-大道三期普度教団の創設-著者
?津 茂
著者別名
TAKATSU Shigeru
雑誌名
アジア文化研究所研究年報
巻
55
ページ
57-77
発行年
2021-01
URL
http://doi.org/10.34428/00012447
カオダイ教団創設期(1926年)のお告げとその解析
──大道三期普度教団の創設──
髙 津 茂
キーワード:カオダイ教,大道三期普度,壇機,大道開籍届出書,大道開明大礼, はじめに 本稿の対象とする1926年は,カオダイ教が開 かれた年にあたり,カオダイ暦元年である。そ れだけでなく,ベトナムの年号で言えばバオダ イ(Bảo…Đại)元年にもあたる。カオダイ教団 の基礎の過半が築かれたのは,このたった 1 年 間にあるといっても過言ではないと思う。 ただ,「開かれた」という意味の解釈で,① 教えを開けというお告げが下った日(1926年 9 月29日(丙寅の年 8 月23日))。②フランス植民 地政庁が宗教団体としての籍を開くことを承認 した日(1926年10月 7 日;丙寅の年 9 月 1 日)。 ③教えを開くことを社会的に公にした大道の教 えを開く大礼の日(1926年11月19日;丙寅の年 10月15日)。という 3 つの解釈があり(1),どの日 を以って開道の日とするかは立場によって異な る。 また,なぜ1926年に開かれたかについての表 向きの宗教的理由は,後述する「教えの籍を開 く届出書(Tờ…Khai…Tịch…Đạo)」にも記されて はいるものの,社会経済的には1926年頃はメコ ンデルタの開発に伴う大土地所有の確立とそれ に伴う移民の急増,さらには社会層の分解・格 差の拡大が進行(2)し,社会変動にさらされてい たという時代状況があったものと思う。そのよ うな状況であったがゆえに「当時のサイゴンの 情勢は,決して安定したものではなく,多くの 武装抗戦事業がフランスにより容赦なく弾圧さ れた後,ベトナムの革命家達は活動方式を多様 に変化させた。すなわち,労働者や学生・・・ といった群集勢力を活用してストライキやデモ に参加させて政権を握る者たちに多くの困難を もたらすというものであった。その典型は1925 年 8 月10日のおよそ1000人のバ・ソン工場労働 者のストライキであり,1926年 3 月のファン・ チャウ・チン(Phan…Châu…Trinh)の葬儀には 100000人以上が愛国主義を煽る多くの標語を携 えて参加した。多くの秘密組織や抗仏政党が誕 生した。すなわち,労働組合,青年党,グゥエ ン・アン・ニンの秘密組織,ベトナム青年革命 同志会・・・サイゴンにおける社会,政治情勢 は引き続き騒然としていた。それゆえに,1926 年初頭にカオダイ教の普あまねく救済する壇が各地に 設けられ,黒山のように信徒が集まり供物を供 えるに至ったことは当時のフランス秘密警察の 気を揉ませた。さらに気を揉ませたのは,この 新宗教の信徒数の大部分が知識人であり国家の 高級公務員が多くいたことであった。これらの 高級公務員たちは教養もあり威信もある反面, 時世を憂い世を儚んでいた。植民地政府は穏和 を装ってはいたが,ある種の秘密結社の様態の ようでもあり恐れていた。フランスの監査人 ラ・ロウレットは,当時の刑律144条に言及す ることがあリ,それによると違反した人は死刑 に処せられることもあった。秘密警察の多くの 人員が壇に仕える多くの信友の中に紛れ込み, 植民地政権の各レベルに情勢を報告するように命令を受けていた。」(3)との記述もある。このよ うな社会的混乱の中にあって,非暴力的傾向を 持った知識人や事業主やフランス植民地政庁に 務める官僚達が儒仏道の三教を基礎としてコ ミュニティの再生・創成を目的に開いた教えが カオダイ教であり,そのために「普く救済する」 (普度(Phổ…Độ))ことを表に掲げ,「大道三期 普度(Đại…Đạo…Tam…Kỳ…Phổ…Độ)」を正式名称と している。理念上は,魂の救済にとどまらず社 会的な救済をも含むがゆえに,現実の宗務運営 に当たっては九重台(Cửu…Trùng…Đài)という 教団内宗務機関や1926年段階ではないが社会福 祉組織である福善機関(Phước…Thiện…Cơ…Quan) をも十分ではないが備えている。それと対比さ れるのが,より修行による内面の救済を説くの がゴォ・ヴァン・チュウ(Ngô…Văn…Chiêu)に 代表される内教心傳であり,カオダイ教も当初 から一枚岩ではなかったし,それを無理に束ね ようとしたことが,後の分裂の誘因にもなった と思っている。 カオダイ教は,サイ・バン(Xây…bàn)とい う西洋神霊学のテーブル・ターニングによって 神霊のメッセージを受け取る方法と扶鸞(Phò… Loan)や執筆(Chấp…bút)と呼ばれる方法で神 意を受け取る方法に違いはある(4)ものの,神意 によってカオダイ教としての意思が決定され る。この神意を窺う儀式と方法が壇における扶 鸞や執筆に統一されていったのが1925年末から 1926年であり(5),その神意・託宣の表記を本稿 では分かり易く統一するために「お告げ」とし た。 先行研究については
・…Victor… L.Oliver;”CAODAI… SPIRITISM… A… Study… Of… Religion… In… Vietnamese… Society”,… ‘… Studies… In… The… History… Of… Religions…… (Supplements… To… Numen)’.… XXXIV,… Leiden,…
E.J.Brill,1976
・…Jayne… Susan… Werner…;‘Peasant… Politics… and… Religious…Sectarianism:…Peasant…and…Priest…in… the… Cao… Dai… in… VietNam’,Monograph… … Series…
No.23/… Yale… University… Southeast… Asia… Studies,New…Haven,1981
・…Sergei… Blagov;’… CAODAISM… … Vietnamese… Traditionalism…and…its…Leap…into…Modernity’,Nova… Science…Publishers,Inc.,New…York,…2001 ・……Đồng…Tân:…Lịch…Sử…Cao…Đài…Đại…Đạo…Tam…Kỳ… Phổ…Độ,…Quyển…Ⅱ,…Phần…Phổ…Độ…(1926-1937),… Cao…Hiên…Xuất…Bản,…Saigon,…1972 【以下「Đồng…Tân…Ⅱ」と略す。】 ・…Đại…Đạo…Tam…Kỳ…Phổ…Độ,…Cơ…Quan…Phổ…Thông… Giáo…Lý…Đại…Đạo…;…Lịch…Sử…Đạo…Cao…Đài…,… Quyển…I,…KHAI…ĐẠO.…Từ…Khởi…Nguyên……Đến… Khai…Minh,…Nhà…Xuất…Bản…Tôn…Giáo…,2005,【以 下「KHAI…ĐẠO」と略す。】
・…Trung… Tâm… Khoa… Học… Xã… Hội… và… Nhân… Văn… Quốc…Gia,…Viện…Nghiên…Cứu…Tôn…Giáo…;…Bước… Đầu…Tìm…Hiểu…Đạo…Cao…Đài,…Nhà… Xuất…Bản… Khoa…Học…Xã…Hội,…Hà…Nội,…1995 【以下「Bước… Đầu…Tìm…Hiểu…Đạo…Cao…Đài」と略す。】 ・…Lê…Anh…Dũng…:…Lịch…Sử…Đạo…Cao…Đài…Thời…Kỳ… Tiềm…Ẩn…1920-1926,…Nhà…Thuận…Hoá,…Huế,1996 を利用した。また,本稿は一連の拙稿(6)に続く ものである。 また,西暦と旧暦の確認には関しては, Nguyễn…Trọng…Bỉnh…-…Nguyễn…Linh…Bùi…Viết… Nghị…;…Bảng…Đối…Chiếu…Âm…Dương…Lịch…2000… Năm…và…Niên…Biểu…Lịch…Sử,…Nhà…Xuất…Bản…Khoa… Học…Xã…Hội…-…Hà…Nội…1976…を利用した。 1 .資料について 本稿では,この1926年のお告げを資料として 整理・分析することで,カオダイ教の歴史や教 義等の特質を明らかにすることを目的とする が,お告げが膨大なため,また紙幅に限りがあ るため,1926年の傾向を把握することを主とし, 個別のテーマは向後の課題としたい。 まず,「お告げ」資料については次の 3 種を 利用した。 (1…)1925年のクリスマス以降のお告げを整理・ 編集したものが,『聖言協選(Thánh…Ngôn…
Hiệp…Tuyển)』(7)であり,タイニン聖座派の聖 書の中核であり,カオダイ教の核心であるこ とにおいては現在も変わりはない。この1926 年の「聖言(Thánh…Ngôn)」56をAとする。 Aの内容には,1926年の教えを開くために, いつ誰がどのように人事や教団組織や教義や 戒律,儀礼,布教を整えて行ったのかについ ての具体的な記述が極めて乏しい。むしろ「聖 言」ということから,編集方針として具体的 なことは避けたのではと思われる。また,『聖 言協選』巻 1 の初版が1928年であリ,タイニ ン聖座による編集になるためか。「玉皇上帝 (Ngọc…Hoàng…Thượng…Đế)は,高臺(カオダイ) 仙翁大菩薩マハータット(Cao…Đài…Tiên…Ông… Đại…Bồ…Tát…Ma…Ha…Tát)が南方で道を教える, と記した。」との主題がほとんどで,副題に 個別の内容を伺わせる。ただ内容は,詩が記 されていたり抽象的な理念やぺダンティック な内容も少なくない。加えて14.5%に当たる 8 つがフランス語で記されており,フランス 植民地政庁への理解を得るための政治的な配 慮とも解される。 (2…)タイニン聖座派のヌゥ・ダウ・スゥ(女頭 師…Nữ…Đầu…Sư) フゥオン・ヒィエウ(Hương… Hiếu)(1887~1971)編纂になる『道史』巻 2 にも,詳細なお告げ等の資料(8)がある。こ の1926年の74のお告げをBとして表記した。 Bの資料は同時代を生きたフゥオン・ヒィエ ウが編纂し,タイニン聖座派の道史委員会が 検閲してできた『道史』によっているため, 資料Aに比べれば,より具体的な事実関係を 窺わせる。ただし,巻 1 は,サイ・バンによ るお告げを編集しており,巻Ⅱはコォ・ブッ ト(機筆…Cơ…bút)によるお告げを編集して いる。 (3…)お告げを含む資料としては,グゥエン・ヴァ ン・ホン(Nguyễn…Văn…Hồng)(1940~2005) が編纂した『道史日記』(9)がある。この資料 中 の1926年 の108の お 告 げ をCと 表 す。Cは グゥエン・ヴァン・ホン氏の解説も多い。B 同様Aに比べれば,より具体的な事実関係を 窺わせる「お告げ」を確認することができる。 A・B・Cのお告げを含めて,多くのお告げ に共通している点は,主語が「師」となってお り「師が弟子(門弟)に諭した。」という表記 形式が多いということである。コォ・ブット(機 筆)にしろ扶鸞にしろチャップ・ブット(執筆) にしろ,ゴック・コォ(玉機…Ngọc…cơ)の動き の中に降された字を読み取る人が声を出して文 を読み,それを聞いて書き取って文章としての 「お告げ」が固定化される。読み取る人が正し く読んだ保証はどこにもない。その意味では, 本来コォ・ブット(機筆)にしろ扶鸞にしろ チャップ・ブット(執筆)にしろ,誰が壇に加 わりどのような役割を担ったかを記録するのも のである。その記録が上記資料にはほぼ100% 近く抜け落ちている。 また,B・Cの「お告げ」の実施時期に空白 の月日が共通している。Bは 4 月27日~ 7 月20 日まで空白。Cは, 4 月27日~ 7 月14日まで空 白が観られる。 A・B・Cの異同についても,まったく同じ 日付のお告げでも部分的に表記にズレがあるこ とを指摘しておきたい。 2 .コア・メンバーの獲得と教団人事の確立 カオダイ教の教団組織をどのような経緯で創 設したかについてのお告げは,残念ながら見ら れない。お告げであるがゆえに,師である玉皇 大帝が,アプリオリにお告げとして降している。 カオダイ教の組織についてグゥエン・コク・トゥ アンの研究(10)からローマ・カトリックの組織 に類似したものであることは知れるが,誰がど のような判断で創ったかは記していない。 教団人事関係資料を資料のお告げに求める と,Aに 4 件,Bが 5 件,Cが26件 を 数 え る こ とができる。それぞれの内容を類型化してみる。 (1)得度について まずA・Bには見られずCに多いのが「救済
した」というお告げ 9 件で,11人得度したこと を意味している。 2 月中心に 1 月 6 日~ 7 月17 日の間に救済=得度するお告げが集中している。 この時期に得度した方には, ①… レ ェ・ ヴ ァ ン・ チ ュ ン(Lê…Văn…Trung (1875-1934))(11); 1 月18日(乙丑の年12月 5 日)得度 ②… チャン・ダオ・クゥアン(Trần…Đạo…Quang (1870-1946));2 月26日(丙寅の年 1 月14日) 得度(12) ③… レ ェ・ ヴ ァ ン・ リ ッ ク(Lê…Văn…Lịch (1890-1947))(13); 3 月 4 日(丙寅の年 1 月20 日)得度・チャン・ヴァン・トゥ(Trần Văn… Thụ(1857-1927))(14) ④… グゥエン・ゴク・トゥオン(Nguyễn…Ngọc… Tương(1881-1951))(15) ⑤… グゥエン・ゴク・トォ(Nguyễn…Ngọc…Thơ (1873-1950)(16).ラム・ゴク・タン(Lâm Ngọc…Thanh(1874-1937))(17) ⑥… チュオン・フウ・ドゥック(Trương…Hữu… Đức(1890-1976))(18) ⑦… グゥエン・チュン・ハウ(Nguyễn…Trung… Hậu(1892-1961))(19) ⑧… ド ア ン・ ヴ ァ ン・ バ ン(Đoàn…Văn…Bản (1876-1941))(20) のカオダイ教の重職にあった方々が含まれる。 もっとも,重職以外の方々も救済しており,チャ ン・ズイ・ギィア(Trần…Duy…Nghĩa),トゥ・マッ ト(Tư…Mắt),ヴゥオン・クゥアン・チャン(Vương… Quan…Trân), カ・ ミ ン・ チ ュ オ ン(Ca…Mình… Chương)各氏も丙寅の年の 1 月~ 2 月に得度 している事がCより知れる。 (2)位階への就任 Bには,「天封(Thiên…Phong)」の項に教団の 位階と1926年時点でその地位に就いた93人の名 や法名が記されており,それを図に整理し直し たものが図 1 である。年間を通して位階への就 任は続き,特に教団創設の届け出認可後に教師 (Giáo…Sư)・教友(Giáo…Hữu)・礼生(Lễ…Sanh) が増えている。信徒数が拡大して聖室が整う中 で指導的な教師や教友が求められたとも推測さ れる。また,教団内の位階に就いた時期と得度 の時期には開きがあるものの,九重台要職であ る掌法(Chưởng…Pháp)は頭師(Đầu…Sư)より 遅いことが知れる。(21)この掌法 2 名と頭師 1 名の人事は開道に伴う褒賞人事と思われる。(22) お告げの対象である「前開(Tiền…Khai)の門 弟」(23)たちの名を併せ勘案すると,実質的運営 は頭師~配師レベルで運用されていたとも思わ れる。ただ,補充人事と思われるものも続いて いる。すなわち,8 月10日(丙寅の年 7 月 3 日) にレェ・バ・チャン(Lê…Bá…Trang)を玉配師(Ngọc… Phối…Sư)に 8 月22日(丙寅の年 7 月15日)イェ ト・マ・ニュン(Yết…Ma…Nhưng)を太教師(Thái… Giáo…Sư)に, 8 月31日(丙寅の年 7 月24日) 経典を請うた際に協力したミン・ス(Chi…Minh… Sư)のグゥエン・ヴァン・トゥオン(Nguyễn… Văn…Tương)を尚掌法(Thượng…Chưởng…Pháp)に, さらには 9 月 5 日(丙寅の年 7 月29日にゴ・ケ ン寺(chùa…Gò…Kén)(24)を献じたニュ・ニャン 和尚(Hoà…Thượng…Như…Nhãn)を太掌法(Thái… Chưởng…Pháp)に封じて,加えて11月17日(丙 寅の年10月13日)ティエン・ミン和尚(Hoà… Thượng…Thiện…Mình)(25)を頭師に封じている。和 尚が掌法や頭師に封じられていることは,儀式 や修行等の指導に重用されたものと推測される。 また,特筆すべきことにもともとのサイ・バ ングループ 3 人は,ファム・コン・タック(Phạm… Công…Tắc)が護法(Hộ…Pháp)に,カオ・クゥ イン・クゥ(Cao…Quỳnh…Cư)が尚品(Thượng… Phẩm) に, カ オ・ ホ ア イ・ サ ン(…Cao…Hoài… Sang)が尚生(Thượng…Sanh)となり,協天台(Hiệp… Thiên…Đài)の扶鸞をしっかりと握った点にあ る(26)。 (3)教宗(Giáo Tông)の人事について Aの 4 月22・23日(丙寅の年 3 月11・12日) のお告げは,B・Cの同日のお告げに符合する。 この 4 日前 4 月18日(丙寅の年 3 月 7 日)のお
教宗(Giao Tong) Pape
道教 ; 尚派(青) 仏教 ; 太派(黄) 儒教 ; 玉派(赤) I 掌法(Chưởng Pháp) 尚派掌法 太派掌法 玉派掌法 Cardinal-censeur (Chưởng Pháp phái Thượng) 、(Chưởng Pháp phái Thái) (Chưởng Pháp phái Ngọc)
トゥオン(Tương)[ミン・ス(Minh Sư)] ニュ・ニャン(Như Nhãn) トゥ(Thụ) [フエ・トゥオン・ザック・ハイ トゥ(Thụ) (Huề Thượng Giác Hải) におけるミン・ス] 丙寅の年7月24日 丙寅の年9月10日 II 頭師(Đầu Sư) 尚派頭師 太派頭師 玉派頭師
Cardinal レェ・ヴァン・チュン(Lê Văn Trung) ティエン・ミン(Thiện Minh) レェ・ヴァン・リク(Lê Văn Lịch) トゥオン・チュン・ニュット タイ・ミン・ティン ゴク・リク・グェット (Thượng Trung Nhựt) (Thái Minh Tinh) (Ngọc Lịch Nguyệt) 丙寅の年3月15日 丙寅の年10月13日 丙寅の年3月15日 III 配師(Phối Sư) 尚派配師(Phối Sư phái Thượng) 太派配師(Phối Sư phái Thái) 玉派配師(Phối Sư phái Ngọc) Archeveque トゥオン(Tương)(フゥ(Phủ)) グゥエン・ゴク・トォ レェ・バ・チャン(Lê Bá Trang)
トゥオン・トゥオン・タン ( Nguyễn Ngọc Thơ) ゴク・チャン・タン(Ngọc Trang Thanh) (Thượng Tương Thanh) タイ・トォ・タン(Thái Thơ Thanh)
丙寅の年5月17日 丙寅の年7月2日 丙寅の年7月3日 ホア(Hoá)
トゥオン・ホア・タン (Thượng Hoá Thanh) 丙寅の年8月19日
IV ザオ・ス(教師) 尚派教師(Giáo Sư phái Thượng) 太派教師(Giáo Sư phái Thái) 玉派教師(Giáo Sư phái Ngọc ) 女性教師(Nữ Giáo Sư) (Giáo Sư) キィ(Kỳ) ニュン(Nhung) キン(Kinh)
Eveque トゥオン・キィ・タン(Thượng Kỳ Thánh) タイ・ニュン・タン(Thái Nhung Thanh) ゴク・キン・タン(Ngọc Kinh Thanh) ラム・ティ・タン(Lâm Thị Thanh) 丙寅の年5月14日 丙寅の年7月15日 丙寅の年6月8日
キム(Kim) ルァット(Luật) ヴァン(Vân) カ・ティ・テェ(Ca Thị Thế) トゥオン・キム・タン(Thượng Kim Thanh) タイ・ルァット・タン(Thái Luật Thanh) ゴク・ヴァン・タン(Ngọc Vân Thanh) 【副教師(Phó Giáo Sư)】 丙寅の年5月17日 丙寅の年7月22日 丙寅の年6月8日
チュック(Chức) ビン(Bính) ダット(Đạt) ドゥオン・ティ(Đường Thị) トゥオン・チュック・タン(Thượng Chức Thanh) タイ・ビン・タン(Thái Bính Thanh) ゴク・ダット・タン(Ngọc Đạt Thanh)
丙寅の年8月19日 丙寅の年8月7日 丙寅の年6月8日
ハン(Hành) ムイ(Mùi) ダオ・ミン(Đạo Minh) トゥオン・ハン・タン(Thượng Hành Thanh) ゴク・ムイ・タン(Ngọc Mùi Thanh) 「六. 」(Cô Sáu)、【女性教師】 丙寅の年8月29日 丙寅の年6月8日 丙寅の年11月4日ハン・トン・タイ寺(Chùa Hạnh Thông Tây)
ヴィン(Vinh) トン(Thông)
トゥオン・ヴィン・タン(Thượng Vinh Thanh) ゴク・トン・タン(Ngọc Thông Thanh) 丙寅の年9月9日 丙寅の年9月28日
ディン(Định) ソン(Son)
トゥオン・ディン・タン(Thượng Định Thanh) トゥオン・チャウ・タン(Thượng Châu Thanh)* 丙寅の年9月28日 丙寅の年10月15日
ホアイ(Hoài)* ブップ(Búp) ティン(Tín)
トゥオン・ホアイ・タン(Thượng Hoài Thanh) トゥオン・ブップ・タン(Thượng Búp Thanh) トゥオン・ティン・タン(Thượng Tín Thanh) 丙寅の年10月15日 丙寅の年10月15日 丙寅の年10月15日
ライ(Lai) ヴィエン(Viễn) ニョン(Nhơn)
トゥオン・ライ・タン(Thượng Lai Thanh) トゥオン・ヴィエン・タン(Thượng Viễn Thanh) トゥオン・ニョン・タン(Thượng Nhơn Thanh) 丙寅の年10月15日 丙寅の年10月15日 丙寅の年10月15日
V 教友(Giáo Hữu) 尚派教友(Giáo Hữu phái Thượng) 【太派教友についての記載なし】 【玉派教友についての記載なし】 Pretre ジヨイ(Giỏi)
トゥオン・ジヨイ・タン(Thượng Giỏi Thanh) 丙寅の年8月23日
バン(Bản) グゥエン・ヴァン・クック(Nguyễn Văn Cúc) トゥ(Tu)
トゥオン・バン・タン(Thượng Bản Thanh) トゥオン・クック・タン(Thượng Cúc Thanh) トゥオン・トゥ・タン(Thượng Tu Thanh) 丙寅の年8月25日* 丙寅の年9月17日 丙寅の年10月26日 サイ・ゴン ジアン(Giảng) ニョン(Nhơn) ティ(Ty)
トゥオン・ジアン・タン(Thượng Giảng Thanh) トゥオン・ニョン・タン(Thượng Nhơn Thanh) トゥオン・ティ・タン(Thượng Ty Thanh) 丙寅の年12月25日 丙寅の年9月27日 丙寅の年10月26日 カン・ゾック(Cần Giuộc) ファム・ヴァン・タップ(Phạm Văn Thấp) ギ(Nghi) ティエプ(Tiếp)
トゥオン・タップ・タン(Thượng Thấp Thanh) トゥオン・ギ・タン(Thượng Nghi Thanh) トゥオン・ティエプ・タン(Thượng Tiếp Thanh) 丙寅の年9月17日 丙寅の年9月27日 ラック・ジャ(Rạch Giá) 丙寅の年10月26日 カン・ゾック フイン・ヴァン・ソン(Huỳnh Văn Sơn) ラン(Lân) トゥオン(Tường)
トゥオン・ヴァン・ソン(Thượng Sơn Thanh) トゥオン・ラン・タン(Thượng Lân Thanh) トゥオン・トゥオン・タン(Thượng Tường Thanh) 丙寅の年9月17日 丙寅の年9月2日 ヴン・リェム(Vũng Liêm) 丙寅の年10月26日 サイ・ゴン レェ・ヴァン・クック(Lê Văn Cúc) ビック(Bích) ブイ・ヴァン・ズア(Bùi Văn Dứa) トゥオン・クック・タン(Thượng Cúc Thanh) トゥオン・ビック・タン(Thượng Bích Thanh) トゥオン・ズア・タン(Thượng Dứa Thanh) 丙寅の年9月17日 丙寅の年10月15日 カン・トォ(Cần Thơ) 丙寅の年10月28日 タイ・ニン グゥエン・ヴァン・フォン(Nguyễn Văn Phương) フイン・ヴァン・トゥアト(Huỳnh Văn Tuất) キェット(Kiệt)
トゥオン・フォン・タン (Thượng Phương Thanh) トゥオン・トゥアト・タン(Thượng Tuất Thanh) トゥオン・キェット・タン(Thượng Kiệt Thanh) 丙寅の年9月17日 丙寅の年10月15日. サイ・ゴン(Sài Gòn) 丙寅の年10月30日
ヴォ・ヴァン・キン(Võ Văn Kinh) チン・ヴァン・キィ(Trịnh Văn Kỳ) トゥオン・キン・タン(Thượng Kinh Thanh) トゥオン・キィ・タン(Thượng Kỳ Thanh) 丙寅の年9月17日 丙寅の年10月21日 タイ・ニン(Tây Ninh) ブイ・ヴァン・ティエン(Bùi Văn Thiên) サム(Sâm)
トゥオン・ティエン・タン(Thượng Thiên Thanh) トゥオン・サム・タン( Thượng Sâm Thanh) 丙寅の年9月17日 丙寅の年10月26日 チョ・ロン(Chợ Lớn) VI レェ・サン
(礼生)(Lễ Sanh) バン(Bản). 丙寅の年5月14日 トゥアト(Tuất). 丙寅の年8月23日 トゥアン(Thuận).丙寅の年10月26日 eleve-Pretre ジアン(Giảng). 丙寅の年5月14日 フゥオン(Hương) 丙寅の年8月25日 フィ(Phi) 丙寅の年10月26日
トゥオン(Tường) 丙寅の年5月14日 ティエプ(Tiếp). 丙寅の年5月17日 バオ(Bảo). 丙寅の年10月26日 ジヨイ(Giỏi) 丙寅の年5月14日 クゥア(Của). 丙寅の年10月26日 チャン・ヴァン・スゥオン(Trần Văn Xương). 丙寅の年10月26日 ニョン(Nhơn). 丙寅の年5月17日 ホック(Học). 丙寅の年10月26日 チャン・ヴァン・ウォン(Trần Văn Uông). 丙寅の年10月26日 キン(Kinh). 丙寅の年5月17日 フイン・ヴァン・ダン(Huỳnh Văn Đáng). 丙寅の年10月26日 ミイ・ゴック(Mỹ Ngọc) ティ(Tỵ). 丙寅の年5月17日 クィ(Qui). 丙寅の年10月26日 タ(Tạ)(チャン・ヴァン・タ(Trần Văn Tạ)). 丙寅の年10月26日 グゥエン・ヴァン・チョ(Nguyễn Văn Trò). 丙寅の年8月25日 ドン(Đờn). 丙寅の年10月26日 マック・ムック・タン(Mắc Mục Thanh). 丙寅の年10月26日 ホアン(Hoằng) 付記;フォ・ロアン ファム・コン・タック(Phạm Công Tắc) カオ・クィン・クゥ(Cao Quỳnh Cư) カオ・ホアイ・サン(Cao Hoài Sang) (扶鸞)(Phò Loan) 護法(Hộ Pháp) 尚品(Thượng Phẩm) 尚生(Thượng Sanh)
丙寅の年3月15日 丙寅の年3月15日 丙寅の年3月15日 仙道扶機道士機と
お告げの儀式を扶け ドゥク(Đức) ハウ(Hậu) トゥオイ(Tươi) チュオン(Chương) マイ(Mai). グゥエン(Nguyên) 道士で、自律した扶鸞 仙道扶機道士(Tiên Đạo Phò Cơ Đạo Sĩ) 仙道扶機道士(Tiên Đạo Phò Cơ Đạo Sĩ) 仙道扶機道士(Tiên Đạo Phò Cơ Đạo Sĩ) を行えるのはサイバ ギア(Nghĩa) チャン(Tràng) キム(Kim). ダイ(Đãi) マン(Mạnh). フォック(Phước) グループの3人のみで 仙道扶機道士(Tiên Đạo Phò Cơ Đạo Sĩ) 仙道扶機道士(Tiên Đạo Phò Cơ Đạo Sĩ) 仙道扶機道士(Tiên Đạo Phò Cơ Đạo Sĩ) 独占している。 図 1 天の封じた職色 Đại…Đạo…Tam…Kỳ…Phổ…Độ…Toà…Thánh…Tây…Ninh…:…ĐAO…SỬ,…Quyển…II.…Từ…năm…Ất…Sửu(1925) đến…năm…Kỷ…Tỵ(1929),…Biên…Soạn:…Nữ…Đầu…Sư…Hương…Hiếu…Hội…Thánh…Giữ…Bản…Quyền L_L- --- --- ----1•—- --- ----―ニ―--
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告げで,「師がゴォ・ヴァン・チュウに教宗の 天服(Thiên…phục)を用意している」と知らせ たことがCのお告げから知れる。カオダイの最 初の弟子であったゴォ・ヴァン・チュウをロー マ・カトリックの教皇に当たる教宗に据える内 示であった。ところが 4 月22日のお告げは, ゴォ・ヴァン・チュウを教宗の座から退けると いう内容であった。この集会後,ゴォ・ヴァン・ チュウは,「吾身不度,何身度(Ngô…thân…bất… độ…hà…thân…độ…(Thân…ta…chưa…độ…còn…độ…thân…nào… nữa))。」と述べて,分裂の道を採り,その後カ ン・トォ(Cần…Thơ)でチュウ・ミン・ヴォ・ヴィ (Chiếu…Mình…Vô…Vi)派を創設した。Cの22日の お告げの解説によれば,グゥエン・ヴァン・ホ アイ(Nguyễn…Văn…Hoài),ヴォ・ヴァン・サン (Võ…Văn…Sang),リ・チョン・クィ(Lý…Trọng… Quí)等がゴォ・ヴァン・チュウと行動を共に したとある。 この分裂のために修復と引き締めを図ったの がAとBの 4 月24日のお告げにある「行儀の悪 い者(tay…phàm)」とはゴォ・ヴァン・チュウ 派を揶揄したものと解される。教団分裂の危機 であり,分裂の真相はカオダイ教の本質に関わ る疑問である。辞退説等いろいろ取りざたされ ている(27)が後考に委ねたい。ただ,4 月25日(丙 寅の年 3 月14日)のお告げで,「護法の真臣ファ ム・コン・タックを中軸に」と記されているこ とから,ゴォ・ヴァン・チュウを教宗の座から 退けることがなければ,ファム・コン・タック が護法の座に就くこともなかったかもしれず, 漁夫の利を得たのはファム・コン・タックであっ たと考えられる。 なお,空席であった教宗の座は,A・Cに観 れるように,10月29日(丙寅の年 9 月23日)に なって,「李太白(Lý…Thái…Bạch)」に委ねられ, これ以降「師」と共にお告げに登場するように なる。 (4)天の封じた聖(Thiên phong Thánh) 1926年当初に,もともとの師の門弟として認 知を得ていたのはBの 2 月21日(丙寅の年 1 月 9 日)やCの 1 月28日(乙丑の年12月15日)に 観るように,①ゴォ・ヴァン・チュウ,②ヴゥ オン・クゥアン・キィ(Vương…Quan…Kỳ),③ ドアン・ヴァン・バン,④レェ・ヴァン・ジャ ン(Lê…Văn…Giảng),⑤グゥエン・ヴァン・ホ アイ,⑥リ・チョン・クイ,⑦ヴォ・ヴァン・ サン,⑧カオ・クゥイン・クゥ,⑨ファム・コ ン・タック,⑩カオ・ホアイ・サン,⑪レェ・ ヴァン・チュン,⑫グゥエン・チュン・ハウ, ⑬チュオン・フウ・ドゥク(Bでは,12名の名が, お告げの中の詩に記されているが,ヴォ・ヴァ ン・サンとカオ・ホアイ・サンが同名なので12 名と数えている。)師が心から門弟とした者は 1926年初めまでは13名であったということで, Cの 2 月21日(乙丑の年12月31日)除夜の前に 師が各門弟の家を訪れたのは,ゴォ・ヴァン・ チュウを除くこの門弟たちである。そのことを 踏まえて,BとCを観ると,1926年 4 月26日(丙 寅の年 3 月15日)天の封じた第 1 回の聖は, レェ・ヴァン・チュンが尚頭師(Thượng…Đầu… Sư)に,レェ・ヴァン・リックは玉頭師(Ngọc… Đầu…Sư)に,ファム・コン・タックは護法(Hộ… Pháp)で護駕仙僮佐機道士(Hộ…Giá…Tiên…Đồng… Tá…Cơ…Đạo…Sĩ)に,チュオン・フウ・ドゥクとグゥ エン・チュン・ハウは仙道扶機道士(Tiên…Đạo… Phò…Cơ…Đạo…Sĩ)に,カオ・クゥイン・クゥは 佐機仙鶴道士(Tá…Cơ…Tiên…Hạc…Đạo…Sĩ)に,ヴゥ オン・クゥアン・キィは仙色郎官任説道教師 (Tiên… Sắc… Lang… Quân… Nhậm… Thuyết… Đạo… Giáo…
Sư)に,そしてドアン・ヴァン・バンが仙道 功 神 説 道 師(Tiên…Đạo…Công…Thần…Thuyết…Đạo… Sĩ)に封じられた。ゴォ・ヴァン・チュウを教 宗座から退ける発表後 4 日であることを鑑みる と,この聖名を封じる目的は教団指導体制の引 き締めにあるものと想われる。 天の封じた第 2 回の聖は,Cに観られるよう に1926年 8 月 8 日(丙寅の年 7 月 1 日)…に永巌 寺(28)で行われ,グゥエン・ゴク・トゥオン,グゥ エン・ゴク・トォ,ゴォ・ヴァン・キム(Ngô…
Văn…Kim)を対象とするものであった。 (5)追放 Cの12月22日(丙寅の年11月18日)尚派教師 の位階にあった前開の門弟ヴゥオン・クゥア ン・キィ(29)が李教頭により追放された。その 後カウ・コォ聖室(Thánh…Thất…Cầu…Kho)(30)に 戻り,カウ・コォ派を創り,分派した。 3 .1926年段階での壇と聖室(Thánh Thất) の創設 Cによると, 1 月 1 日(乙丑の年11月17日) に「 3 人のカトリック教徒がコォ・ブットの見 学にカオ・クゥイン・クゥ氏の家を訪れ」とあ り,当時の信仰が各門弟の個人的な家の祭壇で 営まれていた(31)ことが知れる。これを裏付け るように,同じくCの 1 月11日(乙丑の年11月 27日)にはレェ・ヴァン・チュンが壇に仕える 仕方を学びにカオ・クゥイン・クゥ氏の家を訪 れている。このような状況を前提に,AとCに 共通して 1 月27日(乙丑の年12月14日)「師は カオ・クゥイン・クゥ氏の家に壇を開くよう」 命じている。。ゴォ・ヴァン・チュウの壇に次 いでカオダイ公認の壇と看做すべきかと思われ る。次いで 1 月31日(乙丑の年12月18日)には, 「レェ・ヴァン・チュン氏とヴゥオン・クゥアン・ キィ氏の家にも壇を開くよう」命じている。 2 月 3 日(乙丑の年12月21日)には,師は「ドア ン・ヴァン・バンに自らが校長であったダ・カ オ校(Trường…Đa…Kao)の教員を指導してカオ・ クゥイン・クゥ氏の家の壇に仕えるよう」諭し ている。Aの 7 月15日(丙寅の年 6 月 4 日)には, 師は「玉壇(Ngọc…Đàn)を整えるよう」に諭 している。この翌日にニュ・ニャン和尚が自ら 住職を務めるゴ・ケン寺をカオダイ教に寄進し ている。カオダイ教が教団として創設される以 前において最初の宗教施設であった。Cの 8 月 23日(丙寅の年 7 月16日)に,「最初の普く救 済するための各壇を設けた」とあり,後述する 6 壇の整備と病気治癒専門の壇の都合 7 壇が記 されている。 4 日後の 8 月27日(丙寅の年 7 月 20日)には「カウ・コォ壇について」の記載が あり,そこで師はフランス秘密警察のスパイと して潜り込んでいたチャン・ヴァン・タ(Trần… Văn…Tạ)を諭している。その後に寺院を含め た壇機を行う 5 か所が記されている。 これらの当時のカオダイ教の公認壇を整理す ると, 7 つの壇に寺院等を含めた12の壇を「最 初の頃の普く救済する壇の分布」(32)を参考に, 壇名,住所,扶鸞担当者,壇に仕えた方々(名 前は 1 名のみとし,他は略した。)の順に整理 すると,カオダイ教の公認壇は以下のようであ る。 ①… カウ・コォ壇(Đàn…Cầu…Kho);ルマン将 軍(通り)42番地(số42…Géneral…Leman)とグゥ エン・タン・ギェム通り(đường…Nguyễn…Tấn… Nghiệm)[現在のカオ・バ・ニャ(Cao…Bá… Nhạ)通りとチャン・ディン・ス(Trần…Đình… Xu)通り]の角。ドアン・ヴァン・バン氏 の自宅に当る。 … グゥエン・チュン・ハウ氏とチュオン・フ ウ・ドゥク氏によって扶鸞が行われた。(33) … この壇に仕えた方にはヴゥオン・クゥア ン・キィ他 8 名以上が居られた。 ②… タン・ディン壇(Đàn…Tân…Định);ポール・ ブランキー439番地(số439.…Paul…Blanchy)…と シャンパーニュ(通り)(Champagne)[現在 のハイ・バ・チュン(Hai…Bà…Trưng)とリィ・ チン・タン(Lý…Chính…Thắng)]の角。グゥ エン・ゴク・トォ[タイ・トォ・タン(Thái… Thơ…Thanh)]の家。 … カオ・クイン・クゥ氏とファム・コン・タッ ク氏によって扶鸞が行われた。丙寅の年 6 月 の間,グゥエン・ゴク・トォ氏はお告げに仕 えることを望み,丙寅の年 6 月28日に師が諭 された。 ③… ロク・ザン壇(Đàn…Lộc…Giang)…;チョ・デ ム(Chợ…Đệm)の福龍寺(Chùa…Phước…Long) に在る。寺主はイェット・マ・ジョン(Yết… Ma…Giống)である。
… チャン・ズイ・ギィア(Trần…Duy…Nghĩa) と責務を負っているチュオン・ヴァン・チャ ン(Trương…Văn…Tràng)の二人によって扶鸞 が行われた。 … いつもここでの壇に仕えている方々は, マック・ヴァン・ギィア(Mạc…Văn…Nghĩa) 他 9 名以上がいた。 … 1927年 2 月17日(丁卯の年 1 月16日)…ゴ・ ケン寺(Chùa…Gò…Kén)にいて師が諭された 言葉の後福龍寺はロク・ザン聖室(Thánh…Thất… Lộc…Giang)となった。 ④… トゥ・ドゥック壇(Đàn…Thủ…Đức);トゥ・ ドゥック市場に近いゴォ・ヴァン・ディエウ (Ngô…Văn…Điều)氏の家に設けられた。グゥエ ン・チ・フゥオン52… 番地(số52…Nguyễn…Tri… Phương)[現在のカァ・ヴァン・カン(Khả… Vạn…Cân)…80番地]に位置した。 … フイン・ヴァン・マイ(Huỳnh…Văn…Mai) と ヴ ォ・ ヴ ァ ン・ グ ゥ エ ン(Võ…Văn… Nguyên)の二人がこの壇の扶鸞に責任を負っ ていた。 … 筮竹で占うような古い痕跡を留めており, 1998年に至ってなお依然として昔のように師 と三鎮(Tam…Trấn)への祀りを整え,ディエ ウ氏の家庭でも同様であった。 ⑤… タン・キム壇(Đàn…Tân…Kim)…;…管轄会議 (Hội…Đồng…Quản…hạt)のメンバーでありカン・ ズ ォ ク(Cần…Giuộc) 県 タ ン・ キ ム(Tân… Kim)社に在るグゥエン・ヴァン・ライ(Nguyễn… Văn…Lai)氏の家に設けられた。 … ここでの扶鸞は,カ・ミン・チュオンとファ ム・ヴァン・トゥオイ(Phạm…Văn…Tươi)の 二人を中心に行われた。 … よくタン・キム壇に仕えた方は,グゥエン・ ゴク・トゥオン(Nguyễn…Ngọc…Tương)の他 6 名以上がいた。 ⑥… 伯母さんを失ったために,特に… 病の治療 に専念する壇…として,ガリエニ(Gallieni)…通 り237…番地[現在のチャン・フン・ダオ(Trần… Hưng…Đạo)…通り]のチャン・ヴァン・タ氏 の家に置かれた。チャン・ヴァン・タ氏(1888ー 1960)は,元々は警察の人員であり,カウ・ コォ壇における様々な活動に潜り込み追求す る任務を委ねられていた。ミイラ取りがミイ ラとなり,生涯にわたって中堅信徒となった。 … 丙寅の年 7 月20日,カウ・コォ聖室におい て,師はチャン・ヴァン・タ氏を諭した。「タ 氏とパートナーであるチュオン・ティ・チョ ン(Trương…Thị…Tròn)女史は功果に気を配り, 天机(Thiên…Bàn)の前で跪き,病人のため に心から祈願した後,茶碗一杯の白い水 (một…chén…bạch…thuỷ)を飲むという方法で病 を治した。この奇妙で珍しい方法のお陰で, 大変多くの人の病気が治って,新しい教えに 関する信頼は高まった。」(34)とある。 ⑦… ホイ・フック・トゥ[会福寺(35)〕壇(Đàn… Hội…Phước…Tự);…丙寅の年 7 月22日会福寺で 行われた壇には,トゥオン・チュン・ニュッ ト(Thượng…Trung…Nhựt),ゴク・リク・グゥ エト(Ngọc…Lịch…Nguyệt),タイ・トォ・タ ン(Thái…Thơ…Thanh)...らが出席し,師はイェッ ト・マ・ルアット(Yết…Ma…Luật)の教えを 求める願いを承認し,会福寺を撤収して聖室 とした。イェット・マ・ルアットは天が封じ た太派のザオ・ス[教師]とされ,丙寅の年 7 月15日に(ホク・モン,タン・スゥアン,チャ ン邑(ấp…Chánh,Tân…Xuân,…Hóc…Môn)のヴァ ン・フック・トゥ[万福寺](Vạn…Phước…Tự) におけるイェット・マ・レェ・ヴァン・ニュ ン(Yết…Ma…Lê…Văn…Nhung)と同様となった。 ⑧… ロン・タン・トゥ壇…[龍成寺](Đàn…Long… Thành…Tự);(カン・ドゥオク,…ロン・ホア,ラッ ク・キェン市場(chợ…Rạch…Kiến,…Lòng…Hoà,… Cần…Đước))いつも旧暦の15日,16日,30日, 1 日の各日に壇が設けられる。ファム・タン・ ダイ(Phạm…Tấn…Đãi)とグゥエン・ティエン・ キム(Nguyễn…Thiêng…Kim)の二人が扶鸞を 行う。いつも壇に仕える方々は,(知府であり, カン・ドゥオク郡主である)レェ・ヴァン・ ホア(Lê…Văn…Hoá)の他 4 名以上がいた。
⑨… クゥ・チ壇(Đàn…Củ…Chi)…;…(ロン・トゥイ・ ハ 總 フ ッ ク・ ミ ィ 村(làng…Phước…Mỹ,…tổng… Long…Tuy…Hạ),現在のフック・ヒェップ社ム イ・コン・ダイ邑(ấp…Mũi…Côn…Đại,…xã…Phước… Hiệp))グゥエン・ヴァン・ムゥオイ(Nguyễn… Văn…Mười)氏の家に設けられた。同氏の家 は陰陽の瓦葺の 3 間 2 軒の離れのある広大な 屋敷のため,この騒乱に関わらず旧暦の朔望 の 1 日と15日ごとに壇に参加する信友(tín… hữu)すべてを容れることができた。 ⑩… フック・リン・トゥ壇[福霊寺壇](Đàn… Phước…Linh…Tự);ルク・タン・トゥオン總ロ ン・ ホ ア 村 1 邑(ấp…1,…làng…Long…Hoà,…tổng… Lục…Thành…Thượng)…現在はロン・アン省カン・ ドゥオク(Cần…Đước…Long…An)に位置し,イェ ト・ マ・ グ ゥ エ ン・ ヴ ァ ン・ ソ ア イ(Yết… Ma…Nguyễn…Văn…Xoài)がカオダイ教に帰す ことによって主壇となった。今日それとは関 わりなく福霊寺(仏教)はおよそ 1 km程隔 たった古い土地に再建された。 ⑪… ジ ョ ン・ オ ン・ ト ォ 壇(Đàn…Giồng…Ông… Tố);ドォ・ヴァン・ヴァン(Đỗ…Văn…Vàng) 氏の家に設けられた。いつも壇に仕える方々 は,ホ・ヴァン・ディン(Hồ…Văn…Đình)の 他 8 名以上がいた。 … 扶鸞の部分は固定されていないが,カオ・ クイン・クとファム・コン・タックが責任を 負っていた。 ⑫… ヴィン・グゥエン・トゥ[永巌寺]壇(Đàn… Vĩnh…Nguyên…Tự)…;…永巌寺は1926年以前はミ ン・ドゥオンに属していたが,26年以降禅寺 として栄えた。カオダイに信徒として入門を 認められたとは言え,多くはないが特に先開 の諸氏は,この寺で経典や内律について,初 期の禅定法門修学を行った。 以上の壇機活動の結果,フゥオン・ヒィエウ によれば「大勢の人が賑やかに入門し,壇を設 けるたびに入門者数が数百に及んだ。」(36)との ことである。以上のような宗教活動と布教の中 核である壇が整備されると,Bの 9 月 7 日(丙 寅の年 8 月 1 日)のタイニン(Tây…Ninh)に聖 室が設けられたことを踏まえた上で,Aの 9 月 17日(丙寅の年 8 月12日)には「聖室を整える よう」師は諭している。Bの10月30日(丙寅の 年 9 月24日)に「聖室を設け,そこは子供たち のみんなの家である」と記していることは 9 月 17日の指示に対する回答とも読める。ただ,教 団としての開道後の12月 2 日(丙寅の年10月28 日)に李太白教宗が「聖室の中は厳かに整える ように」と諭している。 お告げに観られるカオダイ教の各壇や聖室は サイゴンやチョロン近郊に位置するものがほと んどであったが,Cの11月 9 日(丙寅の年10月 5 日)にバック・リュウでカオ・チュウ・チュッ ク氏(37)のために壇を開いてもいる。 以上のお告げの経緯をまとめると,教団とし て創設される以前は,基本的には個人の自宅も しくは最寄りの寺院・道観で行われた宗教活動 であった。上述した得度も,壇を開いて機筆を 行い,神の同意を得て初めて認められる。壇を 開くことは得度だけが目的ではない。また,壇 に参加する信徒数が増えると,個人の自宅が定 期的もしくは恒常的に壇を開く専門的なカオダ イ教の施設として固定化されていき,カオダイ 教信徒数拡大のセンターとして機能したと思わ れる。その固定化された壇が恒常的な得度者の ための修行施設として成立したのが「聖室」と 考えられる。というのも同時代を生きたフゥオ ン・ヒィエウの記述に,「毎回ごとに入門を求 める諸々の方がおり,至尊はカウ・コォの大壇 (đại…đàn)に行かねばならないと諭した。とい うのは,ドアン・ヴァン・バン氏の家が壇を執 り行う場から,いわゆる小聖室(Tiểu…Thánh… Thất)に変わってしまったからである。」とあ るからである。(38)聖室の最初の確立は,上述 した1926年 8 月(丙寅の年 7 月)…ゴ・ケン寺= 慈林寺の寄贈によるが,その開設は1926年11月 18日(丙寅の年10月14~15日)カオダイ教の大 道開道の大礼が行われた日である。 教団の組織化について,Aの 8 月27日(丙寅
の年 7 月20日)の項に「職色の聖なるホ(Họ) を設け,各々が少なくとも12名を救済せねばな らない。」という聖言が下されている。出家者 がそれぞれ新たな信者12名の救済という得度を 行わなければならないというもので,得度のネ ズミ講化したものとも考えられ,信徒数拡大に 向けて加熱した様子を窺わせる。なお,ホにつ いては『新律』に規定がある(39)。 4 .教義・教化・修行について ① 伝道の開始 Bの 1 月 1 日~ 1 月 7 日(乙丑の年11月17日 ~23日)のお告げに「至尊が教えを諭すことを 始めた。」とあり,Cの 1 月 2 日(乙丑の年11 月18日)のお告げには「クゥ氏,タック氏,サ ン氏に教えを諭すことを始めた。」とある。もっ とも,Cの 3 月16日には「チュン,クゥ,タッ ク氏は永巌寺において 1 週間教えを学ばねばな らない。」と諭されており,禅門修行の基礎か ら学習し直す必要があったものと想われる。次 いでCの 1 月26日(乙丑の年12月13日)の夜に は「師の真に従いなさい。そうすれば,祖国と 種族を救うことができるであろう。」とのお告 げを降している。民族ではなく「種族(Giống… Nòi)」と表記している点が,ベトナム人として の民族意識が未だ十分には確立していないこと の可能性を窺わせる。 Bでは 2 月13日(丙寅の年 1 月 1 日)の子の 刻の年頭のお告げで「至尊が普く変えるお告げ について諭し講じた。」とあり,Cの同日のお 告げには「師は門弟たちに教えを伝え始めよと 諭した。」とあり,Bでも開道へ向けた日の言 葉としている。Aでは 2 月20日(丙寅の年 1 月 8 日)の聖言で「みんなで教えの声望に心を傾 け,師が教えを諭すことに手を付け始めたこと から,互いに和さねばならない。」としている。 伝教宣言に当たるお告げが 1 月から 2 月に集中 していることに留意しておく必要があろう。 ② 教義について 儒仏道の三教合一(40)や五支大道(Ngũ…Chi… Đại…Đạo)に基づく五教合一(41),さらには万教 合一を謳うカオダイ教が厳密な教義を共有して いるとは言い難いものと筆者は思っているが, そのことはカオダイ教に教義がないことを意味 するものではない。Aの 1 月 3 日(乙丑の年11 月19日)チャップ・ブット(執筆)でお告げを 得ることについての聖言があり,Cの同日の項 には「教えを扶けるものは師の将帥である。」 とのお告げも降されている。神意はお告げによ るのである。その神はAの 4 月 7 日(丙寅の年 2 月25日)のお告げにあるように「燃燈古仏 (Nhiên…Đăng…cổ…Phật), 釈 迦 牟 尼(Thích…Ca… Mâu…Ni),太上原始(Thái…Thượng…Ngươn…Thỉ) の名を今では高臺(カオダイ)と記す。」とし て過去仏・釈迦牟尼・道教始祖である太上老君 の総称としてカオダイが降ったとし,Cの同日 のお告げには「耶蘇教主(Gia…Tô…Giáo…Chủ) も正しい」とお告げにあり,A・Bの 4 月24日(丙 寅の年 3 月13日)の聖言には「以前から師は五 支大道を設けており…」とあり,さらにはAの 5 月30日の聖言では「以前,師は降誕し仏教を 設けたが,今日では不可思議な力を用いて教え を諭すので,もう降誕すべきではない。」とし ている。Aの 6 月 5 日(丙寅の年 4 月23日)の カン・ゾックの会福寺における聖言でも「聖な る教えは釈迦如来(Thích…Ca…Như…Lai)を名乗っ てきたが,今日では高臺仙翁大菩薩と記す。仏 を原理とするのは以前の考えで,無言の者を仏 と言ってはならない。」としている。何度も繰 り返し述べられている。 上述したお告げは,カオダイ教の信仰の中で は師は変幻自在に姿を変えて,時と場所に応じ て衆生を救済するためにこれまで仏教や道教や キリスト教や五支明道を設けるために降臨して きたが,もはや人の形をとらず聖なるメッセー ジを告げるだけで衆生を救済しようということ が,少なくとも1926年段階での広い意味でのカ オダイ教の教義に当たる。それゆえ未来での救
済である弥勒菩薩への信仰に頼ることはないと いうことが,指摘できる。 もう一つの教義上の特色と思える点は,A・ Cの 4 月 8 日(丙寅の年 2 月26日)の聖言に「師 は大道三期普度について諭された。」という考 えである。至高神はこれまで人類の救済のため に 2 度にわたって救済を果たしてきたが,フラ ンス植民地下の民衆を救済するために,最後に 3 度目の救済のための大いなる教えを降したと する考え(42)である。このような教義の下,Aの 9 月18日(丙寅の年 8 月13日)には「南国にお いて唯一誠実な教えは師が設けられた教えであ ると,聖なる教えは諭した。」とあり,些か自 己評価が高い分排他的な意識を感じさせる。 ③ 教化について 人生観や死生観,道徳的な考えなど多岐にわ たって師が諭している。 7 月以降に集中してい る点が特徴とも思われる。 まずAの 7 月19日(丙寅の年 6 月10日)に女 性派の成立を諭す聖言があり,女性にも教えが 開かれた一方で,Aの12月 2 日(丙寅の年10月 28日)には「男女の別を諭した。」とある。 次に,死生観についてみると,Aの 7 月22日 (丙寅の年 6 月13日)「死と日常的な生について 諭し」とAの12月 9 日(丙寅の年11月 5 日)「トゥ オン・トゥオン・タンの死に関する教え。」,さ らにAの11月12日(丙寅の年10月 8 日)の聖言 では「輪廻の劫の不可思議なお告げについて。」 を降したうえで,A・B・Cの12月19日(丙寅 の年11月15日)の聖言では「輪廻を脱するため の修行の必要性。」を,Bの同日のお告げでは「教 えと人の劫や性悪な点を変えることについて諭 した。」とあり,Cの同日のお告げでは「人生 観を諭した。人は死してどこへ行くのか。」と 記されており,輪廻転生と積徳の大切さが述べ られている。 さらに,人生観についてみると,Bの 7 月21 日(丙寅の年 6 月12日)のお告げには「この人 生がすべて修行であると知るなら,世間は天の 言葉を改めることができるであろう。と至尊は 諭した。」とあり,人生は修行であると看做し て天の言葉を解しなさいと諭している。 行動規範については,Cの 1 月16日(乙丑の 年12月 3 日)のお告げに「クゥイ・カオ(Quí… Cao)の詩を降して,忌み避けるべき 5 つ(ngũ… Kỵ)(ネギ,ニンニク,シトロネラ草,唐辛子, 胡椒)を述べた。」として,口臭等のマナーが 求められたことを表している。また,Aの 7 月 17日(丙寅の年 6 月 8 日)の聖言では,「法を 抱き教えを練ることを寿ぐと諭し。」規範を守っ て修行を進めることを称揚している。同じAの 8 日後の 7 月25日(丙寅の年 6 月16日)の聖言 には「徳のある品行を磨かねばならない。」とし, Aの 7 月30日(丙寅の年 6 月21日)の聖言には 「邪淫戒について諭した。」とある。A・Bの 9 月11日(丙寅の年 8 月 5 日)のお告げには「控 えめで謙虚な行い」を諭している。Aの10月12 日(丙寅の年 9 月 6 日)の聖言には「平織の綿 布のものを着用するように。」とされている。 加えて,Bの10月15日(丙寅の年 9 月 9 日)に は「失礼なことをすべきではない。」とのお告 げが下されている。高慢で派手で礼を欠くよう な行為が観られたことの証左であろう。このよ うな個人的な態度ではないが,B・Cの11月27 日(丙寅の年10月23日)のお告げでは,お告げ を願う前に善男善女に聞かせるために聖言を読 まねばならないと「命じて」おり,信徒数が多 くなってきたために同じような請願や質問が多 くなってきたことを窺わせると同時に,教えの 記録の必要性が高まり,お告げの内容の同一性 が求められていることを窺わせる。これを裏付 けるように,Aの12月 6 日の聖言には「教えを 記録せねばならない。」としている。 その他として,Bの 8 月 4 日(丙寅の年 6 月 27日)のお告げには「形あるものは崩れざるを 得ないが,決して自ら崩してはならない。」とか, A・Bの 8 月 7 日(丙寅の年 6 月30日)の聖言 とお告げには「世俗とは邪なものである。」と の見方が述べられている。邪だからこそ救済が
必要であり,修行が求められるということにな る。また,教えを開く届出書の関係からか,A の10月24日(丙寅の年 9 月15日)の聖言では「教 えと政治が一緒に連合することはどのような時 でも全くないと師が諭されるように再び祈願し た。」とある。聖言が優れて政治的なメッセー ジであることの表現とも思われる。 ④ 修行について 修行という言葉が1926年のお告げの中で使わ れ始めるのは11月以降であるが,Aの 8 月 9 日 (丙寅の年 7 月 1 日)の聖言には「人を騒がせ て迷惑をかける門弟の邪さのために,各門弟は 最初にカン・ゾックに行かねばならない(43)と 聖なる教えは諭した。師は三鎮を設け教えの籍 を授け誓いを立てるなどを何度も祈願した。」 とある。言うなれば信徒数の拡大の中で初任者 研修に当たる基礎理解の確認と誓いを立てる意 思確認が必要となっていることを窺わせる。ま た,Aの 9 月29日(丙寅の年 8 月23日)の聖言 には「処世が全く異なるようになるまで,ただ ひたすら学ぶよう諭した。」とある。そのうえ でBの11月12日(丙寅の年10月 8 日)のお告げ で「修行とは何か。」を説き,Cの12月 7 日(丙 寅の年11月 3 日)のお告げでは「修行とは何か を知らない門弟が居る。」と嘆いている。戒律 で縛る必要性と正当化のためとも窺える。 5 .儀式,経典,宗服について ① 経典について Cの 1 月29日(乙丑の年12月16日)のお告げ に「ヴゥオン・クゥアン・キィ氏がチュン,クゥ, タック,サン氏を引き連れミン・リ派(Chi… Minh…Lý)を訪れ,その機会に経典を請うよう に。」と諭され,次の 7 種のミン・リ[明理] 聖会(Minh…Lý…Thánh…Hội)の経典を得たこと が 記 さ れ て い る。 ⅰ,… 念 香 経(Kinh…Niệm… Hương),…ⅱ,四注;浄口注(Tịnh…Khẩu…Chú)・ 浄 心 注(Tịnh…Tâm…Chú)・ 浄 身 注(Tịnh…Thân… Chú)・土地を安んずる注(Công…Thổ…Địa)… ⅲ,開経(Khai…Kinh),… ⅳ,懺悔経(kinh…Sám… Hối),[人果経(Kinh…Nhon…Quả)ともいう],ⅴ, 懺 悔 経 称 賛 の 牌(…Bài…Khen…Ngợi…Kinh…Sám… Hối),… ⅵ,求超経(Kinh…Cầu…Siêu…(懺求超Sám… Cầu…Siêu)),…ⅶ,神・聖・仙・仏功徳称頌牌(Bài… Xưng…Tụng…Công…Đức…Thần…Thánh…Tiên…Phật)(44) Cの 8 月19日(丙寅の年 7 月12日)のお告げ に「トォ氏は日誦経(Kinh…nhựt…tụng),聖像, 天眼をまとめて印刷することを求めた。」とあ り,その中の解説に,この時点までに請うこと のできた経典が記されている。すなわち,ⅰ. 三宗廟(Tam…Tông…Miếu)のミン・リ(明理) 派で請うことのできた各教典。 ⅱ.ゴォ・ヴァン・チュウによって齎された 経典;玉皇上帝経(Kinh…Ngọc…Hoàng…Thượng… Đế)(45),四奉 4 牌(…4…Bài…Dâng)(花(Hoa)…・ 濁り酒(Rượu…trắng)・葡萄酒(Rượu…nho)・茶 (Trà)),機を促す牌(Bài…Thúc…cơ],…。ⅲ. 三教経三牌(Ba…Bài…Kinh…Tam…Giáo)…;至尊の 命により頭師ゴク・リック・グゥエト(Ngọc… Lịch…Nguyệt]がミン・ス(Mình…Sư)の経典か ら探し編纂した仏教・仙教・儒教の経典。さら に,タイ・トォ・タンが印刷した日誦経は『大 道三期普度経』(Đai…Đạo…Tam…Kỳ…Phổ…Độ…Kinh) としてこの年に出版され,その構成内容も記さ れている。ちなみに,1941年 3 月から 7 月まで 興亜仏教協会の派遣でインドシナを訪れた宇津 木二秀氏が現地で収集・請来した宗教資料の中 に,1929年にバック・リュウで発行された『大 道三期普度経』があり,高槻の正徳寺に蔵され ている(46)。 Cの 9 月 3 日(丙寅の年 7 月27日)のお告げ に「ミン・ドゥオン(Mình…Đường)へ経典を 請うことについて。」があり,ミン・リ,ミン・ ス以外にミン・ドゥオンへも経典を請うていた ことが知れる。 ② 儀式・礼拝の仕方 A・B・Cに共通し 2 月25日(丙寅の年 1 月 13日)の聖言に「礼拝と天眼を拝む方法につい
て聖なる教えは諭した。」とあり,Bでは「至 尊は礼拝の仕方を諭した。」とお告げにあり, Cでは「師はカオ・クゥイン・クゥの家で,礼 拝の仕方を諭した。」とある。中礼の時には南 無カオダイ仙翁大菩薩マハータットをとなえ会 釈し,大礼の時はこれを 3 度行う。最初は香と 花を奉げ, 2 回目には酒を奉げ,最後には茶を 奉げるといった内容と拝礼の際の手を合わせて 印を結ぶ仕方を説いている。 B・Cの 9 月17日(丙寅の年 8 月11日)のお 告げで,Bのお告げでは,「至尊は,教宗・掌法・ 頭師の七つの玉座と乾坤の果を祀る方法を諭し た。」とあり,Cでは「師は椅子 7 つと大自然 の果を祀るよう諭し,聖なる方に拝して仕える ことを整えるよう諭した。」とあり,儀礼にお いて教宗・掌法・頭師の地位にいる者七名用の 儀式用椅子と宇宙儀ともいうべき大自然を球面 に表した大きな球体を祀ることを求めている。 教団指導の上位指導者の神格化を図ったものと 思われる。 また,B・Cの11月16日(丙寅の年10月12日) のお告げで,Bでは「聖室の儀礼を設けるよう 諭した。」とあり,Cでは「師は聖室に関係を 持つ儀式を設け,各々の責務を分けるよう諭し た。」とある。仕事内容を分けて担当を具体的 に振り当てている(47)。 さらに,葬礼の儀式についてはCの 8 月28日 (丙寅の年 7 月21日)のお告げに「師はグゥエ ン・チュン・ハウ氏の実母の葬儀を整えた。」 とあり,12月 9 日(丙寅の年11月 5 日)のお告 げでは「尚掌法グゥエン・ヴァン・トゥオンが 死んだ。」とあり,同じ内容でBの12月11日(丙 寅の年11月 7 日)には埋葬式について師はお告 げを降している。これにより,カオダイ教の葬 儀の方法や埋葬式の在り方が定式化された。 また式典につきものの礼楽について,Aの 6 月27日(丙寅の年 5 月18日)の聖言で,「聖な る教えは礼楽曲を諭した。」とあり, 6 月末の 段階で礼楽を伴った儀式の在り方が方向づけら れ,Cの 9 月27日(丙寅の年 8 月21日)のお告 げで「師はベトナムの伝統的な礼楽曲を完全に 保った。」とあり,楽礼は南部の家法であると 述べ 9 月半ばに確立したことを窺わせている。 ③ 天服について ゴォ・ヴァン・チュウを教宗に任ずる目的で 4 月18日(丙寅の年 3 月 7 日)のお告げで天服 の仕立てを諭したことは上述した。Cの 4 月19 日(丙寅の年 3 月 8 日)のお告げでは「フゥオ ン・ヒィエウ女史に教宗の天服を引き続き縫う ように諭した。」とあることから,師は引き続 き翻意を促していたものか道服の拡大方針かと も思われる。ただ,Bの 4 月22日(丙寅の年 3 月11日)のお告げでは,「至尊は天の封じた日 と天服の仕立てを整理するよう諭した。」とあ り,九重台と協天台の高位の天服が整理された ことが「正配師フゥオン・ヒィエウ小史」の中 に記されている(48)。Cの 8 月13日のお告げに「至 尊は,ラム・ゴク・タン(49)女史に天服を縫う ように諭した。」とあることから,フゥオン・ヒィ エウ女史だけでなく,ラム・ゴク・タン女史も 担当しなければならないほどの要望が増加した ことを窺わせる。 ④ 儀式への童子の参加 Cの 9 月11日(丙寅の年 8 月 5 日)のお告げ で,「師はルゥとヒィエウの 2 女史を諭して36 人の童女を集め,経を誦えさせた。」とあり, 内容を見ると童女だけではなく,クゥ・タック・ サンには36人の童子を集めさせて経を唱和させ るように命じている。 ちなみにルゥ女史とはカオ・クゥイン・ズィ エウ夫人のチャン・ティ・ルゥ(Trần…Thị…Lựu) のことであり,ヒィエウ女史とは,カオ・クゥ イン・クゥ夫人のグゥエン・ティ・ヒィエウ (Nguyễn…Thị…Hiếu)のことである。 また,Bの12月29日(丙寅の年11月25日)の お告げで,「李太白は,扶鸞を行うには 3 つの 段階にある童子が要ることを諭した。」とあり, 本文にはフランス語での説明に,直感的,半直
感的,無意識的と記してある。(50) なお,カオダイ教の個々の儀式は徐々に整備 固定化されていくが,概要についてはレェ・チュ ン・ヴゥ(Lê…Trung…Vũ)氏の研究(51)による。 6 .開道事業 Aの「聖言」には開道事業についての具体的 な資料は見られない。B・Cの資料には,「お告 げ」とは別に「政府への開道」という項に「教 えを開く届出書(Tờ…Khai…Tịch…Đạo)」のベト ナム語訳が記載されている。よって,両者の「お 告げ」によって観ることとする。 ① 開道のお告げ Cの 1 月20日(乙丑の年12月 7 日)の「お告げ」 に「教えを開くために気を配っているチュウに 協力しなさい。」とあり,同じくCの 2 月13日(丙 寅の年 1 月 1 日)の旧暦年頭のお告げでは「師 は門弟たちに教えを伝え始めよ」と諭している。 伝道と開教へ向けた意欲は年頭からのものと確 認でき,Cの 8 月 7 日(丙寅の年 6 月29日)に は「教えが開いた,すなわち邪なことが始まっ た。」として,カオダイ教公認壇での伝道を意 味していると思う。そのうえで,B・Cに共通 して,「諸聖を集めて,教えを開いていただか なければならない。」と至尊は諭した。 これが,開道に向けた具体的な意思表示と看 做されると思う。
② 政府への教えを開く(Khai Đạo Nơi Chánh
Phủ)届出書 Cの 9 月29日(丙寅の年 8 月23日)のお告げ に「教えを開く届出書を創った。」とあり,同 日の夜に「グゥエン・ヴァン・トゥオン氏の家 で行われた教えを開く[届出]書を創設する大 会に参加した信徒たちの名簿」があり,出席者 247名中245名の賛同した者の名が記されてい る(52)。 こ の 日, 旧 上 議 員(Cựu…Thượng…Nghị… Viện)レェ・ヴァン・チュンは,この届出書を, 諸道友と協力して聖意(Thánh…ý)に従い,政 府に教えを開くために教えの籍(Tịch…Đạo)に 入ることとし,1926年10月 7 日(丙寅の年 9 月 1 日)になって初めて南圻元帥(Nguyên…Soái… Nam…Kỳ)ル・フォル(Le…Fol)氏宛に送られた。 この[届け出]書の中には教えの籍に名を連ね た諸道友全てを代表した28名の署名が記されて いた。この教えを開く[届け出]書は,フラン ス語で記されており,以下のように翻訳し た。(53) 「 サイゴン,1926年10月 7 日 南圻総督閣下 私ども下記に署名をした一同は,謹んで 英明な貴官に申し上げます。 もともとインドシナ地域においては仏教・道 教・儒教という三大宗教がございまして,私ど もの先人はこの三つの教えを崇拝し,また伝来 の教えをそれぞれ掌握した貴重な宗旨のお蔭で 初めて満ち足りた生活ができています。歴史を 紐解けば,「無を加えれば護を手にし,拾わず にやり過ごす。(Gia…vô…bế…hộ,…lộ…bất…thập…đi)」 という句が記されており,その意味するところ は,ただ安閑とした時の人は夜間家の戸を閉め ずに眠るようになり,道の外に落ちている食べ 物は誰も貪り拾わないということである。 しかし,次のような原因のために,太平の世 を失わねばならないことを換えたい。 1 …,教えを行う多くの人が,みな多くの教えに 分かれてしまっており,多くの派がお互いに 何度も非難し合い,みな一つの如き三教の宗 旨は善をなし悪を避け造化の神(Đấng…Tạo… Hoá)を祀り敬うことをやめてしまっている。 2 …,その上,このそれぞれの教えの正伝を時代 にあうように変え,真伝を失っている。 3 …,常に世論は宗教に関して相互に反対であり, 人類の栄華や貪欲について我々は毎日のよう に観てきた。そのため,今日のアンナン人は 昔のような善を尽くし美を尽くす風習をこと ごとく捨てている。
このような情勢を見て心が痛み,そのゆえに 多くのアンナン人は基本のために,宗教のため に,三教(Tam…Giáo)を合わせて一つとなす(帰 元服一(Quy…nguyên…phục…nhứt))ような方法を 探っており,言うなればカオダイ教(Đạo…Cao… Đài)あるいは大道(Đại…Đạo)と呼ばれている。 衆生にとって幸運なことに,天が人の誓願に やたらついて回っており,玉皇上帝(Đức…Ngọc… Hoàng…Thượng…Đế)は壇に降るごとに教えを諭 し,この南の地域にあって三教を合わせて大道 三期普度を設けた。 三期普度の意味は,第 3 回目の大恩赦(Đại… Ân…Xá…lần…thứ…ba)のことである。玉皇上帝が お告げに降された言葉は,三教の宗旨を普及さ せるために最も大切なことをみな我々に諭した ものである。 カオダイの教えは次のようなものである。 1 ….孔夫子(Khổng…Phu…Tử)の高尚な倫理。 2 ….善を行い悪を退け,常に人類愛を持ち,擾 乱・戦争を避け仲良くして行動する仏教や仙 教(Tiên…Giáo)の道徳。 我々は,ここに大官がご承認いただくために 次のものを提出します。 1 ….玉皇上帝の聖なる言葉の記録の写本。 2 ….聖なる経典(Thánh…Kinh)の翻訳本。 我々の主たる意図というのは,以前のように 和平に共鳴する人類のために,今でもどのよう にかを望むことにある。そのようにできるとい うことは,どのようにしても描き出すことので きない非常に幸福な新しい時代を認めることに なるかもしれない。 我々は多くのアンナン人を代表しており, 我々の行う基礎とここに綴じた教えの籍の届出 書に名前を記し,大官に今日より我々が全世界 の至る所で大いなる教え(Đại…Đạo)を広く普 及していくことをご理解いただき,教えを開く ことをご承認いただきたい。 我々の教えを開く届出書(Tờ…Khai…Đạo)を 大官には,どうぞご承認いただきたい。 記名(28名の名前,業種(職種),在地が 記載されている。(54) 」 この文書のベトナム語訳を読むと,三期普度 の説明の個所に,「 3 度目の恩赦の意味である 大道三期普度(Đại…Đạo…Tam…Kỳ…Phổ…Độ)とい う名は,この新しい宗教の創立に署名した者達 を 手 助 け に 来 ら れ た 最 高 の 精 霊(l’Esprit-Supreme)によって与えられたものです。最高 の精霊は玉皇上帝,通称はカオダイと呼ばれる 「極めて高位の全能の神」の名の下に来られる。 字を書く霊媒者を仲介とすることで,玉皇上帝 はこの 3 つの古代の宗教の麗しい戒律を示し, うちに包まれた目標のために尊い訓戒を署名者 達に伝えます。」(55)などの原文にはない解説が 記されている。 三教合一と大道三期普度による平和で睦まじ い社会の再生を願った開道理由となっている。 南圻政府の許可が下りる前の10月13日(丙寅 の年 9 月 7 日)のお告げで,「師は『衆生に普 く告げる(Tờ…Phổ…Cao…Chúng…Sanh)』を校閲し, 色々助言した。」と記している。
③ 大道開道の大礼(lễ Khai Mình Đại Đạo)
Cの10月13日(丙寅の年 9 月24日)のお告げ で,「師はヒィエウとニュウに,ゴ・ケン寺に おいて教えを行う準備をするよう諭した。」と ある。準備内容に寺の改修や門から正殿車止め まで車が通れるように200m程の石畳の道や船 着き場を設けるなどが用意されたことを鑑みる と,11日間でできる準備ではなく,後代の潤色 か日時の誤りとも考えられる。 B・Cの11月18日(丙寅の年10月14日)のお 告げに「至尊の開道の日に,聖なる教えは教え の女性派の籍(Tịch…Đạo…Nữ…Phái)を開いた。」(56) とあり,この日が 3 日間に渡る大礼の初日であ ることが知れる。 また,その解説の中に「開道の日に至るカオ ダイ教の天が封じた職色」(57)には,上述した補 充褒賞人事が反映されている。加えて,後述す る『法正傳(Pháp…Chánh…Truyền)』の創設も合 わせ行われている。計画通りの教団の開設で