂と
いった当時を代表する歌人たちばかりではなく︑情報局・文部
省・陸軍省・海軍省・日本放送協会などの幹部も参加している︒
﹁國民精神作興といふ國家的の目的
﹂ ︵
川田順﹃愛國百人一首評
釋﹄︶のため︑東京日日新聞・大阪毎日新聞の紙上を通じて︑
全国民への普及が図られた︒
防人歌の戦中と戦後については︑品田悦一﹁東歌・防人歌論﹂
右の一首︑国
造 小 県
郡の他田舎人大島
C防人に行くは誰が背と問ふ人を見るがともしさ物思ひもせ
ず︵巻二十・四四二五︶
Aは教育出版︵
309︶ の
教科書︒Bは三省堂︵
306・ 307・ 308︶ ︑
大
修館書店︵
312・ 313︶ ︑
第一学習社︵
325・ 326︶︒Cは数研出版︵
316・ 317︶と桐原書店︵
330・
331︶の教科書である︒いずれも悲別の歌
だが︑若い男の歌であった当該歌とは異なり︑Aの作者には妻
がいる︒またBには子どもがいて︑Cは夫が防人として徴発さ
れた女の歌である︒つまり︑思いを寄せる対象が︑当該歌は父
母︑Aは妻︑Bは子︑Cは夫というように︑それぞれに違いが
見られる︒まさに四者四様だが︑﹃愛國百人一首﹄のような忠
誠を尽くす対象としての﹁大君
﹂ ︵
天皇
︶の
姿はない︒いずれも
愛する︿家族
﹀へ
の
思いをうたったものである︒
こうしたあり方については︑軍国主義の中での防人歌の享受
の裏返しにほかならず︑近代の生んだ虚構だとする批判も見ら
れる︵品田悦一﹁東歌・防人歌論﹂先掲
︶ ︒
確かにその通りなの
だが︑﹁国語総合﹂の古典の学習にそこまで深い理解を求める
ことは︑発達段階を考えた場合︑必ずしも適切なことではある
まい︒
3
それでは︑それぞれの歌から何をどう学ぶべきなのか︒また︑
それぞれの歌を教材とした場合︑学習目標にどのような違いが
生ずるのか︒以下︑そうした問題を考えてみよう︒そのために
は︑四首がどのように違うのか︒より詳細に確認しておかなけ ︵教育出版・
310︶
作者は貴族だけでなく︑広く当時の諸階層に及んでいる︒
︵筑摩書房・
322︑ 323︶
七世紀から八世紀にかけての約百五十年間の︑貴族から
農民までさまざまな階層の人々の歌が集められている︒
歌風は清新︑素朴で︑枕詞︑序詞︑対句︑反復などの技
巧が用いられている︒
︵第一学習社・
325︑ 326︶ 教科書
の
解説文
の
常套的
な形
だが
︑その 作者階層
の広
さこ
そ︑王朝和歌とは異なる﹃万葉集﹄の特色の一つであるとされ
る︒防人歌は︑巻十四に収録されている東歌とともに︑それを
裏づける形で教材化されているのであろう︒
また︑﹁方言が使われ︑生々しい作者の感情が率直に表現さ
れている﹂︵﹃指導書精選国語総合古文編﹄東京書籍︶とあるよ
うに︑それは防人の素朴さを示すものということになろう︒戦
後︑民主主義の世となったことを反映してか︑民衆の素朴な心
情をうたったものと見做される歌が新たに選ばれ︑教材とされ
て来たのである︒
具体例を見よう︒現行の﹁国語総合﹂の教科書には︑次のよ
うな防人歌を教材とするものもある︒
A我が妻はいたく恋ひらし飲む水に影さへ見えてよに忘られ
ず ︵巻二十・四三二二︶
右の一首︑主帳丁麁玉郡の若倭
部
身麻呂
B韓衣裾に取り付き泣く子らを置きてそ来ぬや母なしにし
て︵巻二十・四四○一︶
れり︒
という左注によってまとめられた歌々の中の一首︒兵部使の主
典︵書記官︶にして刑部少録︵裁判を司る役所の正八位上相当
の官︶の磐余伊美吉諸君なる人物が︑多くの歌の中から抜粋し
て写し︑家持に贈ったものだとされている︒しかし︑いつ︑ど
こで︑誰が作った歌なのかは︑一切不明である︒資料の提供者
は
明記 されているものの
︑ 作者
や
作歌事情
などに
関
する 情報
は︑まったく伝えられていない︒
してみると︑当該歌とA・Bは︑名前の明らかな個人による
一回的な創作歌だとする見方が一応成り立つが︑Cの方は︑書
かれたものであったとは言え︑本当に特定の作者がいたのかど
うかは不明であると言うしかない︒﹃万葉集﹄には︑ある人物
が伝え聞いた歌だとされたものもある︒したがってCが︑ある
人の記憶に基づいて書きとめられたものを基にしていた可能性
も︑ないわけでない︒つまり︑作者未詳のCを個人的な創作歌
と断ずるには︑資料的な信頼性という点で︑やや不安が残るの
だ︒その点が︑AやBとの大きな違いである︒
もっとも︑かつて天平勝宝七歳の防人歌は︑防人としての宣
誓式のような集団的な歌の場において作られたものだったとす
る見方もあった︵吉野裕﹃防人歌の基礎構造﹄︶︒それについて
は︑徹底的な批判と検証もなされた︵手崎政男
﹃ ﹁
醜の御楯﹂考 万葉防人歌の考察﹄笠間書院・二○○五︶が︑現在見る形で文
字化される前の段階では︑純然たる個人の創作ということでは
なく︑集団の中から生まれたものだということは認めてよいの
ではないか︒少なくとも︑その誕生には歌の場の力が働いたも ればならない︒
天平勝宝七歳の防人歌には︑国ごとに︑
二月六日︑防人の部領使遠江国史生坂本朝臣人上が進
れる
歌の
数十八首
︒但し拙劣き
歌十一首
あるは
取り載せ
ず︒
という形の左注が付されている︒国によって日付︑部領使︵防
人たちの引率者︶の氏名︑献上された歌数︑捨てられた﹁拙劣
き歌﹂の数などは異なるものの︑いつ誰が何首献上したのか︑
具体的に記されている点は共通している︒このように︑当該歌
とA・Bは︑天平勝宝七歳二月︑大伴家持によって︑各国の部
領使を通じて集められたものだったことが知られる︒
また︑﹃万葉集﹄の巻二十には︑防人の境遇に同情して作っ
た家持の長歌三首︵四三三一〜四三三三︑四三九八〜四四○○︑
四四○八〜四四一二︶も収録されているが︑それらによって︑
防人たちが難波津から船で任地に送られたことを知ることもで
きる︒
当該歌とA・Bには︑個々の歌の左注に具体的な作者名も記
されている︒Aは遠江国麁玉郡︵現在の静岡県浜松市とその周
辺︶
の
若倭部身麻呂︵伝未詳
︶の
歌︒Bは信濃国小県郡︵長野県
小県郡と上田市の一帯︶の他田舎人大島︵伝未詳︶の歌とされ
ている︒当該歌を含め︑これらは作者とその出身地ばかりでな
く︑いつどこで作ったものかということも︑概ね判明している︒
それに対してCは︑
右の八首は︑昔年の防人の歌なり︒主典刑部少録正七位上
磐余伊美吉諸君︑抄き写して兵
部 少
輔大伴宿禰家持に贈
Cの歌にはそれがない︒東国の名もなき女性が︑まったく訛音
のない歌︵中央語の歌
︶を
詠んだということも不思議だが︑﹃万
葉集
﹄が
﹃
古今集
﹄や
﹃
新古今集﹄よりも多様な歌の世界を含み
持つということを学習するならば︑訛音を含む歌の方がわかり
やすいのではないか︒
ただし︑防人歌は基本的に一字一音の仮名書きにされている
が︑Bの﹁可良己呂武﹂という本文には︑諸本による異同がある︒
﹁武
﹂を
﹁
茂﹂とする写本の存在が知られるのだ︵佐佐木信綱ほ
か編﹃校本萬葉集九︹新増補版
︺ ﹄
岩波書店・一九八○︶︒した
がって︑かつては﹁茂
﹂が
正しいと見て︑﹁からころも﹂とする
注釈書もあった︵森本健吉・豊田八十代﹃萬葉集総釋十﹄樂浪
書院
・
一九三五
︑
鴻巣盛廣
﹃
萬葉集全釋
第六冊
﹄
廣文堂
・
一九三五
︶ ︒ し か し
︑
本稿の主旨とは関係がないので︑その問
題に深入りすることは避ける︒戦後の主な注釈書は﹁武﹂とい
う本文で一致しており︑現在は﹁からころむ﹂とする訓に落ち
着いていると見做してよい︒
当該歌を教材としている教科書はいずれも︑小島憲之ほか校
注・訳﹃
萬 葉 集
④︿
新 編 日 本 古 典 文 学 全 集
﹀ ﹄︵
小 学 館
・
一九九六︶に準拠している︒したがって︑通説であるか否かと
いうことではなく︑﹃新編﹄が﹁武﹂という本文を採用し︑﹁か
らころむ﹂と訓んだ結果として︑訛音のあるこの歌が教材とさ
れているということであろう︒
すでに確認したように︑Cを採るのは二社四種類の教科書に
過ぎない︒逆に言えば︑訛音のある防人歌を採用する教科書が
多数を占めているということにほかならない︒﹁素朴
﹂ ﹁
率直﹂ のもあり︑個人の心情を素直にうたったものばかりではなかっ
たと考えられる︒
とは言え︑高校生の学習にそうした議論を持ち出すことは︑
必
ずしも
適切 なことではあるまい
︒﹁
国語総合
﹂ではむしろ
︑
古典の和歌の導入として︑生徒たちが素直に感情移入できるも
のとして扱った方がよいだろう︒当該歌を︑丈部稲麻呂という
駿河国の名もなき若者の悲しみの歌として味わうことは︑学習
上の便宜として︑特に問題はないと考えられる︒
さて︑当該歌とA・Bは防人自身の歌だが︑Cは防人の妻の
歌だという違いもある︒防人自身の歌は︑出郷時や旅の途次を
うたったものであっても︑すべて難波で作られたものと考えら
れる︵品田悦一﹁東歌・防人歌論﹂先掲
︶が
︑
一方
の﹁
昔年
﹂の
防人歌とされるCが︑難波で作られたものでないことは確実で
ある︒どこの国の防人の妻であるのかは記されていないが︑常
識的に考えれば︑防人の出身地で詠まれたものということにな
ろう︒すなわち︑当事者の歌か配偶者の歌かという違いがある
とともに︑難波で詠んだか出身地で詠んだか︑という違いもあ
る︒それにしても︑そもそも東国で作られた防人の妻のつぶやき
のような歌が︑なぜ中央の官人の手に入ったのか︒不思議でな
らない︒その点もCが︑ある個人の一回的な創作歌であること
を疑わしめる理由の一つである︒
もう一つの違いは︑東国特有の訛音が含まれているか否かと
いう点である︒Aには﹁恋ひらし︵こふらし︶﹂﹁かご︵かげ︶﹂︑
Bには﹁からころむ︵からころも︶﹂という訛音が見られるが︑
影 ﹁影
﹂の
古代東国方言︒
といった防人歌の特色を示す注に重点が置かれている︒
旧版の指導書では︑﹁学習活動﹂に﹁︵上代東国︶方言が使用
されていることに気づかせる﹂︵﹃教授資料国語総合古典編﹄教
育出版︶とされ︑﹁語句の研究と指導
﹂に
も﹁
東国の方言を用い
率直に語られているところに注意したい﹂とされていたが︑現
行の教科書の指導書には︑なぜかそうした記述がない︒﹁恋ひ
らし﹂には﹁古代東国方言﹂とする説明が見られるものの︑﹁影﹂
についての説明はない︒東国の庶民が自分たちの言葉でうたっ
たものだということを知ることも重要な学習課題だが︑その学
習を促す姿勢がなぜか後退している︒
一方﹁学習の手引き﹂には︑
4﹁わが妻は﹂の歌で︑﹁いたく恋ひらし﹂は︑何を根拠に
そう推量しているのか︒
という問いがあり︑ここでも学習課題が明らかにされている︒
教育出版︵
309︶
の﹁
学習の手引き﹂は四項目あり︑1では各歌の
句切れを︑2では詠み込まれた心情を考えさせている︒3は︑
長歌と反歌とではうたい方にどのような違いがあるのか︑比較
してみることを求めている︒つまり︑表現方法を知ることと心
情を読み取ることを求めた上で︑当該歌で文法的な学習が求め
られているのだ︒
まずは︑﹁らし﹂が根拠ある推量を意味する助動詞だという
ことを確認する︒その上で︑﹁飲む水に影さへ見えて﹂がその
根拠となっていることに気づかせるべきだが︑指導書はその部
分の口語訳
を﹁
解答例﹂としている︒また︑﹁さへ﹂にも注目す ﹁純粋
﹂が
︑
教科書
の﹃
万葉集
﹄に
関する説明の常套的表現︵拙
稿﹁高等学校﹁国語総合
﹂の
教科書を考える︱︱﹃万葉集
﹄の
教
材を例として︱︱﹂﹃文学・語学﹄二○九号・二○一四︶だが︑
当該歌のごとき訛音のある防人歌を選ぶことが主流になってい
るのは︑そうした条件にも適うと見做されたからであろう︒
東歌も防人歌と同じ東国圏の歌々であって︑俚言︵その地方
特有の言葉︶や訛音の見られる歌も含まれている︒ところが︑
訛音のないCを採用した教科書の東歌はいずれも︑﹁多摩川に
晒す手作り﹂︵巻十四・三三七三︶という歌だが︑それには俚言
や訛音が一つもない︒つまり︑古代東国方言を含む歌々のある
ことも﹃万葉集﹄の重要な特色の一つなのに︑数研出版と桐原
書店の教科書ではそれを学ぶ機会がないのだ︒
4
このように見て来ると︑当該歌とA・Bは同じグループと見
做せるが︑Cとは教材としての性格が大きく異なる︑というこ
とが理解できる︒そこで︑﹁国語総合
﹂の
防人歌の学習としては︑
どの歌がふさわしいか︒以下︑一首ずつ検討してみることにし
よう︒Aは教育出版︵
309︶だけが教材としている︒そこには︑﹁よに﹂
という副詞が﹁下に打消の語を伴って︑決して︑全然﹂の意で
あるとする脚注も見られる︒しかし︑
防人歌 九州北辺の警備のために徴集された︑東国地方の
農民やその家族の歌︒
恋ひらし
﹁恋ふらし﹂
の古代東国方言︒
でしまうと信じられていたのだ︒
ともあれ︑若い男が父母を思う当該歌に対して︑Aは残して
来た妻を思慕する歌であった︒すでに述べたように︑制度上︑
兵役の義務を負う年齢は六十歳までと︑実に幅広い︒したがっ
て︑Aの作者の年齢は不明と言うしかないが︑辺境の兵士に選
ばれるのだから︑それほど高齢ではあるまい︒しかし︑誰がもっ
とも気がかりな存在かといった点で︑﹁父母が﹂という歌の作
者と異なることは明らかであろう︒つまり︑学習者と年齢が近
いことに基づく共感ではなく︑異なる学習目標が求められなけ
ればならない︒
Aの
歌に限
らず
︑ 防人歌
を
教材 とする 教科書
には
︑ 筑摩
︵
322・ 323︶ を
除き︑脚注に古代
の﹁
東国方言﹂だということが示
されている︒防人歌は東国の庶民が自分たちの言葉で素直にう
たったものだということを学習させるのが︑一般的な形だと見
ることができる︒それでもあえてAを教材としているのは︑そ
れが 古代的
な
心意
に基
づく
歌
だと 見做 せるから
︑ということ
か︒だとすれば︑それはそれで一つの方法であろう︒
5
さて︑Bは三省堂︑大修館︑第一学習社という三社七種類の
教科書が教材としている︒教材とする歌を四首に絞り︑大きな
活字で口語訳も付した三省堂の﹃明解国語総合
﹄ ︵ 308︶以外は︑
どの教科書にも﹁からころむ﹂は﹁東国方言﹂だとする脚注が見
られる︒一般的なレベルの教科書で防人歌を取り上げるのはや
はり︑﹃万葉集﹄は作者階層が広く︑多様な歌が含まれるとい れば︑それは﹁すでに存在しているある事柄に対し︑さらに他
の事柄を添加していう﹂︵上代語辞典編修委員会編﹃時代別国語
大辞典 上代編﹄三省堂・一九六七︶助詞だから︑それは夢の
中で見た妻の姿ではなく︑﹁水面に本当の姿までも映して﹂︵水
島義治﹃萬葉集防人歌全注釈﹄︶いることになろう︒それほど
までに﹁いたく恋ひ﹂していると言うのだ︒
しかし︑この問いはもう少し掘り下げる必要がある︒それは
魂の問題である︒たとえば︑
上代人は︑相思ふ者の心霊は通ひ合つて︑その人に添つて
ゐるものとし︑夢もそれであるとした︒今も︑妻が甚だし
く我を恋ふるので︑心霊が我に添つてゐるとし︑その心霊
が面影となつて映つたものと見たのである︵窪田空穂﹃萬
葉集評釋 第十一巻﹇新訂版
﹈ ﹄東京堂出版・一九八五
︶ ︒
とする注である︒また最近の注釈書でも︑
﹁カゲ﹂は水に映る影で︑現れ出た魂の姿
︒ ﹁
影﹂になって
現れるのは︑相手が恋しているから︒︵多田一臣﹃万葉集
全解7﹄筑摩書房・二○一○︶
と説明するものがある︒
指導書にも︑﹁古代︑相手が自分のことを強く思っていると︑
水鏡に映ると信じられていたということが前提になっているこ
とを理解させる﹂とされるが︑こうした魂の話題は︑高校生た
ちの興味を十分引くものではないか︒﹃万葉集﹄には︑恋しい
相手を夢に見るという歌ばかりでなく︑思われているのでその
人が自分の夢に現れるとする歌︵六三九︑二五六九など︶も見ら
れる︒強い思いは魂を身体から遊離させ︑相手のもとへと運ん
の母の意で︑現代で言えば︑大人が幼児に﹁ボクのママは?﹂
と語りかける時の﹁ママ﹂のニュアンスか︒
いずれにせよ︑﹁母なしにして﹂という注の存在は︑Bの歌
をどう理解すべきか︑ということに関する誘導ではないかと思
われる︒言うなれば︑悲劇性の強調である︒﹁自分の命の危険
より前に案じられる︑壮丁の去ったあとの家族の生活の崩壊︑
母のいない子にのしかかる苛酷この上ない運命
﹂ ︵ ﹃
高等学校新
訂国語総合指導と研究第2分冊古文編﹄第一学習社︶を理解
せよと言う︒幼子を置いて防人に行かなければならないばかり
でなく︑その子には母がいない︒防人自身の嘆きばかりでなく︑
子どもの不憫さの方にも目を向けさせようと言うのであろう︒
現行の教科書の防人歌は︿家族﹀に集約される︒それをいたい
けな子の悲しみとしても受けとめさせようとしているのではな
いかと考えられる︒
だとすれば︑﹁母がいないのに﹂といった︑あえて説明しな
くてもわかる程度の口語訳ではなく︑﹁おも﹂の意味をきちん
と説明すべきであろう︒高校生が使用するような一般的な古語
辞典にも︑その項目はある︒したがって︑﹁おも﹂の意味を確
認
した
上
で
︑まだそれほど
母が恋
しい 年頃
の
幼子
を
一人残
し
て︑とでも口語訳すれば︑その悲劇的状況がきちんと理解でき
るのではないかと思われる︒
ところが︑Bについてはもう一つ不思議な点がある︒﹁泣く
子ら﹂とあれば︑多くの高校生は複数だと理解するのではない
か︒その点について説明している教科書がない︑ということで
ある︒Bを採用している教科書はいずれも︑小学館の﹃新編﹄ うことを学習するためなのであろう︒
そこで︑もう少し詳しく脚注を見てみよう︒どの教科書にも
﹁防人歌﹂という脚注があるのは︑当然であろう︒その内容も︑
すでに見た教育出版︵
309︶ と
︑
大同小異である︒また︑﹁からこ
ろむ﹂に関する注があるのも︑三社七種類すべてに共通してい
る︒﹁中国風の衣服
﹂ ﹁
大陸ふうの着物﹂としている点も同じで
ある︒違いは﹁母なしにして﹂という注があるかないかである︒
その
注
があるのは
三省堂
と
大修館
で︑
第一
の
教科書
にはな
い︒三省堂は︑やや低いレベルの教科書︵
308︶にのみ︑﹁母もい
ないのに﹂という説明をつけている︒また大修館︵
312・ 313︶
は︑
現代文編と古典編という形で分冊にしたかどうかの違いだけで
あって︑中身はまったく同じ︒したがって︑どちらも﹁あの子
たちには︑母がいないのに﹂としている︒
しかし︑高校生にとって聞き慣れない﹁おも﹂という語につ
いて︑特に説明がないのはなぜなのか︒
十世紀の辞書﹃倭名類聚鈔
﹄ ︵
巻二︶には︑乳母
は﹁
和名知於
毛﹂とされる︒また﹃万葉集﹄にも︑乳母
を﹁
於毛
﹂と
仮名表記
にした例︵巻十二・二九二五︶が見られる︒したがって︑﹃時代
別国語大辞典 上代編
﹄も
︑ ﹁❶母
︒ ︵
中略︶❷乳母﹂としている︒
一方
︑ ﹃
倭名類聚鈔
﹄ ︵
巻二
︶に
は
母を
﹁
波々
﹂と
呼んだというこ
とも記されている︒もちろん︑﹃万葉集
﹄に
も﹁
波波﹂とする用
例は多い︒
防人として徴発される階層に乳母がいたとは考えられないか
ら︑この場合は︑一般的な母の意ではなく︑授乳している母親
のことではないか︒まだ母親のおっぱいを恋しがるような幼子
のだろうか︒
現行の﹁国語総合﹂の教科書に採用された万葉歌は︑斎藤茂
吉の
﹃
万葉秀歌 上・下
﹄ ︵
岩波書店・一九三八
︶と
一致するも
のが多い︒そこで茂吉は防人歌を一○首選んでいるが︑教科書
に載る四首のうち︑茂吉が選んでいるのはCだけである︒﹁ま
ことに複雑な心持をすらすらと云って除けて︑これだけのそつ
の無いものを作りあげたのは︑︵中略︶悲嘆と羨望とが張りつ
めていたため﹂︵﹃万葉秀歌 下﹄︶だとしている︒その嘆きの
深さを見事にまとめ上げた一首と評価しているのだ︒つまり︑
Cは︿秀歌﹀だが︑当該歌とA・Bは︿秀歌﹀ではない︑という
判断である︒﹁千古に光を放つ佳作
﹂ ︵
佐佐木信綱﹃評釋萬葉集
七﹄六興出版社・一九四九︶だと絶賛する注もあるが︑Cは秀
歌選的な書物の中の防人歌で︑しばしば選ばれる一首である︒
しかし︑Cでは古代東国方言に関する学習ができない︒また︑
東国の庶民が奇跡的にその名を歴史に刻んだことも︑学ぶこと
ができない︒しかし︑戦後の秀歌選的な書物で︑もっとも多く
選ばれている防人歌である︵拙稿﹁国語教科書の中の防人歌│
│享受史から見える危うさ││﹂先掲︶︒したがって︑この歌
は必ずしも文学史的な事実を踏まえた学習のための教材ではな
く︑︿秀歌﹀鑑賞的な方向で選ばれたものだということになろ
う︒
もちろん︑茂吉の評価を追認する形で学習してもよい︒しか
し︑それでは﹃万葉集﹄の防人歌を学んだことにはなるまい︒
文学史的な知識の習得を目的とするならば︑やはり︑東国の庶
民が自分たちの言葉によって︑訛音を含む素朴な歌をなしたこ をテキストとしているが︑それは﹁このコラは子ども﹂として
おり︑複数の意だとは考えていない︒
しかし︑この﹁ら﹂には﹁複数形
﹂ ︵
木下正敏﹃萬葉集全注 巻第二十﹄有斐閣・一九八六︑多田一臣﹃万葉集全解
7
﹄︶
と す
る注釈書と︑﹁親愛の情をあらわす接尾語
﹂ ︵
阿蘇瑞枝﹃萬葉集
全歌講義十﹄笠間書院・二○一五︶とするものがある︒また︑
どちらとも取れる曖昧な注もある︒熱心な生徒がいて︑図書館
で複数の注釈書を引き比べ︑その違いに気づいたら︑当惑する
のではないか︒さらに︑その生徒から﹁どちらが正しいのです
か﹂と質問されたら︑困ってしまう先生も多いのではないかと
思われる︒
結論的に言えば︑こうした問題のある歌は︑教材としない方
がいいと考えている︒複数形か親愛の情を表わすかといった議
論は︑そんなに簡単に結着がつくものではない︒真面目な生徒
がかえって混乱してしまうリスクがあるのだ︒古典の導入段階
の﹁
国語総合﹂では︑そうした教材は避けた方が賢明であろう︒
ただし︑最初から両説あることを説明し︑どちらがいいと思
うかという問いを発し︑議論をさせた上で︑自分の考えをまと
めさせるような授業を想定しているならば︑一首をより深く読
む
機会 となろう
︒そうした
授業
を
想定 している
指導書
はない
が︑その場合は︑適切な口語訳を〇か×かと問うような定期試
験には︑出題しないことが前提でなければなるまい︒
6
それでは︑防人の妻の歌Cは︑どのように学習すべきものな
されている︒﹁甲斐国
﹂の
﹁
戌人
﹂ ︵ ﹁
戌﹂はまもるの意
︶ ﹁ 小長□
部﹂
の
某と記され︑﹁□︵延︶暦八年
﹂ ︵
七八九︶とする記述も見
られるが︑防人の名簿の一部ではないかと推定されている︵平
川南﹁見えてきた古代
の﹁
列島
﹂ ﹂木簡学会編﹃木簡から古代が
みえる﹄岩波新書・二○一
○
︶ ︒﹃
続日本紀﹄によれば︑東国か
らの防人の派遣は天平宝字元年︵七五九︶閏八月に廃止されて
いるから︑それからでも三十年︒肥前国で過ごしていたことに
なろう︒この木簡からも︑故郷に帰れなかった防人の存在が浮
かび上がって来る︒
もちろん︑こうした事情はCの歌の夫に限ったことではない
が︑﹁防人に行くは﹂の﹁は﹂の意味は重い︒文法の学習をする
ならば︑それが目的化し︑本末転倒にならないためにも︑そこ
を読み取らせなければならない︒﹁は﹂には︑防人の妻の深い
嘆きが隠されているのだ︒
7
最後に︑もう一度当該歌について考えてみたいと思う︒
それを教材とするのは︑東京書籍︑教育出版︑筑摩書房の三
社の教科書であった︒それらに共通するのは︑脚注に﹁幸あれ
て﹂と﹁言葉ぜ﹂についての説明が見られる点である︒すでに
述べたように︑東京書籍と教育出版は東国方言とする説明がな
されているが︑筑摩は単に言い換えただけで︑指導書にもそう
した説明はない︒教育出版の指導書は︑﹁指導のポイント﹂で﹁上
代東国の方言に注意しながら音読させる﹂とし︑﹁発問例
﹂で
も
﹁上代東国方言の特徴が見られる箇所を抜き出せ﹂としている とで︑奇跡的に歴史の中にその名を刻んだということを学ぶべ
きであろう︒
当時の防人制度を少し確認しておくと︑各戸の﹁正丁﹂の三
人に一人が兵士として徴発されることになっていた︵軍防令・
兵士簡点条
︶ ︒ し か し
︑ 本貫地近傍
の
軍団
に
配属 された
者や︑
衛士として都の警備にあてられた者もいた︒防人として辺境に
派遣されたのは︑あくまでもその一部だったと考えられる︒
﹁防人に行くは﹂の﹁は﹂は︑他のものと区別して︑特にそれ
を提示する働きを持つ助詞である︒近傍の軍団に行くのではな
く︑衛士として平城京に行くのでもなく︑﹁防人に行く﹂とい
うことだ︒しかも︑衛士は一年︑防人は三年という任期の違い
もある︵軍防令・兵士上番条
︶ ︒﹁
防人に行くは誰が背﹂と︑他
人事 のように
言う声を聞
いた
女は︑単に
自分
の夫に
兵役 がま
わって来たことを嘆いているわけではない︒よりによって︑ど
うして自分の夫が僻遠の地に送られなければならないのか︑と
いう身の不運を嘆いていたことになろう︒
近傍の軍団なら︑任期が過ぎれば帰って来る可能性が高い︒
ところが︑防人では今生の別れになるかも知れない︒道中の食
糧は自前だった︵軍防令・上道条︶︒とりわけ︑帰路はその確
保が困難な上に︑野宿を重ねる旅は危険性が高い︒道に迷うこ
ともあろう︒したがって︑そのまま任地に留まる者も多かった
と言われる︒防人たちは警備の傍ら︑稲や雑菜の栽培も行い︑
食糧を自給していた︵軍防令・在坊条
︶ ︒
任地に留まれば︑一
応は食べて行くことができたのだ︒
近年︑佐賀県唐津市の中原遺跡で︑防人に関する木簡が発見
大伴家持であった︒
防人歌一般に関するもう一つの確認事項として︑古代東国方
言の使用を挙げなければならない︒当該歌の場合で言えば︑﹁さ
くあれて﹂と﹁けとばぜ﹂である︒もちろん︑方言の学習のた
めならば︑AでもBでも構わないが︑高校生
は﹁
影﹂という語を︑
その意味ではほとんど使わないのではないか︒﹁韓衣﹂という
語を使うことは︑まずあるまい︒方言ではなく︑単なる古語だ
と受けとめてしまう可能性もある︒とすれば︑高校生にとって
も使用頻度の高い﹁言葉﹂という語の訛音の方が︑素直に方言
だと理解できよう︒
また︑夫の立場のA︑父の立場のB︑妻の立場のCではなく︑
子の立場の歌である︒その点で当該歌は︑高校生が共感しやす
いものであろう︒しかも︑Bのように︑その理解の仕方につい
て︑意見の分かれるものでもない︒どの教科書も︑和歌の単元
に多くの時間を割くことを想定していないが︑防人歌に関する
基本的な知識だけを与えるための教材としてならば︑当該歌が
よりふさわしいように思われる︒
研究史の中では︑防人歌は集団的な場の中で生まれたものと
する見方︵吉野裕﹃防人歌の基礎構造
﹄︶
が
有力であった︒しか
し︑それは﹃万葉集﹄の中に短歌定型の形で文字化された防人
歌ではなく︑声の歌として生まれた段階でのことであろう︒ま
た︑そうした見方については多くの批判もある︒したがって︑
高校生の学習では︑丈部稲麻呂という奈良時代の駿河国の若者
の創作歌として︑素直にその心情を読み取ればいいのではない
かと思う︒
︵ ﹃
教授資料新編国語総合言葉の世界へ古文編
﹄︶
が︑
防人歌
の学習ではやはり︑東国方言が使われているということをきち
んと教えるべきであろう︒
また筑摩は︑丈部稲麻呂という作者名を切り捨ててしまって
いるが︑この点も不適切であろう︒繰り返すが︑普通ならば︑
歴史の中に埋もれてしまう古代東国の庶民の名が︑こうした形
で奇跡的に残っているということも︑﹃万葉集﹄の顕著な特色
の一つにほかならない︒その点も︑きちんと教えるべきだと思
われる︒したがって︑﹁父母が﹂の歌で防人歌を学習する教科
書の形としては︑東京書籍と教育出版の方が適切だと考えられ
る︒してみると︑﹁国語総合﹂の教科書によって当該歌を学習す
るポイントは︑以下のようになろう︒まずは防人歌一般の理解
として︑奈良時代には筑紫・壱岐・対馬の防備に東国の庶民が
派遣されたということを知ること︒﹃延喜式
﹄ ︵
巻二十四・主計
上︶には︑大宰府まで﹁海路卅日﹂とされている︒難波から瀬
戸内海を西へ︑娜大津︵現在の博多港︶へと向かったのであろ
う︒さらに︑そこから壱岐へは﹁海路三日
﹂ ︑
対馬へは﹁海路四
日﹂とされている︒長く辛い旅だったことは想像に難くない︒
そして︑任期が終わっても故郷に帰れたとは限らなかった︑と
いうことも確認しておく必要がある︒
指導書の中には﹁故郷を遠く離れた任地で﹂︵﹃指導書精選国
語総合古文編﹄東京書籍︶の歌と説明しているものもあるが︑
それは明らかな誤りである︒すでに述べたように︑天平勝宝七
歳の防人歌が集められたのは難波であり︑それを行なったのは
とは言え︑国文学科で学ぶ学生には︑もう少し深い理解を求
めたい︒防人歌は王朝的な花鳥風月の世界とは相入れないもの
だったためか︑和歌の伝統の中ではあまり顧みられることがな
かった︒とりわけ︑藤原俊成の秀歌観を集約した﹃古来風躰抄﹄
は︑防人歌を一首も選んでいない︒また賀茂真淵の秀歌選﹃萬
葉新採百首解﹄も︑とうてい防人歌には見えない旅中詠︵四三八
○︶を一首取るのみであった︒
近代になると︑防人歌も秀歌選に取られるようになるが︑昭
和の戦時体制の中では︑忠君愛国の歌として戦争遂行に利用さ
れることとなった︒しかし︑それは一時的な現象に過ぎず︑民
主主義の時代となった戦後は︑東国の庶民がなした貴重な抒情
詩として位置づけられ︵拙稿﹁国語教科書の中の防人歌︱︱享
受史から見える危うさ︱︱﹂先掲
︶ ︑ そ れ は
国語の教科書の定
番教材ともなって行く︒すなわち︑歌の評価は︑時代によって
大きく変わるということだ︒教科書の古典も︑その時代の中で
求められている古典に過ぎない︑ということを忘れてはなるま
い︒
︵かじかわ のぶゆき︑本学教授︶