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94 学 習 院 大 学 人 文 科 学 論 集 ⅩⅩⅡ(2013) 1 Air/ 2 3 4

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伊勢

今を生きる

﹁父﹂

不在の物語について

なぜ

Another

の父親は終始インドにいるのか

[ キーワード ① アニメ   ② 浜松中納言物語   ③ 源氏物語   ④ 虫愛づる姫君   ⑤ 父 ] 一、はじめに 一 九 九 五 年 か ら 一 九 九 六 年 に か け て 放 映 さ れ た テ レ ビ ア ニ メ﹃ 新 世 紀 エ ヴ ァ ン ゲ リ オ ン ﹄︵ 以 下﹃ エ ヴ ァ﹄ と略す︶は、思えばなんと伝統的な物語の構造をしていたことだろうか。 愛憎半ばする父親との関係の中で、その父を超えようともがく主人公、碇シンジ。そして父から引きあわさ れ る 形 で﹁ 母 ﹂ の 面 影 を 背 負 う 少 女、 綾 波 レ イ と 出 会 う。 綾 波、 そ し て パ イ ロ ッ ト 仲 間 と し て 惣 流・ ア ス カ・ ラングレー︵以下、アスカ︶と触れ合いながら、彼は自らと向き合い成長していく。その成長の結果はアニメ 最終話で描かれることになった。その描写は外界で起こっている混乱︵アニメ最終話においてはほのめかされ

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るだけである︶とは全く無関係なものであり、非常に内面的なものであった。その成長のありようは、大塚英 志 に よ っ て﹁ 自 己 啓 発 セ ミ ナ ー﹂ だ と﹃ 読 売 新 聞 ﹄ 紙 上 で 批 判 的 に 評 さ れ 話 題 に な っ た が ︵ 1︶ 、 大 塚 評 の 是 非 はともかく、混乱の中で自らの世界に閉じこもり、その中で内面的な成長を図っていくという筋立てはいかに も﹁世紀末﹂らしい成長の描き方だったといえよう︵たとえば十二世紀末の混乱期に自らの世界に埋没し、歌 道に邁進しようとした藤原定家の姿が想起される︶ 。 さ ら に 一 九 九 七 年 に 公 開 さ れ た 映 画﹃ 新 世 紀 エ ヴ ァ ン ゲ リ オ ン 劇 場 版 A ir/ ご こ ろ を、 君 に ﹄ で は、 そ の 冒頭で﹁母﹂なる存在への犯し︵この段階では綾波レイではなくアスカがそうなっているのだが、この問題に ついては後で改めて言及する。なお、この﹁犯し﹂は主人公の、彼女を想起しての自慰という屈折した形で 表 現 さ れ る ︶ が 描 か れ、 さ ら に 最 終 場 面 に お い て 主 人 公 が 彼 女 の 首 を 絞 め る と い っ た 展 開 を 見 せ る ︵ 2︶ 。 非 常 に 人 気 を 博 し た 物 語 で あ っ た﹃ 新 世 紀 エ ヴ ァ ン ゲ リ オ ン ﹄ 3︶ の 構 造 は 非 常 に 伝 統 的 な も の で あ っ た。 そ の 構 造 を 敢 え て 用 い つ つ、 そ の 骨 組 み に 新 た な モ チ ー フ を 肉 付 け し て い っ た こ と が、 ﹃ エ ヴ ァ﹄ の 爆 発 的 な ブ ー ム を 呼んだのではないかと考えられる。 その﹃エヴァ﹄の爆発的なブームの後に、アニメ、小説作品の一分野として﹁ポスト・エヴァ﹂なる分野が 生 ま れ た。 し か し、 具 体 的 に ど の 作 品 を﹁ ポ ス ト・ エ ヴ ァ﹂ と 見 る か は 論 者 に よ っ て 違 う。 さ ら に﹁ ポ ス ト・ エ ヴ ァ﹂ の 作 品 群 が、 ﹁ 僕 ﹂ と﹁ 彼 女 ﹂ と の 関 係 が そ こ に あ る べ き 社 会 な ど の﹁ 中 間 項 ﹂ を 挟 ま な い ま ま 直 接 に世界の重大事になってしまう、いわゆる﹁セカイ系﹂の作品とどのように違うのか、またどのような関係が あ る の か ︵ 4︶ と い っ た 問 題 が 絡 み 合 っ て く る た め、 ネ ッ ト 上 を 中 心 に、 な お 議 論 は 拡 散 し て い く ば か り と い っ た現状である。

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そこで本稿では、議論の拡散する現状を踏まえて﹁ポスト・エヴァ﹂あるいは﹁セカイ系﹂といった定義の あいまいな用語に捉われることを避ける。本稿の試みとしては最近の、特に﹃エヴァ﹄後のアニメ作品︵今回 はアニメ版を中心に論じ、原作である小説、ゲーム等は参照程度にとどめる︶を﹁父﹂の不在というモチーフ の観点から、王朝物語を絡めて論じることにする。新たな物語の形式である﹁アニメ﹂の中に、王朝物語のモ チーフがどのように息づいているのか。また、それら王朝の物語を内包している現代のアニメ作品は何を訴え かけているのか。古典と現代とをつなぎながら、その問題意識を浮き彫りにしたい。 なお、単に﹁父﹂不在の物語と言っても数が多いため、二〇〇〇年代後半以降の学園を舞台にした、さらに ﹁父﹂不在というモチーフが特に象徴的に用いられていると思われる作品に絞って論じる。 二、 ﹁父﹂不在の多角関係と悲劇

School days ﹄と﹃源氏物語﹄ 二 〇 〇 七 年 七 月 か ら 九 月 ま で 放 映 さ れ た テ レ ビ ア ニ メ﹃ S ch oo l d ay s ﹄︵ 原 作 は パ ソ コ ン ゲ ー ム ︶ は、 主 人 公 である伊藤誠が、ヒロインの桂言葉にほのかな想いを寄せるところから物語が始まる。誠は毎朝、同じ電車に 乗り合わせる同じ学校の桂に好意を抱くものの、話しかけるきっかけがつかめずにいる。そんな誠と桂とを結 びつけたのは、西園寺世界という誠と同じクラスの女子生徒であった。 積極的に誠と桂とを接近させようとする西園寺。西園寺は三人での昼食をセッティングする。しかし、それ に 対 し て 誠 は 最 初 戸 惑 い を 見 せ る。 ﹁ 俺 の 心 の 準 備 が ま だ

﹂ と 三 人 で 食 事 を す る こ と を 拒 む の で あ る。 そ んな誠を西園寺は﹁男なんでしょ﹂とどやしつける。 ﹁男じゃなくてもいい﹂という誠に、西園寺は﹁じゃあ、

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男になりなさい﹂とさらに責め立てるのであった。 躊 躇 し て い た 誠 で あ っ た が、 実 際 に 昼 食 を と も に す る と 誠 は 桂 と 意 気 投 合 す る こ と が で き た。 そ の 日 の 夜、 西園寺に電話をし﹁今の気持ちを伝えようと思う﹂と、桂に告白することを宣言する。それに対して西園寺は ﹁ 男 ら し い ぞ、 誠 ﹂、 ﹁ 誠 な ら 大 丈 夫 だ よ ﹂ と、 彼 の 背 中 を 押 す。 誠 は 翌 朝、 桂 に 想 い を 告 げ る。 そ し て、 二 人 は交際をスタートさせることになる︵以上、第一話︶ 。 し か し、 誠 は 桂 と 交 際 す る も の の、 想 い が 空 回 る ば か り で 仲 が 進 展 し な い。 西 園 寺 か ら は﹁ 頑 張 れ 男 の 子 ﹂ とエールを送られる︵第二話︶ものの、慣れない交際で誠は﹁言葉の相手は疲れる﹂という感慨を西園寺に漏 らすまでになってしまう︵第三話︶ 。 その後、誠は一向に仲の進展しない桂ではなく、易々と自分を受け入れてくれる西園寺のほうと仲を深めて いくことになるのだが、ここまでのあらすじでも自明の通り、西園寺には﹁母﹂的な、桂には﹁女︵あるいは 妻︶ ﹂的な役割が負わされていると思しい。つまり西園寺は恋に未熟な誠に、 ﹁男﹂になることを求める存在で あ り、 ま た﹁ 女 ﹂ で あ る 桂 と の 恋 に 傷 つ く 彼 を 受 け 入 れ る 存 在 で も あ る。 物 語 は そ の ま ま、 誠 を め ぐ る﹁ 母 ﹂ 西園寺と﹁女﹂桂との三角関係に突入していく。 恋に未熟な男をめぐる﹁母﹂と﹁女﹂との三角関係。 思えば、これは非常に古典的、典型的なテーマであった。古く﹃源氏物語﹄はそのテーマを追究するところ から始まっていたと言っていい。 ﹁母﹂である藤壺と、 ﹁女﹂としての夕顔、また葵上との多角関係。この関係 自体は結果的に表面化されないが、藤壺の代わりとして﹁母﹂六条御息所との関係が描かれることになる。六 条御息所は光源氏にとって年上の高貴な女性であり、藤壺の代理として﹁母﹂的な側面を持つ。いわば藤壺の

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代わりとして﹁母﹂的な六条御息所が﹁女﹂たちと ともに 多角関係を構築するのだ。 た だ、 こ こ で 注 意 し て お き た い の は、 こ の﹁ 母 ﹂ や﹁ 女 ﹂ と い う﹁ 機 能 ﹂﹁ 役 割 ﹂ は 不 変 で は な い と い う こ とだ。既に﹃エヴァ﹄においても、この﹁母﹂と﹁女﹂との 混同 は起こっていた。 ﹁ は じ め に ﹂ で も 少 し 触 れ た が、 主 人 公 碇 シ ン ジ に 対 し て 当 初﹁ 母 ﹂ 的 な 機 能 を 担 っ た の は 実 際 に シ ン ジ の 母︵ユイ︶の面影を宿す綾波レイである。そして、その対極にいるのが時にぶつかり時に協力する、同世代の ﹁女﹂としてのパイロット仲間、アスカだった。 しかし、 ﹃エヴァ﹄においてその区別は回が進むごとに混沌としてくるのだ。 ﹁第弐拾参話﹂で、綾波はもう 一人の自分と対話しながら自分の心が﹁寂しい﹂ことに気づいていく。そして、涙を流しながら﹁泣いている のは、私﹂ ﹁これは私の心、碇君と一緒になりたい⋮⋮﹂と自分の心理に気づいていく。ここに見られるのは、 シ ン ジ と 一 対 一 の 男 女 関 係 と し て、 ﹁ 母 ﹂ で は な く﹁ 女 ﹂ と し て、 つ な が り た い と 願 う 彼 女 の 姿 で あ る。 こ の 姿と軌を一にして、逆にアスカのほうが﹃劇場版エヴァ﹄において、シンジを受け入れる﹁母﹂的な機能を請 け負って描かれていくことになる︵なお、昨年公開された﹃新劇場版﹄の三作目﹁ Q ﹂の最終場面も、その流 れにあった︶ 。 つ ま り、 そ も そ も こ の﹁ 母 ﹂﹁ 女 ﹂ と い う 役 割、 機 能 は 流 動 的 な も の で し か な い と い う こ と だ。 ち ょ う ど ﹃ 源 氏 物 語 ﹄ も そ う で あ っ た よ う に﹁ 母 ﹂ は 時 に﹁ 女 ﹂ に も な る。 本 当 の 母 な ら、 男 に と っ て﹁ 女 ﹂ に な る と いうことはまずない。しかし、男が同世代、あるいは少し年上の女性に作り上げた、幻想としての﹁母﹂は違 う。 藤 壺 は、 あ る い は 六 条 御 息 所 は 光 源 氏 の 本 当 の 母 親 で は な い。 に も か か わ ら ず、 男 た ち は 女 た ち に 時 に ﹁母﹂を幻想し、また時に﹁女﹂を幻想する。

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﹃ 源 氏 物 語 ﹄ に お い て 父 帝 が 藤 壺︵ と 幼 い 光 源 氏 ︶ に 対 し て﹁ つ ら つ き、 ま み な ど は い と よ う 似 た り し ﹂ と 言うのは、その点で非常に示唆的である。藤壺と源氏の母はよく似ている。だから仲良くしてほしい、そう父 帝は言ったのだ。似ていることがすなわち仲良くする根拠になるとは、考え てみ ればおかしな論 法 だが、とも あれ彼は父から藤壺を﹁母﹂として仲良くするように刷り込まれた。その結果、源氏は藤壺を﹁母﹂として睦 み つ つ も、 し か し そ れ が 似 て い る だ け で 本 当 の 母 で は な い︵ ﹁ 女 ﹂ と し て 見 る こ と も で き る ︶ と い う 矛 盾 に さ いなまれることになった。引き裂かれるような矛盾の中で、彼は﹁母﹂に﹁女﹂を見、それを理想とするよう な欲望構造を作り上げていく。藤壺はもちろん、六条御息所、空蝉などもその流れの中にあるだろう。 光源氏は彼女たちに﹁母﹂を幻想していた節がある。しかし、当然この関係性には無理がある。彼女たちは 決して源氏の﹁母﹂ ︵桐壺更衣︶その人ではないからだ。結果として、そこにはひずみが生まれることになる。 そのひずみは物語中、時に﹁死﹂という形を取って現れる。 これは、そのまま﹃ School days ﹄の最終話と重なると言っていい。伊藤誠が桂と再び交際を始めたことに対 して嫉妬に狂った西園寺が彼を包丁でめった刺しにして殺害、さらにその西園寺は桂に腹を裂かれて殺される という筋書きは、あまりに残虐なものとして地上波では放映中止となった。その放映中止という事態が、かえ って﹃ School days ﹄を有名にしたというきらいがないではないが、しかしそういった三角関係のもつれによる ﹁死﹂というモチーフは物語において、むしろありふれたものだった はず だ。 西園寺は、愛していたはずの誠に包丁を振りおろしながら、 ﹁ずるいよ、誠﹂ ﹁誠ばかり桂さんと幸せになっ て﹂と、自らの内なる思いを吐露していく。 ﹃ 源 氏 物 語 ﹄ に お い て も 夕 顔 の 死 の 場 面 で、 女 性 の そ う い っ た 嫉 妬 の 思 い と い う も の が か な り 明 確 な 形 で 描

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かれているのだ。 よひ過ぐるほど、 すこし寝入り給へるに、 御枕上にいとおかしげなる女いて、 ﹁をのがいとめでたしと見た てまつるをば尋ね思ほさで、かくことなることなき人をいておはしてときめかし給こそ、いとめざましく つらけれ﹂とて、この御かたはらの人をかきをこさむとす、と見給。 ︵﹃新日本古典文学大系   源氏物語﹄①﹁夕顔﹂一二二頁︶ ﹁ 私 が こ ん な に あ な た を 愛 お し く 思 っ て い る の に、 訪 ね て こ な い で、 こ ん な く だ ら な い 人 を 愛 す る な ん て ﹂ と、霊は源氏に向かって恨み事を述べる。古くからこれを六条御息所の霊とする説がある。これを六条御息所 と断定するには証拠が足りないが、そのように読者に読ませる要素はある。たとえ六条御息所でなくても、源 氏が一時は愛した女性が源氏を恨んで霊となったということの意味は大きい。その恨みが直接男に向かず女の ほうに向かうのは大きな違いにせよ、そこには﹁死﹂が存在しているからだ。 さらに、葵上の死の場面を見ていきたい。 うちまどろみ給ふ夢には、かの姫君とおぼしき人のいときよらにてある所に行きて、よかくひきまさぐり、 うつゝにも似ず、猛くいかきひたふる心出て来て、うちかなぐるなど見え給事たび重なりにけり。 ︵﹁葵﹂三〇四頁︶

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こちらの﹁死﹂に関与している霊は明らかに六条御息所のそれである。御息所が夢で葵上を﹁うちかなぐる﹂ 。 激しい表現である。 平安時代の物語が常に雅な恋の世界ばかり描いていたわけではないのだ。 もちろん ﹃ School da ys ﹄ の 場 合 は、 血 が 飛 び 散 る な ど さ ら に 残 虐 な 表 現 が さ れ て お り、 こ れ を﹃ 源 氏 物 語 ﹄ な ど と す ぐ に 同 列 に 扱 う こ と は で き ま い。 し か し、 そ の 差 異 は 差 異 と し て も、 ﹃ 源 氏 物 語 ﹄ が 血 な ま ぐ さ い 殺 し 合 い の 世 界 を 内 包 し て い た こ と は 見 逃 す べ き で は な い ︵ 5︶ 。﹃ S ch oo l d ay s ﹄ は そ の、 王 朝 の 物 語 に 存 在 し て い た 血 な ま ぐ さ い 一 面 を過剰に引用し、表現した物語であった と言える 。 しかし、 ﹃ School days ﹄で問題となるのは﹁父﹂の不在である。 ﹁父﹂どころか、上の世代の登場人物が全く 描 か れ な い の だ が、 こ れ は 明 ら か に た と え ば﹃ エ ヴ ァ﹄ ﹁ 第 弐 拾 五 話 ﹂ に お い て、 一 人 ぼ っ ち に な っ た シ ン ジ が﹁父さんに嫌われたらどうすればいいんだろう﹂と怯えていたことのアンチテーゼとしてある。 彼 は﹁ 僕 は こ れ か ら ど こ へ 行 け ば い い ん だ ﹂﹁ ど う し た ら い い の か 教 え て よ ﹂ と、 も が き 苦 し む。 ヒ ロ イ ン の ア ス カ も ま た 自 分 を 棄 て た 父、 ま た 自 分 を 残 し て 自 殺 し た 母 に 対 し て 複 雑 な 心 境 を 抱 い て お り、 ﹁ パ パ も マ マも嫌。みんな嫌なの﹂と、同じく親たちに向けて悲痛な叫びをあげていた︵第弐拾五話︶ 。﹃エヴァ﹄は親と いうものに対して、過剰なほど意識している作品であった。 それに対して﹃ School days ﹄では、教師、親、その他大人の姿というものが完全に排除されており、主人公 たちの意識に上ることもない。いわゆる﹁学園もの﹂なのにもかかわらず、授業はおろか出席を取られるシー ンすらないのだ。つまり年頃の男女が、何にも制限されることなくただ一緒にいるという、ある種のカオス的 な状況がそこには現前しているのである。この舞台設定が完全にファンタジーなのは言うまでもない。 ただ し、 こ れ は﹁ 父 ﹂ 不 在 の 社 会 と い う も の に 対 す る、 あ る 種 の 警 鐘 に も な っ て い る。 ﹁ 父 ﹂ 不 在 の 社 会 は か え っ て 少

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年 た ち を 苦 し め る と、 物 語 は 語 っ て い る の だ。 ﹃ エ ヴ ァ﹄ で 語 ら れ て い た の は、 自 ら に 激 し く 干 渉 し て く る 大 人 た ち に 対 し て 戸 惑 う 少 年 た ち の 姿 で あ っ た が、 ﹃ S ch oo l d ay s ﹄ に お い て は、 逆 に 全 く 干 渉 さ れ な か っ た た め に 欲 望 の ま ま に 生 き る ほ か な く、 そ し て 自 己 責 任 を 取 ら さ れ る 少 年 た ち が 描 か れ る。 ﹁ 死 ﹂ は そ の 極 端 な 象 徴 と捉えるべきだろう。 当然、この構図は﹃源氏物語﹄にも共通するものであったと言えよう。光源氏は、いわば﹁親のない子﹂で ある。母、桐壺更衣を三歳の時に失った彼は父帝には溺愛されたものの、それもわずかな期間であった。十二 歳で元服してからは臣下に落とされ、一人で生きていくことになる。彼を縛るものは何もなかった。源氏と藤 壺 と の 密 通 を 桐 壺 帝 が﹁ 知 っ て い て 許 し た ﹂ の か、 あ る い は﹁ 知 ら な か っ た ﹂ の か と 議 論 に な る こ と が あ る ︵ 6︶ が、 い ず れ に し て も 桐 壺 帝 が 光 源 氏 を 縛 る﹁ 縄 ﹂ に な ら な か っ た と い う 点 で は、 ﹁ 知 る / 知 ら な い ﹂ の 差は些細なことだろう。 うまくいかない﹁妻﹂葵上との関係に手を焼きながら、他の空蝉、夕顔、六条御息所といった女性たちと関 係を結んでいく若き日の彼の姿は、驚くほど﹃ School days ﹄の主人公、伊藤誠に近い。当然影響関係は逆なの であって、伊藤誠がある面で光源氏的であるということなのだが、つまりはそのような﹁古典的想像力﹂が現 代に生きている例を﹃ School days ﹄に見出すことができるのだ。光源氏のような、妻との関係に悩みながら他 の女に心が向かって行く男たちの系図は、その後﹃夜の寝覚﹄を経由して中世王朝物語﹃小夜衣﹄などに受け 継がれていくことになるが、その現代版として、ここで﹃ School days ﹄を捉えておきたい。 一 人 の 女 性 を﹁ 恋 人 ﹂、 あ る い は﹁ 妻 ﹂ と す る︵ 名 付 け る ︶ こ と が ゴ ー ル な の で は な い。 大 事 な の は、 名 付 けたその女性とどう向き合うのかということだ。 ﹃源氏物語﹄ 、そして﹃ School days ﹄は﹁死﹂という究極をち

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ら つ か せ な が ら、 そ の 問 題 を 提 起 し て い る。 前 述 し た よ う に 彼 ら に﹁ 父 ﹂ は な い。 ﹁ 父 ﹂ な き 物 語 の 主 人 公 と して、女性と向き合い、その責任を取っていく︵あるいは取らされる︶のである。 光 源 氏 も ま た 若 き 欲 望 の﹁ 責 任 ﹂ を 取 ら さ れ る 形 に な る。 ﹁ 若 菜・ 下 ﹂ 巻 で 彼 は、 妻 女 三 宮 の 懐 妊 を 知 り、 自分の犯した過ちを噛みしめる。 故院の上も、かく御心にはしろしめしてや、知らず顔をつくらせ給ひけむ、思へば、その世のことこそは、 いとおそろしくあるまじきあやまちなりけれ、と近きためしをおぼすにぞ、恋の山路は、えもどくまじき 御心まじりける。 ︵﹁若菜・下﹂三八五∼三八六頁︶ ﹁おそろしくあるまじきあやまち﹂と、自らの犯した罪を彼は改めて痛感する。 ﹁薫﹂という存在は源氏にと って、自分の過去の過ちが具現化したものにほかならない。 そ し て、 そ の 子 薫 は 続 く 宇 治 の 世 界 に お い て、 さ ら に﹁ 父 ﹂ な き 荒 野 を さ す ら う こ と に な る。 ﹁ 父 ﹂ な き 物 語のテーマは受け継がれたのである。匂宮という恋敵を登場させた物語は、神田龍身が言うように﹁二人の男 が 我 を 忘 れ て 戦 っ て い る 事 態 ﹂ 7︶ へ と 向 か っ て い く。 そ れ は﹁ 血 な ま ぐ さ い 殺 し 合 い ﹂ が す ぐ そ こ に あ る 世 界である。 ﹁父﹂なき物語はさらに﹁死﹂の予感を漂わせながら、脈々と続いていくのであった。

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三、 ﹁父﹂の示唆と息子の物語

Another ﹄と﹃浜松中納言物語﹄ 二 〇 一 二 年 の 一 月 か ら 三 月 に か け て 放 映 さ れ た テ レ ビ ア ニ メ﹃ A no th er ﹄ も ま た、 複 数 の 登 場 人 物 の 死 が 描 かれる、血なまぐさい作品であった。原作はミステリー作家、綾辻行人の同名小説である。陰惨な死が描かれ るホラー要素もありながら、一方で謎解きミステリー要素も含んだその筋立ては、ファンの間で高い評判を博 した。その後、映画化もされている。 あらすじを簡単に述べると、主人公、榊原恒一が夜見山市の北中学校に転校してきたところから物語は始ま る。 転 入 し た 三 年 三 組 は、 と あ る こ と が き っ か け で﹁ 災 厄 ﹂ に 見 舞 わ れ る﹁ 死 に 近 い ク ラ ス ﹂ と な っ て い た。 ﹁ 災 厄 ﹂ に よ っ て 蘇 り、 ク ラ ス に 紛 れ 込 ん で い る 死 者 を 探 し 当 て、 そ の 死 者 を 死 に 戻 さ な い 限 り 毎 月 ク ラ ス の 誰か、あるいはその家族が死ぬ。不幸にもその﹁災厄﹂に見舞われてしまった主人公が、見崎鳴というクラス メイトとともに﹁災厄﹂を止めるまでが描かれている。 本 稿 で 問 題 と し た い の は、 こ の 物 語 に お い て も、 ﹁ 父 ﹂ の 不 在 が 重 要 な モ チ ー フ と し て 描 か れ て い る 点 で あ る。主人公の父、陽介は物語において、終始インドに駐在している。そして時々、思い出したように﹁インド は暑いぞ﹂などと、一見何の意味もない電話をかけてくる存在として描かれる。 しかし、単なる端役かと言えばそうではない。その父親は時に主人公に対して﹁謎解き﹂のヒントを与えて く れ る 存 在 で も あ る の だ。 実 は 主 人 公 の﹁ 記 憶 ﹂ は、 ﹁ 災 厄 ﹂ の 働 き に よ っ て 改 竄 さ れ て い る。 そ の 改 竄 さ れ た﹁記憶﹂を正しくするためのヒントを、父は息子に投げかけているのである。

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この物語のカギは主人公の叔母である怜子と、三年三組の副担任である三神先生が実は同一人物であり、さ らにその三神怜子が実は一年半前に﹁災厄﹂で亡くなっていた、死者だったというところにある。 恒一は 夜見 山 市 で 怜 子 の 死 に 接 し て い た に も か か わ ら ず、 ﹁ 災 厄 ﹂ に よ る 記 憶 の 改 竄 の た め 、 以 前 夜 見 山 に い た こ と 自 体 を 忘 れ て い る の だ が、 ﹁ 災 厄 ﹂ の 影 響 を 強 く 受 け て い な い 陽 介 は﹁ ど う だ、 一 年 半 ぶ り の 夜 見 山 は ﹂ と、 息 子 に言うのだ。 しかし、主人公は結局、最後まで怜子が死者だということに気付けない。せっかくの父のヒントも、つまる ところ何の意味もなさなかったのだ。ヒントにもならないヒントを与えて、父は遠くインドから無意味なメッ セージを送り続けている。 異国からの父のメッセージ。これは﹃浜松中納言物語﹄に通じるものがある。もちろん、転生した父宮のメ ッセージに応えて唐にまで旅立った浜松中納言と、父のメッセージの意味するところに気付けなかった榊原恒 一とでは大きな差があるわけだが、父本来の姿が登場せず、遠くからその﹁父﹂なるものがほのめかされてい るといった点は、この二つの物語は共通するのである。 遠くからほのめかされているだけの父。当然、その影響力はかなり限定的なものになる。 ﹃ 浜 松 中 納 言 物 語 ﹄ で は、 唐 の 第 三 皇 子 に 転 生 し た 父 宮 と 中 納 言 は 河 陽 県 の 宮 で 対 面 し た が、 転 生 し た 父 の 顔は、当然だが﹁ありし御面影にはおは﹂さない。二人は涙しながら再会を喜ぶが、父は﹁あはれにかぎりな く思ひたれど、人目には、そのことをおぼえ顔にもかけ給はぬ﹂と人の目を気にする面があり、最大限の感動 というわけではなかった。一方の中納言も父の﹁御前にては、なぐさ﹂むものの、母まで振り捨てて渡唐した ことを後悔しつつあった。 ﹁父﹂はこの物語において、大きな意味を持ってはいないのである。

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むしろ﹃浜松中納言物語﹄におけるこの父宮の役割は、転生時の母である唐后に中納言のことを紹介したこ とにある。第三皇子︵父宮︶は唐后に次のように語る。 昔の心のおぼえはべるにより、常に見まほしく、あはれにおぼえはべるにより、つねに見まほしく、あは れにおぼえはべるを、御心にもうとくなおぼしめしなさせ給ひそ。久しくもはべるまじかんなれば、帰り なむのちの名残の多さなむ、かねて思ひはべる。 ︵﹃新編日本古典文学全集   浜松中納言物語﹄巻一   五〇頁︶ ﹁ 母 ﹂ に 息 子 を 紹 介 す る 父︵ ﹁ 母 ﹂ と 息 子 の 出 会 い に 父 が 関 与 す る 構 図 は﹃ エ ヴ ァ﹄ に も 共 通 す る ︶。 特 に ﹁ う と く な お ぼ し め し な さ せ 給 ひ そ ﹂ と い う 一 文 は、 桐 壺 帝 が 藤 壺 に 言 っ た 言 葉﹁ な 疎 み 給 ひ そ ﹂ と 通 じ る も のがある。帝にそう言われた藤壺は、その言葉どおりに光源氏と仲良くするようになるが、 ﹃浜松中納言物語﹄ でも話を聞いた唐后は﹁この皇子のおぼしのたまふさまなど聞き給ひてのちは、何の人目にも知らず、みずか ら、ものなどのたまはまほし﹂と、直接言葉をかわしたいという気持ちを持つようになる。この後、藤壺も唐 后も主人公との密通にいたることを考えれば、いわば父が息子と﹁母﹂との密通のきっかけをつくったという 構図が見て取れる。 この﹁母﹂は時に﹁女﹂的な一面を流動的に併せ持つ存在だということは前項でも述べた。藤壺は光源氏に とってその両面があったわけだし、唐后もまた中納言にとって転生した父の母であり、上の世代の存在である が、 完 全 に 上 と い う わ け で も な い。 年 齢 的 に も 唐 后 と 中 納 言 の 年 齢 差 は 藤 壺 と 源 氏 の そ れ に 近 く、 ﹁ 母 ﹂ と

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﹁女﹂が混在する環境はそろっていた。 し か し、 父 は そ の 女 性 に ﹁ 母 ﹂ の 要 素 し か 見 て い な い た め に、 息 子 と 彼 女 の 密 通 な ど、 全 く 考 え も し な い。 ゆえに、起こってしまった 息子と 彼女 の密通に関して無力である。また、 ︵表面的には︶無知でもある。 こ れ は﹃ A no th er ﹄ で も 共 通 す る 構 図 と 言 え る。 父 の イ ン ド 赴 任 が、 主 人 公 と 怜 子 を 結 び つ け る 原 因 と し て 作用している点、父は息子に﹁母﹂と接近する仲立ちをしてしまっているのだ。 そして、密通が発生する。 ﹃ Another ﹄においては、密通は怜子を殺めるという形で描かれる。徹底的に父は そ の 件 に 関 し て 無 力 で あ り、 無 知 で あ る。 ﹁ 密 通 ﹂ と 言 っ て も、 性 交 と 殺 害 と い う そ の 行 為 自 体 に は 大 き な 差 があることは言うまでもない。しかし、父が関係を結びつけながら、その関係の結果生まれたものについて徹 頭徹尾無力であり、また無知であるという共通性は見逃すべきではない。 この問題は、物語において﹁息子の父﹂とは何なのかという問題に対しての一つの答えを言い表していると 思 し い。 父 は 息 子 の 行 く 道 に つ い て 一 定 の 方 向 付 け を す る。 ﹃ 浜 松 中 納 言 物 語 ﹄ で 父 が 息 子 を 唐 に 呼 ん で、 結 果 的 に 唐 后 と 恋 を さ せ た よ う に。 ま た﹃ A no th er ﹄ で、 父 が 息 子 を 夜 見 山 市 に 住 ま わ せ 怜 子 と 引 き 合 わ せ、 惨 劇に巻き込ませたように。しかし方向付けしたものの、父は肝心の息子の行動について、最終的にはほとんど 感 知、 干 渉 で き な い の で あ る。 息 子 の 決 断 を 尊 重 す る 態 度 だ と も、 息 子 を 適 当 に 放 り 出 す 態 度 と も 言 え る が、 それが﹃源氏物語﹄や﹃浜松中納言物語﹄ 、あるいは﹃ Another ﹄に共通する父の態度である。 な お﹃ A no th er ﹄ に お い て は、 父 の 知 ら な い 中 で 密 通 と し て の 怜 子﹁ 殺 し ﹂ が 行 わ れ る わ け だ が、 そ こ で 息 子自身の手によって﹁母﹂との決別、また新たな﹁女﹂との結び付きが行われていることは注目に値する。 怜子が死者であることに全く気付けなかった恒一は、最終話で鳴からその事実を知らされる。それを知った

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恒一は、怜子を殺そうとしていた鳴から凶器のツルハシを受け取り﹁僕がやるよ﹂と、怜子を自ら手にかける。 女二人に男一人。これは三角関係の構図である。恒一は自らの手で怜子を捨て、鳴を選んだと言える。 恒一が怜子をどう見ていたか。それは鳴の言葉に従って怜子を死に戻す︵要は殺すということなのだが︶時 に つ ぶ や く﹁ さ よ な ら、 怜 子 さ ん。 さ よ な ら、 母 さ ん ﹂ と い う 彼 の 言 葉 に 端 的 に 表 れ て い る。 つ ま り 怜 子 は ﹁ 女 ﹂ で あ る と 同 時 に﹁ 母 ﹂ 的 な 存 在 で あ り、 彼 は そ の 怜 子 と 自 ら の 手 で 決 別 し た の で あ る。 鳴 を 信 じ て 怜 子 を殺す。これは、言いかえれば父から紹介された﹁母﹂的な﹁女﹂を捨て、自らが選んだ﹁女﹂を取るという 図式といえるだろう。 鳴を信じて怜子を殺すという選択をしなければ、恐らく彼は他の多くのクラスメイトと同様、その年度中に 死に引き込まれることになったはずだ。しかしそれは同時に母律子、叔母怜子たちの世界に行けるということ で も あ る。 大 切 な 叔 母 を 自 ら 殺 め る く ら い で あ れ ば、 ﹁ 母、 叔 母 の 世 界 ﹂ に 行 く と い う 選 択 は 当 然 あ っ た は ず だ。しかし、彼はそうしない。彼は見崎鳴を選んだのだ。 ﹁ 母、 叔 母 の 世 界 ﹂ と は、 と り も な お さ ず﹁ 死 の 世 界 ﹂ で あ る。 災 厄、 死 と い う 語 感 か ら、 そ れ ら は 忌 避 さ れ る べ き も の と し て 一 見 考 え ら れ る か も し れ な い。 し か し、 恒 一 に と っ て、 ﹁ 死 の 世 界 ﹂ と は 母 も 叔 母 も い る 世界である。さらに、叔母を再度死なせるという決断をしなければならない︵しかも自らツルハシを振り下ろ す︶以上、彼の﹁生の世界﹂にとどまるという決断は決して軽いものではない。鳴が﹁生の世界﹂にいるから こそ、彼は叔母を殺めた と言えよう 。 ﹃ Another ﹄ は 最後 、 恒一が怜子の墓参りに来たところで鳴と出会い、彼女と話をして終わる。その話の中で、 様々なことが種明かし的に明かされていくわけだが、最後に主人公は﹁これで終わりなんだよね﹂と、鳴に同

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意を求める。鳴と同じ世界にい続けられること、それを鳴に確認しなければ気がすまない恒一は、既に鳴に対 して確かな想いを抱いていると言ってよい。つまり最後に物語は主人公の、自ら選んだ﹁女﹂への想いを描い て終わるのだ ︵ 8︶ 。 ここまで述べてきた構図を図示すると、次のようになる。三神怜子については、繰り返し述べてきたように、 ﹁母﹂でもあり﹁女﹂でもあるという両方の属性を持つので、両方に記載している。 ︻図一︼ ﹁女﹂ /    ﹁母﹂ 生の世界 /    死の世界 ︵三神怜子↓︶見崎鳴 /    榊原律子︵↓三神怜子︶ 改 め て こ の 構 図 を 踏 ま え て、 ﹃ 浜 松 中 納 言 物 語 ﹄ を 考 え る な ら ば、 中 納 言 は﹁ 母 ﹂ と し て の 唐 后 を 振 り 切 っ て︵遣唐使の任期が切れたという外的な理由はあるわけだが︶日本に帰ることを選ぶ点、 ﹃ Another ﹄と類型と しては全く同じだということになる。日本には﹁女﹂としての 姫 君がいる。中納言は、恒一が怜子を捨てて鳴 を 選 ん だ よ う に、 唐 后 を 捨 て、 姫 君 を 選 ぼ う と し た の だ。 ﹁ 大 将 殿 の 姫 君 な ど、 恋 し く お ぼ つ か な き 人 多 く ﹂ ︵九〇頁︶と帰国の理由が語られる。 し か し、 い ざ 帰 国 す る と 姫 君 は 出 家 し て し ま っ て い た。 中 納 言 の 代 わ り の﹁ 女 ﹂ を 求 め る 物 語 が 始 ま る。 ﹃ 浜 松 中 納 言 物 語 ﹄ の 巻 二 以 降 は、 ま ず 姫 君︵ 尼 姫 君 ︶ を﹁ 女 ﹂ の 代 わ り と し て 先 に 進 め な い か と い う 中 納 言

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︵と物語︶の試み、そしてそれが失敗に終わったために新たな﹁女﹂を探す、という流れに集約される。結局、 中 納 言 が﹁ 女 ﹂ と し て 見 込 ん だ 吉 野 姫 君 は 式 部 卿 宮 に 横 取 り さ れ る と い う 展 開 に な る が、 も し﹃ A no th er ﹄ に おいて、 鳴が他の男に横取りされれば、 それは驚くほど﹃浜松中納言物語﹄的だということになる。 ︵﹃ Another ﹄ の 中心が﹁ 災 厄﹂をめぐるものだった 以上、 そこまで描かれることは あり得ないが。 ︶ 実は﹃浜松中納言物語﹄は巻五で一つの可能性を提示している。唐后の転生がそれである。吉野姫君を横取 り さ れ た 中 納 言 の 前 に、 可 能 性 と し て の﹁ 女 ﹂ が 提 示 さ れ た。 唐 后 が 中 納 言 の 夢 枕 に 立 つ の で あ る。 唐 后 は ﹁われも人も浅からぬ思ひにひかれて、なほ女の身となむ生るべき﹂ ︵三九八頁︶と、お互いが想いあっている ゆえに、来世も﹁女﹂として生まれてくることを告げる。 先の図にならって﹃浜松中納言物語﹄の対立関係を図示するなら、次のようになる。 ︻図二︼ ﹁女﹂ /   ﹁母﹂ 日本 /   唐 ︵転生前の唐后↓︶大君↓吉野姫君↓転生後の唐后 /   転生前の唐后 転 生 と い う 方 法 が、 唐 后 の﹁ 母 ﹂ 的 な 要 素 を 消 し 去 る た め 用 い ら れ て い る と い う こ と が わ か る。 ﹃ A no th er ﹄ は﹁災厄﹂という形で、三神怜子を再び生の世界へと引き戻した。これは﹃浜松中納言物語﹄における転生と ほ ぼ 同 義 で あ る。 そ う で あ れ ば﹃ A no th er ﹄ に お け る﹁ 災 厄 ﹂ と は、 主 人 公 が﹁ 女 ﹂ を、 つ ま り 鳴 を 選 ぶ た め

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︵=﹁母﹂であり﹁女﹂である怜子を捨てさせるため︶の一つの機能だったということが言えよう。 なお、最後に一つ付け加えるなら﹃浜松中納言物語﹄においては、ひとつ、女の変装と男の誤認という要素 がキーになっていた。当初、中納言は唐后を唐后と思わぬまま契りを結ぶ。この誤認は﹃夜の寝覚﹄などでも 重要なモチーフとして用いられている、ある種典型的なものだが、 ﹃ Another ﹄においてはさらにその誤認︵怜 子を死者だと思わない︶が、読者をも巻き込む形で用いられている点、 ﹃浜松中納言物語﹄ ︵あるいは﹃夜の寝 覚﹄ ︶の過剰な引用と言えるのではなかろうか。 ﹁ 父 ﹂ の 示 唆、 ﹁ 母 ﹂ と﹁ 女 ﹂、 あ る い は﹁ 生 ﹂ と﹁ 死 ﹂︵ 死 者 の 蘇 生 ︶、 そ し て 変 装 と 誤 認

。 様 々 な モ チ ーフを受け継いで﹃ Another ﹄は成立している。 ﹃浜松中納言物語﹄でも、 ﹃ Another ﹄でも﹁父﹂が示唆しなけ れば物語が進まない。かと言って示唆にとどまらなければ息子の問題は描けない。いわば、その微妙な均衡の 中で物語が成立している。だからこそ﹃浜松中納言物語﹄では、父は幼い子供に転生して唐にい続けるのだし ﹃ A no th er ﹄ で は、 陽 介 は 終 始 イ ン ド に い る の だ。 そ の 影 響 力 は 限 定 さ れ ね ば な ら な い。 ﹁ 父 ﹂ の 存 在 を ほ の め かす物語は、その示唆によって﹁女﹂と関わって葛藤する息子の問題を描き、今に脈々とつながっているので ある。 四、パロディ作品にある寛容な﹁父﹂のモチーフ

﹃中二病でも恋がしたい!﹄と﹁虫愛づる姫君﹂ 二 〇 一 二 年 の 十 月 か ら 十 二 月 に か け て 放 映 さ れ た テ レ ビ ア ニ メ﹃ 中 二 病 で も 恋 が し た い!﹄ ︵ 原 作 は ラ イ ト

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ノ ベ ル ︶ は、 ﹁ 引 用 ﹂ に 満 ち 満 ち た 作 品 で あ る。 原 作 者 自 身﹃ 涼 宮 ハ ル ヒ の 憂 鬱 ﹄ に 影 響 を 受 け て い る こ と を 述 べ て い る ︵ 9︶ 。﹃ 涼 宮 ハ ル ヒ の 憂 鬱 ﹄ だ け で は な い だ ろ う。 稿 者 は ヒ ロ イ ン 小 鳥 遊 六 花 の 容 貌 に、 前 項 で 扱 っ た﹃ A no th er ﹄ か ら の﹁ 引 用 ﹂ を 感 じ ず に は い ら れ な か っ た。 小 柄 な 少 女 が 眼 帯 を つ け て、 制 服 で 学 校 に 通 っ て い る。 そ の 外 見 は 相 当 見 崎 鳴 に 類 似 す る と 言 っ て い い。 ち ょ う ど 同 年 に﹃ A no th er ﹄ の 放 映 が さ れ て い た こともあり、ふと﹃ Another ﹄を想起した視聴者も少なからずいたのではなかろうかと思しい。 ︵眼帯はそもそ も﹃エヴァ﹄の綾波も装着していたアイテムであり、綾波からの影響を考える必要もあるだろうがひとまず措 く。 ︶ こ れ を﹁ 引 用 ﹂ と い う と 引 っ か か り を 覚 え る む き も あ る か も し れ な い。 と い う の も、 ﹃ 中 二 病 で も 恋 が し た い!﹄ の原作者が ﹃ Another ﹄ を読んでいた確証はないからだ。さらにアニメ放映の期間を考えても ﹃ Another ﹄ が﹃ 中 二 病 で も 恋 が し た い!﹄ に 先 行 す る の は わ ず か 九 カ 月 で あ り、 そ の 点 で も﹃ A no th er ﹄ を 本 作 品 の﹁ 引 用﹂元とするのは異論もあるだろう。 しかし、本稿で問おうとしているのは最初に触れたように、狭義の﹁引用﹂の問題そのものではなく、モチ ーフの作用の問題であり、受け手側へのメッセージの問題である。小鳥遊六花を見て見崎鳴を想起してしまう、 そ ん な﹁ 物 語 ﹂ が 横 溢 し て い る 社 会 ︵ 10︶ 、 そ の よ う な 社 会 に お い て 受 け 手 は 新 た な 物 語 か ら 何 を 感 じ る の か、 また話のモチーフがどのように作用しているか、ということだ。物語が横溢している世界という点では、現代 はちょうど﹃源氏物語﹄以後の状況と類似する。本項では、まさにそのような社会で生み出された﹃堤中納言 物 語 ﹄ の﹁ 虫 愛 づ る 姫 君 ﹂ と の 関 連 に つ い て 主 に 指 摘 し た い。 こ の 物 語 が 生 ま れ て は 消 え て い く 昨 今 の 中 で、 ﹁引用﹂に満ち満ちた﹃中二病でも恋がしたい!﹄はどのように﹁父﹂の不在を語っているのだろうか。

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ま ず、 ﹃ 中 二 病 で も 恋 が し た い!﹄ の あ ら す じ を 説 明 す る。 主 人 公、 富 樫 勇 太 は 入 学 式 の 日、 一 人 の 美 少 女 と出会う。それがヒロインの小鳥遊六花である。彼女は、自分には人とは違う能力があると信じ込んで奇妙な 言 動 を 繰 り 返 す、 い わ ゆ る﹁ 中 二 病 ﹂ に か か っ て お り、 勇 太 は ひ ょ ん な こ と か ら 彼 女 と﹁ 契 約 ﹂ さ せ ら れ る。 その﹁契約﹂の関係を軸に話が展開していくコメディータッチの物語である。綾波レイ、見崎鳴といった眼帯 少女の系譜に位置しながら、あくまでシリアスだったそれら先行の物語世界を反転させる形で、小鳥遊六花と ﹃中二病でも恋がしたい!﹄はある。 こ の 物 語 で も キ ー と な る の は、 ﹁ 父 ﹂ の 不 在 で あ る。 実 は、 六 花 が﹁ 中 二 病 ﹂ に な っ た の は、 実 父 の 死 去 が き っ か け で あ り、 ﹁ 父 ﹂ の 不 在 が 彼 女 を し て 奇 妙 な 言 動 に 走 ら せ て い る と い う 構 図 が あ る。 さ ら に こ の 物 語 で 興 味 深 い の は、 主 人 公 の 勇 太 に も﹁ 父 ﹂ が 不 在 だ と い う 点 で あ る ︵ 11︶ 。 勇 太 の 父 は 作 中、 終 始 ジ ャ カ ル タ に 単 身赴任していることになっており、存命なのに一度も登場しない。 ︵アジアへの単身赴任という点、 ﹃ Another ﹄ と共通する︶ 。つまり、 ﹁父﹂のいない二人の恋物語という性格がこの作品にはあるのだ。 そう言うと、では﹁虫愛づる姫君﹂とは違うではないかという声があがりそうだ。確かにこの物語のヒロイ ン に は 按 擦 使 の 大 納 言 と い う 父 親 が お り、 ﹁ 大 殿、 太 刀 を ひ き さ げ て、 も て は し り た り ﹂ と、 作 中、 は っ き り と登場しているのである。 しかし、この父は娘の教育その他に全く関与していない。眉も抜かず、お歯黒も付けていない娘をそのまま にし、さらに右馬佐という男が娘に何回か歌を詠みかけ、半ば言いよっているにもかかわらず、それに対して の反応が全く書かれない︵つまり不関与︶のである。つまり父の有無という点では﹁虫愛づる姫君﹂と﹃中二 病でも恋がしたい!﹄は大きく違うものの、結局は似たような展開になってしまっているのだ。

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﹁ 虫 愛 づ る 姫 君 ﹂ で は、 ヒ ロ イ ン は 毛 虫 を 可 愛 が っ た り、 白 い 袴︵ 姫 君 は 真 紅 の 袴 を 着 る の が 普 通 だ っ た ︶ を着たり、かと思えば﹁鬼と女とは人に見えぬぞよき﹂などと 奇妙な言い回しの 言葉をうそぶいたりと、奇矯 ともいえる言動を繰り返 す 姫君として描かれている。しかし、そのような変ったところを持ちながら、作り物 の蛇に﹁蝶のごとく﹂怯える姿もまた描かれている。つまり彼女は全てが変なのではなく、ある時にはいわゆ る女性的な反応を見せることもある姫君なのである。 これは、 ﹃中二病でも恋がしたい!﹄の六花にも当てはまる造形である。彼女は眼も悪くないのに眼帯をし、 自分を﹁邪王真眼の使い手﹂などと称し、 奇矯的 な言動をしている。口をついて出てくる言葉は﹁不可視境界 線﹂や﹁空間背離﹂などといった、これまた 奇妙な言い回しの 言葉ばかりである。しかしその一方で裁縫が得 意だったり、勇太に想いを寄せてからはろくに目を合わせることもできなかったりと、いわゆる﹁女の子らし い﹂一面をのぞかせもするのだ ︵ 12︶ 。 ごくありふれた、いわば﹁蝶愛づる﹂一面も持った彼女たち。ではなぜ彼女たちは一見奇矯とも言うべき言 動をとり続けるのだろうか。 思うに、二人に共通するこの奇妙な言動は、周りと自分とは違うのだという、彼女たちの自意識の発露なの で は な か っ た か。 周 り が 押 し つ け る﹁ 普 通 ﹂ と い う も の に 彼 女 た ち は 反 発 し て い る。 そ れ は、 ﹁ 自 分 ら し さ ﹂ と い う も の を 認 め て く れ ず に 一 方 的 に 価 値 観 を 押 し 付 け て く る 社 会、 ﹁ 普 通 ﹂ の 人 々 に 対 す る、 あ る 種 の 抵 抗 でもあった ︵ 13︶ 。 そ ん な 彼 女 た ち は、 ﹁ 普 通 ﹂ の 人 々 か ら 時 に 病 気 扱 い さ れ も す る。 六 花 に﹁ 中 二 病 ﹂ と い う﹁ 病 名 ﹂ が つ い て い る の は タ イ ト ル 通 り だ し、 ﹁ 虫 愛 づ る 姫 君 ﹂ の ヒ ロ イ ン も﹁ 萎 黄 病 ﹂ と い う 病 気︵ 思 春 期 の 女 子 が か か り

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や す い 貧 血 の 一 種 ︶ で あ る と 山 岸 徳 平 に よ っ て 指 摘 さ れ た ︵ 14︶ こ と は 研 究 史 上 自 明 の こ と で あ る。 こ の 二 人 が 双方﹁病人﹂とされていることは、あまりに大きな共通点だろう。 この共通点を、物語が横溢する社会の状況とリンクさせて考えてみたい。 今 や ア ニ メ、 ラ イ ト ノ ベ ル な ど の﹁ サ ブ カ ル チ ャ ー 物 語 ﹂ を 取 り 巻 く 環 境 は 苛 酷 で あ る。 ﹁ サ ブ カ ル チ ャ ー 物語﹂は世間に掃いて捨てるほどあり、物語は︵あるいは作者は︶ほかの物語との差異を明確に出すことを求 め ら れ て い る。 新 味 が な け れ ば 読 者 の 目 に 止 ま ら な い 時 代 に な っ た の だ。 そ ん な 時 代 の ヒ ロ イ ン と し て﹁ 病 人﹂ 、小鳥遊六花はいる。 その状況は、 ﹁虫愛する姫君﹂も変わるところはない。 ﹃源氏物語﹄を筆頭に、当時の宮廷社会には物語が溢 れ て い た。 天 喜 三 年 五 月 三 日 に 開 か れ た﹁ 物 語 歌 合 ﹂ は あ ま り に 有 名 だ が、 新 作 の 物 語 を 発 表 す る 場 は そ の ﹁ 物 語 歌 合 ﹂ に と ど ま ら な か っ た だ ろ う。 平 安 後 期 と い う 時 代 は、 女 房 た ち が 集 ま る﹁ サ ロ ン ﹂ が 内 親 王 や 斎 宮を中心として様々なところで形成され、そこで沢山の物語が生まれては消えていった 時代である 。そんな消 えていった物語が数多くある中で、この﹁虫愛づる姫君﹂という物語が﹃堤中納言物語﹄に収められて現代に 残っているのは、はたして偶然だろうか。他の凡百の物語とは違う要素を持ち、読者に読まれたからこそ、残 ったのではあるまいか。 池田利夫は﹁物語合をめざして作られる物語とは、どんな構造を持つのであろう。そこには、当然、聞き手 の 反 応 に 対 す る 配 慮 が 十 分 な さ れ た は ず で あ る ﹂ ︵ 15︶ と 述 べ る が、 物 語 合 の よ う な 他 の 物 語 と 直 に 競 い 合 う こ とを求められる場のために作られる作品には、当然﹁配慮﹂が求められるだろう。従って﹁虫愛づる姫君﹂は 独自色を出す必要があった。独特すぎて﹁病人﹂とされるヒロインが登場したのは、そのためではないか。平

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安後期という時代は、もはや﹁蝶愛づる姫君﹂がヒロインでは読者︵聞き手︶を満足させられない時代になっ ていたのだ。これは平成の今と一致する。平安後期と同じく﹁キャラを立たせる﹂ことが、最近のアニメ、ラ イトノベルの世界では求められる。様々な物語に触れている読者をひきつけるために、独自色の強い登場人物 が必要なのだ。 ここから分かるのは、平安後期のサロンとはすなわち現代の﹁オタク﹂文化圏と相似の関係にあるというこ と だ。 平 安 後 期 の サ ブ カ ル チ ャ ー︵ 物 語 ︶ が サ ロ ン の 女 房 で 支 え ら れ て い た よ う に、 現 代 の サ ブ カ ル チ ャ ー ︵アニメ、ライトノベル︶はオタクたちによって支えられているのである。姫君も六花も、社会からは﹁病人﹂ として白い目で見られるだろう。しかし彼女たちの姿は、一般の社会とは若干の距離を置いて物語に耽溺する、 平 安 朝 の サ ロ ン 女 房 や 現 代 の オ タ ク た ち に と っ て は、 む し ろ 親 近 感 を 覚 え る﹁ 同 類 ﹂ に 映 っ た の で は な い か。 たとえ他人から白い目で見られようとも自分の独自性を貫く︵ ﹁キャラを立てる﹂ ︶ことを優先させるヒロイン たちの姿は、確かに時に病的に見えるかもしれないが、ある種の清々しさを感じさせもする。物語は他の物語 の中で埋没しそうになりながらも、自らの生き残りをかけて﹁独自であること﹂の意義をメッセージとして読 者に送ろうとしているのだ。 また、この二つの物語の主人公が、双方とも十代の少女であるという点も大きな共通点であろう。辛島正雄 は﹁ ﹃ 堤 中 納 言 物 語 ﹄ の 中 の﹁ 虫 愛 づ る 姫 君 ﹂ の 女 主 人 公 は、 極 端 に 戯 画 化 さ れ て は い る も の の、 そ の 風 変 わ り な 性 癖 を 通 じ て 女 の 殻 に 閉 じ 込 め ら れ る こ と へ の 反 発 を 描 い て い て、 興 味 深 い ﹂ 16︶ と 述 べ て い る が、 ま さ にこの二人のヒロインに共通するのは、そのような﹁反発﹂ではないか。 つまり彼女たちは、いわば大人になる寸前のこの時期、周りが押しつけてくる﹁普通の女性﹂像に反発して、

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このような言動に出ていると思しいのだ。辛島の言にもある通り、姫君 は、 ︵ また 六花も ︶﹁極端に戯画化され てはいる﹂が、先に述べたように﹁普通﹂の少女の一面も持っている。どのようにもなれる可能性がある一方 で、少女は︵少年もある程度そうだが︶自分でその可能性の中から﹁生き方﹂を選びとるというより、周りか ら﹁生き方﹂を押し付けられやすい。いわば自らの意図とずれる形で変形しやすい存在である。そのナイーブ さ、もろさを理解したうえで、物語はこのヒロインたちに周りから﹁反発﹂し、自分で自分の﹁生き方﹂を選 ぼうとする意思を

少なくとも現時点では

持たせているのだ。 今後﹁男﹂と知りあい、彼女たちはどう変わっていくのか。 ﹁虫愛づる姫君﹂では、 ﹁男﹂右馬佐との交流は 深まる一歩手前で物語は終わっており、結末は読者に投げられた形になっている。その一方で﹃中二病でも恋 が し た い!﹄ で は、 六 花 が 勇 太 と 交 際 し た 後 も﹁ 中 二 病 ﹂ を 貫 く と い う 点、 ﹁ 虫 愛 づ る 姫 君 ﹂ の 一 歩 先 を 行 く 展開になっていることは注目に値する︵しかし、いつまで﹁中二病﹂でいられるか保障はない︶ 。 最後に、ここまで述べてきたことを﹁父﹂というモチーフと絡めるのであれば、そういった独自のヒロイン を許す︵ ﹁生き方﹂を押し付けない︶寛容な﹁父﹂像が求められているのではないかと思しい。 ﹃夜の寝覚﹄に おいても男たちとの関係に悩み、ひたすら内面的な思索にふけるヒロインに対し、それを見守り、ヒロインが 願い出た出家をも許そうとする寛容な﹁父﹂像がそこにはあった。 ﹁ 虫 愛 づ る 姫 君 ﹂ で は、 眉 も 抜 か ず、 お 歯 黒 も 付 け ず、 奇 妙 な 服 を 着 て も 止 め な い 父 像 が、 そ の 寛 容 さ を 示 し て い る。 ﹃ 中 二 病 で も 恋 が し た い!﹄ で は、 六 花 の 父 は 死 ん で い る わ け だ が、 そ の 代 わ り と し て 恋 人 と し て の勇太が﹁父﹂代わりとして存在し、最終的に彼女の﹁中二病﹂的有り様を許容するという方向へ話が向かっ ていく ︵ 17︶ 。

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こ の 展 開 は、 美 少 女 を 父 親 代 わ り に﹁ 承 認 ﹂﹁ 許 容 ﹂ し た い と い う 男 側 の あ る 種 の﹁ 欲 望 ﹂ が 反 映 さ れ て い るとともに、許容されたい願望、自分らしく生きたい願望を持つ読者にとっても理想的な結末になっていると 思われるが、ともあれ﹃中二病でも恋がしたい!﹄においても寛容な﹁父﹂像が描かれているのだ。物語が横 溢した時代のサロン︵またはオタク文化圏︶において、独自の物語を作るために、いわば 縛る﹁父﹂旧来型の 男としての﹁父﹂の不在と 寛容な﹁父﹂ の存在が 必須なのであった。 寛 容 な﹁ 父 ﹂ と 病 的 な﹁ 娘 ﹂。 ﹃ 中 二 病 で も 恋 が し た い!﹄ は、 そ の モ チ ー フ を﹁ 虫 愛 づ る 姫 君 ﹂、 ま た﹃ 夜 の寝覚﹄などから正しく受け継いでいる。それは、物語で溢れかえる時代に生きる物語がとった、独自性を出 すための﹁戦略﹂でもあった。人物造形において、先行物語から﹁引用﹂しながら、しかし差異を出すべく独 自のヒロインを造形する︵キャラを立たせる︶ 、 したたかな物語の姿がそこにはある。 五、おわりに ここまで、現代のテレビアニメと古典文学とを絡めて論じてきた。平安時代と平成時代。双方とも物語にあ ふ れ た 時 代 で あ り、 恋 と い う も の が 人 々 の 重 大 な 関 心 事 に な っ て い る 、︵ 少 な く と も 表 面 的 に は ︶ 平 和 な 時 代 である。今回、その時代が生み出した作品の関連性が改めて強く見えてきた。本稿では﹁父﹂というモチーフ にくわえて、個々の物語の関連については三角関係、転生、物語引用などの補助線をいくつか引いてその関連 性を考察してきたわけである。 平安期︵あるいは鎌倉期︶の物語において、繰り返し描かれる﹁父﹂の不在。あるいはほのめかされるだけ

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の﹁ 父 ﹂。 こ れ ら は 最 近 の ア ニ メ 作 品 の 多 く と 共 通 す る も の で あ っ た が、 そ の 共 通 点 が 時 に 血 な ま ぐ さ い 世 界 を呼び起こし、時に息子が﹁女﹂と葛藤するという筋書きにつながっていき、さらに娘の自意識の問題にもか かわっていることが確認できた。 ﹁父﹂の ﹁ 不在 ﹂ というモチーフが持つ問題を掘り下げられたように思う。 さらにここで﹃ School days ﹄で

結局は放棄されているが

﹁出産﹂の問題もほのめかされていたこと を付け加えておきたい。というのもこの点でも古典文学との関連が考えられるからである。誠の子を身ごもっ た西園寺は、つわりで嘔吐しながらふと鏡を見る。そこには、顔色の悪い自分が映っていた。彼女は不安を抱 きながらも﹁誠の子か⋮⋮﹂と自分に言い聞かせ、お腹を撫でて気持ちを保とうとする。 ここから想起されるのは﹃大和物語﹄の一五五段だ。この話は、男に拉致された女の物語である。男は妊娠 を控えた女のため、食べ物を手に入れるべく町に戻る。取り残された女は一人になる。その時、彼女はふと川 の 水 面 を 見 て 自 分 の 顔 が 様 変 わ り し て い る こ と に 気 づ く。 世 を は か な ん だ 彼 女 は﹁ 浅 く は 人 を 思 ふ も の か は ﹂ と男を想う歌を書きつけて死ぬ。男が戻ってきた時には女は既に亡くなっており男は女を一人にしたことを後 悔 す る、 と い う 筋 で あ る。 ﹁ 出 産 ﹂ と﹁ 死 ﹂ と い う 非 常 に 重 い テ ー マ を 背 負 っ た 物 語 で あ る が、 こ の テ ー マ は ﹃ S ch oo l d ay s ﹄ に も 受 け 継 が れ て い る と 思 し い。 出 産 に 対 す る 不 安、 そ し て そ れ ら︵ 出 産 や そ の 不 安 ︶ に 対 す る男の不関与を﹃ School days ﹄は描いている。文字通りの産みの苦しみを抱える女に、親身に寄り添える男が 昔からどれほどいただろうか。男を想いつつ出産する女に対し、時に男の行動はすれ違う。その現実を、物語 は繰り返し指弾していたのだ。 なお、本稿で取り上げられなかった﹁父﹂不在のアニメはまだある。最近のものだけでも、二〇一二年一月 から三月まで放映された﹃パパの言うことを聞きなさい!﹄などは典型的な﹁父﹂不在の物語である。主人公

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は姉夫婦の事故死︵原作の小説では行方不明︶にともない、姉が遺した三姉妹の面倒を見ることになる。アニ メ版では、その最後まで主人公がどの女性と結ばれて、文字通りの﹁父﹂となっていくかは明かされなかった が、 引 き 取 っ た 長 女 に 手 を 付 け る︵ 現 在 の 法 律 で は 結 婚 は 認 め ら れ て い な い が ︶ と す れ ば、 こ れ は﹃ 源 氏 物 語﹄の玉鬘物語で追究されたテーマになる。それは、その後﹃夜の寝覚﹄や﹃石清水物語﹄に受け継がれてい く。男が親戚の娘を引き取って、そのまま妻とする構図である。それを回避し、先輩と結婚することになれば、 例えば﹃海人の刈藻﹄における安擦使と北の方の関係に類似する。 つ ま り、 ﹃ パ パ の 言 う こ と を 聞 き な さ い!﹄ は、 一 見 軽 い﹁ 萌 え ﹂ 系 の ア ニ メ の よ う で あ り な が ら、 そ の 一 方で古典から脈々とつながる﹁父﹂という役割の持つテーマ︵父の結婚、娘たちとの関係性︶を扱っていたの だ。 今 を 生 き る 物 語 は、 い わ ゆ る﹁ 萌 え ﹂ の 仮 面 を か ぶ り な が ら、 私 た ち に 家 族 と は 何 か、 ﹁ 父 ﹂ と は 何 か と いう問題を突き付けてもいるのだ。ただ結婚して子を産めば︵ ﹁女﹂に産ませれば︶ ﹁父﹂になれるというもの ではない、そう物語は語っている。ある日突然父にさせられることもあれば、子どもたちとうまくいかないこ ともある。様々なケースを物語は想定して、その時代に応じて読者の心をつかんできた。それは﹁写本﹂から ﹁アニメーション﹂の形になっても、変わるところはない。 今回扱った﹁父﹂ 、﹁子﹂そして﹁家族﹂というテーマ。それらのテーマは今なお、繰り返し物語に描かれて いく。それは、とりもなおさずそれらのテーマが、またそのテーマを扱う物語が未だ古びていないということ を 意 味 す る。 ﹁ 物 語 ﹂ は 人 々 の 関 心 事 を 扱 っ て、 今 な お 私 た ち の 中 に 生 き、 影 響 を 与 え て い る。 今 後 と も そ の ﹁ 物 語 ﹂ が 語 り か け て く る メ ッ セ ー ジ に 耳 を す ま せ、 現 代 社 会 に 通 じ る 研 究 と し て 考 察 し て い く こ と。 こ れ が 稿者に課せられた課題だと思っている。

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︵ 1︶ ﹃読売新聞﹄一九九六年四月一日付朝刊 ︵ 2︶ その時に少女が呟いた﹁気持ち悪い﹂の一言はネット上で様々な解釈を呼び起したが、ここではそれに踏み込 まない。 ︵ 3︶ 二 〇 〇 七 年 か ら 四 部 作 予 定 で 発 表 さ れ て い る﹃ 新 劇 場 版 エ ヴ ァ ン ゲ リ オ ン ﹄ が あ り、 ﹁ エ ヴ ァ ン ゲ リ オ ン ﹂ の 物語はなお続いていると見ることもできるが、 ﹃新世紀﹄の物語については一九九七年の﹃ ﹃新世紀エヴァンゲリ オン劇場版﹄で一応完結していると見る。 ︵ 4︶ ﹁セカイ系﹂とされる作品群が﹃エヴァ﹄の強い影響下にあることは笠井潔︵ ﹃探偵小説は﹁セカイ﹂と遭遇し た﹄南雲堂   二〇〇八︶らにすでに指摘がある。 ︵ 5︶ 最近でも代表的なところで、熊谷義隆が﹁桐壺帝の密通認知  

その可能性と高麗の相人の予言﹂ ︵﹃源氏物 語の世界  

方法と構造の諸相﹄風間書房   二〇〇一︶で帝の密通の認知について論じている。 ︵ 6︶ さらに宇治十帖においては、武士が登場し、薫と匂宮の三角関係がまさに血みどろの様相を呈す一歩手前の状 況が語られてもいる。神田龍身﹃源氏物語   清の迷宮へ﹄ ︵講談社   二〇〇一︶に詳しい。 ︵ 7︶ 注 ︵ 6︶ 著書 ︵ 8︶ なお、最後まで鳴が恒一を好きかどうかは明らかにされない。恒一が鳴を選んだとしても、鳴がその気持ちを 受 け 入 れ る か ど う か は 結 局 の と こ ろ 未 知 数 で あ り、 そ こ に﹃ A no th er ﹄ が 語 り 残 し た 点 が あ る。 こ れ は 意 図 的 と も考えられる。この物語における﹁女﹂である見崎鳴は﹃浜松中納言物語﹄における吉野姫君のように、他の男 と結ばれてしまう可能性を大いに残していると言えよう。 ︵ 9︶ 作 者 が、 原 作 本﹃ 中 二 病 で も 恋 が し た い!﹄ ︵ 京 都 ア ニ メ ー シ ョ ン   二 〇 一 一 ︶ の 後 書 き で、 ヒ ロ イ ン 小 鳥 遊 六花の造形に﹃涼宮ハルヒの憂鬱﹄が影響していると述べている。 ︵ 10︶ 東浩紀の言い方を借りれば、 ﹁制作される物語の多くが、最初から類型化と平板化を受け入れている﹂ ﹁動物的 でデータベース的環境﹂ ︵﹃ゲーム的リアリズムの誕生﹄講談社   二〇〇七︶である。小鳥遊六花の造形に涼宮ハ ルヒ、あるいは見崎鳴など先行作品のヒロイン像が透けて見える、類型化した物語として﹃中二病でも恋がした

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い!﹄はある。 ︵ 11︶ なお原作のライトノベルでは主人公、勇太は父と一緒に過ごしていることになっており、アニメ版で敢えて改 変した意味を問う必要があるが、今回は論点が拡散するため考えない。 ︵ 12︶ な お、 こ の ギ ャ ッ プ は い わ ゆ る﹁ 萌 え ﹂ に つ な が る も の で も あ ろ う。 千 年 前 に こ の 言 葉 が あ れ ば、 ﹁ 蝶 の ご と く﹂怯える姫君の姿は﹁萌える﹂と評されたかもしれない。 ︵ 13︶ アニメ第十話で勇太は、六花について﹁六花は十分まともです。あいつにとってあの眼帯は身を守る鎧なんじ ゃないかと思うんです﹂と述べている。六花の姉や母、ひいては社会への﹁抵抗﹂を、勇太は正しく読み解いて いるのだ。 ︵ 14︶ 山岸徳平校註﹃堤中納言物語全註解﹄ ︵有精堂   一九六二︶ ︵ 15︶ 池田利夫訳注﹃堤中納言物語﹄ ﹁解説﹂ ︵旺文社   一九八九︶ ︵ 16︶ 辛島正雄﹁ ﹃今とりかへばや﹄の定位﹂ ︵﹃新日本古典文学大系   堤中納言物語﹄岩波書店   一九九二   所収︶ ︵ 17︶ 物語の当初から勇太が六花の﹁保護者﹂的にふるまう面はあったのだが、アニメ第十話で六花と勇太が交際を 始めて以後、六花の父親代わりとして彼女を引っ張っていく傾向がさらに強く見られるようになり、また六花の 姉、十花も﹁お前が言えばちゃんと聞く﹂と、勇太の﹁父﹂ぶりを追認している風がある。

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About “Father” Absent tale which is lived now.

Why is an “Another””s father in India from beginning to end?

ISE, Hikaru This paper discusses present-day animation and the relevance of the classical literature work of the Heian

period,especially from a viewpoint that a “father” is absent.

I discussed the relation of television anime “School days” and the “Tale of Genji” as the first clause first. Although “School days” was a tale treating the eternal triangle of a hero, a “mother”, and a “woman”, it was the composition common to the “Tale of Genji.” In “School days”, a hero is killed by the woman and becomes an end of the eternal

triangle with it. However, in fact, such bloodiness of a certain kind was included also in the “Tale of Genji”, for example

in the form of the living vagrant spirit of Rokuzyomiyasudokoro. Further, I pointed out that the existence of a father was

not drawn in common with these two tales.I argued that the violent side in these tales was a certain kind of alarm to

“society without a father.”

Next, as the second clause, I discussed the relation of television anime “Another” and a “Hamamatu tyunagon tale.”

That it is common in two works is the point that a “father” is in a long distance place. The “father” has sent the message

from the distant place to the

son. The influence

of the message is quite restrictive (it will be the result of distance). The “father” has achieved the function which connects a son to a “woman.” However, eventually the “father” can do no interference to a son’s action. A son is in trouble, in the inside of the “mother” whom a father introduces, and the

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father’s delicate suggestion, and is connected with the present anime work. In addition, I pointed out that these two tales

were coloring a son’s tale in common also with elements, such as misconception and transmigration.

Next, I discussed relation that “Although I am Tyu2 sick, I would like to carry out love” and “princess who loves an

insect”.”Although I am Tyu2 sick, I would like to carry out love” is the work filled from an antecedent word to “quotation.” So to speak, this is a self-conscious work to the society which was full of the story, and, this can be said to be

the attitude which is common in “the princess who loves an insect” considered to have been written in the late Heian

period. Also about which work, the heroine is a girl,who repeated “morbid” speech and conduct. I discussed that their deed is manifestation of the self-consciousness “he differs from other pe rsons” , and is resistance to the society which

forces “it is common.” While this was the heroines’ attitude, it was also an attitude of the tale. In the society which is full

of a tale, if originality cannot be asserted, it cannot survive. The tale has told readers the importance of “the original

thing”, having risked survival of it. I argued that existence of the “father” who permits the “morbid” heroine was needed

for such a tale.

Finally, while I pack whole this paper, “School days” touches also with the problem of “childbirth”, and I was added

that “School days” had inherited the literature of the Heian period also at the point. Moreover, I mentioned, that “listen to

what “papa says! “ This is the anime which was not able to be taken up in the text.I stated that there are many treating the

problem of the “father” to the present-day anime work. By douing this, I emphasized a new the literature of the Heian

period, and the relation of present age anime, and made the paper the end.

︵日本語日本文学専攻

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参照

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