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《論文》国語科教育におけるコミュニケーション教育についての提案―自己防衛策としての「キャラ」の活用―

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横浜国大国語教育研究 No.42 (2017) 《論文》

国語科教育におけるコミュニケーション教育についての提案

―自己防衛策としての「キャラ」の活用―

根本 大暉

はじめに 本稿の目的は、他者とのコミュニケーシ ョンが不断に求められる今日の社会におい て、若者が抱えている不安や生きづらさを 解消するために、これからの国語科教育が 取り入れるべき新たな視点について提案す ることである。 本稿は以下の流れで論を展開する。 (1) 今日の若者をとりまく社会はどのよ うな状況にあるのか、また、若者がどのよう な実態にあるのか、主に社会学の視点から 語られた言説を整理することで確認する。 その上でコミュニケーションに対して若者 が抱える問題について考察を行う。 (2) (1)の内容を踏まえ、これまでの国 語科教育の領域において、どのようなコミ ュニケーション教育が行われてきたのかを 概観し、その成果と課題を整理する。 (3) (2)の内容を踏まえ、若者が抱える 不安や生きづらさを解消するために、国語 科教育が取り入れるべき新たな視点につい て提案を行う。 なお以下、本稿で論じる「コミュニケーシ ョン」は「他者と関わりをもつこと」と定義 し、他の言説の中で本稿での定義とは異な る特定の意味をもって使用されている場合 には“コミュニケーション”と表記し、違い を示すものとする。 1、問題の所在 1-1 社会の状況 今日の若者が身をおく社会はどのような ものであろうか。大澤真幸(1996、2008)は見 田宗介(1995)の議論を整理する形で日本の 戦後史を3つの時期に区分した。すなわち、 1945 年から 1970 年までの「理想の時代」、 1970 年から 1995 年までの「虚構の時代」、 1995 年以後の「不可能性の時代」である。 この大澤による戦後史の区分について、新 谷克弥(2009)は「そこでは(論者注:大澤 (1996)では)<大きな物語><小さな物語 >という表現こそ登場しないが、理想から 虚構へ向けた時代の移行の中に実質、<物 語>の縮小を見ているといってよい」と、 J.F.リオタールの「物語論」の受容を指摘し ている(新谷 2009:p177)。大澤の区分と新 谷の指摘を踏まえるならば、現在の社会は 「大きな物語」、つまり「人々にとって共通 の価値尺度」が失われた結果、価値観の多元 化が進んでいる社会であると言える。 こうした価値観の多元化が進む現在の社 会について、本田由紀(2005)は、社会の「ハ イパー・メリトクラシー化」(超業績主義化) を指摘する。本田によれば「ハイパー・メリ トクラシー化」とは「消費化・情報化と文化 や価値の多様化という社会的状況のもとで、 それ以前のメリトクラシーのもとで重視さ れていた『近代型能力』(1)に追加される形で、 意欲や創造性、コミュニケーション能力な どの、より不定形な『ポスト近代型能力』(2) が、個々人が社会を生き抜く上で重要度を 増大させる現象」である(本田 2005:p243)。 また、「ハイパー・メリトクラシー」化が進

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横浜国大国語教育研究 No.42 (2017) んだ社会では、『ある個人の『ポスト近代型 能力』が『人物評』的な形で一定範囲の人々 に共有されることはありうるとしても、そ れは常に曖昧で流動的なものであり、継続 的に成果を発揮し続けることによってしか 『人物評』の確実性は保たれない」(本田 2005:p24-25)。 本田は東京大学と大阪大学が行った高校 生に関する調査結果をもとに、「メリトクラ シー的な『勉強』や『知識の取得』の圧力が 低下した代わりに、ハイパー・メリトクラシ ー的な『ポスト近代型』の一部として『対人 能力』が、より大きなエネルギーと関心を割 くべきテーマとして浮上しているのではな いかと考えられる」と論じた。その上で、高 校生が個人の「人物評」を決定する際には 「ポスト近代型能力」の中でも「対人能力」 つまりコミュニケーション能力が重要化し ていると指摘する(本田 2005:p131)。 こうした個人の評価を決定する際のコミ ュニケーション能力の重要性の増大は高校 生に限ったことではなく、社会全体に起こ っている現象である。この点について、土井 隆義(2009)はコミュニケーション能力の高 さが個人の評価に対する絶対的な優位性を もつ社会状況を「コミュニケーション至上 主義」とした。 1-2 若者の実態 以上のような社会状況において、若者の コミュニケーションの実態はどのようなも のであろうか。土井(2009)と斎藤環(2014) は、近年の若者に見られるコミュニケーシ ョンの特徴として、交友関係の「狭小化」と 個人の「キャラ化」を挙げる。 土井(2009)によれば、若者は主に学校に おいて「数人程度の小さなグループに別れ、 その閉じられた世界の中で日常生活を営」 み、「『格が違う』とか『身分が違う』などと 形容して、グループ相互の上下関係に過剰 なほど気をつかいあ」い、「格や身分が違う 人たちのグループとは、それが下である場 合だけでなく、上である場合でも、なるべく 交 友 関 係 を 避 け よ う と 」 す る ( 土 井 2009:p9)。また、若者の間には「いったんど こかのグループ内に入ったら、けして誰か 特定の人物が優位に立ってはならないとい う原則」が存在しており、土井はこの若者の 交友関係の形態を「どうしても上下関係に なりそうな人間は、異なるカーストとして 最初から圏外化してしまい、認知の対象」と しない、「序列化された関係を回避するため の技法」であると論じる(土井 2009:p18-19)。こうした現在の若者が築く「予定調和 の世界から出ること」なく、「相補関係を傷 つけるような対立」が「表面化しないように 慎重に回避される」「摩擦のないフラットな 関係」を土井は「優しい関係」と呼んだ(土 井 2009:p12)。 つまり、若者には、自分となるべく同格の 人物でコミュニティを形成し、序列関係を 生み出しそうな人物とは関わらないように するという、交友関係の「狭小化」がみられ る。 斎藤(2014)によれば、若者はグループ内 でそれぞれの役割に合った「キャラ」を割り 当てられ、「どんなキャラと認識されるか」 で、「位置づけが決定する」。(斎藤 2014:p23) また土井によれば、若者は「グループのなか で互いのキャラが似通ったものになって重 なり合うことを『キャラがかぶる』と称して 慎重に避けようと」する傾向にあり、割り当

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横浜国大国語教育研究 No.42 (2017) てられた「キャラ」から逸脱する行為はいじ めにつながることがある(土井 2009:p11)。 斎藤は、「キャラ化」のメリットとして「も との性格が複雑だろうと単純だろうと、一 様にキャラという枠組みに引き寄せてしま う力がある点」と「互いにキャラの再帰的な 相互確認という行為だけで、親密なコミュ ニケーションを営んでいるかのような感覚 をもたらしてくれる点」を挙げている(斎藤 2014:p37-38)。また、若者の間に「皮相的で 情報量の低い『毛づくろい』的なコミュニケ ーションに終始することで、お互いのテリ トリーにある一定の距離以上に踏み込まな い作法」が存在していることを指摘してい る(斎藤・土井 2012:p29)。 両者の見解を踏まえると、若者は「狭小 化」によって他者とのコミュニケーション を拒みながらも、「キャラ化」によって他者 とのコミュニケーションを円滑化するとい う、一見矛盾したようにもみえるコミュニ ケーション形態をもっていることになる。 この矛盾はどのように説明できるだろうか。 1-3 コミュニケーションに対して若者 が抱える問題 先に確認した通り、「大きな物語」が機能 しなくなった「ポスト近代型社会」では、共 通の価値基準に依存していた「近代型能力」 が個人の社会的評価に与える影響力は弱ま る。代わって、「ポスト近代型能力」が個人 の社会的評価に対して大きな影響力をもつ ようになり、特に「コミュニケーション至上 主義」によって、コミュニケーション能力の 高低は個人の社会的評価を決定する上で圧 倒的な影響力をもつ。また、「近代型能力」 の高低は試験などによって計測が可能であ るのに対し、「ポスト近代型能力」の高低は 曖昧で動的であるために即時的な他者から の評価という形でしか確認できない。 上記の点において、「近代社会」における 他者からのコミュニケーション能力につい ての評価と「ポスト近代社会」における他者 からのコミュニケーション能力についての 評価は、個人に与える影響が大きく異なる。 「ポスト近代社会」において自分がどのよ うな存在であるかは、自分のコミュニケー ション能力を他者にどのように評価される かによって決定されると言ってよい。他者 からコミュニケーション能力について肯定 的な評価を受けることが存在を肯定される ことであると同時に、他者からコミュニケ ーション能力について否定的な評価を受け ることは存在を否定されることに等しい。 つまり、現代の社会おける他者とのコミュ ニケーションは、自分という存在が肯定さ れるために必要な行為でありながら、他者 から存在を否定される可能性を孕んだ行為 なのである。本稿では他者とのコミュニケ ーションに孕まれる自己存在の否定の危険 性を、「自己存在への不安」とする。 現在の若者にみられる交友関係の「狭小 化」と個人の「キャラ化」は、上記の「自己 存在への不安」を可能な限りなくすための 適応であると考えられる。若者は交友関係 を「狭小化」し、「どうしても上下関係にな りそうな人間」を排除することで、自分がク ラス内で低い位置になる危険性=他者から 自身のコミュニケーション能力について否 定的な評価を受ける危険性を取り除く。ま た、個人を「キャラ化」し、グループ内で割 りふられた役割を演じることによって、グ ループ内での位置を築く。そして、「キャラ

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横浜国大国語教育研究 No.42 (2017) の再帰的な相互確認という行為」によって、 互い肯定的な評価=存在の承認を得る。こ うした「自己存在への不安」を可能な限り取 り除く現在の若者のコミュニケーションの 形態は、逆説的に若者が他者とのコミュニ ケーションの中に「自己存在への不安」を抱 えていることを表している。 では、若者が抱える「自己存在への不安」 に対して、これまでの国語科教育おけるコ ミュニケーション教育はどのような解決策 を提示してきただろうか。 2、国語科教育におけるコミュニケーション 教育の課題 永田麻詠(2011)は、これまでの国語科教 育におけるコミュニケーション教育を整理 する形で、その成果と課題について以下の ように指摘する。 倉澤栄吉に見られるように国語科教育 では、1970 年代から「対話」が注目され、 一方向的ではないコミュニケーション教 育が展開されてきた。これは国語科教育 の大きな成果である。また、コミュニケー ション教育の範疇として、言語運用力や 意欲、自己関与力、他者意識、自己変容、 メタ認知などまでが含まれており、コミ ュニケーション能力育成に関して幅広く 取り組みがなされてきた。国語科教育に おいてはコミュニケーションスキルにと どまらず、コミュニケーション・コンピテ ンシーをも育てようとしてきたととらえ られる。さらに長田⑶や原田に見られる ように、現在の社会状況や学習者の実態 を考慮しながら、コミュニケーションに ついて考えようとする立場もあり、この 点も国語教育の成果であると言えよう。 (中略)しかし、一方で長田や原田のよう な研究は、国語科教育において非常に少 ないという課題がある。(永田 2011:p44-45)(論者注:省略、注の付記は論者によ る) 永田の指摘の通り、これまでの国語科教 育における研究では、コミュニケーション 能力がどのようなものであるかという「能 力論」、またその能力が如何にして教育可能 であるかという「教育方法論」については、 数多くの議論がなされている。また、数は少 ないながらも長田(2010)や原田(2010)のよ うに、社会状況の変化と若者の実態を踏ま えてコミュニケーション教育を行うべきで あるという立場を示す論も存在する。特に 永田(2011)の論では、本稿と同様に本田 (2005)の指摘を踏まえ、コミュニケーショ ンをめぐる若者の課題として「学習者たち はコミュニケーションにおける対立や葛藤 をさける傾向にあり、成長や学びが十分に 期待できない」ことを挙げている。しかし、 なぜ若者が「コミュニケーションにおける 対立や葛藤をさける傾向」にあるのかは言 及されておらず、その解決策は提示されて はいない。 若者が抱える「自己存在への不安」が解消 されない限りは、いくら研究者によってコ ミュニケーション能力の解明や方法の提案 がなされようとも、若者は他者とのコミュ ニケーションに積極的にはなれない。その ため、「自己存在への不安」の解消は、今後 のコミュニケーション教育の大きな課題の 一つとなるだろう。

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横浜国大国語教育研究 No.42 (2017) 3、自己防衛策としての「キャラ」 3-1 自己の多元化 「自己存在への不安」はどのようにして解 決できるだろうか。本稿では、近年の若者に 見られる自己の多元化を踏まえ、若者が「キ ャラ」を活用するという解決策を提案する。 近年、多元的な自己をもった若者が増加 していることが指摘されている(浅田智彦 1999・辻大介 2004・岩田考 2006)。 これまで、一人の人間が多元的な自己を もつことは Erikson(1950)が定義する「役割 実験」にみられるアイデンティティの拡散 として理解されてきた。青年期になると人 間は職業選択などの自分に合った社会的役 割を模索するようになる。その結果、実験的 に複数の役割を演じることになり、その場 面にあった複数の自己をもつことになる。 「役割実験」で得られる多元的な自己は、 「自分とは何者なのか」という葛藤を引き 起こし、抑うつ、自尊心の低さ、神経症傾向 などを引き起こすが、やがて統一され一元 的な自己が形成される。つまり、これまで多 元的な自己は一元的な自己を形成するため の過程に存在するものとして捉えられてい た。 しかし、浅田(1999)によれば、近年の若者 は場面ごとに異なる自己に対して、「どれも がどれも本当の自分らしい」と考える傾向 にあるようである。辻(1999、2004) (5)はこ の若者にみられる自己観をもとに、これま での一元的な自我構造に対して新たに多元 的な自我構造を示している(6)。辻は自身が 示した新たな自我構造から「場面において 異なる自己をもつこと、明瞭な自己意識を もつこと」という特徴をもつ「多元的自我」 という在り方を示した。「多元的自我」は自 己の明瞭さを持ち得る点において、「役割実 験」にみられるアイデンティティの拡散情 態とは異なる。つまり、「多元的自我」は、 若者が葛藤なく複数の「キャラ」を持つこと を可能にする。 では、「キャラ」を活用することはどのよ うにして「自己存在への不安」を解消するこ とへとつながるのか。以下、その理論を示す た め に W.Linville(1987) と 望 月 俊 雄 ら (2013)の二つの研究を概観する。 3-2 自己防衛の理論 社会心理学の見地からアイデンティティ に つ い て 研 究 を 行 っ て い る W.Linville(1985、1987)は「自己の複雑性 (Self-Complexity)」が高いほど、個人が受 容するストレスや抑うつなどの否定的感情 が少ないことを指摘している。 Linville(1985)は、人々のもつ「自己側面 (Self-aspect)」(職業・人間関係・活動、そ れぞれに表れる自己)は、関係性が近いほど それぞれが経験した感情が影響することを 示した(7)。また、「自己側面」の数が多く、 その側面間の分化の程度(側面間の違いの 大きさ)が大きいほど、「自己の複雑性」が高 まることを示している。 上記の内容を踏まえ、Linville(1987)は 「自己の複雑性」が高い人ほど、ネガティブ な出来事から受けるストレスや影響が少な いという仮説を立て、大学生を対象にして 「自己の複雑性」の高さとストレスや抑う つなどの否定的感情の関係性を調査した。 結果として、「自己が複雑性」が高い学生ほ どストレスや抑うつなどの否定的感情の影 響が少ないことがわかり、Linville(1987) は「ストレスの多い出来事の結果として生

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横浜国大国語教育研究 No.42 (2017) じる有害な身体的・精神的健康状態に対し て、高い『自己の複雑性』は保護的な緩衝作 用として機能する」(注:論者訳、Linville 1987:p671)と結論づけている。 望月俊男ら(2013)は、人形劇によって演 者が羞恥心や他人に否定されることへの恐 怖から逃れることが可能になることを指摘 している。望月らは、教育実習の事前事後指 導に人形劇によるロールプレイを導入し、 学生たちの変化を調査した。その結果を踏 まえ、望月らは人形劇が演者に与える心理 的作用について以下のように述べる。 ここで(論者注:人形劇が演者に与える 心理的影響において)人形劇のもっとも 重要な機能は、自己(人形を演じる演者) と非自己(演じられる人形)の違いを明確 にして、参加者と観測者のバランスをも たらすことである。人形で演じることは 決して自己と無関係に振る舞うことを意 味するわけではない。非自己(人形)は演 者が同定可能な自己(演者自身が考えた ことばや動き、割り当てた特徴など)の要 素を持っていることになる。そうした人 形に対する投影によって、心理的な「安全 地帯(margin of safety)」ができあがり、 演者(自己)と人形(非自己)の間の適切な 心理的抑制が保たれるようになっている。 これにより心理的抑制を低減しつつも、 演者が通常では表出することが困難な感 情や経験を自ら表現することを促してい る。 (望月俊男、佐々木博史、脇本健弘、 平山諒也、久保田善彦、鈴木栄幸 2013: p321) 両者の研究の視点から「キャラ」を捉える ならば、「キャラ」とは場(コミュニティ)の 数だけ存在する「自己側面」であると同時 に、場に合わせて演じる「非自己」であると 言える。 そのため、場の数だけ存在する個人の「キ ャラ」は、その数と「キャラ」間の違い(「自 己の複雑性」)を大きくすれば、外的ストレ ス(他者からの否定的な評価)に緩衝作用を もたらす。また、「キャラ」はあくまで演じ るものであるため、他者に否定されようと も、それはあくまで「キャラ」が否定される にしか過ぎない。つまり、人形劇と同様に 「安全地帯(margin of safety)」を作り得 る。この二点において、「キャラ」の活用は 「自己存在への不安」への自己防衛策とし て有効であると考えられる。 3-3 国語科教育の展望 以上、「キャラ」を活用することが「自己 存在への不安」への自己防衛策として有効 である可能性について考察した。しかし、現 状「キャラ」は若者によって「自己存在への 不安」への自己防衛策として機能している 場合と機能していない場合がある(8)。では、 「キャラ」を自己防衛策として充分に機能 させるためにはどのような教育が必要だろ うか。 第一に、「キャラ」はその複雑性によって 自己防衛策として機能するため、若者の「自 己の複雑性」を高める必要がある。 学校教育では、その特性的に教室のよう な閉じられた場においてコミュニケーショ ン活動することが多く、場が固定されやす い。しかし、場が固定されることは「キャラ」 が固定化されることでもあり、「自己の複雑 性」は低くなってしまう。そのため、今後の

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横浜国大国語教育研究 No.42 (2017) 国語科教育では教室内に留まらず、教室ま たは学校を越えた様々な場におけるコミュ ニケーション活動を行わなければならない。 教室、あるいは学校という閉じられた場を 越えた、開かれた複数の場でコミュニケー ション活動することによって「キャラ」は複 数形成され、「自己の複雑性」は高められる。 具体的な活動としては、小学校でみられ る縦割り活動のような学年を超えた交流や、 中学校で実施されている職場体験学習など の学校外の人々との交流が考えられる。現 在は社会性や労働観を養うことを目的とし て実施されているこれらの活動は、コミュ ニケーション教育という面から捉えなおさ れ、より推し進められる必要があるだろう。 第二に、若者が「キャラ」を「演じるもの」 =「非自己」として認識する必要があるた め、若者が自分の「キャラ」、また「キャラ」 を使ったコミュニケーション方法を俯瞰す る視点の養成が必要である。 この視点の養成のためには、まず「キャ ラ」という言葉を使ったコミュニケーショ ン教育が行わなければならない。これまで の国語科教育におけるコミュニケーション 教育において、「キャラ」という言葉を使っ たコミュニケーション教育や、若者に自身 のコミュニケーション方法について考えさ せるという授業の実践例は非常に少ない。 これからの国語科教育におけるコミュニケ ーション教育では、両者を兼ね備えた、若者 に「キャラ」というコミュニケーション方法 を俯瞰させるような活動が行われる必要が ある。 具体的な活動としては、漫画を用いてそ れぞれの登場人物の担う「キャラ」について 考えるような学習が想定できる。表現方法 としての「キャラ」について学習すること で、若者は自分たちのコミュニケーション 方法について考えることができるのではな いだろうか。 上記 2 点の「キャラ」についての教育が、 本稿の提案する今後の国語教育が取り入れ るべき視点である。 おわりに 本稿では、若者が抱えるコミュニケーシ ョンへの不安を解消するために国語科教育 が取り入れるべき視点として、「キャラ」に ついての教育の提案を行った。しかし、「自 己存在への不安」への自己防衛手段として の「キャラ」を養成するための具体的な方法 や教材については言及できていない。稿を 移して考察を行いたい 注 (1)・(2) 本田由紀(2005)は「近代型能力」 を「主に標準化された知識内容の習得度や 知的操作の速度など、いわゆる『基礎学力』 としての能力」、「ポスト近代型能力」を「文 部科学省の掲げる『生きる力』に象徴される ような、個々人に応じて多様でありかつ意 欲などの情動的な部分―EQ!―を含む能力」 であると定義した。また、各能力の特徴とし て以下の表序を示した。(本田 2005:p22) (3) 長田友紀(2010)は、本田由紀(2008) や大河原麻衣(2008)が「コミュニケーショ ン能力に対する社会的な寛容度の問題が根

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横浜国大国語教育研究 No.42 (2017) 底にあるとする指摘」したものであるとし、 「日常のコミュニケーションの観察や、社 会におけるコミュニケーションの考察によ って、コミュニケーションの有様そのもの を熟考する機会が重要になろう」と論じて いる。 (4) 原田大介(2010)は、貴戸理恵(2011) や綾屋紗月・熊谷晋一郎(2008)の指摘を踏 まえながら、コミュニケーションの不成立 の原因を個人に還元せず、相互作用として 捉える「関係的な生きづらさ」という視点を 今後のコミュニケーション教育に導入する べきであると論じている。 (5) 辻は 2002 年に首都圏 30km 内に在住し、 親と同居する 16~17 歳を対象に自己意識 に関する調査を行い、若者が「一元型自我」・ 「不定型自我」・「多元型自我」(「多元的自 我」)のどれをもっているのか分析を試みて いる。この分析では、調査を行った若者の 49.9%が「不定型自我」を、35.8%が「多元型 自我」を、14.3%が「一元型自我」を持って いるとしている。 (6) 辻大介(1999)は近年の若者にみられる 自我構造を以下のように示した。 (a) 一元的自我 (b) 多元的自我 (7) 「簡単に言うならば、もし私たちの中 にいるテニスプレイヤーが法廷弁護士とい う職業にあったならば、彼女の『テニスプレ イヤー』と『法廷弁護士』という『自己側面』 は、非常に競争的でありストレスフルであ るという点において、密接に関係付けられ るだろう。そして、テニスコートでの敗北 は、法廷での彼女にも同様に悪い感情を与 えるような、彼女が『私の一番悪い面がで た』という結論を導くことを誘う。二つの 『自己側面』が関係付けられるほど、片方の 『自己側面』での思考や感情は、もう片方の 『自己側面』へとあふれだすようである」 (注:論者訳、Linville 1987:p664) (8) 「キャラ」を持つだけで「自己存在へ の不安」が解消されるのであれば、殆どの若 者の「自己存在への不安」は解消されている ことになる。しかし、土井や斎藤が指摘する 交友関係の「狭小化」は、「キャラ」が充分 に機能していないことを示している。また、 「キャラ」が自己防衛策として十分に機能 している場合には、若者は「自己存在への不 安」を軽減させ、コミュニケーションに積極 的になれる。逆に十分に機能していない場 合には、若者は「自己存在への不安」を強め、 コミュニケーションに消極的になる。コミ ュニケーションに積極的であるか消極的で あるかは若者の活動する場の数に影響し、 それは「キャラ」の数に影響する。つまり、

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横浜国大国語教育研究 No.42 (2017) コミュニケーションに積極的である若者は より「自己存在への不安」を軽減し、更にコ ミュニケーションに積極的になれる。逆に コミュニケーションに消極的である若者は 「自己存在への不安」を強めることで、更に コミュニケーションに消極的になる。本田 (2005)や大河原(2008)が指摘するコミュ ニケーションの格差は、その両方の若者が 存在していることを示している。 引用・参考文献 浅田智彦「親密性の新しい形へ」(富田英典・ 藤田正之編『みんなぼっちの世界』収載、 恒星社厚生閣、1999) 綾屋紗月・熊谷晋一郎『発達障害当事者研究 ―ゆっくりていねいにつながりたい』(医 学書院、2008) 新谷克弥「わが国における〈物語論〉の受容」 (「関東学院大学文学部 紀要」 117、2009) 岩田考「若者のアイデンティティはどう変 わったか」(浅野智彦編『検証・若者の変 貌―失われた 10 年の後に』、勁草書房、 2006 収載) エリクソン E.H.著 西平直・中島由恵訳『ア イデンティティとライフサイクル』(誠信 書房、2011) 大河原麻衣「リテラテシー教育におけるマ タイ効果を超えて」(「未来心理」 12、2008) 大澤真幸『虚構の時代の果て』(筑摩書房、 1996) 大澤真幸『不可能性の時代』(岩波新書、 2008) 長田友紀「国語教育におけるコミュニケー ション能力研究の課題」(「人文科教育研 究」 37、2010) 木谷智子・岡本祐子「青年期における多元的 な自己とアイデンティティ形成に関する 研究の動向と展望」(「広島大学院教育研 究紀要」 第三部 64、2015) 貴戸理恵『「コミュニケーション能力がない」 と悩むまえに 生きづらさを考える』(岩 波書店、2011) 斎藤環『キャラクター精神分析』(ちくま文 庫、2014) 斎藤環・土井隆義「若者のキャラ化といじ め」(『現代思想 2012 年 12 月臨時増刊号 総特集=緊急復刊 imago いじめ』、青土 社、2012 収載) 全国大学国語教育学会編『国語教育学研究 の成果と展望』(明治図書、2002) 谷口直隆「「適応的なメタ認知能力」の育成 を目指したコミュニケーション教育の提案」 (「国語科教育」 68、2010) 辻大介 「若者のコミュニケーション変容と 新しいメディア」(橋元良明・船津衛編『子 どもたち・青少年とコミュニケーション』 収載、北樹出版、1999) 辻大介「若者の親子・友人関係とアイデンテ ィティ:16~17 歳を対象としたアンケー ト調査の結果から」(「関西大学社会学部 紀要」35、2004) 土井隆義『キャラ化する/される若者 排除 型社会における新たな人間像』(岩波書店 2009) 永田麻詠「国語科におけるコミュニケーシ ョン教育の成果と課題―「自分への自信」 を取り戻すコミュニケーション教育に向 けて―」(「国語教育思想」 3、2011) 原田大介「国語科に必要なコミュニケーシ ョン教育とは何か―「関係的な生きづら さ」の考察を中心に―」(「国語教育思想 研究」 2、2010)

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横浜国大国語教育研究 No.42 (2017) 本田由紀『多元化する「能力」と日本社会 ハイパー・メリトクラシー化のなかで』 (NTT 出版、2005) 見田宗介『現代日本の感覚と思想』(講談社 学術文庫、1995) 望月俊男、佐々木博史、脇本健弘、平山諒也、 久保田善彦、鈴木栄幸「ロールプレイを活 性化する触媒としての人形劇:多様な視 点からの洞察を促すための対面協調学習 環境」(「日本教育工学会論文誌」37(3)、 2013) 山元悦子・稲田八穂「コミュニケーション能 力を育てる国語教室カリキュラムの開発 ―発達特性をふまえたコミュニケーショ ン能力把握に立って―」(「福岡大学紀要」 57、2008)

Linville,P.W. 「 Self-complexity and affective extremity:Don’t put all your eggs in one cognitive backet」 (「Social Cognition」3、1985)

Linville,P.W. 「 Self-complexity as a cognitive buffer against stress-related illness and depression 」 (「Journal of Personality and Social Psychology」52、1987)

参照

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