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日本における生協の成立過程とその運動の継承 "陸の孤島"における辰巳団地生協に着目して

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Ⅰ.はじめに

本稿では、第二次世界大戦以降、特に 1960 年代以降に全国で展開された「市民生協」1)のうち、 東京都内、とりわけ陸の孤島と呼ばれた東京湾岸の地域での生協運動の成立過程に注目し、本 来非営利・協同セクターの重要な一角を担う生協の存在意義を検討するとともに現代の生協運

日本における生協の成立過程とその運動の継承

-“陸の孤島”における辰巳団地生協に着目して-

山口 浩平

How Japanese Consumer Co-ops formed and developed in high

economic growth period: Case of Tatsumi Danchi Co-op

Kohei YAMAGUCHI

Abstract

This paper recognized the Japanese consume co-operative movement in the period of high economic growth as the prototype of the modern social business and consider its continuity. For consideration, this paper focus on the formation process of the Tatsumi Danchi Co-op, which was established in 1970 by the residents of housing complex in Tokyo metropolitan area. In that period Japan had experienced high economic growth and many people had moved to Tokyo metropolitan area to get job. While the supply of housing had proceeded rapidly, the development of life infrastructure that supports the lives of residents had been insufficient. Especially the height of the prices of food due to the lack of grocery store was plagued many of the residents. In order to solve this problem, residents themselves had established a co-op and formed unique business model that purchased goods in its own route and sold them to members is considered as the innovation of the consumer movement of Japan. By in detail study of the process of establishing a co-op to solve the problem of the residents themselves facing, it is possible to confirm the continuity of the modern cooperative movement and node of the past cooperative movement.

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動やソーシャル・ビジネスとの連続性について考察する。 ここで言う「陸の孤島」とは、高度経済成長期、急増する住宅ニーズに対して生活インフラ が十分に整備されないままに大規模な団地が整備された地域を指すが、特に本稿では東京都江 東区・辰巳団地とそこを発祥とする辰巳団地生活協同組合(現・パルシステム東京)を検討対 象とする。

Ⅱ.生協の成立過程とその背景

直接的には高度経済成長期における様々な困難、特に物価問題を住民自身の力で解決するた めの手段として設立された辰巳団地生協であるが、そこには戦前から続く日本における生協運 動との連続性が確認される。本節では、辰巳団地生協の成立過程に関する論考に入る前に、そ の設立の前提にある日本における生協の置かれてきた背景や前提条件を、歴史を概略すること によって辿っていく。 Ⅱ.1.日本における生協の成立過程:戦前から戦後 日本における最初の生協2)は 1879 年に東京で設立された共立商社、そして共益社であると され、その後大阪共立商店、神戸商議社共立商店が相次いで設立される(日生協 50 周年歴史 編纂室編、2003: p15)。これら第 1 期の生協運動は当時の物価高騰に対する対抗として米、薪 炭等の生活必需品の供給を行うがその規模は小さく、1880 年代前半にはその多くが消滅する。 それに次ぐ第 2 期は労働者を主体とした「共働店」が鉄工組合など労働組合運動を基礎に東京、 横浜をはじめ約 15 の都市で形成される。経営的な未熟さと、1900 年成立の治安警察法が労働 組合運動に深刻な打撃を与えたことから、また多くの生協が衰退していく3)。そしていくつか は現代の生協の源流ともなる第 3 期の生協運動は 1919 年に吉野作造らによって東京に設立さ れた「家庭購買組合」、1921 年香川豊彦らの手動により神戸に設立された「神戸消費組合」(現・ コープこうべ)を嚆矢とする。主としてホワイトカラー、官僚等の高所得層をその組合員とす る組合があった一方で、プロレタリアートによる無産者生協、大学生協、医療生協など各種生 協の設立が相次いだのが 1930 年代中盤までの時期である。その後戦時体制に突入する中で主 要物資は配給制へと転換、米などの配給権を失い、さらに左翼勢力の影響下にあるとみなされ た組合は警察の介入・弾圧を受け、多くの生協は事業を停止、解散に追い込まれていった。 第 2 次世界大戦の終戦後、1946 年から 47 年にかけては雨後の筍のように生協が設立され る。1947 年には組合数 6503、組合員数 297 万人に達する。これらの生協は地域・職域とも主 たる目的は食料の確保であった。例えば 1946 年 5 月に設立された下馬三丁目生協は、住民の 7 割にあたる 908 世帯を組織、生活物資の配給を公正に行うために設立された(竹井、1998: pp.32-33)。このような町内会型生協の多くは、生活物資が配給から一般の販売へと切り替わ る中で姿を消して行ったが、下馬三丁目生協のように地域に密着した事業体として継続する例 もあった。また、同時期には戦前からの流れをくむ神戸消費組合、家庭購買組合、江東消費組合、

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城西消費組合等は敗戦直後から新たな組合づくりに取り組み、1948 年の消費生活協同組合法 の成立を経てその再建を目指してきた。 Ⅱ.2.「市民生協」の登場:1960 年代以降の急拡大 本稿の中心的な課題である新たな生協群は、日本の高度経済成長期に生じた社会的課題な困 難に対応する形で、消費者運動とともに登場してきた。1960 年代前半には、大学生協による 地域生協支援の取り組みとして、同志社大生協が洛北生協(現・京都生協)を支援、北大生協 が札幌市民生協(現・コープさっぽろ)を支援、そして労働組合が中心となって建設されたこ ぶし団地では大学生協関係者の人事派遣により所沢生協が設立される。これらの支援の成功に より、この後大学生協全体の方針として展開されることとなる。そして 60 年代後半の東京で は法政大学生協を中心に桐ケ丘団地生協を、早稲田大学生協が戸山ハイツ生協(両生協とも現・ コープみらい)を支援する。一方で、大学生協等の既存生協の支援を受けずに設立された、ひ ばりが丘生協、緑ケ丘団地生協、そして本稿で検討する辰巳団地生協などの事例もある。1970 年代には生協設立が拡大、70 年代を通じて全国で 128 の生協が新設された。1970 年に 312 万 人であった組合員数は、1979 年には 657 万人、同期間の総事業高は 1960 億円から 1 兆 1081 万円まで急拡大した。この間の急成長を牽引したのは特にこれら主婦層をその組合員とする新 興の生協であり、後に詳述する班別予約共同購入という事業モデルを確立したことがその要因 として大きい。また、高度経済成長期の消費者の困難、その最大の眼目は急激な物価高と食品 の安全性であり、市民生協群が安全性と低価格を実現するあらたな流通機構と商品を組合員自 身の参加により開発し、ニーズに応えてきたことである。 Ⅱ.3.戦前、戦後にかけての生協と市民生協との連続性 戦前第 2 期の生協運動、そして労働運動を主導した一人である片山潜は、生協(共働店)の 意義を次のように指摘している; 「共働店の主意とするところは何ぞや、一口に云えば生産者と消費者との間を近接ならしむ るあるのみ。…云いかえれば仲買人、問屋、卸売、小売業等の繁雑なる手数を省き、消費者が 生産者より直接に物品の供給を受け、廉価にて物品を購入れることなり…」 また、当時の主体である労働者自身が共働店のサービスを利用することにより豊かな生活を 獲得すること、同時に共働店自体の利益やその繁栄が社会変革へとつながることを強調する。 「…共働店の会員は其様にして、経済上の独立を維持すべく、其様にして経済上の余裕を獲 得すべし。…況んや、共働主義は現時の社会の幣制を変革して、円満和楽の経済を建立すべ き将来の理想たるに於をや、此の事に就いては尚、機を得て深く論ずることといえども、茲 には唯共働店の利益をあげて、世の人に示すことに爾り。」(片山潜生誕百年記念会編、1959: pp.211-212) 片山の共働店に関する説明は現代の生協の存在意義を考察する上で多くの共通点を有して いる。第 1 に、生協のビジネスとしての側面、つまり問屋等を経由しないいわば「中抜き」に

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よってサプライチェーンを短くし、低コストで商品を供給できる(「生産者と消費者の間を近 接ならしむ」)ことを指摘している点。これは、全国の多くの生協の競争優位の源泉の一つと なった「産直」という事業展開を示唆している。第 2 に、組合の事業により低価格で商品を手 に入れられることによる組合員の経済的利益を追求することを指摘している点。現代の協同組 合とは組合員層が異なり、労働者が主体であり必ずしも明示的な共通性があるとは言いがたい が、特に草創期の市民生協が物価問題と消費者主権をその事業上の重要な視点としていたこと を考えれば、そこには現代の生協の存在意義の要素として含めることができるのではないか。 第 3 に、このような生協の事業が利益が上がり、組織が発展することが社会変革(「円満和楽 の経済」)につながる、という指摘である。生協を経済主体として捉えつつ、その成功によっ て経済を変革するという意志は、単に運動体ではない主体としての現代の生協においても強い 共通点を持つだろう。

Ⅲ.辰巳団地の成立とその背景

辰巳団地生協はその名のとおり、現在の江東区辰巳に建設された都営住宅である辰巳団地の 住民を中心として設立された。この節では辰巳団地生協の成立過程を検討していくが、本稿の 課題である生協の存在意義を考察する上では、辰巳団地が建設された社会経済的な背景、地理 的特質等についてまずは概観しておく必要がある。なぜなら、生協は片山潜の言葉を借りるな ら「消費組合の起るは生活難の時」(岸本英太郎編、1956: p117)であり、当時の辰巳の住民 が抱えていた生活難と生協との関係の検討が不可避であるからである。 Ⅲ.1.東京湾の開発と住宅の供給:高度経済成長期の人口移動に対応して 東京湾をめぐる開発の歴史は、遡れば江戸時代以前となるが、本稿では辰巳地域(7 号地お よび 12 号地)の開発を中心に検討していく。東京湾の開発は、築港建設をその主眼として開 始された。隅田川、荒川等の河川から自然に運び込まれる土砂から東京湾での船舶の出入りに 困難をきたしたことから、東京府は 1883 年以降大規模な澪みおさらい浚事業を開始、1895 年ごろまでに 完成した。この事業の浚渫によってできたのが現在の月島である。さらに、水運上の不便を除 去し東京築港を進める計画は、3 期にわたる隅田川口改良計画へと至る。この工事は 1935 年 の竣功まで巨額の工費を投じて実施された。この過程、特に第 3 期の改良工事において計画さ れたのが大規模な埋立工事である4)。これによって造成された土地は、港湾施設に供する以外 にも約 100 万坪と膨大であった。その活用について、東京市会議員の寺部頼助は 1932 年の講 演で以下のように述べた; 「深川埋立地の前方地帯の如きは飛行場、競馬場、野球其の他の運動競技場を設備とすると か、或は、遊園地、劇場及び活動写真、或は国際的旅館といふ様なものを設けて歓楽地域とす るのでなければ、将来到底発展しない」(片木篤、2010: p53) その後 1933 年に東京市長に就任した牛塚虎太郎の下で計画された「東京市埋立地諸施設計

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画試案」においては、運動施設と商業施設を中心に東京市庁舎の移転も検討されていた。これ には、戦争の拡大により幻となった 1940 年の東京へのオリンピック招致にも繋がっていくも のである。 第二次世界大戦により東京港の都有港湾施設の約 90% は GHQ によって接収される。東京回 漕協会及び都議会を中心にその解除運動が展開されていく中で、順次返還がなされ、1959 年 までに岸壁全域の接収が解除されることとなる。返還に並行して実施された「東京港港湾計画」 (1956 〜 1961 年度)においては、船舶の航路拡張と並び、貯木場、道路・橋梁の整備、防波 堤の新設が行われ、さらに埋立地を造成する工事が進められた。この計画において、辰巳(7 号地・12 号地)他の地域は主として住宅用地としての造成が行われた(東京都、1995: pp80-81)。 戦後一貫して人口が増え、住宅不足の解消のために大量の住宅建設が行われた。高度経済 成長を迎えた 1960 年代には東京の人口は 1000 万人を突破、大規模な宅地開発を促進する上 で 1955 年には日本住宅公団が設立され、都市近郊に次々と公団住宅を建設した。臨海部にお いて初期に建設されたのは公団晴海団地5)がある。1966 年には住宅建設計画法が制定、同法 の下で住宅建設 5 ヵ年計画が策定され、公営住宅の建設戸数を策定、「一世代一住宅の確保」 を目標とし 100 万戸の住宅建設を推し進めた。この計画の下に都営辰巳団地は、1967 年から 1969 年にかけて施行された中層(5 階建て)中心の大規模団地(3326 戸)である。また、同 時期には都営東雲 1 丁目アパート(529 戸)、豊洲 4 丁目アパート(537 戸)、港湾労働者向け の辰巳港湾住宅(544 戸)が建設されており、臨海地域が郊外の大規模団地と並んで、一大住 宅建設拠点として位置づけられていたことが分かる。また、1963 年の工場制限法やその後の 公害対策基本法、東京都公害防止条例等により工場が次々に転出した。この跡地もまた多くが 集合住宅の建設にあてられた(東京都江東区編、1991: p300)。このような取り組みの結果と して、1973 年の住宅統計調査によると、都内の住宅数は約 379 万 6000 戸、世帯数の約 366 万 4000 世帯を上回る結果(東京都編、1995: p239)となり、住宅の量的充足は達成されている。 一方でその住環境、特に生活インフラの整備は十分とは言えない状態があった。ここに、辰巳 団地における生協設立の背景がある。 Ⅲ.2.辰巳団地の困難 「どこから行くにも、橋を渡らなければならない。こんなところから、だれいうともなく” 陸の孤島”と呼ばれている…(中略)…交通機関といえば東京駅南口へ行く都バスだけ。『ちょっ と買い物に』といえば半日仕事である」(『東京タイムス』1971 年 2 月 7 日) 1969 年に完成した都営辰巳団地の住民が置かれていた困難は、この記述に集約されている。 交通、教育、食品の購入、生活に必要な基盤が十分に整備されないまま竣工した辰巳団地の歴 史は、住民による「対都交渉」運動の歴史でもある。団地自治会の発行してきた機関誌『辰巳 団地広報』(のちに『たつみ広報』へと改題)の各号から、住民の抱えていた主な課題を抽出 してみたい。

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入居開始後間もない 1970 年 2 月、自治会による第二回対都交渉のテーマは、バス路線の新設・ 拡充、港湾局管理地域の大気汚染問題、そして後述の辰巳団地生協の店舗取得に関してであっ た。特にバス路線に関しては、「…朝夕のラッシュ時にはバスに乗れず、東雲まで歩く人もい る…」(『辰巳団地広報』第 5 号、1970 年 5 月 20 日)という状況に対して、従来路線の急行増 設、錦糸町・新橋行きの路線新設を要望し、同年 7 月には錦糸町線が開通している。その他、 虫の異常発生への対処、住民アンケートに基づいた保育園・幼稚園、学童保育等の整備、外灯 の整備補助等、多岐にわたった要望がなされている。 次いで 1971 年には、地下鉄 8 号線(現・東京メトロ有楽町線)の延伸計画に対して、辰巳 への駅誘致を求めること、工場規制、駐車場の設置などが加えて要望項目に上る(辰巳団地広 報)第 10 号、1971 年 2 月 1 日)。また、特に公害に関する問題意識は鮮明で、首都高速 9 号 深川線の建設中止・路線変更運動は大規模な住民集会に発展している。運動の成果としてこの 時点までにヘリポートの移転、三菱製鋼の集塵装置設置などを実現してきた。 このように、住宅建設 5 ヵ年計画で人口増に対応し、急造された「郊外」における団地には、 住民の生活に対する視点が明らかに不足していた。特に辰巳団地は、返還後の埋立地という条 件の下で起こりえる課題を想定しないままに造成と入居を進めたが故に、まさに”陸の孤島” と化してしまったのである。それらの課題に対して、団地住民による自治組織が行政に対して 度重なる要請を続け、一つ一つ問題解決を図ってきた。このような住民運動を背景に後述する 生協の設立がなされてきたのではないかと考えられる。ただし、ここから検討する生協の設立 は、行政機関に要請し、勝ち取るという要望型の運動ではなく、住民自らが事業を通して問題 解決を図る活動である点に注目したい。このことは、後に検討するように、現代におけるソー シャル・ビジネス等の設立過程との共通性を有していると考えられる。 Ⅲ.3.辰巳団地生協の設立、第 1 号店の開店まで 数々の問題を抱えていた辰巳団地において、住民が想定していなかった最大の問題は、物価 高であった。それは、住民の数に対して決定的に商店が少ないこと、かつ、交通が不便である がゆえに他の選択肢を持ちにくいということから生まれた。約 3300 戸、1 万人の住民に対して、 団地自治会の調査によると常設の商店は団地の 1 階を利用した 24 店6)のみ。その他、露天商 やリヤカーの移動販売はあったものの、到底需要を満たせる程ではなかった7)。結果的にそれ は商品の値段やサービスの質に反映される結果となった。 そこで、辰巳団地自治会の常任監事であった長谷川泉太郎氏と、統一自治会の会長である下 山保氏らは、住民による生協の設立を提案する。独自のルートで商品を仕入れ、それを住民に 販売する仕組みである。これに対して長谷川氏の自宅にはいやがらせの電話が入るなど、即座 に妨害は始まったという(『東京タイムス』1971 年 2 月 9 日)。辰巳団地生活協同組合設立準 備会の機関誌『物価と生活』の第 1 号の発行は 1970 年 1 月 10 日、3 月の設立総会までに急ピッ チでの準備が続く。第 3 号(1 月 30 日発行)に掲載されたその設立趣意書には、以下のよう な記述がある;

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「…辰巳団地に於ても、独占的商店の物価高により我々の家計は全くの破局状態にあると いっても言い過ぎではありません。収入の伸びが物価高に追いつかず、こうした状態をただな がめているわけにはいきません。私たちは自分たちの生活を自分たちで守っていく必要があり ます。その最も適切な方法として生活協同組合を設立しようではありませんか…」 この設立趣意書に対して、2 月 10 日までに 1703 名の住民による賛成署名を集める。その後 街区ごとに代表者会議を開き、住民の意見を聴きながら設立準備を続ける。同年 3 月 5 日、辰 巳小学校8)において創立総会を開催。1070 名の組合員に対して 750 名の出席(委任状含む) を得て開かれ、4 月 3 日には都知事認可、4 月 23 日には法人登記を行い法人化する。この認 可においては東京都経済局消費経済部の「全面的な応援」(『東京タイムス』1971 年 2 月 11 日) があったという。 辰巳団地生協の当面の目標は、団地内に 100 坪の店舗を開店することであった。辰巳団地の 第三期工事として、高層(12 階建)住宅が建設されつつあり、その 1 階部分を 15 区画に分け て商店を誘致する計画があり、その一画を店舗とする方針である。しかしこの計画は、容易に は実現できなかった。辰巳団地内の商店会会長を含む 18 名からの、生協の出店に反対する陳 情書が議員を介して都議会へと届いたことで、経済局商工部が生協へ出店の見合わせを要請し たのである。同じ東京都の経済局内でも消費者保護の立場から生協設立を推進する消費経済部 と、中小企業等の支援・育成を行う商工部との緊張関係が伺われる事例である。さらに新たに 造成される 15 区画のリーシングについては、経済局にも都営住宅を管掌する住宅局にも権限 はなく、建設を行った首都圏不燃公社に任されていたことも問題を複雑化させていた。結果、 生協の設立前から取り組まれてきた店舗開設申請については 1 年半も棚上げとなった。この問 題を解決したのは当時の美濃部亮吉知事の「ツルの一声」(『東京タイムス』1971 年 2 月 14 日) であったという。結果、辰巳団地生協の店舗開設を要望するという意向が経済局から住宅局へ 伝えられ、首都圏不燃公社・優先分譲選定委員会に要望され、1970 年 11 月には優先分譲を認 める旨の通知が生協に届く。ただし要望した 5 区画 100 坪には至らず、2 区画 40 坪の決定となり、 区画は最も不便な棟外れとなった。 店舗出店をめざして組合員による陳情活動を続けることと並んで、辰巳団地生協は事業活 動も開始している。一つは産地から直接仕入れた生鮮食品を販売したり、メーカーによる展 示即売会を実施する事業である。1970 年 5 月 31 日に行われた生鮮品の即売会では、市価より も 3 割程度安く鮮度も良いということで、仕入れた「二トンが一時間で売り切れ」(『毎日新 聞』1970 年 6 月 1 日)と好評を博した。もう一つの事業はドライ品を中心とした「計画購入」 (予約共同購入)である。1970 年 5 月の申込書での取扱商品は、全国生協のプライベート・ブ ランド商品を中心にサラダ油、醤油、バター等の基礎的な食品、洗剤、石けん等の日用品まで 26 品となっている。 12 月に店舗は取得できたものの、権利金および内装費用計 1500 万円の調達が次なる壁であっ た。組合員約 1200 人、出資金 160 万円の生協にとっては大きなハードルとなったが、1200 万 円を生協役員個人が信用金庫等から借り入れることで調達したほか、生協活動や店舗運営の経

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験者の協力により、1971 年 2 月 21 日、第 1 号店が誕生した。 このように、辰巳団地生協の設立の中心的課題は、”陸の孤島”ゆえの物価高への、住民自 身による対抗という側面があった。それは、行政への要求的な活動に留まらず、適切な価格で よい品を購入したいというニーズを持つ当事者である住民自身による消費者組織であったと 同時に、事業形成であったことが重要である。 Ⅲ.4.辰巳団地生協からたつみ生協へ、拡大期の特徴 1970 年の設立以降、辰巳団地生協は拡大を続ける。その歩みを表 1 にまとめるが、特徴的 な点を三つにまとめて指摘しておきたい。一点目は、地域的な展開である。辰巳団地生協はそ の名のとおり団地住民の生協として設立されたが、1973 年度には名称変更を行い、「たつみ生 活協同組合」となる。前年度から辰巳団地以外にも、江東区内、東雲、大島等の地域へとその 組織を展開していたことからも、より広い範囲での事業展開を意図していたことが伺われる。 1973 年度には江東区南砂に事務所を開設し、翌年度には店舗も開店させている。 二点目は、連帯の強化である。東京都内ではたつみ生協の設立以前から戸山ハイツ生協と桐 ケ丘団地生協の合併によって設立された都民生協や東都生協、生活クラブが先行して事業を展 開しており、特に都民生協との規模の違いは明白であった。そこでたつみ生協をはじめとする 主として 70 年代以降に新設された後発・小規模生協の戦略は、事業面での協力関係の強化で あった。1975 年度にたつみ生協は東京及び近県の生協設立を支援したほか、1976 年度には首 都圏一都四県、19 生協で事業連(首都圏生活協同組合事業連絡会議:現在のパルシステム生 活協同組合連合会)を結成、一部の商品の共同仕入れ、商品開発、人事交流等を進めていく。 特に地理的に近い江戸川生協・あけぼの生協との連携は深化し、1988 年に 3 生協は合併、E コー プという名称となる。このような小規模生協の連帯の背景には、多くの生協が抱えていた経営 危機がある。たつみ生協もまた、累積赤字を解消し、はじめて純利益を計上したのは 1980 年 度、創立から 10 年を要した。事業連の多くの生協が抱えていた課題は、大規模生協との競合 や共同購入における OCR 導入等の技術革新等の外的条件の変化もあったが、内的条件として 「生協事業や経営の知識やスキルに対する軽視」(下山、2009: pp52-53)等、経営の素人集団で ありつつ、内部の意見対立が相次いでいたことがあげられる。 三点目は運動の展開である。団地自治会との強い連携のもと展開されてきたこと、また、た つみ生協設立の最大の眼目は高物価の解消であり消費者運動としての側面を強く有していた ことが、その後の多様な運動の展開への基礎となっている。団地生協としての色合いの濃かっ た初期は、自治会のすすめる高速道路建設反対等の運動が中心であった。その後 1970 年代後 半以降は合成洗剤の反対および独自の環境負荷の少ない石けん等のプライベート・ブランド商 品開発、一般消費税の導入反対、平和運動等、現在に至るまで継続される各種の運動へと展開 されている。 このような運動を支え、組織化していた前提にあるのは地域ごとに展開されていた組合員組 織である。図 1 に示すとおり、たつみ生協に限らず日本の生協の多くは、店舗・共同購入に関

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表 1:創設から辰巳団地生協(たつみ生協)のあゆみ 年度 主な出来事 到達点 年度目標 主な活動 1970 昭和45辰巳団地生協発足(3/5)都知事認可(4/3) 法人登記(4/23) 辰巳店開店(2/21) 組合員数(人) 供給高(千円) 班 出資金(千円) 1,385 19,731 -1,802 生協店舗100坪を獲得し、 生協として自立しよう ・東都生協から人材を受け継ぎ事業開始・都営団地における生協店舗の分譲(3番目) ・展示即売会、計画購入の開始 1971 昭和46班作りはじまる牛乳の計画購入開始(10月) 米の産地直結購入 臨時総代会で定款変更 組合員数(人) 供給高(千円) 班 出資金(千円) 1,550 158,668 -3,211 辰巳団地全住民が組合員に なろう ・各号棟ごとに班組織・中期活動計画、定款変更(東京都全域を範囲に) ・店舗、セルフサービス導入 1972 昭和47酒・米の免許取得労働金庫との取り組み開始 生協診療所実現 組合員数(人) 供給高(千円) 班 出資金(千円) 2,160 189,992 -5,113 酒類販売免許を組合員の力 で獲得しよう ・東雲、塩浜、東砂、大島へ組合員組織拡大・消費者大会への参加 ・生協ローンの実験 ・出資配当の実施 1973 昭和48たつみ生協に名称変更江東事務所(南砂)開設 生協診療所実現 組合員数(人) 供給高(千円) 班 出資金(千円) 3,332 305,980 -6,194 東部地区における、たつみ 生協の位置を確立しよう ・牛乳班(60班)スタート、江戸川、墨田へ拡大・辰巳店坪当たり供給高全国一に ・高速9号線建設反対運動 ・出資配当の実施 1974 昭和49本部(センター)店開店(12/16)南砂店開店(3/21) 鶏卵の共同購入スタート 組合員数(人) 供給高(千円) 班 出資金(千円) 4,500 431,320 -10,260 本部センターを作り生協の 力を強めよう ・労金出張窓口開設・南砂店をコンビニエンス1号店として開設 ・組合債の実施 1975 昭和50PB開発開始、醤油、豆腐等江戸川事業所の開設 組合員数(人)供給高(千円) 班 出資金(千円) 5,000 729,582 -13,363 生協運動の質を高め、組合 員の結集力を強めよう ・組織委員会(委託による有給制)の確立・東京・近県の8生協づくりに協力 ・友好生協との共同商品開発 1976 昭和51共同購入センター(江戸川)開設首都圏19生協で事業連を結成 定款変更、副理事長制導入 組合員数(人) 供給高(千円) 班 出資金(千円) 4,724 895,240 -16,639 - ・南砂店、青果売り場新設 ・事業連事務局設置 仕入、商品開発、人事交流 ・商品開発委員会設置 1977 昭和52 組合員数(人)供給高(千円) 班 出資金(千円) 5,057 988,630 -19,247 - ・共同購入部 運営委員会設置(江戸川・江東) ・粉石けん「水ばしょう」供給開始 1978 昭和53本部用地200坪を購入(都融資)生鮮三部門パックセンター設置 事業連畜産 設立 組合員数(人) 供給高(千円) 班 出資金(千円) 5,454 1,087,070 -21,124 中期供給計画 1982年度まで に32億、16,800人を目標 ・共同購入で牛・豚の産直を継続できる体制・江戸川倉庫内に産直肉処理施設を開設 1979 昭和54東雲店開店(4店舗目)本部1Fに労金辰巳出張所開設 組合員数(人)供給高(千円) 班 出資金(千円) 6,153 1,213,493 -23,962 ・累積赤字(800万円)解消 ・店舗班の取り組み ・一般消費税反対の決議、運動 1980 昭和55勝どき店開店(5店舗目) 組合員数(人)供給高(千円) 班 出資金(千円) 6,996 1,479,313 253 28,220 たつみ生協10周年 ・346万円の純利益 ・「すべての合成洗剤の追放」を最大課題に ・江戸川・あけぼの生協と共同仕入れ、職員交流 ・東部職域生協との統合に向けた話し合い 1981 昭和55コンピュータ導入反核・平和運動開始 労働組合結成 組合員数(人) 供給高(千円) 班(共/店) 出資金(千円) 7,783 1,903,588 290/65 33,430 生協に結集して、暮らしと 健康、そして平和を守ろう。 人と人、人と地域の結びつ きを強めよう。下町によりよ いくらしと生協を。 ・利用割戻しの出資金振替増加 ・店舗班の組織化 ・教育文化活動の重視、生協学校開催 ・PB強化、牛乳・シャンプー・石けん 1982 昭和55石島店開店千石センター開設 パート労組結成 組合員数(人) 供給高(千円) 班(共/店) 出資金(千円) 9,288 2,249,631 359/220 46,763 平和とよりよい生活のため にくらしを守る活動に全力 を! ・地区ごとに運営委員会設置 ・国連軍縮特別総会に代表派遣 1983 昭和56共同購入週1回配送確立事業連合ハム工場完成 組合員数(人)供給高(千円) 班(共/店) 出資金(千円) 10,290 2,640,105 446/278 69,968 かけがえのない、いのち(健 康とくらし)と地球(平和と環 境)のために いま協同組合 が問われている ・出資金150%の伸び ・行政区・店舗別に運営委員会設置 ・あけぼの生協との共同仕入れ、低価格化 ・産直品、無添加ハム、水産、低農薬米の強化 出所:辰巳団地生協(たつみ生協)各年度総代会議案書より著者作成

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わらず「班」をその運動と機関運営、そして事業利用の基礎単位に据えてきた。組合員は基本 的に班に所属し、班長の下に班会を定期的に開催、生協の運動方針を理解したり、同時に生協 への要望をまとめる場となった。班の代表は地域や店舗別に組織された運営委員会に参加、さ らに大規模な生協では行政区をまたいだ規模(ブロック等と呼ばれる)の委員会に参加、それ ぞれに代表が参加するピラミッド構造である。この構造の中で、総代会で決定された事項に基 づいた理事会での運営や方針が伝達され、同時に組合員の要望や意向が汲み上げられることと なった。また、環境、平和等に運動のテーマが多様化する中で、分野別の専門委員会が設けられ、 より専門的な議論や運動方針の策定が行われることとなる。この構造が持っていたもう一つの 機能は組合員の人材育成である。日本の生協の特徴は、出資金を支払い、事業を利用すること、 自らの代表としての総代を選出することのみならず、組合員の中から理事や監事を選出し、経 営管理にあたるということである9)。それゆえ、生協の組織・事業に一定の知識や熱意を持ち、 その運営と管理を担う人材を排出することは、生協の機関運営上不可避なことであり、このピ ラミッド構造の中で班長、地域の運営委員長等を経験した組合員が次期の理事候補となるとい う一種のキャリア・パスが形成されてきたことが機能してきたと言えるだろう。 たつみ生協の場合も、組合員組織の拡大に伴い、1975 年には一定の委託料を支払った組合 員による組織委員会の支援を行うほか、1976 年には組合員自身が商品開発に携わる商品開発 委員会を発足させる。1983 年には行政区ごと、また店舗ごとに運営委員会を設置、図表に示 す生協の運営モデルへと近づくことになった。 Ⅲ.5.たつみ生協からパルシステムへ:1990 年代の事業革新 図 2 に示すとおり、たつみ生協をはじめあけぼの生協、江戸川生協の東京都の区部東部を拠

図1 地域市民生協の組合員組織のモデル

地域(店舗)別委員会

(班の代表の集まり)

ブロック委員会

(委員会代表の集まり)

法定機関

出所:大窪(1994)に、著者一部加筆

組合員

専門委員会

理事会

監事

総代会

図1:地域市民生協の組合員組織のモデル 出所 : 大窪(1994)に、著者一部加筆

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点とする 3 生協は 1988 年に合併し、E コープとしてあらたなスタートを切る。次いで、東京 都の市部で展開していたタマ消費生協、北多摩生協、ふれあい生協(旧:調布生協)、西多摩 生協、立川生協の 5 生協も 1993 年に合併し、ジョイコープとなった。1987 年に首都圏生活協 同組合事業連絡会議は首都圏コープ事業連合へと名称変更(現在はパルシステム生活協同組合 連合会)、その名のとおり会員生協の共同事業を担う組織として機能し始めたこと、さらには 1990 年に法人化が叶ったことにより、首都圏コープ・グループ内で、都県内での再編が進ん だ。同時期には、1992 年に千葉県では柏市民・下総・花見川生協の合併によりエルコープ(現・ パルシステム千葉)が、山梨では山梨県労働者生協・山梨県郡内労働者生協が合併してコープ やまなし(現・パルシステム山梨)が設立されている。その後、東京都では 1996 年に E コー プとジョイコープが合併、東京都全域で事業展開を行う東京マイコープが設立された。その後 2008 年には名称変更を行い、パルシステム東京となり、現在に至る。 これらパルシステム・グループ10)の急速な発展のきっかけとなったのは「個人対応型無店 舗事業」(パルシステム)への取り組みであった。80 年代後半までに首都圏の多くの生協は共 同購入に取り組み、その事業的な精度を上げていった。一方で、従来の日本型生協の班を中 心とした仕組みは、家族形態、特に世帯人員数の減少、主な担い手であった女性の就業形態 の多様化等の要因で、現場では「一人班、二人班の共同購入班が多数であった」(田口、2004: p150)というように、すでに限界、あるいは飽和状態であった。そこで、80 年代後半より模 索され、1990 年より実験的に取り組まれたのが個別配送(個配)である。その後 1995 年には 1946 下馬三丁目 1956 下馬 1970 辰巳団地 タマ消費 1971 小金井 北多摩 1972 あけぼの 1973 たつみ 1974 立川 調布 1975 西多摩 1976 江戸川 1988 ふれあい 1993 1996 2008 出所:著者作成 Eコープ ジョイコープ 東京マイコープ パルシステム東京 区部 市部 図2:パルシステム東京とその前身生協 出所 : 著者作成

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パルシステム全体で取組む事業システムとして採用、共同購入とは別の独自規格、独自商品と して展開されることとなる。個配事業が急速な伸びを見せた背景は、当時他生協では取り組ま れていなかったカタログの複数化等に取り組んだことで単に共同購入から個配へのシフトで はなく、前述のような組合員のライフスタイルの変化にいち早く対応したことがある。このこ とは、日本型生協の運動と事業の起点であった「班」のあり方に影響を与え、パルシステム・ グループの各生協は班の持っていた機能をどのように再配置し、組合員の参加をどのように位 置付けるかという観点での組織変革に取り組むこととなる。

Ⅳ.生協と NPO を架橋する取り組み

生協は組合員の所有する組織であり、事業上の剰余は出資配当および利用高配当という形で 分配される、それゆえ非営利組織として見なされない場合がある。ただし、近代協同組合が 一つの範としたロッヂデール公正開拓者組合等から受け継がれる協同組合原則における配当 の意味を探れば、利用高配当は定価販売に対する労働者への還元や貯蓄的な性質を持つのであ り、また出資配当に関しては経済的利益を目的とできない制限があることがわかる。こうした 形式的な非営利か営利か、という議論を離れ、本節では営利を目的としない組織を包含した「非 営利・協同組織」(川口、1999)という概念のもと、そのセクターに含まれる生協と NPO と の具体的な連携の取り組みの意義を検討したい。 Ⅳ.1.「コミュニティへの関与」を具体化する市民活動との連携 東京マイコープ(現・パルシステム東京)が合併によって設立した 1996 年はまさにこの個 人対応無店舗事業への本格展開が進む時期であった。事業の変化のみならず、組織や運動、そ して生協自体の存在意義を再設定することが求められていたとも言える。 合併後初年度の東京マイコープ第 1 次中期計画(1996-1998)には下記のように、「社会的役 割を果たす協同組合」への志向がある; 「21 世紀に向けて東京マイコープの方向性を明らかにし、社会的役割を果たす協同組合に発 展させていくための基盤づくりを行います」 1995 年、ICA(国際協同組合同盟)マンチェスター大会において採択された「協同組合の アイデンティティに関する ICA 声明」および、協同組合原則に追加された第 7 原則「協同組 合は、組合員によって承認された政策を通じてコミュニティの持続可能な発展のために活動す る」を強く意識した考え方である。 中期計画での提起は、徐々に具体的な活動や事業へと繋がっていく。1997 年度の通常総代 会で採択された活動方針には、以下の記述がある; 「社会的課題に対して、全国の生協や市民活動と連携して取り組んでいきましょう」 総代会でのこの決定を受け、具体的な事業として位置づけられた制度の一つが NPO 等の市 民活動に対して、剰余金の一部を積み立てた基金を財源として助成を行う「東京マイコープ市

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民活動助成基金」である。1995 年の阪神・淡路大震災等によりその存在への認知が進んだボ ランティア団体や非営利組織に対して、固有の法人制度を設ける「特定非営利活動促進法」が 1998 年 3 月に成立、同年 12 月に施行される。このような社会の動きに対して、具体的な連携 の方法として構想されたのが同基金である。1998 年 3 月に第 1 回目の公募を行う際の規則に は以下の記述がある; 「市民活動助成基金は…(中略)…生協とネットワーキングできる多様な市民活動を育成す ることを目標に、市民の協同・公益的活動を広げ、市民による地域社会作りを支援することを 目的とします」 また、1997 年度には「東京マイコープのワーカーズ・コレクティブについての考え方」も 示され、合併前から活動していた団体も含め、「東京マイコープワーカーズ連絡会」(現・コミュ ニティワーク連絡会)を結成、組合員等のあらたな就業機会や社会参加の機会として、また 生協の業務委託先としての可能性を模索した。さらには、中間支援機関として「東京マイコー プ NPO サポートセンター」を設置するなど、生協と NPO を結ぶ多様な取り組みが展開され ていた。 Ⅳ.2.生協の社会的役割の展開 このような市民活動への助成など NPO 等への資金提供は、狭義にはその組合員共通の経済 的・社会的・文化的利益を追求する協同組合の本来の目的から逸脱する。辰巳団地生協の出発 点は団地住民である組合員の物価問題の解消、そして消費者主権の獲得であった。しかし、二 つの観点から、生協がその組合員の対してみならず「社会的役割」を発揮すべきという考え方 があるだろう。一つは、これまで見てきたとおり、地域的にも事業上も地域社会に正にも負に も影響を与える存在となっている以上、組織の保有するインフラを活用した一定の貢献が必然 であるという、企業の社会的責任に通じる考え方である。例えば、多くの生協で近年実施され ている、自治体との連携で配送時の安否確認と異常を察知した際の連絡を行う体制を整える取 り組みや、中山間地への移動販売事業の展開などがあげられる。これらは、当然ながら事業と して確立しつつ、本業をとおした社会的役割の発揮である。 もう一つの考え方は、より有機的な、同じ市民活動としての連携の必然性である。川口清史 は「生協の組合員活動の重要性は、単に理事たちのマネジメント経験の蓄積にとどまらない。 協同組合であれ、社会的経済であれ、また NPO であっても、そうした活動を推進する基盤に は人々の連帯や共助、公共性への関心と参加がある」(川口、2006: p274)とし、現代の NPO やワーカーズ・コレクティブ等の活動の源流を生協の組合員活動にあり、生協を NPO の「ゴッ ドマザー」に近いと指摘した。また、佐藤慶幸は生活クラブ生協の研究から、生協活動をアソ シエーションとしての人々の結合体ととらえ、その NPO や、生活クラブ生協の組合員が中心 となって当時設立が相次いたワーカーズ・コレクティブとの連続性を指摘する(佐藤、1996)。 日本の生協運動は、石けん運動に代表されるようにその時代に応じた運動を事業とともに展開 し、その過程においてその課題についての学習を深めた組合員と職員を育成してきたとも言

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える。直接的に生協組合員活動経験者が NPO での活動を展開するということのみならず、共 通の運動や考え方を有する生協と NPO がつながること自体が、その課題に対処する力となる、 助成金はそれを媒介するツールとなりうるという考え方である。 その後市民活動助成基金は、10 年を経過した 2008 年度に、従来存在した「助成先生団体に は組合員が 1 人以上いること」という制限をなくす等の改革を行い、直接的な生協との関係性 よりも、先に指摘したとおりより広い非営利・協同セクターとしての連携を求める方向性に向 かっている。

Ⅴ.おわりに

本稿では、1970 年代の辰巳団地生協の成立とそのたどってきた道のりを検討し、その存在 意義が狭義の組合員、団地住民への貢献から地域的にも、運動の多様性の面でも拡張していく 過程を見てきた。また、その設立の過程は、高度経済成長期特有の(あるいは急造された”陸 の孤島”に特有の)社会的課題の反映であり、住民による要求運動の歴史とともに、それを自 らの力で解決しようとする取り組みであったとも考えられる。この成立過程は現代において、 ある社会的課題の解決に対してビジネスの手法を活用しつつ、社会的な働きかけを深めていく ソーシャル・ビジネス等のあり方にも通じるものであろう。この観点からも、生協の歴史研究、 特に事業としての成立過程の研究は重要である。 当然ながら本稿の検討は 1 つの生協(およびそのグループ)に限られており、生協論として 普遍化するには十分ではない。パルシステム・グループに先行して形成された生協群や、生活 クラブグループ、あるいは、他地域の生協の成立過程と現在の事業や運動との連続性を検討す る必要があるだろう。

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1) 1960 年代前半から日本各地で設立された、主婦層を主たる利用者・組合員とする新たな生協を指す。 現在も存続する生協の前身となっているものが多く、その設立は 1980 年代まで続く。本稿で概略を示す とおり、日本における生協は労働者やその所属する労働組合を主体とする職域生協をはじめさまざまな主 体と社会条件の中で成立しており、とりわけ市民生協においては高度経済成長期のもたらした困難が設立 の契機となっている。 2) 日本における協同組合のルーツを無尽や頼母子講に求めたり、大原幽学らの先祖株組合がその機能と して農業資材や生活必需品の共同購入を行っていたことからそれを協同組合運動の原型と捉える(鈴木俊 彦、2006: p10)こともできるだろうが、本稿では生協をヨーロッパ、特にロッヂデール公正先駆者組合等 のモデルを輸入したことを近代協同組合の始点と捉えている。 3)ただし、1899 年設立の石川島造船所共働店は現石川島生協の前身であることや、労働運動とは一線を 画するであろうが同時期に同志社、慶應義塾等に成立した大学生協等、この時期に成立した「職域生協」 が戦後の生協運動の原型となり継承されていることは述べておく。 4) 隅田川口改良第三期工事により開発された埋立地には、一号地(海岸通 1 丁目)、二号地(海岸通 2 丁目)、 三号地(高浜町)、四号地(晴海町)、五号地(豊洲)、六号地(東雲)、七号地(東雲地先)の計 363 平方 キロメートルにおよぶものであった。さらに 1930 年の東京市議会での議決により、さらに八号地〜一二 号地の造成が計画された。現在の辰巳は 7 号地と 12 号地に跨っている。 5) 1958 年竣工、15 棟 669 戸からなる大規模団地。このうち高層棟(10 階建)は前川國男がル・コルビュ ジエによるユニテ・ダビタシオンを意識して設計した。老朽化により建て替えられ、現在は晴海アイラン ドトリトンスクエアが建設されている。 6) 24 店の構成は以下のとおり(1969 年 11 月、『辰巳団地広報(仮称)』創刊号より); 鮮魚 2、精肉・惣菜 2、 米 2、野菜・果物 2、酒 2、パン 1、スーパー 2、衣料・雑貨 2、軽食・喫茶 2、文具 1、電機 1、理容 1、診療所・ 薬局 3、郵便局 1 7) 露天商は、商店街の物価高に対応して比較的安い価格で日用品を販売し、住民にも一定程度好評を博 していた。しかし、いくつかの露天商が都の認可した移動店舗ではなく、半ば常設の店舗として共用の広 場を占拠し、暴力団が関与した「辰巳街商共栄会」という組織化を行ったことから、問題視される。自治 会は都に働きかけを続け、1972 年 1 月に退去命令を出すに至るが、問題は沈静化しなかった(『辰巳団地 広報』第 21 号、1972 年 2 月 1 日)。 8) 辰巳小学校は辰巳団地専用の学校として団地の建設と同時に建てられ、1968 年 9 月開校。児童数は 1971 年度に 1,238 名・31 教室、1972 年度には 1487 名・36 教室と増加を続け、音楽室や図書室を普通教室 に転用せざるを得ないなどの状況もあった(『辰巳団地広報』第 20 号、1972 年 1 月 1 日)。その後 1973 年 4 月には第二辰巳小学校が開校(初年度児童数 629 名)したことから、教育インフラ整備の面でも辰巳地 区の不十分さが伺われる。 9) いわゆる「組合員理事」「組合員監事」の多くは組合員の中から選出されることからその多くは女性で あり、かつ経営の専門知識を持たない。それゆえ、主として職員出身の常勤理事と同等の責任を負うこと が難しいことから、破綻時の責任を一定程度免除されている。このことは、法定機関である理事会に一種 のダブル・スタンダードを設けることにつながっており、ガバナンス上の課題をもたらしていると考えら れる。パルシステム・グループにおいては多くの生協が組合員理事出身者が代表権のある理事長に就任し ているが、2008 年の生協法改正以降は、多くの大規模生協においては代表権のある理事長・専務理事等の 役職に職員出身の常勤理事をあて、責任の範囲の明確化を行うなどの取り組みがある。特に組合員理事の 位置づけは、今後の生協のガバナンスを巡る議論の中で、不可避なテーマであり、別途論じたい。

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10) パルシステム生活協同組合連合会は 13 の会員生協によって形成され、会員の総事業高は 2,163.9 億円、 連合会供給高が 1,459.6 億円。その事業エリアは 1 都 11 県(宮城県/福島県/茨城県/栃木県/群馬県/ 埼玉県/千葉県/東京都/神奈川県/新潟県/山梨県/静岡県)に広がり、189.8 万人の組合員がいる(2015 年 3 月 31 日現在) 参考文献 大窪一志(1994)日本型生協の組織像:改革のトレンドとキーワード、コープ出版 大西信治(1978)生協運動五〇年:生協運動ひとすじに、生きた歴史の証言として、神奈川県生活協同組 合連合会 片木篤(2010)オリンピック・シティ東京 1940・1964、河出書房新社 片山潜生誕百年記念会編(1959)片山潜著作集 第 2 巻、片山潜生誕百年記念会 川口清史(1999)非営利・協同組織の日本の文脈からの定義と概念化、川口清史・富沢賢治編『福祉社会 と非営利・協同セクター:ヨーロッパの挑戦と日本の課題』日本経済評論社 川口清史(2006)社会的経済論と生協、現代生協論編集委員会編「現代生協論の探求:理論編」コープ出版 岸本英太郎編(1956)片山潜派の社会主義とその運動、青木文庫 佐藤慶幸(1996)女性と協同組合の社会学:生活クラブからのメッセージ、文眞堂 下山保(2009)異端派生協の逆襲:生協は格差社会の共犯者か、同時代社 鈴木俊彦(2006)協同組合の軌跡とビジョン、農林統計協会 田口悟(2004)個人対応型無店舗事業:個配は進化する、中村陽一 +21 世紀コープ研究センター編著「21 世紀型生協論:生協インフラの社会的活用とその未来」日本評論社 竹井二三子(1988)生協運動はなぜ広がったか:東京・下馬生協の実践、家の光協会 辰巳団地自治会『辰巳団地広報』(『たつみ広報』に改題)No.1(1970 年 11 月〜 No. 46(1975 年 1 月) 辰巳団地生協(たつみ生協)機関誌『物価と生活』第 1 号(1970 年 11 月)〜第 30 号(1980 年 5 月) 辰巳団地生協(たつみ生協)通常総代会議案書 各年度版  寺部頼助(1934)オリムピックを東京へ、市政調査會 『東京タイムス』1971 年 2 月 7 日〜 21 日「シリーズ あなたと物価 消費者活動への誘い 辰巳団地生協」 東京都編(1995)東京都政五十年史 事業史Ⅰ、東京都 東京都江東区編(1991)江東の昭和史、東京都江東区 日生協 50 周年歴史編纂室編(2003)日本生協連 50 年史、日本生活協同組合連合会 藤井敦(2004)生活協同組合の地域社会への開放、中村陽一 +21 世紀コープ研究センター編著「21 世紀 型生協論:生協インフラの社会的活用とその未来」日本評論社

表 1:創設から辰巳団地生協(たつみ生協)のあゆみ 年度 主な出来事 到達点 年度目標 主な活動 昭和451970 辰巳団地生協発足(3/5)都知事認可(4/3) 法人登記(4/23) 辰巳店開店(2/21) 組合員数(人)供給高(千円)班出資金(千円) 1,38519,7311,802 -生協店舗100坪を獲得し、生協として自立しよう ・東都生協から人材を受け継ぎ事業開始 ・都営団地における生協店舗の分譲(3番目)・展示即売会、計画購入の開始 昭和461971 班作りはじまる 牛乳の計画購入開始(10月)

参照

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