論 説
出生地主義が提起した居住権問題
─ 香港の事例研究 ─
LEUNG, Ling Sze Nancy
目次 はじめに 第 1 章 中国本土からの越境出産 1.1 越境出産の定義 1.2 中国本土からの越境出産 第 2 章 香港中国系住民の居住権及び国籍問題 2.1 植民地時代における香港住民の居住権及び国籍 2.2 返還後における香港住民の居住権及び国籍 2.3 一国二制度における香港永久性住民(中国公民)の権利及び義務 第 3 章 出生地主義が提起する居住権問題 3.1 出生地主義が提起する居住権問題 3.2 居住権問題による基本法の修正と解釈について おわりに
はじめに
香港に居住する中国系住民はその返還に伴い,中華人民共和国(中国)の公民となった。し かしそこで採用された「一国二制度」によって,香港は特別行政区となり,中国本土とは異な る行政制度,司法制度が採用された。そのため香港の中国系住民が有する住民の権利,及び義 務は一般の中国公民と現在も異なっている。香港中国系住民が有する住民の権利及び義務は憲 法的法律とされている香港特別行政区基本法(香港基本法)によって守られている。この基本 法の規定により,中国国内の法律は「別段の定め」がない限り香港では適用されることはない。 香港住民の居住権に関しては香港基本法第 24 条で規定されており,香港に 7 年間住めば,誰でも国籍を問われることなく,香港居住権を取得することができる。また返還をきっかけと して現在,香港にいる中国系住民のすべての子どもに出生地主義に基づいた香港の居住権が与 えられている。したがって,基本法第 24 条 1 項「香港で生まれた中国公民に香港居住権を認 める」で表現されている「中国公民」とは中国公民である中国系香港永久住民を指す語か,ま た中華人民共和国すべての公民を指す語かが争点となった。これは裁判で争われ,2001 年 7 月 19 日の「荘豊源案」判決により,香港基本法第 24 条 1 項に表現される「中国公民」は中華人 民共和国の国籍を持つ人を指す語になった。そのため,中国公民は香港で子どもを産めば,そ の子どもが中華人民共和国の国籍を持続しながら,香港居住権の資格を得ることになり,香港 永久住民と同じ権利と義務が付与されることになったのである。しかし,香港居住権の資格が 付与された子どもの両親は子どもの香港居住権に基づいて香港居住権の資格を得ることができ ない。一国二制度の下,中国と香港の相違による香港の居住権は中国大陸に住んでいる全ての 中国公民にとって特別な存在であり,本土からの越境出産はその数を増している。 そこで本稿では,中国本土から妊婦の越境出産問題を提起するとともに,合わせてそこから 起因する居住権問題を取り上げ,現状を考察する。そして居住権と関わるさまざまな権利と, それに伴う義務に関する課題を明らかにしたい。特に,中国本土の妊婦の越境出産は香港にお ける永住権制度に衝撃を与えるものであり,その問題点を浮き彫りにするのが本稿の狙いであ る。まず第 1 章では中国本土の妊婦の越境出産の現状を説明する。そして第 2 章で返還前後香 港住民の地位及び国籍問題を検討し,香港居住権,そしてその権利と義務の発展を概説する。 第 3 章では,出生地主義が提起する居住権問題及び基本法の修正と解釈について考察し,最終 章ではヨーロッパの事例を参考し,出生地主義による居住権問題の解決策を検討する。
第 1 章 中国本土からの越境出産
1.1 越境出産の定義 越境出産とは文字通りに,境界線を越えて子どもを生むことである。英語では Cross Border To Give Birth が一般的な表現である。いうまでもなく,イギリス植民地時代の香港に は中国本土との国境があった。しかし,その国境は香港が中国に返還後なくなることはなく,「一 国二制度」の下,イギリス植民地時代と相変わらず出入国審査と通関が存在している。一国内 の見方では,それは県境とみなされるが,香港の場合,それは国境に準ずるものである。中国 本土公民が香港に来て出産することは県境を越えることではなく,国境を越えての越境出産を 意味する。したがって,本論文は中国本土公民が香港で子どもを生むことを「越境出産」と定 義する。1.2 中国本土からの越境出産 中国本土からの越境出産は香港社会にとって新しいものではなく,イギリス植民地時代から その基盤が形成されていた。1978 年に鄧小平は経済改革政策によって香港から中国本土への工 業再配置(Industrial Relocation)を促進した。それにより香港の工場は続々中国本土,特に 広東省に移転すると同時に,香港永久性住民(以下「香港人」とする)が中国本土で働く機会 が多くなり,中国本土公民(以下「内地人」とする)と結婚するケース,いわゆる「中港家族1)」 も増加したのである。表 1 は中港家族の構成を示している。 表 1.中港家族の構成(1986 年,1996 年 ― 2010 年) 単位(人) 年 妻が内地人 夫が内地人 合計 年 妻が内地人 夫が内地人 合計 1986 15,776 675 16,451 2003 17,686 2,407 20,093 1996 24,564 1,821 26,385 2004 20,968 3,392 24,360 1997 28,309 2,190 30,499 2005 24,869 4,919 29,788 1998 19,101 1,703 20,804 2006 28,145 6,483 34,628 1999 17,806 1,487 19,293 2007 21,888 4,315 26,203 2000 17,720 1,688 19,408 2008 19,003 3,948 22,951 2001 18,380 2,359 20,739 2009 18,145 4,194 22,339 2002 17,851 2,371 20,222 2010 13,446 3,441 16,887 出所:政府統計処 『婚姻,出生と家族状況』2011 年 妻が内地人で構成される中港家族は夫が内地人の場合より圧倒的に多い。その原因は香港人 男性が香港人女性より中国本土で働く機会が多いためである。政府統計処が 2006 年 1 月に発 表した「1995 年から 2005 年までの期間に中国本土で働いていた香港住民」という報告によれば, 中国本土で働いている香港住民の内,その十年において平均的に 75.8%が男性であり,24.2% が女性であった2)。 香港人の内地人配偶者及び中国本土で生まれた子どもは殆ど,香港に家族を呼び寄せる移民 政策である「単程証3)」(One Way Permit Scheme)によって香港に移住する。移住するに当たっ
ては厳密な必要条件があり,点数評価制度,例えば,年齢,学歴などに基づいて移住の順番が 決定される。子どもの移住許可は大人より早く下りる傾向にあるが,返還以降子どもを香港で 産めばこれらの複雑な申請は免除され,また同じく親からの相続という形で香港の居住権を受 けることができる。内地人妊婦の越境出産は香港社会の注目を集め,政府統計処は 1998 年か ら内地人妊婦を夫の居住権身分に分けて整理し始めた。表 2 は香港人妊婦と内地人妊婦から生 まれた新生児数を示している。内地人妊婦の出産は 2005 年まで中港家族が大きな割合をしめ ていたが,2006 年から夫も内地人同士である内地人妊婦(以下「内地人夫妻」とする)が代わ りに越境出産の主役になった。その増加は 2 年間で香港の総新生児数の三分の一にまで至って いる。
表 2.香港人妊婦と内地人妊婦から生まれた新生児数及びその割合(1996 年 ― 2010 年)
香港人妊婦 内地人妊婦
年 TFR 総出生数 夫が香港人 夫が内地人 その他 * 小計 1996 1.191 63291 56797(89.7) N/A N/A N/A N/A 1997 1.127 59250 53420(90.2) N/A N/A N/A N/A 1998 1.017 52977 46868(88.5) 5651(10.7) 458( 0.9) N/A 6109(11.5) 1999 0.982 51281 44101(86.0) 6621(12.9) 559( 1.1) N/A 7180(14.0) 2000 1.035 54134 45997(85.0) 7464(13.8) 709( 1.3) N/A 8137(15.0) 2001 0.932 48219 40409(83.8) 7190(14.9) 620( 1.3) N/A 7810(16.2) 2002 0.939 48209 39703(82.4) 7256(15.1) 1250( 2.6) N/A 8506(17.6) 2003 0.901 46965 36837(78.4) 7962(17.0) 2070( 4.4) 96(0.2) 10128(21.6) 2004 0.927 49796 36587(73.5) 8896(17.9) 4102( 8.2) 211(0.4) 13209(26.5) 2005 0.959 57098 37560(65.8) 9879(17.3) 9273(16.2) 386(0.7) 19538(34.2) 2006 0.984 65626 39494(60.2) 9438(14.4) 16044(24.4) 650(1.0) 26132(39.8) 2007 1.028 70394 42820(60.8) 7989(11.3) 18816(26.7) 769(1.1) 27574(39.2) 2008 1.064 78752 45187(57.4) 7228( 9.2) 25269(32.1) 1068(1.4) 33565(42.6) 2009 1.055 82095 44842(54.6) 6213( 7.6) 29766(36.3) 1247(1.5) 37253(45.4) 2010 1.127 88495 47847(54.1) 6169( 7.0) 32653(36.9) 1826(2.1) 40648(45.9) N/A:データが存在しない ( ):総新生児の割合 * :子どもの出生登録に夫の名前を記入していない内地人妊婦から生まれた新生児数
出所: Legislative Council Secretariat(2008-2009)Information Note: Cross-boundary families; Census and Statistics Department(2007)Demographic Trends in Hong Kong 1981-2006; Census and Statistic Department (2012) Demographic Statistic Section
内地人夫妻の越境出産が増加する原因とは,2001 年に行われた,荘豊源という子どもの永住 権に関する裁判がきっかけである。荘豊源の判決4)は香港基本法第 24 条に記載されている「中 国公民」の定義が不明確であることを明らかにし,2001 年 7 月 20 日の終審法院(Court of Final Appeal)は香港基本法第 24 条 1 項で規定される「中国公民」を「中国国籍を持ってい る者」と説明した。それ以降,中国国籍である親を持ち,香港で生まれた子どもは全て香港永 住権を与えられることになった。言い換えると,中国国籍を持つ人に特別な出生地主義を適用 したことになる。 2003 年 7 月 28 日まで,内地人が香港で子どもを産むことは極めて困難なことであった。入 国審査のみならず,香港に行くためのビザの申請手続きも厳しかった。しかし,中国中央政府 が「港澳個人訪問計画5)」(Individual Visit Scheme)(以下「個人観光ビザ」とする)を実行
し始めた後,内地人夫妻の越境出産が増加したのである。香港政府は「個人観光ビザ」の対象 地域が拡大されることによる越境出産の急増を想定していなかった。したがって,突然に起こっ た越境出産の増加は香港の医療機関に重い負担を掛けることとなった。2005 年 5 月 14 日の香 港経済日報によると,多くの内地人妊婦は胎児の安全を無視し,病院の保証金を払わず,1 日 分の入院費用を節約するなどの理由で,午前零時に救急処置室に入院するという危険な行為が
相次いで行われているという6)。医療サービス提供者の安全及び地元市民への医療サービスを 守るため,香港政府は 2007 年 2 月 1 日から妊娠 28 週以降の内地人妊婦に対しての入国審査を 強化した。香港の病院から発行する予約証明書を提出できない妊娠 28 週以降の内地人妊婦は 原則として入国できないように規定されたのである。また,医療提供者への負担を減らすため, 内地人妊婦の出産費用が 2 万香港ドルから 3.9 万香港ドルに値上げされ,妊娠中の検査を受け ていない内地人妊婦には医療費用を 4.8 万香港ドル請求するように設定された7)。 しかし,入国審査の強化かつ医療費用の値上げなどの手段が講じられたにもかかわらず,内 地人妊婦の越境出産がむしろ一段と増えている。その理由は内地人夫妻にとって,香港の居住 権が特別なものであり,香港居住権を持つ子どもが中国一人っ子政策,戸籍政策など政策によっ て制限されないため,香港で子どもを産むことに大きなメリットがあると見られる。しかし, 香港における産婦人科サービスおよび関連施設は地元の 700 万人の需要に基づいて計画される ため,急増している内地人妊婦の出産は香港での産婦人科サービスの供給不足をもたらした。 また,乳幼児のためのベッド数も不足するため,地元の妊婦も分娩予約できない状況になって いる。これ以上の妊婦を受け入れると医療水準が低下するのみならず,産婦と新生児の安全面 にも問題が生じる可能性がある。
第 2 章 香港中国系住民の居住権及び国籍問題
一国二制度の実行に伴い,返還後の香港は高度な自治権を持つ特別行政区となった。中国本 土の政策及び制度が適用されないことで,香港中国系住民は公式には中国公民であるが,この 制度の差によって特殊な地位を築いたのである。また,返還前にイギリス政府が香港住民に発 行した特別な旅券が香港中国系住民の国籍問題を複雑化させた。この章では香港住民の特殊な 地位と国籍問題を詳しく検討する。 2.1 植民地時代における香港住民の居住権及び国籍 イギリス植民地時代,香港住民の居住権は英国国籍法及び移民法の修正に応じて変わって いった。1948 年以前の「イギリス国籍と外国人地位法 1914」(British Nationality and Status of Aliens Act 1914)によれば,イギリス植民地で生まれた住民たちはすべて「イギリス臣民」 (British Subject)であるため,イギリス植民地である香港で生まれた住民はすべてイギリス 臣民となり,帰化によってイギリス国民となった。しかし,イギリス政府と清王朝が締結して いる諸条約は香港住民の国籍問題を決定していなかった。当時の清王朝は中国系香港住民を中 国公民と見なすという立場から,イギリス政府は香港住民に国籍を選ぶ権利を与えた。1868 年 に規定された「服装規則」(Costume Regulations)によれば,香港住民が中国国内で中国国籍を取れば,中国の法律に従い,イギリスの保護を受けられない一方で,イギリスの国籍を取 れば,中国の服装を着用できないとされていた8)。
1948 年,イギリスは国籍法を改正し,そこに市民(citizen)の概念を付け加えた。「英国国 籍法 1948」(British Nationality Act 1948) はイギリス連邦の住民を以下のように 5 種類に分 けた。①イギリス連合王国及び植民地市民(Citizens of United Kingdom and Colonies),② イギリス連邦市民(Commonwealth Citizen),③無国籍である英国臣民(British Subjects Without Citizenship),④イギリスが保護する人(British Protected Persons),⑤外国人 (Aliens)。「英国国籍法 1948」によれば,①イギリス連合王国及び植民地市民を取得する方法 と は, 出 生(By Birth), 相 続(By Descent), 登 録(By Registration), 帰 化(By Naturalization)または領土の合併(By Incorporation of Territory)である9)。当時の香港は
イギリス植民地であるため,多くの香港住民は出生,相続,登録または帰化によってイギリス 連合王国及び植民地市民となり,イギリス及びイギリス連邦国に無制限の入国,居住及び移住 の権利を得た。
ところが,植民地からの移民を抑制するため,イギリスは 1962 年に「イギリス連邦移民法 1962」(Commonwealth Immigrant Act 1962)を制定し,「連合王国旅券」(UK Passport)と 「英国旅券」(British Passport)の発行によって住民の移住及び移動を規制した。「連合王国旅 券」はイギリス政府が発行するものであり,イギリス本土に生まれた人,及びイギリス居住権 を持つ人のみ申請することができ,この所持者は無制限にイギリスに入国できた。一方で「英 国旅券」は植民地政府が発行するものであり,この所持者はイギリスにおける居住権がない上 に,イギリスへの入国制限も設けられている10)。「イギリス連邦移民法 1962」が施行された後 も香港住民のイギリス連邦市民という地位は変わっていなかったが,所持旅券は植民地政府か ら発行されるものであるため,イギリスへの無制限の入国権利や,居住権もなくなった。それ に加えて,イギリス連邦市民であれ,イギリス王国及び植民地市民であれ,イギリス植民地に 定住する人々に対する居住権の付与は当地の植民地政府によって決定される。言い換えると, イギリス王国及び植民地市民の身分があっても,住んでいる場所の居住権を持ってない可能性 がある。 1968 年にイギリスは植民地からの移民,特に非白人の移住を制限するため,1962 年に制定 されていた「イギリス連邦移民法 1962」を改正し,「イギリス連邦移民法 1968」(Commonwealth Immigrant Act 1968)を新たに制定した。さらに 1971 年には,より厳しく移民を制限し,「イ ギリス連合王国及び植民地市民」と「イギリス連邦国家市民」を区別するために,「イギリス 連邦移民法 1962」と「イギリス連邦移民法 1968」にかわって「移民法 1971」(Immigration Act 1971)を制定した。「移民法 1971」は主に連合王国旅券所持者に対するイギリス居住権の 有無を区別するため制定された移民法であり,「英国旅券」所持者である香港住民に対しては
新たな影響を及ぼさなかった。
1981 年,イギリスは新しい英国国籍法を制定する時,香港住民の国籍問題も一つの検討要因 であった。当時約 330 万のイギリス植民地住民資格を持つ植民地住民の数において,約 260 万 人が香港住民であったからである。「英国国籍法 1981」(British Nationality Law 1981)はイ ギリス国籍を持つ人々の地位をより詳しく定義するため制定されたものであった。「イギリス 市民」(British citizen)の概念も「英国国籍法 1981」に初めて導入され,従来の「イギリス 連合王国及び植民地市民」をさらに 3 つに区分したのであった。それは①「イギリス市民」 (British Citizen),②「イギリス属地市民」(British Dependent Territories Citizen)と③「イ
ギリス海外市民」(British Overseas Citizen)である11)。「英国国籍法 1981」によれば,「イ
ギリス市民」のみイギリスの居住権があり,「イギリス属地市民」や「イギリス海外市民12)」 は「移民法 1971」によりイギリスへの入国が制限されていた。「英国国籍法 1981」は出生によ る居住権や市民権の獲得をより厳しく制定したのであった。1983 年 1 月 1 日以降,子どもの片 親がイギリス市民やイギリス属地市民でなければ,イギリス本土やイギリス植民地で生まれて も居住権もしくはイギリス属地市民の身分を得られないようになった。いうまでもなく,帰化 によっては居住権やイギリス属地市民の身分を取得することは可能であるが,条件を満たすこ とが必要である。イギリス香港(British Hong Kong)の場合,7 年間香港に定住していれば, 香港の居住権が得られ,同時に「イギリス属地市民」という身分も得られるのである。 したがって,1980 年 10 月 24 日まで施行されていた「タッチペース政策」(Touch Base Policy)を通じて香港身分証明書を得た中国人移民は,遅くとも 1997 年までにはその定住期間 の条件を満たして香港に帰化し,「イギリス属地市民」になったと推測できる。植民地時代に おける香港住民の国籍及び居住権はイギリス国籍法及び移民法の改正によって変わりつつあっ た。その国籍の変化はイギリスにおける居住権の有無に基づいている。イギリスは「市民」 (Citizen)の概念を導入,強化し,香港住民には「イギリス属地市民」であれ,イギリス国籍 であれ,イギリス市民と同じ権利を与えなかったのである。 2.2 返還後における香港住民の居住権及び国籍 1997 年 7 月 1 日,香港は中華人民共和国に返還され,中国系香港住民は「中国国籍法」によ り中国公民になった。「中国国籍法」は基本的には血統主義であり,香港返還の場合もまた, 香港で生まれ,中国血統に属していれば,その子どもは親の国籍に関わらず中国公民になるこ ととされている。さらに,中国政府はイギリス植民地時代の香港住民が継続してイギリス国籍 を持ち続けることを認めていない。中国系香港住民は「香港同胞」と呼ばれ,彼らだけが中国 公民であると見られている。 ところが,返還後,一部中国系住民は「イギリス市民(海外)」(British Nationals(Overseas))
というイギリス国籍を取得した。「イギリス市民(海外)」(British Nationals(Overseas)) は前文に記述した「イギリス海外市民」に類似しているものである,それは「香港法 1985」(Hong Kong Act 1985)に基づいて香港にいるイギリス海外市民のために作られた新しいタイプのイ ギリス国籍である。「イギリス市民(海外)」という国籍を取った中国系香港住民は同時にイギ リス連邦市民であり,イギリスで一定の権利を有する。例えば,イギリス公務員になる権利が ある。またイギリスに 5 年間住めば,国会及び地方議会の選挙権が付与されたり,無期限に居 住する資格を申請できたりするのである。この無期限に居住する資格を持つ「イギリス市民(海 外)」は 2010 年 1 月 13 日から「英国国籍法 1981」の第 4 章(Section 4)によりイギリス市民 の身分を登録することができる13)。ところが,「イギリス市民(海外)」は子どもや配偶者に相 続させることはできないし,またこの申請期間(1997 年 6 月 30 日まで)を超えると二度と申 請できないものである。また,中国政府は「イギリス市民(海外)」という国籍を認めておらず, 「イギリス市民(海外)」旅券の使用だけを承認している。さらに,その所持者が中国人の血統 に属す人であれば,「中国国籍法」により自動的に中国国籍であると見なされる。したがって, 「イギリス市民(海外)」の所持者は中国本土,香港,及びマカオでイギリスの領事保護を受け られないし,中国本土に入国するときには,「港澳居民来往内地通行証」(Mainland Travel Permit for Hong Kong and Macau Residents),略称「回郷証」(Home Return Permit)とい う旅券が必要である。その上,台湾も「イギリス市民(海外)」という国籍を認めないため, 入国にはビザの申請が必要である。外務英連邦省(Foreign and Commonwealth Office)によ れば,現在約 35 万人の中国系香港住民が「イギリス市民(海外)」国籍を持っている14)。
「イギリス市民(海外)」のほか,一部の中国系香港住民は 1990 年に実施された「英国国籍 甄選計画」(British Nationality Selection Scheme)(略称は「居英権計画」)を通じてイギリ ス国籍(British Nationality)を取得した。「居英権計画」とは,「英国国籍(香港)法 1990」(British Nationality(Hong Kong)Order 1990)に基づいて,家族単位で計算され,約 5 万家族(約 225000 香港住民)にイギリスの居住権を与える計画であった。1984 年に調印された「中英共 同声明」で,イギリスが香港住民にイギリスの居住権を付与することはないと発表した後,多 くの香港住民がカナダ,オーストラリア,アメリカに移住する事態を誘発した。特に 1989 年 の天安門事件の後,香港住民の移住はますます激しさを増し,香港からの頭脳流出を止めるた め,イギリスは「居英権計画」を制定した。「居英権計画」からイギリス国籍を得た香港住民 は主に「紀律部隊15)」(Disciplinary Forces)(特別な規律ある公務員),機密事項を扱う香港 住民,企業家と点数制(年齢,教育レベル,英語レベル,イギリスとの関係など項目で点数評 価制度)で選ばれた専門職者である。 その上に,カナダ,オーストラリア,アメリカの国籍を取った後,香港に戻った中国系香港 住民を含めると,香港が返還された後,そこに住んでいる中国系住民の国籍は極めて多様なも
のとなっている。しかし,中国政府は香港における中国系住民を外国国籍の保持に関わらず, 中国人の血統に属していれば,彼らをすべて中国公民と見なしている。これにより,香港住民 の二重国籍問題が浮上したのである。中国政府は二重国籍を認めてはいないが,現在,香港住 民の国籍問題については放任的態度を貫いている。 香港住民の国籍が中華人民共和国でないと,彼らの香港における居住権が返還後も維持され るかが問題となる。1984 年 12 月「中英共同声明」の第一付属文書の中の第 14 節で「香港永久 性居民」(Hong Kong Permanent Resident)と「居住権」(Right of Abode)が初めて記載さ れた。「香港永久性居民」(以下「香港永久性住民」とする)とは,香港の居住権を持ち,出入 国も自由にでき,且つ,強制排除もされない人のことである。ところが,香港基本法第 24 条 によれば「香港永久性住民」は国籍を問わず香港に 7 年間住めば,「香港永久性住民」という 身分が付与される。これらの住民のための法律制度は中国国籍以外の国籍を持つ者にも香港の 居住権を付与することを認めた。また,「香港永久性住民」という身分は剥奪されることがなく, ただ所持者自身の放棄によってのみ消去されるものである。 2.3 一国二制度における香港永久性住民(中国公民)の権利及び義務 前述したように,返還後,中国系「香港永久性住民」は中国公民となった。中国国籍法によ れば,中国はイギリスのように公民をカテゴリーに当てはめることがないため,中国公民であ る香港住民は中国憲法から中国公民としての権利を保障されると同時に,憲法で定められた中 国公民の義務に従う。しかし,一国二制度において,中国公民である香港永久性住民に与えら れる権利及び義務は香港基本法が付与するのである。つまり,香港住民は同時に香港基本法と 中国憲法が規定している権利及び義務を与えられることになる。 それを顕著に示しているのは旅券の発行である。香港は香港基本法第 154 条に基づく中国公 民である香港永久性住民に香港特別行政区旅券を発行する。この旅券は,香港永久性住民であ れ,中国公民であれ,香港永久性住民身分証明書を持つ者のみが申請できる。ただし,他国の 旅券を同時に持つ中国系香港永久性住民者も香港特別行政区旅券を申請できる。香港特別行政 区旅券は歴史的な背景をきっかけにビザなしで訪問できる国が中華人民共和国旅券より多い。 2012 年 5 月現在香港特別行政区旅券は 145 ヵ国・地域にビザなしで入国することができるので ある16)。一方,中華人民共和国旅券は 43 ヵ国・地域にビザなしで入国できるだけである。移 動の自由に関して,香港特別行政区旅券は中華人民共和国旅券よりはるかに有利であり,世界 各地で融通の利くものとなっている。その上,香港特別行政区旅券の所持者は中華人民共和国 旅券の所持者と同じく外国に駐在する中国領事館の保護を受けられるのである。 そのほか,香港基本法第 3 章によって香港住民に与えられる権利及び義務が規定されている。 香港住民は「香港永久性住民」と「非香港永久性住民」で区別されているため,香港住民に与
えられる権利及び義務は国籍に関わらない。したがって,中国選挙法において中国公民以外の 者は選挙権及び被選挙権がないと規定されていても,外国国籍を持つ香港永久性住民は香港に おいて選挙権及び被選挙権を持つ。ただし,香港基本法第 67 条は外国国籍を持つ議員の割合 が 20% を超えないことを規定している。また,公務員になる権利も国籍と関わらず,香港永 久性住民であれば志望できる。しかし,香港基本法第 101 条では香港特別行政区政府の各長官 及び副部長(Secretaries and Deputy Secretaries of Departments),廉政公署の署長(Directors of Bureaux Commissioner Against Corruption),監査委員会の委員長(Director of Audit), 香港警務処の署長(Commissioner of Police),入国管理局の局長(Director of Immigration and Commissioner of Customs and Excise)は中国公民である香港永久性住民が担当しなけ ればならないと規定している17)。一方,中国公民である非香港永久性住民,例えば,家族呼び 寄せ政策,投資移民政策などで中国本土から香港に移住しており,香港永久性住民になる居住 年数に達しない者は,上記したような権利を持っていない。したがって,香港基本法で規定さ れている権利は中国本土公民を対象としない。 香港基本法第 3 章は 19 条の規定でもって香港住民の権利及び義務を提示している。そのうち, 1 条には香港住民の「永住性」と「非永住性」の資格について記載されている。ほかの 18 条は 17 条が権利と関わるものであり,残りの 1 条のみ義務について記載されている。香港基本法に よれば,香港住民が従う義務とは,香港で施行されている法律義務を守ることである。ところ が,法律義務とは何かが明確に記載されていない。香港住民である中国公民は中国憲法第 2 章 「公民における基本権利及び義務」の第 52 条から 56 条に記載されている義務を本来履行せね ばならないが,一国二制度を採用している香港では,この中国憲法の中の社会主義制度及びそ れらの政策に関する規定は香港には適用されない。例えば,計画生育の義務(中国憲法第 49 条) は香港に適用されない。また,香港には高度な自治権があるため,中国憲法が規定している義 務が香港の行政施策と重複していれば,その憲法条項は香港において実行されない。例えば, 税金納付の義務に関して,税務管理は香港の行政であり,しかもそれは国籍と関わるものでは ないため,この税金納付の義務を規定している中国憲法第 56 条は香港で適用されないのであ る。 本来一人っ子政策に違反して産んだ子どもは両親の戸籍に載せられず,また,高額な罰金も 払わなければならない。無戸籍子どもは「黒戸」といい,義務教育,公的医療制度,社会保障 制度などを受ける権利がないため,将来の生活が極めて困難である。しかし,越境出産で生ま れた子どもの場合は,香港での居住権を持つため,香港での義務教育,公的な医療制度,社会 保障制度を受ける権利を有する。よって,香港永住権を持つ内地人夫妻の子どもは両親の戸籍 に入る必要性がないのである。さらに,子どもを両親の戸籍に載せないため,中国政府はその 一人っ子政策に違反して産んだ子どもの存在を確認することが難しい。またその子どもは香港
の居住権を持つため,戸籍制度で規制されはしないと解釈できる。よって香港で子どもを産む ことは「一人っ子政策」に違反しないと考える内地人夫妻は多い。 以上のように,中国公民である香港永久性住民の権利及び義務について検討することによっ て,一国二制度は中国公民である香港永久性住民を特別な位置に置くことが明らかになった。 香港永久性住民は香港住民の権利のほかに,中国公民としての権利も持ち合わせるのである。 その上,移動の自由に関しては,中国本土公民よりはるかに有利である。したがって,中国本 土公民にとって,香港永住性住民という身分は中国政府が決定した政策や移動制限を抜け出す ことが可能であるものであり,特別なものと思われる。
第 3 章 出生地主義が提起する居住権問題
3.1 出生地主義が提起する居住権問題 居住権(Right of Abode)とは特定の国に自由出入国できる権利である。居住権を持つ者は 居住権を付与された国において正式な許可を必要としなくとも自由に労働,居住できる。居住 権を持つ者は一般的にはその居住権を付与する国の市民(Citizen)である。ところが,香港 の場合は第二章で論じたように,居住権が国籍と関わらないものであり,単に居住期間により 決定されるものである。香港は国ではないが,そこでの法律制度は居住権を持つ者を一国の市 民のように扱い,あらゆる権利を付与している。T.H. マーシャルによれば,市民権には市民的 権利,政治的権利,社会的権利がある。市民的権利とは,言論,思想及び信条の自由,財産権, 裁判を受ける権利といった個人の自由にとって必要なものであり,政治的権利とは,選挙権と 被選挙権である。また,社会的権利とは,義務教育,保健制度,経済的な福祉と保障を共有す る権利である18)。香港基本法は居住権を持つ住民に以上のような権利を付与するため,出生地 主義により香港の居住権を取った内地人夫妻に生まれた子どもにも自動的に適用される。 内地人夫妻に生まれた子どもは,香港の居住権があれば,香港住民(非永久性住民を除く) に与えられる諸権利も与えられる。したがって,内地人夫妻から生まれた子どもが増えるほど, 小児医療,教育,社会福祉に関する福祉給付及び生活保護を申請する児童が増えることになる。 2011 年 12 月に出版された香港医学雑誌によると 2000 年 1 月から 2009 年 12 月までに判明した サラセミアの患者の殆どが,2003 年以降に内地人夫妻から生まれた子どもであるとのことであ る。その原因には,内地人夫妻は妊娠中の適切な検査を受けていないことがあげられる19)。そ の上,内地人夫妻から生まれた遺伝病を持つ児童患者,癌児童患者も増加する傾向にある20)。 彼らには香港の居住権があるため,殆ど香港で治療を受け,長期にわたって,香港医療サービ スに負担をかけてゆくのである。 教育については,居住権があれば,香港政府が提供する義務教育を受ける権利があり,政府が設立した学生援助機関(Student Financial Assistance Agency)が制定した幼児教育用の学 費援助制度,通学の交通費の補助など援助・補助制度を申請できる。したがって,内地人夫妻 から生まれた子どもが香港で就学すればするほど,教育経費の公的財政支出は高くなる。また, 香港の義務教育を受けるため,必ずしも香港に暮す必要はない。香港の永住権があれば,簡単 に香港と中国の国境を越えることができる。それ故に,内地人夫妻から生まれた子どもは香港 と中国本土の国境に近くある学校に就学する事例も増加しつつある。したがって,越境通学が 生徒の通学安全問題をもたらすだけでなく,国境に近い地域の学校,教室不足問題をも引き起 こした21)。
社会保障に関しては,社会福利署(Social Welfare Department)によると,個人名義で生 活保護を申請する内地人夫妻の間に生まれた子どもは 2006 年 8 月から 2007 年 3 月まで合計 93 件が確認されており,全部で 102 人になる22)。本来,香港の生活保護制度は経済的に困貧する 香港永久性住民に対して,最低限度の生活を保障するため生活費を支給する制度である。受取 人は一般的には香港永久性住民であり,香港で満 1 年間を居住する者であり,所持資産及び所 得審査を経て支給される。しかし,18 歳以下の香港永久性住民にはその制約がない。2008 年 2 月,香港政府は 18 歳以下の児童が個人名義で生活保護を申請することを禁止したが,香港の 親族,里親や児童養護施設に委託する内地人夫妻から生まれた子どもの申請者が増加しつつあ る(表 3)。しかも,2012 年 3 月 22 日,香港社会福利署は内地人夫妻から生まれた兄弟二人と もが生活保護を申請するケースがあると発表した23)。それによれば,一部の内地人夫妻に生ま れた子どもが香港の生活保護制度を濫用していることが明らかになった。 表 3.内地人夫妻が生まれた子どもの生活保護申請者数 年 生活保護を受けた児童数 生活保護を申請した児童数 2008 219 252 2009 255 296 2010 286 333 2011 327 388 出所:明報 2012 年 3 月 22 日「領綜援双非童増五成」24) 以上挙げた例は出生地主義による居住権がもたらす問題の一部である。2010 年までに内地人 夫妻の越境出産は香港の出生率の 39% を占めた。これにより従来の出生地主義による居住権 の付与は社会全体の負担を論じる居住権問題へと発展していった。越境出産から居住権問題に 至る一連の過程で,この問題の対象となる内地人夫妻から生まれた子どもの数は常に問題の焦 点となっている。しかし,その子どもたちがいつ香港で就学するか,いつ香港に定着するか, いつ香港の医療サービスを利用するか,に関する数の見積もりは大変難しく,その正確な実数 は掴めないものと思われる。
3.2 居住権問題による基本法の修正と解釈について 2007 年,香港政府は妊娠 7 ヶ月以上の内地人妊婦の入国に対して制限を設定したが,妊娠 6 ヶ 月以下の妊婦には妊娠証明書の提示を要求しなかったし,目視検査しかしなかったために,入 国制限は現在もあまり効果的ではない。また,越境出産仲介組織が偽の妊娠証明書や巧妙なや り方で妊婦を香港に入国させることもあり,不法入国もあまり改善していない。したがって, 越境出産がもたらす居住権問題に関して,世論は法的な動きを望んでいる。その法的な動きと は,香港基本法第 24 条で規定されている「香港で生まれた中国公民には居住権が付与される」 という法律を修正,訂正や解釈など法的な手段により,中国公民を対象とする出生地主義をや める動きである。また,立法の手段で内地人夫妻から生まれた子どもに与えられる居住権の有 無を規定するという声もある。 香港基本法の修正については香港基本法第 8 章の 159 条に規定されている。香港基本法第 159 条によれば,香港基本法の修正権は中華人民共和国全国人民代表大会25)(以下「全国人民 代表大会」とする)に属するとある。言い換えると,出生地主義に関する基本法の修正は全国 人民代表大会の審議に付さないといけないとのことである。香港基本法の修正は中国政府の香 港に対する基本方針と合致しなければならない。中国国籍法によれば,返還後の中国系香港永 久性住民はすべて中国公民である。中国公民の身分は一つに限られるものである。したがって, 香港基本法が起草された時,中国系香港永久性住民を「中国香港住民」という国籍で設定する 提案を採用しなかった26)。それで,香港基本法第 24 条 1 項において「中国公民」は中国国籍 法によれば,香港永久性住民と中国本土住民と区別する必要がないことになっている。もしこ の法律を修正すれば,一国の統一に異議を唱えることになる恐れがある。よって,基本法第 24 条 1 項の修正は法的には可能であるが,実際には難しいと考えられる。 香港基本法を解釈する場合,香港基本法第 158 条によれば,解釈権は中華人民共和国全国人 民代表大会常務委員会27)(以下,「全国人大常委会」とする)に属する。しかし,全国人民代 表大会常務委員会は香港の裁判所での事件の審理にあたって,本法の香港の自治範囲内の条項 について自ら解釈する権限を授与する。廣江倫子は香港基本法第 158 条の解釈権を以下のよう に理解している。 「香港法院(裁判所)は自治官営内の条項及び基本法の「その他の条項」を自ら解釈できる。 しかし,「その他の条項」の中において「中国政府が管理する事務」及び「中国政府と香港の 関係」に該当する条文を事件の審理にあたり解釈する必要が生じる場合には,最終的な判断が 下される以前に,終審法院を通じて,全国人大常委会にその解釈を要請しなければならな い28)。」 言い換えると,香港裁判所が解釈できない基本法条文は「中国政府が管理する事務」と「中 国政府と香港の関係」と関わっている場合,全国人大常委会に要請するしかない。香港は返還
後,全国人大常委会に基本法条文の解釈要請をしたことが 4 回あった。第 1 回は 1999 年の返 還がきっかけとなって表れた中国本土で生まれた香港住民の子どもの居住権問題である。第 2 回は 2004 年であり,それは行政制度の発展に関する内容である。第 3 回は 2005 年になされた 香港特別行政区長官の補選及びその任期に関することである。第 4 回は 2011 年に香港の対外 事務に関することである。 1999 年 5 月に第一回の居住権に関する解釈では主に香港基本法第 22 条 4 項,単程証制度を 新たに制定し,また第 24 条 2 項では中国本土で生まれた香港住民の子どもに与えられる香港 居住権の有無を明確にした。当時香港政府は大量の児童移民(中国本土で生まれた香港永久性 住民の子どもたちを指す)を受け入れた後,住宅,医療,教育,交通,社会サービスなどが要 求されることを懸念して,全国人大常委会に基本法条文の解釈を要請した。香港基本法の解釈 によって,中国本土と香港の移民問題に取り組んだが,法治の観点からみると,全国人大常委 会は最終の決定権を持ち,香港基本法による法統治は香港裁判権より本土の全国人大常委会の 優位を意味することになった29)。よって,全国人大常委会に香港基本法の解釈を要請すれば, 香港における独立の司法権及び終審権を妨げるとの議論が浮かび上がる。 現在出生地主義が提起する居住権問題に関しては,基本法第 158 条によって全国人大常委会 から香港基本法第 24 条の条文を解釈する議論が強い。2012 年 3 月 11 日,30 名の香港特別行 政区全国人民代表大会代表(以下「港区人大代表」とする)は自発的に連署を持って,全国人 大常委会に香港基本法第 24 条を解釈することを提案した。その提案をした譚恵珠は全国人大 常委会の解釈が越境出産問題を根本的に解決できると説明した。しかし,多くの法律専門家や 政治家は港区人大代表のやり方が香港政府に圧力をかけるのみならず,一国二制度に干渉する と批判した30)。全国人大常委会はその解釈権を使えば,出生地主義が提起する居住権問題を解 決できるが,問題となるのは,一国二制度の維持と香港における司法の独立である。 2012 年 7 月 1 日から新しい政府が発足するため,現在の香港政府は法的な解決策を実施して いない状態である。次期の香港特別行政区行政長官,梁振英は内地人夫妻が生まれた子どもの 居住権問題について法的な手段で解決すると表明したが,その解決策の詳細はまだ公表されて いない。居住権問題は中国政府と香港の関係に絡んでいることであり,かつ,一国二制度のこ とを配慮することがあるため,時間をかけるものであると考えられる。 出生地主義による居住権問題は香港のみが直面していることではない。多くの出生地主義を 採用している国家もまた同様の問題に直面しているのである。この出生地主義による居住権問 題に関して,法的な手段を選択し,その問題を解決する国々が存在する。ヨーロッパと英連邦 国家であり,それらは同じ方法を用いて出生地主義による居住権問題を解決した。その方法と は出生地主義による居住権の取得に,条件を追加することである。 条件を追加することによって出生地主義による居住権問題を解決したのはイギリスであっ
た。ただし,その動機は越境出産による居住権問題を解決するためではなく,イギリス植民地 住民が出生地主義によってイギリス国籍を取得することを制限するためであった。イギリスは 非イギリス市民がイギリスで生まれた子どもに居住権,いわゆるイギリス国籍の付与に関して 10 年間連続してイギリスに住む条件を追加した31)。それから,出生地主義に条件を追加する ことによって非市民から生まれた子どもへの市民権付与を回避するというこの解決法は徐々に 広がっている。オーストラリアは 1986 年に出生地主義にイギリスと類似している条件を追加 した。その条件とは,非国民や非永住民から生まれた子どもは,生まれた時点から 10 年間をオー ストラリアに住めば,出生地主義によって国籍を取得することができるというものである32)。 またフランスも 1993 年から非フランス国民から生まれた子どもに出生地主義により居住権を 取得することに様々な条件を追加した。それは出生後,両親とともに 13 歳までフランスに住 むこと,子ども自身が出生後,16 歳までフランスに住むこと,または 11 歳から 5 年間フラン スで住んだことであることといった条件である33)。居住期間という条件を追加すれば,子ども が生まれた国で就学し,社会との接触を通じて帰化しやすく,国に対する帰属感も強くなると 考えられる。それ故に,居住期間の条件を追加するとこは香港に居住権問題の解決への参考に なると思われる。
おわりに
本論が取り上げた出生地主義による居住権問題は一国二制度の実施によって出現した社会問 題である。歴史から見ると,中国政府は一貫してイギリスが香港に対する統治と植民地化を認 めず,香港の主権を回収する態度が強かったことがみてとれる。一国二制度の導入は香港にお ける多様性や地域性を認めながら,台湾問題の試金石としての役割を果たす試みである。イギ リスの植民統治と一国二制度の影響で,香港における居住権は,その国籍と関わらず,それは 住民の居住期間と関わるものである。さらに,香港基本法で規定されている権利及び義務も居 住権の有無によって分けられる。2001 年の荘豊源の居住権裁判の結果をきっかけにして中国公 民のみ対象となる出生地主義を生み出し,内地人夫妻の越境出産を誘発した。2003 年中国政府 が香港とマカオへの個人観光ビザの発給を緩和したことにより,内地人夫妻の越境出産が激増 した。その割合は香港の総出生数の 3 分の 1 に至っており,小児医療をはじめ,教育,社会福 祉など様々な分野に問題を及ぼしている。内地人夫妻の越境出産に反対する世論に配慮する香 港政府は,内地人妊婦の入国制限,出産の予約制度,内地人妊婦に対する医療費用を高める制 度を設立したが,あまり効果はあがっていない。したがって,法的な解決策を望む世論が拡大 している。香港基本法を修正や解釈の変更をすれば,全国人大常委会に請求しなければならな い。ところが,全国人大常委会が基本法を修正や解釈すれば,香港における司法権の独立に干渉する恐れがある。よって,多くの政治専門家や法律専門家は居住権問題に関して全国人大常 委会の介入を望まないのである。次期の香港行政長官は越境出産に関して法的な解決策を出す と公表したが,現政府の施政を左右しないように,その解決策の詳細は明確にされていない。 ところで,法治社会である香港では,居住権問題についての裁判が近く再開される可能性が高 い。居住権問題は法治問題と引き続き論議されていくことになる。この問題については,今後, さらに深く考察すべきであろう。香港基本法の修正や解釈以外では,ヨーロッパの出生地主義 による居住権問題の解決手段を参考して,条件を追加するという案も一つのアイデアである。 居住期間の条件を設定すれば,内地人夫妻が生まれた子どもは香港に対する帰属感も強くなり, 香港将来の発展に対してプラスことになると考えられる。この出生地主義に条件の追加ははた して香港基本法に違反するのか,そして中国政府と香港の関係に影響するのか,これからより 詳しく研究されていく必要性がある。この問題については,今後,さらに深く考察していきた い。 注 1)中港家族とは,香港永住性住民と中国本土公民の結婚によって築いた家族である。夫婦一方が香港の 居住権を持ってないため,香港に入国制限及び入国後の活動に制限がある。中国本土公民は結婚によっ て香港に移住できる。ただし,中国公民は香港に移住した後,その家族はもはや中港家族とはいえない。 2)香港統計処(2006)『香港統計月刊』1 月,FB3 頁。
3)単程証(One Way Permit Scheme)とは,イギリス香港と中国の国境で分離している家族員を再会さ せるため,家族を呼び寄せる移民政策である。香港の中国返還後も,この政策が依然として存在して いる。 4)荘豊源の永住権の裁判は「出生地主義」(Jus Soli)に関する訴訟である。荘さんの両親が香港永住権 を持つ住民ではないが,彼の祖父は香港永住権を持つ住民である。1999 年荘さんの両親は親族訪問ビ ザで香港に滞在しているとき,荘さんを生んだ。それで,時間的に言うと 1999 年の時点で香港は中国 の都市であり,香港基本法第 24 条の 1 項「香港特別行政区成立以前もしくは以降香港で生まれた中国 公民」によれば,荘さんは香港永住権を得る権利がある。 5)港澳個人訪問計画とは,内地人が個人名義(団体ツアーではない)で香港かマカオで観光しながら, その消費によって香港かマカオの経済を回復させる計画である。「個人観光ビザ」は広東省における都 市をはじめ,徐々に全国レベルに広められる。現在「個人観光ビザ」を実施している都市は 49 ヵ所で ある。 6)香港経済日報(2005 年 5 月 14 日)「零時湧院分娩 医護添圧」 7)香港経済日報(2007 年 1 月 17 日)「懐胎 7 月 無医院予約拒入境 減内地妊婦新措施 存 6 隠憂」 8)張 勇,陳玉田(2002)『香港居民的国籍問題』三聯書店,24-25 頁。 9)同上,14-15 頁。 10)同上,16 頁。 11)同上,18-20 頁。 12)「イギリス海外市民」は主に独立した元イギリス植民地で独立により無国籍者の発生を避けるために設
定するものである。「イギリス海外市民」権は相続できないし,帰化により「イギリス海外市民」権を 得ることもできないため,時間にしたがって無くなるものである。
13)Home Office UK Border Agency(2012) How do I register as a British citizen if I am a British national with no other nationality? viewed: 10th May 2012, <http://www.ukba.homeoffice.gov.uk/
britishcitizenship/applying/applicationtypes/noothernationality/>
14)Foreign & Commonwealth Office(2010)Asia and Oceania: Hong Kong, Crown Copyright, viewed: 21st May 2012, <http://www.fco.gov.uk/en/travel-and-living-abroad/travel-advice-by-country/ country-profile/asia-oceania/hong-kong?profile=intRelations> 15)紀律部隊とは,香港で独特な公務員体制である。名前と通り特別な規律を約束している役員である。 香港で紀律部隊は 9 つに区分している。それが,廉政公署(汚職捜査機関),香港警務処(警察),香 港消防処(消防隊),入境事務処(出入国管理),懲教署(監獄及び拘置所の管理),香港海関(税関), 政府飛行服務隊(捜索救助,航空救急,消防及び警察),民衆安全服務隊(緊急事態,非常事態の補助) と医療輔助隊(無償の医療と保健業務)である。
16)GovHK(2012)HKSAR Passport , Hong Kong Special Administrative Region, viewed: 25th May
2012, <http://www.gov.hk/en/residents/immigration/traveldoc/hksarpassport/index.htm>
17)中華人民共和国香港特別行政区基本法(2008)基本法全文第 3 章,香港特別行政区,viewed: 25th
May 2012,<http://www.basiclaw.gov.hk/tc/basiclawtext/chapter_3.html> 18)トーマス・ハンマー(1999)『永住市民と国民国家』近藤敦訳, 明石書店,76 頁。
19)WY Kwan, CH So, WP Chan, WC Leung & KM Chow(2011), Re-emergence of late presentations of fetal haemoglobin Bart s disease in Hong Kong , Hong Kong Medical Journal Vol. 17 No. 6, pp.434-440
20)東方日報(2012 年 2 月 29 日)「重症内地港童入公院激増」
21)Nancy Leung(2012) A Study of Cross Border Student in Hong Kong: The New Phenomenon of Cross Border Students which arise from Cross Border Birth , World Academy of Science,
Engineering and Technology Issue 64 April 2012, pp.297-303
22)立法会新聞公報(2007 年 5 月 9 日)「立法会八題:父母均為内地人而在港出生的児童申請綜援」 23)明報(2012 年 3 月 22 日)「領綜援双非童増五成」 24)同上。 25)中華人民共和国全国人民代表大会とは,中華人民共和国憲法により中国人民共和国の最高権力機関及 立法機関である。毎年 3 月頃に開催される。 26)前掲載,張勇,陳玉田『香港居民的国籍問題』,128-129 頁。 27)全国人民代表大会常務委員会とは,全国人民代表大会の常設機関であり,全国人民代表大会とともに 立法権を行使できる。全国人民代表大会が閉会する時,全国人民代表大会を代わりに,最高の国家権 力を行使し,立法機能を代行する。 28)廣江 倫子(2005)『香港基本法の研究 ‐「一国二制度」における解釈権と裁判管轄を中心に ‐ 』,成 文堂,64 頁。 29)愛 みち子(2009)『香港返還と移民問題』,汲古書院,171-186 頁。 30)明報(2012 年 3 月 12 日)「30 人代上書促釈法 被批僭越港府施圧」
31)Patrick Weil(2001) Access to citizenship: A comparison of twenty five nationality laws ,
Citizenship Today: Global Perspectives and Practices, Carnegie Endowment for International
Peace, pp. 17-35. 32)同上。
33)Marten P. Vink & Gerard-Rene de Groot(2010) Birthright Citizenship: Trends and Regulations in Europe , EUDO Citizenship Observatory
参考文献
外国語文献
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Right of Abode Issue Raised by
the Principle of Birthright Citizenship:
A Case Study of Hong Kong
After the handover, Hong Kong became a special administrative region (SAR) of the People s Republic of China. The return changed most Chinese Hong Kong Permanent Residents from British Dependent Territories Citizens into Chinese nationals. Under the One Countr y Two Systems policy, the Hong Kong Basic Law serves as the constitutional documents of Hong Kong and in Chapter 3 Ar ticle 24 it states that regardless of their being born before or after the establishment of Hong Kong SAR, all Chinese nationals born in Hong Kong hold the right of abode of Hong Kong This birthright citizenship is specific to Chinese nationals, so all children born in Hong Kong by any Chinese nationals has the right of abode of Hong Kong SAR. Being a Hong Kong SAR citizen, he/she can enjoy 9 years compulsor y free education, cheap medical services, be eligible for social security, freedom of movement and enjoy 145 countries/regions visa free visit, etc. These citizen s rights are very different to those in mainland China and are the inducement of mainlander couples to give birth in Hong Kong. The rising numbers of mainlander couples who cross the border to give birth have increased the improper use of medical services and social welfare, and directly affecting the local life. The general public and politicians started to criticize birthright citizenship as applied to mainlander couples born children and requested legal resolution. This paper focuses on the issue generated by birthright citizenship and discusses the difficulties of modifying the basic law or calling on interpretation to solve this issue. This paper draws a conclusion by referring the cases in Europe where adding additional conditions to birthright citizenship may be an effective method to solve this issue.
(LEUNG, Ling Sze Nancy, Doctoral Program in International Relations, Graduate School of International Relations, Ritsumeikan University)