1. はじめに スキー界トップのノルウェーから,1929年同国最高 の指導者1)オラウフ・ヘルセット中尉(以下,ヘルセ ット)と1928年オリンピック(以下,オリ)・サンモ リッツ大会複合2位オウレ・コルテルード(以下,コ ルテルード),同12位ヨオン・スネルスルード(以下, スネルスルード)の2選手が来日すると,彼らの広範 囲での献身的な指導によって,日本スキー界の競技水 準は飛躍的に向上した. 日本選手が初めて参加した1928年の第2回冬季オ リ・サンモリッツ大会では,出場した全ての種目にお いて20位代が最高位で,他は殆ど最下位に近く世界上 位との大きな隔たりを認識させられた.ところが,彼 らの指導を受けると,1932年第3回冬季オリ・レイク
1929年における最初のスキー指導者オラウフ・
ヘルセットのノルウェーからの招聘
新井 博*
The invitation of Olaf Helset as the first ski instructor from Norway in 1929
Hiroshi ARAI*
Abstract
Since Helset was invited from Norway as the first ski instructor in Japan in 1929, Japanʼs ski level has improved significantly. This
paper clarifies the process of inviting Helset and activities in Japan. Historical materials used for research are diplomatic documents
from both countries, ski federation materials, and letters written by Helset to their families. The study revealed the following:
1. Modern Schanze and technical guidance are necessary for the development of the Japanese skiing world, and the Ski Federation
planned a training for the leaders with the advice of Chichibu and the financial support of Baron Okura. Therefore, the Norwegian
government and the Norwegian Ski Federation accepted the wish of an important invitation from the Japanese imperial family and
dispatched the best ski leader Helset and two skiers to Japan.
2. Their activities are to search for candidate sites to create Schanze in Hokkaido, Tohoku, Hokushinetsu, and Gunma, and to teach
and give lectures at ski competitions held in Hokkaido, Niigata, Nagano and Gunma.
Their activities attracted attention in various places, and many people gathered.
Keywords
:Ski, Norway, Invitation, Coach
原著論文
原稿受付日 2019年9月6日 原稿受理日 2019年12月28日
* 日本福祉大学 〒470-3295 愛知県知多郡美浜町大字奥田字会下前35番6
* NIHON FUKUSHI University 35-6 Aza-Egemae, Ooaza-Okuda, Mihama-cho, Chita-Gun, Aichi-pref, Japan (470-3295)
プラシット大会でジャンプ競技の8位を先頭に,多く の出場選手が各種競技において中位程度まで成績を伸 ばし,世界から注目を集めたのである2). 今日では競技力向上の目的で,選手やコーチによる 外国のスポーツ組織との往来は,組織間のみならず選 手やコーチ個人でも行われるほど,一般化している. しかしながら,ヘルセットの招聘は1912年の国際オ リ・ストックホルム大会参加を機に,日本スポーツ界 では漸く国際化が始まりだした時期に行われたもので あり,他のスポーツ競技にとっても先駆的なものであ った.その点で,ヘルセットの招聘に焦点を当てるこ とは,スキー界にとって初めての競技力向上を目的と する招聘の特徴を解明することに繋がるだろう. 先ず,ヘルセットの招聘に関する先行研究をみてい くと,札幌スキー連盟による「ヘルセットの来日」3)
を挙げることができる.ここでは,大倉財閥の大倉喜 七郎が彼らの招聘に関わったことを単に述べているだ けで,経緯や具体的な関り方を明らかにしているわけ ではなく,初めての招聘の特徴について理解すること はできない.また,祖国ノルウェーにおける国立図書 館や国立スポーツカレッジに集められたスキー史に関 する研究においても,祖国のスキー界でのヘルセット の功績や日本行きは紹介されているが,日本へ向かう 経緯や活動を解明したものはみあたらない. そこで本論では,ヘルセットらの招聘に焦点を当て, まだスポーツ交流が稀であった時期に,彼らが如何な る経緯で来日し,またどの様にスキー活動を実施した のかの2点を解明し,来日経緯や活動から,スキー界 初の招聘実施の特徴を掴んでいこう. 具体的に,彼らの招聘は,スキー界が如何なる状況 の時に,どの様なきっかけで,ノルウェーからの指導 者と選手の招聘に繋がるのか,とりわけ秩父宮と連盟 の接触,また以後の外交ルートによる招聘の経緯につ いて明らかにする.その間に,秩父宮や大倉財閥が招 聘に,如何なる関りを持ったのか特徴として明らかに していく. 続いて,日本での彼らの活動について,目的である シャンツェ建造のための候補地探し,またディスタン ス競技(ジャンプ競技については触れない)の指導が, 彼らにより全国を廻り如何に実施されたのか解明す る.その間に,秩父宮と大倉の協力による実施の影響 が,彼らの巡廻指導において如何なる形となって生じ たのか明らかにしていこう. さらに,オスロ在住のヘルセットの長男ギュンナ ー・ヘルセットが所持する,亡き父(ヘルセット)が 日本への移動や来日中に家族に宛てた自筆のノルウェ ー語の書簡4)を使って,彼が来日したグループの責任 者として,各所で如何なる心境であったのか解明する 資料として併せてみていこう. 本論で使用する資料は,全日本スキー連盟(以下, 連盟)や秩父宮に関する資料,東京とオスロの外交史 料館で発見された英語とノルウェー語による政府間文 書(一部日本語),オスロの軍事史料館で発見されたノ ルウェー語の資料に基づき解明する. 2. ヘルセットの来日経緯 2.1 ノルウェーへの招聘依頼の経緯 2.1.1 1928年オリ・サンモリッツ大会からの連盟の意 志 日本スキー界は,1923年に第1回全日本スキー選手 権大会(以下,第1回選手権)が開催され,1925年に 連盟が誕生し,続いて1926年に国際スキー連盟(FIS) に加盟すると,国際的な競技化の道を歩み出した.会 長の稲田は「國際スキー連盟に加盟して,其メムバー となり,其國際的地歩を占むるママ一階段を經たるが故 に,次に直ちに來る問題は,世界の先進國に相並んで 辱しママからざる地位を保たなければならない」5)と述 べて,今後日本はスキーの先進国となるべく努力しな ければならないことを述べている. ところが,1928年2月第2回冬季オリ・サンモリッ ツ大会に6名の選手を派遣したが,20位代が最高位で 殆ど最下位に近い成績であった.稲田は4月帰国した 選手を迎え,この経験を重く受け止め,改めて世界ト ップを目指す決意を以下のように述べている. 「好成績を以って終了する事を祝し此選手一行の持ち 帰れる研究の結果によって我スキー界は益々発展活躍 し最も近き将来に於いてスキーに於いても世界の一流 となる事を我々一同努力する事を固く決心せん」6). 2.1.2 1928年2月連盟と秩父宮の拝謁 スポーツの宮と称されるほど多くのスポーツを愛好 した秩父宮(図1)であったが,宮自身が「いろいろ スポーツをしたが,なんといっても,山のスポーツ, 登山とスキーとに,まず指を屈する」7)と述べている. また,宮は1925年から1927年まで2年間英国に留学 すると,ヨーロッパアルプスでスキーと登山を経験し ていた.同行したスキー家アーノルド・ランは「秩父 宮は大変熱心なスキーヤーであり登山家である.・・・ 英国スキークラブの名誉会員であり,カンダハースキ ークラブの会員である」8)と述べている.宮はアルプ スでの豊富なスキー経験を持ち,しかもアルペンスキ ーの中心クラブに所属し活動していたことから,外国 Fig.1 Prince Chichibu Yasuhito (スキー年鑑. 1929) のスキー事情に詳しかっ たことが窺われる. 1927年 に ヨ ー ロ ッ パ から帰国した秩父宮は, 1928年1月 第1回 大 学 ス キー選手権大会を青森県 大鰐会場で台覧した際, ジャンプ競技で全勝した 北海道大学(以下,北大) スキー部の部長大野精七 から,北海道でのスキー や登山の招きを受ける と,同2月22日から初め
て北海道を訪れ,北大スキー部の見学や盤渓峠等での スキーを楽しんでいる9).1928年2月北大スキー部長 大野が札幌で秩父宮に拝謁した際,将来に向けて北海 道に立派なシャンツェが必要であることに話が及ぶ と,宮から「将来札幌にオリンピックが来るとすれば, 何よりも大きなシャンツェが必要.良い場所を見つけ, 設計図を送ってくれれば造れるようにしてあげよう」3) と大野に話されたのである.ヨーロッパでのスキー 事情を知る宮が,将来スキーを盛んにしようと考えて の提案であったと考えられる. 2.1.3 1928年11月大倉の協力決定 宮からの申し出を受けた大野精七は,第2回冬季オ リ・サンモリッツ大会からシャンツェ建造の第一人者 の廣田戸七郎(連盟常務委員)やジャンプ選手伴素彦が 帰国するのを待って相談したところ,シャンツェ建造 の専門家が日本に存在しないことを秩父宮に伝えるこ とになった.連盟では伝える機会を,秩父宮,爵位を 持つ細川護立侯爵,大倉喜七郎男爵,連盟稲田昌植会 長やノルウェー公使が集まり,さらに京大の木原均教 授が参加しやすい,11月京都御所での天皇即位式(御 大典)に設定することになった. 11月10日の御大典において,稲田昌植と木原均が 秩父宮にシャンツェ建造の専門家が日本に存在しない ことを説明した3).その後,秩父宮は施設が充実すれ ば,将来札幌が世界的なスキー場になるとして,シャ ンツェの建造を大倉男爵に促すと,大倉は建造を決意 したのである.さらに,シャンツェを建造するなら, 競技力を向上させるために併せて指導者や選手を呼び たい連盟の希望も,大倉は了承したのである10).その 時決まったことを大野精七は,次のように述べている. 「御大典で秩父宮,細川侯爵,大倉男爵,稲田会長, 木原教授らがシャンツェ建設に関して,対談中に大倉 の発意にてシャンツェ設計技師1名,ジャンプ選手1 名,複合選手各1名をノルウェーから招聘し実地調査 の上設計願うことに決定し,直ちに京都滞在中のノル ウェー公使を経て招聘方を依頼した」11). 秩父宮からホテルビジネスで名を馳せた大倉男爵9) が,招聘の資金提供者として浮上した理由について, 「宮様がスキー仲間の前田利為候(元石川県前田藩) に,誰に頼もうかと話をしていた時,宮家の事務官で 利為候とは親類に当たる前田利男伯が大倉さんの名前 を出した.利男伯と大倉さんは同じ溝口伯から夫人を 迎えている義兄弟だった」12)と伊黒正次(1937年オ リ・レイクプラシット大会7位)は,秩父宮のスキー 仲間の助言があったことを挙げている. 2.2 1928年の両国間のやり取り 2.2.1 11月ノルウェー政府へ招聘の要請 稲田と木原は,同年11月御大典に参加していたノル ウェー駐日公使ミョへレットと後日会見し,秩父宮と 決めたシャンツェの専門家と選手の招聘について伝え ると,公使は早速11月29日付で以下の内容の電報を ノルウェー外務省に送っている. 「王位継承者から支援された人たち〔稲田と木原〕が, ドイツ語或いは英語の出来るシャンツェ建設,スキー ジャンプ,また距離競技における3名のエキスパート をシベリア経由で日本への招聘を要請してきた.また, 麻生武治と廣田戸七郎はリスレガート,・・・コルテル ードを推薦している.私〔ミョへレット〕に連盟の考 えと状況を知らせてきた.旅行費用の全てが,日本か らスエズ経由で1月に領事に送られる」13).〔著者記〕 ノルウェー外務省では「王位継承者から支援された 人たちが・・・日本への招聘を要請してきた」として, ほぼ王位継承者からの招聘の要請と受け止めていたこ とが分かる.また日本側は,前もって「シャンツェ建 設,スキージャンプ,また距離競技における3名 」と して,名前まで挙げた申請をしており,綿密に計画し ていたことが分かる. 2.2.2 11-12月ノルウェー国防省で対応 駐日公使ミョヘレットからの電報を受けたノルウェ ー外務省は,直ちに同国国防省に電報を転送している. 国防省では「11月29日,日本スキー界のトップ達と 皇族からの協力要請の電報が届いた」14)と受け止め, シャンツェ建設の専門家と選手を送る手はずを整えて いる. ノルウェー国防省も外務省と同じ理解をしていたこ とが分かる.また国防省では,国防にスキーを高く位 置づけており,国防省と同国スキー連盟は密接な関係 にあった.ベルグ15)によれば,国防省長官であるニ コライ・オスティガードが同国スキー連盟の会長を兼 ねていた.日本へ派遣されるヘルセットも国防省参謀 本部付の将校であり,またスキー連盟副会長としてオ スティガードの側近でもあった.さらに,ノルウェー 国防省が日本の皇族からの協力要請と判断した段階 で,国会内のノルウェー国王執務室に内容が伝えられ ていたと考えられる. 2.2.3 12/7日ノルウェー国防省から日本外務省に返答 日本皇室からの招聘の要請と受け止めたノルウェー 国防省は即刻了承し,僅か約1週間後の12月7日に, ヘルセットと他2名のスキー選手を送ることを,東京 のノルウェー大使館を通じて日本外務省に返答してき
ている. 「スキー連盟は,ヘルセット中尉と2人のスキー選 手を日本に送る.出発は,来週である.条件は,旅費 と滞在費を日本側が持つ.シャンツェに関する技術者 は,スキー連盟の会長オスティガードが選んだヘルセ ット中尉である.」16) 2.2.4 12/8日日本外務省からノルウェー公使への連絡 返事が届いた翌日12月8日,外務大臣田中義一はノ ルウェーからの招聘が始まることから,北欧を統括す るスウェーデン駐在日本公使武者小路公共に宛て,北 欧での便宜供与をとりなすことを電報で伝えている. 「大倉男爵の斡旋により,ノルウェー選手ヘルセッ ト中尉外2名を招聘することとなった.在京ノルウェ ー公使より本国政府に打電の結果,来週オスロを出発 し,来朝することに決まった.ついては,在オスロ名 誉総領事とも連絡の上,便宜供与をとりなし,尚,同 男爵より三選手来朝費用として二百ポンドを大倉組か ら同総領事宛に送る.」17) 一方で同12月8日,大倉組の平木泰治から,スウェ ーデン駐在日本公使武者小路に対して,招聘に際して の資金提供や必要な手配を大倉組が行うことを,電報 で連絡が行われていたことが分かる18). 2.2.5 12/15日武者小路公使から田中外務大臣へ スウェーデン駐在日本公使武者小路は,12月15日 付の電報でノルウェー側からオスロの日本総領事を通 じて外務大臣田中義一に,「諾威『スキー』会副会長 Helset中尉,外二名ノ『スキー』選手本月十三日,四 日頃『オスローママ』發当地経由西比利亜線ニテ本邦直 行スヘキ旨同地邦名誉総領事ヨリ通報アリタリ」19), また「三選手十二月三十日下ノ關上陸翌朝九時五十五 分京着ノ筈」20)と知らせてきている. この時点で,公使武者小路がオスロの日本総領事と 招聘の手配を始めたことを外務大臣田中義一に伝えて いることから,外務省は招聘を掌握し関与していたこ とが窺える. 2.3 12/14-30日ヘルセットらオスロから下関へ移動 12月14日,ヘルセットらはオスロを出発し翌15日 ストックホルムに立ち寄り,公使武者小路と船上で面 会している.ヘルセットはその時の様子を家族への書 簡で,次のように述べている.「大勢の人から『日本の 皇族によろしく』と声をかけられ,特別な経験が始ま る予感がした.また公使の説明から,秩父宮がこの旅 に深く関わっていると感じた」21). ヘルセット自身が,この時点から秩父宮が招聘に深 く関わっていることを感じ取っていたことが分かる. オスロから日本までの移動中,ウルヴィー公使が彼 らに同行していた22).またヘルセットは国防長官オス ティガード(スキー連盟会長)に宛てて,道中の様子 を報告していた23). さらに,12月30日彼らの乗った船が下関に入港し, 同年2月の第2回冬季オリ・サンモリッツ大会で彼ら と馴染みであった日本チーム団長の廣田戸七郎が出迎 えると,ノルウェーチームの団長であったヘルセット や大会に参加していた2選手は,一気に和やんだ雰囲 気となり,東京までの道中楽しく会話を弾ませた24).
Fig.2 Tokyo Station at 31.12.1928 (“Aftenposten” 1929.2/7. Norway) 2.4 12/31-1/4日東京での歓迎会,皇族拝謁 12/31日午前,下関から東京駅に着いたヘルセット ら(図2)は,稲田を始め連盟の幹部や関係者,大学 スキー関係者,駐在公使コンスル・ルートルップらか ら出迎えを受け,周囲に数十人のカメラマンと新聞記 者が詰めかけていた.これまで同行したウルヴィー公 使から,日本で同行するルートルップ駐在公使にかわ ると,彼からそれまでの日本の状況をヘルセットは, 次のように伝えている. 「貴方たちがここに到着するまでに,日本側では迎 えるために大変な準備を行ってきた.また日本の新聞 には,ノルウェーの情報が沢山紹介されてきた」25). 1/1日彼らは,明治神宮参拝や市内見物を行い,1/2 日秩父宮,高松宮両夫妻に拝謁している26).ヘルセッ トはその時の様子を家族への書簡に,以下のように記 している. 「ここでのことは全て夢のようである,いやそれ以 上である.私達にとって皇族から時間を頂くことなど, 本来ありえない.約1時間過ごすと,皇室が私達のプ
ログラムに強い関心を抱いていることを感じた.・・・ ここ〔東京〕は大変忙しく気を休める暇が無いが,大 富豪によるもてなしを受け,この街への印象は信じが たい程良い.・・・日本側のノルウェー側に対する感 謝の気持ちに対し,恐れ多いほど満足している.」27) ヘルセットは,一般にあり得ない皇族との拝謁や特 別な待遇を受けて,今回のノルウェー側に対する日本 側の熱い感謝の気持ちを受け止め,新たに責任を感じ 始めていた様子が感じられる. 1/2日夕方,東京市長ら政界や日本オリンピック (JOC)委員会嘉納治五郎会長を中心とするスポーツ 界,稲田昌植連盟会長以下スキー界の要人が参加して, 彼らのための盛大な歓迎会が開催された.1/4日午後, ヘルセットらは,最初の訪問地札幌に向けて上野駅を 後にしている. 3. 彼らのスキーに関する活動 3.1 スキー活動の概略 ヘルセットらのスキー活動の主目的は,シャンツェ 建造の候補地探しとスキー技術を日本に紹介すること であった.以下では各地で実施したシャンツェ候補地 探し,講演,指導(ディスタンス競技の指導),講習会, 皇族とのスキーについて概略的に紹介していこう.尚, ヘルセットは他に軍隊や体操施設の視察を行っている が,スキー活動と関係ないことから本論では触れない. ヘルセットらと通訳の廣田,木原,駐在公使ルート ルップらは,東京-札幌間で2回の巡廻指導を行ってい る.1回目は1/6日から2/17日まで,大学スキー選手 権大会,日本選手権予選会,同選手権大会,全日本ス キージャンプ大会が,札幌から大鰐(青森県),高田(新 潟県),野沢・飯山・長野市(長野県),赤城(群馬県)の順 に開催され,彼らは開催に合わせて南下して東京に戻 っている.2回目は2/19日から3/3日まで,樺太で活 動することを主目的として函館を皮切りに北上した. だが,海が時化て小樽から樺太に渡れず,札幌で活動 し,再び稚内から渡ろうとしたが渡れず,樺太行きを 諦めて稚内,旭川,札幌で活動して東京に戻っている. 巡廻予定地の決定28)は,細川護立侯爵,稲田,大 倉喜八郎男爵(大倉財閥会長)によって,彼らの来日直 前の1928年12月末になされていた.彼らによる検討 は,11月の御大典での話し合い以後も継続されていた ことが分かる. 3.2 札幌(1/6-15)での活動 3.2.1 業者見学,ディスタンス指導,候補地探し 1/6日午前7時,札幌駅に着いた彼らは,連盟幹部, 北大スキー部,大学スキー選手権大会参加選手ら百数 十人から出迎えを受けた後,中野スキー製作所でスキ ー製造業の現場を見学している.ヘルセットは日本の 用具に対して「長距離用は申し分なく良くできている が,ジャンプ用は撓りが足りなく,少し不適当」29)と 述べている.午後,彼らは後日大会が開催される札幌 郊外の三角山シャンツェとディスタンスコースの下見 をしている. 1/7日午前9時,彼らは大会に参加する選手や地元 の中学生百数十人に,初めてのディスタンス指導を三 角山スロープで行った.ヘルセットは主に三段滑走を 分解して指導し,滑走中の重心変化から受ける反動制 御の仕方などについて説明している30). 1/8日午前と午後,彼らは廣田らの案内で,1回目の シャンツェ候補地を探し,円山南方に適当な場所を発 見している31). 3.2.2 ディスタンス指導,シャンツェ建造 1/9日,彼らは前日に発見した候補地で,スコップ を握り十数人の作業員とシャンツェ建造に奮闘し,翌 日1/10日にシャンツェが完成した.彼らは,1/7日に 続き,傾斜地から平地へなめらかに連続して滑る2回 目のディスタンス指導をしている32). 1/12日第2回学生スキー選手権大会の初日,彼らは 複合種目18kmと距離競技40kmを見学している.1/13 日大会の2日目,複合種目のジャンプと距離競技18km を見学した.1/14日休養.1/15日午前,彼らは次の訪 問地小樽へ出発している33). 3.3 小樽(1/15-17)での指導,歓迎会 1/15日正午,彼らは小樽駅に着き,北海道商業学校 のシャンツェで学生と市民の約2千人から出迎えを受 けている.1/16日午前,彼らは3回目のディスタンス 指導を末武牧場付近で行っている34).1/17日彼らは前 日と同様4回目のディスタンス指導を行っている.夕 方,彼らは小樽市長主催の歓迎会に参加し,終了後札 幌に戻っている35). 小樽の町について,ヘルセットは「講習に数千人が 見に来てくれた.子ども達は,オスロの子ども達と同 様にスキーが上手であり,大変素晴らしいスキーの街 である」36)と家族へ書簡に記しており,スキーが盛ん なことに満足した様子が窺える.一方で,彼は「毎日 全てが素晴らしいが,沢山の来訪者で全く自分の時間 が持てないことには閉口する」37)と忙しい状況を家族
への書簡で伝えている. 3.4 札幌(1/17-21)での活動 3.4.1 講演 1/18日午後,ヘルセットは北大関係者の集まりであ る「若老会」の人々に,初めての講演(図3)を行っ ている.講演では,先の札幌と小樽での指導経験を踏 まえて日本で使われているストックの長さや材質につ いて,また良いスキー板の選び方など38),また良いス キー靴の選び方,ワックスの塗り方39)を紹介してい る.
Fig.3 Helsetʼs Lecture at Hokkaido Univ. (函館新聞 1929.2/21) 3.4.2 宮にジャンプ解説とスキー指導 1/19日,彼らは第7回選手権・北海道予選の初日, 距離競技を視察した.同日午後,彼らは山荘祥煙閣の 付近で,初めて高松宮にスキーを指導している40).ヘ ルセットは家族への書簡に指導の様子を「2日前我々 は,兄の秩父宮と弟の高松宮様に短い時間であったが スキーを指導した.・・・私たちは素晴らしい銀の煙草 ケースをお礼に授かった.我々は,あたかも秩父宮か ら招かれた皇室の人間であるかのような畏れ多い気持 ちとなった」41)と記している.ヘルセットは「兄の秩 父宮と弟の高松宮様」と書簡に記しているが,実際は 高松宮1人であったことが,大野42)と札幌スキー連 盟(2001)の記事3)からわかる. 1/20日,大会2日目高松宮が台覧したジャンプ競技 が三角山シャンツェで開催され,札幌市長,北大総長 など大勢の来賓と観客が集まり,ヘルセットは高松宮 の隣でジャンプの解説をしている.1/21日夜,彼らは 次の訪問地大鰐へ向かった. 3.5 大鰐(1/22-25)での活動 3.5.1 業者見学,講演 1/22日正午,青森駅に着いた彼らは,大鰐駅に移動 する前に市内の青森スキー製作所で2度目のスキー製 造業の現場見学をしている43).その後,彼らは青森県 知事が主催した歓迎会に参加した後,夕方大鰐へ向か っている. 1/22日夕方,大鰐駅に着いた彼らは小学生,青年団, 在郷軍人会,スキーヤー併せて約5千人から出迎えを 受けた.夕刻7時より,ヘルセットは2回目の講演を 大鰐小学校で行った.主な内容は次の通りである.日 本人はスキーを着けて走るように考えているようだ が,滑るものである.ストックの長さは脇の下位がよ い.スキー板と靴は,締具で強く固定されていなけれ ばならない44).1回目に続き2回目の大鰐での講演で も,彼は板・靴・締具の関係を指摘しており,気に掛 かっていたことが分かる. 3.5.2 講習会 1/23-24日,大鰐スキー連盟は一行が来る機会に,参 加者を前もって決めずに募集して講習会を大鰐スロー プで開催した.県外60人,県内40人,大湊海軍兵士 百人が参加した45). 1/23日講習会初日の午前,ディスタンス指導では, ヘルセットが説明を行い,コルテルードらが見本を示 し,続く参加者の演技にヘルセットが講評を加えてい た.立位姿勢から滑走中の姿勢,回転の姿勢,急斜面 滑走法,三段滑走法,曲線を交えた滑走法,制動を用 いた回転,スケーティングを用いた回転,クリスチャ ニアの指導が行なわれた. 1/24日講習会2日目,ヘルセットは百人の大湊海軍 の兵士の班で,軍隊スキー教練,各種戦闘動作を講習 している.一方で,コルテルードらは一般参加者の班 で,午前は前日のディスタンス指導の内容を復習して いた.1/25日午前,一行は次の訪問地高田へ向かって いる. 3.6 高田(1/25-2/4)での活動 3.6.1 指導,講演,歓迎会 1/25日夜7時,彼らが日本スキーの発祥地である新 潟県高田に着くと,高田スキー団関係者,青年団,大 勢の観客から出迎えを受けた. 1/26日午前,彼らは高田スキー団副団長鶴見宜信の 案内で選手権の開催される金谷山を視察し,ヘルセッ トは大会で使用するディスタンス競技のコースを高田 スキー団と探しに出かけている.一方,コルテルード らはシャンツェの周辺で全国から集まった参加選手た ちに,5回目のディスタンス指導を行っている. 1/26日午後,ヘルセットは午前中に探したディスタ
ンスのコースを再度確認し,午後2時から市役所に集 まった数百人の聴衆に3回目の講演を行っている.講 演終了後,彼らは5時から高田市長が主催した歓迎会 に参加している46). 3.6.2 講習会 1/27日午前,高田スキー団は大鰐と同じく参加者を 募集して,講習会を金谷山墓地下の広場で開催すると 百数十人が参加した.ヘルセットはスネルスルードら を助手として,平地滑走の説明から始め,雑木林を抜 けて凹凸の激しい斜面を直滑降で滑走する方法,さら にステップターンについて指導を行っている47). 1/28日講習会2日目午前,9時からヘルセットは昨 日の平地滑走の復習を行っている48).1/29日講習会3 日目午後,ヘルセットは高田第13師団の軍人たちに, 折敷の構え,寝打の構え,行軍などの軍隊スキーの指 導を行っている49). 1/30日講習会4日目,前日からの雪が降りやまず, 午前で講習は終了となった50).1/31日は休息.2/1日, 彼らは高田で開催された日本スキー発祥20周年記念 式典に参加している. 3.6.3 選手権大会 2/2日選手権大会の初日,スネルスルードとコルテ ルードが18km距離競技に参加したが,成績は人々の 期待に反して6位,8位と低調であった.コルテルー ドが「ワックスで失敗した」,スネルスルードが「ワッ クスは比較的きいたが杖を折ったのと自分には長すぎ た」51)と,彼らのレースぶりに批判的な記述が新聞に 掲載された. 選手権大会後の家族への書簡で,ヘルセットは同行 している「公使ルートルップは良くやっていると我々 に言ってくれる.また確かに,我々は何処でも素晴ら しい経験をしているが,大変な重圧も感じている.特 に,最年長者の私は重圧の大半を背負っている」52)と 苦しい胸の内を吐露している.2/4日午前,彼らは次 の訪問地長野県野沢に向けて出発している. 3.7 長野(2/4-7)での活動 3.7.1 ジャンプ大会視察 2/4日夜,彼らは高田から上境駅に着いた.2/5日午 後,彼らは隣町の飯山の神明ヶ丘シャンツェに移動し, 高田の大会に続きトップ選手を集めて,長野県体育協 会が開催した全日本スキージャンプ大会を視察してい る53).5日の夜,一行は平隠温泉上林仙寿閣に宿泊し, 6日の午前旭山に到達してさらに上林温泉までツアー を実施,同日の午後に上林温泉でジャンプの指導をし ている54).その後,彼らは予定された講演のために長 野駅に向かった. 3.7.2 長野市での講演 2/7日午前,ヘルセットは長野県体育協会が主催し た4回目の講演で,次のように述べている.日本人は 短いスキー板で滑るが,本来は長い板で自然の野山を 滑るべきである.また選手は勝敗にとらわれずに,競 技を楽しむべきである.距離選手は長いスキー板を使 い,ワックスの使用に精通して欲しい.また距離選手 がよく転ぶが,大自然の中で練習を重ね,力強い滑り を身につけるべきである55).さらに,距離選手には忍 耐強さと臨機応変な判断力が欠けていると指摘してい る56).その後,彼らは歓迎会に参加し,2/7日夜東京 に戻っている. 3.8 赤城山(2/9-11,2/15-17)での皇族にスキー指導 2/9日彼らは赤城山に移動している.2/10日彼らは 赤城山で開催されたスキージャンプ大会に参加し,熱 心な指導も行っている57). 2/11日午前,彼らは東京に戻っている.2/12日,ヘ ルセットは今後の予定を大倉と確認している.2/13-14 日,彼らは「休養を取る」としている58). 2/15日,彼らは2/17日の台覧ジャンプ大会に向けて 赤城山に移動している. 2/16日,ヘルセットは翌日秩父宮と高松宮にスキー 指導を行うための場所を探した. 2/17日午後,ヘルセットらは秩父宮と高松宮に,ス キー指導を行っている. ヘルセットは,その時の様子を「17日,私たちは2 人の秩父宮と高松宮と共にスキーを行い,王子たちの 人柄は大変素晴らしく,さらに熟練したスキーヤーで あり,深い感銘を受けた.勿論,王子たちはスキーに 特別な思いを抱いており,私にとって全てが素晴らし く,特別な経験であった」59)と家族への書簡に記して いる.その後,一行は東京に戻っている. 3.9 函館(2/19-20)での講演,歓迎会,指導,候補地探 し 2/18日午後1時,彼らは2回目の巡回指導のために, 樺太に向けて東京を出発した. 2/19日昼,彼らは最初の訪問地函館に着いた.午後, ヘルセットは函館体育協会主催の5回目の講演を函館 市民館で行った.講演では,ストックの長さ,ストッ クワークと滑走のバランスについて話している.長い スキー板で大きな滑りが大事である.講演では,滑り
と用具の関係の指摘が目立った.夜7時から,函館市 長よる歓迎会に参加している. 2/20日午前8時,彼らは吉野スロープに着くと,大 沼スキークラブ,軍人,青年団,中学生ら講習員と観 客併せて約千人から出迎えを受けた.午後,彼らは平 地で6回目となるディスタンス指導を行っている.指 導終了後,彼らは2回目となるシャンツェ候補地探し を行ったが見つからなかった60). ヘルセットは,函館での活動について「我々のデモ ンストレーションと指導は,人々に大変喜ばれた.ま た市長らとの夕食会など,2日間の滞在は大変素晴ら しかった」61)と家族への書簡に記しており,満足して いた様子が窺える.2/20日夜,彼らは札幌に向かって いる. 3.10 札幌(2/21-24)での候補地探し,講話 2/21日午前,彼らは札幌に着いたが,小樽から樺太 に向かう船が時化で欠航のため札幌郊外の三角山付近 に戻り,3回目のシャンツェ候補地探し行っている. 2/22日,彼らは前回1/8日三角山南方に40m程飛べる シャンツェを見つけたが,今回は60m以上飛べそうな 候補地を三角山の背後に発見した. 2/23日午前,ヘルセットは約2千人の子ども達に, スキーに関する講話を札幌市内で行った.午後,彼ら は前日中に発見した三角山背後の候補地でシャンツェ 建造を始めた. 2/24日午前と午後,彼らはシャンツェ建造を続けた. 夕方,彼らは完成の様子を後で確認することにし,後 を廣田戸七郎と作業員に任せて,樺太に渡るため稚内 へ向かった62). 3.11 稚内(2/25-26)での候補地探し,指導,講演 2/25日正午,彼らは稚内駅に着いたが,船は海が時 化て欠航していた.午後,仕方なく彼らは,稚内中学 校の裏手で4回目のシャンツェ候補地探索をしてい る. 2/26日午前,既に数日前から樺太スキークラブの会 員が,ヘルセットらを迎えに来て港で待機していた. 長期の時化で船が欠航したため,彼らは後の日程を考 慮して楽しみにしてきた樺太行きを断念した.その後, ヘルセットは同中学校で6回目となる講演を行ってい る.講演の内容は,スキー用具と技術の深い関係につ いて,また様々な地形や色々な雪の上で滑る経験の重 要さについてであった.2/26日午後,彼らは次の目的 地の旭川に向かっている62). 3.12 旭川(2/27-28)での候補地探し,歓迎会,指導 2/27日午前,彼らは旭川駅に着き,午後から伊野澤 スキー場の周辺で5回目のシャンツェ候補地探しを行 い適当な処が発見できたため,旭川スキークラブ員と シャンツェ建造を始めている.夕方,彼らは旭川市長 による歓迎会に参加している.2/28日正午,彼らは次 の目的地札幌に向かい出発している62). 3.13 札幌(2/28-3/3)での軍隊で講習 2/28日夕方,彼らは札幌駅に着いた.3/1日朝,彼 らは2/24日に廣田戸七郎らに任せた後のシャンツェ の出来栄えを確認し,60mを飛べるシャンツェ誕生を 喜んでいる.その後,彼らは旭川第7師団の16名の将 校と下士に,円山付近で3回目の講習会を始めている. ヘルセットは,締具と靴の適合,平地滑走,直滑降, 斜面の急変化への対応について指導している. 3/2日講習会2日目,彼は変化の多い地形の滑走に ついて指導している.また僅かな傾斜を利用して両杖 を強く着き,ステップターンを指導している.3/3日 講習会3日目,午後戦闘動作演習を実施している.3/3 日講習後,彼らは東京に向かって出発している62). 3.14 帰国(3/5-5/) 3/5日,彼らは大倉喜七郎により催された,最後の 送別会に参加している.3/10日コルテルードは神戸か らノルウェー汽船で帰国の途につき,3/15日スネルス ルードは横浜からカナダ経由の汽船で帰国の途につい た.ヘルセットの場合は,軍隊での視察後5月に帰国 の途についている. 彼らの招聘によるスキー紹介の実施は両国間の交流 に功労となったとして,ノルウェーの国王ホーコン7 世から,同年秋稲田昌植と大倉喜七郎にサン・オラー フ勲章(図4)が贈られている63).既に,準備段階で国 王の知る処となり,功績に対する配慮があったことが 予想される.
4. まとめ 初めての競技力向上を目的とした招聘の特徴とし て,次のことが明らかとなった. ヘルセットら招聘の経過は,スキー界が国際的競技 化の方向に歩み出した中で,1928年2月西欧事情に通 じた秩父宮が来道し,北大の大野精七との間で札幌の 将来にシャンツェ建造が必要であることで一致した. 宮から建造援助の提案を受け,連盟がノルウェーから シャンツェの専門家と指導者の招聘を11月の御大典 で宮に提案すると,大倉財閥が財政的に援助すること で決定した.後日ノルウェー大使が祖国に連絡を入れ, 12月外務省とノルウェー国防省とのやり取りが始ま り,12月末には指導者と選手が公使に付き添われ来日 している.招聘は政府間で進められ,その下で両国公 使,領事,スキー連盟組織が選手決定,来日手配,同 行にあたっている. 初めに,東京で盛大な歓迎会が催され,以後彼らは 札幌,小樽,大鰐,高田,野沢,飯山,赤城山,函館, 旭川,稚内などを訪れ,シャンツェ建造の候補地探し (5回)やスキー指導(6回)を実施した.それらは, 駐在公使ルートルップの「日本側では迎えるために大 変な準備が行われてきた」が裏付けるように,各地で スキー界,政界,教育界による準備によって盛大な歓 迎,指導,講演が組織的・計画的に遂行されている. さらに,ヘルセット等による宮へのスキー指導,競技 解説,天覧ジャンプ大会開催が行われるなど,皇室と 関係する催しが多かったことが窺える. 文献及び注 1)新井 博.ノルディックスキーの紹介者オラウフ・ ヘルセット.スキー研究,2014,11(1) 2)稲田昌植.オリンピック優勝計画の樹立.スキー年 鑑, 1932, 6, p. 2-3. 3)札幌スキー連盟.宮様スキー大会70年史.札幌ス キー連盟:札幌, 2001. 4)ヘルセットは,1928年12月日本に向けてオスロを 出発後,1929年5月帰国の途に就く迄に,合わせて 22通の書簡を家族に宛て送っていた.本論文中で は,書簡をHelset(書簡)と表示して使用している. 5)稲田昌植.我國スキー界の将来を卜し併せて派遣 選手諸君を送る.スキー年鑑, 1927, 1, p.2. 6)稲田昌植.オリンピック選手の帰朝を歓迎す.スキ ー年艦, 1928, 2, p.15. 7)秩父宮雍仁親王.皇族に生まれて-秩父宮随筆集. 2005, p.169.
8)Lunn, A. A history of ski-ing. Oxford University Press: London, 1927, p.36. 9)北海タイムス.秩父宮さまを迎えてけふ.うららか な御成日和.1928, 2月23日. 10)小川勝.日本スキー発達史.1956, p.91. 11)大野精七.シャンツェ建設の動機とその経過.小 樽新聞,1932, 1月17日. 12)伊黒正次.日本スキー意外史.スキージャーナル 社:東京, 1977, p.195.
13)Miohelet. Translation of a wire sent by the Norwegian Minister to the Ministry of Foreign Affairs. Oslo, on the 29th November. 1928.(オスロ外交資料館)
14)Okura, K. “Den Norske Skitropp I Japan” ÅRBOK, GRØNNDAML & SØNS BOKTRYKKERI OSLO, 1930.(オスロ外交資料館)
15)Berg, J. “Minneord om Generalmajor Olaf Helset” Norsk Militaert Tidsskrift, Oslo, 1960.(オスロ軍事資 料館)
16)不詳. Translation of a telegram received at the Norwegian Legation from Norwegian Foreign Ministry.
Oslo, on the 7th December, 1928.(オスロ外交資料館) 17)田中義一.諾威スキー選手招聘ノ件宛 瑞典武者 小路公使.1928. 18)外務省.昭和三年十二月八日大倉組平木泰治氏来 省.1928. 19)武者小路公使.田中外務大臣.第六一號,貴殿第四 八號ニ關シ.1928. 20)武者小路公使.田中外務大臣.第六四號,往電第六 一號ニ關シ(「スキー」選手来朝の件), 1928. 21)Helset(書簡).Stockholm, Sweden. Dec. 15th, 1928.
22)Helset(書簡).Moskow. Dec. 19th, 1928.
23)Helset(書簡).Manchuria. Dec. 25th,1928.
24)Helset(書簡).The Imperial Hotel, Tokyo. Dec. 31st
, 1928.
25)Helset(書簡).The Imperial Hotel, Tokyo. Jan. 4th,1929.
26)高松宮宣仁親王. 高松宮日記.第1巻,中央公論社, 1996, 341-352.
27)Helset(書簡).The Imperial Hotel, Tokyo, Feb. 8th
. 1929. 28)北海タイムス.諾威のスキー三選手日本に於ける日 程決定.1928,12月30日. 29)東京朝日新聞.6日スキー店を訪問,日本のスキー について感想.1929, 1月9日. 30)北海タイムス.三角山の実地指導-ノルウェーの選 手.1929, 1月8日.
31)北海タイムス.三選手自らスコップを振るって. 1929, 1月11日. 32)北海タイムス.インターカレッジスキー大会(第2 日目).1929, 1月14日. 33)北海タイムス.世界的スキー選手けふ小樽へ.1929, 1月16日. 34)北海タイムス.緑が丘スロープに描く鮮やかな妙 技.1929, 1月17日. 35)北海タイムス.諾威選手歓迎晩餐会.1929, 1月19 日. 36)Helset(書簡).Sapporo, Jan.15th, 1929. 37)Helset(書簡).Sapporo, Jan.17th, 1929. 38)北海タイムス.北大若老会主催の講演会で.1929, 1 月18日. 39)北海タイムス.北大若老会主催の講演会で.1929, 1 月21日. 40)北海道タイムス.諾威選手御指導申上げ.1929,1月 20日. 41)Helset(書簡).Sapporo, Jan.20th, 1929. 42)函館新聞.殿下のご満足が何より嬉しい.1929, 1月 27日. 43)東奥日報.待ちに待たれたスキーの諾威選手一行 来県.1929, 1月23日. 44)東奥日報.きのうの大鰐スロープはおびただしい 人手.1929, 1月24日. 45)東奥日報.講習会開校式にて.1929, 1月25日. 46)高田新聞.諾威選手歓迎会.1929, 1月27日. 47)高田新聞.諸君のスキーは子供用だから倒れる. 1929, 1月28日. 48)高田新聞.超人的スピードに受講者舌をまく.1929, 1月29日. 49)高田新聞.へ君は軍隊に指導.1929, 1月30日. 50)高田新聞.恵まれぬ天候.1929, 1月31日. 51)高田新聞.コ,ス両君振るわず.1929, 2月3日. 52)Helset(書簡).Feb. 8th,1929. 53)信濃毎日新聞.五十米を飛んだ大選手.1929, 2月6日. 54)新井 博.1912-1938年における長野県信越線沿い のスキー場開発.スキー研究,2018,15(1) 55)信濃毎日新聞.スキー秘術(一).1929, 2月9日. 56)信濃毎日新聞.スキー秘術(二).1929, 2月10日. 57)群馬県体育協会.ヘルセット中尉赤城山へ.群馬 県体育協会.1972. 58)Helset(書簡).Feb. 12th, 1929. 59)Helset(書簡).Feb. 19th. 1929. 60)函館新聞.スキーに対する一般的知識.ノルウェー 選手の講演.1929, 2月21日. 61)Helset(書簡).Feb. 22nd, 1929. 62)木原均.東京より稚内まで.スキー年艦, 1929, 3, p.18-22. 63)全日本スキー連盟.大倉,稲田両男爵叙勲.スキー 年艦,1929.(口絵)